――では、乱れた現状を打破するには、どうすればよいのでしょうか。
やるべきことがやれないのは、その道に対する執心が不足していて、それを体得するだけの素地が出来ていない、というのが一因。
一方、教える者の、その教え方に問題がある、とも心敬は言うのです。
「心の修行の及ばぬ者には、もっぱらその者の素質や能力の程度に応じて、教え導くがよい」というのが、この節のポイントです。
教え方にマニュアルはありません。習う人の素質・能力の成熟いかんによって、適宜に指導してゆくのが正しい方法で、固定した教えは、真の教えに値しません。
相手の素質・能力の成熟度を見抜き、その程度にあわせて指導すれば、素質のある者はもちろん、最低の素質の者でも、至極の境地に導ける、というのです。
素質がないのではありません。辛抱と努力が足りないのです。精進が足りないのです。
どんな方便を用いてでも、至極の境地へ近づけてあげるのが、指導者の務めではないでしょうか。
学習塾で講師をしていたころのことです。
四月の新学期に、中学二年の女の子が、母親に連れられてやって来ました。聞けば、中一の成績は「オイッチニイ、オイッチニイ」、つまり、5段階評価の最低の1と2ばかりとのこと。せめて英語・数学・国語の三教科を「3」にしたい、というのがお母さんの希望でした。
すべてを私に任せる、という条件でその女の子(仮にK子とします)を入塾させました。
入塾して間もなく、K子がスチュワーデスを希望していることを知りました。スチュワーデスになるには、数学は関係ないといって、勉強してこなかったのです。
嘘も方便、「スチュワーデスの試験に、数学もあるんだよ。今からやれば間に合うから一緒に勉強しよう」と言ったところ、K子はビックリ。
根が素直なK子は、私を信じ、猛烈に勉強しました。学校の成績はぐんぐん上がり、中三の2学期には、英・数・国の三教科とも「5」になりました。
ところで、人間の素質・能力に成熟度があるように、歌連歌にもそれに相当する段階があり、それを仏の法報応の三身になぞらえて説明しているのです。
法身(ほっしん)は、根源的な永遠不滅の真理、法、仏陀の本質、本身をいいます。
応身(おうしん)は、永遠の真理である仏陀の現身、つまり、衆生済度のために現世に現れた人格身のこと。
報身(ほうしん)は、絶対的な法身と現世に出現した応身との中間的なもので、いわば真理の生きた具体的普遍的な姿。
したがって、応身・報身は、論理的に理解できるが、絶対の法身の了解は超論理的でむずかしい。
歌連歌を大別すると、
①すぐ意味のわかる句(応身)
②趣向を凝らして巧みに作ってある句(報身)
③世の理(ことわり)を絶して、幽遠で気高い句(法身)
の三つです。
これは、無限の連続状態にある句柄を、便宜上、三つの段階に要約しただけで、その境地を一歩一歩、明らかにしていくのは、自己の修業に待つほかありません。
こうして、先賢の示した至高の境地は、それにふさわしい至高の心構えの成熟を待って、はじめて理解することを得、そののち自己のものとすることが出来る、というのが心敬の主張です。
いま、東京・銀座【画廊宮坂】で、すばらしい個展が開かれています。『美齊津 匠一 展』です。美齊津さんの今回の作品を、仏の三身説になぞらえると、応身の作品は皆無、報身の中以上の域に達した作品ばかり。中に数点、法身の境地に手が届いたかな、と思われる作品があります。
ぜひ、会場に足を運び、ご自分の目で確かめていただけたら幸いです。(7月3日、午後5時まで)
心敬さんに言わせれば、至高の俳句は、「仏のつぶやき」ということでしょう。仏のような清浄な心で、ポロッとこぼれた「つぶやき」、これが俳句なのです。
俳句に《意味性》は必要ないのです。意味のある句は、まだまだ初歩段階。もちろん、技巧も不必要。目指すは、「③世の理を絶して、幽遠で気高い句」です。
「仏のつぶやき」を目標に、一生、修業をつづけるのが、俳句の道ではないでしょうか。
(※「至高の心構え②③」に対応しています。)
