壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

比丘より劣る

2011年01月31日 20時42分58秒 | Weblog
        紅梅や比丘より劣る比丘尼寺     蕪 村

 「比丘(びく)」は、出家した男子、つまり僧。「比丘尼(びくに)」は、出家した女子、つまり尼僧。
 「比丘より劣る」は、『徒然草』百六段、高野の証空上人が馬上の女をののしる語「比丘よりは比丘尼は劣り、比丘尼より優婆塞(うばそく=在俗の男性の仏教信者)は劣り、優婆塞より優婆夷(うばい=在俗の女性の仏教信者)は劣れり……」を借りて評している。
 これらの語は、仏弟子としての位置の優劣を言っているのである。
 「比丘尼寺」は、こういう名称の寺があるわけではなく、これも単に尼寺の意である。この場に合わすための蕪村の造語かも知れない。

 「比丘より劣る比丘尼寺」というやや滑稽な調子が、全体におもしろい軽味を与えるために利用されている。もし、「比丘より劣る」という言葉をもっと活かして鑑賞するとすれば、これによって寺とは名のみの、きわめてささやかな尼寺を想像することができる。
 その小さな寺が尼寺であるために、頭をまるめた者たちとはいえ、さすがに女性の住処とあれば、紅梅の咲いているのも似つかわしいかも知れないという、おかしみも添う。

 蕪村は漢詩文以外に、和文の教養も相当深かったらしく、ことに軽妙な『徒然草』は嗜好に合っていたと見える。
 蕪村があくまでも教養を基とする芸術家であって、生活そのものから直接に詩の素因を見出す類の芸術家でなかったことは、その必然のあらわれを作品の上にもさまざまの形で示している。
 この紅梅の句など、『徒然草』のひとこまを転用した技倆の軽妙さを味わう以上に、さしたる深みを求めることは無理である。

 季語は「梅(紅梅)」で春。

    「徒然草の中のあの話によれば、比丘より劣るとののしられた比丘尼の住む寺に、
     さすがに優艶な紅梅が咲いている。それがいかにも尼寺にふさわしく面白い」


      寒波来て胸中の星ちぎれさう     季 己

「俳句は心敬」 (16)熊谷守一

2011年01月30日 22時21分15秒 | Weblog
 クマガイモリカズ(熊谷守一)。私の敬愛する画家の一人です。
 彼の晩年の作品は、一見、平明で、詩心あふれた単純な童画に見えます。しかし、決して素朴な童画ではなく、眼に触れ、心に触れた対象(もの)の神髄を、平板な空間に造型するために、骨身を削るような苦心がはらわれているのです。
 花や虫を描くために、彼によって見出された決定的な鋭い描線と、その質感や色を表現するための骨太い筆触には、まさに心魂に徹する緊張感が秘められているのです。
 すぐれた俳人が、十七音の字句の中にぬりこめた無限の想いが、小さなこの画面に充満しています。そして、我々が感じるまぶしいくらいの清潔感は、俗情を絶った、彼の恬淡(てんたん)とした精神生活の反映だと思います。
 クマガイモリカズの絵は、童心が光り、稚気あふれるように見えますが、実は、厳しく激しい絵なのです。

 ところで、百人の俳人がおれば、百人の方法論があります。
 「俳句は心敬」を標榜する私は、ものが持つ色や形の奥にある、確とした「いのち」を表現するのが俳句である、と思っております。そして、その「いのち」をとらえるには、日常の精神生活を高めることが重要だとも……。

 俳句の修業とは、花鳥・自然を通して、その奥にある「いのち」を見極めることです。自然の風物に接して、熱心に凝視のうちに観入して、自己の心境が透明に澄んだ境地こそが尊いので、真の写生の意義もそこにあります。
 しかし、こんなことを初心者に言っても、わからないのが当たり前です。ものには順序があります。階段を使うかぎり、五階に行くには、二階、三階、…と、順に上らなければならないのです。

 初心のうちは、特に、次のようなことを心がけてください。
 俳句は、ものを通じて心を詠い、自然を通じて感慨を表すものです。
 日々、心を新たにし、四方八方にアンテナを張ってください。いろいろなものが見えるはずです。いろいろな音も聞こえるはずです。
 しかし、何を見たか、何を聞いたかではなく、何を感じたかを詠むのが俳句です。ここが大切なのです。
 表現は、決して飾ってはいけません。
 クマガイモリカズのような絵を描くつもりで、そして、歌をうたうようにリズムにのせて表現する。「絵を描くように、うたうように」が、俳句表現のコツなのです。


      風花や届くはがき絵アルバムに     季 己

「俳句は心敬」 (15)有心体

2011年01月29日 20時38分48秒 | Weblog
 「母ちゃん、醤油樽と“ひゃくにんひとくび”が当たったよ」と、家に飛び込んだのは、五十数年前の年末のことです。
 “ひゃくにんひとくび”とは、もちろん『小倉百人一首』のことですが、小学生の私は、そんなことは知るよしもなかったのです。

