壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (58)自然への愛情

2011年03月31日 20時44分55秒 | Weblog
 南北朝時代の話に、こんなのがあります。

     だいたい、花や月の句を懸命に取りこぼすまいと、無理に願う人があるが、全く
    意味がないと思う。
     ただ、用語表現がうまく詩情が豊かであれば、詩的な風物のない句でも点は入る
    ものだ。表現力の不足を景物で補い、飾り立てて点を多く取ろうとして、こうした
    花や月などの景物を好んで付けるのは、返す返す見苦しいことだ。
     ある人が、「花の句は最も難しい。百韻にさえ、一句も得がたい」と言っている。
    このことは十分考慮すべきである。
     幽玄な景物を素材に取りながら、荒々しい言葉や表現で汚すことは、とても痛ま
    しいことである。
     また、点を取ることに無理に執着すべきでなく、もっぱら句柄の良さを求めるべ
    きである。点は、まったく下品でいやらしく、きっちり前句に付け合った句に集ま
    り、幽玄で優美な句が、点にもれることは、いつものことだ。
     ただ風体を優先に考え、勝負を好んだり、こだわったりすべきではない。そう覚
    悟しておれば、将来はきっと点が入るはずである。 (二条良基『僻連抄』)

 月花の諷詠が、連歌の中心をなしているのは、ずいぶん古くからのことでしょう。
 上記の、点を多く取るために、月花の句を争って求める話は、月花の句がもてはやされるあまりに生じた、弊害の一例だと思います。
 これに対して、「花の句は最も難しい。百韻にさえ、一句も得がたい」というように、これを慎重に扱おうとする風潮が生じ、それがいつの間にか、月花の句は、特定の人しか詠むことのできないようなしきたりを、形づくったものと思われます。

 ところで、心敬がこの話を引いた真意は、どこにあるのでしょうか。
 景物としての月や花には、平安朝以来、何世紀にもわたる、風雅人たちの深い自然愛が、結晶しているはずです。そうした深くて広い自然への愛情が、集中的に表現されていてこそ、月花の句の生命があるのです。月や花を詠むこと自体に、価値があるのではないのです。
 そういう肝心なことを忘れ、月花という言葉を貴重品あつかいにして、高位の方や長老の前にだけ奉る、というようになっては、本末転倒もはなはだしい、と心敬は言っているのです。

 連歌は、詩情の有無が第一条件です。はなばなしい景物で飾り立てても本物ではなく、あくまで句柄の気高く、格調高い句作を心がけるべきです。つまり、〈こころ〉が第一ということです。先天的に詩心を持っている人は、その独創的な詩情によって、句風が非常に魅力的です。

 俳句は、“自然への愛”をうたいあげるものです。
 自然の表情や季節の変化を、自分の思いのこもった言葉にして、歌いあげるものなのです。月や花や雪はもちろんのこと、雨や風、空や雲、虫や魚や鳥などについて、何気ない、けれどもなにがしかの発見、驚きのつまった言葉で表現するのが、俳句だと思います。
 「今、自分はここに生かされているのだ」という“思い”を“切実な言葉”で、うたいあげたいものです。

 秋の月・春の花・冬の雪は、「雪月花」という言葉があるように、俳句においても、昔から非常に多く詠まれています。それらの中から、私の好きな句を二句ずつあげておきます。

         月天心貧しき町を通りけり        与謝蕪村
        子規逝くや十七日の月明に        高浜虚子
        光陰のやがて淡墨桜かな         岸田稚魚
        さきみちてさくらあをざめゐたるかな   野澤節子
        いくたびも雪の深さを尋ねけり      正岡子規
        雪に来て美事な鳥のだまりゐる      原 石鼎



      言霊が花の吉野にあくがれて      季 己    

「俳句は心敬」 (57)月花雪の句

2011年03月30日 22時40分59秒 | Weblog
        ――どこの連歌の席でも聞くことなのですが、一巻のうちに月や花や雪のよう
         な景物の句を詠むのを重大なこととして、間違っても、会席の末座に座る
         未熟者や、世間的な地位に恵まれない者が詠んではならない、という風潮が
         見うけられますが、如何なものでしょうか。

        ――それは、近頃の似非(えせ)風流人の言い出したことで、先人は決して
         そのようなことは言っていない。
          今は亡き二条良基公が主催された、公卿や殿上人中心の千句連歌会に
         おいても、当時、末座の若輩者であった周阿法師が、花の句を三十句も詠
         んだといわれている。これは身分不相応なことではなく、当時は、句の良し
         悪し、つまり、句の実質を重んじて決めていたからなのであろう。

          歌の題を作者に配るに際しても、上座に座る高位の方や長老などといって、
         月花雪の題を差し上げるということはなかった。このほか、祝賀などの句
         でも、上席長老の方には願わないものであったのを、追従(ついしょう)
         を旨とする連歌師たちが申し習わしたことで、道のあるべき真実の姿は、
         廃(すた)れ失せたというべきだ。

          仏法を修行するにも、教典の語句の解釈、詮索に力を注ぐ人もあり、教理
         の精神、真理を探究する人もある。
          月花雪のような四季の代表的な景物ばかりに固執する連歌師は、風雅へ
         の道に至る一時しのぎの便法のようにしか思われない。

