壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

雨の萩

2010年09月30日 21時55分01秒 | Weblog
          廿六日、小松歓水亭、雨中也
        ぬれて行くや人もをかしき雨の萩     芭 蕉

 雨中の句会に臨んでの、挨拶の心がこめられている。
 雨の萩のさまに興を起こし、ぬれてゆく人のさまも、萩の傍らでなかなか捨てがたいものであると、属目の景に発想したもの。
 古歌によるという説があるが、それよりは即興的なところを、味わいとる必要があるのではなかろうか。女人の姿の彷彿する句である。元禄二年七月二十六日の作。

 「歓水亭」は、「観水亭」・「観生亭」などともあるが、真蹟懐紙・『随行日記』により、「歓生」亭と考えるべき、という説に従う。歓生は小松の俳人、別号は「亭子」。

 季語は「萩」で秋。「萩」の情趣が生かされた使い方。

    「雨に濡れそぼつ萩の趣は、なかなか興味深いが、その花を賞して、
     濡れながらこの亭の庭を往来する人も、風情捨てがたいものがある
     ことだ」


     山萩のなだるるを日の照り翳り     季 己

芙蓉

2010年09月29日 23時12分07秒 | Weblog
        霧雨の空を芙蓉の天気かな     芭 蕉

 異説が多いが、『笈の底』に、「快晴の日影にはややもすれば花萎み、葉までも塩垂る品なれば、陰雲の覆ひたる日は誠に此の物の天気と云ふべし」とあるのがよくあたっている。
 また、中七「空を芙蓉の」のしらべと、「を」の使い方とを学びたい。

 「霧雨」も秋季であるが、ここでつよく働くのは「芙蓉」なので、こちらが季語で秋。
 「芙蓉」はアオイ科の落葉灌木。高さ二~三メートルに達し、花は一日で萎(しぼ)む。ここでは白色のものを指していよう。
 別にこの「芙蓉」を蓮(はす)、あるいはまた富士山などと考える説もある。ちなみに富士山は、不二山・不尽山などとも書き、芙蓉峰(ふようほう)とも呼ばれる。また、不死の山とも。

    「空にはけぶるような重苦しい霧雨が降りこめている。その空模様が
     かえって芙蓉の花が咲き出るにはよい天気と見えて、次々と花をつ
     けていることだ」


      白芙蓉 朝の心経ゆるやかに     季 己

夜長

2010年09月28日 23時03分30秒 | Weblog
          九月十六日 田福亭
        山鳥の枝踏みかゆる夜長かな     蕪 村

 夜長の形容に使われた古歌中の山鳥を、百尺竿頭一歩を進めて、直接に夜長の具体的景物として活写したのである。あまりにも注文にはまりすぎているきらいはあるが、かえって、蕪村の想像力の豊富さを知るに足るのである。「まさか」とは思いつつも、話術の巧みさに耳を傾けてしまうときのような快さがある。

 「九月十六日 田福亭」は、(明和六年=1769)九月十六日、秋山田福家で詠んだという意。
 「山鳥の」は、「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝ん」の古歌を踏んでいる。

 季語は「夜長」で秋。「夜長」は秋の夜の長いことをいう。

    「山深い木立の闇の中、とある枝に片足で立って眠っていた山鳥が、
     あまりにも夜が長いので、その片足もついにだるくなったと見え、
     今まで羽毛の内にかがめていた他の足を下ろして、それへ新しく
     身の重みを託した。そして以前の足をかがめ終わると、また、ひっ
     そりと眠りつづけた」


      独り寝の夜長の足を掻きにけり     季 己

朝顔や

2010年09月27日 22時52分06秒 | Weblog
          澗水湛如藍
        朝顔や一輪深き淵のいろ     蕪 村

 「や」の切れ字が利いている。「朝顔の一輪深き淵のいろ」では、ある一輪についてその色の事実を説明しただけのことになる。最初に「朝顔や」と朝顔一般の麗しさを強調しておいて、さてその後へ、「一輪……」と出るので、その一論が、朝顔の美の代表者であるかのごとき、また、その一輪へ朝顔の美が集中したかのごとき感を起こさせる。
 
