壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

秋の夜を

2008年10月31日 15時04分52秒 | Weblog
        秋の夜を打ち崩したる話かな     芭 蕉

 「二十一日、二日の夜は、雨もそぼ降りて静かなれば」と、『笈日記』に前書がついているが、それは『笈日記』の編者支考がつけたものである。
 もっとも支考は、奈良以来ずっと芭蕉に付き添っているから、この句の作られた夜は、雨がしょぼしょぼ降っていたと信ぜられる。
 芭蕉の、意専・土芳宛ての手紙には、「秋夜」と前書がつけてある。

 元禄七年(1694)九月二十一日夜、大坂の車庸亭(しゃようてい)での七吟半歌仙の発句として作られた句で、季語は「秋の夜」。
 「打ち崩したる話」は、しかつめらしい話ではなく、うちとけた、にぎやかな、明るい談笑であろう。その「打ち崩したる」は、また、上の「秋の夜」を受けてもいて、秋の夜の静けさ、寂しさを破り、一座がにぎやかに、さんざめいている様子である。
 雨がしょぼしょぼと降る秋の夜の寂しさを打ち消し、固さをときほぐすように、一座の人々がにぎやかに談笑しているさまであるが、しかしふと気がつけば、まわりは暗い、さびしい秋の夜で、一座の中だけが明るく、華やかなのである。
 芭蕉が「秋夜」と前書をつけたのは、華やかな中に秋の夜のあわれが底にあると考えたからであろう。

 実はこのときの一座七人の中には、大坂の芭蕉門で多少の対立関係にあった之道(しどう)と酒堂(しゃどう)が居り、芭蕉は二人の間を取り持とうという気持もあって、こういう発句を詠んだのではと想像される。
 そう思えば、弾む談笑の中に加わりながら、しかし一方で二人の間を気遣う、覚めた心の芭蕉の胸中には、「秋夜」のあわれが沁みたことであろう。


      長き夜の「モダンタイムス」茶を熱く     季 己

 

鹿の声

2008年10月30日 21時23分29秒 | Weblog
 日本の秋は昔から、月・秋草・紅葉・虫の音・鹿の声などの風物に象徴されてきた。
 なかでも鹿の声は、暮れてゆく秋の哀れそのものを現わしていると言えるであろう。

 百人一首に残る猿丸太夫の、
        奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の
          声聞くときぞ 秋はかなしき
 は平安時代であるが、奈良時代からその鳴き声は、舒明天皇の、
        夕されば 小倉の山に 鳴く鹿の
          今宵は鳴かず 寝ねにけらしも
 と心に留められていた。

 手向山(たむけやま)の紅葉を賞でて、鹿の声を聞いた奈良の都の人々、大堰川に紅葉を眺めて、小倉山の鹿に涙した平安京の人たちにとっては、こうした歌も、決して観念的な作りごとではなく、実感から滲み出た「もののあはれ」であったろう。
 晩秋の交尾期には、牡鹿が牝鹿を呼ぶためにピーッと高く強く鳴き、ひとしお哀愁を覚える。

        びいと啼く尻声悲し夜の鹿     芭 蕉

 出典は、弟子の杉風(さんぷう)に宛てた書簡である。
 元禄七年(1694)九月八日、芭蕉は郷里の上野を立って大坂へ向かい、その夜は奈良に一泊した。そのとき同行した支考の言によれば、宿に着いて宵寝をしたが、月が明らかで、鹿の声があちらこちらで聞こえ、風情があったので、夜中の十二時ごろ、猿沢の池のほとりに吟行に出かけたときの作だという(『笈日記』)。
 鹿の鳴き声は、古来、和歌でよく詠まれている素材である。和歌と同じような詠み方を俳諧でしては、俳諧の存在理由がない。
 和歌で詠む鹿の鳴き声は、秋の交尾期に妻を呼ぶ牡鹿の高い声であるが、それは「びい」という鳴き方ではない。この句の「びい」と鳴くのは牝鹿の方であろう。もっとも季語としての「鹿の声」は、和歌の伝統に発したものだから、当然、牡鹿の妻呼ぶ声であるが、芭蕉は雌雄の鳴き声をはっきり弁別せず、暗い中で牝鹿の「びい」と鳴く声をとくに牝鹿とは思わず、ただ秋の鹿の鳴き声として詠んだのであろう。
 暗い夜更けに「びい」、「びい」と鳴く鹿の声の余韻は、哀切なひびきを伝える。「びい」という擬音語、「尻声」という俗語などを駆使した、そのつかみ方は、和歌にはなかった鹿の鳴き声の把握で、いかにも俳諧らしい。

 芭蕉が、この句をはじめ奈良での諸作を書き入れた手紙を、門人の去来や正秀に送ったところ、二人を含め多くの門人たちが「奈良の鹿、殊の外に感じて」、それぞれ自分たちも鹿の句を詠んだことが、句と共に『笈日記』九月十六日の条に記されている。
 なお、諸本に多く「ぴい」と引用されているが、杉風宛書簡(写真版)には「びい」と濁点がある。つまり、p音ではなく、b音ということである。

