壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

灯影にしづむ

2011年05月31日 22時36分04秒 | Weblog
        たかどのゝ灯影にしづむ若葉哉     蕪 村

 「しづむ」がこの句の眼目である。他にちょうど正反対の現象を詠んだ、
        窓の燈の梢にのぼる若葉哉
 という句がある。こちらは「のぼる」が眼目となっている。
 「しづむ」というのは、火影(ほかげ)が「落ちる」ことと、その中で、無数の若葉がひっそり「和む」こととを、一つにして表現したものであろう。
 この句が、爽快な力強さと、調和ある落ち着きとの感銘を、同時に与えるのは、
        たののほにしむわ
 と、力強い「か」の音が、比較的規則正しい間隔をもって配置されており、さらにその間を縫って、静穏な「濁音」が同様に配置されていることに起因すると思われる。

 季語は「若葉」で夏。

    「高く造った殿舎の二階が一つ、闇夜に煌々とともってそびえている。
     戸や障子はことごとく取り払われ、火影はあたりへ惜しみなく流れ
     落ちている。その火影の区切った明るさの中には、さまざまの若葉が、
     重なり合い、ひしめき合って、ひっそりと一つに和んでいる」


      また生きめやも水芭蕉鉢植えに     季 己

卯の花

2011年05月30日 20時27分52秒 | Weblog
        卯の花のこぼるゝ蕗の広葉哉     蕪 村

 従来、「卯の花」の句といえば、雨中のそれか、闇の中にほの見えるそれを扱ったものが多かった。それに対し、蕪村のこの句は、晴天の白昼であり、緑と白との単色の対照も明朗である。
 下五が「広葉哉」と「哉」の切字をもってすわっているので、卯の花が、その広々とした葉面(はづら)へ安んじてこぼれているような感じがしてくる。
 蕪村の多くの奇想濃彩の句の中にあって、この句などのような、素朴平明な客観句に接すると、自然な息づかいに立ち帰り得たような、くつろぎを覚える。

 季語は「卯の花」で夏。卯の花は、空木(うつぎ)の花のこと。空木は叢生(そうせい)する灌木で、樹心が空ろなので、この名がある。各地の山野に自生し、高さ一~二メートル。五月ごろ、五弁の小さな白い花が群生し、遠くから見れば雲のように白い。

    「どこかの屋敷の奥庭あたり、卯の花が穂状についた真っ白な花の重みで、
     垣根をおおって枝垂れている。すぐ下には、生垣の裾の湿り気を喜んで、
     蕗が一面に生い茂っている。卯の花は、いつこぼれるともなくこぼれつづ
     けている。以前こぼれたものは、傘の上に乗っかったように、その蕗の
     広葉の上に乗っかり、今こぼれるものは、それを打ってかすかに揺るが
     したりしている」


      紅うつぎ女釣師の竿の先     季 己

「俳句は心敬」 (94)心を澄ます③

2011年05月29日 22時24分30秒 | Weblog
 ――本気の作品に出合うと、たとえそれが稚拙であっても、こちらも本気で添削したくなります。反対に、いかにもやっつけ仕事のような作品にぶつかると、こちらの心まで萎えてしまいます。
 今の時代、閑居は無理でしょうが、せめて、「心を澄まして」句を詠む、こんな努力ぐらいはしてほしいものです。
 そして、熱意あふれる師について、真剣勝負の気持でぶつかってゆく、これが、俳句上達の早道だと思います。

 俳句は、頭で作るものではありません。また、意味性を求めるものでもありません。
 セザンヌの絵を見て、「この絵の意味がわからない」と言いますか。
 モーツアルトを聴いて、「この曲の意味がわからない」などと言いますか。
 言わないでしょう。俳句も同じなのです。俳句は、十七音をリズムにのせて描いた、一枚の絵画なのです。これは俳句の基本作法の一つです。

