壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

夏越(なごし)

2008年06月30日 21時59分24秒 | Weblog
 やっとインターネットに接続できた。昨日あれほどやって出来なかったのに……
 わかってみれば簡単なことだった。
 「ユーザID]とあったので、「ユーザID]を入力したのだが、これがいけなかったのだ。正しくは、インターネットに接続するのであるから、「接続用ユーザID」を入力しなければならなかったのだ。
 今朝、重要と書かれた「登録内容通知書」を探し出し、一つずつチェックしていったら、「接続用ユーザID]なる語を見つけ、それを入力したらミゴトに接続できた。これで一安心。

 浅草、雷門近くの植込みに抜きん出ていた2本の立葵の花。咲き上ってゆくのが楽しみだった立葵の花が、消えていた。そして植込みのツツジは、短く刈られていた。
 あたりの警官の多さに、やっと気づいた。
 「G8北海道洞爺湖サミット」の警備の一環として、植込みを短く刈り、危険物の有無を調べたに違いない。その際、“雑草”として、バッサリやられてしまったのだろう。

 7月7日から9日まで、北海道洞爺湖で開かれる、いわゆる「洞爺湖サミット」の主要なテーマは、次の四つだという。
  ☆ 環境・気候変動
  ☆ 開発・アフリカ
  ☆ 世界経済
  ☆ 政治問題
 これらの問題を議論するためにかかる費用は、おそらくウン百億円と考えられるので、このサミットによる経済効果は、その十倍も百倍もあるのだろう、きっと。

 このせいでもあるまいが、財務省は、「洞爺湖サミット」を記念して、千円のカラーコインを10万枚発行するという。
 発行するのは結構だが、額面千円のカラーコインをケースに入れて、6000円で販売する、それも抽選で。
 早くもコイン業者からは、今なら21,000円でご提供、発行後は、23,000円~25,000円で販売予定とのDMが来ている。
 先日は、このカラーコインを9,000円で買い受ける、というDMも舞い込んでいる。結局、業者の利益のために発行し、コレクターは“いい面の皮”か。
 このカラーコインは、地方自治法施行60周年を記念して、向う8年間にわたって発行される地方版カラーコイン47種類(各都道府県1種類)の第一弾として発行されるものだ。
 第二弾は京都版で、源氏物語千年紀を記念して源氏物語絵巻を図案としたもの、第三弾は島根版で、図柄は、石見銀山を描いたもの、とここまでは決まっている。

 きょう、六月三十日は、画家・川合玉堂の命日で、女優・夏帆の誕生日。
 陰暦六月・十二月の晦日は、一年を二期に分けて、来るべき新たな時期に入る祭の忌の日であった。身をきよめて災厄を祓い、暮らしの平穏と健康を神に祈る儀式が、大宝律令で定められた。
 十二月は年越の祓、六月が夏越の祓(名越の祓)で、夏越だけが残った。今は、新暦または月遅れの七月晦日に行なうところもある。
 「茅の輪」といって、チガヤを大きな輪形に作って、人にこれを潜らせ祓を行なう。「一番に乙鳥(つばめ)のくぐる茅の輪かな」という一茶の句がある。
 また、人形(ひとがた)や、白紙で作った形代(かたしろ)などの撫で物を各人の身体に触れ、息を吹きかけ、それに名前を書き、川に流して穢れを祓う。麻の葉を切って、幣(ぬさ)として川へ流すところもある。

 このように、茅の輪をくぐったり、形代に穢れを託して水に流したりして厄を祓うのが一般的だが、海に入って身をきよめる地方、川岸に斎串(いぐし)を立てた川社で祈祷したり、火祭りを行なう神社もある。
 詩趣のある行事が懐かしいが、陰暦六月の晦日、闇夜に行なうのが本来の姿であろう。


