壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (114) 至高の心構え⑤

2011年06月30日 20時08分06秒 | Weblog
 ――では、乱れた現状を打破するには、どうすればよいのでしょうか。
 やるべきことがやれないのは、その道に対する執心が不足していて、それを体得するだけの素地が出来ていない、というのが一因。
 一方、教える者の、その教え方に問題がある、とも心敬は言うのです。
 「心の修行の及ばぬ者には、もっぱらその者の素質や能力の程度に応じて、教え導くがよい」というのが、この節のポイントです。
 教え方にマニュアルはありません。習う人の素質・能力の成熟いかんによって、適宜に指導してゆくのが正しい方法で、固定した教えは、真の教えに値しません。
 相手の素質・能力の成熟度を見抜き、その程度にあわせて指導すれば、素質のある者はもちろん、最低の素質の者でも、至極の境地に導ける、というのです。

 素質がないのではありません。辛抱と努力が足りないのです。精進が足りないのです。
 どんな方便を用いてでも、至極の境地へ近づけてあげるのが、指導者の務めではないでしょうか。
 学習塾で講師をしていたころのことです。
 四月の新学期に、中学二年の女の子が、母親に連れられてやって来ました。聞けば、中一の成績は「オイッチニイ、オイッチニイ」、つまり、5段階評価の最低の1と2ばかりとのこと。せめて英語・数学・国語の三教科を「3」にしたい、というのがお母さんの希望でした。
 すべてを私に任せる、という条件でその女の子(仮にK子とします)を入塾させました。
 入塾して間もなく、K子がスチュワーデスを希望していることを知りました。スチュワーデスになるには、数学は関係ないといって、勉強してこなかったのです。
 嘘も方便、「スチュワーデスの試験に、数学もあるんだよ。今からやれば間に合うから一緒に勉強しよう」と言ったところ、K子はビックリ。
 根が素直なK子は、私を信じ、猛烈に勉強しました。学校の成績はぐんぐん上がり、中三の2学期には、英・数・国の三教科とも「5」になりました。

 ところで、人間の素質・能力に成熟度があるように、歌連歌にもそれに相当する段階があり、それを仏の法報応の三身になぞらえて説明しているのです。
 法身(ほっしん)は、根源的な永遠不滅の真理、法、仏陀の本質、本身をいいます。
 応身(おうしん)は、永遠の真理である仏陀の現身、つまり、衆生済度のために現世に現れた人格身のこと。
 報身(ほうしん)は、絶対的な法身と現世に出現した応身との中間的なもので、いわば真理の生きた具体的普遍的な姿。
 したがって、応身・報身は、論理的に理解できるが、絶対の法身の了解は超論理的でむずかしい。

 歌連歌を大別すると、
   ①すぐ意味のわかる句(応身)
   ②趣向を凝らして巧みに作ってある句(報身)
   ③世の理(ことわり)を絶して、幽遠で気高い句(法身)
 の三つです。
 これは、無限の連続状態にある句柄を、便宜上、三つの段階に要約しただけで、その境地を一歩一歩、明らかにしていくのは、自己の修業に待つほかありません。
 こうして、先賢の示した至高の境地は、それにふさわしい至高の心構えの成熟を待って、はじめて理解することを得、そののち自己のものとすることが出来る、というのが心敬の主張です。

 いま、東京・銀座【画廊宮坂】で、すばらしい個展が開かれています。『美齊津 匠一 展』です。美齊津さんの今回の作品を、仏の三身説になぞらえると、応身の作品は皆無、報身の中以上の域に達した作品ばかり。中に数点、法身の境地に手が届いたかな、と思われる作品があります。
 ぜひ、会場に足を運び、ご自分の目で確かめていただけたら幸いです。(7月3日、午後5時まで)

 心敬さんに言わせれば、至高の俳句は、「仏のつぶやき」ということでしょう。仏のような清浄な心で、ポロッとこぼれた「つぶやき」、これが俳句なのです。
 俳句に《意味性》は必要ないのです。意味のある句は、まだまだ初歩段階。もちろん、技巧も不必要。目指すは、「③世の理を絶して、幽遠で気高い句」です。
 「仏のつぶやき」を目標に、一生、修業をつづけるのが、俳句の道ではないでしょうか。
                      (※「至高の心構え②③」に対応しています。)


      希望の船待つ寂けさの青りんご     季 己

風の筋

2011年06月29日 22時28分44秒 | Weblog
        嵐山藪の茂りや風の筋     芭 蕉

 『嵯峨日記』の十九日の条には、
    「午半(うまなかば)、臨川寺に詣づ。大井川前に流れて嵐山右に高く、
     松の尾の里に続けり」
 とあり、この散策中の嘱目吟であろう。
 自然を大づかみに、しかも動的にとらえ、色彩的にも豊かな効果をあげた句である。
 「風の筋」は、風が吹き通る道筋。竹藪の穂のそよぎから、視覚的にとらえていったもの。