 視点が平凡で表現もまた然り、という句は、頭で作っている証拠です。
 吟行をして、ものを凝視する訓練をしましょう。凝視して何をつかみ出すかは、人それぞれ。ですから、ものを凝視するということは、自分を観る、ということでもあるのです。
 つかみ出したものをいったん、胸の内に入れ、それを飾ることなく平明に、真実の言葉として吐露する。それが俳句です。だから、心を磨き、心を澄ますことが大切なのです。
 俳句は、作るものではありません。詠むもの、“うそぶく”ものです。“うそぶく”とは、胸の内から出てきた言葉、言い換えれば、“つぶやき”“となふ”ということです。


      ハンカチを叩いて干して独りかな     季 己
 

「俳句は心敬」 (93)心を澄ます②

2011年05月28日 21時07分24秒 | Weblog
 ――世俗に交わって社会的に名声を得るのは、歌人として好ましいことなのでしょうか。
 心敬はここで、古人の言を引いて、「それは人によるので、一概には言えない」と、早急には断定しません。
 しかし、例に引いた為家は、非常に楽天的かつ社交的であったので、四十四歳で正二位権中納言にまでなった人です。ちなみに、父の定家は、七十一歳にして正二位権中納言、祖父の俊成は、五十三歳で正三位非参議にまでしかなっておりません。
 その為家が、宴席で歌を詠むのを父の定家から諫められた話は、心敬の所存がいずれにあったかを示すものだと思います。

 また、俊成が桐火桶を抱えて云々という話は、『桐火桶』および『正徹物語』に伝えられている有名な話です。その部分を原文で掲げておきましょう。

    「亡父卿は寒夜のさえはてたるに、ともし火かすかにそむけて、白き浄衣の
     すすけたりしをうへばかりうちかけて紐むすびて、その上に衾をひきはり
     つつ、その衾の下に桐火桶をいだきて、ひぢをかの桶にかけて、ただ独り
     閑疎寂寞として、床の上にうそぶきて、よみ給ひけるなり」(『桐火桶』)

    「俊成はいつも煤けたる浄衣の上ばかりを打ち掛けて桐火桶に打ちかかり
     て案じ給ひしなり。仮令にも自由にし、臥したりなどして案じたりしことは
     なし」(『正徹物語』)

 心敬はこれらの話を引いて、「和歌の道に深く心をおかけになるお姿は、ほんとうに、伝え聞くだけでも云々」と、感服しきっているのです。

 建保六年(1218)十月、後鳥羽院皇子道助法親王家の御室御所で、五十首和歌の会が催されました。為家は、最初は作者のうちに加えられていたのですが、後鳥羽上皇の「為家は代々、和歌の家柄ではあるが、和歌が非常に未熟であるとの風評がある。よって出席はまかりならぬ」との仰せで、作者から除かれてしまったのです。

 また『正徹物語』に、
    「定家は南面をとりはらひて真中に居て南をはるかに見晴らして、衣紋正しく
     して案じ給ひき。これは、内裏仙洞などの晴の御会にて詠む様に違はずし
     て、よき也」
 とあります。
 晴の席に備えて、定家が心を澄まして、リハーサルを行なっていたことが、よくわかります。和歌の神様のような定家が、このような大変な努力をしていたとは……。

 「名声を得たい、世の称賛を得たいという人もいるが、問題は、作者の生活、詠歌する態度、心の持ち方いかんである」と、心敬は結論づけております。
 けれども、心敬の真意が、《閑居を好み、心を澄まさなければ、真実の作品はできない》ということにあったことは、明らかだと思います。


      避難して親子それぞれ梅雨深し     季 己

「俳句は心敬」 (92)心を澄ます①

2011年05月27日 23時09分51秒 | Weblog
        ――歌・連歌の道は、世間に交わり、どうにかして一身の名誉・名
         声を得たいと、念願すべきものなのでしょうか。

        ――先賢が話しておられた。
          それは人によるので、一概にそうとも言い切れない。
          ひたすら名声を念じ、一身の栄達を願う者もきっといるだろう。
          また、道の境地が深まるにつれ、世俗を離れ、閑居幽棲の孤独
         に徹し、ひたすら道を極めようと鍛錬する人もある。