 『小倉百人一首』は、『小倉山荘色紙和歌』とも呼ばれ、藤原定家の和歌的仕事のうち、最後のものです。これらの百首は、定家が、自由に好むところを選んだようです。したがって、これによって定家の真に好きな風体が何であったかを知ることができます。
 『小倉百人一首』を、もとの歌集の部類によって部類別にすると、百首のうち四十三首は恋の歌です。この数の上にまず、定家の好みが現れていると思います。定家は、恋の歌を最も好んだのです。恋歌に最も優れているといわれる定家は、恋歌を最も好んだことが知られます。
 「恋と述懐とは有心体に詠むべし」、「有心体を最も本意と思ふ」と、述べていることなどを考え合わせるとき、恋歌を最も好んでいる定家は、同時に、有心を好んでいる定家であるはずです。したがって、老後においても、定家が有心体を最も愛していたことが考えられるのです。

 心敬は、定家が鬼拉体を最高の体と言った、と書いていますが、これは心敬の誤解でしょう。定家は『毎月抄』で、鬼拉体は錬磨の後でなければ詠めない体であることは説いていますが、最高の体だとは言っておりません。
 定家はあくまで、有心を理想としたのです。つまり、「心を重んずる」という姿の歌を尊重したのです。それでは、有心体といわれる恋歌とは、一体、どのようなものでしょうか。

        みちのくのしのぶもぢずりたれ故に
          乱れそめにしわれならなくに   河原左大臣

        住の江の岸による波よるさへや
          夢のかよひぢ人目よくらむ   藤原敏行朝臣

        わびぬれば今はたおなじ難波なる
          みをつくしても逢はむとぞ思ふ   元良親王

        みかきもり衛士のたく火の夜はもえ
          昼は消えつつものをこそ思へ   大中臣能宣

        あらざらむこの世のほかの思ひ出に
          いまひとたびのあふこともがな   和泉式部

        長からむ心も知らず黒髪の
          みだれて今朝はものをこそ思へ   待賢門院堀川


 すべてが粒よりの妖艶の歌です。有心体が妖艶の歌であることは、これらの歌を見ただけでも、疑いないことだと思います。
 また定家が、妖艶の歌の源流のごとく考えた小野小町の歌から、

        花の色はうつりにけりないたづらに
          わが身世にふるながめせしまに


 という、家宝のような歌をとり、自己の数千首の歌の中から

        来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに
          焼くや藻塩の身もこがれつつ


 という、妖艶有心の至極のような歌をとっています。

 定家が、自ら真に本意とした歌は、有心を主とした歌でした。
 しかし、当代一流の歌人でさえ、ひとりとして、その真意を解し得ないような妖艶象徴の歌は、教育的な見地から見れば、かなり危険な歌であったのです。そのような歌を、若き人たちにすすめることは、いたずらに徒労と混迷にみちびくので、ためらったのです。


      風まはり来て北風となるこよひ     季 己
 

「俳句は心敬」 (14)修行の段階

2011年01月28日 22時47分40秒 | Weblog
   ――定家卿が、和歌の稽古についていろいろ書き記されたものの中に、
      「まず、最初の二、三年は、のどやかで素直な女性の和歌を学んで、
     その後、濃やかなる体、一節の体などを学ぶべきである。さらにまた、
     長高体といって痩古・清冽の体、有心体といって感動深く詩情のこも
     った体を学び、こうした諸体を詠み募った後に、強力体、鬼拉(おに
     ひしぐ)体を学ぶがよい」
    というのがある。
     定家卿は、鬼拉体を和歌の本筋だとおっしゃったという。しかし、
    「これを最上の体と言えば、世間の人はみな、それだけを学ぶだろう。
    だが、未熟な人がそれだけを練習しては、かえって悪い結果になる」
    として、秘密になさったという。
     また、「優しいさまをした地味な句体の、のびのびした歌が秀逸だと
    心得ている人が多い。だが、それは見当違いである」と、たびたび語
    っておられた。

     和歌の道は、「詞の技巧の上に美を求めた歌と、心の上に美を求め
    た歌とを並行して学ぶべきこと」とも、卿は述べておられる。
     『古今集』の序にも、「ものの本質を表現しようとする気持が失せて、
    ただ表現の華やかさばかりに気をとられるようになってきた」とある。
     また、「人が華やかな歌を好むようになってきた」とも言っている。
     「およそ浮薄な美しさを基にしているというのは、歌の本旨を知らない
    ことである」とも言っている。
     いずれにしても、歌道の誠実のなさを非難した言葉である。
     その頃でさえ、そのようなありさまであったので、ましてや今の世には、
    歌の誠のかけらさえも残ってはいない。 (『ささめごと』修行の方法)


