壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

ひばり

2009年04月30日 21時08分07秒 | Weblog
        草麦や雲雀があがるあれさがる     鬼 貫

 「草麦(くさむぎ)」とは、穂が出る前の青々とした麦をいう。
 うららかに照っている春の日、あたり一面、青々と伸びている麦畑の中で、雲雀(ひばり)がさえずりながら、空高く舞い上がっていったかと思うと、もう忙しげに舞い降りている。

 春の田園風景の、のどかな感じがよく出ている。
 即興性の句の多いことが、鬼貫の一つの特色となっているが、その場合、表現は多く口語調の形をとっている。
 
 鬼貫は、『仏兄七久留万(さとえななくるま)』の自序で、
    「乳ぶさ握るわらべの花に笑ミ、月にむかひて指さすこそ天性のまこと
    にハあらめかし。いやしくも智恵といふ物出てそのあしたをまち、その
    夕べをたのしとするより偽のはしとハなれるなるべし」
 と述べ、幼童純真の境に「天性のまこと」を認めている。
 同書によれば、この句は、鬼貫が三十九歳頃の作と推定されるから、晩年に唱えた童心主義は、このころ既に作品として具現化されていたとみられる。
 童心にかえって、雲雀の動きにうち興じているこの句には、「句ととのはずんば舌頭に千転せよ」(『去来抄』)と芭蕉が説くような、厳しい言語彫琢の跡は認められない。また、一句の誠を責め抜いた作品のみに感取される芸術的香気も感じられない。
 しかし、一句として成功しているのは、作者の無邪気な感動が、「雲雀があがるあれさがる」という一見、無造作に見えながら、実は、雲雀の習性を正確に捉えた表現で詠い出されているからであろう。季語は「雲雀」で春。


      萬葉集ひらいて雲雀野を愛す     季 己

藤波

2009年04月29日 20時51分48秒 | Weblog
        藤波の 花は盛りに なりにけり
          奈良の都を 思ほすや君   (『萬葉集』巻三)

     「藤波の花は、盛りになりましたなあ。それにつけても、奈良の都の
     ことを、お思いなされますか、君よ」

  これは昔、九州に派遣されていた防人(さきもり)の次官が、藤の花の咲くのを見て、直接、大伴旅人に呼びかけたものであることが、次の旅人の作によって知れる。

           帥大伴卿歌五首
        吾が盛り またをちめやも ほとほとに
          奈良の都を 見ずかなりなむ   (『萬葉集』巻三)

     「吾が年の盛りは、再びかえるであろうか。かえりはすまい。
     ほとんど、奈良の都をも見ないことになろうか」

 藤の花は、その作歌当時にあたかも咲き合わせたものであろうが、それが旅人にも作者にも、共通の思い出のまつわるものであったのかも知れない。
 率直に心を表わして、贈答の歌としては嫌味のない作である。

 一方、旅人は当時、おそらく64歳ほどであろうから、「吾が盛りまたをちめやも」も、腹の底からの声と聞きたい。
 「ほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ」にしても、中央政府を遠く離れた老官僚としては、偽りや見せかけではあるまい。中央では、藤原氏一族のみが、多く時めいた時代であることも忘れてはならない。

 今も、奈良の春日大社や猿沢の池のあたり、藤の花が盛りに咲いているが、藤の花は、藤原氏の権力の象徴であったのである。

        春日野の 藤は散りにて 何をかも
          み狩の人の 折りてかざさむ   (『萬葉集』巻十)

     「春日野の藤は散ってしまって、何をまあ、み狩の人は、折って
     かざしとすることだろうか」

 初夏に行なう「み狩」すなわち薬狩は、実用よりは遊覧化されていたので、狩人たる大宮人は、美々しく装って出で立ったと見える。
 その人たちに呼びかける趣で、せっかく春日野の狩をされても、藤はもう散ってしまいました。何か美しいよいかざしの花がありますか、というほどの心であろう。

 今も、東南アジアの女性たちは、通りすがりの花を手折って、さりげなく髪に挿して飾りとする風習があると聞く。
 昔の日本では男女を問わず、花を髪挿しにすることがあった。生花であっても造花であっても、それは、金銀の細工物で作った櫛・簪にまさる魅力に富んだものであった。
 ことに、平安時代には、藤原文化を象徴して、藤の花の髪挿しが最も尊ばれたものである。

 ところで、昔の和歌に、「住の江の岸の藤波」とか、「田子の浦の底さへ匂ふ藤波」「春日山谷の藤波」などと詠まれた「藤波」とは、幾重にも垂れた藤の花房が、風になびいて、美しい紫の花の水面に映る影を、波の立つままに揺るがせている眺めを取り上げたものと言われている。
 『伊勢物語』には、在原行平が人々を招いて、美酒を振舞ったとき、瓶に活けてあった藤の花は、その房の長さが三尺六寸ばかりもあったと書かれているが、今日では、花房の長い品種を「九尺藤」と名付けて、長さ二メートルにも及ぶものがあるという。
 そういえば、あしかがフラワーパークの大藤は、いったいどのくらいの長さにまで垂れ下がるのだろうか。興味のある方は、ぜひ同パークのHPをご覧下さい。大藤の素晴らしい写真も見られますよ!