          定家卿は、子の為家の詠歌を諫めて、仰せられたという。

          「和歌は、そのように朝廷出仕の服装のまま、燈火を明るくして、
         酒肴などを食い散らしながらでは、とうてい詠めるものではない。
         だから、そなたの歌はよくないのだ。
          亡父、俊成卿の歌を詠まれるご様子こそは、まことに秀逸な歌が
         できるのも当然である、と思われる。
          父君は、夜更けに燈火を細く、あるかないかの薄暗さに向かって、
         普段着の直衣のすすけたのを着流し、古い烏帽子を耳までおおう
         ようになさって、脇息に寄りかかり、桐火桶を抱えながら、詠吟の声
         は低く忍びやかに、夜も更け人も寝静まるにつけて、からだを折り
         傾け、感極まっておいおいと泣き出された、ということである」

          和歌の道に深き心をおかけになるお姿は、ほんとうに伝え聞くだ
         けでも、何とも言えぬ妖艶な情感に堪えきれず、わけもなく出てく
         る感涙を、抑えることができないほどである。
          そのような生活・態度のせいであろうか、為家卿は、官位だけは
         高くめでたかったのであるが、為家卿二十一歳の時の、仁和寺宮
         道助法親王家の五十首和歌などにも、さまざまなことがあって作者
         から除かれた、ということである。

          定家卿が歌を詠まれる時は、わざわざ直衣を着替え、鬢をかき
         直し、威儀を正しく整えられた、と伝え聞いている。
                            (『ささめごと』名声を得べきか)


      梅雨に入る榛の木山に榛はなく     季 己

「俳句は心敬」 (91)真の評価②

2011年05月26日 21時22分25秒 | Weblog
 ――すぐれた和歌・連歌には、必ず大衆性がなければならないものなのでしょうか。
 心敬は答えます。
 「世間の称賛とか評判は、必ずしもその通りではなく、むしろ逆の場合が多い」と。

 近頃、「カリスマ」と呼ばれる人がやたらに多いようです。「カリスマ」とは、時流に乗り、蒙昧な人々から誉めそやされる人、のように思えてなりません。
 したがって、第一人者、大家とカリスマはまったく違います。

 第一人者というのは、たとえば、漢字研究の故・白川静さんのような方を言うのです。
 白川静さんの字書三部作《字統・字訓・字通》の、最後に刊行された漢和辞典『字通』には、特にお世話になっております。 
   「白川さんが、群れの中に分け入ることなく、いつも自然体で孤高の道を歩いて
    おられる姿に畏怖の念を抱いていた。学問の道にひとり悠々と楽しんでおられ
    る風情に惹きつけられ、励まされていた」(『読売新聞』2006.11.3)
 と、宗教学者の山折哲雄さんが、悼んでおられます。

 厳しい精神の営みが象徴的に反映している作品こそ、真の歌・連歌だと考えている心敬は、世人の理解を期待しようとはしません。真の理解に立つ批評のみが問題なのです。その点では非常に高踏的です。
 白川さんはすぐれた学者でしたが、すぐれた芸術家にも、共通の孤高性と高踏性が共存しているために、そのどちらを重視するかで、評価の仕方が異なってくるのです。

 「谷底に生えている松は、その立派さを人に知られることなく、空しく老い朽ちるのが常である」に、世俗と自己の、どうしようもない隔たりを自覚し、諦観しかつ寂寥を感じている、心敬の心境をうかがい知ることができます。

 句会で、「一点しか入らなかった」と言ってがっかりする人、「十点入った」と言って得意になる人、いろいろおります。
 だが、ちょっと待ってください。得点ではなく、点の中身が問題なのです。
 昭和の俳聖、平成の俳聖といわれる人、いや、結社の主宰でもいいでしょう、そのような人に取っていただいた一点ならば、大いに喜ぶべきです。
 反対に、入会したばかりの、いわゆる「俳句の‘は’の字も知らないような人」に取ってもらった十点は、大いに反省の余地ありです。おそらく報告・説明のつまらない句だと思います。

 「一人でも、歌聖と仰がれるような人の」選に入ることが大切なのであり、「鑑賞したり、批判・理解する能力がない者に、いくらほめられても仕方がない」のです。句会は仲良しクラブではなく、修業の場なのですから。