 「一輪深き淵のいろ」は、助詞を省いて先の名詞が直ちに後の名詞に接している点、
        夕風や水青鷺の脛をうつ     蕪 村
 の中七・下五の表現と同一である。
 「一輪深き」というところに、一種の錯覚的な気分の交流があって、その一輪が深淵そのものの象徴であるかのごとき静寂と澄明の感を呼び起こすのである。
 また、花そのものの色彩感を鮮やかに巧みに描き出した句である。
 先週、「画廊宮坂」で個展を開かれた花岡哲象先生の「朝顔」が、この句の朝顔ではないかと、ふとそんなことを思った。
 なお、前書の「澗水湛如藍」は、『碧巌録』中の句であって、「渓の水が深くたたえて藍のようだ」という意。

 季語は「朝顔」で秋。

    「朝顔の花のなんと好ましいこと。ことにこの一輪こそは、円かな形をしずかに
     保ち、色も底知れぬ淵そのもののように、濃い藍色をたたえている」


      朝顔や千代女嫌ひで蕪村好き     季 己

秋の朝寝

2010年09月26日 21時43分59秒 | Weblog
          主は夜遊ぶことを好みて、朝寝せらるる人
          なり。宵寝はいやしく、朝起きはせはし。
        おもしろき秋の朝寝や亭主ぶり     芭 蕉

 元禄七年九月二十二日、車庸亭での作か?
 車庸の風雅に遊んで悠々閑々たる気の置けないもてなしに対しての挨拶の意がこめられている。

 「宵寝はいやしく……」、「閉関の説」にも、「宵寝がちに朝起きしたる寝覚めの分別、何事をかむさぼる」とある。
 「おもしろき」は「朝寝」にかかる。満ちたりて心ゆくさま。
 「亭主ぶり」は、亭主としての客のもてなしぶり。

 「朝寝」は、この当時まだ夏の季語として成立していないので「秋」の句。「秋の朝寝」に独特の味わいを生かしている。

    「宵寝はいやしく、朝起きはせわしくて困るものであるが、ここの亭主、車庸は
     夜遊ぶことを好み、自身が秋の朝寝をゆっくりすることによって、客の身にも
     朝寝を楽しませてくれる。まことにゆきとどいた亭主ぶりであるよ」


      爽やかに自販機の下さぐる人     季 己

月十四日

2010年09月25日 23時03分59秒 | Weblog
        月十四日今宵三十九の童     芭 蕉

 十四日の月を見ながら興じたものであろう。
 男は八歳で血気定まり、十六歳で精通ずるというように、八年を一期として成長し、四十にして成長の盛りに達する、というような考え方があったのである。十五夜に一夜足らぬ月から、四十に一つ足らぬ自分に思いを及ぼしたところに、謎めいた発想の未熟さがあった。
 芭蕉三十九歳に当たる天和二年(1682)の作か。真蹟短冊に「芭蕉」と署名。

 「月十四日」というのは、月は十四日、つまり、十五夜の名月になる前夜の月の意で、それが、齢(よわい)三十九が古来、男の成長の極限である四十の前であることと相通うのである。