      くぐるときカレーのにほひ青茅の輪     季 己 

物に語らせる

2008年06月29日 21時31分00秒 | Weblog
 捨てないでよかった。
 新しく買い換えたので、処分しようとしたのだが、そのままにしておいた。
 パソコンのことである。
 昨晩、ブログを送信したあと、入浴のため一時電源を切った。
 そして入浴後、電源を入れたら、インターネットに接続できなくなっていたのだ。
 今朝も午前中、いろいろ試みたが、全く接続できない。
 「ユーザID、パスワードが違う」の一点張りなのだ。
 この元日から、一日も欠かさず続けてきたブログが、中断してしまう。半年に2日余して。
 そこで、99年秋に購入し、引退していた“ウインドウズ・ミレニアム”に再登板してもらい、今、これを書いている次第。


 芭蕉の弟子、凡兆にこんな句がある。

        すずしさや朝草門に荷ひ込む     凡 兆

 「朝草」は、夏の早朝、草を刈ること、またはその草のことで、まだ露を帯びている青草である。
 一句は、夏の朝早く草刈に出かけてゆき、露に濡れたままの青草を、門内に荷い込んできた、それがいかにも涼しそうだ、という情景である。
 夏の早朝、および、荷い込む人の爽やかな感じが、「涼しさや」に現われている。
 この句は、「朝草門に荷ひ込む」という日常生活に詩情を見つけて、しかもそれを具体的・即物的に表現している。この点をしっかり学びたい。
 俳句は、美辞麗句を並べたり、洒落た文句で飾るものではない。
 日常生活において、「おや」「まあ」「あら」などという驚きや感動あるいは発見を、自分の胸中で再構成して、具体的に、物に語らせるものなのだ。

 具体的・即物的表現は、凡兆の特色の一つであるが、これは芭蕉の「軽み」に相応する。凡兆が、『猿蓑』に芭蕉より多い四十四句も入集しているのは、当時の芭蕉の新しい考え方、「軽み」の方向に適合していたからだと思う。
 「荷ひ込む」という言い方には勢いがあり、若さがあっていっそう爽涼の気を感じさせる。

 俳句大会に入賞しなかったといって、がっかりすることはない。
 その選者の方向に適合しなかっただけかもしれないのだから。
 俳句力を伸ばしたい方は、結社に所属しているならその主宰の、無所属なら芭蕉の句を学ぶのがいい。
 尾瀬、いや、失言の多い変人は、心敬を目指しているのだが……。


     失言は水に流せず水芭蕉     季 己      

妹が声を聞く

2008年06月28日 22時02分10秒 | Weblog
                       作者不詳
        福(さきはひ)の いかなる人か 黒髪の
           白くなるまで 妹(いも)が声を聞く

 『萬葉集』巻七の作者不明の歌である。分類は、挽歌に所属している。挽歌とは、死者を哀悼する詩歌のこと。
 また「妹(いも)」は、いわゆる今の妹ではなく、男が女を親しんでいう語で、主として妻や恋人にいう。この歌の場合は、妻であろう、それも若くして亡くなった……。

 妻を失った人が、老年になるまで夫婦そろっている人をうらやんだ歌で、妻に死別した悲しみが、こうした明るく寂しいうらやみ心として歌われている点は、高く評価されている。挽歌としても特殊である。

 「福(さきはひ)のいかなる人か」は、「いかなる福(さきはひ)の人か」に同じ。妻を失った人の嘆きがよく現れている。
 普通の挽歌と違って、妻を失った悲しみを直接いわず、失わない人への羨望を述べて、それを強調することで、自分の悲しみを裏に籠めている。

 眼目は「妹が声を聞く」であろう。この結句に注意したのは、斉藤茂吉である。
 その著「万葉秀歌」(岩波新書)で、次のように述べている。

 「自分は恋しい妻をもう亡くしたが、白髪になるまで二人とも健やかで、その妻の声を聞くことが出来る人は何と為合せな人だろう、羨ましいことだ、というので、『妹が声を聞く』というのが特殊でもあり一首の眼目でもあり古語のすぐれたところを示す句でもある。現代人の言葉などにはこういう素朴で味のあるいい方はもう跡を絶ってしまった。
 一般的なことを云っていて、作者の身と遊離しない切実ないい方で、それから結句に、『こゑを聞く』と結んでいるが、『聞く』だけで詠嘆の響があるのである。文法的には詠嘆の助詞も助動詞も無いが、そういうものが既に含まっているとおもっていい。」