 鹿は、日本産の野生動物の中では、大型の代表的な動物であるが、なかなかその自然の生態を見ることはできない。
 その点、昔から奈良の春日神社(現在は春日大社)で飼われている鹿の群を見ることは、狭い日本に住む現代のわれわれにとって、得がたい喜びである。
 秋の夜を若草山の麓の宿に泊る機会があれば、妻を呼んで鳴く鹿の声を、たやすく枕元に聴くことができるであろう。
        恋風は何処を吹いたぞ鹿の声     蕪 村
        やさしさや鹿も恋路に遊ぶ山     一 茶
 などの句は、こうした鹿の心情を思いやってのことであろう。


      寝返りを打つてもひとり鹿の声     季 己

蘆刈

2008年10月29日 21時42分00秒 | Weblog
 「所変われば品変わる」という諺があるが、これとは反対に、土地土地によって、呼び名が違うことを、「難波の蘆は伊勢の浜荻」という。
 大阪では蘆(アシ)で通っているものが、伊勢では、浜荻と名を変えて呼ばれるということだが、もう一つ加えれば、江戸では葦(ヨシ)である。
 もっとも、「蘆」というと、「悪し」に通じるので、「吉し」に通じる「葦」に変えたという、いかにも縁起かつぎの江戸っ子らしい選択である。
 それにしても、鳥の名の「葦切り」とか「葦の髄から天井のぞく」(=自分の狭い見識で、広い世界のことについて勝手な判断を下す)という諺まである、「葦」という漢字が用意されていたとは面白い。
 浅草裏の隅田河畔の葦原は、「吉原」とさらに縁起をかついで、字が改められている。

 蘆は、イネ科の多年草で、各地の水辺に自生する。地中に扁平な長い根茎を走らせ大群落を作る。蘆の芽が角ぐむと言われるように、春先には角のように尖った固い芽を伸ばして、やがて、二、三メートルの高さにまで成長する。
 秋が来ると共に、薄の花にも似て、それよりも大きな穂を出し、多数の紫がかった花を開く。
 晩秋、空が澄んでくるころ、川や沼の蘆が枯れはじめる。これを刈り取って簾などを作ったりする。刈束を車に積んだり、舟に乗せて漕ぎ戻るさまは、なかなかに風情があり絵になる光景である。
 刈り終わった後の水の広さが寒々と眼に迫り、冬の近さを思わせる。

 蘆刈の句といえば、高野素十の次の句が双璧だと思う。この句には、山本健吉の非常に優れた鑑賞があるので、そのまま記す。

        また一人遠くの蘆を刈りはじむ     高野素十
   水郷風景。一面の蘆原である。蘆刈る人がおちこちに点々と望まれる。
  と見ると、また新たな一人が遠くの蘆を刈りはじめた。ここにも素十の単
  純化の極致がある。遠望の一人の動作を描き出すことで、大きな水郷風景
  を彷彿たらしめる。調子が一本通っていて、「刈りはじむ」とM音で結ん
  だところ、引き締まるような快感がある。

        蘆刈の天を仰いで梳(くしけづ)る     高野素十
   ここにも描かれたのはたった一人の蘆刈女の動作である。ここでも作者
  の魂は写生の鬼と化している。広々とした蘆原に、夕日の逆光線を浴びて
  たった一人の女性の、天を仰いだ胸のふくらみまで、確実なデッサンで描
  き出している。
   素十には動詞現在形で結んだ句に秀作が多い。この形は説明的・散文的
  になりやすいが、それを防いでいるものは彼の凝視による単純化の至芸だ。
  抒情を拒否して、彼は抒情を獲得している。
                 (山本健吉『現代俳句』角川文庫より)


      蓑虫のうしろ吹かるる絵天井     季 己

一座建立

2008年10月28日 21時47分01秒 | Weblog
 下落を続けていた株価が、ようやく上向き始めたようだ。
 遠出をした帰り、日本橋に寄り、証券会社の電光掲示板を見つめていた。いかにも株を持っているふりをして。(でも、どう見ても株を持っているようには見えないか) 
 その足で、銀座の「画廊 宮坂」へ行き、楽しみにしていた『菅田友子 日本画展』を、舐めるように見せていただく。あげくに、図々しくも<オープニングパーティー>にも……。

 帰宅後、『広辞苑』で、「一座建立(いちざこんりゅう)」を引いたら、
   「猿楽などで、一座を経営して立ち行かせること」
 とあった。つぎに、「一座」を引いたら、
    ①第一の上席。上座。
    ②同じ座にすわること。同座。同席。
    ③その座席全体の人。満座。
    ④(説法・連歌・講演・講談などの)一回。一席。
    ⑤能役者・俳優・芸人などの一団体。
 と、多様な意味合いを持つ。

 「一座建立」は、本来は『広辞苑』にあるように、猿楽などで、一座を経営していくことを言った。
 今でも劇団などで「○○一座」という呼称を、見たり聞いたりする。さらに、お茶会で、「一座建立」という名称を用いる。
 一人で、一座建立が出来るであろうか。大勢の者が集まり、協力して初めて一座が建立されるのではないか。
 劇団の一座が、座頭(ざがしら)はじめ、舞台の奈落の底で働く無名の要員までが、エゴイズムを捨てて脚本に焦点を合わせてこそ、一座は成り立つ。それは、音楽の楽団にあっても同じことがいえよう。
 劇団でも楽団でも、その構成員が、観衆や聴衆の喝采をねらってするエゴ的なスタンドプレーは許されない。もしそれをあえてするなら、その当人の自殺行為となるだろう。全員が、お互いに自分も生き他を生かしていく“保ち合い”のこころがあって、はじめて「一座建立」となる。

