草麦や雲雀があがるあれさがる 鬼 貫
「草麦(くさむぎ)」とは、穂が出る前の青々とした麦をいう。
うららかに照っている春の日、あたり一面、青々と伸びている麦畑の中で、雲雀(ひばり)がさえずりながら、空高く舞い上がっていったかと思うと、もう忙しげに舞い降りている。
春の田園風景の、のどかな感じがよく出ている。
即興性の句の多いことが、鬼貫の一つの特色となっているが、その場合、表現は多く口語調の形をとっている。
鬼貫は、『仏兄七久留万(さとえななくるま)』の自序で、
「乳ぶさ握るわらべの花に笑ミ、月にむかひて指さすこそ天性のまこと
にハあらめかし。いやしくも智恵といふ物出てそのあしたをまち、その
夕べをたのしとするより偽のはしとハなれるなるべし」
と述べ、幼童純真の境に「天性のまこと」を認めている。
同書によれば、この句は、鬼貫が三十九歳頃の作と推定されるから、晩年に唱えた童心主義は、このころ既に作品として具現化されていたとみられる。
童心にかえって、雲雀の動きにうち興じているこの句には、「句ととのはずんば舌頭に千転せよ」(『去来抄』)と芭蕉が説くような、厳しい言語彫琢の跡は認められない。また、一句の誠を責め抜いた作品のみに感取される芸術的香気も感じられない。
しかし、一句として成功しているのは、作者の無邪気な感動が、「雲雀があがるあれさがる」という一見、無造作に見えながら、実は、雲雀の習性を正確に捉えた表現で詠い出されているからであろう。季語は「雲雀」で春。
萬葉集ひらいて雲雀野を愛す 季 己
「草麦(くさむぎ)」とは、穂が出る前の青々とした麦をいう。
うららかに照っている春の日、あたり一面、青々と伸びている麦畑の中で、雲雀(ひばり)がさえずりながら、空高く舞い上がっていったかと思うと、もう忙しげに舞い降りている。
春の田園風景の、のどかな感じがよく出ている。
即興性の句の多いことが、鬼貫の一つの特色となっているが、その場合、表現は多く口語調の形をとっている。
鬼貫は、『仏兄七久留万(さとえななくるま)』の自序で、
「乳ぶさ握るわらべの花に笑ミ、月にむかひて指さすこそ天性のまこと
にハあらめかし。いやしくも智恵といふ物出てそのあしたをまち、その
夕べをたのしとするより偽のはしとハなれるなるべし」
と述べ、幼童純真の境に「天性のまこと」を認めている。
同書によれば、この句は、鬼貫が三十九歳頃の作と推定されるから、晩年に唱えた童心主義は、このころ既に作品として具現化されていたとみられる。
童心にかえって、雲雀の動きにうち興じているこの句には、「句ととのはずんば舌頭に千転せよ」(『去来抄』)と芭蕉が説くような、厳しい言語彫琢の跡は認められない。また、一句の誠を責め抜いた作品のみに感取される芸術的香気も感じられない。
しかし、一句として成功しているのは、作者の無邪気な感動が、「雲雀があがるあれさがる」という一見、無造作に見えながら、実は、雲雀の習性を正確に捉えた表現で詠い出されているからであろう。季語は「雲雀」で春。
萬葉集ひらいて雲雀野を愛す 季 己