壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

つくし

2009年03月31日 22時47分40秒 | Weblog
 日本画家の菅田友子先生から、いつもの絵手紙が届いた。先生は毎月、季節のものを描いて送ってくださる。今回は“土筆(つくし)”である。
 土筆は、つくづくし・つくしんぼ・筆の花などとも呼ばれる。季語としては、土筆野(つくしの)・土筆摘み・土筆和え(つくしあえ)・土筆の袴(はかま)などがある。

        土筆野やよろこぶ母につみあます     かな女

 春の摘み草の中でも、季節に敏感なものは、土筆摘みであろう。
 まだ風も冷たく、時折、雪さえ降って、つい引きこもりがちになっていると、土筆は、いつの間にか薹が立ち、胞子が散って、筆先もほどけてしまう。

        土筆物言はずすんすんとのびたり     漱 石

 すっかり暖かくなって、ひとつ土筆でも摘んで来ようかと、日当たりのよい田の畦や川の堤などに来て見ると、もう、すっかり青々とした杉菜が生え揃って、春風にそよいでいるといったことになる。
 世の中の移り変わりの早いことにかけては、三日見ぬ間の桜ばかりを喩えにひくことはなさそうだ。あの素朴でユーモラスな土筆と、すっきり洗練された感じの杉菜との早変わりのほうが、いっそう鮮やかな対照を示しているのではなかろうか。

        白紙に土筆の花粉うすみどり     夜 半

 杉菜は、木賊(とくさ)科の植物だが、その茎には、胞子を出す有性の茎と、栄養を司る無性の茎とがあって、無性の杉菜が伸びるより早く、土の中から頭を持ち上げてくるのが、有性の土筆なのである。

        ままごとの飯もおさいも土筆かな     立 子

 わたしたちは、この有性茎の土筆が、まだ伸びきらず柔らかいうちに摘み取って、一節ごとに付いている黒い袴を取り除いて、食用に供するのである。
 筆の穂のような土筆の頭には、ちょうど、抹茶の粉のような、美しく濃い緑色の胞子が詰まっている。少し苦味があるが、また格別な薫りがあって、これを茹でて、三杯酢にしたり、生醤油で佃煮にしたり、ご飯に炊き込んだりするのは、なかなか捨てがたい春の味覚である。
 さて、うまそうな菅田先生の“つくしんぼ”、いったいどうやって食べようか。


      つくしんぼ揃ふ田の道おいしんぼ     季 己

さまざまの事

2009年03月30日 21時03分22秒 | Weblog
 東京に桜の開花宣言が出てから一週間以上たつが、まだ満開にならない。満開どころか、拙宅の近くの桜並木では、まだ二分咲きといったところだろうか。ここのところ花冷えが続いているので、桜も身をすくめてしまったのであろう。

        さまざまの事思ひ出す桜かな     芭 蕉

 「故郷の伊賀に帰って、今は亡き主、蝉吟(せんぎん)公の旧庭前に、昔のように咲いている桜を見ると、若き日、故主の前に仕えた日のことなど、この桜にまつわるさまざまなことが思い出されて、感慨に堪えないものがある」という程の意。

 桜を前にして、若き日のあれもこれもが思い出されて、追懐の情、胸にあふれ、胸中深く去来する思いを他に言いようがなく、ただ「さまざまの事」という語になった感じで、他人のあずかりしらぬものを含んだ言い方のようである。そして、それはただ眼前の桜に起こり、また桜に集約されてゆく思いなのである。
 眼前の桜に触発され、そこにまとまる使い方になっている。「花」と言わず「桜」と言ったところに、桜の全容が時間を負ってそびえている感じがある。


 「白日展」と「ルーヴル美術館展」を観た帰り、銀座の「画廊 宮坂」に寄った。楽しみにしていた「岡本真枝展」が、今日から始まったからだ。
 お茶とお菓子をいただきながら、気がついたら2時間ほどお邪魔してしまった。居心地がいいと、ついつい“ながっちり”になってしまう。なんとも迷惑な客である。
 岡本さんの作品は、どちらかというと色彩が勝負?の抽象画である。したがって観れば観るほど、さまざまなモノが観え、「さまざまの事」を思い出させてくれる。芭蕉風に言えば、「さまざまの事思い出すこの絵かな」ということになる。
 4月4日(土)まで開かれているので、ぜひ、ご覧になってはいかが。岡本さんご自身のお顔を拝むのも結構だが、作品を穴のあくほど観て頂きたい。そうして、「さまざまの事」を思い出すのも、楽しいことだと思う。


      はじまりの風景さくら咲く信濃     季 己



       岡本真枝 展
               2009年3月30日(月)~4月4日(土)
                11:00am~6:00pm(最終日5:00)
       画廊 宮坂
               中央区銀座7-12-5 銀星ビル4階
                TEL(03)3546-0343

沈丁花

2009年03月29日 20時59分59秒 | Weblog
        ぬかあめにぬるゝ丁字の香なりけり     万太郎

 沈丁花の香りに満ちる春となった。沈丁花は、香り高い春の花の代表であろう。沈香と丁字の香りをミックスしたようだ、というところから沈丁花と呼ぶ。
 紅紫のがふつうであるが、純白のものがあり、細い白覆輪の葉のものも栽培されている。日本に渡来しているのは、雄株ばかりなので結実しないが、中国ではグミのような実を結ぶ雌株があるという。
 この花の香りは、ふしぎに街角によく似合う。道行く人を、ふとその甘い香りに酔わせて、夢のような雰囲気に包みこむ沈丁の花……