 季語は「茂り」(茂み)で夏。繁茂した季節感のみならず、柔軟な竹藪の穂のなびきやすい質量感をとらえた使い方がみごとである。

    「嵐山の方を眺めやると、ずっと竹藪の茂りが連なっている。その藪の穂の
     上を風の吹き通ってゆくのが、一本の筋となって望まれることだ」


      七変化おのが心のうらおもて     季 己



行き行きて

2011年06月28日 22時26分51秒 | Weblog
        行々てこゝに行々夏野かな     蕪 村

 「ユキユキテ ココニユキユク ナツノカナ」と読むのだろう。
 「行々て」は、『文選』に、「行々重行々、与君生別離」があり、また『和漢朗詠集』に、これを引用した源順の「行々重行々、名月峡之暁色不尽」がある。

 自然と人間との、激しい気力の争いが、直ちにこの一句の男性的迫力となっている。
 例のごとく、「現在」を連続性の時間中のある一点として取り上げ、今までの経過とこれからの予想とを、その一点へ封じ込めているのである。
 この句が、夏野を活写すると同時に、雄々しい人生行路の縮図でもあるかのごとき無限感を生むのは、そこに起因している。
 「行々重行々」という漢詩中の「重ねて」を変じて「こゝに」としたのは、「現在」の一点を強調しようとしたためである。

 季語は「夏野」で夏。

    「直射日光を真上から浴び、草が目も眩(くら)まんばかりに照り返している
     夏野。行きに行き歩みに歩んで、自分の体は今ここのこの場所まで来て
     いる。これから先も依然として、こういう中を行きに行き歩みに歩んでいく
     ばかりである」


      葭切の身の片がはの夕明り     季 己

「俳句は心敬」 (113) 至高の心構え④

2011年06月27日 16時15分31秒 | Weblog
 ――この段は長く、また各節ごとに意味が飛躍し、全体として、心敬が何を言いたいのかわからない、というのが大方の感想でしょう。
 この段は、大きく三つに分けられると思います。
 最初は、《当時の会席の猥雑さ》を述べた、「至高の心構え①」の部分。
 つぎは、《指導の方便》を述べた、「至高の心構え②」の部分。
 そして、《仏の法報応の三身と歌連歌の関係》を述べた、「至高の心構え③」の部分となります。

 「このごろは、和歌隆盛の時なのか」という問に対し、心敬は、その流行がいかに猥雑の限りを尽くしているか、また、この混乱を統(す)べてゆくためには、道の賢聖の出現が、いかに望ましいものであるかを説きます。
 しかし、そうしたことは、この末世においては望むべくもないから、歌道に志すということだけで、一応、満足しなければならない、と現状を是認するのです。

 「和歌」を「俳句」に置き換えると、なんだか心敬さんが、今の俳句界を述べているように思えてなりません。
 句会、吟行の騒がしさ、軽薄さ。
 選句の最中に、ケータイのメールを打っている人はいませんか。おしゃべりをする人はいませんか。幹部同人のアドバイス、参考意見を、自分の句が非難された、と言って怒る人はいませんか。さっさと句会を切り上げて、早く二次会で一杯飲もう、と言う人はいませんか。
 こういうことが起こるのは、その道に賢聖がいないから、つまり、主宰がみな賢聖なら、俳句の世界の乱れはなくなる、と心敬は言うのです。
 賢聖が世に用いられ、睨(にら)みをきかしている間は、心のねじ曲がった者はいなくなり、悪賢い人や、騒がしい人もいなくなります。
 だから、賢聖が出てきて欲しい、と心敬は念願するのです。

 俳句自体が難しいのではありません。俳句に対する執心が不足していて、それを体得するだけの素地が出来ていないのです。
 それには修業、それも「心の修行」が、必要かつ難しいのです。いや、修業が難しいのではありません。やるべきことを、必ずやることが難しいのです。
 至高の境地へ到る道筋は、先賢によってつけられております。先賢の教えを信じ、私心を捨て、自分の能力を最大限に発揮できるよう、しっかりした心構えを持つことが必要なのです。
 こうした心構えがないから、破戒無知のエセ僧を尊び、鉛を宝としてしまうのです。
 先賢が、どんなに良い教えを残してくれていても、われわれが実践しなければ何にもなりません。「やるべきことを、必ずやる」、これが大切だと心敬は言いたいのです。
          (※ 「至高の心構え①」に対応しています。再読いただければ幸いです)


      ゆつたりと日暮るる猫に月見草     季 己

地震(ないふる)

2011年06月26日 22時32分37秒 | Weblog
        おろし置く笈に地震なつ野かな     蕪 村

 この句「オロシオク オイニナイフル ナツノカナ」と読む。
 この句の別案らしいものに、「笈の身に地震(ジシン)しり行く夏野かな」がある。これだと、主人公が地震を感じたというだけで、ことは大半、意識内の現象として閉ざされてしまっている。
 掲句は、「人」からきれいに離れて、「物」に中心点が移されている。具体的な物の「笈」を点出し、それを外界の夏野のまっただ中へ据えることによって、すべては悠久広大な自然の力に任せられている。そのためにかえって、小さくはかない人間の自然の力に対する驚きの情も、ひとしお鮮明になっている。
 静の中へ突如として動を呼び起こして、その結果、夏野の閑かさとその奥底にひそむたくましい活力とを、あわせて強く意識させているのである。
 地震は、ひたすらに恐怖すべき忌まわしいものと考えられ、いわんや、「詩の素材」として採り入れることなど、人々の夢想だにもしなかったところであろう。
 蕪村は、あらゆる現象を、現象そのものとして生活し享受する近代の生活者と、共通な素質を多分に所有していたのであろう。