 劇団は、いろいろな配役が協力して、一座が建立される。善人だけで一座が出来るものでもないし、悪人ばかりで建立されるものでもない。
 “保ち合い”とは、まことに風雅な呼び名だ。“保ち合い”というと、今では株式相場が変動せずにつづいている状態を言うが、本来は“もちあい”とも言って、互いに力を合わせて持つことを言うので、たんなる取引用語ではない。

 人生もまた、善人悪人によって、一座が建立されていく。
 舞台上でこそ、いがみあい・争い・わめき・怒るが、緞帳がおりて楽屋へもどれば、善人も悪人もないではないか。
 オープニングパーティーの善人の中に、一人くらい悪人ならぬ変人がいても、まあ、いいか……。


      煩悩のひとつふたつが花野道     季 己     

南天の実

2008年10月27日 22時39分40秒 | Weblog
 「秋の日は釣瓶落とし」というが、その夕映えに、ふと気がついて見ると、もう玄関脇の南天の実が赤くなって、花の乏しくなった暮の秋を美しく彩っている。

        うつくしき夕映えのあり実南天     春 樹

 これから冬を越して、来る春の日まで、南天の実は、いつまでも褪せることのない紅玉の房で、われわれの眼を楽しませてくれるのだ。
 その間、幼稚園では、園児らのままごと遊びのご馳走にもなるだろうし、雪国では、雪兎のかわいい眼にもなることだろう。

 南天は、「難を転ずる」といって縁起のいい木とされ、庭園に植えられる。拙宅では、玄関の脇と裏口の脇に植えている。高さは二メートルほどだが、三メートルを超すこともあると聞いている。
 梅雨の頃、白い小さな花を穂状につけていた。それが、花のあと丸い小さな実をたくさんつけ、いま赤く色づいている。

 南天は、南天燭とも、南天竹とも、南燭とも、南天竺とも、いろいろに漢字を当てられる中国原産の植物である。
 白い実の白南天、淡黄色の潤南天、紫色の藤南天などがある。乾燥させた南天の実は、昔から咳の薬として用いられ、とくに白南天の実がよく効くとされている。

 この南天が、初めてヨーロッパに紹介されたのは、元禄三年(1690)に我国へ来た、オランダ人のケンペルによって描かれた、南天の花や葉の絵によったものという。また、十八世紀の末に、日本の植物を研究したツンベルグは、これに、ナンディナ・ドメスティカ・ツンベルグという学名を与えている。おそらくナンディナというのは、日本語のナンテンから取ったものであろう。
 事実、今から七百八十年ほど前に記された、藤原定家の日記『明月記』の寛喜二年(1230)六月二十二日の条には、
   「暮レニノゾミ、中宮ノ権ノ大夫、南天竺ヲ選バレ、前栽ニ之ヲ植ウ」
 とあるから、その頃すでに、南天が庭木として用いられていたことが知られる。


      南天に近づく日暮れ観世音     季 己

病雁

2008年10月26日 21時56分56秒 | Weblog
        病雁の夜寒に落ちて旅寝かな     芭 蕉

    空の一角を、雁が鳴きながら渡ってゆく。じっと耳を澄まして聞くと、
   この夜寒の中を、群とともに飛ぶに耐えず、地上に舞い落ちてくる一羽が
   いるようである。あれは、おそらく病んでいる雁なのであろう。
    その病雁の声を、身につまされて聞きながら、自分もこうして病む身の
   旅寝を侘びていることだ。

 『猿蓑』に、「堅田(かただ)にて」と前書がある。
 この句、「病雁」は、「病む雁(かり)」と訓読するか、「ビョウガン」と音読するか、あるいは「病む雁(がん)」と湯桶読みにするかが問題である。
 読み方に諸説があり、一定しない。とすれば諸説は諸説として、まず、自分で口ずさんでみるほかはない。
 ‘かり’が文語的、‘ガン’は口語的な言い方とすれば、「落ちて」が「降りて」の古い言い方だから、「やむかり」と一貫したくもなる。「ビョウガン」説も有力で、声調に侘びしさがこもり、捨てがたい味がある。しかし、少しくどいきらいがある。

 「病雁の夜寒に落ちて」から、雁の旅寝と作者の旅寝が一つのものとなる。そこが、この句の読みどころで、落伍した雁と一つになるところで、作品は深さを得たのである。
 「病雁」とまでいうには、よほど作者自身に侘びしい思いがあったのであろう。事実、芭蕉はひどい風邪で寝込んでいたのだが、その侘びしさが句の地色になっている。
 そういう時に、琵琶湖のあたりに落ちる雁の音を聞きすまし、自分の身を置くところから、細く心をこらして、病雁を自己の象徴として把握してくるのである。
 だから、自らを病雁に比したととるのは逆で、旅寝の雁に自己の孤独と相通うものを感じているとするのが正しいと思う。

 芭蕉は、決して写実的な新鮮さを無視していたわけではない。しかし、「病雁」の句のように、対象中に細く深く浸透する行き方を何より大切にしていたことは、いうまでもない。
 「古人も作の跡の見えざる句を以て、上品(じょうぼん)の沙汰有り。なほ先師の、『病雁の夜寒に落ちて』といへる句の類ならん」と、去来は書いている。