          未熟の者は、とかく文章表現に熱中し、悟りを得た者は、精神・真理を問
         題にする。
          章句は仏の教え、説明であり、意は仏の心理・法である。その教説は仮構
         であり、真理は実相であるといわれる。

          我々の心識の外に法・真理があると観ずれば、その迷妄のために生と死
         の世界に輪廻し、心と法が同一、真理即ち心識と覚悟すれば、生も死も超
         越して同一となり、悟りが開けるといわれている。
          一度、その一心の根源を究めつくせば、永久に生と死から超越することが
         できる。もろもろの因縁によって、この世に出現された報仏は、いわば夢の
         中に現れる権化の幻想に過ぎないものである。
          そうではあるが、修行の基本的な三つの方法のうち、定学・恵学の方法に
         よる心の表現をなし得ない歌仙は、真実の先達ではあり得ないのではなか
         ろうか。 (『ささめごと』月雪花の句)


      沈丁花 吾が咳すれば母もまた     季 己
          

畑打つ

2011年03月29日 22時44分19秒 | Weblog
        畑打つ音や嵐の桜麻     芭 蕉

 属目の吟であろう。
 冬の間休んでいた畑を、彼岸の頃から八十八夜にかけて、いろいろな作物の種を蒔くために打ち返すことを、「畑打(はたうち)」という。
 この畑打つ音を耳にしつつ、芽生えて間もない桜麻に眼をとめているのである。
 「音や嵐」と「荒し」という縁語的な発想が、この句を弱くしていることは否めない。けれども、繊細な感受力が働いている点は、評価すべきであろう。
 「畑打つ音や嵐の」が、桜麻を修飾するかたちになっているが、「や」・「の」の助詞の使い方がなかなか微妙なものを持っている。この点も学びたい。

 「桜麻」は麻の名。この名は、桜の咲くころ種を蒔くからだとも、また、麻の花が桜に似ているからだともいわれている。別に、桜麻とは、麻の雄花のことだともいわれる。

 季語は「畑打つ」で春。ここでは「嵐」と見立てられ、縁語的に桜麻に結びつけられている。

    「畑打つ音がしきりにしている。あたりの畑には、桜麻の芽が生えはじめているが、
    風に吹きなびくさまを見ていると、この畑打つ音が、桜の花を吹く嵐とも聞きなされ
    てくる」


      不慮といふ言葉たたみて菊根分     季 己

けふも有り

2011年03月28日 21時19分04秒 | Weblog
        春雨や暮れなんとしてけふも有り     蕪 村

 厳密に言って、この句には、なんら特殊の内容は存在しない。存在するのは、日本人独特の季節的哀感である。春雨の日暮れに、日本人のことごとくが、わけもなく胸に抱かされるあの甘い悲哀の情調である。

 このような日本人のだれにでも共通な季節的情調を、自己の作品中にあって極度に美化し純化して、文芸の美として再生させようとするのが、蕪村の「季題中心主義」の眼目であった。
 しかも温雅な人柄の蕪村らしく、「春雨」「朧月」「暮春」などの季題において、この意図がことに渾然たる成果を得ている。

 この句は決して、「けふも暮れなんとして有り」ではない。それでは事実の報告に過ぎない。
 「けふも有り」と、こうして暮れなんとする今日のただいまの情調を基点として定め、回想によるきのう、おととい、さきおとといのそれと打ち重ねて強く意識しているのである。
 この句の初案と思われる「春の雨日暮れむとしてけふも有り」が、懐紙として残されている。比較をすれば、蕪村がいかに言葉と音律に敏感であり、その点に絶えざる推敲の苦心をはらっていたかが知られるであろう。

 季語は「春雨」で春。

    「絶え間なしに降りつづけながら、春雨の中にいつしか今日という日も暮れはじめ
    ようとしている。思えば、きのうもおとといも、これと同じような日暮れであった」


      我ができることに励まん初桜     季 己

「俳句は心敬」 (56)心の艶④

2011年03月27日 22時43分04秒 | Weblog
 ところで、風雅の道の奥義を極めんがためには、艶を主として修業しなければならないのですが、艶とは何かということが問題です。
 心敬は、姿・詞の優美な句を指すのではなく、「人間の色欲がうすく、無常観に徹し、人の情けを忘れず、報恩のために一命を軽くする人」、の句にしてはじめて、艶だというのです。すると、艶の本質は、宗教的、道徳的性格にあるのでしょうか。

 心敬の著作中の用語例を調べた菅基久子氏は、『ささめごと』における「えん」の意味内容を、つぎのように述べておられます。

     道徳性および宗教性の有無に関係なく、(1)切実・真剣で真摯な自然・人間・
    真理・歌句との対峙を「えん(なり)」または「えんふかし」と言い表していること、
    (2)清浄な恬淡とした境地、それゆえに(1)の対峙が可能な境地を「えん(なり)」
    と言い表していること、(3)(2)の境地から生まれる歌句を「えん」と言い表して
    いること等が明らかになったと思う。そしてこれらの考察の結果から導き出された
    「えん」の意味するところは、つきつめれば「真」であり「浄」であると言ってよい
    だろう。 (『心敬 宗教と芸術』 P244)