 老年になるまで、若々しく、涼しい声の艶を失わない人がいる。「君が眼を欲り」と、眼を恋うる歌はいくらもある。しかし、声を恋うる歌は、外に知らない。
 眼や眉や髪や口や微笑や、それらと同じようにリアルに、声を感じているのである。老いた人妻の声を言いながら、実は、在りし日の妻の声を思い浮かべているのだ。

 妹に逢うとか、妹とともに在るとか言わないで、声だけを取り出して言ったところが、生々しいばかりの切実な実感を生み出している。(俳句初心者は、この要領をしっかりと会得して欲しい)
 おそらくこれは、夭折した妻であろう。その声の美しさがいつまでも耳に残るような女であったろう。
 「黒髪の白くなるまで」というのは、自分たち夫婦の上にそうあって欲しいと願ったことであった。いや、妻が死ぬなどということは考えてもみなかったほど、自分たちは幸福感に満たされていた。その幸福感が突然絶たれた今、老年になるまで妻の声を聞いている隣人の幸福が、輝かしいほどのものに思えてきたのである。その声が、幸福の象徴のように感じられるのである。


      笛と笛もつるる夜の青簾     季 己

翡翠

2008年06月27日 23時36分29秒 | Weblog
 散歩バッグのなかにiPodと共に入っているのが、扇子である。
 頂き物で、松尾敏男先生の「清流」が描かれている。文字通り、清流に翡翠(カワセミ)をあしらった涼しげな絵である。
 近所の扇子職人(女性)から、ジャワ更紗の扇子袋を求め、それに入れて愛用している。

 わが国に生息する鳥の中で、最も美しい色彩に富むものに、翡翠(カワセミ)の類がある。
 中村草田男に、「はつきりと翡翠色にとびにけり」という句があるが、宝石の翡翠(ヒスイ)にも似た瑠璃色の背、浅黄色を交えた翅、赤い腹、青い斑の頭、よく日本画の画題に取り上げられるのが、ふつうの翡翠である。
 いや、宝石の翡翠にも似たと書いたが、翡翠を侮辱したものかもしれない。宝石の方が、鳥の翡翠にも似た輝きを持っているので、同じ字を使って翡翠(ヒスイ)と名付けたのかもしれない。カワセミが先か、ヒスイが先か?

 カワセミ科に属する鳥には、ふつうの翡翠のほかに、全身が赤褐色のアカショウビン、頭には長い羽毛の冠をいただき、体中が黒と白との斑の、ヤマセミなどがいる。
 だが何といっても、ふつうの翡翠が水辺の木の枝にひそみ、水中に魚を見つけるや否や、さっと身を翻して、水面をかすめて魚を咥え去る一瞬、日光を反射して、キラリと輝く美しさは、とても宝石のヒスイが及ぶところではない。

        夏の日の 燃ゆる我身の 侘びしさに
          水恋ひ鳥の 音をのみぞなく   

 これは、有名な色好みの平仲(平貞文)が、『古今集』時代の第一級女流歌人であった伊勢御息所(いせのみやすどころ)に言い寄った歌である。
 ここにある「水恋鳥」とは、燃えるような緋色のアカショウビンのことだという。

 ちなみに、この歌の意は、
 「暑い夏の日に、あなたを恋い焦れている私は、わが身の暑苦しさに堪えかねて水を恋う鳥です。
 ええ、水を恋う鳥の私は、声を立てておいおい泣いています。
 あなたは、私の胸の火を消す力を持った水、そう水なのですから、どうぞ焦がれて苦しむ私を救ってください」
 といったところか。
 「水恋鳥」は、やはりアカショウビンがふさわしい。
 一度でいいから、こんな恋文を書いてみたい。