 「夜寒に」は、夜寒の中でというほどの意。
 「落ちて」は、飛ぶに耐えないで群を離れて地上に舞い落ちることをいったもの。近江八景の一つである「堅田の落雁」を意識しているかもしれないが、落伍するという語感ををもつようである。
 「旅寝かな」は、「病雁の」を受ける語勢ももつが、自分が旅寝することを主にした表現とみる。

 「夜寒」も、このころすでに秋の季語として成立していた。ここでは「雁」そのものの情感がとらえられた使い方になっているので、「雁」が季語で、秋季とみたい。


      献花台 桜もみぢの裏おもて     季 己

秋刀魚

2008年10月25日 22時07分15秒 | Weblog
 大型スーパーの「秋の駅弁祭り」で、駅弁を買った帰り、カメラをぶら下げた男女の集団と出会った。見るともなしに見ていると、みな戦前からの木造家屋が被写体のようだ。 
 このあたりは、昔は三河島といい、典型的な下町というより場末と言ったほうが当たっている。傾きかけた軒、玄関脇の雑然と並んだ植木鉢の花など、一人がカメラを向けると、すぐに他の人もカメラを向けシャッターを切る。
 どうして一つの方向からしかものを見ないのだろう、と自分のことは棚に上げて、その場を去った……。

 秋が深まるにつれ、市場に溢れるほどにとれるのが秋刀魚であるが、今年はどうであろうか。魚が苦手な変人には、興味がないのでわからない。
 ただ、ひとさまの句を拝見するのに、知識として一通りのことは承知していないと、失礼になると思い、勉強しているに過ぎない。

        あはれ
        秋風よ
        情(こころ)あらば伝へてよ
        ――男ありて
        今日の夕餉に ひとり
        さんまを食ひて
        思ひにふけると
         (中 略)
        さんま さんま
        さんま苦いか塩つぱいか
        そが上に熱き涙をしたたらせて
        さんまを食ふはいづこの里のならひぞや
        あはれ
        げにそは問はまほしくをかし

 あまりにも有名な、佐藤春夫の「秋刀魚の歌」の最初と最後の一節であるが、こんな句もある。
        
        男あり晩き夕餉の秋刀魚焼く     寛 彦
        秋刀魚焼く鰥(やもめ)に詩あり侘しとや     蓼 汀

 ‘秋刀魚’と書くように、サンマは秋の魚である。ことに東京では、五月の鰹と並んで、秋刀魚は、食膳になくてはかなわぬ秋の味覚、といわれている。
 夏の間は北海道方面に群れており、水温が下がると、三陸沖から太平洋岸を南下して、鹿児島あたりまで泳いでゆくという。
 秋刀魚は、十月、十一月の頃に脂ののりきった盛りの魚が、房総沖の網にかかって、関東地方の家々の食膳を賑わせる。
 関西では、サイラと呼ぶが、あまり南へ行くと、身がしまり過ぎて、脂も少なくなり、冬の干物にすることが多く、秋の関東ほど美味しい魚とはされていない。
 関東では、「サンマが出るとアンマが泣く」と言われるほど、栄養価が高く、値段は低い、庶民の魚として、大歓迎されてきている。

 通が言うには、秋刀魚は、鮎と同じく、少々苦味のある腸の風味が珍重されるもので、脂の多い腸を抜かず、そのまま炭火にかけて、じゅうじゅうと滴る脂にパッと焔が上がるような塩焼きを、大根おろしにお醬油をかけて食べるのが、野性味豊かなご馳走だ、とのこと。
 落語の「目黒の秋刀魚」は、まさにその大衆料理の真髄をついたものであろう。

        秋刀魚焼く煙の中の妻を見に     誓 子
        火だるまの秋刀魚を妻が食はせけり     不死男

 こんな風景は、今日のようなアパートやマンション暮らしでは、近所迷惑で、それも出来たものではない。
 秋刀魚は、江戸時代には季語とされていないようで、それほど尊重されなかったらしい。だが、毎年秋になると、鰯や鰊と同じように、季節の回遊魚として親しまれ、今もって衰えることはない。


      だしぬけに秋刀魚のけむり三河島     季 己

団栗(どんぐり)

2008年10月24日 22時01分30秒 | Weblog
        どんぐりころころ どんぶりこ
        お池にはまって さあ大変
        どじょうが出て来て 今日は
        ぼっちゃん一緒に 遊びましょう
 
 ご存知、童謡「どんぐりころころ」である。昨年、「日本の歌百選」に選ばれた。この歌詞に出てくる「どんぶりこ」は、ドングリが池に落ちた音の擬音語であるが、‘どんぐり’に引かれて「どんぐりこ」と間違えて歌う人の、なんと多いことか。
 幼稚園で新卒の先生を採用する際、突然、この歌を歌ってもらい、正しく「どんぶりこ」と歌える先生は、採用してまず間違いがない。
 
 ころころ転がる団栗は、子供たちの大の仲好しだ。
 柏・楢・樫・一位・クヌギ・椎などブナ科に属する木の実は、同じブナ科でも、栗の実とは大違いの不出来な従兄弟たちで、ドングリと一まとめに呼ばれている。
 橡栗(とちぐり)の転かともいわれるが、‘まるい栗’の意で、団栗と書くようになったらしい。
 団栗は、渋くて生ではとても口に合わない。それだけに、好んで食べられる栗とは違って、棘の恐ろしい毬をまとって、外敵を防ぐ必要はない。
 いかにも鄙びたお猪口に乗って、艶々としたかわいいふくらみを見せている団栗は、秋の山に遊ぶ子供たちを、夢中にさせずにはおかない愛嬌ものである。