      藤波のトンネルのなか異国の子     季 己    

かはづ

2009年04月28日 20時24分26秒 | Weblog
        昼蛙どの畦のどこ曲らうか     桂 郎

 「蛙」は、一般的には「かえる」であるが、俳句では「かはづ」、現代仮名遣いで書けば「かわず」である。
 古典俳句で「かえる」と読む代表句は、一茶の「瘦蛙まけるな一茶是にあり」であろう。また、赤蛙・土蛙・殿様蛙などは、「かはづ」ではなく「かえる」、正確には、「赤がえる」のように「~がえる」と読む。

        夜の雲にひびきて小田の蛙かな     蛇 笏

 千葉県の北柏で、ソロバンを教えていたことがある。
 教室の窓を開け放すと、夜風が涼しく肌に心地よく感じられる頃、遠くの田圃から風に乗ってくる蛙の声が、さわやかな初夏の気分をそそり立てる。

 ケロケロケロケロ、コロコロコロコロ、八つ手の葉などにとまった雨蛙や、緑濃い谷間に聞く河鹿の歌声もよいものだが、晩春から初夏にかけて、田園交響曲を奏でる蛙の声もまた、楽しく心和むものである。

        夕蛙いもうと兄を門に呼ぶ     敦

 夕方、なかなか帰ってこない兄を呼びに、妹が、サンダルを突っかけて玄関を出る。門のところで、「おにいちゃーん、ご飯だよー!」と大声で叫ぶ。それでも戻らぬ兄を待ちながら、蛙の合唱に聞きほれて、ぼんやりと門前にたたずんでいる。昔は、誰しもが経験したことであるのだが……。
 オスがメスを誘う情感をこめて歌っている蛙の声が、またそれだけに、遠く聞く人間の耳をもひきつける、はなやいだ楽しさを持っているのかもしれない。

        人の恋きき手にまはる遠蛙     真砂女

 蛙の声に迎えられ、蛙の声に送られてゆく、田圃道のそぞろ歩き。あの姿形からは思いもよらぬ、ロマンティックな情緒をかもし出す。
 そういう意味でなら、古池に跳びこむ水の音に、寂びの境地を聞きつけた芭蕉さんは、とんでもない野暮天だといわねばなるまい。
 そういえば、跳ね上がった鯉でも、落ちた木の実でも、極端にいえば、思わず蹴飛ばした石ころでも、芭蕉の句の世界には、天地の静寂を破るかすかな水音がありさえすれば、よかったのだから。
 それにひきかえ、真砂女の句の「きき手にまはる」が、なんと粋で、「遠蛙」とよく響きあっていることか。

 
      朝かはづ般若心経くりかへし     季 己

談林派の特色③

2009年04月27日 22時53分18秒 | Weblog
 井原西鶴の『生玉万句』の興行以後、宗因風の全国的普及度は、文壇の大御所宗因の個人的な人気にも大いに刺激されて、文字通りの燎原(りょうげん)の火である。
 ことに、延宝三年(1675)は、西鶴以下九人の『大坂独吟集(西山宗因点取十百韻)』、京は高政派の『絵合』、江戸は松意派の『江戸俳諧 談林十百韻』と、三都揃っての旗揚げで、一挙に色めき立ち、やがて各地方俳壇はもちろん、貞門の牙城、京俳壇すら総崩れで新風になびき、勢いの赴くところ、新興の町人都市大坂は、伝統文化の中心地、京に代わって全国俳壇の中枢に変じていった。
 「宗因、宗因とて京・大坂・江戸に渡り、今すでに日本国に流布し、おほかた其の風にかたぶきぬ」とは、延宝七年、旧派の中嶋随流の証言である。

 しかし、談林の寿命は意外に短く、延宝末年にはもう行き詰まりの時を迎えた。
 原因は結局、ことばの機知を頼みとする滑稽は、再生産がきかないという、その生来的な宿命に帰せられるだろう。
 同じ古典詞章を、同じ雅俗矛盾の手法で繰り返し操作するとき、そこには人の意表をつく滑稽効力はもうない。
 こうして、談林は、天和二年(1682)の宗因の死と運命を共にするかのように、ほぼこの年をもって息絶えてしまうのである。

 それは、俳諧全史的に鳥瞰するとき、室町俳諧以来二世紀になんなんとする言語遊戯の滑稽俳諧の生命そのものの終焉をも意味していた。
 こういう文学はもう存続できない、という絶体絶命の歴史的な曲がり角に来たとき、そこで発想の大転換が起こる。
 芭蕉を頂点とした俳諧の詩的純化の仕事は、この歴史的必然の重荷を背負った上で、成し遂げられてゆくのである。


      白藤の先の先なる茜雲     季 己

ほろほろ

2009年04月26日 23時03分42秒 | Weblog
        ほろほろと山吹散るか滝の音     芭 蕉

   「滝の滾(たぎ)ち流れる音が、ごうごうとひびいている。その音の中で、
   静かに山吹の花を見ていると、こぼれるように、ほろほろとその花が散って
   いるよ」

 実景に感じ入って初めて捉え得る、内容の重さがある句である。句全体が滝の音の中にこもっているようだ。その中で、眼前の山吹に目をやっていると、それがほろほろとこぼれつづくのである。
 この滝の音は遠くてはだめで、滝の音があたりを占めていて初めて、「山吹散るか」が生きてくる。
 「ほろほろと」も「散るか」も非常に微に入って、物静かで奥深い感じを出している。「ほろほろと山吹散るか」と「滝の音」との間に、深くくい入ってくる沈黙がある。

