壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (90)真の評価①

2011年05月25日 19時58分11秒 | Weblog
        ――世間一般が、カリスマなどといって称賛する作者を、すぐれた人
         と言うべきでしょうか。
          また、教養があり、能力もすぐれている人には評価が高いとか、
         くだらない連中にはもてはやされない、などということは、評価に
         かかわることなのでしょうか。

        ――先人も言っていることだが、だいたい時流に乗り評判をとった作
         者は、カリスマなどと言われ、もてはやされているのは事実である。
          けれども、一人でも、歌聖と仰がれるような人の眼にとまること
         こそ、大切なことなのである。
          思慮の浅い乱暴な連中に評判がよいのは、無益なことである。そ
         んな人の眼には、鍍金も真鍮も、黄金の句との識別は、はっきりし
         ていないのである。つまり、鑑賞したり、批判・理解する能力がな
         い者に、いくらほめられても仕方がない、ということだ。
          だから、能力があり、どんなにすぐれていても、世間的には存在
         が薄いという人が、昔から多いのである。

          定家卿は、自分の気に入らない歌を他の人がほめると、不機嫌な
         顔色をなさったという。
          土地の善人が皆ほめて、悪人が皆憎むような人が、本真物の人間
         である。
          徳の高い孔子ほどの人でも、時勢に合わず、顔回も真価を認めら
         れず、不幸であった。
          仏の存在でさえも、三億の人は知らなかった。
          谷底に生えている松は、その立派さを人に知られることなく、空
         しく老い朽ちるのが常である。 (『ささめごと』真の評価)


      原発の地とよ皐月の花ざかり     季 己