        団栗やころり子供のいふなりに     一 茶
 とか、
        笠敷いて着ること知らず小楢の実     乙 二

 などの句は、その童心の世界を詠んだものである。
 芭蕉に団栗を詠んだ句はないが、橡(とち)の実を詠んだ句が、一句だけある。

        木曽の橡浮世の人のみやげかな     芭 蕉
 
    木曽の山奥で拾った珍しい橡の実を、世の営みに追われて山奥を知らぬ
   人々への土産としよう。

 「浮世の人」という言い方は、浮世の外にいる自分の身のありかたを意識した言い方である。俗人への土産にしようという意に解すると行き過ぎで、浮世の外の旅の土産として、世の常の生活をする人に、珍しがられ喜んでもらおうという、和らいだ気持だととりたい。

 水楢や白樫の団栗が、半分以上も深々とお猪口の中に収まって、まるまるとした頭をのぞかせているところは、山形あたりの郷土玩具にある、籠の中に収まった人形を思わせる愛らしさがある。
 また大粒の団栗の中心に軸を通して、独楽遊びをしたり、いろいろ細工を加えて郷土人形を造るなど、なかなか楽しみの多いものである。

 秋、実る木の実を‘木(こ)の実’と総称するが、やはり小粒で色彩の地味な、そしてこぼれやすい団栗・樫の実・椎の実などが、ほんとうの木の実であろう。
 その木の実でつくる木の実独楽――も美しい夢のある季語である。
 さかんに降りこぼれる木の実の音を、木の実しぐれ・木の実雨ともいう。
 秋はロマンの時候であり、その精髄が、この一群の季題でもあろうか……。


      掌にのつてさみしくないか木の実独楽     季 己

平山(ならやま)

2008年10月23日 21時53分05秒 | Weblog
                 笠 女 郎(かさのいらつめ)
        君に恋ひ いたもすべなみ 平山の
          小松が下に 立ち嘆くかも (『萬葉集』巻四)

   あなたに焦がれて、ひどくやるせないために、こちらの平山(ならやま)の
   小松原のところに立ちつくして、嘆息をもらしているばかりでございます。
 という訴えである。
 「訴ふ」は、感覚または心にはたらきかける意で、「歌う」と同義ではなかろうか。「小松が下に 立ち嘆くかも」というところが、ひどく、われわれの心を刺激するのだ。

 笠女郎の歌は、『萬葉集』中に二十九首あるが、すべて大伴家持に贈った歌である。この歌は、巻四にある、二十四首のひとまとまりの中にあるもの。

 平山は、いまの奈良山のことで、若草山の西の、かなり広い地域にわたっての低い丘陵地帯で、部分称として、佐保山・佐紀山がある。
 ‘ナル・ナロ・ナラ’とは、今でも、低く平坦な高地を意味し、平山(ならやま)の文字がそれを示している。平山の麓に開いたから、平城京であり、奈良なのである。
 佐保川が若草山麓をめぐって平地に出、奈良山の南を西流しているが、佐保川と奈良山のあいだが佐保の内と言われ、大伴氏その他の豪族・皇族の邸宅があった。
 だから、奈良山に立って南を見下ろせば、すぐ目の下に、家持の邸が見えたはずなのである。家持からすれば、この歌は、邸からすぐ仰がれる丘で、気強い女に立ち嘆かれたという圧迫感があったことだろう。

 「いたもすべなみ」は、『萬葉集』の中にも多くの用例があり、坂上郎女や家持も使っていて、常套文句であったと思われる。月並みな言葉を口にしているあいだに、「平山(ならやま)の」の固有名詞に行き着いて、作者の姿勢がきまってくる。下二句の正直で飾り気のなさが、続いてうちだされる。「平山の」が、すぐ「小松」を導き出すことは、「平山の小松が末(うれ)の」(巻十一)の例からも想像できる。

 笠女郎は、萬葉末期の女流恋愛歌人の代表であろう。相当な才女であるが、この時代になると、歌としての修練がすでに必要になってきているから、藤原朝あたりのものとも違って、もっと文学的にならんとしつつある。
 しかし、この歌のいかに快いものであるか、後代の歌に比べて、いまだ萬葉の実質の残っていることを思わねばならない。
 情熱的な表現の歌が多いが、同時に女歌の作歌技巧の習練を積んでいることを感じさせる。

 ところで、平井康三郎作曲の有名な歌曲「平城山」も、「ならやま」と読む。作詞は北見志保子で、磐之媛皇后御陵の周辺をさまよったときにつくった短歌七首のうちの二首に、平井が曲をつけたものという。
        人恋ふは かなしきものと 平城山に
          もとほりきつつ 堪へがたかりき
        古(いにしへ)も 夫(つま)に恋ひつつ 越えしとふ
          平城山のみちに 涙おとしぬ

 北見志保子も情熱歌人で、与謝野晶子に次ぐくらいの恋愛歌人でもあったようである。恋愛はさておき、早く、名曲「平城山」を自在に、篠笛で吹けるようになりたいものだ。高音が非常にむつかしいが……。