        沈丁花春の月夜となりにけり     虚 子

 朧月の春の夜のそぞろ歩き。生暖かく、しっとりと湿った夜の空気に溶けこんで流れてくる沈丁花の香りは、清らかな中にも、甘くやさしく、ほのかな艶めかしさを誘うものである。
 
 沈丁花は、長い冬の、雪のうちから花を用意して、重なり合った葉の間から、むらがった淡紅色の小さな蕾をのぞかせていた。
 それが、ごく小さい花を一つ二つと開き始めた最初から、早くも高い香りをまきちらして、遠目には、まだそれとも気づかぬうちに、「おや、もう沈丁花が咲いたのだ」と、たけなわな春を知らせてくれる。

        沈丁や死相あらはれ死相きえ     茅 舎

 淡紅色の蕾も、すっかり咲ききると、花の色は、白一色に見えるが、花そのものは、それほど見栄えのするものではない。もっとも、白丁花(はくちょうげ)といって、蕾のうちから白一色のものもあるが、もともと、この木の原産地中国では、その名を瑞香(ずいこう)と書いていた。
 これが日本へ渡って来たのは、室町時代のことという。明との交通が盛んであった十五世紀の終り近く、延徳二年(1490)に書かれた『尺素往来(せきそおうらい)』という書物に、「沈丁華」と記されたのが最も古い記録とのこと。瑞香の花の香気の素晴らしさに驚いた当時の日本人が、香料として古来から有名な沈香と丁字とを合わせたようだというので、沈丁花という名が付けられたものであろう。

        沈丁やをんなにはある憂鬱日     鷹 女
        沈丁に水そそぎをり憂鬱日      鷹 女
        闇濃くて腐臭に近し沈丁花      節 子

 沈香と丁字を合わせたような香気も、女流俳人にかかると形無しとなる。鷹女は“つきのもの”の臭いに、節子は“腐臭”というように。

        沈丁にはげしく降りて降り足りぬ     汀 女

 はっきりとした情景で、句意は説明するまでもない。春雨が、豪雨性の雨となって、沈丁花の上に降っているのだ。匂いの高い沈丁花に、はげしい春の雨が降っているのである。
 雨の降りざまと、配合された花が沈丁花だからいいのだ。もしこれが、野菊にはげしく降ったというのであったら、そこには何のおもしろみもないだろう。
 そこにやはり繊細な感受性が、鋭敏に働いているのがわかるのである。


      キム・ヨナの舞ひ沈丁の香を誘ふ     季 己      

国際交流

2009年03月28日 20時21分43秒 | Weblog
 荒川区国際交流協会の通年事業である「外国人のための日本語教室」と「外国人のための日本語サロン」の平成20年度3学期が今週、修了した。

 「日本語教室」は、専門の日本語教師の指導と日本語ボランティアの協力により、外国人の皆さんが、初級の日本語と日本の文化・風習を学ぶ場である。
 「日本語教室」は、外国人支援という目的のほかに、日本人ボランティアの方々と外国人の方々が、日本語や日本文化を通してお互いに学びあい、理解しあうという目的も持っている。
 例年、百名ほどの外国人の方々が受講され、決められたテキストを用いて、ボランティアとほとんどマンツーマンで学ぶことが出来る。テキストの内容を習得したと日本語教師が認めた方に対しては、修了証が協会から授与される。

 3学期はまだ見習いであった変人は、16名の先輩ボランティアの授業?を参観させていただいた。教え方・進め方など千差万別、いろいろと考えさせられた。
 2月中旬ごろ、参観するのが苦になり、3回つづけて欠席した。その間、近県のある市で、日本語ボランティアが足りなくて困っているという情報を得た。すぐにそちらに行こうと思ったが、「ちょっと待てよ」と思いとどまった。
 いまは、徒歩7~8分で行けるのに、片道1時間近くかかるのだ。そのうえ、交通費が往復1500円程、月に8回で1万2千円。年金生活者にとって、ボランティアをするための支出としては痛すぎる。
 ということで思い直し、再び「日本語教室」で参観させてもらった。
 修了式後のミーティングで、生意気にも先生に「4月から担当させていただけるなら、火曜日と木曜日の両日とも参加します。また、参観だけならボランティアをやめさせていただきます」と言ってのけた。
 帰り際、先生に「新学期から担当してもらいますからね」と言われた。
 文法は後回し、日常会話、発音・アクセント・イントネーションなどをきっちりと身につけていただくつもりだが、外国人の方が何を望まれているのか、極力希望にそって、進めていくつもりである。

 「日本語教室」は、火曜・木曜の午後2時から4時まで。これに対して「日本語サロン」は、水曜日の午後2時から4時までの週1回である。
 「日本語サロン」は、外国人の方々と日本語ボランティアが、日本語で会話をしながら、お互いの文化を学んだり、日本の文化や生活習慣を理解する場である。
 サロン形式で、途中、ティータイムがあり、お茶を飲みながら気軽に参加できる。