 季語は「月」で秋。

    「月は十四日で、満月になる前夜のどこか幼さが残り、見る自分は三十九で、
     男の盛り四十に達する前の、いわばまだ童にすぎない身であるよ」


        
       「画廊宮坂」でお会いした鎌倉の桜井さん             
      旅を楽しみ十月のペンダント     季 己

美しき顔もなし

2010年09月24日 23時36分40秒 | Weblog
        明月や座に美しき顔もなし     芭 蕉

 初案の「児たち並ぶ」も、改案の「七小町」も、ともに月光の幻想美に魅せられた発想で、舞台装置が如何にも絢爛でありすぎる。この頃の芭蕉の心境からいうと、もっと身近なところに俳諧の美が求められていたものと考えてよかろう。
 この句は前二句に比べて、ずっと現実的で、幻想的な美の世界から眼前の世界にかえってきたような味がある。醜い現実の人々の顔を描いて、月の美を思わせたと解する説は行き過ぎだと思う。そうではなく、月に見とれていたさなかに、ふと振り返った人間同士の、何の奇もない顔をもう一度見なおしている、その場の自然な感じであると思う。
 この推敲過程には、この頃の芭蕉の〈高悟帰俗〉の志向がはっきりあらわれているような気がする。

 『初蟬』に、
        翁義仲寺にいませし時に、「名月や児(ちご)たち並ぶ堂の縁  芭蕉」
        とありけれど、此の句 意に満たずとて、「名月や海にむかへば七小町
         同」と吟じて、是も尚あらためんとて、「明月や座にうつくしき顔もなし
        同」といふに、其の夜の句は定まりぬ。これにて、翁の風雅にやせられし
        事を知りて、風雅をはげまん人の教へなるべしと、今ここに出だしぬ。
 と注記して掲出されている。元禄三年(1690)八月十五日の作。

 季語は「明月」で秋。

    「名月を眺めた目で、さて一座の面々の顔をかえりみると、美しい顔などは一つも
     なく、どれも何の奇もない、平々凡々の顔ばかりであるよ」


 ――皆様の励ましのお言葉や、お送りいただいた品々のお陰で、好中球が2170となり、抗ガン剤治療を受けることが出来ました。さらに有難いことには、治療後の現在も、副作用はまったく感じられず、好調そのもの。恐いくらいです。これらも皆様の応援のお陰と、深く深く感謝申し上げます。
 一日一生。日々、楽しく一所懸命、感謝して生きることが大切と、しみじみ感じております。

      あけぼののツリーホワイト曼珠沙華     季 己

七小町

2010年09月23日 20時32分20秒 | Weblog
        名月や海に向へば七小町     芭 蕉

 昨日の「名月や児たち並ぶ堂の縁」の静的把握に対して、この句では、時の移りにつれて、種々に変化してゆくところを動的に把握しようとしている。だが、幻想的な月光美へ惹かれる心情を底に置いている点では共通なものが感じられる。
 『初蟬』・『三冊子』に、「堂の縁」の句の再案として掲出されているが、「是も尚あらためんとて」(初蟬)とあるのは、やはりこの幻想美が、芭蕉のこの頃の心境から見ると、浮いたものに感ぜられたためであると考えられる。

 「海」は、湖、ここでは琵琶湖のこと。
 「七小町(ななこまち)」は、小野小町の宮仕えから窮死(きゅうし)にいたるまでの数奇な運命が謡曲につくられ、「草紙洗(そうしあらい)小町」・「通(かよい)小町」・「鸚鵡(おうむ)小町」・「卒都婆(そとば)小町」・「関寺小町」・「清水小町」・「高安小町」の七曲の小町物となったのを総称していう。ここは月光美の種々変転して止まぬところを七小町にたとえていったもの。琵琶湖の美の変化を、小野小町の七つの変貌に比したのであろう。

 季語は「名月」で秋。名月をその変化の点で生かした発想。

    「名月が琵琶湖の上に影を映している。その美しい趣をずっと眺めわたしていると、
     時の移るにつれて、あるいは華麗に、あるいは哀切に、微妙な美の様相の変化が
     感じられて、あたかも、あの『七小町』として謡曲にえがかれている小野小町の
     生涯を見る思いがすることだ」