 この句は、内容にふさわしい荘重な形式を備えていて、
        ろしひにゐふるつのか 
 のように、「お」の音と「な」の音とが、整然と打ち重ねられている。

 季語は「なつ野」で夏。

    「果てしもない夏野は、ただきらきらと輝き、物音ひとつしない。ふと、何か
     の気配のようなものが感じられた瞬間、背から下ろして傍らの地面に据え
     てあった笈が、かすかながらも明らかに震動するのが認められた。大地
     のどこからか起こった地震が、今この夏野を通り過ぎてゆくのである」


      浄土風来る中尊寺蓮ひらき     季 己

「俳句は心敬」 (112) 至高の心構え③

2011年06月25日 20時44分32秒 | Weblog
        ――和歌や連歌も、仏教の三身(さんしん)と同様である。
          法身(ほっしん)・ 報身(ほうしん)・応身(おうしん)、また、
         空諦(くうたい)・仮諦(けたい)・中諦(ちゅうたい)に相当する
         姿の句が必ずある。

          誰でもすぐに理解できる句は、応身の仏に当たる。一切の
         存在は、色(物質・肉体)・受(感覚・知覚)・想(概念構成)・行
         (意志・記憶)・識(意識)の五つの現象、眼・耳・鼻・舌・身・意
         の六つの感覚によって現す仏であるから、好士の眼識で理解
         できるものである。

          趣向を凝らし、品格があり、技巧的な句は、報身の仏の叡智
         に当たるものであろうか。人の機縁にしたがって、あるときは
         化現(けげん)し、あるときは化現しないので、知恵分別のある
         真の好士でなければ、会得することはできない。

          また、幽遠で理屈を超えて気高く、技巧を離れて融通無碍な
         とらわれない句は、仏の真身である法身に当たるものだろう。
          叡智でも修練稽古でも、容易に到達し得ない境地である。

          そうではあるが、修行工夫に年数をかけた俊英で、鑑賞、観
         察力のある好士だけは、通暁することができるであろう。
          それこそ、実相中道の心(偏りのない、厳正公平に現実を見
         つめ、正しい判断行動をなす心)にかなったものであるといわ
         れる。 (『ささめごと』法報応三身の歌連歌)


      浮いて来い浮けば沈めて時もどす     季 己

「俳句は心敬」 (111) 至高の心構え②

2011年06月24日 21時11分18秒 | Weblog
        ――仏教でも歌道でも、修行の足らぬ思慮分別の十分でない人には、
         もっぱらその人の素質や能力の程度に応じて、教え導くのがよい
         ともいう。

            父は賢明であっても、その子は凡愚ということもある。
            師匠は才能豊かで、骨法を心得ていても、弟子は必ずしも
           継いでいるとは限らない。
            斉の桓公が、書物で学んでいるのを、車作りの翁が聞き、
           それを非難した。「書物の字面を読んでも何も会得できな
           い。先人の心を学ばずして何が得られるか」と。
            鴨の足は短いが、それを長くしようと継げば嘆く。鶴の足
           は長いが、それを短くしようと切れば悲しむ。
            仏法にも、衆生の能力や性質に応じて説く随機(ずいき)
           と、衆生の能力にかなうように法を説く逗機(とうき)があり、
           相手の賢愚の素質にしたがい、法の説き方を変えられるという。
            衆生を教え導く巧みな手段である方便は、たとえ愚劣であっ
           ても、方便という方法論は正しい。そうした最善の仏教の方法
           論である方便の手段を、初めから否定する知恵は、本当のもの
           ではなく間違っている。
            止めよう、止めよう。ここで自分が大法を説いて何になろう。
           この法は微妙で探求しがたい。

         冷泉中納言為秀卿は、つぎのように教えられた。
         「ぼうっとして頭のはたらきの鈍い歌人には、鋭いひらめきや連想
        を学ばせよ。また早合点で機転のききすぎる人には、のんびりと落ち
        着くように教授せよ」と。これも賢い庭訓(ていきん)ではないか。

            聖人には、自分自身の固定した心というものはない。万人共
           通の普遍的な心を基準としている。聖人には、自己流の偏った
           解釈や判断がない。万人共通の普遍的な解釈や判断を、評価
           の基準にしている。
            仏の思想を説くために、釈迦という仮の人間の名で化現し、
           多くの衆生を引導された。
            迷いから覚め得ない最低の素質の無性(むしょう)の人も、仏
           となり得る素質を持った定性(じょうしょう)の人も、ともに皆、
           最終的には成仏できる。


      今年竹 風と心敬たはむれて     季 己

            

「俳句は心敬」 (110) 至高の心構え①

2011年06月23日 20時24分02秒 | Weblog
        ――この頃、世間に和歌をたしなまない者がいない、と言われて
         おります。和歌隆盛のときなのでしょうか。