 この「日本語サロン」では、3学期から参加した変人にも最初から担当させてくれた。この点は非常にうれしく感謝している。
 「日本語サロン」は、ある程度、日本語で日常会話が出来る人を対象としているのだが、実際は、日本語の発音・イントネーションなどを学びたいという方や、日常会話もおぼつかないという方が多い。お互いの文化を学ぶどころではないのだ。
 「日本語教室」は、一学期(22回)分の受講料を前払いするが、「日本語サロン」は、お茶代として毎回100円を支払う。
 “サロン”という形式だから仕方がないのだろうが、続けて来られる方が非常に少ないのだ。思うにこれは、相手の希望に応えていないからであろう。発音を学びたいとプロフィール用紙に書いても、発音をきちんと教えているところを見たことがない。
 逆に、韓国人女性から徹底的に発音・イントネーションを教えて欲しいと言われ、変人が発音を教え始めるととたんに、別の男性を担当するように命じられた。
 結局、韓国人女性は、発音を学ぶことなく、旅行の話を女性ボランティアとして帰っていった。それ以後、彼女が来なくなったのは、もちろんのことである。

 この「日本語サロン」には、《同じ人を続けて担当してはならない》という、ご立派なルールがあることを、3月18日に初めて知った。これを言われたときは、愕然とした。というより、不快になった。
 「日本語教室」では原則、一学期間同じボランティアが担当する。それなのに、「日本語サロン」では、《同じ人を続けて担当してはならない》というルールがあるのだ。と言うことは、サロンのボランティアは、続けて担当すると何か間違いでも起こすのだろうか、まるで盛りのついた猫のように。
 そんなご立派なルールは、認めるわけにはいかないので、4月からは「日本語サロン」には、もう行かない。「日本語サロン」は、「ピンクサロン」とは違うはずなのに……。


      古書店に古文書さがす四月かな     季 己

木の芽

2009年03月27日 23時10分58秒 | Weblog
 日差しが日一日と春めいてくると、木々の芽はふくらんで命の輝きを感じさせてくれる。このような芽吹く木々の芽を総称して「木の芽(このめ)」という。
 やわらかな春風が吹き始めると、むずむずとくすぐられたかのように、そこここの木の芽が、緑を噴き出してくる。
 駒ヶ根の旅館でいただいた、山取りのモミジも、もう小さな手を広げ始めている。柳の緑も用心深い顔をのぞかせて、春の気配を探っている。
 冬籠りの木の芽は、もう大丈夫という春の合図を待ちかねて、一斉に飛び出そうと待ち構えている。

        みどり子のまばたくたびに木の芽増え     龍 太

 「みどり子」は漢字で「緑児」あるいは「嬰児」と書き、新芽のように若々しい児の意で、3歳ぐらいまでの幼児をいう。
 何の解説も不必要な、新鮮で愛情いっぱいの気持のいい句である。
 そういえば、伊坂幸太郎さんの兄さんに、二人目のお子さん(男の子)が生まれ、今日、母子ともに元気に退院された由、心よりお喜びを申し上げたい。

 まばゆいばかりに真赤な芽を吹き出す楓、接骨木(にわとこ)の大きな芽、雪柳や連翹の花の蕾。日をおって色を変え、大きくふくらんでゆく木の芽には、咲ききった花や、伸び足りた葉とはまた違った変化の味わいがあり、季節の歩みが感じられて、楽しいものである。

 もちろん、南北に細長く伸び連なった日本の島々では、木の芽時にも、ずいぶんと時期の相違がある。
 5月4日の「みどりの日」を中心として設けられた緑の週間も、終戦直後には、暖かい四国や九州地方では、3月1日から、中国・近畿・中部・関東地方では、4月1日から、東北・北海道では、5月1日と、それぞれ開始の時期に大きな開きがあったということである。


      芽柳やひかりをつれて子が生れ     季 己
 

談林派の特色①

2009年03月26日 20時28分15秒 | Weblog
 宗因風つまり談林派の特色の第一は、貞門風と同じ言語技巧を土台としながら、その利用法を変革した新手法によって、きわめて強烈な滑稽味を出すことに成功した点にある。
 それは宗因が『守武千句』の作風に学び実践した、きわめて特徴的な滑稽表現の手法で、そのため守武流儀の宗因風とさえ呼ばれて、宗因風最大の特質をなすものであった。
 守武流儀とは要するに、“意外性”を原理とした笑いの仕掛けである。優雅な古典や謡曲の文句を、急に俗世界に転落もしくは交錯させる違和感、卑俗にもじるパロディー、非現実の空言で意表をつく手法などが最も多く行なわれたが、根本は常識観念の裏をかく機知のおかしみにあった。
 西鶴などが軽口と呼び、惟中(いちゅう)が寓言俳諧と称して盛んに喧伝したのもみなこの作風の別称というべきものである。そこには、貞門の鈍重不徹底な笑いの比肩を許さぬ絶妙の滑稽的表現効果があり、これが時代の好みにうまく合致して歓迎され、宗因風談林の一時代を現出させる最大の原動力となったのである。

        軽口にまかせてなけよほとゝぎす     西 鶴

 この句には、その成立事情を示す長い前書きがついている。
 それによると、寛文七年(1677)の夏、伏見の西岸寺に任口上人(にんこうしょうにん)を訪ねた際、ちょうどそこに居合わせた淀の人の所望で、任口が一句を詠んだ。その口裏を察して、任口への挨拶に詠んだのがこの句である。
 その夜、大坂八軒屋までの下りの舟の中で、この句を立句に百韻一巻を完了したというのである。