      翡翠や as soon asを 習ひし日     季 己

蓮池翁

2008年06月26日 21時52分27秒 | Weblog
 「新しい出発を考えねばなるまい」
 芭蕉は、そう思い定め、荘子や杜甫をはじめ、中国の詩人・文人たちの作品を読んだ。延宝八年(1680)、芭蕉37歳のことである。
 もちろん、これらは今初めて読むわけではないが、改めて読めばまた心に沁みるものがある。
 それは、ことばの遊戯ではなく、作者の実感をうたっている。貞門俳諧も、談林俳諧も、人間不在の文学だった。
 自分の心を詠まなければならない。中国の詩人たちによって芭蕉はこのことを学んだ。
 さらにまた、荘子を読むことによって、実利を去って人間性の純粋に従うことを学んだ。
 芭蕉が、富や栄誉を求める現実世界の確執から身を引く決意に至った背景には、このような荘子の影響を無視することはできない。


      浮葉巻葉此蓮風情過ぎたらん     素 堂
 この句、「うきはまきばこのれんふぜいすぎたらん」と読むのであろう。
 作者の素堂は、甲斐の国、今の北杜市の人で、寛文初期に江戸に来り、延宝七年(1679)上野に隠棲、のち葛飾に移り隠士と称した。
 漢学・和歌・書道・茶道・能楽など多方面に通じ、芭蕉の二つ年上の親友であり、のちに葛飾蕉門の祖とされる。

 芭蕉は門人に、「この句は此蓮(このれん)と声にとなへたる、よし」と教えたという。「声にとなへたる」とは、音よみにすることをいう。
 たしかに、この句の声調の固さは漢詩を思わせる。

 丸い大きな葉、開きかけた葉、まだ固い巻葉、そのさまざまな葉のみずみずしさは、さわやかでありながらも艶でもある。
 「此蓮風情過ぎたらん」という嘆息は、清らかなるものの持つ、思いがけない一面への驚きであろう。その驚きが、こう固く出るところに漢詩好みの素堂の特色がある。

 早くも低迷しかけた談林の形骸から脱すべく、芭蕉は活路を漢詩に求めていた。
 その傾向は、かならずしも蕉門だけではなかったが、漢詩理解の鋭さと深さにおいて群を抜いていた。
 『三冊子』に、「詩の事は隠士素堂といふもの、此道にふかき好きものにて、人も名をしれる也」と、芭蕉は述べている。
 しかもその芭蕉は、吉川幸次郎氏の説によると、「日本で杜甫を最初にしかも最もよく理解した人」である。

 天和の誹風は、素堂の持ち前を生かし、その絶頂期を作った。この人には、およそ異質とも言える風格の高さがある。
 素堂は後年まで、牡丹の艶を嫌い蓮の清を愛し、その隠宅には池を作り蓮を植え、蓮池翁と呼ばれてもいる。しかし、それが素堂の限界であった。


      青葉冷えリュックに結ぶ魔除鈴     季 己

百合の花

2008年06月25日 23時31分36秒 | Weblog
 商店街を歩いていたら、懐かしい歌が聞こえてきた。
  「高嶺の百合の それよりも
   秘めたる夢を 一筋に
   くれない燃ゆる その姿
   あざみに深き わが思い」
 「あざみの歌」の2番である。「あざみの歌」は、変人の好きな歌の一つである。

 本日は、「あざみの歌」を聞いたので、“あざみ”ではなく“百合の花”について書く、変人らしく……

 むんむんとする草いきれの中を、真上から照りつける夏の太陽に、たらたらと流れる額の汗を拭いながら、山を登ってゆく。
 すると、どこからともなく薫ってきて、やがて甘くくすぐるような香りが、快く包んでくれる。
 暑さも疲れも忘れるような、うっとりとした甘い香り。
 そんな時、繁みを掻き分けてゆくと、必ず現われるのが、山百合の花である。
 人知れず思う人は、つい“色に出る”のが、恋というものであろう。

 『萬葉集』巻八に、
    夏の野の 繁みに咲ける 姫百合の
      知らえぬ恋は 苦しきものぞ
 という、大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)の歌がある。
 夏の野の、生い繁った夏草の蔭に隠れて、秘かに咲いている姫百合のように、人知れず思う恋はつらいものです、といった意であろう。