 艶の本質はやはり、王朝的な優美を中心にしていると見るよりほかはなく、この場合といえども例外を示すものではありません。
 心敬はただ、姿・詞ばかりの優美さを否定しているのであって、優美そのものを否定しているのではありません。心底からの優美に、さらに「真・浄」を徹底的に真摯に目指す、心の錬磨を要求しているのです。
 つまり、中世的な人間として、最も深い自省の上に立ち、「真・浄」を目指す真摯な生き方をしている人間の心を、心敬は「えん(艶)」と感じたのです。
 心敬のいう艶は、そういう人格的な光で清められた、優美な感情そのものに他ならないのです。
 定家・家隆は「歌作り」、慈鎮・西行を「歌詠み」と仰せられたという話は、そういう立場から解さなければなりません。


     芽吹く夜の抗癌剤の白さかな     季 己

「俳句は心敬」 (55)心の艶③

2011年03月26日 21時10分23秒 | Weblog
 つぎに、心敬の「冷え」について見てみましょう。

        水青し消えていくかの春の雪
        朝すずみ水の衣かる木かげかな
        山深しこころにおつる秋の水
        日を寒み水も衣きるこほりかな

 以上は、いずれも心敬の句ですが、心敬の「冷え」は、四季にわたる水についての、心敬自身の感覚から出てきた情趣がもとになっています。

 「水青し」は、春の雪解け水に心の安らぎをおぼえた、と見てよいでしょう。
        降積みし高嶺の深雪解けにけり
          清滝川の水の白波        西 行
        ちくま川春行く水は澄みにけり
          消えていくかの峯の白雪     順徳院

 の両歌を見れば分かるように、心敬は、水の清澄さの中に、西行・順徳院の歌の面影を見ているのです。

 「朝すずみ」は、清水あるいは泉のほとりにおいて、いつまでも佇(たたず)んでいたいような、冷ややかな気分を感じとったのです。「水の衣(きぬ)」は、「うす氷」のことです。
 心敬は、氷を最も艶なるものと考えていました。ですから、この気分は、本当に美しいものとなるのです。

 「山深し」は、静かな山の、秋の水の冷え冷えとしたものに心を澄ましていると、わが胸のうちまで、水と同じく清々しいものとなってくる、ということでしょう。
 秋の水の「冷々清々」とした情趣が、そのまま作者心敬の姿形と同じであるということになります。ここに心の冷えが認められます。
 水と心との等質的な面を、水の性質に即して、「こころにおつる」と表現したものだと思います。

 「日を寒み」は、「うす氷」を詠んでいますので、情趣としての「冷々清々」で、これも艶となります。
 なお「日を寒み」は、「日が寒いので」という意味で、「寒み」の「み」は、原因・理由を表します。

 心敬の、この水への志向は、中国唐代の詩人の影響によるものと思われます。そして、「冷え」として実を結んだ過程には、吉田兼好などの伝統的な風雅観と、仏教徒としての心敬自身の仏教観が加味されているはずです。
 心敬の「冷え」は、水についての情趣から、心の姿、文学作品や風体にまで拡がっていますが、これらの内包するものは、根本的にはみな同じなのです。
 そして面白いことに、芭蕉の『おくのほそ道』は、読めば読むほど、「水」のイメージが強くなってくるのです。
 芭蕉は、「古人の跡をもとめず、古人の求めたるところをもとめよ」と言っていますが、芭蕉の求めたるところの一つに、水のイメージがあったのではないでしょうか。『おくのほそ道』の隠されたキーワードは、「水」ではないか、などと勝手に思っております。


      またひとり笑みがこぼれて水温む     季 己

「俳句は心敬」 (54)心の艶②

2011年03月25日 16時07分52秒 | Weblog
 艶というのは、古くからある言葉で、現代語にすれば「なまめかしい」とか「色っぽい」とかいうことになります。けれども、艶の表す意味合いは、そんな単純なものではありません。
 艶は、ある美的価値を表す言葉として、平安朝以降の歌論や物語、日記、随筆などにおいて、広く頻繁に用いられてきました。しかし、その際、特に道徳性や宗教性と結びついた意味内容を持つことはありませんでした。
 この艶に、道徳性や宗教性を付与して、〈心の艶〉を説いたのが心敬なのです。心敬はしずかに説きます。
     「艶(えん)」は歌句の姿や詞(ことば)の上に表現された優雅な美ではない。
    執着がなく、世間の無常を深くさとり知り、強い報恩の心を持っているような、
    澄浄な境地から生まれた句のことである。

 と。

 心敬は、「枯野の薄、あり明の月」を解して、「これは言はぬ所に心をかけ、冷え寂びたるかたを悟り知れとなり」と言っております。
 また、信明の「ほのぼのと有明の月の月影に紅葉吹きおろす山おろしの風」については、「これも、艶にさしのび、のどやかにして、面影・余情に心をかけよ、といふなるべし」と言っております。
 これは、別々の風趣について述べているのではなく、至極の境地は、この両者の交錯するところにある、と言っているのです。つまり、言外の妙趣は、句姿の上に面影となり、余情となって感じられなければなりません。そしてそれは、冷え寂びた風趣でなければいけない、と言うのです。
 しかし、ここで「冷え寂び」というのは、冷厳一徹ということではありません。
 艶なるものを追求してやまない精神が、虚飾を削って削って削り去り、その後に残った、清く厳しく静寂な趣を帯びている〈もの〉を指すのです。