 先に、「結社の主宰でもいいでしょう」と述べたのは、主宰といっても、その実力には雲泥の差があるからです。
 「私は選に命をかけている。私の選に文句は言わせない」という主宰の一点は、酒盃を片手に選をする宗匠気取りのエセ主宰の百点より、ずっとずっと尊いのです。


      ひきがへる空どう見てもなまぐさし     季 己
 

「俳句は心敬」 (90)真の評価①

2011年05月25日 19時58分11秒 | Weblog
        ――世間一般が、カリスマなどといって称賛する作者を、すぐれた人
         と言うべきでしょうか。
          また、教養があり、能力もすぐれている人には評価が高いとか、
         くだらない連中にはもてはやされない、などということは、評価に
         かかわることなのでしょうか。

        ――先人も言っていることだが、だいたい時流に乗り評判をとった作
         者は、カリスマなどと言われ、もてはやされているのは事実である。
          けれども、一人でも、歌聖と仰がれるような人の眼にとまること
         こそ、大切なことなのである。
          思慮の浅い乱暴な連中に評判がよいのは、無益なことである。そ
         んな人の眼には、鍍金も真鍮も、黄金の句との識別は、はっきりし
         ていないのである。つまり、鑑賞したり、批判・理解する能力がな
         い者に、いくらほめられても仕方がない、ということだ。
          だから、能力があり、どんなにすぐれていても、世間的には存在
         が薄いという人が、昔から多いのである。

          定家卿は、自分の気に入らない歌を他の人がほめると、不機嫌な
         顔色をなさったという。
          土地の善人が皆ほめて、悪人が皆憎むような人が、本真物の人間
         である。
          徳の高い孔子ほどの人でも、時勢に合わず、顔回も真価を認めら
         れず、不幸であった。
          仏の存在でさえも、三億の人は知らなかった。
          谷底に生えている松は、その立派さを人に知られることなく、空
         しく老い朽ちるのが常である。 (『ささめごと』真の評価)


      原発の地とよ皐月の花ざかり     季 己

牡丹や

2011年05月24日 22時17分29秒 | Weblog
        広庭の牡丹や天の一方に     蕪 村

 「牡丹や」の「や」が、よくすわっている。蕪村の「や」の切字の用法は、ほとんどの場合、実によく利いている。
 掲句においても、「広庭の牡丹や」がすわっているために、牡丹一株の姿が明確に印象づけられる。そのため、以後の部分が十分の余裕をもってふくらんでくる。
 「天の一方に」は、蘇東坡の前赤壁賦中の「美人を天の一方に望む」を指す。蘇東坡の場合、美人とは月を指すのであるが、蕪村はそれを牡丹に転用したのである。
 「天の一方に」は、蘇東坡の句のほんの一部分であり、本来はそれだけでは意味の表現上、不十分であるべきはずなのだが、前述のふくらみが、立派に役目を果たし得ている。

 季語は「牡丹」で夏。

    「広々とうち開いた庭の彼方に、ただ一株の牡丹が絢爛(けんらん)と咲き
    ほこっている。人々は、周囲のすべてを、いや、地上のすべてを忘れ去り、
    この世ならぬ麗人の姿を、天の一角に認めたかのように、その牡丹に、
    目も心も奪われている」


      
      忍辱の衣まとはむ夜の牡丹     季 己

「俳句は心敬」 (89)不断の修業②

2011年05月23日 20時12分24秒 | Weblog
 ――和歌は三十一音で完結した一個の作品で、一人の作者がすべてを作ります。
  連歌は、和歌の三十一音を(五七五)と(七七)とに分け、そのいずれかを前句として与えられ、作者はこれに制約されます。
 さらに連歌は、句数により歌仙・四十四・五十韻・千句・万句などの形式があります。ふつう百韻を基準とし、全体でまた一個の作品となるため、各々の句は、その一部として負うべき制約がいろいろあるのです。連歌の作者は、その着想、用語、構成などすべてにわたり、大きな制約を受けるのです。
 このような制約は、一座の全員が、共通の問題を共通のルールで考えるための、必須条件であったのです。百句なら百句全体を通じて意味を一貫させるのではなく、連続する二句の間の付合や、全体の変化を楽しむ一種のゲームといってよいでしょう。今風にいえば、“脳トレ”、一座による脳のトレーにイングなのです、連歌は。