 「姫百合」は、注釈書に「小さい、赤い花の百合」などとあるが、百合の花の美しくたおやかな様を呼ぶのであろう。百合の品種名ではないと思う。
 当時、郎女は、奈良近郊に住んでいたと思われるので、最も普通なのは、笹百合であろうか。
 また、「姫百合」の「姫」は、「秘め」の意に通わしているように思える。

 一口に百合といっても、いったい何種類くらいあるのだろうか。
 山百合、姫百合、笹百合、鬼百合、鉄砲百合、高砂百合、鹿の子百合、竹島百合、車百合、透かし百合などなど、思い出すだけでも、この通り。
 それらの美しい花が、春から夏にかけて、次々に咲いて、楽しませてくれるのである。

 みちのく宮城・岩手の百合の花は、今どうなっているのだろう。
 干上がってしまった田圃の一部に、今日、水が入ったと、TVのニュースが報じていた。


      みちのくの水をどりこむ植田かな     季 己

賛美小舎

2008年06月24日 23時30分02秒 | Weblog
 折からの強風に逆らわず、立葵は、右に左に大きく揺れている。例の雷門近くの二本だけの立葵である。
 この立葵は桃色であるが、他に白・紅・紫などの色があり、美しい花を下から咲かせてゆく。
 梅雨入りに咲きはじめ、頂上まで咲きのぼると梅雨が明ける、といわれている。
 まだ五つ六つ蕾があるので、梅雨明けはまだまだ先のことであろう。

 福原百之助の「笛」をiPodで聴きながら、墨堤を歩く。福原百之助は、現在の人間国宝・寶 山左衛門師の若き頃のお名前である。したがって、いまから20数年前の録音を聴いているわけだ。
 「月~花見おどり~京の夜」、「竹の踊~竹のうた」、「山桜の歌」、「飛天」などを聴く。すべて福原師の作曲によるものだが、最も胸にひびいたのは「京の夜」。
 「京の夜」は、昭和45年の、変人の大嫌いなNHKの大河ドラマの挿入曲として作曲されたもので、伊達藩家老・原田甲斐が思案にふけりながら、ひとり、京の宿で笛を吹く場面を想定したものという。
 原田甲斐が、激情をぐっと押さえて吹く笛……、京の夜が静かに更けてゆくさまが、実によく表現されている。
 先日の篠笛教室で、「竹のうた」の譜面をいただき、いま練習中であるが、一日も早く「京の夜」を吹いてみたい。楽しみがまた一つできた。
 毎日、笛を“拭いて”いるが、今後は毎日、笛を“吹く”ことにしよう。

 江東区・木場公園内の「東京都現代美術館」に着く。
 武田州左先生からいただいた招待券で、「新収蔵作品展」と「特別公開:岡本太郎《明日の神話》」を観る。
 「新収蔵作品展」は、昨年度新たに収蔵した「賛美小舎」上田コレクションの紹介である。
 「賛美小舎」上田コレクションは、長年、教鞭をとっておられた上田國昭・克子ご夫妻が、およそ20年にわたり収集した現代美術作品のコレクションである。
 今回は、ご夫妻から寄贈を受けた49点の、特別展示ということだ。
 「賛美小舎」には、自らが美しいと信じるものを大切に守り育てるため、一つひとつの作品を収集してきたご夫妻の理念も込められているという。

 ご夫妻の収集の目的には、単に作品を購入するというだけではなく、若い作家の活動を賞賛し、支援しようとする思いも込められているそうだ。
 さらにスゴイのは、美術館に寄贈する目的で収集されていることだ。
 美術館に寄贈することが、自らのコレクションを後の世代に伝える方途のひとつであると考え、作品が公開される機会をつくることが、支援してきた作家たちの今後の制作への励みになって欲しいと、ご夫妻は願っているとのこと。