      秋彼岸 墓のうしろを水流れ     季 己

堂の縁

2010年09月22日 22時44分14秒 | Weblog
        名月や児たち並ぶ堂の縁     芭 蕉

 名月の夜の、幻想的な美を生かした句である。月光の下にあると、その美しさの中に妖気を覚え、それがいろいろな形に凝集されるのであるが、その妖しい心中の気運を、大寺の堂の縁の稚児の姿によって、形象化しようと試みたものであろう。
 しかし、この句はきれいに絵画化されて、模様化された月光美の世界になっている。幻住庵から義仲寺に入った頃の心境としては、どこか落ち着かない絢爛さが気になって、「此の句意に満たず」ということになったのであろう。
 『初蟬』・『三冊子』に、「名月や座に美しき顔もなし」の初案として掲出。

 「名月」は、八月十五夜の月をいい、「明月」とも書く。望月・満月・今日の月・月今宵(つきこよい)・三五の月・十五夜・芋名月なども同じ意。
 「児(ちご)」は、寺で召し使った少年。稚児小姓。

 季語は「明月」で秋。その本来の趣がみごとに生かされている。

    「仲秋の名月が、お堂のあたりに照りわたっている。その堂の縁には
     美しい稚児が、月の光を浴びてずらりと並んでいる」


      月こよひ紫峰は乳首とがらせて     季 己

残暑

2010年09月21日 22時47分23秒 | Weblog
          残 暑
        夏かけて名月暑き涼みかな     芭 蕉

 即興風な詠みぶりであるが、深い寂寥の中に沈んでゆくようなものが感じられる。
 この句は元禄六年八月十五日の作であるが、この前後の書簡は、句の背景を理解する上で参考になる。たとえば、
    「当年めきと草臥れ増さり候」(十月九日付、許六宛)
    「夏中甚暑に痛み候ひて、頃日まで諸縁を絶ち、初秋より閉関、病閑保養
     にかかづらひ、筆をも執らず候故、心外に打ちすぎ申し候」(十一月八日
     付、荊口宛)
    「当夏暑気つよく、諸縁音信を断ち、初秋より閉関、……夏中は筆をもと
     らず、書にむかはず、昼も打ち捨て寝暮したるばかりに御座候」(十一月
     八日付、曲翠宛)
 など、心身の疲労を伝えている。

 「夏かけて」は、夏を心に置いて、夏を思わせての意。「梅が枝に来ゐる鶯春かけて啼けどもいまだ雪は降りつつ」(古今集・春上・詠人知らず)などにもとづく措辞かと思う。この「春かけて」は、冬から春にかけてと解するのが通説であるが、心にかける意に解される可能性は十分にある。
 なお、「夏かけて」は、夏を兼ねてと解する説もある。あるいはまた、夏を含めての意で、夏このかたずっと今にまでひきつづいて、ほどの意か。

 季語は「名月」で秋。前書の「残暑」も秋の季語。「暑さ」・「涼み」は夏の季語。

    「今年の仲秋の名月は、残暑なお去りやらず、まるで夏を思わせるような
     暑さで、この月見の座も、一方で納涼の趣があることだ」


      愛といふ粒ぎつしりの葡萄賜ぶ     季 己

義朝の心

2010年09月20日 21時47分42秒 | Weblog
        義朝の心に似たり秋の風     芭 蕉

 『野ざらし紀行』に、
        大和より山城を経て、近江路に入りて美濃に至る。今須・山中を
        過ぎて、いにしへ常盤の塚有り。伊勢の守武が云ひける、「義朝
        殿に似たる秋風」とは、いづれの所か似たりけん。我も又、
 とあって出ている。

 「義朝の心」および「秋の風」の本質的な気分の把握を志向している点は、守武の作とははっきり別の世界へ足を踏み込んでいるものといえよう。
 しかし、「秋の風」は、いまだ多分に比喩的に使われており、「似たり」というあたりもまだ純粋な直接的表現にはなりきっておらず、その点、後年のものとは異なる。