 表面の意は、「ほととぎすよ、軽妙な口調で鳴いてくれ」というにすぎないが、「軽口」には、宗因流の軽口俳諧が寓意され、また「口にまかせて」に、「口に任せて」つまり、「任口」の二字が詠みこまれている。季語は「ほとゝぎす」で夏。

 この百韻は、宗因の批点にゆだねられ、発句に長点(=すぐれたものにつけられる点)と「ほととぎすも追付きがたくや」のほめことばを得た。「ほととぎすの軽口でさえ追付きがたいほど、あなたの軽口はよどみがありません」という意であろう。
 淀川を下る三十石舟の所要時間は、六時間ほどであるから、一句あたり四分弱というスピードであるが、八軒屋到着と同時に「あげ句のはては大坂の春」と、巻きおさめる手際のよさはちょっと信じがたい。フィクションのように思えるのは、ひがみからかもしれない……。

 なお、この百韻の付合一組が、寛文七年(1667)刊の惟中著『俳諧蒙求(もうぎゅう)』に抄録されているから、宗因の批点を得てのち間もなく刊行されたものであろうか。ちなみに、これが西鶴の連句作品の初見であり、また、宗因入門の時期を推定させる資料でもある。


      くちばしの魚ひかりゐる春かもめ     季 己

ながむとて花にも

2009年03月25日 20時07分34秒 | Weblog
          西行法師の花にもいたくとよまれし歌を吟じて
      
        ながむとて花にもいたしくびの骨     宗 因

 この句、万治元年(1658)刊の『牛飼』ほかの書に出て居るが、前書きの有無、内容も一様でない。この前書きは、真蹟といわれる短冊による。

 前書きにいう西行の歌とは、『新古今和歌集』巻二・春下の
        眺むとて 花にもいたく 馴れぬれば
          散る別れこそ 悲しかりけれ
 をいい、宗因の句は、そのパロディーである。
 はかない花のいのちを惜しんで、あまりにも熱心に樹上を仰ぎ眺める日々が続いたので、首の骨が痛くなってしまった、という意である。

 「ながむとて花にも」とくれば当然、「いたく馴れぬれば」と続くことが予想されるのに、その期待をくつがえして突然、「いたしくびの骨」という通俗言語が接続される。
 このとき、本歌の「いたく」(甚く=たいそうの意)は、「いたし」(痛し)という同音異義語に転じられ、その結果、和歌の幻想世界は急転直下、卑俗な現実世界へ突き落とされるのであって、ここに生じる「笑い」がすなわち俳諧なのである。
 この下降化・通俗化・現実化こそ、談林俳諧のいのちなのだが、「散る花の別れを惜しむ」という伝統的本意は、そのことによって少しも歪められはしない。どんなに謎めいた談林の句でも、本意思想がキー・ワードをなしている場合が少なくない。このことは覚えておくといいだろう。

 これまで「談林派」・「花むしろ」・「ながむとて花にも」と、3回つづけて宗因の句について述べてきた。これには理由があるのだが、それはまたのことにして、“宗因風の特色”について考えてみたい。
 宗因の俳諧も、本質的には貞門風とそう大きく違わない。貞門が、俳諧的表現の手段として常用した、縁語・掛詞・もじり・比喩・見立てなどなどの技巧もすべてそのまま踏襲している。

 宗因風――後世、それを談林と呼ぶ――の特色を考える場合、まず、上記の点を押さえてかかる必要がある。それにもかかわらず、当時の俳壇が宗因風、宗因風と熱狂的にこれを支持したのはなぜなのか。
 問題はふたたび、貞門が消極的ながらやっていた俗語と滑稽の強化拡大というところにもどってくる。


      かげろふや石の地蔵の口うごく     季 己

花むしろ

2009年03月24日 20時23分34秒 | Weblog
 桜の花の咲くころともなれば、春らしい暖かさが支配的になる。しかし、低気圧の通り過ぎた後、急に冷え込んだりすることがある。これを「花冷え」・「花の冷え」といい、春の季語となっている。
 今日は、そんな花冷えの一日であった。

        花むしろ一見せばやと存候     宗 因

 「存候」は、正しく読めば「ぞんじそうろう」だが、この句の場合は、五音で、「ぞんじそろ」と読みたい。
 「花むしろ」とは、花見の酒宴などで敷く莚(むしろ)のことで、春の季語。
 句意は、「小袖の幕を張りめぐらした花見の宴、花むしろの上にはどんな美人がいることか、ちょっと覗いてみたい」というのであるが、それは表面の意にすぎない。

 この句は、寛文四年(1664)九月の奥書のある『佐夜中山集』に収められているが、実は、『宗因千句』中の発句で、柳亭種彦(りゅうていたねひこ)旧蔵本の書入れに、当該百韻の成立事情を示す、謡曲『高砂』の次第・道行をもじった長い詞書がついており、その中に「武州江戸のはいかいをも一見せばやとぞんじ候」という文句が見える。
 これらのことから、句は、寛文三年江戸下向の折、江戸の俳風を一見したいという気持を、謡曲『高砂』の「播州高砂の浦をも一見せばやと存じ候」のパロディーによって表現したものであることがわかる。花のお江戸の俳諧ぶりを一通り観察したい、というのである。
 このように、二重の意味を句にもたせるテクニックにも、宗因は長じていたのである。