 この句には、「岸の山吹と詠みけむ吉野の川上こそみな山吹なれ。しかも一重に咲きこぼれてあはれに見え侍るぞ、桜にもをさをさ劣るまじきや」と前文がある。
 「岸の山吹と詠みけむ吉野の川上」というのは、『古今集』にある紀貫之の
        吉野川 岸の山吹 吹く風に
          底のかげさへ うつろひにけり
 を、心にしたものと思われる。
 「散るか」の「か」は、終助詞で、詠嘆の意を表す。と同時に、「誰かと思ったら、君か」の「か」のように、不意のことに出会った驚きをも表わしていよう。季語は「山吹」で春。

        かげろふやほろほろ落つる岸の砂     土 芳

 土芳(とほう)は、芭蕉の門人というより、伊賀蕉門の中心人物である。
 伊賀上野は、盆地だけに冬の冷えが厳しい。しかし、確実に春はやって来る。
 明るい光に、凍てついた土がゆるみ、水がしみ、かげろうがもえ、砂は乾いて、ほろりまたほろりとこぼれる。
 かすかな動きがある。それから物皆いっせいに動き、新芽が萌え出す。ほんのかすかな動きが早春を象徴する。
 師の芭蕉の、「ほろほろと山吹散るか滝の音」に似ていて、これはまた明るくやさしい。季語は「かげろふ」で春。


      山あかりして山吹のものおもひ     季 己

飼屋

2009年04月25日 20時28分21秒 | Weblog
 東大寺大仏殿の北西、佐保川の近くに聖武天皇陵・光明皇后陵がある。
 参道の正面に天皇陵、皇后陵は、その右手奥で道が通じている。松並木が生い茂る参道は、静寂そのものである。

        飼屋の灯后の陵の方にまた     誓 子

 「后の陵(きさいのりょう)」は、おそらく光明皇后の陵であろう。並んだ聖武天皇の陵の方にも飼屋(かひや)の灯が見えることを、言外に言っているのである。
 養蚕の季節には、徹夜で蚕の世話をを見なければならないから、更けわたってからでも、あちこちに灯が見え、それは飼屋の灯であることを推測できるのだ。
 「后の陵の方(かた)にまた」と言って、また元へ戻るような叙法である。

        たらちねの 母が養(か)ふ蚕(こ)の 繭(まよ)ごもり
          こもれる妹(いも)を 見むよしもがも
                 (『萬葉集』巻十一 柿本人麻呂歌集)

 第三句までは序詞で、母の飼っている蚕(かいこ)が繭の中に籠もるように、家に籠もって外に出ない恋しい娘を見たいものだ、という意。
 このように、繭のことをいうのも日常生活の経験を持ってきているのだ。
 この歌は、序詞のおもしろみというよりも、全体が実生活を離れず、特に都会生活でない農民生活を示すところがおもしろい。

        高嶺星蚕飼の村は寝しづまり     秋桜子

 地球上に棲息する昆虫の種類は、どれだけあるかは知らない。しかし、その中で、蚕ほど、人類の日常生活に役立っているものはなかろう。
 かつては、全世界の生糸生産額の6割を占め、日本の輸出総額の4割をを占めていたこの国では、昔から「お蚕(こ)さま」と敬称して、下へも置かぬ大切な扱いをしていた。
 今日では、養蚕業者も数えるほどに少なくなってしまったが、それでも、春蚕(はるご)が孵って、どんどん桑の葉を食べるようになった今頃は、蚕を飼う農家は、夜の眼も寝ずにお蚕さまのお守をしなければならない。

 四月中頃、蚕卵紙(さんらんし)つまり種紙から孵化したばかりのものは、毛蚕(けご)または蟻蚕(ぎさん)と言われる。毛蚕を蚕卵紙から掃き取って蚕座(こざ)に移すことを掃立てと言う。
 ちょうど、桑の新芽が四五枚開き始めた頃に、毛蚕の掃立てが始まる。一週間に一昼夜ずつ休眠して皮を脱ぐことを四回繰返した後、繭を作り始めるが、その後半の食い盛りのときとそれに続く催眠期の責め桑の時期は、全く寸暇もないほど忙しく、夜も寝られぬ日が続くという。

        毎日の同じ時刻の桑摘女     素 十

 遠い山には白い雲が浮かび、空はどこまでも青く澄み渡り、桑畑には、大勢の女たちが、桑摘唄を唄いながら桑を摘んでいるという、傍目にはのどかな風景からはとうてい想像もつかない戦場のような忙しさが、蚕飼(こがい)なのである。