 自らの心を艶にするには、執することから自由にならなければなりません。
 故・高田好胤師が言うところの、
       かたよらない心
       こだわらない心
       とらわれない心
       ひろく、ひろく、もっと広く
       これが般若心経“空”の心なり

 という心境が、自らの心を艶にする方法の一つだと思います。

 心にひびく作品に出逢うと、手元に置きたくなる私には言う資格はありませんが、物欲にも色欲にも淡くならねばなりません。
 飛花落葉の無常を、無常のままに「あはれ」と見るためには、ひとたびは自らを空無に帰すべきで、そこから色世界の色に執することなく、ありのままに見ることができるのです。
 空(くう)によって濾過(ろか)された色(しき)は、おのずから冷え寂び、寒く清げなものになるのです。


      卒業の歌かなしみのなかとほり     季 己

「俳句は心敬」 (53)心の艶①

2011年03月24日 15時41分10秒 | Weblog
        ――昔、歌仙にある人が、「歌の道をば、どのように稽古修業すべきで
         しょうか」と尋ねたところ、「枯野の薄、あり明の月(地には枯野の薄が
         乱れ、空には有明の月がほの白い)」と答えたという。
          これは、表現されないところに心をつかい、苦心して、冷厳・閑寂に
         徹した余情を悟り知れ、ということである。
          歌・連歌の道で最高の境地に入りきった作家の風雅には、この冷え
         寂びた趣・面影がうかがわれる。
          だから、「枯野の薄」といった句にも、言葉の縁で付けるのではなく、
         同じ心境を象徴している「あり明の月」という句で、付けることがある。
         この自覚修業のない人には、こういう付け味は、とうてい探り得ないで
         あろう。

          また、昔の賢人が歌を教えるのに、この歌を心に銘記して歌を工夫
         しなさい、と言ったという。その歌とは、

             ほのぼのと有明の月の月影に
               紅葉吹きおろす山おろしの風     源 信明


          これも、艶麗にのびのびとして、のどやかに、歌から感ぜられる情
         景や、表現されたもののほかに感ぜられる情趣に、心を用いよ、とい
         うことである。

          歌の道に入ろうとする者は、まず艶という情調を主として稽古修業
         すべきである、といわれている。
          艶といっても、必ずしも句の姿とか、言葉の優美さ、華やかさをいう
         のではない。胸のうちが清らかで、物欲・色欲などにも淡く、何ごとに
         つけても、この世のことは全て無常と思い定め、何ごとにもこだわらず、
         他人から受けた情愛を忘れず、その人の恩には、自分の命をもかえり
         みず尽くそうと思っている人の、心の底から生まれ出た句を、艶という
         のである。
          美しく見せようと、うわべだけを飾った連中の句は、風姿・表現は優美
         であっても、この道の奥深い境地に至った人の鑑賞眼から見れば、虚妄
         が見えるだけなのだ。句の心が清かろうはずはない。
          だから、古人の名歌や自讃の句などに、表現修辞を飾り、華やいだも
         のは稀にも見えない。
          ことに上代、つまり『万葉集』の歌などは、勢いがよく厳しいことを主と
         していたので、後世の低俗な鑑賞眼からは、秀逸な歌を見分けることは
         難しかろう。
          あの有名な定家や家隆のような歌仙でさえ、歌作り、と仰せられたという。
         慈鎮や西行こそ、真実の歌詠みだ、と仰せられたという。
                             (『ささめごと』心の艶の修行)


      しやぼん玉 地異のいたみに彩変へぬ     季 己

「俳句は心敬」 (52)幽玄体④

2011年03月23日 14時59分27秒 | Weblog
 では、心敬の幽玄の歌とは、どのようなものでしょうか。その例歌で検討してみましょう。

        秋の田のかりほの庵の苫をあらみ
          わが衣手は露にぬれつつ     天智天皇

 天智天皇の歌は、『百人一首』にもある有名な歌ですが、天智の作ではありません。しかし、天智作ということに、かなり古い時代からなっていたのは、この歌を、天智が農民の労苦を思いやってうたった歌と見なしたからでしょう。心敬もそこに感動を覚え、幽玄と見たのです。

        ささの葉はみやまもそよに乱るなり
          われは妹おもふ別れきぬれば     人 丸

 この歌は、人麿が妻に別れて石見国より上るときの歌で、妻と別れて旅立つ直後の、心の奥にわき起こる、やるせない恋慕の情を幽玄と見たのでしょう。

        わびぬれば今はた同じ難波なる
           みを尽くしても逢はんとぞ思ふ    元良親王

 これも『百人一首』所収の歌で、激しい恋の思いを歌いあげた一首ですが、背後には自分の恋を、いわば客観的に眺め、悲壮感をいっそう鮮やかに定着しようという心の動きも感じられます。このあたりを心敬は幽玄と見たのでしょう。