 この段は、心敬が、定家の『毎月抄』をひいて、和歌の修行の段階を述べたものです。しかし、定家の名を冠していますが、当時から偽書と断定されていた『三五記』の所説とを、心敬が混同しているふしが見受けられます。
 いずれにしても、心敬においては、あくまで王朝風の優美が、その歌連歌の理想であったのです。
 一方、心敬は、自己の真実を表現するのに、一点の虚偽さえ、とどめることを潔しとしない潔癖な精神の持ち主でした。だからその文学は、一見、優美な様相を示しながら、その本質は厳しく、優美なうちに峻烈な心が通っていたのです。


      初不動 護摩のほてりの貌顔かお     季 己
     

手鼻かむ

2011年01月27日 21時14分24秒 | Weblog
        手鼻かむ音さへ梅の盛りかな     芭 蕉

 「手鼻かむ音」などは、古い歌の観念では、とうてい生かされそうもない素材である。芭蕉は、和歌・連歌の詠み残したところを、広く俳諧の領域として俳諧化していった。この場合も、その大胆な取材の一つである。
 素材をひろげただけではなく、それを俳諧の世界に生かして、新しい美を開拓してゆくのが、芭蕉の意図だったと思われる。

 季語は「梅」で春。

    「郷里の伊賀は山家であるから、里人は手鼻をかむ。まことにむさ苦しい音で
     あるが、折しも梅の盛りのころとて、その手鼻かむ音にも田舎らしい趣が感
     じられてくる」


      冬日来て大観音とあそびをり     季 己

馬の糞

2011年01月26日 22時40分43秒 | Weblog
        紅梅の落花燃ゆらむ馬の糞     蕪 村

 明るい路上の真新しい馬糞に、紅梅の花が落ちたところを想定した奇想である。また、蕪村の視覚的な特性が強く発揮されているのが認められる。
 まず、紅梅という可憐なものによって、一度、完全に馬糞の不浄感を消してしまい、その後で、日の光を受けた馬糞の鮮やかな黄の色彩だけを描き出し、最後に、それによってさらに紅梅の麗しさを極度に強める――という方法をとっている。いわゆる、汚穢(おわい=糞尿)を美化する造化自然の離俗法である。

 初期俳諧の遊戯三昧の頃はともかく、芭蕉時代には、このような材料を好んで手がけることはあまり見かけない。蕪村が闊達自在に、あらゆるものを素材とする積極性がここにも見出される。唯美主義的傾向の顕著な蕪村であればこそ、かえってあらゆるものを美化しようという嗜好と欲求とが、さかんに起こってくるのであろう。
 もっとも、その美化とは、蕪村の場合、表面醜なるものの内奥に潜り入って、そこにひそむ唯一の生命を把握することによって、そのもの全体を美の限界にまで高めるものではない。配合の手段によって、強度の美を備えたものが、他のものの醜を緩和するのである。

 季語は「紅梅」で春。

    「日なたの路上に真新しい馬糞が落ちている。その馬糞の上に点々と落ちている
     紅梅の花弁は、際だって真紅に見えて、それぞれが小さな炎となって燃えだす
     かと思われるほどである」


     探梅や小さく切つて蒸羊羹     季 己

「俳句は心敬」 (13)俳句の持ち味

2011年01月25日 22時36分40秒 | Weblog
 ところで、俳句はどうでしょうか。
 俳句は、世界最小の詩形です。短いということが特徴なのですから、その短いという持ち味を生かすことが大切なのです。
 わずか十七音で、何を言うことができるでしょうか。言えることは高が知れています。どうせ何も言えないなら、言わなければいいのです。
 このことが切実にわかり、短詩型の宿命に徹しようとする覚悟ができたとき、はじめて“俳句のいのち”が見えてくるのです。
 俳句が、「沈黙の文学」とか、「物言わぬ文芸」とか言われる所以です。

 それでは、言うことを止めてしまったとき、俳句は、どのような形をとることになるのでしょうか。
 ここにおいて、俳句は、切り捨てられるものはすべて切り捨てる、という極限までの省略が行なわれるのです。余分なものをすっかり削ぎ落としたエキスだけが、俳句の姿といってもいいでしょう。
 
 さて、省略され、単純化された形によって、俳句は、どんな持ち味が生まれてくるのでしょうか。
 初心者の方は、一句のなかで、自分の言いたいことを、どうしても全部言ってしまわないと気がすまないようです。そこをぐっと我慢してみましょう。すると、その言わないで我慢した部分を、読む人は、作者がそこで何を言おうとしたのか、考えることになります。そこに連想がわき、余情・余韻が生まれるのです。
 すべてを説明してしまったら、十七音では、「ああ、そうですか。それが何だというのです」で、おしまいです。芭蕉の言う「いひおほせて何かある」なのです。
 言わないことによって生まれる連想、省略することによってただよう余情・余韻、そこに俳句の唯一の持ち味があるのです。