 当時の、ゲーム感覚の連歌観を強く批判し、「和歌と連歌とは、一つの道である」と主張したのが、心敬です。
 心敬にとって和歌・連歌の道とは、言葉にかかわる道であるよりも、まず「心のうち」のあり方にかかわる道だったのです。すぐれた句とは、「心より出たる句」であり、何よりも大切な修業は「心の修業」なのです。

 俗世を超越したすぐれた人物である梵燈庵主が四十のころ、俗人と交わりはじめ、諸国を放浪し、六十あまりになり都に帰ってきました。
 帰洛後は、その詞も優艶ではなく、詩心も失い、作品自体に精彩を欠き、付句するにあたっても、前句を忘れることしばしば、という状態でした。
 「連歌は、座にいない時こそ、修業の時」というのは、衰残の身をかこっていたその当時の梵燈庵主の言葉です。心敬はこの話をたびたび記しています。よほど印象深い話だったのでしょう。

 「三日も尺八に触れずにいると、尺八の音が出なくなる」というのも真実で、技術・技巧を伴う習い事に、中断は禁物です。精進を一日怠ると、二日分は間違いなく腕が落ちます。だから、不断の修業が大切なのです。
 「心の修業」を重視する心敬は、「連歌は、座にいない時こそ、連歌修業の時」という梵燈庵主の言葉にも、大いにうなずくものがあったのです。
 ここに、「歌作り」と「歌詠み」の違いが生じるのです。
 詞(ことば)をもって技巧的に歌を作りあげる者を「歌作り」、心のうちから吐き出された言葉によって、飾ることなく歌を詠む者を「歌詠み」と、心敬は言っております。
 この基準からすると、定家・家隆でさえ「歌作り」であり、慈鎮・西行こそが「歌詠み」であると言うのです。そして、西行が「不可説の上手」であるのは、彼の「世俗の凡情を離れた胸の内」のためである、と言っております。

 「俳句は、つぶやき」とは、あけ烏師の言です。この場合の“つぶやき”は、辞書にあるような意味ではなく、「心のうちから吐き出された言葉」という意味です。
 つまり、「俳句作り」になってはいけない、「俳句詠み」になれ、ということなのです。

 日記代わりに、一日一句詠めば、一ヶ月に三十句は詠めるはずです。一ヶ月に三十句を詠むことは、俳句における最低限の修業です。
 また、古典を学ぶなら、『去来抄』、『三冊子』、『万葉集』、『新古今集』の順で読むことをおすすめします。これも俳句修業の一つです。
 そして最もおすすめしたいのが、「絵画鑑賞」と「音楽鑑賞」です。この修業は、非常に楽しく、俳句に役立つこと請け合いです。
 俳句は、「絵を描くように、歌うように!」……。


      道ばたになにかきくけこ薔薇ふえる     季 己

「俳句は心敬」 (88)不断の修業①

2011年05月22日 22時13分57秒 | Weblog
        ――和歌や連歌の道は、一通りのことを学び終えた後でさえ、
         少しでも修練を怠れば、それ以上の上達は望めないものな
         のでしょうか。

        ――古の賢人に尋ねてみた。
          どんなに年月を積んで苦学修練しても、努力工夫を少しで
         もおろそかにすれば、これまでの努力は水泡に帰すであろう。
         だから、『論語』にも「日々、幾たびとなく、我が身を省みるこ
         と」と言っている。

          近頃、当世第一の尺八吹きの頓阿という者が話していたそ
         うだ。
          「三日も尺八に触れずにいると、尺八の音が出なくなる」と。
         いささか大げさではあるが、諸々の道に通じることで、戒めに
         すべきことである。

          また、ある人が話しておった。
          梵燈庵主は、連歌の道を捨てて、東国や筑紫の田舎を久し
         く放浪したあげく、都に帰ってきたので、
          「連歌の道は、さぞかし跡形もなく消えてしまわれたことで
         しょう」と、尋ねたところ、
          「どうして、どうして、そんなことはありません。連歌は、座に
         いないときこそ、連歌修業の時なのだから」と、言われたそうだ。
          この戒めも、諸々の道にわたる心得であろう。
                              (『ささめごと』不断の修業)