      雨音のやうに桑食ふ春蚕かな     季 己

梨の花

2009年04月24日 20時56分56秒 | Weblog
        馬の耳すぼめて寒し梨の花     支 考

 元禄五年(1692)二月「東路」での作。季語は「梨の花」で春。
 梨の花は、バラ科の落葉果樹で、5~7メートルに成長するが、採果用に丈を低く育てられる。四月末ごろに、卵形の葉の間に白色の小さい五弁の花をつける。花期は短く、その美しさを堪能できるのは束の間であるが、春らしさを象徴する花といえる。

 中国では、とくに賞玩して詩などにも詠み入れていて、『長恨歌』に「梨花一枝春雨帯」とあるように、そのさびしい風情を美人の涙を帯びた姿にたとえて用いている。
 支考は「百花ノ譜」に、「本妻の傍らに侍る妾のごとし。よろづ物おもひにしづみ、常に人の下にたてるがごとし」と、その風情を描く。
 梨の花は、さびしい感じの花であるが、また「底寒き心」といわれるような、寒々とした趣の花でもある。

 農家の庭先などに、梨の白い花が咲いているほとりを、春もまだ浅い夕暮れ、仕事に疲れた馬が耳をすぼめて寒そうに通ってゆく、といった句である。

 去来は『去来抄』に、「馬の耳すぼめて寒しとは我もいへり、梨の花とよせらるる事妙也」と評しており、疲れた馬の寒そうな風情に、梨の花をたくみに取り合わせた句である。
 寒波の襲来で、二月ごろでも底冷えのうそ寒い日があるが、この句には、そうした日の寒さがおのずから伝わってくる趣がある。
 支考は、花の風情を一句に生かすのがはなはだ巧妙であり、俳文「百花ノ譜」の作があるのも、もっともであると思わせる。

        青天や白き五弁の梨の花     石 鼎

 童心のような句である。ただごとと言えば、そうも言えそうだ。
 「脂が脱けすぎて物足りなさを感ずる」という評もあるが、それにしても、この淡々たる叙法の中に一種、大家の風格ともいうべきものが、にじみ出ている。
 日夜、病床に親しむ作者は、野心も俗情もなく、目に触れる風物と天真爛漫に戯れているのだ。それはやはり、一つの到り着いた境涯に違いない。

 何度読み返しても、淡白な上にも淡白な句である。晴れた空の色を背景にして、そこに融け入るような梨の花を描き出したのだ。
 「白き五弁の」とは、変哲もない梨の花の形容語に過ぎない。だが、作者はそれ以上の表現欲など持っていないのかもしれない。あまりにも無欲な形容だから、青天の梨の花をかえってくっきりと、五つの弁や蕊までもあらわに描き出してしまうのであろう。


      梨の花にょにんの多きバスツアー     季 己

石光寺の牡丹

2009年04月23日 23時11分36秒 | Weblog
        をみなにてまた生れまし夕牡丹     春 樹 
 
 石光寺(せっこうじ)は、牡丹の花に埋もれていた。
 中将姫が、曼荼羅の蓮糸を染めたという井戸があり、その糸を掛けて干したという桜の老樹が隣にある。
 蜘蛛の糸よりも細く、蝶の羽よりも美しい蓮の糸で、織物を織る。伝説は、なんという優美な想像の翼をひろげるのだろう。
 救われることの薄かった古代の女性たちは、みずからの業(ごう)を、この世ならず美しい一枚の織物に昇華して、極楽浄土への結縁を願ったのである。
 その技が、不可能であればあるほど、その幻の織物が美しければ美しいほど、女人たちの哀しい溜息が、そして真摯な祈りが想われるのである。

        牡丹百二百三百門一つ     青 畝

 石光寺は、別名、染寺(そめでら)といい、近鉄南大阪線「二上神社口駅」から歩いて15分ほどにある、小さな寺である。
 4月下旬から5月上旬に見頃となる牡丹も見事だが、変人としては、11月下旬から1月下旬の寒牡丹が、特に好きである。

        綿弓や琵琶になぐさむ竹の奥     芭 蕉

 『野ざらし紀行』に、「大和の国に行脚(あんぎゃ)して葛下(かつげ)の郡竹の内と云ふ処はかの千里(ちり)が故里なれば、日ごろとどまりて足を休む」とあって、この句が出ている。

 貞享元年(1684)八月、江戸を発った芭蕉は、伊勢路を通って故里の伊賀上野に帰り、大和・山城・近江と遍歴した。これが『野ざらし紀行』の旅で、芭蕉七部集の第一『冬の日』は、この旅の途次、名古屋で書かれている。いわば、蕉風開眼の意義深い旅となった。
 江戸から行をともにした門人の苗村千里は、大和葛下郡竹内村の人で、江戸の浅草に住んでいた。
 芭蕉は、「何某千りトいひけるは、此たび路のたすけとなりて、萬(よろづ)いたはり心をつくし侍る。常に莫逆(ばくげき=意気投合してきわめて親密な間柄)の交ふかく、朋友に信あるかな此人」と書いている。
 吉野へ入る前に、芭蕉は竹内を訪れ、千里の生家に数日滞在した。千里の家は、油屋喜衛門といって、代々庄屋をつとめていた。
 芭蕉はここで、千里と別れるのだが、出立に際し歓待を謝して、短文を付した一句をしたためて喜衛門に贈った。それが「綿弓や」の句である。