 「今須(います)・山中」は、今の岐阜県関ヶ原にある。
 「常盤(ときわ)の塚」というのは、義朝の妾常盤御前が、山中で殺されたという伝説があるのによる。
 「守武の句」は、『守武千句』に、「月見てや常盤の里へかかるらんーー義朝殿に似たる秋風」とあるのを指す。この付合は「月」-「秋風」、「常盤」-「義朝」と応じた物付で、滑稽をねらったものである。自ずと成ったものは心うたれるが、ねらったものはイヤラシイ。
 紀行文の「いづれの所か似たりけん」というのは、義朝と秋風とどこが似通っていたのであろう、というのであって、「我も又」といったのは、守武の句に対して、自分もまた両者の似ていることを詠もう、の意で言ったものである。そして芭蕉の句は、「心」を指摘することによって、単なる滑稽を越えた詩の世界を築き上げたのである。

 「秋の風」が季語。

    「秋風が蕭条と吹き渡っている。この感じは、あの義朝が保元の乱に一族が滅し、
     そのあげくは平治の乱に破れて、ひとりこのあたりに落剥の身を隠し、ついに
     尾張で家人に殺されるに至った心と、どこか一脈、似通った感じである」


      敬老の日を母とをり花芙蓉     季 己

蒔絵書きたし

2010年09月19日 22時32分54秒 | Weblog
        あの中に蒔絵書きたし宿の月     芭 蕉

 『更科紀行』本文に、
        「いでや、月のあるじに酒振舞はん」といへば、盃持ち出でたり。
        よのつねに一めぐりも大きに見えて、ふつつかなる蒔絵をしたり。
        都の人は、かかるものは風情なしとて、手にも触れざりけるに、
        思ひもかけぬ興に入りて、せいわんぎょくしの心地せらるる所がら
        なり。
 とあって掲出。貞享五年(1688)八月作。

 月に蒔絵をしたいという感じは、前文がないと少し唐突で、ことさらめいた風流が感じられる。しかし、都の人なら手に取りそうもないふつつかな蒔絵の盃を傾けている際であるから、酒興に乗じて、その盃の縁で、あの月に蒔絵をしたらと思いつくことはさして不自然ではない。「宿の月」といったのは、そうした田舎の家を感じさせるための配慮なのであろう。要するに、酒興にはずんだ即興の句と見てよい。

 「蒔絵」は、漆で絵を描き、金や銀の粉を蒔きつけ、乾かしてから磨いて光らせるもの。高蒔絵・梨地・研出(とぎだし)などの種類がある。
 前文の「せいわんぎょくし」は、青い碗と玉のように美しい盃。

 季語は「(宿の)月」で秋。この月の扱い方は、談林の見立てに似た手法であるが、ここではもっとずっと虚心の興じようなのである。

    「空に明るく澄みきった月がある。じっと見ているとどこか盃に似た形であり、
     あまりに明るいあの月に、ふと蒔絵でも描いてみたいと思った」


      昼月や根津のたいやき売切れて     季 己

多すぎて

2010年09月18日 22時41分28秒 | Weblog
        榎の実散る椋鳥の羽音や朝嵐     芭 蕉

 初期の作であれば、椋鳥(むく)の羽音に朝嵐を感ずる、という比喩的な句意となるところだが、元禄期の作とすれば、実景を詠んだものとしなくてはならない。
 さわやかな秋気を感ずる句であるが、材料が多すぎて、心にじかに迫る力には乏しい。
 『蕉翁句集』には、元禄六年の作とある。

 「椋鳥」は、椋(むく)の実を好んで食べるのでこの名があり、小鳩ぐらいの大きさで群棲する。体は灰色で、頭上に白毛を交えているので、白頭翁(はくとうおう)の名もある。翼をせわしく羽ばたいて直線的に飛び、群の羽音はジャーッというすさまじいものである。この騒音・糞害のひどい新松戸・我孫子の駅前は、テレビのワイドショーなどで盛んに取り上げられている。