      新茶濃しガンダ彫刻たのしめり     季 己

「俳句は心敬」 (87)『てにをは』の怖さ

2011年05月21日 20時35分57秒 | Weblog
        ――長年の修業を経て、達人・名人と言われる人ほど、ますます
         その句の良さがわからなくなるのは、どうしてなのでしょうか。

        ――先達も言っていることだが、連歌の修業というのは、前句の
         意味や「てにをは」の一字をもおろそかにせず、打越・遠輪廻、
         あるいは自分の句に後の人が付けることまで用意周到に考え、
         百韻全体の立場から前後のことまで考慮する作家の句を、ただ
         自分の句のみを思案するような連中には、とうてい理解できな
         いであろう。

          小野道風の手跡でも、至極の境地に達した後の作品は、世間
         にそれを判別できる人はなかったという。
          楚の人、ベンカが名玉を得て王に献上したが、ただの石とさ
         れて、左右の足を次々と切られ、三代目の王のとき、はじめて
         名玉として真価が認められたということだ。
          仏法には、悟りの完成の極致ともいうべき円教の境地がある
         が、これは凡夫の理解を絶するものである。
                         (『ささめごと』名人の句の難しさ)


 ――至極の境地に達した名人の句の真価は、平々凡々たる者には理解できなくて当然である、というのが結論でしょう。

 連歌の一句だけを取り出して比較する場合、ある一句がその句だけでいかに真価があるかということよりも、前句との関係がどうなっているか、つまり、前句の内容とどのように響き合っているか、前句の表現の仕方の微妙さをいかに生かして受け取っているかが問題なのです。
 そして打越(付けようとする句より二句前の句)や遠輪廻(数句以上を隔てて同じような趣の句が出てくること)、あるいは自分の後に付ける人の立場まで顧慮して、広く一巻全体の調和を考えた上で句作しなければなりません。そういう点をすべて考慮に入れた総合的見地に立たなければ、真の判断は不可能だというのです。
 このように名人の句は、部分を見、全体を見、その他もろもろのことを考え、「てにをは」までにも心をつかって句を作るので、並の人間には理解できないのです。

 俳句は、連歌の発句が発達したものなので、五七五の詩形と季語、それに“切れ”だけを考慮すればよいので、その点は楽です。(とは書いたものの、実際は大変です)
 最近、“切れ”のない句が受けているようですが、これは困りものです。
 『書は余白の美』と言われるように、書においては“間(ま)”を重要視します。文字そのものの美しさよりも、“間”の美しさを尊ぶのです。
 俳句における“間”が、“切れ”なのです。

        手にうけて確かめて雨夕ざくら     稚 魚

 中七の体言止めの心憎さ、お解りいただけますか。この中七の後の“間”で、人物も夕ざくらも見えてくるのです。(蛇足ながら、“止め”も“間”を表しますので、“切れ”と同様に考えておること、記しておきます)

        冬の日の露店のうしろ通るなり     稚 魚

 「日の」の「の」の使い方、並の人ですと「日に」とやりやすい。「冬の日に」とすると説明になってしまいます。この句、「冬の日の」で“切れ”ているのです。

        落葉掻く音の一人の加はりし     稚 魚

 「音の一人の」の「の」の使い方のうまさ、絶妙です。こういう使い方のできる人を名人と言うのでしょうね。

        水中に魚の目無数寒ゆるぶ     稚 魚

 「水中に魚の目無数」という写生の的確さ、水中に息づいているものの生命を写しています。そして「寒ゆるぶ」という揺るぎない季語!