 上田氏が、明確に現代美術の収集へと焦点を定めた出発点となった作品は、川崎麻児《Untitled》(1987年)だという。
 若々しい感性で、日本画に新風を吹き込む作家たちが、上田コレクションの中核となっている。
 川崎麻児をはじめ、河嶋淳司、岡村桂三郎、斉藤典彦、尾長良範、武田州左、日高理恵子、間島秀徳、山本直彰、マコトフジムラといった作家は、上田コレクションとして収集されたというだけではなく、1980年代半ば以降、広く注目を集めた作家たちだ。
 岩絵具という日本画の素材を用いながら、己の感性や自らが生きる時代の息吹を直接画面に表現する手法は、日本画という一つのジャンルにとどまらず、新たな絵画の動向として認められていくことになる。


      はにかみ王子 十薬の月夜かな     季 己

「梧」日本画展

2008年06月23日 21時54分34秒 | Weblog
 銀座の画廊宮坂で、「第7回 『梧』2008日本画展」を観てきた。
 『梧』は、「アオギリ」と読む。

 俳句の世界で「アオギリ」は、「梧桐」・「青桐」と書き、「梧桐」は「ゴトウ」とも読む。
 その葉の形が桐の葉に似ており、幹が青緑色なので、青桐と呼ばれるが、桐とは別の種類の樹木である。
 もともとは、漢名を梧桐と呼ぶ中国原産のアオギリ科の落葉高木で、わが国でも、古くから庭園や街路樹および日陰用の庭木として、多く植えられてきた。
 青桐の幹は直立し、その高さ10メートルを超えるものもある。
 六月ごろ、枝の先に、黄色みを帯びた小さい五弁の花が、花穂状に集まって咲き、そのあと、豆に似た実を結ぶ。
 緑色の樹幹に、大きな葉が、青々と茂るさまは、いかにも初夏にふさわしく、快い眺めであり、すがすがしい風景の一つである。

 「『梧』日本画展」(以下、「梧展」と略す)は、日本美術院特待の大嶋英子先生の指導する生徒の、グループ展である。
 開催時期といい、作品内容といい、まさに「アオギリ」そのものである。
 大嶋英子という樹幹に、大きな葉が、思い思いに茂る「梧展」は、いかにも初夏にふさわしく、心地よい眺めであり、すがすがしい光景であった。
 大嶋先生のファンである変人は、残念ながら先生の作品を一点も持っていない。他のファンの方に先を越されたり、画中に犬・猫がいて、見送った作品もいくつか。
 絵の中に犬・猫がいたら購入しない。花の絵に蕾がなかったら購入しない。やはり変人である。

 さて、コレクター・俳句実作者の立場として、「梧展」の雑感を述べたい。

   [楽しく、一所懸命]
 どの作品も一所懸命に描かれているのが、気持ちよい。そのうえ、楽しそうに描いているのが、さらにいい。
 “ひたむきさ”が感じられる作品は、なぜかいとおしさを覚える。
 幼稚園長として20年、「そつえんぶんしゅう」に、園児に贈ることばとして、「たのしく、いっしょけんめい!」を書きつづけてきた、からかもしれない。

   [くらべない]
 コレクターは身銭を切って、作品を購入する。少しでもいい作品を!、と思って作品をあれこれ比較検討する。
 けれども、勉強中の者は、他者とあまりくらべない方がよいと思う。
 変人が俳句の世界に飛び込んですぐ、俳句ができなくなってしまった。
 句ができると、同じ季語を用いた芭蕉の作品と、“恐れ多くも”くらべて、とうとう行き詰まってしまったのだ。
 仲間の方の作品と比較されていた方がおられたが、やめたほうがいい。
 「人は人、吾は吾」である。他人と比較することなく、自分の木、つまり吾が木を大きく育てればよいのである。
 「梧」を分解すれば、「吾が木」となるではないか。そういう願いをこめて、大嶋先生は「梧」と命名されたのではなかろうか。

   [年期より精進]
 「わたしは○○を○年やっています」と得意気に話す人がいる。
 一つのことを続けることは立派だが、それを自慢されても、された方が迷惑だ。
 どんなに努力しても、その年期を超えることはできない、その人が存命する限り。
 それよりも日々の精進、一日一日を切に生きることが大切。
 何年やっているかではなく、何点制作したか、量と質が問題なのである。
 作品を観れば、日々の精進の結果か、年期だけの惰性で描いたものか、一目瞭然である。
 日々努力されているな、と感じられた方が数名いたのは、喜ばしい。