      鷽替へて稲荷山てふ里神楽     季 己

「俳句は心敬」 (12)捨てる   

2011年01月24日 21時21分39秒 | Weblog
 「むかし、をとこありけり」という、しゃれた心憎いばかりに洗練された書き出しで始まる『伊勢物語』の名誉の半ばは、その表現・文体に与えられるべきでしょう。
 『伊勢物語』は、主人公の名前、年齢、身分あるいは人物の容貌や服装といったこと、さらには、話の題材となった出来事が、いつどこでのことなのかについてさえ、一切言及しないのを原則としています。このことは、『伊勢物語』が、歌の成立の説明のために必要なものだけに的をしぼり、人物の名前その他はすべて無用のものとして、思い切りよく捨てていることを意味します。歌の成立に関与する要素だけを例外として、他の一切の外面的要素を捨てる道を選んだのです。
 それは出来事のありのままなる写実を捨てることでもありました。写実は文章の魅力の一つであり、可能性の一つですが、それをあえて捨てたのです。
 けれども、捨てることは貧しくなることではありません。むしろ『伊勢物語』は、外面的写実を捨てることにより、内面への肉薄という道を獲得したのです。
 登場人物たる「男・女」は、何某という社会的存在から離れて、男の心の持ち主、女の心の持ち主という、象徴的存在ともいうべき高い位置を獲得したのです。また、題材としての恋は、何某と何某との恋愛事件といったゴシップ的興味のレベルを離れて、男と女の心との間の恋なるもの、ともいうべき象徴性を獲得したのです。

 『伊勢物語』の各章段が、短く切れる文を積み重ねる手法で書かれている事実も、見逃してはなりません。むしろ、一文一文の短さは、『伊勢物語』の文章の大きな特徴というべきであり、文を短く切ろうとしているようです。
 たとえば、『伊勢物語』四段と、同じ歌について説明する『古今集』詞書とを比べ合わせてみれば、このことは一目瞭然となるでしょう。

     むかし、ひむがしの五條に、大后の宮おはしましける、西の対に住む人
    ありけり。それを、本意にはあらでこころざし深かりける人、ゆきとぶらひ
    けるを、正月の十日ばかりのほどに、ほかにかくれにけり。ありどころは
    聞けど、人のいき通ふべき所にもあらざりければ、なほ憂しと思ひつつ
    なむありける。又の年の正月に、梅の花ざかりに、去年を恋ひていきて、
    立ちて見、居て見、見れど、去年に似るべくもあらず、うち泣きて、あばら
    なる板敷に、月のかたぶくまでふせりて、去年を思ひいでてよめる。
       月やあらぬ春やむかしの春ならぬ
         わが身ひとつはもとの身にして
    とよみて、夜のほのぼのと明くるに、泣く泣くかへりにけり。(『伊勢物語』四段)

     五條の后の宮の西の対に住みける人に、本意にはあらでもの言ひわた
    りけるを、正月の十日あまりになむ、ほかへかくれにける。あり所は聞き
    けれど、え物も言はで、またの年の春、梅の花さかりに、月のおもしろか
    りける夜、こぞを恋ひてかの西の対に行きて、月のかたぶくまで、あばら
    なる板敷にふせりてよめる。
          在原業平朝臣
       月やあらぬ春やむかしの春ならぬ
         わが身ひとつはもとの身にして  (『古今集』巻十五)

 内容の量からいって、この詞書と『伊勢物語』四段とはほとんど等しい。それを『古今集』は二文にまとめ、『伊勢物語』はそれを、六文に分断しています。これは当然の結果として、『古今集』の詞書の一文一文を長からしめ、『伊勢物語』のそれを短くさせています。
 『伊勢物語』は、あえて短い文に分断して、出来事を語っているのです。短く切ることによって、『伊勢物語』の文章は、力動的な盛り上がりのある文章となったのです。
 また、『伊勢物語』の、「去年を恋ひていきて、立ちて見、居て見、見れど、去年に似るべくもあらず」は、『古今集』詞書に、ただひとつ見当たらない描写であることは、注目に値します。

 『伊勢物語』は、すべてを人物の内面にしぼりながら、直接に内面を語ることをせず、内面に深く交わるような外的行為・外的状況を厳しく選ぶ態度を取り、それに内面追求を賭けたのです。
 したがって、感情そのものを示す単語、「憎し、憂し」のような情意性形容詞の類さえも、非常に少ないのです。『伊勢物語』では、登場人物の盛り上がりを語るのに、感情そのものの直接描写に頼らず、登場人物の行為や周囲の状況だけを語る。それでいて、ありありと人物の内面が伝えられている、という点に注意しなければなりません。


      根深汁きざむ母の手おぼつかな     季 己

「俳句は心敬」 (11)修行の方法  

2011年01月23日 23時41分59秒 | Weblog
    ――和歌や連歌の道の最も深い境地にいたるには、どれほど苦心して勉強したら
    よいのでしょうか。

