壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

また寄り添はん

2010年11月30日 22時43分44秒 | Weblog
        冬籠りまた寄り添はん此の柱     芭 蕉

 旅に年を送り迎えた芭蕉が、住みなれた深川の芭蕉庵に帰っての、心からのつぶやきであろう。いつも背をもたせた柱を眼前に身ながらの吟と思われる。「また」・「此の」は心情のこもった表現である。
 旅に憧れ、一所不住の境涯を求めながらも、馴れたその住処にしみじみ心ひかれている姿がみられる。旅にひかれつつも、住むところに愛着を感ずるこの姿に、かえって芭蕉の真の姿があるように思える。

 「また寄り添はん此の柱」の出典が、古来考えられている。白楽天「閑居賦」の「閑居シテ復タ此ノ柱ニ寄ル」などを初め、「柱に寄る」という想はかなり多い。特定の出典を考えるまでのことはなかろう。

 季語は「冬籠り」で冬。これからの冬籠りを心に置いての、柱の把握である。

    「今年はこの庵に冬籠りをすることになったが、寄り馴れたこの柱に
     また寄り添って、閑(しず)かに冬をすごそうと思う」


      報恩講いまだ寄り添ふ人もなく     季 己

木の葉

2010年11月29日 20時58分12秒 | Weblog
          大津にて
        三尺の山も嵐の木の葉かな     芭 蕉 

 大津あたりの実景に即しての吟であろう。
 「大きな山々はもちろん、小さな三尺ほどの山も」というほどの気持であって、「三尺の山も」という把握の働きが生きている句である。

 「三尺の山」は、小さな低い山を強調していったもの。
 「嵐」は、木枯(こがらし)のことで、初冬に吹く強い風。木を吹き枯らすということから「木枯」という。「凩」は国字で、「風」を意味する「几」と「木」を組み合わせたものである。

 季語は「木の葉」で冬。「木の葉」は「のは」と読む。「のは」といったら、季節に関係なく一般的な樹木の葉を意味することになる。

 美しく紅葉していた木々は冬になって、はらはらと葉を落とすようになる。紅葉・黄葉・褐色の葉・白茶けた葉……。地上に散り敷き、あるいは水面を彩り、冬の深まりとともに消えてゆく。枝を離れて散ってゆく葉、すでに落ちている葉、どれも落葉である。
 短い間にことごとく葉を落とすもの、ゆっくりと時をかけて散ってゆくものなど、木によってさまざまな様相を呈する。桜落葉・柿落葉・銀杏落葉・朴落葉などと樹名をを冠すると、その姿が、まざまざと浮かびあがる。
 降り積もった落葉を踏んで歩くときの感触、音、香りに、冬の訪れを実感する。しきりに葉を落とすさまを、雨や時雨になぞらえて落葉雨(おちばあめ)、落葉時雨(おちばしぐれ)という。落葉風(おちばかぜ)は、落葉を誘う風をいう。

 散ってゆく木の葉、散り敷いている木の葉のみならず、落ちようとしてまだ梢に残っている木の葉も含めて「木の葉」という。
 「木の葉」は確かに「落葉」と同義に使われてきた。しかし、より抽象的なことばであり、描写はより動的に、散りかかり、かすかに鳴り、風にひるがえるさまなどに向いている。
 俳句は短詩である。一~二音の利きが勝負になる。「木の葉」・「落葉」の句が出来たら、どちらがよいかよく吟味することが大切