      雲の冷え花にうつりて吉野紙     季 己

談林派

2009年03月23日 21時36分00秒 | Weblog
        さればここに談林の木あり梅の花     宗 因

 宗因は、本名を西山豊一(とよかず)といい、一幽(いちゆう)・西翁(さいおう)・梅翁(ばいおう)などとも号する。
 慶長十年(1605)、肥後の国八代(熊本県)に生まれる。
 城主の加藤正方に仕えたが、のち浪人して上洛。名門里村家の昌琢(しょうたく)に連歌を学び、四十三歳のとき大坂天満宮連歌所の宗匠となった。
 連歌の余技として始めた俳諧が、斬新奇抜だったため、にわかに脚光を浴びた。寛文期(1661~73年)の中頃から、貞門の古風にあきたらず新風を模索していた人々をその傘下に集め、やがて新しい俳壇が形成された。一般に「談林派」と呼ぶのがそれである。
 談林派の盛期はわずか十年ばかりで、天和期には早くもたそがれたが、天和二年(1682)の宗因の死は、そんな意味でまことに象徴的であった。

 延宝三年(1677)の夏、有名な文学大名、内藤風虎(ふうこ)の招きで江戸へ下った宗因が、田代松意ら江戸談林派を自称するほとんど無名の結社から、千句の巻頭にと請われるままに与えた挨拶の句が「さればここに……」である。
 松意らはこれに力を得て、『談林十百韻(だんりんとっぴゃくいん)』を制作刊行、これが大当たりをとって一躍、「談林」の名を天下にとどろかせることになったという、いわくつきの発句である。

 「されば」は、謡曲によくある発端語で、「さて」の意。
 「談林」は、檀林とも書き、もともとは栴檀(せんだん)の林をいう。栴檀とは、南インド摩耶山から出る香木で、これを焚いて釈迦を荼毘に付したことから、いつしか寺院の称となり、また談林の字を当てて、僧徒の学問の場をもいうに至った。松意らは、俳諧修行の場という意味で、比喩的に「談林」を名乗っていたのである。
 「梅の花」は、好文木(こうぶんぼく)ともいい、文運隆盛に赴くときは色と匂いを増すという。春の季語である。句が作られたのは夏であるが、これは千句の作法によるものである。

 こうして一句は、「さて、ここに梅の花がいまを盛りと咲き匂っています。この『梅の木』は、いってみれば談林の林の木、いまをときめくあなたがた俳諧談林派の象徴ですね」というほどの意になろう。
 褒める“つぼ”を心得た、実に心憎い挨拶句である。


      白椿ふくさたためば夕映えぬ     季 己

豆の花

2009年03月22日 20時38分56秒 | Weblog
 えんどう・そらまめ等の花を総称して「豆の花」というが、古くは蚕豆(そらまめ)の花を指していた。蚕豆は天平のころ、日本へ渡来したといわれる。
 暖かい地方の畑では早春すでに咲くが、寒い地方では、もちろんずっと遅い。
 「えんどう」のピンクの花がひらき始めると、畑の日差しも和らいでくる。蝶形のふくよかな、いかにも春を感じさせる花であり、純白の花もこれまた美しい。
 「蚕豆の花」は細長く、白か淡い紫で、黒い斑点がご愛嬌である。

        そら豆の花の黒き目数知れず     草田男

 秋に蒔いたえんどうの芽が、15、6cmに伸びたところで、長い冬に遭い、霜に打たれ、雪に埋もれて、小さくいじけた葉を枯らすこともなく、持ちこたえてきたものだと感心する。
 春の日脚が伸びる一日ごとに、つぎつぎと新しい蔓を伸ばし、ふっくらと豊かな葉を広げてきたかと思うと、今日この頃は、早くも二、三輪の花を開かせ始めている。

 まだ、蝶の舞うには早い畑に、蝶よりもなお美しい豆の花が、伸び広がった蔓のあちこちに、はらりと、ひっかかったかのように咲いている姿には、「おや、豆の花が」と、思わず眼を見張らせるに十分な美しさが見られる。
 可憐でやさしく、そしてあでやかな豆の花。ただ眺めるだけならば、白花よりも、紫がかった赤花の豌豆の方がいいだろう。

        そら豆の花海へ向き海の声     展 宏

 暖かい海に突き出した岬の畑には、そら豆の花が繚乱と咲き誇っていることだろう。早いのは、もう透き通るような翡翠色の小さな莢をつけている。潮騒も聞こえてくる。

        花揺れてスイートピーを束ね居る     汀 女

 切花として喜ばれているスイートピーは、別名をジャコウエンドウ、ジャコウレンリソウといい、地中海のシチリア島原産で、日本には江戸時代末に渡来した。葉はえんどうに似て、先端は巻きひげとなる。園芸品種が多く、今では世界中に何百という栽培変種が広まっている。

        豆の花どこへもゆかぬ母に咲く     吉 男

 足弱の母なのであろう。「どこへもゆかぬ」とあるが、きっとどこかへゆきたいのだろうが、「ゆけぬ」のだ。そんな車椅子の母に、えんどうの蔓をからませた垣根を見せているのかもしれない。顔のそばの豆の花の甘い香りが、何ともやるせない感傷を呼び覚ますことであろう。

 つい先日、母に「フェレット」という自立する杖を購入した。
 ふつうの杖は、前進するとき必ず杖を持ち上げるが、フェレットには車輪がついているので、持ち上げる必要はなく、ただ車輪を転がして行く感じだ。つまり、手すりにつかまって歩く感じの歩行補助具とでも言えばいいだろうか。
 きのう早速、このフェレットを持って、春日部の菩提寺まで墓参りに行って来た。電車に乗るにもバスに乗るにも、軽くて場所もとらないので、非常に気に入ったようだ。これなら好きなところへ行けると、わくわくしながら練習に励んでいる。