    ――『八雲御抄』にも、
       稽古とさえ言えば、すぐ印度や中国の学問を究めよとは言っていない。
    『万葉集』『古今集』『伊勢物語』などの、歌の心をよくよく理解すればよいの
    である。
     と書いてある。
     登場人物の振るまいが優美で、その言葉に気品があるのは『源氏物語』と
    『狭衣物語』である。こうした我が国の作品を少しも読もうとしない歌人は論外
    だ、と昔の人も言っている。
     『万葉集』をば、このごろの似非(えせ)歌人は、内容や用語が難しくて、すら
    すら理解できない歌集だと言って、読みもしない様子である。
     村上天皇の御代、源順(みなもとのしたごう)など、いわゆる梨壺の五人の歌
    人が、『万葉集』を読み解き、仮名を付けてくれたので、どんな無学の女房でも、
    愛読するものになったと言われる。種々さまざまな歌、優美な和歌が、この上も
    なくあると言われている。
     定家卿は、「寛平以前の和歌を理想にしないでは、どうして歌道の蘊奥(うん
    のう)に達し得ようか」と、常におっしゃられたという。それは『万葉集』のことで
    ある。  (「ささめごと」修行の方法①)


 心敬はここでも一貫して、見せかけの優美をしりぞけ、心の優美を重んじています。連歌における至極の境地に至りつくための修行においても、“心の優美”つまり、心敬のいう“えん”が重要だというのです。
 『ささめごと』における「えん」の用例19例中、「縁」ではなく「艶」にあたるものは18例あります。これらを大別すると、次のようになります。
  ①何らかの言動に対する評価として用いられているもの  5例
  ②歌句自体の価値を言い表しているもの            5例
  ③心の状態、またはその表出を言い表しているもの     4例
  ④歌道のありようを言い示したもの               2例
  ⑤その他                              2例

 連歌の稽古に必須の書物として、具体的に作品名が示されているのは、『万葉集』『古今集』『伊勢物語』『源氏物語』『狭衣物語』です。このうち、『源氏物語』と『狭衣物語』については特に①のような評価が与えられています。
 『源氏物語』は、「えん」の用例のおおい代表的な文学ですが、『狭衣物語』には「えん」の用例はほとんど見られません。それでは心敬は、この二つの物語のどのような点を、「えん」ととらえていたのでしょうか。
 思うに、相手に対する思いの深さ・切実さを「えん」ととらえていたのです。そこには宗教性や道徳性はありません。命をかけるほどの切実で真剣な態度や、真摯で鋭敏な月花・景物との対峙を、心敬は「えん」ととらえているのです。ここに心敬の主調が強く表明されています。

 「詞は古きをしたひ、心は新しきを求め、及ばぬ高き姿をねがひて、寛平以往の歌にならはば、おのづからよろしきことも、などか侍らざらむ」とは、藤原定家の『近代秀歌』の所説です。心敬は、この寛平以往の歌を『万葉集』の歌と解しました。むろんこれは誤りで、正しくは在原業平や小野小町などの、いわゆる六歌仙時代の歌をさします。
 しかし、「万葉の歌は、質朴な上代の人間の精神をそのまま表現したものだ」という考えが、中世においてすでに流布していたことと照らし合わせてみると、そうした誤りのうちにも、真実な表現を愛し、見せかけを嫌った心敬の態度がよく出ている、と思います。
 事実、心敬自身も師の正徹から『万葉集』を学び、相当数の歌を暗誦していたことがうかがわれます。


絵の中のくちびる六つ春きざす     季 己

あこくその心

2011年01月22日 22時51分59秒 | Weblog
        あこくその心も知らず梅の花     芭 蕉

 風麦(ふうばく=昨日の拙ブログ参照)への挨拶として、その変わらぬ友情を詠みあげたものである。わざわざ紀貫之を「阿古久曾(あこくそ)」の幼名で言ったのは一種の俳諧化で、主人風麦と芭蕉とは幼なじみで、長じた今も幼名で呼ぶ仲だったかとも考えられる。
 『三冊子』などによれば、切字(きれじ)を入れるために苦心した句であるという。この句では『ず』が切字である。貞享五年一月の作。

 「あこくそ」は、『倭訓栞(わくんのしおり)』に、
        「源氏物語の抄に貫之が童名内教坊のあこくそといへり」
 と見え、古くから貫之の幼名と伝えられるものである。
 この句の「心も知らず」は、貫之が初瀬に泊まったときの、
        人はいさ心も知らずふるさとは
          花ぞ昔の香ににほひける

 によったものであることは明らかであるから、貫之の幼名と考えてよいだろう。
 蕪村にも
        阿古久曾のさしぬきふるふ落花かな
 の作がある。

 季語は「梅の花」で春。

    「自分はいま故郷に帰ってきたが、梅は昔のままに咲き匂っている。
     昔、紀貫之は
        人はいさ心も知らずふるさとは
          花ぞ昔の香ににほひける
     と詠んだが、それはどんな心であったのだろう。自分の場合は、眼
     前に梅が昔のままに咲いているように、故郷の人の心も昔のとおり
     であると思われるのだが……」