 「綿弓の鳴る音がしている。この竹薮の奥の家に住む人は、この綿弓の音を琵琶の音と聞きなして、わびしい静かな隠逸の生活を楽しんでいるのであろう」の意。

 「綿弓」は、精製していない繰綿をはじき打って、不純物を除き、やわらかくする弓形の道具。昔は牛の筋を弦に用いたが、後には鯨の筋を用いるようになった。打つとピンピンと琵琶に似た音をたてる。「綿摘み」「綿打ち」などと縁あるもので、これが秋の季語。
 「琵琶になぐさむ」というところに、漢詩人にありそうな隠逸趣味の見方がただよい、綿弓を琵琶になぞらえたところには、貞門から談林を経て流れてきた見立ての手法の脱化した発想の姿を見ることが出来る。

 いま、竹内街道沿いの家並みの裏手、大和三山を遠く見晴らす景色のよい場所に、その句碑が建てられている。それを「綿弓塚」という。
 石光寺から牡丹の名所、当麻寺までが徒歩15分、当麻寺から綿弓塚までは、徒歩で30分ほどであったと思うが……


      みづからの業にはあらず黒牡丹     季 己

まずはお茶でも

2009年04月22日 20時24分43秒 | Weblog
    「夏も近づく八十八夜、野にも山にも若葉が繁る
      あれに見えるは茶摘みじゃないか、あかねだすきに菅の笠」

 唱歌で知られた「茶摘」は、昔から八十八夜ごろの風物詩であった。指先で半ばしごくように摘み取った茶の葉は、焙炉(ほいろ)の上でていねいに揉まれていった。けれども今は、すべて機械化されてゆく……

        青空へふくれあがりて茶山なる     風 生

 茶は、ツバキ科の常緑低木で、その若葉を摘んで、製造加工して飲料にする。
 起源は古く、中国の漢代にまでさかのぼるといわれる。わが国には、鎌倉時代に僧栄西によって、禅宗(臨済宗)とともに中国からその種子がもたらされ、以来、広く栽培されるようになった。
 茶の芽は、四月中旬ごろから摘み始め、八十八夜から二、三週間が盛りである。
 摘み始めの二週間ほどの間に摘んだものを、一番茶といい、最も良質とする。そのあと、ニ番茶・三番茶・四番茶と、四番茶ぐらいまで摘む。
 「茶山」とは、茶を植えてある丘であるが、茶を摘むことにもいう。

        摘みけんや茶を木枯しの秋とも知らで     芭 蕉

 「茶摘み女は、無心に茶を摘んで、こんなにも摘み取ってしまった。茶摘みをすることは、茶の木にとっては、木枯しの吹きまくる秋のように、無慈悲なしわざとも知らないで、こんなにも摘み取ってしまったのだろうか」の意。

 茶摘みを見て、茶の木の枝が露呈してしまっているさまをいたむ心で発想したものであろう。しかし、「摘みけんや茶を」と倒置したり、「茶を木枯しの」と掛詞的な措辞にしたりしているため、茶をいたむ心よりは、ことばの飾りの方が浮き上がってしまい、深い味わいを生み出しえていない。
 技をつかうと、とかく心が留守になり、見るに堪えない句になりがちである。その点、風生の句は、さながら、一幅の名画を見るようである。

 ところで、禅語に「喫茶去」というのがある。『名僧墨蹟展』などに必ず一幅はある、「きっさこ」と読むあれだ。
 喫茶去を「お茶を飲んだら、さっさと帰れ」と解したら、笑い話になってしまう。
 「ようこそ、ようこそ。まずはお茶でも召し上がれ」ということである。去は、喫茶を強める助辞で、意味はない。

 わが国の侘茶の祖、村田珠光は、初めは茶の葉を医薬として用いていたが、服茶には礼法が大切であると痛感したのが、茶の湯のはじめだという。
 そのころ、珠光は、一休和尚に参禅していたが、一休は彼に「趙州喫茶去(じょうしゅうきっさこ)」の公案(禅の修行者に師が与える命題)を与える。

 中国唐代の禅僧、趙州和尚は、師を訪れる修行者の誰彼に「喫茶去」と呼びかける。なぜ等しく「喫茶去」と挨拶するのか、というのが一休が珠光に与えた問いである。
 よく、「茶禅一味(茶と禅の奥義は相通ず)」と言われるのは、一休と珠光との出会いがあったからだ。いずれにしても、真剣な実践の積み重ねの結果、はじめて得られる答であるから、文字や言葉で、その奥義は説明できるものではない。この点においては、絵画も俳句もまったく同じ。

 世間的にいう喫茶も、ただ「茶を喫む」ですませるのは侘びしい。喫すは、毎日の食後の番茶でも必ず両手で茶碗を持ち、心中で合掌して「頂く」敬虔さを呼び起こす行為ではなかろうか。
 「喫茶去」という掛け軸こそかかっていないが、銀座の『画廊 宮坂』が、いつでも「喫茶去」の心で迎えてくれる、たいへん貴重な場所だと感謝している。