      火吹竹吹くにはあらず秋の雨     季 己      

蓮の実飛ぶ

2008年10月22日 21時54分51秒 | Weblog
        さればこそ賢者は富まず敗荷     蕪 村
 
 青々と茂っていた蓮の葉が、秋風が吹き始めるとしだいに破れて風に鳴り、寂寞とした姿になる。これを俳句の世界では、敗荷(やれはす・やれはちす)、破れ蓮などという。
 蓮は日本人の生活に密着したもので、蕪村などは早くから敗荷の風情に俳味を発見していた。蓮の実が熟れて飛ぶのも敗荷のころである。

        蓮破る雨に力の加はりて     青 畝

 夏の日を華やかに咲きつづけた蓮池に、まれに遅れ咲きの花を見ることはあっても、破れた蓮の葉が傾き、時雨が降り注ぐこの頃には、蓮池を訪れる物好きな人はあまりない。
 人気(ひとけ)のない池の端にたたずんで、いたずらに重なりあった破れ蓮を見渡すとき、あたかもそれは、鬼気迫る廃墟に立つにも似た、不気味さを感じるものである。
 まして、その葉陰から、にょっきり突き出した花托が、もうすっかり実の飛び散った、穴ばかりのうつろな姿を見せているのは、ひとしお侘しいものである。

 蓮の実は、未熟なうちは柔らかくて甘味があり、皮をむいて、生のまま食べることもできるし、ご飯に炊き込んでも風味があり、乾燥して砂糖漬けにしたのは、中国料理の点心として重宝されている。
 ところが、この蓮の実も、秋が深まり熟すると、石のように固くなるので、「石蓮子(せきれんし)」と呼ばれ、とても口には合わない。
 かつて、大賀一郎博士の実験で、二千年前の泥炭の中から発見され蓮の実が芽を出し、花を咲かせたことがあった。それも、この石のように固い皮のお蔭であった。

        静さや蓮の実の飛ぶあまたゝび     麦 水

 その石のように固い蓮の実が、子房から抜け出て、水の中へ飛び込むのを、俳句の季語では、「蓮の実飛ぶ」というのである。


      蓮の実の飛んで禅寺煙出す     季 己      

松茸

2008年10月21日 21時57分39秒 | Weblog
 浅草雷門で都バスを降り、数歩、歩いたら松茸の強烈な香りにつつまれた。かなり前から香っていたが、今日のは特別。角の青果店の店頭からである。
 いよいよ松茸のシーズン到来か、とはいえここ数年、松茸などは食したことがない。夏の走りの早松茸は別として、九月ごろから市場に出始める信州もの、やや遅れて香りの高い京の松茸、さらに量産を誇る広島のものだけでなく、大衆向けの韓国、中国、東南アジアなどなど、高値で売れる松茸が、どんどん入ってくる。今日のは京の松茸?

 江戸っ子の‘初鰹’以上に、松茸は、日本人のほとんどが血道を上げてというくらい、夢中になる秋の味覚である。ただ、自分自身は、美術品には血道を上げるが、松茸は特に食べたいとは思わない。
 「匂い松茸、味しめじ」とよくいわれるが、もう一つ加えれば、栄養価の高いのは椎茸ということになるだろうが、〔茸狩り〕といえば、松茸に限られるほど、松茸の魅力は絶大である。

        松茸や知らぬ木の葉のへばりつく     芭 蕉

   これが当地でとれた松茸です。松茸とはいいながら、他の名も知らぬ
  木の葉がへばりついておりますよ。

 松茸に添えられた句と考えられるので、上のように解するのがよいと思う。相手に語りかける口調で、嘱目(しょくもく=俳諧で、目にふれたものを即興的に詠むこと)の感興を詠じたもので、何か寓意があるとみるのはいらぬ詮索であろう。日々の生活をいとおしみ、身辺の些細な一事一物にも心を動かす詩人の面目をうかがうに足りる。
 「へばりつく」も、その葉が何の葉とも判別しがたいまでにぴったりと、松茸の肌についている感じを出して、松茸の手触りまで感じられる。
 「知らぬ木の葉」は、松以外の何の木のものともわからぬ木の葉の意であろう。
 「木の葉」も季語であるが、この句は「松茸」が秋で句を支配する。「松茸」の感触だけでなく、「松」という名称を契機とした即興的発想になっている。

        取敢へず松茸飯を焚くとせん     虚 子

 最近は天井知らずに高価な松茸である。松茸が手にはいったとなると、あれにもしたいこれにもしたい松茸料理の数々に、わずか二、三本の松茸に背負いきれないほどの期待がかけられる。
 土瓶蒸しはもちろんのこと、濡れた和紙で包んで火鉢の灰に埋めて焼き、まだ湯気のたっている熱いうちに、指で割いてポン酢で食べる焼松茸。関西風に鱧の切り身を添えた土瓶蒸し、賽の目に切った絹ごし豆腐を添えたおすまし。子供の喜ぶ松茸ご飯。これでは、とてもすき焼きまではかんじんの松茸が足りなかろう。松茸のフライやバター焼きときては、せめて五、六本は欲しいものだ。


      ほつほつと雲の子そだつ茸山     季 己

ブルーマンデー

2008年10月20日 21時53分49秒 | Weblog
 さわやかに、黒いまでに澄みわたった天。台風一過の晴天は実にまばゆい。
 この絶好の秋日和を、‘ひねもすのたりのたり’と、家で過ごす。郵便物を取りに、郵便受までいった以外、外へ出ていない。
 月曜日は、多くの博物館・美術館や図書館が休み。まさに変人にとってはブルーマンデー?