      冬ぬくくスジャータ村の話かな     季 己

初春

2011年01月21日 22時54分24秒 | Weblog
          初 春
        春立ちてまだ九日の野山かな     芭 蕉

 もともと挨拶の心をこめて、風麦亭(ふうばくてい)からの眺めを賞したものと思われる。
 だが『笈の小文』では、独立の句として位置づけたので、「初春」と前書するに至ったものであろう。ともあれ、立春後まだ十日にも満たない野山の、おさない春の気分を感じとっている眼は、鋭くまた柔軟である。

 「まだ」は、春の本格的訪れを待ち遠しく思うというよりは、浅春のういういしさに心惹かれている気持として味わう方がおもしろい。
 「九日」という語の据え方も確かであると思う。
 貞享五年(1688)一月十三日ごろの作。(この年の立春は四日であった)
 「風麦」は小川氏。名は政任、通称次郎兵衛。伊賀上野の人。藤堂家藩士。蕉門俳人。

 季語は「春立つ」で春。

    「あたりの野山を眺めやると、春のひそかな息吹(いぶき)が動きはじめて
     いるのが感じられる。いかにもういういしいさまで、春が立ってまだ九日
     にしかならないという感を深くすることだ」


 ――今日も四週目で抗ガン剤治療ができた。身体の回復が早くなってきている。
 また、この十一日に受けたCT検査の結果も、おかげさまで良好であった。新たに癌が転移した臓器は全くなく、もちろん新たな癌の発生はゼロ。肺と副腎に転移した大腸癌は、昨年十一月のCT画像と比べると、若干ではあるが小さくなっているという。どうぞご安心ください。
 昨今、「余命○ヶ月」という言葉が流行?しているが、この分だと死ぬまで生きられそうだ。
 主治医の先生も「あなたの余命は、私にはわかりません」と苦笑い。「まだそんな心配はいらない」と眼で教えてくれたような気がする。
 とにかく、やりたいことがまだまだあるので、毎日を切に生きて、「憎まれっ子」になるつもりだ。


      冬名残身辺整理大菩薩     季 己

「俳句は心敬」  (10)心敬の声

2011年01月20日 20時40分56秒 | Weblog
 ところで、「五音相通」、「五音連声」とはどういうことでしょうか。二つの説がありますが、ここでは、「相通」というのは、たとえば「山遠き霞」の、遠きの「き」と霞の「か」のKのように、同一子音で続くものをいい、「連声」は、「空になき日影の山」の、なきの「き」と日影の「ひ」のiのように、同一母音で連続する修辞をいうようです。
 同じ音を重ねると、それらが響き合って、独特の効果がもたらされることがあります。とくに、S音、K音などは、耳で聞いて非常に心地よい。たとえば次の歌。

           多摩川にさらす手作りさらさらに
             なにぞこの児のここだかなしき   
『万葉集』 東歌

 これは高校の教科書にも載っていて、『万葉集』のなかでも、なかなか人気のある歌です。この歌は、税の一つである「調」として差し出す布を織ったり、それを晒(さら)す際の労働歌として成立したもので、音調だけを主とする民謡であって、決して秀歌とはいえません。それにもかかわらず、人気があるのはなぜでしょうか。
 声に出してみればすぐわかりますが、S音とK音の響きがまことに快いのです。上の句の「さらす」、「さらさら」からくるS音の爽やかですがすがしい響き。そして、下の句の「この児」、「ここだ」、「かなしき」と、小刻みに繰り返されるK音は、弾むようなテンポと力強さとを、一首に与えています。

 『無名草子』の一節に、「歌をも詠み、詩をも作りて」とありますが、和歌はもともと詠ずるもの、つまり、声に出して歌うものなのです。歌はまず耳から入り、そして口ずさむものでした。
 それが、活字文化が盛んな現代では、和歌や俳句は、まず目から入ってきて、ついで頭へいって、意味を左脳で考え、理解がなされます。目から頭へ、という流れはどうしても、「リズム」や「響き」ということを忘れがちです。
 リズムや響きのよい和歌や俳句は、耳から聞いたときに快く、また口ずさんだときに心地よいものです。俳句を作る場合、これらの大切さを忘れずに意識しておきたいものです。
 『ささめごと』の、この「昔と中ごろの連歌」の部分を読むたびに、心敬さんの声が聞こえてきます……

     俳句は、自然と自分とのかかわりを嘯(うそぶ)くもの。季語の心、つまり、
    季感を忘れて、ただいたずらに美辞麗句を並べ立てたり、しゃれた表現を
    しようなどと考えてはだめなの。季語は飾り物ではないのじゃ。季語のそな
    え持っている季感に、おのれ自身の心を通わせ、そして心を季感に沈潜し、
    おのれの周辺を見渡すのだ。
     そうして、心にうったえてくるものや、おのれの実感を季語と結びつけ、具
    体的に表現するの。観念語を使ったり、こけおどし的な言葉を使うと、句が
    死んでしまうの。実感として季節を感じ、一字一句をおろそかにせず、簡潔
    に表現することが大切なのじゃ。
     つまりだな、俳句は、自分の心情や感動を具体的なもの〈季語〉に託して、
    うたいあげるものなの。
     連歌では、「捨てどころ」が急所であったが、俳句では、「省略・単純化」
    が命なの。ただ、捨てて、捨てて、すべて切り捨てた結果としての、単純で
    なければいけないんだな。
     「言いおおせて何かある」。省略がきけばきくほど、読む者の想像が広が
    ってくるのじゃよ。だが、省略された部分が、ほのかに思い浮かぶような省
    略でなければならない。ここが難しいのだよ。
     もうひとつ教えてあげよう。「俳句は愛情」。これを忘れてはだめだよ。こ
    の世に存在するすべてのものに、こまやかな愛情をもって接すること。そし
    て何よりも、自分自身に対しても愛情を持つことだ。
     これらが名句の特色、つまりは、俳句を作るコツなのじゃよ。