        ――先達が語っておられる。
          誰も彼も和歌をたしなむようになったためか、まことに上下
         の階級はなくなり、互いに悪口雑言の限りを尽くし、下卑て淫
         らなさま、会席などの騒がしさ、早退や抜け出しを当たり前と 
         した軽薄な様子は、短時間に詩を作る機知・才能を競う、めま
         ぐるしさあわただしさのようである。
          まことに、歌連歌の道の賢聖が出てきて欲しい、世の乱れで
         あることよ。

          猛獣が山に勢力のある間は、小さい毒虫は、はびこらない。
          鷹の止まり木に、鷹が眠っているときは、こざかしい鳥や雀が、
         騒がしいという。
          する事が難しいのではない、心身を行ずることが難しいので
         ある。いや、行ずることが難しいのではない、善く行ずることが
         難しいのである。
          釈迦仏の入滅後、教法は存在するが、真実の修行が行なわ
         れない像法、仏の教えの廃れる末法の時代になると、堂塔や
         仏像が道端にたくさん打ち棄てられる。これはまさに、仏法衰
         滅の時であるといわれている。

          そうではあるが、時代も下がり、人間の性質も、昔には劣っ
         ていくのだから、今の世の、形ばかりの和歌愛好者であっても、
         風流心のある部類に入ろう。

          仏のいなくなった世には、仏の下の羅漢でも仏のようにし、
         羅漢さえいない世には、破戒無知の僧の身なりをした者を、尊
         いとして敬うという。
          金銀のない国では、鉛や銅でも宝とする。
          歌道も仏教同様、先哲の教えははっきりしているが、やる気
         のない人には到達できない道である。ただ、その人の持ってい
         る先天的根性能力が熟すか否かによるのである。
          代々の勅撰集は、規範として理想的なものであるが、私心の
         塊である成熟していない作者には、その詩美や風体などはわ
         かるまい。天の恩恵は、無私が当然だからである。
          仏教でさえも、長い間、菩提を欣求(ごんぐ)する者だけが、
         信じ受けられるとしている。
          どんな名医の良薬も、教えの通りに養生しない病人を治すこ
         とはできない。
          眼には見えても、理解することができない。それは氷の中に
         宝石をちりばめたり、水に絵を描くようなものであるという。


      花の束さげて片蔭つたひかな     季 己

「俳句は心敬」 (109) 一道に専念する

2011年06月22日 22時30分38秒 | Weblog
        ――和歌の道にいそしむ人で、さまざまな芸能を一緒に稽古して
         いる人が多く見受けられます。これは良いことなのでしょうか。

        ――先賢はおっしゃっている。「諸道において、真実傑出して、
         他の芸能にも優れている人はいない」と。
          けれども、諸々の道には「相資相反」といって、互いに助け
         合うものと反発し合うものとがあって、並行して学んでも差し
         支えないものもあり、また、ことのほか悪いものもある。

          学問・仏道修行・書道などは、歌道には「相資」の道で、相互
         に助け合い、まさに適したものである。
          また、碁・将棋・双六など博打の類はみな同一の道で、互いに
         補い合うものである。
          楽器の管弦のさまざまな類は、舞踊・能の謡と一連のもので、
         併せて学んで良い。
          また、蹴鞠・相撲・武術などは、みな同じ道である。

          歌道・仏道修行・学問などに、囲碁・双六・相撲・蹴鞠などは、
         「相反」といって非常に悪い類である。
          昔の人も、どんな大国にも、独歩といって、一芸一能の一道に
         のみ専念する人が、天下の名声を得る、と言っている。
                               (『ささめごと』相資相反)


 ――少子化のせいでしょうか、お子さんにさまざまな習い事をさせ、それを得意顔で話す親御さんの、何と多いことでしょう。
 学習塾をはじめ、スイミング、サッカー、野球、ピアノ、バレー、書道、絵画、ソロバン、空手、剣道、柔道、少林寺拳法などなど、日替わりは当たり前、一日に三つの習い事をしているお子さんも知っております。
 この現状を心敬さんが見たら、何とおっしゃるでしょうか。

 歌連歌において心敬は、一体にのみ固執し、他の九体を学ばない狭い態度を、極力いましめました。
 そんな心敬ですが、歌道においては、並行して他の芸能を学ぶことを好んでいないようです。
 歌道の中においては、風体に変化があっても、目標とする究極の境地は同じです。けれども、芸道の種類が異なると、その目標とするところは各様だからです。

 心敬の所論を突き詰めていくと、究極においては、すべての芸道が、同一の境地に到達するように考えられます。けれども、歌道と相資と考えられている仏道でさえ、その目的は異なっているのです。
 これは、それぞれの芸道にそれぞれの持ち味を認め、その区別をはっきり意識していないときには、互いに他を損なうものだ、と考えていたからです。
 「相資相反」という考えは、そうした区別の認識の上に立って、しかも共通の精神を有する芸道を、大きく分類したところに成立したのです。

 先賢をよそおって、「諸道において、真実傑出して、他の芸能にも優れている人はいない」というのが、心敬の本音であり、「一道にのみ専念する人が、天下の名声を得る」というのが、心敬の結論なのです。