        わすれなむ世にも越路のかへる山
          いつはた人に逢はんとすらん     伊 勢

 伊勢の歌は、遠くへ旅立つ者が、離別に際していだく都恋しさと、別れた都人に自分が忘れられたくないという、切実な情を幽玄と見たものと思います。

        山里を霧のまがきのへだてずは
          をちかた人の袖は見てまし     曽禰好忠

 人の来ない山里。せめて遠くを行く旅人でも見て慰もうものを、それさえも霧が無常に隠してしまう。それを嘆く、愛惜の情を幽玄と見たのでしょう。

 幽玄体の例歌をあげたあとで、心敬は、「心・言葉すくなく寒くやせたる句のうちに、秀逸はあるべし」と述べています。
 つまり、「句の内容が盛りだくさんではなく、言葉も簡潔で、寒いような感じのする、ひきしまった句の中に、秀逸な句がある」というのです。
 心敬の理想とした歌は、しみじみとした情趣が、人間の精神の中核に染み入るような趣を持っているような歌と考えてよいと思います。それは同時に、心敬の理想とした句が、いかにあるべきかをも示しているわけです。

 ちなみに、「しみじみとした情趣が、人間の精神の中核に染み入るような趣を持っている」作品を生み出す画家は、菅原智子さんだと思います。
 先日、東京銀座の「画廊宮坂」で開かれた『菅原智子個展』で、「幽玄」の世界にどっぷりとつからせていただきました。その中で特に三点の小品に、強く幽玄を感じ、手元に置くことにしました。菅原さんの作品には、心敬のいう幽玄、「おもいやる心・恋慕の情・悲壮感・切実な情・無常・愛惜の情」などが感じられ、惹きつけられずにはおられません。


      芽吹かんとする心あり地震(なゐ)つづく     季 己

「俳句は心敬」 (51)幽玄体③

2011年03月22日 22時23分39秒 | Weblog
 どういう「もの」、どういう「ことば」を選ぶかは、その人の心の問題です。
 そういう意味で、俊成は、詞(ことば)の選択にきわめて細心敏感でした。一語が、その辞書的概念的な意味のほかに、不思議な陰影や、複雑微妙な感覚までも伴うということは、実は、どのような語を一首のどこに、どのように定着させるかによって決まる場合が多いのです。
 
 俊成は『古来風体抄』において、在原業平の

           やよひのつごもりのひ、雨の降りけるに
           藤の花を折りて、人につかはしける
        濡れつつぞしひて折りつる年の内に
          春はいくかもあらじと思へば


 という歌に対して、
 「しひてといふ詞に姿も心もいみじくなり侍るなり。歌はただ一言葉にいみじくも深くなるものなり」
 と、「詞」に対する芸術的認識の深さから醸し出された至言を放っています。
 しかし、この至言の意味はもちろん、「しひて」という単語の、単語としての「いみじさ」を言っているのではありません。
 この歌の主人公は、すでに春の日数も残り少なくなったので、今日はその春の名残の藤の花を、ぜひとも相手に贈りたいと思っていたのです。ところが、折悪しく雨が降っています。
 「この春の名残として、あなたのために雨に濡れることもかえりみず、いま手折った藤の花です。どうか私の好意を受け取って欲しい」
 そういう主人公の唯美的なこころざしの深さや、ひたむきな姿勢までが、この「しひて」の一語の定着によって、いみじくも具象化されているのです。したがって、それはもはや「しひて」という単語のみの「いみじさ」ではなくて、一首全体の「いみじさ」なのです。
 一語が、一首全体の構成分子として、一首の表現を完成した後は、その一語はすでに、一首全体の有機的な詞づかいなのです。そして、その詞づかいはすでにまた姿として享受されるのです。

 俊成は、心・詞・姿の三方面からみて、かぎりなき歌として、紀貫之の、

        むすぶ手のしづくににごる山の井の
          あかでも人に別れぬるかな


 をあげ、「歌の本体はただこの歌なるべし」と絶賛しております。
 「むすぶ手のしづくににごる山の井の」という序の潜在的実感が、飛躍的に「あかでも人に別れ」た心想と照応し、融合するところに、まず、艶にも幽玄にもある余情的情趣が、醸し出されるのでしょう。
 もちろん、そこには「しづくににごる山の井」を背景として、「あかでも人に別れ」た人の余情的面影までが、彷彿として浮かんできます。
 さらに言えば、この歌全体の声調は、一種の歌謡的リズムまでもそなえているようであり、それがまた、この歌の抒情内容を適切微妙に支えているように思われます。

 俊成はまた、在原業平の、

        月やあらぬ春や昔の春ならぬ
          我が身一つはもとの身にして


 についても、「かぎりなくめでたきなり」と賞嘆しております。
 
 「むすぶ手の」にせよ、「月やあらぬ」にせよ、いずれも物語の一場面を思わせるような情趣的景気面影が、論理的な意味の詮索をのりこえ、微妙な音感や調べにも助けられて、何となく艶にも「あはれ」にもてんめんとして無限に拡がっていく、というような歌です。
 こういう歌が、とりもなおさず俊成の幽玄の歌であり、俊成のいう歌の極致でもあったのです。
 これを俳句にたとえれば、「自分が感動した一場面を、何の論理的な意味を持たせず、微妙な音感や調べにも気を配り、抒情てんめんと拡がる」句とでも申せましょうか。


      廃棄とは 菠薐草の茎真つ赤     季 己
 

「俳句は心敬」 (50)幽玄体②

2011年03月21日 22時21分50秒 | Weblog
 中世の文学において、最も重んぜられた美意識に、幽玄があります。その幽玄の風体は、連歌においては、どのように考えられていたのでしょうか。
 心敬は、古人の言を引いて、「いづれの句にもわたるべき姿なり。いかにも修行最要なるべし」と言っていますので、非常に重視していたであろうことは明らかです。
 しかし、心敬のいう幽玄は、ただ歌の姿や、句ぶりの優美なのを意味するのではなく、心の艶なのをさしています。
 心の艶とは、作者の心構え自体が優美なのを意味し、そういう優美な心の持ち主になって始めて、風姿の優美な和歌や連歌を詠み出しうる、と言うのです。