    「どの山も今、木枯が吹きすさんで、数にも入らぬような
     この三尺ほどの低い山にも、嵐で吹き散らされた木の葉が、
     飛び乱れていることだ」
 

        浄閑寺(投込寺)にて
      吹きだまりまで来し落葉 幸(さき)くあれ     季 己 

冬ごもり

2010年11月28日 22時39分05秒 | Weblog
        冬ごもり燈下に書すとかゝれたり     蕪 村

 「冬ごもり燈下に書す」とかかれたり――の意味である。したがって、混乱をきたさないためには、上五を「冬ごもりて」または「冬ごもりゐて」とでもすればよいのである。
 しかしそれでは、単に、ある文章の序跋の事実を説明しただけに終わる。この事実を基として、冬ごもりの情趣を広々と限りないさまにさせて、作者自身もその中に没入せしめる――つまり、書中の人物の冬ごもりと、作者現在の冬ごもりとの二つの世界を一つにする――そのためには、「冬ごもり」という季題の言葉を、あらゆるものと一応切り離したように冒頭にすえて一句の中心たらしめる必要があったのである
 「書すとかゝれたり」と、この部分だけを見ると重複した拙い表現のようであるが、「書す」までが古人の世界であって、その外側を「とかゝれたり」という、作者現在の冬ごもりの世界が囲んでいることを暗示しているのであって、はなはだ巧みな表現といわざるを得ない。
 季題を添え物として扱ったのではなく、からめ手から季題を扱って、しかもかえって季題の情趣が力強く一句を統率しているのである。
 蕪村の作品の中でも、類型を絶った表現方法である

 季語は「冬ごもり」で冬。「冬ごもり」は、冬の間、寒気を避けて家の中に閉じこもっていることをいう。冬ごもり(冬籠)とは、古来、動植物が冬の間、活動を停止すること。


      書き損じめつきり減りぬ冬ごもり     季 己

いとほし

2010年11月27日 22時43分04秒 | Weblog
        みどり子の頭巾眉深きいとをしみ     蕪 村

 「眉深き」は、「まぶかき」と読み、「いとをし」は、「いとほし」と書くのが正しい。また、「みどり子」は嬰児、幼児、赤ちゃん。

 「眉深きいとをしみ」は、「眉深きいとほしみ」と、動詞の連用形で止めたのではなく、「眉深きそのいとほしみ」と、名詞の形で止めたのである。
 「いとほしさ」では、作者の気持が中心になりすぎる。蕪村は、「いとほし」の感をそのまま嬰児の姿として、具体的に表したかったので、文法的にはやや無理な「いとほしみ」の語感の方を選んだのであろう。
 また、「いとほし」は、「どりご」の「」と首尾を整え、「ぶかき」の「」とも「マ行」の音で、相応じ得るように整えられているのである。

 季語は「頭巾」で冬。

    「戸外に出る赤ちゃんに、頭巾(ずきん)がかぶらせてある。
     それが大分ゆるいとみえて、縦抱きにされていると次第に
     垂れさがってきて、眉を越し眼まで隠れそうになった。しか
     し、赤ちゃんは泣きもしないで、しずかに睫毛を瞬きつづけ、
     紅い唇をちんまりと合わしたままでいる。そのありさまは可
     憐(かれん)さそのものである」


      ニット帽ふかぶかかぶる癌かかへ     季 己

苦き話

2010年11月26日 23時02分45秒 | Weblog
          菜根を喫して、終日
          丈夫に談話す
        武士の大根苦き話かな     芭 蕉

 「丈夫」は「じょうふ」、「武士」は「もののふ」と読む。
 この句は、『芭蕉翁全伝』によると、元禄六年の冬、玄虎すなわち伊賀上野の藩士、藤堂長兵衛守寿の江戸の藩邸で詠まれたものという。
 玄虎の藩邸を訪れての発句であるから、当然、挨拶の心をこめていわれているのである。

 「大根苦き」は、「丈夫ハ菜根ヲ喫ス」などの由緒を負って、ほめ言葉として使われている。と同時に、平俗なものに興ずることによって、一座のやや堅苦しい空気をくつろげ、俳諧への導入をはかったものであろう。今風にいえば、空気を読んだのである。
 前書の付け方などにも、玄虎と心が交流する場を作り出そうとする、芭蕉の心づかいが読み取れる。
 「丈夫ハ菜根ヲ喫ス」は『菜根譚』にある語で、「才能が人よりすぐれた立派な男は、野菜の根を喰う、つまり粗食である」ということを踏まえているのであろう。
 「大根(だいこん)」については、『徒然草』の、筑紫の押領使(おうりょうし)が敵襲を受けた際、「土大根(つちおおね)」が兵士と化して敵を退けたという話を、話題ともしたのであろうといわれている。
 「苦き」は、質実なありようを感覚的にいったもので、決していやがる気持ではない。