 長年、子供の教育に携わってきた私には、心敬の結論がよく理解でき、また納得できます。
 たくさんの稽古事を並行して習ったお子さんで、大成された方を、私は知りません。反対に、お子さん自身が好きで始めた一つの稽古事を貫き、大成された方は、何人も知っております。
 「一芸に秀でる者は、百芸に通ず」という言葉があるように、まず一つのことに専念することが大切です。そして「一芸に秀でる」と、他の芸道においても、容易に大成することが出来るのです。


      夏至の夜の夢のつづきは玉手箱     季 己

午の貝

2011年06月21日 22時24分34秒 | Weblog
        午の貝田うた音なく成にけり     蕪 村

 昔は、水の都合、頃合いなどを見計らって、一つの村が共同体を作って、短時間に次々と田植をしていったものである。みんなの中から推されて、適当な人物が指南役となり、法螺貝(ほらがい)も吹くのである。

 「午(ひる)の貝」は、正午、つまり、昼飯の時間を知らせる法螺貝のこと。
 「田うた」は田植歌。
 「音なく成(なり)にけり」は、歌声はもちろん物音はいっさい消え去った、ということである。

 田植歌を中断させるのに、より強い法螺貝の音をもってし、一つには、今までの田植歌の賑わしさを改めて強く意識させ、二つには、午後から再び始まるであろう田植歌の賑わしさを予感させるなど、「聴覚」のみによって、悠々と「時間」を料理し得た句である。

 季語は「田うた」、つまり「田植」で夏。

    「近在うちそろっての共同の田植。男の声、女の声の田植歌が賑やかに聞こ
     えていたが、やがて正午を知らせる法螺貝の音が高々と響きわたった。
     すると、みんな畦などに上がって昼餉にかかるとみえて、歌声がぱったり
     と止んでしまった。しばらくは打って変わった静けさである」


      ひとり客ゐる梅雨晴の染織展     季 己

「俳句は心敬」 (108) 至極の歌人

2011年06月20日 21時36分11秒 | Weblog
        ――諸道に好士は満ちあふれているけれども、思い入れ深き人は、
         少ないものなのでしょうか。

        ――先達はこのように語っておられた。
          和歌の道に、思いもおよばないほど優れた人は、昔もわずかに
         一人、二人に過ぎなかったが、まことに少ないものである。
          歌の道は、振り仰げばいよいよ高く、切れば切り込むほどいよ
         いよ堅い道である。
          だから、一刹那といえどもゆるがせにせぬ修業を積まなければ、
         奥義を究めにくい深奥な境地である、といわれる。

          千里の道程も、最初の一歩から始まり、高い山も、細かい塵や
         泥から起こるのである。
          仏法にも、敗壊(はいえ)の無常といって、人間の体がじょじょ
         に腐り朽ちていくことは、小乗の求道者も悟り知ってはいる。
          だが、念々の無常といって、刹那刹那に生滅していく現象が、
         あらゆるものにあるということは、大乗最高位の菩薩だけが悟り
         得るのである。
          一瞬の怠りもなく、長年にわたって修業する歌人は、九牛の一
         毛のように数少ない。楚の国でも、屈原一人のみが自覚したとい
         うことである。
          仏陀が正法眼蔵、涅槃妙心を説かれた場所でも、弟子の迦葉ひ
         とりが理解して微笑したとか。
          禅家の心印の単伝とか、深密な印相とかは、文字に表現できず、
         直接に心から心に伝えるしかない玄旨な道である、といわれる。
                     (『ささめごと』道に達することの難しさ)


 ――「至極の歌連歌は、完成された人間の所産に他ならない」と、心敬は言うのです。これは歌連歌に限らず、すべての分野に言えることだと思います。
 そうした人間は、一瞬といえども停滞することのない、心地修行の究極に形成されるはずのものでした。ですから、至極の作品を生み出し得る者は、そうざらには見出せなかったのです。

 「一瞬の怠りもなく長年にわたって修業する歌人は、九牛の一毛のように数少ない」以下の部分は、そうした至高の境地に至り得た者が、いかに稀であるかを繰り返し述べたのも、いい加減な修業では到達できない境地であることを、強調するために他なりません。

 「振り仰げばいよいよ高く」は、どの道も同じです。
 まず、「その道」に飛び込むことが大切です。
 つぎに、良き師を選ぶこと。そうして基本を学び、技術を磨いてください。ここまでは誰でも出来ます。
 師についても学べないのが、心の修行です。
 心敬は言います、「最も大切なことは、心を磨くことだ」と。
 この心地修行を怠ることなく続けることは、誰でも出来るということではありません。けれども、まったく不可能なことではありません。
 昔ならいざ知らず、現代では、山里に隠棲するわけにもまいりません。
 「無常迅速」を胸に秘め、毎日毎日を「光輝心(好奇心)を持ち、感謝の心で、切に生きる」こと、これが、今の世の中では、大切なことではないでしょうか。


      白地着て風はむかしの咄かな     季 己

        ※ 咄(はなし)