      試歩のばす母にふえゆく豆の花     季 己

2009年03月21日 20時44分59秒 | Weblog
 今日の午前、東京に桜の開花宣言が出た。昨年より1日早く、平年より7日早い開花という。

          水口(みなくち)にて、二十年を経て故人に逢ふ
        命二つの中に生きたる桜かな     芭 蕉

    二十年、絶えて逢うことのなかった旧友二人が、はからずも今こうして
   相逢うことを得た。懐旧の情にことばもない二人の間に、きびしい冬をこ
   えた桜が、いま明るくいきいきと咲きあふれているよ。

 前書きの「水口」は、滋賀県甲賀郡水口町で、東海道の宿駅である。
 「故人」は、死んだ人という意味もあるが、ここでは、ふるくからの友人、つまり旧友のこと。王維の「西のかた陽関を出ずれば故人なからん」の故人と同じ。
 「命二つ」とは、芭蕉自身と門人の土芳(とほう)を指す。

 西行の佐夜の中山での、
   「年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり佐夜の中山」
 の歌が心におかれて、「命二つの」と発想したことはいうまでもなかろう。それによって、西行の歌の心が遠く匂って、みごとな重層性を得ている。
 「命二つの」の「の」がなければ、「命二つ」が一句の表現の中で遊離してしまう。
 これに関して、許六(きょりく)の『俳諧問答』に、「これ『命二つの』と文字余りなり。予 芭蕉庵にて借用の『草枕』にたしかに『の』の字入りたり。『の』の字入れて見れば夜の明くるがごとし」とある。文中の『草枕』とは、『野ざらし紀行』の別名である。
 「命二つの中」とあることによって、いま相逢うた二人の感慨が、桜に投影されてくるのである。「花」といわず「桜」と表現したところも大切である。
 しかも、それを「生きたる」といって、はじめて「命二つの」も手応えのある感動としてせまり、長い厳しい冬を経て生きていた桜が、ようやく春にあって、いま生き生きと咲き出ている。その夜の明けたような明るさが、光り出してくるのである。
 この句、『野ざらし紀行』では「生たる」、『俳諧問答』などに「活たる」と表記し、「イキタル」、「イケタル」のどちらで読むかによって意味も違ってくるが、「イキタル」が通説で、句格もこう読むほうが格段にすぐれてくる。
 「生けたる」では、桜が横から眺められているだけになってしまう。それでは桜と二人の感動とは別のものになり、絵画的な描写に過ぎなくなってしまう。

 土芳の『蕉翁全伝』によれば、播磨に行っていたため郷里で芭蕉に逢うことができなかった土芳が、芭蕉の後を慕って来て幸いに行き逢い、水口で一夜、昔を語りあった際の作だという。
 芭蕉は後に、「土芳にたまはる句」と述べたとも伝えられる。
 「桜」が季語で春。「桜」がそれ自身の本情でつかまれており、「命二つの」という感慨を受けとめ、それを支えるものになっている。


      制服の採寸とかや初ざくら     季 己       

紅梅

2009年03月20日 22時53分22秒 | Weblog
        紅梅やかの銀公のからごろも     貞 徳

 松永貞徳は、元亀二年(1571)生まれの京都の人。
 細川幽斎・九条稙通(たねみち)から和歌・歌学・有職故実を学び、里村紹巴(じょうは)から連歌の指導を受けた。
 中世末から近世初期にかけて、文壇のあらゆる分野にわたって、多くの知友先輩にめぐまれ、その第一人者として活躍した。
 晩年は、とくに俳諧に力をそそぎ、「貞門」の指導者として俳壇を統率し、多くの門人を擁し、俳諧を興隆に導いた功績は大きい。
 和歌・連歌・狂歌などに多くの著作があり、俳諧では、『新増犬筑波(しんぞういぬつくば)』『俳諧御傘(ごさん)』『紅梅千句』などが有名である。
 花の下宗匠と言われ、門人に北村季吟らの七哲がある。
 承応二年(1653)十一月十五日に没した。八十三歳。辞世吟は「露の命きゆる衣の玉くしげふたたびうけぬ御法(みのり)なるらむ」である。

 『紅梅千句』所収のこの句、季語は「紅梅」で春。
 「銀公」は、落語の「金公」や「八公」とは大違い、漢の武帝の后である。その袖の移り香が、梅の花に長く留まっていたという。
 貞徳門の宮川正由(しょうゆう)が、『俳諧良材』でこの句を注して、「古今和歌集の抄に、漢仙記ニ云 銀袖匂移木花古情留、漢武帝ノ后銀公ノ袖ノ香梅花ニウツリテ匂ヲトドメタリト云リ」と説明している。
 「からごろも」は、唐風の衣服をいう。句は、
 「紅梅がみごとに咲いているが、その美しい色艶からは、かの銀公の唐衣のあでやかな装いが思われる」、の意。