      起き出して小夜の寝覚めの一番茶     季 己

海棠の花

2009年04月21日 20時42分25秒 | Weblog
        海棠の花しづくする甘雨かな     鬼 城

 「甘雨(かんう)」は、慈雨(じう)ともいい、草木をうるおし育てる雨をいう。
 海棠は、バラ科の落葉低木で、高さは2~3メートル。庭などによく植えられる。4月ごろ、赤みを帯びた若芽とともに、花柄の長い淡紅色の五弁の花が、総状に咲く。一重咲きと八重咲きとがある。
 ふつう、花を愛でるものは垂糸海棠(はなかいどう)で、実海棠ともいう海紅は、花色が淡い。

    「明皇、沈香亭ニ登リ、楊妃ヲ召ス。妃、酒ヲ飲ンデ、新(イマ)起キ
    タリ。力士従侍児(ジュウジジ)ニ命ジ、カイゾエシテ至ラシム。
     明皇笑ツテ曰ク、コレ真(マコト)ニ海棠ノ眠リ未ダ足ラザルナリ」

 海棠はまた、「眠れる花」とも呼ばれる。これは、唐の玄宗皇帝の寵姫であった楊貴妃の伝記に、上のような一節があるからである。
 海棠の花は、楊貴妃の美しさを喩えるほどに珍重されていた。リンゴの花にも似て、長い花柄を垂れた濃い紅の蕾が開くと、やや淡紅色の花びらが少し頭を持ち上げたように咲くところを、酔い醒めの楊貴妃の眼のふちの淡紅色に喩えたのであろう。

 ところで、海棠の花の名前が、わが国の書物に初めて登場したのは、室町時代のことで、実のなるナガサキリンゴのことであったろうといわれている。
 そして、今の海棠すなわちシダレカイドウが、中国から渡来し、日本で見られるようになったのは、江戸時代のことであった。
 したがって、海棠に対する日本人の好みも、中国人の趣味に合わせたものであった。
        海棠や折られて来てもまださめず     蓼 太
 という句や、
        海棠や戸ざせしままの玉簾        蘭 更
 という句などは、前に掲げた楊貴妃伝の一節を、明らかに踏まえたものである。

        海棠やかきくらし降る法の雨     風 生

 「法(のり)の雨」とは、仏法が衆生を慈しみ潤すのを、雨に喩えていう語で、「法雨(ほうう)」ともいう。
 鎌倉の妙本寺にある海棠は、老木として知られている。その閑寂な寺院の庭に、あでやかな海棠の花の紅が、雨に濡れているさまは、まさに「色即是空、空即是色」と説かれた『般若心経』の経文そのままの姿である。


      海棠の花にかなひし写経堂     季 己

すみれ

2009年04月20日 20時52分05秒 | Weblog
        馬の頬押のけつむや菫草     杉 風

 芭蕉の最も篤実な門人であり、芭蕉のパトロンとして尽した杉山杉風(さんぷう)の句である。
 この句には、「新堀にて」と前書きがある。
 新堀は、万治(1658~61)のころ、浅草田圃(たんぼ)の千束池(せんぞくいけ)から水を引くために造られたものだという。

 馬の背にゆられながらここまで来て、「さて」と、春の野におりて一休みしている場面である。
 「馬は、足元の青草をしきりに食(は)んでいる。その草叢に、菫草(すみれぐさ)が可憐な紫色の花を咲かせているのに、ふと、気がついた。馬の頬を押しのけて、菫の花を摘みとることだ」との意。

 この句は、「馬の頬」を取り出したところに、いわゆる俳諧性があるが、それがきわめて自然で、菫草との取合せにも成功している。
 「押しのける」の言葉にも実感がこもっていて快い。

 暁台(きょうたい)の句に、「菫つめばちひさき春のこころかな」というのがあるが、可憐な菫の美しさに心ひかれる、こまやかな詩人の感情という点で、杉風の句と相通じるものがある。


      亀の背に乗りうたた寝の残り鴨     季 己 

松の緑

2009年04月19日 22時49分44秒 | Weblog
        人を見ぬ残花や山河くすくすと     耕 衣
        残桜の延命院に僧とあり        虚 子
        上人に一人の客や残る花        素 十
        月明に名残りの花のとびにけり     和 生

 散り残った桜の花を残花(ざんか)という。残桜(ざんおう)・残る花・名残りの花・残る桜というのも、同じことである。

        残る花それもしきりに散つてをり     久 を

 残る桜もすっかり散り、その桜蘂がこぼれるように降り、地面を赤く染めた光景は、晩春の静かな気分を喚起させる。
 そうして、それらと入れ替わりに、瑞々しい新緑の若葉が、いっせいに噴き出してくる。

 春の女神が、自然の絵具箱から、赤・紅・紫・淡紅・桃色・黄色・白と、あらゆる色彩を撒き散らす。
 その百花繚乱の変化の妙も、一転して、ただ緑一色の若葉が、限りない濃淡・明暗のニュアンスでもって、野山を明るく塗りつぶして行く。そんな初夏の眺めというものは、これまた、光りの芸術の素晴らしさに、眼を見張らせるものがある。

 躑躅や馬酔木の赤味がかった若葉、柳の青葉、雪柳・山吹・藤・柿・椎・楠……
 若葉という若葉は、お互いの色合い・色艶・厚み・柔らかさ、それぞれに異なっているばかりでなく、同じ一つの木であっても、何とも言えぬ濃やかなニュアンスでもって、日々に移り変わって行くのである。