 幽玄が美として、あるいは文学の様式として確立されるようになったのは、十二世紀半ばごろで、主に藤原俊成の手によってです。
 俊成の幽玄は、源氏物語美の流れに属するもので、いわば、象徴的暗示的余情主義ともいうべきものでした。これは、詠歌内容としての、ことばでは何とも説明しにくい気分や情趣を、具象的に表現するために、必然的に洗練された詞(ことば)が要求されるのです。
 その一語一語は、もはや、ただ思想や感情を概念的に伝えさえすればよいというものではありません。より微妙に、より複雑に陰影を含み、色彩や音律までも伴ったものであることが望ましいのです。

 この「ことばでは何とも説明しにくい気分や情趣を、具象的に表現する」という部分が、俳句では特に大切です。対象を見て感じたこと、驚き、発見などを具象的に表現する、つまり、「もの」で表すのが俳句なのです。自分の心を、ことばではなく、「もの」できれば「季語」に語ってもらうのです。

        長子次子稚くて逝けり浮いて来い     能村登四郎

 「ちょうし じし わかくて ゆけり ういてこい」と読みます。
 「浮いて来い」は、人形・金魚・船などを、ビニールやセルロイドなどで形づくり、水に浮かせて遊ぶ子どものおもちゃで、夏の季語です。
 掲句は、亡くなった二人の子どもらに、「この世に戻って来い、戻って来て欲しい」と呼びかけているのです。作者の痛切な気持が、季語「浮いて来い」によって見事に具象化されている、好い例だと思います。

        しじみ蝶ふたつ先ゆく子の霊か     能村登四郎

 この句には、作者の自解がありますので、次にそれを記します。

          これも恐山での句。二人の子を没している私には
          この山に子供たちの霊が住んでいるような気がし
          てならなかった。


      坂道をつぶやくごとく春の雨     季 己

「俳句は心敬」 (49)幽玄体①

2011年03月20日 22時53分20秒 | Weblog
       ――連歌の道は、いろいろある風体のうちでも、とりわけ幽玄体を心にとめて
        修業すべき道なのでしょうか。

       ――昔の人は言っておる。幽玄体は、どのような句にも全て通じる大切な歌体
        である、と。
         たしかに、修業の最も必要な風体ではある。しかし、昔の歌人たちが幽玄
        体と考えていたものと、今の大方の連中の思っているものとは、非常に違っ
        ているように見える。
         昔の歌人が、幽玄体と言っているのは、心ばせを最も重要なものとしてい
        る。今の並の風流人が理解しているのは、ただ、歌の姿・言葉の優美さのこ
        とである。心ばせが艶になることは、非常に難しい。
         人の容姿をととのえ飾ることは、誰にでもできる。だが、心の底から優美
        で、人格的にもすぐれた境地に至ることは、千人に一人、万人に一人という
        くらい難しいことなのである。

             幽 玄 体
          秋の田のかりほの庵のとまをあらみ
            わが衣手は露にぬれつつ     天智天皇

              (稲が実った田のかたすみの仮小屋は、ほんの間に合わせに苫
              を荒く葺いた粗末なものだから、その小屋で番をしている私の
              袖は、その隙間から漏れ落ちる夜露に、しっとりと濡れつづけ、
              乾く間とてない)
          ささの葉はみやまもそよに乱るなり
            われは妹おもふ別れきぬれば     人  丸

              (笹の葉が山一面にさわさわと鳴り騒いでいるわい。ああ、私
              はいま、愛しい妻と別れてきたばかり、この音を聞くにつけ、
              妻のことが思い出されてならない)
          わびぬれば今はただ同じ難波なる
            みを尽くしても逢はんとぞ思ふ     元良親王

              (噂が立ってからというもの、お逢いできず、わびしい嘆きに
              悩んでいるのですから、お逢いしてもしなくとも、今となって
              は同じこと。いまさら人目を恐れても、どうせ立ってしまった
              浮き名、難波の海の澪つくしではありませんが、この身を尽く
              し捨てはてても、お逢いしたい。逢ってください)
          わすれなむ世にも越路のかへる山
            いつはた人に逢はんとすらん     伊  勢

              (ともすれば、一度別れると人は忘れてしまいがちなこの世の
              中に、遠い越路の帰山や五幡の名のように、わたしは遠くの旅
              から帰ってきて、いつまたあの人に逢おうとするのでしょう。
              思えば、頼りなく悲しいことです)
          山里を霧のまがきのへだてずは
            をちかた人の袖は見てまし     曽禰好忠

              (この山里を立ち込めた、あたかも垣根のように隔てる霧がな
              ければ、せめて、遠くの方を往き来する人の袖だけでも見よう
              ものを、それも見られず、いよいよ寂しくてなりません)

        これらの名歌は、たやすく幽玄体の歌とは知り得ないであろう。言葉や心
        を飾らずに、さらりと詠んでいるゆえに、ちょっとした工夫だけでは、心およ
        ばないであろう。  (『ささめごと』幽玄体と至極の体)