 季語は「大根」で冬。「大根苦き」の「苦き」が生かされて、力のある発想である。

    「今日は一日、もののふと語り合う機会に恵まれました。さすがに
     折り目正しいお話ばかりで、ちょうどこうして頂戴している大根の
     ぴりりと苦いのと同様、まことに身の引きしまる思いでございます」


 ――予感が当たった。抗ガン剤治療が初めて4週目で出来たのだ。通常は3週目ごとにするのだが、好中球が1500を超えないと治療は延期される。
 変人の場合、これまでは、3週目は好中球が750前後、4週目が1250前後で、5週目でやっと1750前後となって治療が出来る、というパターンであった。それが4週目の今日、好中球が1940有り、他の数値もすべて治療可であった。体の回復が早くなったのだ。その理由はわかっている……
 先日(11月18日)、『画廊宮坂』の宮坂さんに『松山庭園美術館』へ連れて行って頂いた。その際、コノキ・ミクオ先生から「健康にいいから」とおっしゃって、長芋を頂戴した、お土産に。また奥様からは‘しおがま’を。そのうえ宮坂さんから、昼食・夕食とご馳走になった。これで体力が戻らないわけがない。だから、次の治療は4週目であるが、絶対に出来ると確信し、それが現実となったのだ。
 こうして、多くの方々の思いやりの心に包まれている自分を、なんと幸せ者かと、感謝の気持ちで一杯である。この恩返しは、変人は変人らしく「端楽(はたらく)」、つまり周囲の人々のお役に立つことだと考え、ボランティア活動にももっと力を入れよう。自分自身の「生き甲斐」のためにも。


     とろろ汁 五臓六腑がふつふつと     季 己

ふとん

2010年11月25日 20時28分00秒 | Weblog
        虎の尾を踏みつつ裾にふとんかな     蕪 村

 主人公は、酒呑童子のような人物であっても、わがままな殿様であっても、放埒なお大尽であっても、いずれでもいい。ただ、このような場面と「虎の尾を踏みつつ」の言葉の活用とが、一句の眼目なのである。
 蕪村の連句の中にも、
        添ふしにあすら(阿修羅)が眠うかがひつ
 というのがある。全く同一の発想である。蕪村においては、俳句と連句との世界の間に、芭蕉におけるようなはっきりとした区別が存在しなかったという事実を、この一句からでもうかがうことが出来る。

 「虎の尾を踏む」は、非常な危険を冒すことのたとえ。

 季語は「ふとん」で冬。「蒲団(ふとん)」は、掛蒲団・敷布団の類一切をいう。羽蒲団は、鳥の羽毛を入れたもの。背(せな)蒲団は、胴着に似た防寒具。腰の冷えを防ぐものが腰蒲団。肩蒲団は、寝るとき肩の冷えを防ぐもの。搔巻(かいまき)は、綿が薄くて小さい夜具。衾(ふすま)は、寝るとき体の上に掛ける四角な夜具。「布団」とも書く。

    「無法なわがまま者は、ついに畳の上へ酔い倒れたまま眠り込んでしまった。
     これで迷惑なお相手を務めることだけは一応免れた。けれどもこのまま放っ
     て置けば、醒めた後の叱責が恐ろしい。そうかといって、へたに蒲団を掛け
     て目を醒ましたら、またその怒りが恐ろしい。女は生きた心地もなく、おっか
     なびっくり、とにかく裾の方へ蒲団を掛けようと忍び寄ってゆく」


      背蒲団の母来て櫛の忘れもの     季 己

霜夜

2010年11月24日 23時04分23秒 | Weblog
        からからと折ふしすごし竹の霜     芭 蕉

 霜夜のものさびしさの中に、竹の音をとらえ、ぞっとするほどものさびしい感じを出しえている。
 この句は、年代不詳の霜月十七日付、甚左衛門宛真蹟書簡集にあるが、疑いのあるものとされている。しかし、句そのものは、季感の真実に感動してなった、捨てがたい佳句といえよう。