      大寒の我が身出でゆけ癌三つ     季 己

「俳句は心敬」  (9)鑑賞と創作

2011年01月19日 10時46分23秒 | Weblog
 連歌は何人かの人々が集まり、それぞれの作者が、前句(まえく)をその人なりに鑑賞し、付句(つけく)を創作するものです。
 したがって、前句と付句の間には、作者の鑑賞と創作という、二つの働きが行なわれているわけで、句の上に現れていない、作者の心の中に秘められた付けようともいうべきものが、存在しているはずです。そのかくれた作者の心を責め取ることが大切なのです。

 さて、ここでいう「中ごろ」とは、十四世紀末から十五世紀初頭をさします。
 このころ、一句に趣向を尽くすことがはやって、一句の独立性は大いに高められるようになりました。けれどもその反面、連歌の命である「前句との関係に心を尽くす」という面が、おろそかになってきてしまいました。連歌はあくまで、前句との連関いかんによって、その価値が左右されるとの観点から、心敬は、そうした傾向に非難を加えているのです。

 心敬の時代は、前句のことを考えず、それぞれ勝手な自己主張を展開していました。おのおのが派手な素材を好み、技巧の限りを尽くして付句をするのですが、前句の心は全く無視していました。その結果、連歌の技法のみが発達して、付合(つけあい)の心が無視されてしまったのです。
 心敬は、前句をどのようにとりなすかが、連歌芸術の命に関わることを強調したかったのです。
 「付句は、前句の人の心に通じ合うものがなければならない」というのが、心敬の考えです。だが、それは必ずしも「意味が通じる」ということだけではなく、内容的にも、言葉の上でも「響き合う」ものがなければならない、ということを意味していました。
 心敬は、付句の創作にあたっても言葉を問題にせず、前句の内容をつかんで、そのうえで、それと深く気息を通ずる境地を提示すべきことを主張するのです。そして、その付合の呼吸を示すために、古人の秀句を例示しているのです。 
 この付合の心は、現代、「配合」とか「二句一章」とかいわれる句を作る際の〈バイブル〉といってもいいでしょう。

 前句の心を受けることと並んで、前句の何を捨てるか、ということも大切です。心敬は、「つくるよりは捨つるは大事なり」と述べています。
 「捨てどころ」という語がありますが、付句は、前句のすべてを受けてはならないのです。必ず前句の中にあるものを捨てて、新しい風情を付け加えねばならないのです。そうすることにより、前句から離れ、かえって前句の心を生かすことができるというのが、心敬の考えの中心なのです。
 心敬は、付合においては意味でつながらず、心でつながるという、心の陰翳の深さを第一としたのです。

           おもふとも別れし人は帰らばや
             夕暮れ深し桜散る山     心 敬


              心に別れがたい思いを言い残して帰っていった人、
              真実ならば帰ることはなかろうに。
              帰ろうとは思っても、花に別れてゆく人は帰ることができようか。
              夕暮れは深く静まり寂しい、この桜散る山では……

 前句は恋。その人を我としての付けで、自分ならとても帰ることはできないから、おそらく、その人も帰ることはできないだろうという気持です。
 叙景の句でありながら、深い心を詠んだ、心敬らしい句です。
 恋句としての華やかさが桜を導きだし、しかも、それを否定する「別れ」の寂しさが、「散る」と「夕暮れ」とに響き合っています。そして、「別れし人」への思いに深さを、夕暮れの寂しさが深いの意をこめて、「夕暮れ深し」の句が受けています。二句を心象風景としてつなげる、心敬の得意とするところです。


      高翔ける白鳥の夢 冬いちご     季 己

「俳句は心敬」  (8)名句の特色

2011年01月18日 22時23分28秒 | Weblog
        ―― 順覚・救済などの連歌師が出たころのすぐれた連歌風体と、中ご
         ろ(鎌倉中期以後)の風雅とを比べてみますと、黒と白というように、
         はっきり違って見えるといいますが、そんなにも変わってしまったの
         でしょうか。