        終戦日といふ一日を人はみな     稚 魚

 中七の「を」に込められた稚魚師の想いの深さ、このように「てにをは」が使えたら、俳句は楽しくてしようがないでしょうね。
 俳句のうまさは、「てにをは」によって決まる、と言ってもよいほど、恐いものなのです。


     花ざくろ女子高生の化粧かな     季 己

川手水

2011年05月20日 22時41分13秒 | Weblog
        短夜や同心衆の川手水     蕪 村

 「同心」は、江戸幕府の諸奉行などの配下に属し、与力の下にあって庶務・警察のことをつかさどった下級の役人。ここの「同心衆」も、幕府直属のそれであろう。
 「手水(ちょうず)」は、「テミズ」の音便で、手や顔を洗う水のこと。また、社寺など参拝の前に、手や顔を洗い清めること。転じて、厠(かわや)、また、厠に行くこと。大小便などの意がある。

 この句は、『季語+や+中七+名詞』の型で、中七と下五が一つのフレーズになっている。また、二つの助詞で三つの名詞を結びつけることによって、成立している。
 蕪村の句は、しばしば季題とそれに配合する事物と、さらにその事物の性質・動作・状態の説明と、この三要素から成り立っている。
 この句は、その三要素がことごとく名詞の形をとって具象化されているとともに、一句の生命が作者の真の抒情から遠ざかり、やや固定化しようとする相を帯びているものである。
 蕪村の配合法は、だいたいこの三要素の活用が基本をなしているものと考えてよい。
 明治時代においては、蕪村の「絵ごころ」とこの手法とが主に踏襲されて、ついには一般的マンネリズムに陥りさえしたのである。
 だが、現代の「や・かな・けり」の切字を嫌う風潮の中にあっては、逆に新鮮にさえ見える。初心者にとって、おすすめの型であることに変わりはない。

 季語は「短夜」で夏。

    「早くも夏の夜は明けてしまった。昨夜、何か事件があって、それに出向いた
     後なのか、あるいはここで張り込んでいたのか……同心長屋のほとりの川
     辺では、腰に朱房の十手を差した同心衆が立ち出て、がやがやと川水で顔
     を洗ったり、口をすすいだりしている」


      点滴に遠き空あり水中花     季 己

「俳句は心敬」 (86)すべての風体を学べ②

2011年05月19日 20時21分52秒 | Weblog
 ――冷泉派の見解に立てば、和歌には十体の風体があります。けれども、俳句の基本型はたった二つです。「一物仕立て」と「取合わせ」です。
 こう言うと、俳句は非常に簡単そうに思えます。ところが……
 切字「や・かな・けり」を使った場合に限っても、その位置などを勘案して分類すると、二十パターンほどにもなるのです。これ以外の条件を加えたら、一体いくつのパターンになるやら、見当さえつきません。だから指導者は「自由にお作りなさい」と言うのです。
 けれども初心者にとっては、「自由に作れ」と言われることほど《不自由》なことはないのです。そこでおすすめなのが、つぎの句のような型を、まずマスターすることです。

        椋の実や京紅を売る檜皮屋根     あけ烏

 この句は、[季語+や+中七+名詞]の型をしています。また、中七と下五が一つのフレーズになっています。
 この型のポイントは、季語と中七・下五のフレーズの内容を(表面上は)無関係にすることです。参考として掲げたあけ烏師の作品を音読し、この要領を身につけてください。
 初心者にとっては、このパターンの句が最も作りやすく、しかも俳句の基本型であると、私は確信しています。どうぞ初心者は、この型をしっかりマスターされた上で、個性的な作品を目指し、ご精進ください。頑張る必要はありません。一所懸命に努力することが大事なのです。
 ご参考までに、「や・かな・けり」を含んだ、あけ烏師の句を例示しておきます。

         初霜やけさおとなしき鹿島灘
        仲秋や籠の文鳥影をもち
        川音や蕗叢を行く膝の丈
        天飛ぶや軽への道の稲咲きぬ
        新聞をひらけば付くや冬の蠅
        あたたかな冬のはじめや樫に雨
        焚き口に火の気や声のみそさざい
        光環の日や木や草やひがし吹く
        望郷は墳山の山法師かな
        いつの日もとほき目をせる蝗かな
        椿の実太りて海の荒るるかな
        数へ日の土の乾きも鹿島かな
        春寒の枝を一禽離れけり
        大阪に雨の降りけり初暦
        萩は実になりけり雨の千代尼の忌
        やうやうに水澄む思ひありにけり
        かばかりの菜殻を焚いてをりにけり
        稲架組みのそのあと雨になりにけり