 「からから」は、竹の触れあう音。冴えたものさびしい感じのする擬声語である。
 「折ふし」は、折からの意。「ふし」は、竹の縁語である。
 「すごし」は、①寒く冷たく骨身にこたえるように感じられる。
        ②恐ろしい。気味が悪い。すさまじい。
        ③ぞっとするほど、ものさびしい。
        ④恐ろしいほどすぐれている。すばらしい。
 などの意があるが、ここでは③。
 書簡の宛名「甚左衛門」は、どういう人物か不明。

 季語は「霜」で冬。竹をよく生かしている。

    「霜の冴えた夜。しんかんとした中で、竹の触れあうカラカラという音が
     聞こえ、折も折とて、何とも、ぞっとするほどの寂しさを感じることだ」


      若き子と冬あたたかく夜を帰る     季 己

夢中吟

2010年11月23日 22時31分59秒 | Weblog
        冬こだち月に隣をわすれたり     蕪 村

 この句の後に、
        「この句は夢想に感ぜし也  同二句」
 として、
        二村に質屋一軒冬こだち
        このむらの人は猿也冬木だち
 が、続いて誌されている。つまり、これら三句は皆、夢中吟であるというのだ。
 しかし、句の内容を吟味してみると、夢中の世界らしい縹渺(ひょうびょう)とした雰囲気に乏しく、作為を絶った無意識、無計画の所産であるとは認めがたい。夢想云々(うんぬん)という蕪村の但し書きは、この三句の感興を倍加させるための、技巧的方便であろうと思われる。
 真の夢中吟としては、あまりにも首尾がととのいすぎていることに気づく。

 季語は「冬こだち」で冬。

    「我が家は、垣の境に、幹の白い冬木が亭々と並んでいる。これらが
     皎々(こうこう)たる月光を得て、あかあかと映えているときには、身
     は人界を絶した冷徹の別天地にあるかの思いに占められて、隣家
     の存在などは、しばらく意識の外に消え去ってしまった」


      逢ふ人を待つや冬木が翳伸ばす     季 己

ほのかに白し

2010年11月22日 21時33分00秒 | Weblog
          海辺に日暮らして
        海暮れて鴨の声ほのかに白し     芭 蕉

 闇の中に鴨がほの白く見えるので、「鴨の声ほのかに白し」と表現した、ととるのは理詰めでおもしろくない。鴨の声そのものの感じを、直観的(※)に「白し」と感じとったのである
 ことに、「海辺に日暮らして」というのであるから、しだいに夕の光の消えてゆく過程を心に置かないと、この句は動きのないものになってしまう。
 海がしだいに暮れていって、最後に「鴨の声ほのかに白し」となるのである。また、これを表現するのに、五・五・七のリズムであらわしているのも注目すべきである。
        海暮れてほのかに白し鴨の声
 といったのでは、闇へ広がってゆく心の波動がなくなってしまい、「鴨の声」も「ほのかに白し」も生きてこない。

 季語は「鴨」で冬。鴨の季感がよく生かされている。『一葉集』などによれば、貞享元年十二月十九日、旅中の吟。

    「しだいに光が薄れていった海面は、やがてとっぷりと暮れて、
     暗い沖合から白い波頭が打ち寄せ、鴨の声がほのかに聞こ
     えてくる。闇から聞こえてくるその声に聴き入ると、その声に
     いつかほのかな白さが感じられてくる」

         ※「直観」は、判断や推理などの思惟作用の結果ではなく、精神が対象を直接
          に知的にとらえる作用。「直感」ではなく「直知」である。


      いい夫婦をしどりが目をつむりをり     季 己 

        (11月22日は語呂合わせで「いい夫婦」の日)    
           

木の葉散る

2010年11月21日 22時38分46秒 | Weblog
          暮秋 桜の紅葉見んとて、吉野の奥に
          分け入り侍るに藁沓に足痛く、杖を立
          ててやすらふほどに
        木の葉散る桜は軽し檜木笠     芭 蕉