        ―― 先学は、つぎのように語っている。まったく、どんなにひいき目
         に見ても、非常に変わっているように見える、と。
          昔の作者の句を調べてみると、前句との続け具合に苦心して、五音
         相通とか五音連声ということまで、心を配っている。
          それが中ごろからは、まったく前句の意味趣向を考えることなく、
         ただ自分の句の表現修辞にだけ、華麗な詞藻や技巧の限りをつくし、
         似つかわしくないところにでも、月花雪などのような際だった景物を、
         むやみに並べ立てている。
          それらの句は、前句と全く意味が通じないので、まるで魂のない死
         人が美しく着飾って並んでいるようなものである。前句のどの部分に
         どう付けてゆくかによって、深みがなく底の浅い感じの言葉さえも、
         今までとは打って変わった洗練された上品な句になるものだ。
          昔の作者の句は、前句の表現や風姿を二の次にして、もっぱら趣向
         内容を深く把握し、しっかり付合わせている。
          前句のうちのどこを取り、どこを捨てるか、取りどころ捨てどころ
         の、工夫判断の優秀さが感じとられる。
          近頃はただ、前句の言葉を一つ一つ取り上げて、それぞれの言葉の
         縁だけで付けて、前句の詩的内容を深く理解することを忘れ果ててい
         るのだ。
          その一例として、昔の人の句を少々あげてみる。

            吉野山ふたたび春になりにけり
              年のうちより年をむかへて   後鳥羽院
          このごろの句なら、吉野山の縁語が付句に見えないと、非難される
         ことだろう。

            ささ竹の大宮人のかり衣
              一夜はあけぬ花のしたぶし   定家卿
          今の人の句ならば、「ささ竹」だけは、付句の「よ」に付いているが、
         大宮人もかり衣も、付句のほうに縁語が見えぬ、と言われるだろう。

              結ぶ文にはうは書きもなし
            石代のまつとばかりはをとづれて   順 覚
          このごろの句であったら、前句の「うは書き」が付いていないと、
         非難することだろう。

            さほ姫のかつらぎ山も春かけて
              かすめどいまだ嶺のしら雪   家 隆
          さほ姫は春の女神。そのかつら(鬘)に葛城山を掛けて序としてい
         るのだが、このごろの句ならば、寄り添っていないと難じるだろう。

              むすぶの神にすゑも祈らん
            いく夜ともしらぬ旅ねの草枕    信 照
          前句では、縁結びの神の意に用いている「むすぶの神」を、旅行安
         全の神にとりなして付けた句である。それを、前句に「神に祈る」と
         いっているのを、付句では付けを落としていると、このごろの人は言
         っている。

              舟こぐ浦はくれなゐの桃
            からくにの虎まだらなる犬ほえて   周 阿
          「くれなゐ」と「からくに」が縁語なのに、このごろの句ならば、
         舟に付かないと、口やかましく言い立てるだろう。

              うはぎにきたる蓑をこそまけ
            かりそめの枕だになき旅ねして   良 阿
          なぞのような前句を、「かりそめの枕さえない旅寝をして、上着に
         していた蓑を巻いて寝た」と付けてさばいたものだが、このごろの人
         は、蓑と巻くを付け落とした、などと言っている。

              馬おどろきて人さはぐなり
            はや川のきしにさはれるわたし舟   救 済
          このごろの人は、馬が付かないと、きっと非難することだろう。

          これらの句は、前句の捨てどころが際立って優れているので、最上
         の秀逸句になったのである。こういう例は、一つ一つ数え上げたらき
         りがない。
          前句の何に付けるかということより、何を捨てるかということが、
         難しいことなのだ。  (『ささめごと』 昔と中ごろの連歌)


      寒木瓜ををんなの修羅と言ひしひと     季 己

           

海苔汁

2011年01月17日 22時58分26秒 | Weblog
          浅草千里がもとにて
        海苔汁の手際見せけり浅黄椀     芭 蕉

 挨拶の句である。表に述べていることは、海苔汁の腕前であるが、裏には、感謝とその風雅な心をたたえる気持とがこめられている。
 「見せけり」という言い方にも、千里(ちり)の心づくしを認め、それを快く眺めている趣がある。ただ、「手際見せけり」の調子が、高いものとはいえず、いまいちの感がある。

 「千里」は苗村氏。通称 粕屋甚四郎。『野ざらし紀行』の折、芭蕉のお供をして、「信あるかなこの人」といわれている人で、大和竹内村の出で、江戸に住んだ。
 「海苔汁」は、海苔の味噌汁。当時の慣用としては、「苔」の一字だけで「海苔」に用いた。
 「浅黄椀」は、塗椀の一種。黒塗の上に縹色(はなだいろ=薄い藍色)と赤・白の漆で花鳥を描いた椀で、京都二条新町でつくられていたようである。風雅な椀として珍重された。

 季語は「海苔」で春。

    「千里の心からのもてなしで、浅草名産の海苔を入れた海苔汁を
     ふるまわれた。まことに美味で、料理の腕前を遺憾なく発揮した
     というべきである。しかも、海苔汁にふさわしく、雅趣に富んだ
     浅黄椀に盛られていて、亭主の心づかいのほどもおくゆかしい」


      熊野石祀る床の間 日脚伸ぶ     季 己