        緑なす松や金欲し命欲し     秀 野

 この千変万化と言うも愚かな、自然の営みの中でも、一貫して我々にうったえてくるのは、その若さという生命の息吹である。

        老松のにぎはひ立てるみどりかな     風 生

 その、日々に繰り広げられてゆく若緑のページェントの中でも、ひときわ立ちまさっているのは、松の緑である。一年中、常緑の松の、つんつんと突っ立った若枝から、白い薄皮を脱ぎ捨てた若芽が、日増しに伸びて、鮮やかな緑を加えてゆく。

        松の芯千万こぞり入院す     波 郷

 晩春の頃、広がった松の枝々の先に、10~30cm程の、ろうそくを立てたような軸芯が突き立ってくる。ふつう「松の芯」というが、長いものは、のけぞるようにして立っていたりする。
 しばらくすると、そこから若々しい緑色の新芽が勢いよく噴き出してくる。まことに「緑立つ」という季語にふさわしい姿である。岬や海浜に松は多いが、日差しに輝く潮や、潮鳴りに伸び立っている松の緑は、夏がもう間近、といった感じがする。

        みどり立つ岸の姫松めでたさよ     鬼 貫

 まるで、「めでためでたの若松さまよ。枝も栄えて葉も繁る」という民謡そのままの、紋切口上ではあるが、このように大舞台の正面から大見得を切っているのが、松の緑であろう。


      松の芯伸びゐて女性過敏症     季 己
        

花に酔う

2009年04月18日 23時40分01秒 | Weblog
 東京の桜は終ったが、東北の桜は、これから見頃を迎える。
 悠然と流れる北上川。その河畔に、樹齢80年を超えるソメイヨシノの桜並木が、2kmにわたってつづく。
 その展勝地公園では、きょう4月18日から「北上展勝地さくらまつり」が始まり、5月5日まで開催される。
 293haもの広大な園内に、ソメイヨシノ・エドヒガンなど約150種ものさまざまな桜が、およそ1万本あるといわれる。

        天も花にゑへるか雲の乱足     立 圃

 「ゑへる」は「酔へる」の意。
 「天も花にゑへる」の出典は、『和漢朗詠集』で、巻上「三月三日」の条に「春ノ暮月、月ノ三朝、天花ニ酔ヘリ、桃李盛ナレバ也」とある。
 「雲の乱足」は、雲の乱れ動くさまで、雲行きのあやしいことをいう。もともとこの語は、『風雅集』に「野分だつ夕べの雲の足はやみ 時雨に似たる秋のむら雨」とあり、その雅語を雲の乱足と擬人化し、俗言に仕立てたところが面白い。
 花見時分は、とかく天候が不順であるが、それを敏感にとらえ、その雲行きのあやしいのを、天までが桜の花に酔って乱れ足になっているのかと、句作したのである。
 ところで、「天も」の「も」には、人々はむろんのことの意が、言外にあることを考慮する必要があろう。
 一句の中心は、もちろん、天が酔っぱらった面白さにあるのだが、それのみか爛漫たる桜の花や、その下で酒宴にうち興じる人々の様子までも、この句から感じとることが出来よう。

 立圃(りゅうほ)の句風は、「上京風にて、句作りやはらかに、俳言よはよはとして、仕立てうつくし」と評されるが、この句なども理屈っぽさをほとんど感じさせず、和歌的優美さを十分に備えている。
 また、貞門俳諧では、擬人化を用いた句は多いが、この句以外の立圃をあげれば
        春風に腕押しをするわらび哉
        月のかほふむは慮外ぞ雲の足
 などがある。


      山椒の花の呟き昼の月     季 己       

佐夜の中山

2009年04月17日 23時03分56秒 | Weblog
 心待ちしていた「武田州左展」(コート・ギャラリー国立)は、天候のかげんで明日行くことにし、きょうは近間の江戸東京博物館で「東海道五拾三次」を観てきた。
 今回、江戸東京博物館が新たに、歌川広重の「東海道五拾三次」を収蔵することができたことを記念して、シリーズ全55枚を一堂に展示したものである。
 複製品が大量に出回っているので、有名な「日本橋」や「蒲原」・「庄野」・「箱根」などのほかにも、いつか、どこかで、目にした記憶がある作品を、じっくり鑑賞することができた。
 ただ一つ残念だったのは、あるグループが依頼した、館内のボランティアガイドの説明が長過ぎ、非常に耳障りだったことだ。まるでガイドの独演会で、ガイド自身が自分の説明に酔っているようだった。
 「人のふり見て我がふり直せ」ではないが、「説明は簡明に、現物はじっくり観ていただく」大切さを、再確認させられた。
 逆に感心?したのは、無料配布の、展示資料リストの会期に2ヶ所誤りがあったのだが、これが手書きで直されていたこと。
 青い波線一本のために、血税3400万円を使って、ワッペンを作り直した東京都水道局に、よくよく見習わせたい。