「俳句は心敬」 (107) 絶えざる稽古修業

2011年06月19日 22時30分24秒 | Weblog
        ――稽古も歌の詠みぶりも同じ程度の人で、後々、思いのほか優劣が
         ついてしまうことが多く見受けられる。
          実際、老いも若きも、諸道に優劣のない人も、稽古修業を怠ると、
         途中でつまずき追い抜かれてしまうということは、さまざまな道や
         分野においてよくあることである。
          和歌の道に少しでも油断すると、二、三年の間にも、雲泥の差が
         生ずること必定である。

          昔、隆信・定長といって、歌の巧みさも、稽古修業も優劣のない、
         名声を博した人がいた。
          隆信は君に仕官し、定長は出家して寂蓮法師と名を変えて、墨染
         めの衣をまとい、暇のある身になって、日夜、和歌の道を修業なさ
         っているほどに年月がたち、隆信とは比べものにならないほどの歌
         聖になった。
          隆信は言ったという。
          「自分も早くこの世を去っていたなら、名声も残していたろうに、
         なまじ長生きをしてしまったために、とんでもない浮名を流してし
         まった」
          と、いつも嘆いておられた。歌道への切なる思いの言葉である。
           「同じ苗でも、途中で枯れて花が咲かないものがある。花が咲
           いても実にならないものがある」ということだから、「細心な
           用意と稽古修業が、どんな分野でも肝要」ということである。

          誠に、諸道に入門当初は優秀で将来を嘱望され、名声を輝かすで
         あろう人で、早死にする者が多い。不本意で情けないこと、この上
         ない。
           孔子の弟子の顔回や伯魚でさえ、一生不幸のうちに、早くにこの
           世を去った。
           うまい水が湧き出る泉は、早く枯渇し、真っ直ぐな木は、真っ先
           に切られる。
           年に二度も実がなる樹は、枯れやすく、重い荷を積んだ船は、
           転覆しやすい。

          優秀な人でも、あまり長生きすると、生きている有難味がうすれ、
         好奇心や感動が乏しくなるのが常である。
          たいした取り柄もない人が、長く生きすぎ、老残の身をさらすの
         も、あまりにも情けないことである。
           孔子は言っている。「若いときは思い上がった態度をとり、成長
           してもたいしたことなく、よぼよぼになるまで生きながらえるの
           は、世間に害毒を与える賊のようなものである」と。
           兼好法師の言葉に、「人は長生きしても四十歳まで」と書いたの
           は、なんとも奥ゆかしく、素晴らしい言葉である。
                         (『ささめごと』真の歌仙と生涯の修行)
     

 ――ここも前段からの続きです。この段の話は、「どのような道も、油断して稽古修業を怠ると、わずか二、三年のうちにでも、雲泥の差が生ずる」ということに尽きるでしょう。

 道の修業は、死に至るまでの不断の精進を必要とすることの一例としてあげた話なのです。
 このように、長年月の修業が必須の条件であればこそ、優れた才能・素質を持ちながら、花も咲かせずに夭折する者の多いことを、「不本意で情けないこと、この上ない」と心敬は嘆くのです。
 「顔回」は孔子の弟子で、学問を好み、怒ることなく、過ちを繰り返さず、二十九歳で白髪となり、不幸にして短命であった人です。
 「伯魚」は孔子の実子で、孔子より早く、五十歳で亡くなりました。

 それに引き続いて、「優秀な人でも、あまり長生きすると、生きている有難味がうすれ、好奇心や感動が乏しくなる」と、今度は長寿を否定するのです。
 (ということは、生きていることに感謝し、好奇心を持って、感動の毎日を過ごせば「長生き」OKということ?)
 ここには論理の飛躍がありそうですが、実は、先の隆信の「自分も早くこの世を去っていたなら、名声を残したろうに、なまじ長生きしてしまったために、とんでもない浮名を流してしまった」という部分を受けているのです。
 「隆信」は、歌人にして似絵(にせえ)の名手。瞬時にしてその人の特徴をつかみ、大勢の顔を描き分けられたといいます。父は大原三寂の一人、藤原為経。為経出家後、母が俊成と再婚。そして生まれた子が定家なので、隆信は、定家の同母異父兄ということになります。
 「定長」も隆信と同時代の歌人です。はじめ俊成の養子になりましたが、定家が生まれて養子を辞して出家、法号を寂蓮といいます。『新古今集』の撰者に選ばれましたが中途で、六十余歳で亡くなりました。
 ちなみに、『千載集』には、隆信、定長ともに七首、『新古今集』には、隆信三首、寂蓮三十五首、それぞれ入集しております。

 心敬にとっては、生涯をかけて不断の精進をつづけてゆくか、あるいはそれが不可能なら、むしろ死を望むのか、いずれしかないのです。
 そうした緊張した生を過ごしたいという気持も、つまりは、この道に対する執心のなせる業なのです。それが、兼好の「人は長生きしても四十歳まで」に、大いに共鳴する結果を生んだのです。