希望の船待つ寂けさの青りんご 季 己
やるべきことがやれないのは、その道に対する執心が不足していて、それを体得するだけの素地が出来ていない、というのが一因。
一方、教える者の、その教え方に問題がある、とも心敬は言うのです。
「心の修行の及ばぬ者には、もっぱらその者の素質や能力の程度に応じて、教え導くがよい」というのが、この節のポイントです。
教え方にマニュアルはありません。習う人の素質・能力の成熟いかんによって、適宜に指導してゆくのが正しい方法で、固定した教えは、真の教えに値しません。
相手の素質・能力の成熟度を見抜き、その程度にあわせて指導すれば、素質のある者はもちろん、最低の素質の者でも、至極の境地に導ける、というのです。
素質がないのではありません。辛抱と努力が足りないのです。精進が足りないのです。
どんな方便を用いてでも、至極の境地へ近づけてあげるのが、指導者の務めではないでしょうか。
学習塾で講師をしていたころのことです。
四月の新学期に、中学二年の女の子が、母親に連れられてやって来ました。聞けば、中一の成績は「オイッチニイ、オイッチニイ」、つまり、5段階評価の最低の1と2ばかりとのこと。せめて英語・数学・国語の三教科を「3」にしたい、というのがお母さんの希望でした。
すべてを私に任せる、という条件でその女の子(仮にK子とします)を入塾させました。
入塾して間もなく、K子がスチュワーデスを希望していることを知りました。スチュワーデスになるには、数学は関係ないといって、勉強してこなかったのです。
嘘も方便、「スチュワーデスの試験に、数学もあるんだよ。今からやれば間に合うから一緒に勉強しよう」と言ったところ、K子はビックリ。
根が素直なK子は、私を信じ、猛烈に勉強しました。学校の成績はぐんぐん上がり、中三の2学期には、英・数・国の三教科とも「5」になりました。
ところで、人間の素質・能力に成熟度があるように、歌連歌にもそれに相当する段階があり、それを仏の法報応の三身になぞらえて説明しているのです。
法身(ほっしん)は、根源的な永遠不滅の真理、法、仏陀の本質、本身をいいます。
応身(おうしん)は、永遠の真理である仏陀の現身、つまり、衆生済度のために現世に現れた人格身のこと。
報身(ほうしん)は、絶対的な法身と現世に出現した応身との中間的なもので、いわば真理の生きた具体的普遍的な姿。
したがって、応身・報身は、論理的に理解できるが、絶対の法身の了解は超論理的でむずかしい。
歌連歌を大別すると、
①すぐ意味のわかる句(応身)
②趣向を凝らして巧みに作ってある句(報身)
③世の理(ことわり)を絶して、幽遠で気高い句(法身)
の三つです。
これは、無限の連続状態にある句柄を、便宜上、三つの段階に要約しただけで、その境地を一歩一歩、明らかにしていくのは、自己の修業に待つほかありません。
こうして、先賢の示した至高の境地は、それにふさわしい至高の心構えの成熟を待って、はじめて理解することを得、そののち自己のものとすることが出来る、というのが心敬の主張です。
いま、東京・銀座【画廊宮坂】で、すばらしい個展が開かれています。『美齊津 匠一 展』です。美齊津さんの今回の作品を、仏の三身説になぞらえると、応身の作品は皆無、報身の中以上の域に達した作品ばかり。中に数点、法身の境地に手が届いたかな、と思われる作品があります。
ぜひ、会場に足を運び、ご自分の目で確かめていただけたら幸いです。(7月3日、午後5時まで)
心敬さんに言わせれば、至高の俳句は、「仏のつぶやき」ということでしょう。仏のような清浄な心で、ポロッとこぼれた「つぶやき」、これが俳句なのです。
俳句に《意味性》は必要ないのです。意味のある句は、まだまだ初歩段階。もちろん、技巧も不必要。目指すは、「③世の理を絶して、幽遠で気高い句」です。
「仏のつぶやき」を目標に、一生、修業をつづけるのが、俳句の道ではないでしょうか。
(※「至高の心構え②③」に対応しています。)
希望の船待つ寂けさの青りんご 季 己