      沈丁花なゐをさまれば香をはなつ     季 己

        ※ 「なゐ」は「地震」のこと。
         

「俳句は心敬」 (48)言い尽くさない

2011年03月19日 22時45分31秒 | Weblog
 ――三日遅れの「白日会展」初日に行ってきました。「節電」のため三日遅らせ、しかも開館時間は午前十時より午後四時(入場は三時半)まででした。
 そのため今日は「観る」ではなく「見る」になってしまいました。もちろん今日の目的は、内閣総理大臣賞を受賞した木原和敏さんの作品「Room]を凝視することだけ。
 凝視しながら「なぜ内閣総理大臣賞を受賞したのか」、その理由を探ってみました。
 その理由はやはり、「美の本質は、対象にあるのではなく、その背後の余情において暗示されるべきである」に、心至ったからではないでしょうか。
 木原さんの技術は至極の境地に達しておられるが、お若いから心は至極の境地までは至っておりません。その証拠として「タイトル」の付け方があげられます。自分の思いをタイトルで述べてしまっているのです。タイトルに「惟(おもん)みる」とあれば鑑賞者は、この作品は「何かをよくよく考えている女性像を描きたかったのか」と、強制的に鑑賞させられてしまいます。
 今回の受賞作品のタイトルは「Room」。確かに部屋の窓際にいる女性像であるから、「Room」であることは誰にでもすぐ分かります。そこで鑑賞者は考えます。部屋を描きたかったのか、いや、そんなはずはない。もっと別なところにある、ともう一度凝視すると、カーテンに気づきます。カーテンの中心より少し下に、「光」が感じられます。いわば余情であるカーテンの光が、対象の女性像の「何か」を暗示しているのです。何が暗示されているのか、受け取り方は鑑賞者の自由です。そう「みんな違って、みんないい」のです。
 今回の作品に、「希(こいねが)う」とか「春愁」とかのタイトルを付けたら、おそらく賞を逸していたと思います。美の本質は、タイトルにあるのではありません。タイトルは無愛想でもいいのです。もう一度言います。「美の本質は、対象にあるのではなく、その背後の余情において暗示されるべきである」と。

 道は一つ。俳句も全く同じです。理詰めですべてを言い尽くしてはいけません。言い尽くすから、説明・報告になってしまうのです。言い尽くさずに、言外に深い情趣や余韻が残るように、心がけることが大切です。
 それには、対象を五感で感得し、その美しさを心の中に思い返し、再構成するのです。そしてまた、対象から一歩はなれて、その雰囲気を詠むように努めることです。

 ここで、初学の頃の思い出を一つ。
 岡本眸先生に入門して、二年目に入った頃のことです。
 右膝関節炎が再発し、入院、手術をしなければならなくなりました。手術によって右足が五センチほど短くなると言われました。銭湯からの帰り道、
        手術ためらふ心責むかに寒の星
 という句をつくり、眸先生の添削を受けました。
 戻ってきた添削用紙を見て、鉄球で頭をなぐられたような衝撃を受けました。
 「責むかに寒の星」にサッと赤線が引かれ、その横に赤ペンで「励ます冬銀河」と書いてあるだけなのです。いつもは細々とコメントを書いてくださるのに…。
 その時です。眸先生の声なき声が聞こえてきたのです。
 「俳句は愛情です! 他人にやさしく、己に厳しくもいいけれど、自分を愛せないで、どうして他人を愛せるの…」と。
 大きな手術をためらっている人を、どうして責めることが出来るでしょうか。しかも、季語が寒の星です。何という冷血漢でしょう。
 それに引きかえ、添削の何と暖かくやさしいこと。
        手術ためらふ心励ます冬銀河
 天空から励ましの声が降ってくるようです。
 「責むかに」も「寒の星」も、私の実感です。ということは、そのように感じた当時の私は、冷血漢であったということです。
 同じ天上の星を「寒の星」と見るか、「冬銀河」と見るか、「心を責める」と感じるか、「心励ます」と感じるかは、その人の“こころ”の問題です。だから心敬は、「まず心をみがけ」と言うのです。

 もし、いつものように細々とコメントが書いてあったなら、きっと読み流していたことでしょう。何も書かれていないがゆえに、眸先生の声なき声が聞こえたのだと思います。
 このとき以来、「俳句は愛情!」と言い聞かせ、選んだ言葉が“愛のこころ”で裏打ちされているか、確かめるようにしています。(と書きましたが、実際はよく忘れて、こころの裏打ちのない句を作ってしまう、どうしようもない奴です)
 ところでこの句、上五が「手術ためらふ」と、字余りになっていますが、お気づきになったで
しょうか。この句の場合、字余りによって、「ためらふ」気持がよりよく出ていると思います。
 このように、上五の字余りは、あまり気になりませんが、中七の字余りは、まず成功しないので、やめた方が無難です。下五の字余りは、どちらとも言えません。


      生きていくはずのページを春寒く     季 己

「俳句は心敬」 (47)ひえ・さび

2011年03月18日 22時50分54秒 | Weblog
 中世日本の美学理念の一つである「幽玄」は、論者によっていろいろに意味が変わります。
 心敬の幽玄論は、述懐の歌・恋の歌について述べられているところに、特徴があります。