 伊坂幸太郎の『モダンタイムス』と、宮城谷昌光の『風は山河より』を交互に読み進める。
 目が疲れると、篠笛の練習。今回の練習曲は、夏川りみの『涙そうそう』。
 吹きはじめて思い出した。在職中、幼稚園のお遊戯会で、年長さんが踊った曲が『涙そうそう』だった。身体にしみつくほど聞かされた曲だ。
 タイトルどおり、聴けば聴くほど涙がこぼれそうになる。ことに、「はれわたるひも あめのひも うかぶあのえがお おもいでとおくあせても」の部分がいい。
 今週の土曜日の稽古日までに、なんとか吹けるようにしなければ……。夏川りみの声がまだ耳に残っているので、ガチガチに緊張しなければ、音だけは出せると思う。
 手が疲れると読書、目が疲れると篠笛を繰り返す。

 日本画家の菅田友子先生より封書が届く。
 10月28日(火)から11月2日(日)まで、銀座・画廊宮坂で開かれる先生の個展の案内状と、いつもの絵手紙が同封されていた。今回は、ハロウィンの楽しい絵だ。無精で、お礼状も差し上げていないので、個展会場でまとめてお礼を言おう。この個展は、毎年楽しみにしている個展の一つだ。

 造幣局からは〔造幣局製品のご案内〕が来た。例のシリーズ第3集のプレミアム貨幣セット(島根県)の案内だ。
 第2集の京都府も応募したが、いまだ払込用紙は送られてこない。抽選は9月24日に行なわれ、当選者には10月中旬に払込用紙を送付するとのことなので、全部ハズレかもしれぬ。今回の倍率は6.36倍とのこと。確率的には2枚当たってもいいはずだが、どうなることやら。
 もし全滅したら、このシリーズの購入はやめる。コインショップで、1万5千円も出して買うつもりはさらさらない。
 額面(千円)を大幅に上回る発売価格(六千円)で抽選販売する造幣局。これが全都道府県分、47種類も発売されるのだ。運よく全部当選しても、28万2千円プラス葉書代がかかる。すべてをコインショップで購入したら、70万円以上かかってしまう。まったくコレクター泣かせである。

 地方自治法施行60周年記念とはいえ、カラーコインにする必要はなかろう。
 たとえば、通常貨幣の500円をデザインのみ替えて、順次47種類発行し、通常貨幣として流通させたほうが、コレクターが増えるのではないか。負担も2万3千5百円ですむ。できれば、100円貨幣が望ましいが、小さすぎて図案の楽しみが減ってしまうのが難点である。

 このままプレミアム貨幣として販売するなら、希望者全員にいきわたるよう30万枚くらいの発行数を望みたい。
 また、12月には、カラーコインとは別に、毎回〔五百円バイカラー・クラッド貨幣〕が発売される。これらの五百円貨幣は、全国の金融機関の窓口で額面交換されることになっている。
 したがって、プレミアム貨幣の発行は不必要で、造幣局の資金稼ぎと思われても仕方あるまい。

 菅田先生のお手紙で心はバラ色になったのに、カラーコインの案内で、気分はブルー。やはり今日は、ブルーマンデーか。けれども、ローズ・チューズデーが待っている!


      十月や都バスにひとの子をあやす     季 己

行く秋

2008年10月19日 21時55分14秒 | Weblog
        蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ     芭 蕉

 『おくのほそ道』は、この一句で終わる。「……旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて」と前文があり、この句を置いている。大垣に集って芭蕉の無事を喜んだ弟子たちへの別れの挨拶である。

   長旅の末、ここ大垣の人々にあたたかく迎えられたが、今また自分は、
  伊勢の遷宮を拝そうという心に惹かれ、蛤が蓋と身に引き裂かれるよう
  な思いで、伊勢の二見をめざし再び旅立とうとしている。いよいよその
  別れに際してみると、周囲の風物には秋の行く気配がひとしお感じられ
  て、流転のおもいを新たにすることである。

 『おくのほそ道』のあの長い旅をひとまず終えて、ゆとりのある気持ちで伊勢に向かおうとしているのだ。伊勢への道は、これまでの旅とは打って変わって、勝手知ったる道でもあり、二十年に一度という遷宮を拝もうというのであるから、それにはおのずと心のはずみも湧く。大垣に心を残しながら、伊勢に惹かれてやまない心の動きがここにはある。
 そうしたゆとりとはずみとは、自然と句の発想の上にも影を落とし、興じた句調が生まれてきている。

 「蛤(はまぐり)」といったのは、西行の
        今ぞ知る 二見の浦の 蛤の
          貝合せとて おほふなりけり (『山家集』下)
 があったからであろう。
 「蛤のふたみ」と「蛤」を枕詞のように使って、和歌で「ふた」にかかる枕詞「玉櫛笥(たまくしげ)」を「蛤」と言い換えたところが俳諧。櫛笥とは、櫛などの化粧道具を入れておく箱のことで、「玉」は美称。
 この句で「ふたみ」、「行く」が掛詞であることはいうまでもない。
 以上のように、枕詞・掛詞ふうの措辞になっているが、これは意識的に修辞的技巧を凝らしたというよりは、困苦に満ちた長旅の果ての自在な心から、口をついておのずと現れてきたものであろう。