      麦秋のここも「大滝」峡の村     季 己         

「俳句は心敬」 (106) 孤に徹する

2011年06月18日 21時07分29秒 | Weblog
        ――後嵯峨院の時代、頓阿・慶運といって並び称される歌人がいた。
          慶運は、惨めな境遇であったためか、いつも述懐風の歌ばかり
         詠んでいた。その御代の勅撰集の選者が、四首入れてくださった
         といって、慶運は三拝九拝し、涙を流して喜んだ。
          ところが、頓阿の歌が十余首も入集(にっしゅう)していることを聞
         き、後日、自分の歌の削除切出しを申し出たという。道に執心深い
         ことである。
          頓阿は、時勢に合った歌人であったのであろう。
          「猛々しい虎も、ひ弱の鼠(ねずみ)も、時機によっては逆にもな
         る」とか、「時勢にかなうときは、鼠でも虎のように猛々しくなり、
         かなわぬときは、虎でも鼠のようになる」といわれているように、
         取るに足りない歌人は、それ以上に時勢によって、光ったり曇った
         りする。

          慶運法師が臨終の際、長年書き記した書物、詠草の類などを、
         住みなれた東山の草庵の裏に、みんな埋めて捨てたという。
          また昔、能因法師という歌仙は、摂津国古曾部(こそべ)という
         所で亡くなったが、所持していた詠草類をそこに埋めたという。
          これらの人たちは、後世の歌人を見下したのだ、自分の歌を正
         しく理解できないと。道に対する情熱の深いことである。

          人間の毀誉褒貶(きよほうへん)は、その人物の善悪によるの
         ではなく、世間が用いるか用いないかは、その者の貧富によって
         決められる。
          財力のある者の訴えは、水に石を投げるように広く影響がある
         が、貧しい者の訴えは、石に水をかけるように何の効果もない。
                     (『ささめごと』真の歌仙と生涯の修行)


 ――この段は前段の続きで、「世評の歌仙」についての話を、心敬が引いたものです。こうした話を引いた心敬の真意は、どこにあるのでしょうか。

 若くして俊敏をうたわれた人々が、年とともに名声を失い、老残の身をかこっている実例を、心敬は数多く知っていたに違いありません。そこには、老年のもたらす不可抗力の悪条件が、いろいろと人ごとならず痛感されたことでしょう。
 慶運が、勅撰集(新千載和歌集)の中から、自分の作品の削除切出しを申し出た話などには、片意地な性格のうちに、他人の思惑を無視し切れなかった弱い人間がのぞいているように思われます。そういう点で、自分を大事にしようとする潔癖さの、ひときわ痛々しく感じられる話なのですが、そこに心敬が見たのは、時流に入れられない孤独の精神です。

 慶運や能因が、死に際に、自分の詠草類を埋めてしまったという話は、自己の一代とともに生涯をかけた作品を湮滅(いんめつ)してしまおうとした点で、文学に対するひとかたならぬ執心が感じられます。
 と同時に、自分の死とともに作品を埋没してしまったということは、生前すでに自分一個のものとしか考えなかった文学を、その死後においてさえ人手に渡すまい、安易にあげつらわれるまい、という精神の表れです。それは自分の文学が、自分以外の何人にも理解されることを期待しようとしない、強い、孤独に徹した心構えなのです。
 心敬自身、この話になみなみならず共鳴していることは明らかで、心敬の歌道の境地も究極においては、そうした心境に通うものを持っていた、と考えてよいでしょう。


      梅雨寒の遺影写真の話かな     季 己

「俳句は心敬」 (105) 究極の歌人

2011年06月17日 22時25分31秒 | Weblog
        ――どれほど道の奥義をきわめた人でも、身分が低く、世間的に
         名の知られていない場合は、誰も問題にする者がなく、未熟で
         まったく問題にならない人でも、うまく時の勢いに乗り、歴と
         した家を継いでいる場合は、世間の人は無条件で尊重している
         ように見えます。こんなことがあってもよいのでしょうか。

        ――尭は賢王であったが、その子は凡愚であったとか。舜は賢王
         であったが、その父は偏屈・愚鈍であった。
          家は、家として続いているだけでは本当の家ではない。家名
         や、家業を継ぐからこそ本当の道の家なのである。人も、その
         道の家の人だからといって、その道の人とは言えない。その道
         を熟知していてこそ、道の人である。
          真の人間こそ、真の道を広めることが出来るのだ。書物が人
         を広めるのではない。
          黄帝は、牧童の言葉さえも信じたという。北条時頼は、農夫
         の諫言にもしたがったという。
          君子は、下の者に問うことを恥じない。だから、人倫の道を
         知る。
          太公望は、世を隠れ、浜辺で釣りをしていたが、文王に見出
         されて、国王の師となった。
          吉備の右大臣(真備)は、卑官の左衛門尉国勝の子であった
         が、大臣という高位に上った。
          無間地獄に堕ちた身も環境も、すべて、その人の過去の行な
         いに対する、釈迦仏の判断一つである。仏の真身もその環境も、
         凡愚が悟りを開こうと一念発起する心以上の何ものでもない。
                        (『ささめごと』真の歌仙と生涯の修行)