 ところで、「東海道五拾三次」の内に、「日坂 佐夜ノ中山(にっさか さよのなかやま)」があるが、芭蕉の句にも……

          佐夜の中山にて
        命なりわづかの笠の下涼み     芭 蕉

 延宝六年(1678)刊の『江戸広小路』に載っている句である。
 「命なり」は、西行の「年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山」を踏まえたもので、ふつう、次のように解されている。

 「いま、炎暑の佐夜の中山を越えるにあたり、頼むべき木蔭とてもなく、木の下の下涼みならぬ笠の下のわずかな蔭を命と頼んで、笠の下涼みをすることだ」

 一般的には、西行の歌を卑近な夏の日傘に結び付けて、おかしみをねらったものに過ぎない、と言われている。
 しかし、おかしみをねらったものとしても何とも中途半端で、これでは談林風の句とはいえない。
 詞書からみて、「命なり」は西行の歌であるが、それは一種のあしらいであって、句の主眼は明らかにおかしみにある。となると変人には、「わづかの笠の下涼み」が、「わづかの嵩(かさ)の舌鼓(したつづみ)」に思えてならない。

 近世風俗研究に不可欠の書『守貞漫稿(もりさだまんこう)』に、
 「今世 三都ともに傘之下商人あり。昔より之有りて何の時始るを知らず。大略径り丈許高さ之に准ずる大傘を路傍に栽て、其の下にて商ふ也。故にかさのしたと云」
 とある。
 「傘之下商人」は、主に飴売りをいうが、いろいろな飲食物も売っていたらしい。芭蕉の句の「笠の下」も、こうした意味で解釈すべきではなかろうか。
 「笠の下」で「涼み」をとると同時に、そこで冷し飴かなにかの食物を買って食べたのだ。それが思わず「おお、うめえー」とさけんでしまうほど美味だったのである。それを芭蕉は「命なり」と表わしたのだ。
 そう考えれば、座五の「下涼み」は、「舌鼓」の意味をももっていたことがわかるであろう。


     桜蘂ふる我が机傷だらけ     季 己

水草生ふ

2009年04月16日 20時28分38秒 | Weblog
        伊勢の海の魚介豊かにして穀雨     かな女

 穀雨は、二十四節気の一つで、陰暦三月の中で、陽暦四月二十日ごろに当る。
 「雨百穀を生ずる」、すなわち、「春雨が降って百穀を潤す」意で、しとしとと降り続くあたたかい雨が、やがて田んぼに満ちて、浮き草がただよい浮かぶようになる。苗代の早稲もようやく出揃って、日一日と草丈が伸びてくる。

        うきくさや池の真中に生ひ初むる     子 規

 若草に薫る風が、池の水面にさざなみの小じわを寄せて吹き渡り、小さなうきくさがゆらゆらと漂うようになると、もうそれは、たけなわの春というよりも、新鮮な初夏の感じに移っている。
 「うきくさ生ふ」は春の季語だが、単に「うきくさ」は夏の季語となる。
 「うきくさ」はまた、「根無草(ねなしぐさ)」ともいうが、「うきくさ」の葉の裏には、細い鬚根が垂れ下がっていて、根がないわけではない。

        芽を出すや心をたねに根無草     鬼 貫

 これは、皮肉な鬼貫(おにつら)が、貫之の『古今和歌集』仮名序「和歌(やまとうた)は人の心を種として万(よろづ)の言の葉とぞなれりける」を、もじって詠んだ句である。

        水草生ふ風土記の村をたもとほる     風 生

 「水草生(みくさお)ふ」は、水がぬるんできた三月ごろから、沼や池、川などに、いろいろな水草の生えてくることをいう。水草が生えはじめることで、水のぬるみはじめたことを、視覚的に受けとめることができる。
 『古今和歌集』の「我門の 板井の清水 里遠み 人しくまねば みくさおひにけり」以来、古歌にもたびたび詠まれている。
 その歌言葉としての古さが、「風土記(ふどき)の村」によくつりあっているのだ。「風土記の村」といえば、由緒の古い村であり、関東ではさしずめ常陸の水郷が思いうかぶ。
 「水草生ふ風土記の村」というのが、いかにも風生らしい気のきいた表現である。ことに「水草生ふ」は、なにか枕詞か序詞めいた感じで、なだらかに次の言葉を誘い出し、具象的にここが水郷らしいイメージを生み出してもくる。おそらく霞ヶ浦か北浦のほとりの村であろう。

        ふかきより水草の茜さして生ふ     爽 雨

 穀雨の季節には、「うきくさ」ばかりではない。金魚藻・石菖藻・菱・ジュンサイ・ひつじ草・河骨・蓮・慈姑(くわい)・水葵など、根のある水草も、どんどん新しい芽を吹いて、伸びてくる。
 池や沼や、川の淀みに、五月雨の頃とは違って、まだ底も濁らず、澄み透った水の中で、ゆらゆら絶えず揺れ動いている早緑の水草。
 照る日、輝く波。地上の若葉とは違った独特のすがすがしさを味わうことが出来る。

        ゆふぐれのしづかな雨や水草生ふ     草 城

 間もなく、この水草の林の中から、蜻蛉のヤゴや、蛙のおたまじゃくしが泳ぎだすことだろう。


      水草生ふ仙台堀の月日かな     季 己