 心敬はまず、白楽天の『琵琶行』に注目します。
 これは、左遷された官吏の真情を、揚子江上に弾く琵琶の音色にたとえた詩です。つまり、耳に聞こえる琵琶の音色ももちろん哀れであるが、その音が掻き消えて、月が西の山に沈んだ瞬間こそが、声あるさまに勝るという点に、幽玄の原点を見るのです。

 つぎに、同じ白楽天の恋の詩、『長恨歌』の一節、
    春風桃李花開日  秋雨梧桐葉落時
 をあげています。
 これは楊貴妃を追慕する詩ですが、この種の風体を「幽玄体」と呼んでいます。ここでは、恋の情念は直接には詠まれていませんが、それらは余情として、行間の沈黙の中に、切々と湛えられております。

 余情・幽玄の美の理念を作品に実現するためには、出来る限り言葉を少なくし、言外に深い余情を湛えさせなければなりません。このような連歌における至極の境地をさして、心敬は「ひえ・さび・やせ」という語を用いたのです。
 「巫山の仙女の容姿や、五湖の煙水に霞んだ幽艶な面影は、とうてい言葉には表すことが出来ない」とは、どういうことでしょうか。
 美の本質は、対象にあるのではなく、その背後の余情において暗示されるべきである、ということだと思います。これは、心敬の連歌の「さび」の美学の根本でもあります。

 「さび」の美学は、俊成を始めさまざまな歌人が取り上げています。しかしそれらは、文芸上の最高の理念を表すという位置づけを持っているわけではありません。そういう高い位置を持つに至ったのは、心敬の連歌論をおいて他にはありません。
 心敬のいう「ひえ・さび」たる句を重んじる精神こそは、「まことの俳諧」を求めた芭蕉の「さび・しをり」の美学の源流にほかなりません。
 心敬は「中世の芭蕉」という方がおられますが、芭蕉は「近世の心敬」だと、私は思っております。


      癌治療うけて戻れば春の月     季 己


 ――今日は、一度の揺れを感ずることもなく、ここまで書くことが出来た。ここ数日はこのブログを書くなというように、必ず震度3の地震が起こり、中断を余儀なくされた。本日は感謝!感謝!
 本日はまだ感謝がある。抗ガン剤治療が無事に受けられたことだ。例の好中球が2830もあったのだ。ちなみに前回(2月18日)は1860であった。
 巨大地震のためか、都立駒込病院は大混雑状態であった。朝から夕方までの一日仕事?となったが、無事に治療を受けられたことに感謝!
 点滴治療を受けていた三時間、患者と看護師さんとの会話が、そこここのベッドから聞こえてきた。
 仕事で仙台にいたお兄さんは無事で、南三陸町の自宅にいたお兄さんの奥さんとご両親は亡くなったという鎌倉の方。
 茨城県から車で三時間余りかかって来られた方。
 岩手県の親類の安否がまだ分からない、という方。
 それにひきかえ、拙宅は病院まで徒歩でも40~50分で行け、親類・知人はみな無事であった。もちろん、電気、水道のない不自由な状態の方は数名おられるが……

「俳句は心敬」 (46)至極の境地

2011年03月17日 20時55分27秒 | Weblog
 俳句をすすめると、「私は言葉を知らないから」と、おっしゃる方の何と多いことでしょう。
 俳句は、言葉で美しく飾り立てたり、しゃれた言い回しをする文芸ではないのです。
 この点は、昔も今も変わらないようです。
 心敬の時代は、歌の姿、調べの良さは脇へ置き、もっぱら美しく飾り立て、技巧の限りをつくしておりました。こういう風潮に対し、心敬は、「連歌の道は、ひたすら余情・幽玄の心姿を追い求めることにある」と、力説するのです。
 真にすぐれた句の良さは、理屈をはるかに超えたところにあります。心敬のいう「幽玄」の句とは、そういう趣をそなえた句のことなのです。それは、
   1.身に沁みるばかりの深い感動
   2.句姿の上に彷彿する面影
   3.表現の外にあふれた匂い
 以上の趣を目標として、すべて理詰めに表現しきろうとしないところに生まれるのです。

 心敬が、歌道至極の境地の歌として絶賛している信明、定家や正徹の歌は、そういう理想の風趣をたたえた歌なのです。
 信明の歌は、「すぐれたる歌なれば、字の余りたるによりてわろくなりぬべきにあらず」と『詠歌一体』にあるように、かなりはなはだしい字余りの歌であるにもかかわらず、名歌とされています。
 「月の月影」「ふきおろす山おろし」という、同語反復の心地よさもさることながら、冷え寂びた風趣が、名歌といわれる所以でありましょう。
 心敬の理想とする歌は、人間の感覚力の極限で構成された歌であり、それゆえにまた、感覚世界のかなたを暗示しえた歌でもあるのです。
 一脈の艶あるがゆえに、その文学は形をとどめ、ふっと消え失せようとするそのかそけさのゆえに、寂滅の境地が予感されるのです。
 そういう点で、最も素晴らしいこの種の歌は、確かに法悦の境地に通ずるものを持っています。
 しかし、正徹はともかくとして、定家の場合には、作者自身はかえってそのことを認識してはいなかったでしょう。それを心敬は、意識的に追求していこうというのです。
   

      地獄絵の記憶まざまざ彼岸来る     季 己