 以上の例句を声に出して、何度も読んでください。暗誦できるまで。


      彫像にひそみたる稚気 風薫る     季 己

「俳句は心敬」 (85)すべての風体を学べ①

2011年05月18日 19時41分15秒 | Weblog
        ――ただ一つの風体だけでも、心をこめて修業したならば、
         至極の境地に達することができるでしょうか。

        ――先学に尋ねたところ、次のようにおっしゃられた。
          だいたい、どんな風体でも好き嫌いを言わずに詠むこと
         が、二人といない優れた歌人というべきであろう。
          一つの形、風体のみに固執して、そこから一歩も出ない
         というのでは、あまりにも残り惜しい気がする。

          「君子は、すべての人と親しく交わり、人を選ばない。
         小人は、人を選り好みして、広く交わらない」と、『論語』
         にもある。
          周の武王の行ないを非として首陽山に死んだ伯夷・叔斉
         は、ともに清廉潔白で邪悪を憎む、聖人中の清節である。
          殷の湯王の宰相で、君を愛し国を思うあまり、君を廃立
         した伊インは、聖人中の和合を願った人である。
          孔子こそは、時期を得て、聖人中の聖人といわれるよう
         に、聖を集大成したような人である。
          仏陀は、福徳と知恵の二つを持つ両足尊ともいわれる。
          いま仏教を、小乗・中乗・大乗という三つの段階に区別
         しているが、仏陀自身は、もともと三乗に区別する心など
         持っていないのだ。 (『ささめごと』諸々の歌体を学べ)


 ――十四世紀に入って、二条為世・冷泉為相以来、二条家と冷泉家が対立的歌風になりました。
  正しい風体は一つしかなく、その一つの風体、つまり真体を極めてゆくというのが、二条派の立場です。ですから、「一つの風体だけでも、心をこめて修業したならば、至極の境地に至るか」という質問は、二条派の見解に立てば当然、是認されなければならないはずです。
 けれども心敬は、それが良いとも、悪いとも答えず、もっと広い見地に立つよう望んでいます。
 
 広く、定家の唱えた十体のすべてを学んで、そのうちから自分の性質に最もかなった一体を選んで修業してゆく、というのが冷泉派の立場です。
 心敬の答えもその線に沿ってなされていますが、十体のいずれをも捨てず、すべてを学び取ろうというのが、心敬の態度です。
 その場にあたって常に新鮮で、しかも絶えず時々の変化に応じてゆかねばならない連歌の特質上、冷泉派の見解は、心敬に至ってさらに拡大されたのです。
 一つの見解に固執するのを嫌う、僧心敬として融通無碍の心構えが、人生観の面から、そういう傾向を強力に裏打ちしているのです。
 「かたよらず、こだわらず、とらわれず、広く、もっと広く学べ」と、心敬は言っているのです。


      オリーブ茶すこし濃くする暑さかな     季 己
 

みじか夜

2011年05月17日 22時51分26秒 | Weblog
        みじか夜や毛むしの上に露の玉     蕪 村

 おかしみと意識させない程度のおかしみが、うっすらと感じられ、夏の夜のあまりにも短いその「あっけなさ」が軽妙に表されている。
 一句全体が、説明に流れるとおかしみの方が際立ってくるが、そこを写生の的確さでぐっと引き締めているのはさすがである。首尾のはっきりしない小さな毛虫の体と、ビロードのように密生した細い毛とが、夏の夜の短さと蒸し暑さとを具現し、多毛ゆえに完全な形で保っている露の玉が、爽やかな感じを具現している。
 こういう微細な事物の上に、これほど克明な「写生眼」を働かしていることは、芭蕉時代には多く見られなかったところである。

 夏の夜は短く、明け易い。夜半すぎてまだいくらもたたないのに、東の空が白んできてしまう。このように明け易い夏の夜を「短夜(みじかよ)」という。
 季語は「みじか夜」で夏。

    「夏の夜の何と短いこと。あっけなくも、もう明るくなってしまった。
     しかし、いかに夜が短かろうとも、暁はやはり暁らしく爽やかで、
     ここにいるこの毛虫の密生した毛の中には、いつの間に結んだ
     のか露の玉がいくつも乗っているよ」


     はたた神降りて木彫の鬼となれ     季 己