   [目標を持つ]
 ただ漫然と習っても、上達は望めない。
 大嶋先生という立派な師がおられるので、ぜひ高い目標を持って修業していただきたい。修業というのは、技術の習得はもちろんだが、それよりも心を磨くことである。

   [心を磨く]
 心は自分で磨くものであり、大嶋先生といえども、お弟子さんの心まで磨くことはできない。
 感謝の心で、毎日を暮らし、美しいものを観、美しい音楽を聴き、美しい詩歌を声に出して読む、それだけでも、立派な心の修業である。
 変人も毎週、画廊宮坂にお邪魔し、心の修業をさせていただいている。(感謝)

   [落款・画題]
 県展などで受賞された方も何名かいらっしゃるとのこと。
 落款は、単なるサインではなく、作品の一部であることを自覚していただきたい。「この落款さえなければ」と思い、見送った作品の何と多いことか。
 落款が真っ先に飛び込んでくる作品に、ロクなものはない。
 作品に溶け込み、目立たぬ落款が好きだ。「あっ、こんなところに……」という落款が特に好きだ。
 画題は、「ぶっきらぼう」がいい。極言すれば、№1、№2でもいいのだ。
 賛助出品の大嶋先生の作品が、よい見本だ。「シャンデリア」と題しているが、決してシャンデリアそのものを描きたかったわけではあるまい。
 「シャンデリア」という題(ヒント)を通して、大嶋先生はこの作品にどんなメッセージを込めているのか、真剣勝負で、感じ取ろうとするところに、鑑賞の楽しみがある。(だが、これは変人の悪い癖)
 作者は、自分の感動を他者に強制するものではない。自分の作品の、線に、色彩に己の感動を込めればいいのだ。後は、鑑賞者に任せればいい。画題に語らせるのは、愚の骨頂。

 以上は、変人の偏見による勝手な意見。
 この件につき、大嶋先生からご指導があれば、それに従うのは当然。もし、なければ、愚見を参考にしていただければ幸いである。


      水中花 人を恋ひては沈みては     季 己

六月

2008年06月22日 21時30分59秒 | Weblog
 「六月」というと、俳人の誰もが思い浮かべる句は、
        六月の女すわれる荒筵(あらむしろ)     石田波郷
 であろう。

 あまり有名ではないが、芭蕉も、
        六月や峯に雲置あらし山
 と、詠んでいる。
 元禄七年(1694)の初夏、芭蕉は江戸を発って上方へ向かい、五月末に郷里の伊賀上野へ戻った。
 翌月の閏五月十六日に、上野を発って大津へ出、やがて京の郊外、嵯峨の落柿舎に移り、六月十五日まで滞在した。
 この間、六月七、八日ごろ江戸の寿貞の死去の報せが届いた。寿貞とは、芭蕉が若い頃、関係があったと思われる女性である。
 「六月や」の句は、寿貞の訃報の届く前、六月初旬、落柿舎にあっての作と推定される。

 『三冊子』に、「この句落柿舎の句也」とあり、去来の別荘の落柿舎から嵐山を仰ぎ見て詠んだ句であろう。
 嵐山は、大堰川に臨み、桜・紅葉の名所として古来の歌枕である。
 「落柿舎から対岸の嵐山を眺めると、この六月の灼けるような炎天下、嵐山はその山頂に重なるように壮大な雲の峯を負い、鬱蒼たる山容のままに、ひっそりとしずまりかえっている」という意であろう。
 同じく『三冊子』に、「『雲置く嵐山』といふ句作り、骨折りたる所なりといへり」と、芭蕉のことばを伝えているが、湧きあがった雲の峯が、その白色の偉容をもって、嵐山におおいかぶさり、中空に聳え立っている白昼の森閑たるさまをとらえて、「置く」の一語はまことに一部の隙もない力を持つ。