 一見、なんの奇もないような句だが、いろいろの葉の中から、桜の落葉の音の、かろがろとした感じを聴きとっているところに惹かれる。
 「軽(かろ)し」は、「檜木笠(ひのきがさ)」にもかかる。
 貞享元年(1684)、『野ざらし紀行』の旅の句と見られている。

 季語は「木の葉散る」で冬。和歌では古く、秋として意識され、連俳でも、「木の葉かつ散る」は秋とされる。この句は、前書によると、暮秋に詠まれたもののようである。

    「檜笠をかぶって旅行くと、しきりに木の葉が散りかかる。
     中でも桜の葉は、笠に降りかかって、かろがろとした音を
     たてていることだ」


      木の葉降る徒食のわれと無為のわれ     季 己

石枯れて

2010年11月20日 23時01分18秒 | Weblog
        石枯れて水しぼめるや冬もなし     桃 青(芭蕉)

 冴えた水が石を沈めたり、めぐったりするところに冬らしい生気が感じられるのだが、それがないところを、漢詩的な口調で発想したもの。
 後年、蕪村に
        柳散清水涸石処々(やなぎちり しみずかれ いし ところどころ)
 という句があるが、比較してみるとおもしろい。(拙ブログ 2010/10/30 参照)
 出典の『東日記』からみて、延宝八年(1680)以前の作。

 「石枯れて水しぼめるや」は、石が乾いて露出したり、水が涸れかけてしまったりすることを、木が枯れたり花がしぼんだりすることに比していったもの。
 「冬もなし」は、冬の感じもしないの意。

 冬の句。雑あるいは「冬枯」。

    「冬が深まり、木が枯れ花がしぼんださまに石が露出し、それをめぐる水が
     涸れかけてしまうと、かえって、冬の感じもしないことだ」


      枯れふかむ怒りの虫も棲むブログ     季 己

葱と枯木

2010年11月19日 23時10分06秒 | Weblog
        葱買うて枯木の中を帰りけり     蕪 村

 芥川龍之介が「俳句に於ける近代は此句より始まる」と断じて以来、同様の意味の言葉を口にする者が増えてきた。しかし、「意味」の世界からほとんど完全に縁を絶って、感覚そのものの存在価値を主張したという意味での「蕪村における近代」は、決してこの一句の上にのみ認められるものではない。ただ、この一句が、特殊な題材を扱わず全体の姿が単純であるだけに、そこにこめられた近代的感覚の鋭敏さが、顕著に眼を惹(ひ)くのである。

  「ねうて」「のなを」「へりり」
 と、「カ行」の音による整調が、葱と枯木との与える冷たく固い感覚に合致し、全体のすらりとした単純な形式とも調和している。

 季語は「葱」で冬。「枯木」も冬の季語であるが、ここでは「葱」が主で、「枯木」が従。

    「葱一把を買って、手に提げながらたどってきた家路は、いつしか
     枯木立に両側を囲まれた場所へかかった。ここは、しいんと静か
     に大気の動きさえない。葱と枯木、小と大の差こそあれ、共にす
     らりと細く、共に眼に沁むように寒々と白い。いつしか我が身さ
     え細々と、また寒々となったような気がしながら、なおも歩みつ
     づけてゆく」


      矢切葱 菰巻にして渡し船     季 己

豆腐に落ちて

2010年11月18日 23時19分27秒 | Weblog
        色付や豆腐に落ちて薄紅葉     桃 青(芭蕉)

 軽い感興の句と思う。『山之井』に、芭蕉の師である北村季吟の、
        うすやうか紅葉がさねのかみな月
        落葉や青地のにしきこけの庭
        羽二重は人のそめたる紅葉かな
 のような句があって、この句の源をなしている。
 『俳諧当世男(はいかいいまようおとこ)』にも、
        朝風や紅葉をさそふ豆腐箱     重 秀
 がある。

 「色付」は、「いろづけ」・「いろづく」の二通りに読める。「いろづく」だと、白い豆腐の上で紅葉が色付く意となるが、やはり、薄紅葉が豆腐に色付けをしている感興にとりたい。
 古く「紅葉豆腐」というものがあり、豆腐に紅葉の印を押して売ったものという。もと堺の特産。