 『古今集』の「色よりも香こそ哀れと思ほゆれ たが袖ふれし宿の梅そも」という詠み人知らずの歌などと同様の発想をしており、この歌あたりが、この句を作るきっかけになったかもしれない。
 紅梅のあでやかさから、銀公の故事を結びつけたところが手柄で、彼女の濃艶な姿が連想されよう。紅梅の句に、
        紅梅や竹河ごしに匂ふ宮     夕 翁(せきおう)
        紅梅はたがふれし香の染小袖     立 圃(りゅうほ)
 など、“かおり”や“におい”を扱ったものがあるが、貞徳のように中国の故事に結びつけたものはない。そこに貞徳の得意があったのだろう。
 紅梅の句は、古典的・物語的情緒をさそうが、芭蕉にも「紅梅や見ぬ恋作る玉すだれ」の優艶な句があるが、これは明日にしよう。
 なお、この句は、貞門の代表的な千句、『紅梅千句』巻頭の百韻の発句で、その書名の由来にもなっている。


      うぐひすの空のまぶしき一日かな     季 己

百済野

2009年03月19日 20時31分07秒 | Weblog
                  山部赤人        
        百済野の 萩の古枝に 春待つと
          居りしうぐひす 鳴きにけむかも  (『萬葉集』巻八)

 「百済野」は、百済(くだら)からの帰化人が住みついていたからの名であろう。いま、奈良県北葛城郡広陵町百済に、その名がある。
 百済とよばれる地は、葛城川と広瀬川にはさまれたところにある。ここはむかし応神天皇のときに、朝鮮の百済の人々が来朝して、帰化し居住したところである。また、このあたりに百済池および百済宮址が存在していた。
 百済大寺の址は、いまも田野の中に残っているが、その昔、日本書紀によれば、舒明天皇十一年(639)この地に百済大宮を築き、さらに百済大寺を建立し、その中に九重塔を建てて、三百戸の封を施入されている。
 むかしは百済野といって、野があちこちにあったらしく、『萬葉集』巻八に収められているのが、「百済野の」の歌なのである。

 この歌は空想歌である。もちろん作者は、百済野の萩が記憶の中にあったろう。だが、その萩の古枝(ふるえ)に、春待ち顔に止まっていた冬鶯というのは、ありそうな景色を構えだしたのである。
 赤人は、前に見た景色の記憶を鮮やかに呼び起こすことに長けていた。だが、この萩の古枝の鶯は、優美な構図をそこに趣味的に作り上げてしまったもののようだ。平安朝以降の屏風歌、つまり、屏風絵に合わせて貼られた色紙形に書かれた歌などに多く見られる態度の先蹤というべきである。それは俳句でいう、配合・趣向にまでつながる。「居りしうぐひす」などと言いながら、信用させない。詩人は見てきたような嘘をつく。

 作者にとっては、どこの鶯でもよかったに違いない。萩の古枝の鶯も記憶にあったと思う。百済野という土地の限定が、フィクションだったのかも知れない。
 百済野はこの歌の「花」であり、「萩の古枝に春待つと」が「実」なのである。この土地の名には、百済大寺の衰微についての感慨も流れていよう。萩の古枝は、葉が枯れ落ちた裸の枝、そこに冬鶯が餌をあさっていたという、荒涼たる冬景色が記憶にあった。その鶯にも春がやって来たことだろうと、あたたかく想像しているのである。

 「鳴きにけむかも」の「けむ」は、文法的には過去の想像であって、その通り訳せば、「鳴いたっけな」ということになる。しかし、「けり」と大差なく使われていることが多い。けれども、「鳴きにけむ」は、鳴いたということを直接に経験したら言えないはずである。だから、この数日間の暖かさを経験した作者が、これならもう鶯が鳴き出したことだろうな、と想像しているのである。
 その鶯は、萩の、去年のままの枯れた枝に止まっているのを作者が見たことがあるので、その鶯を、春の来るのを待っているのだと作者はうけとったのだ。その鶯に思いをはせているわけで、そこにこの歌の特殊性がある。

 しかし、こういう想像は、赤人の場合、やがて、

   「春の野に すみれ摘みにと 来し吾ぞ 野をなつかしみ ひと夜寝にける」(『萬葉集』巻八)

 野のなつかしさにひと夜そこに寝た、というのは嘘である。そして、そういう生活が優美で文学的な生活だと、赤人は考えているのである。しかも、こういうねらいを持ったものが文学だとして、尊ばれるようになっていった。後世、赤人が、人麻呂と並んで歌聖としてもてはやされたのは、このような歌の作者としての赤人であった。


      黄水仙 切口上の女かな     季 己

感謝する

2009年03月18日 20時15分44秒 | Weblog
    「何ごとも、感謝されたいと思って何かをするのではなく、
     そうさせてもらえることを自分自身で感謝することが大事です」

 これは、2009年版 瀬戸内寂聴 卓上カレンダー「招福」3月にある言葉。
 簡単に言えば、「よろこんで与える人間となろう」ということだろうか。
 この“よろこび”は、単なる歓喜ではない。おわびと感謝の心で、物品や行為に執着なく他に差上げることのできる“よろこび”である。
 したがって、“与える”といっても、自分は大金持ちだからとか、地位が高いからとかいう思い上がりからではない。差上げる方から「ありがとうございます」と、もらって頂けるご縁に感謝する行ないである。