 この句を、作品『おくのほそ道』に即して言えば、冒頭の「草の戸も住替る代ぞ雛の家」をうけて、万物流転、人生は無限に続く旅であるとの思いがこめられていることになろうし、「行く春や鳥啼き魚の目は泪」に対して、首尾相応じた見事な結構を完成し、作品をしめくくっていることになるのである。
 ただし、「行く春や」の句は、事実としては旅行の門出に当たって作られたものではなく、元禄六年ごろ『おくのほそ道』執筆の際に、「行く秋ぞ」の句に呼応させて作られたものと考える。


      縄文のヴィーナスの眼も秋深む     季 己

あけび

2008年10月18日 21時46分04秒 | Weblog
        むらさきは霜がながれし通草かな     水 巴

 「通草」と書いて「あけび」と読む。また、「あけび」は「木通」・「燕覆子」と書くこともあるが、「通草」がふつうであろう。
 通草が熟して、割れる季節となってきた。見上げる通草の蔓に、美しく紫がかった実がおもむろに割れて、中には黒い種子の透けて見える白い肉が、むっちりと熟した肌を覗かせている。

 通草のように野趣に富んだ木の実は、林檎や柿などのように、人手の加わった果物とは違い、腹が膨れるほどの食欲を満たすものではない。
 けれども、あの黒い種子を吐き出しながら、甘味の濃い乳にも似た果肉を口に含むとき、冷ややかな山の空気を舌で味わう、素朴で健康な幸せが感じられる。通草の実は、母なる大地が、野の子・山の子をはぐくむ乳にたとえることが出来よう。

        鳥飛んでそこに通草のありにけり     虚 子

 人も鳥も分け隔てなく、自然の恵みを与えるのが、通草である。
 通草は、アケビ科の無毛の落葉性低木で、山野に自生する。四月ごろ淡い紫色の小さな花を咲かせる。秋に熟す実は、長さ6~7センチほどで果皮は厚く、熟すと縦にひとりでに開いて黒い種子を含んだ白い果肉があらわれる。
 「あけび」は、「開け実」、または「開けつび」の意という。「つび」は「粒」の古語であろう。
 
 少女の名にふさわしい‘朱実’という言葉も、霜に打たれて、赤みを加えてきた、この「開け実」の野生的な健康美を取り上げたものと思う。

 通草の木を、‘あけびかずら’と言うように、その蔓は、籠細工によく用いられる。籠に編むのは、葉が三枚の三葉通草の蔓で、これは蔓が太くならず、秋から冬にかけて蔓を刈り取り、10~30日も水に浸す。皮を剥ぎ、芯材を水に晒して乾かし、その太さに応じて、椅子や寝台、鞄やバスケット、小さなものでは、菓子器や手提げ鞄などの精巧な細工に用いられる。
 製品は、県の物産展やアンテナショップで購入できる。


      口閉ぢし子にあけびの実高すぎる     季 己

絵を描くように

2008年10月17日 22時01分01秒 | Weblog
 「俳句では、自分の思ったことが言えない」とは、よく聞く言葉である。
 これに対して、「俳句は思ったことを‘述べる’文芸ではなく、感じたことを具体的な物を通して、象徴的に表現する詩である」と言うと、初心者は、「物では自分の感じたことが、相手に伝わらない」と主張する。
 はたして、そうであろうか。「私は悲しんでいます」と、自分の思いを言葉で言わなくても、悲しい顔という‘物’を見れば、その人の悲しさは容易にわかるはずである。

        更行くや水田のうへの天の川     惟 然

 元禄十一年(1698)に刊行された『続猿蓑』に「七夕」と題する句であるが、これといった吟詠の動機は明らかでない。
   ある秋の夜、立ちつくしている田の畦から見回すと、水田が彼方まで
  広がりつづいている。その上には、雲のように長く天の川が横たわる。
  夜が更けるにつれて、その星雲もしだいに輝きを増し、水田にもその星
  数を映す。この田の面の明るさと呼応して、きらめく星の光はいっそう
  冴えわたる。
 
 このように五・七・五の十七音の俳句に対して、130字ほどの句意が書ける。
 一句は、「水田」「上」「天の川」という3つの名詞と、「更行く」という動詞および3つの助詞から成り立っている。
 読み手は、これらの材料を元に、自分の経験・知識を総動員して想像をふくらませて、一句を味わうのである。
 つまり俳句は、作者と読み手の協同作業なのだ。作者は材料の提供者、読み手は調理人と言ってもよい。
 極論すれば、俳句を詠むことと、絵を描くことは同じなのだ。一枚のキャンバスを想定し、そこに、物を配置すればよいのだ、絵を描くように。
 
 さて上掲の句、季語は「天の川」で秋。その静まりの中に天地の果てしない広がり、秋の夜の奥深い趣きが的確にあらわれている。
 呼びかけるような「更行くや」の切れ字「や」の働きがすばらしい。時の流れと宇宙の広大さを、巧みにひきしめている。
 簡単な表現ではあるが、嵐雪の「真夜中やふりかはりたる天の川」が、夜の経過と銀河の移動を巧みに捉えているのに対して、この句は、時間の長さと空間の広がりとが調和を示している。同じ惟然の句でも、さきの「柿食ひながら」とは違い、この句は一種の響きを持った蕉風の格調高いものといえよう。


      万葉歌刻む木簡さはやかに     季 己