 季語は「榎(え)の実」で秋。榎は夏に花をつけ、秋に小豆ぐらいの球状の実を結び、熟すると黄赤色を呈する。「椋鳥」も秋の季語である。

    「榎の実がはらはらとこぼれ、椋鳥の群の羽音がひとしきりざわめいて聞こえる
     その時、それらをつつんで秋の朝の嵐が、冷ややかに吹き過ぎたことだ」


     駅前のポスト塗りたて椋鳥群るる     季 己

観念の句

2010年09月17日 22時34分27秒 | Weblog
        僧朝顔幾死に返る法の松     芭 蕉

 僧・朝顔の上に幾たびも変遷する姿を見、それと対比して松の永久の姿を讃えたもの。
 しかし、対象をそのものとして純粋に生かすことをせず、予測された観念にしたがって詠み出しただけの句のように思える。そのために、感合滲透の深みを欠いた作に終わってしまったもの。
 『野ざらし紀行』に、
        「二上山(ふたかみやま)当麻寺(たいまでら)に詣でて、
         庭上(ていしょう)の松を見るに、およそ千歳を経たるな
         らむ、大いさ牛をかくすとも云ふべけむ。彼(かれ)非情
         といへども、仏縁にひかれて、斧斤(ふきん)の罪をまぬ
         がれたるぞ幸にしてたつとし」
 とあって出ている。貞享元年作。

 「僧朝顔」は、僧と朝顔と並列にとるのが通説。並列でなく、僧は朝顔のごとくはかない意ともとれるが、ここは通説に従っておく。
 「法(のり)の松」は、伐られることなく生きつづけている老松を、仏法の縁でこういったもの。
 なお紀行文中の「大いなる牛をかくす」および「斧斤の罪」云々は『荘子』によったもの。
 「非情」は、草木などの心なきもの。
 「斧斤の罪」は、斧で伐り倒されること。

 季語は「朝顔」で秋。松に対比して、はかなさを強調して用いられている。

    「当麻寺の庭上に、老松が千年の齢を重ねてそびえている。思えば、
     この寺の僧は、幾度生死を重ね、また、この松のあたりに這いまつ
     わっている朝顔は、さらに命はかなく幾度咲きかわったことであろ
     う。それらのはかなさにくらべ、この老松は仏縁を得ることによっ
     て、伐り倒されることもなく、仏法の永遠を象徴するかのように、
     長寿を保っていて、まことに尊いことである」


      点滴の延びてあさがほ瑠璃紺に     季 己

我が句を知れや

2010年09月16日 21時07分14秒 | Weblog
        旅寝して我が句を知れや秋の風     芭 蕉

 旅寝によって、秋の風の深く身に沁みる趣を解し得た。そうして成った自分の句を、人にも旅寝を味わった上でわかってもらいたい、と呼びかけた発想である。
 芭蕉の俳諧は、生活の余技としてのそれではない。芭蕉は、生活は生活として営み、俳諧は俳諧として営んだという人ではなかった。身心一如、旅を通し、旅を生活し、その中に俳諧を生活しぬいたのである。そういう俳諧の心を、やはり、行ずることによってわかって欲しかったものであろう。

 『野ざらし紀行絵巻』の真蹟跋に、
       「此一巻は、必ず紀行の式にもあらず、ただ山橋野店(さんきょう
        やてん) の風景、一念一動をしるすのみ。ここに中川氏濁子(じょ
        くし)、丹青をして其の形容を補はしむ。他見恥づべきもの也」
 としてこの句がある。濁子は大垣藩士。

 季語は「秋の風」。実感が身にひびき、それが契機となって、我が句について述べている発想である。取合わせて置いたものではない。

    「秋風が身に沁みわたる旅寝をして、自分の句は成ったものである。
     人々よ、旅寝をして、この秋風の身に沁む境涯を味わって、我が句
     を知ってもらいたい」


      秋の風しばし薬師のふところに     季 己