 よろこんで与える行為を“布施”という。布施(ふせ)の“布”は布(し)くと読む。カーペットを床に布くように、世間に施(ほどこし)を布きめぐらすのが布施である。
 布施は金品がなくても、また誰もが、いつ・どこででも出来る。これを“無財施(むざいせ)”という。
 無財施は、資財がなくても出来る布施という意味だけではない。差上げる行為も、また相手の大きな喜びも金額に換算できない絶対の価値であるから無財と呼ぶ。
 では、このような無財施とは何であろうか。たとえば、やさしいほほえみ・あたたかい言葉やまなざしなどは、お金がなくても出来る。
 まだある。おもいやりは物がなくても出来る。乗物の中などで、座席を譲るのにもお金は要らない。
 お客に対しても、思い出に残るような、家庭や職場のよい雰囲気も、まごころがあれば出来るのである。

 中国にこんな話がある。
 5世紀の中頃から6世紀の半ばごろにかけて、中国では梁(りょう)という国が大国であった。ことに武帝は、仏法に深く帰依(きえ)し、多くの寺を建て、有為な僧を育成し、仏教護持につとめた。また武帝は、自分から進んで袈裟をかけて、仏典の講義をしたり、経典の注釈書を著したり、写経にも励んだので、世間からは「仏心天子」と呼ばれて尊敬されていた。
 ちょうどそのころ、達磨大師は、インドから海路、広州(広東省)へ上陸した。
 武帝は、広州の知事からこの知らせを聞いて大いに喜び、礼を厚くして達磨を首都の金陵(南京)に迎えた。
 武帝は得々と、自分がしている仏法護持や篤信の実践を披瀝し、ついに、「これだけのことをしているが、如何なる功徳があるか」と達磨に意見を求めた。もちろん、武帝は、達磨の答えに期待をかけたろう。
 しかし、達磨の答えは、ひどく武帝を失望させた。いわく「並びに無功徳(いずれも功徳にならぬ)」と。功徳とは、善行の結果として得られる果報や恩恵をいう。これこれの善事をしたのだから、それ相応の見返りを算定するなら、それは功利的行為で、宗教的実践ではない。

 われわれは悪い行為をする可能性を十二分に持っている、にもかかわらず悪に流れず善ができることそれ自体が大きな恩恵であろう。
 そのほかに何か利益があると考えるのでは、欲が深すぎる。しかも、われわれは他のためにした善行はよく覚えているが、他から恵まれた恩は忘れがちだ。

 達磨の言い切る無功徳は、前述のような道徳律を超え、あらゆる執着心を奪いあげるはたらきを持つ。信心であろうと財産であろうと、執着心がはたらいたら無功徳だ。富める者の執着だけではない。「飢人の食を奪う」と、一切の執着心を根こそぎ奪い、捨て切ろうとする。
 執着心がないとする執着心をも殺しつくすのが、無功徳の語なのである。

 やれ観光ボランティアガイドだ、やれ日本語ボランティアだ、などと吹聴しているうちは、ほんまもんのボランティアではないのだ。そんなことは忘れ、いや忘れたことさえ忘れて、ひとさまのお役にたてることを感謝することが大事なのだ、とあらためて反省させられた。


      小綬鶏のこゑ暁を鷲づかみ     季 己 

花の雲

2009年03月17日 20時38分53秒 | Weblog
 咲きつらなっている桜の花を雲にたとえて、「花の雲」という。花の雲というのは、桜の花を遠望した情緒をいうようである。
 日本の詩歌では伝統的に“花”といえば、“桜の花”をいい、俳句においても花といえば、桜の花を示す。

        花の雲鐘は上野か浅草か     芭 蕉

 のどかな春の日和に誘われ、ここ深川の草庵の縁側から対岸の上野・浅草あたりを遠く眺めわたしてみると、一帯は花が雲かと見まがうほど咲き誇っている。そのせいか、響いてくる鐘の音まで、あれは上野の鐘であろうか浅草の鐘の音であろうかと、聴きわけようとするが、その音は駘蕩たる花の雲の中にとけこんでいて、聴きわけがたい。

 花も朧、鐘も朧の、大江戸の春景色である。
 其角の『末若葉』によると、前年春の作、

        観音のいらか見やりつ花の雲     芭 蕉

    病後のものうい目を、家々の屋根のかなたの観音堂の甍(いらか)に
   やっていると、そのあたりは一面、もう花も盛りで、花の雲がひしめい
   ていることだ。

 と二句一連の格をなす作品であるという。とすると、この句は、かすかに菅原道真の「都府楼ハワヅカニ瓦ノ色ヲ看(み)、観音寺ハ只鐘ノ声ヲ聞ク」(『和漢朗詠集』「閑居」)の愁情を下敷きにしているように思える。
 つまり、駘蕩たる大江戸の春光を外にした閑居の気味を読み取るのが、一句の勘所ということになる。其角が、この句にわざわざ「草庵」という前書きを添えて掲出したのも、彼のそのような理解と配慮を示すものといえる。
 もっとも、芭蕉自身は、真蹟などに何とも前書きをつけていないので、あまり強くこじつけてはならないだろう。

 両句とも深川の草庵での吟だが、当時は、人家もまばらで、浅草の観音様の大甍が遠く望見できたのであろう。「見やりつ」という語調に、病み上がりのものうい気息が感じられる。見ようとして見ているのではない。おのずから見ていた、気がつくと見ていた、という気持なのである。

 また、「鐘は上野か浅草か」のなかに、草庵の春、静かにあたりの自然に身を任せた姿が見られる。境に身をゆだねた人の大きな安らぎが、この句の調子の上に流れている。ちなみに、上野は寛永寺、浅草は浅草寺の鐘をさすものであろう。


      大いなるかげり浅草黄砂来る     季 己