 ――いかにその道に熟達した専門家でも、身分が卑しく世間に名の知れていない人は、誰からも相手にされない。反対に、どんなに未熟放埒な人でも、うまく時流に乗り、しかも家業を継いでいるような場合には、これを無条件で尊重する。これが中世を通じての一般的な傾向でした。
 けれども、鎌倉末期あたりから、伝統和歌の分野においてさえ、二条・冷泉の名家が、地下(じげ)の歌人に圧倒されるようになり、一方では、実力の前には、家重代の観念も次第に揺らぎはじめるようになったのです。

 この傾向は、連歌のような新興の文学ではさらにはなはだしく、実力のある連歌の好士はすべて地下の出身でしたが、彼らの世間的な地位はきわめて低いものでした。
 世間の評判になった歌会や連歌会は、公家・武家などの貴族階級が主催したものが主であり、地下の連歌師たちはその席に連なっても、貴族の座興の取持ちをするぐらいでした。
 地下の連歌師で、名実ともに一天下の師表となりえたのは、宗祇をもって始まりとしますが、心敬のころには少なくとも、文芸の好士たちの間には、家より人を尊重する思想が、すでに確乎として芽生えてきていたものと思えます。

 ところでこの段は、質問に次いで説明がありません。「尭は賢王であったが、その子は凡愚であったとか」以下、すべて古人の言行を列挙するにとどまっています。しかし、その一節一節は、連句のように連なり、全体的に見て一つのまとまった所論を構成しています。

 尭や舜のような賢王にしても、その体得した境地は、自分一個のもので、その親や子とは別のものです。
 歌道家、茶道家などと家が重んぜられるのは、立派な人物が継いでゆくところに意義があり、中心になるのはあくまで人なのです。
 歌道などという道は、尊重されなければなりませんが、道そのものに力があるのではなく、人がそれを体得することによってはじめて道たり得るのです。
 だから、「道ある人」こそ尊重すべきで、その人の前には王侯貴族といえども、その権勢を屈して、虚心に教えを受けなければならないはずのものなのです。

 結論として心敬は、「無間地獄に堕ちた身も環境も……」と説いています。つまり、
    「一途な思いを、歌を詠ずることを通して、より集中する。そしてその集中に
     よって、その他一切の雑念をはらって一心に近づくことが出来る。この一心
     に至り得てはじめて、その境位のあらわれとして理想の和歌が生まれる。
     その瞬間は、まさに仏の境地である」
 というのです。

 稽古を超えた修行を重ねて、初めて到達可能な「清浄」な境地こそが、和歌・連歌の眼目なのです。言い換えれば仏こそが究極の歌人なのです。文芸作品における芸術としての高さを、宗教的な高さに求めてやまなかった心敬の姿勢がうかがえます。
 お互い、仏のような清浄な心で、作品を生みだしたいものです。


      そのことに気づきし後の花石榴     季 己

二種類の力の美

2011年06月16日 20時49分06秒 | Weblog
        さみだれや大河を前に家二軒     蕪 村

 この「家二軒」は、彼方の岸にあるのか、此方の岸にあるのか。われわれに前面を見せているのか、背面を見せているのか。
 人それぞれに、解釈はさまざまであろう。わたしには、彼方の岸にあって、前面を見せているように思える。変人ゆえ、おそらく少数意見であろう。
 この家は、樹木も何もない堤防の上に隣接して、二軒だけで立っているのでなければならない。なぜ一軒でも三軒でもなく、二軒に限るのか。
 「二」という数は本来、相互に扶助し、励まし合う気持を含んでいる。それがこの場合かえって、共に空しく危険にさらされ、共に孤立無援の状態にあることを、強く印象づけるのに有効なのである。

 「大」と「小」を対照させている点、「季語」と「配合物」と「その状態」との三要素から成り立っている点、しかもその状態が未来を暗示する途中の姿で示されている点、「家二軒」という数の限定をしている点――すべて、蕪村の句作方法としては、常套を踏んでいるに過ぎない。
 しかるに、それらの条件がこの句にあっては渾然と一致し成功しているがゆえに、蕪村の代表作でも最もすぐれたものとして、喧伝されているのである。

 芭蕉にも、
        さみだれをあつめて早し最上川     芭 蕉

 の句があって、同じく五月雨の豪壮味を詠んだ秀作である。こちらは、最上川の姿ではなく、最上川そのものの“いのち”が、五月雨の“いのち”と一つになって、リズムのとうとうたる流れとなっている。
 蕪村の五月雨の濁流の景を眼前に見ることは出来るが、芭蕉の濁流の音は心の耳で感得しなければ聞くことは出来ない。
 蕪村と芭蕉とは、各自の五月雨の句によって、芸の世界における「二種類の力の美」を、われわれに提示してくれている。

 季語は「さみだれ」で夏。

    「長々と降りつづけた五月雨のために、大河の水量は今や、堤防をしのごう
     とするくらいに増している。しかも、このとうとうとみなぎり流れる濁流を前に、
     堤防の傍らには小さな家がただ二軒、励まし合いながら寄り添い立って
     いる。雨は小やみもなく降りつづけ、水量は刻々と増しつづけている」


      殺さるる牛の眼二百 梅雨深し     季 己