 季語は「紅葉」で秋。

    「薄紅葉が、真っ白な豆腐料理の上に落ちてきた。薄紅の色付けをして、
     あの紅葉豆腐をつくりあげようとしている感じであるよ」


      峻介を観て庭園の照紅葉     季 己

山城へ

2010年11月17日 22時32分39秒 | Weblog
          途行吟
        山城へ井手の駕籠かるしぐれかな     芭 蕉

 謡曲の口調をおもかげにして、発想しているように思う。かつて芭蕉がしきりに試みた手法である。それが、旅心のはずみを生かす表現として、即興風に再びここに用いられているのである。

 「山城へ」は、山城(今の京都府の南部)を目ざして、の意。「へ」の働きは重要視したい。
 「井手(いで)」は、京都府綴喜(つづき)郡井手町。井手の玉川(玉水)と呼ばれ、山吹・蛙(河鹿)で名高い歌枕。奈良から京への街道筋に当たる。ここでは、「出(い)で」の意をこめるとともに、名高い「井手」への興に即して、「いで」と心ひきたてる感じをふくめていよう。
 謡曲「百万」に、
        あをによし奈良の都を立ちて、……山城に井手の里……
 などとある。
 あるいは、「井手の蛙(かわず)」を「井手の駕籠(かご)」と転ずるおかしみや、山吹・蛙の季節でないことを嘆ずる気持があったかも知れない。
 「かる」は、「借る」と「駆る」とを掛けていると解したい。

 季語は「しぐれ」で冬。「しぐれ」のあわただしさの本意を生かしたもの。「しぐれ」は「時雨」と書き、冬の初めごろ、晴れていたかと思うとさっと降り、たちまちあがってしまう雨。「しぐるる」と動詞にも使う。
 時雨のさだめない降り方に、古来、世の儚(はかな)さや空(むな)しさを託して詠まれた和歌は枚挙(まいきょ)にいとまがない。芭蕉は俳諧において、それをいっそう深めた。芭蕉の忌日(陰暦十月十二日)を「時雨忌(しぐれき)」という。

    「山城へ出でんとする途中で時雨に降られ、その名も名高い井手の里
     への駕籠を借りて、先を急がせたことである」


      藁屋根の時雨にひかる峠口     季 己

鯨売

2010年11月16日 22時40分09秒 | Weblog
        鯨売市に刀を鼓しけり     蕪 村

 鯨売りが町へあらわれて、大きな包丁で肉を切っては売る――ただ、それだけの事実である。それを「市(いち)」といい、「刀(かたな)」といい、「鼓(なら)しけり」といったために、ある種の物珍しい感じと、北斎の描く人物のような、一種の唐様の色彩が添ってくる。漢語を使ってはいないが、文字の印象が主となり、全体が漢語調となっている。
 俳句に限らず、味付け・飾り立てられた作品は、概して、見たままの平凡単純なものが多い。

 「鯨」は、海に棲息(せいそく)する哺乳類の大きな動物。「シロナガスクジラ」は、体長30メートル、体重150トンに達する。体長数メートル以下のものは「海豚(いるか)」と呼んでいる。「イワシクジラ」や「ザトウクジラ」は、春から夏にかけて日本近海を群れをなして泳いでくる。「マッコウクジラ」は、腸内の結石から竜涎香(りゅうぜんこう)という貴重な香料を採取した。鯨油は加工原料として、鯨肉は食用として有用であるが、現在、世界的に捕獲が禁止されている。「勇魚(いさな)」は、鯨の古名である。
 「鼓し」は、「ならし」と読み、「鳴らし」の意。ただ、「鼓」の字を宛てたのは、リズムをつけて、勢いよくたたくさまを、表したかったからだと思う。現在、柴又帝釈天の参道で見られる「飴切り」のような。

 季語は「鯨」で冬。

    「冬になったので、鯨売りなる者が町に姿をあらわし、大きな包丁で
     おおげさな音をたてて、紅色の鯨の肉を切売りしていることだ」


      一隅をまもれば応ふ冬北斗     季 己