 また「六月」は、「ミナヅキ」とも読める字であるが、芭蕉自身が、杉風宛書簡の中で、「ロク」と読み仮名をつけていて、「ロクガツ」と読むことは明らかである。
 門人の支考が、「ロクガツ」と読むことにより、「語勢に炎天のひびき」があるといっているが、「峯に雲置」といい、「ロクガツ」といい、夏の力強さがある。
 
 嵐山は、峯に夏の雲がかかるような高い山ではないから、事実としては、峯のかなたに雲の峯がそびえているさまであろうし、低い山に雲が降りて来たのでは、「峯に雲置」ではない。
 俳句は事実を述べるものではなく、受けた感動を心のスクリーンに再構成するものなのである。
 低い山にあえて、「峯に雲置」と言ったところに、「ロクガツ」と呼応して「炎天のひびき」があり、「作者の心のひびき」もある。それがこの句のおもしろさである。
 元禄七年の旧暦六月初旬は、いまの太陽暦の七月下旬だが、夏の盛りの七月らしい力強さが、スカッとした語勢に示されている。

 後に、蕪村はこの句を目にして、「嵐山の雲に代謝の時を感じ」と述べている。
 「六月や」という発想はまた、春の花、秋の紅葉に対して、夏という季における嵐山の新しい男性的な美の発見を意味しており、落柿舎からの眺望としてそれを詠んだことは、所有者去来への挨拶の心を担っていたかと思われる。

 いずれにしても、「六月や」の句は、
  ①俳句は事実をそのまま述べるものではない。
  ②俳句の発想には、発見・驚きが大切。
  ③発見・驚きを己が心に再構成。
  ④調べで感動を表現する。
  ⑤俳句は挨拶である。
 などなど、いろいろなことが学べる句であると思う。



      六月の画廊に画家と変人と     季 己

地震七日(なゐなぬか)

2008年06月21日 23時15分42秒 | Weblog
 声が出なかった。
 身体が硬直し、一瞬、思考が停止した。
 そしてすぐに、脳が超高速回転を始める。
 「厳美町のAさんだ。いや、Aさんが、いま・ここに居るわけがない……」と。
 「間違いない、やはりAさんだ」と、確信するまでに4~5秒かかったであろうか。
 岩手・宮城内陸地震から七日たった今日、銀座の「画廊 宮坂」での出来事である。

 今日は時折、大雨が降る、との予報だったので、外出は控え、自宅で篠笛の稽古と英語のヒアリング、読書などをする予定であった。
 ところが昼食後、空が明るくなってきた。
 こうなると、もうだめだ。じっとしていられない。“そぞろ神”にとりつかれた芭蕉状態である。
 どこへ行くかも考えず、足は自ずと銀座の「画廊 宮坂」へ向かっていた。まるで何かに導かれるように。

 画廊宮坂は、「伊藤清和個展」の最終日である。
 扉のガラス越しに、伊藤先生が、若い女性に熱心に説明されている様子が見える。
 緊張感を破るようで申し訳なかったが、扉を押して入る。
 2度目の来場を、先生は非常に喜んでくださった。
 すぐにお茶が運ばれ、伊藤先生、若い女性(独立美術の昨年度新人賞受賞のIさん)、宮坂さんの奥様、それに変人の4人で美術談義。
 これが、素人の変人にもとても勉強になるのだ。

 美術談義が一段落したところで、辞去しようと立ち上がったが去りがたく、もう一度全作品を、一点ずつ穴のあくほど観させていただき、入口の扉の横の作品を凝視していたところ、ガラス越しにAさんの顔が見えたのだ。この一週間、案じつづけた一関市厳美町のあのAさんの顔が……。

 Aさんも、ご主人も無事で、家もまったく被害はないとお聞きし、一安心。
 所用で東京に来たので、ついでに「コロー展」を観て、画廊宮坂に寄ったのだという。
 Aさんはご夫婦で、建築設計事務所を営んでいる。
 6月14日は、早朝5時に厳美町の自宅を出て、耐震の勉強会に出席のため、新潟県のあの山古志へ向かっていたので、震度6強の体験はしていないとのこと。
 帰宅しても、建物はもちろん内部もまったく異常はなく、厳美町も普段と変わりなく、静かであったという。
 ただ、地鳴りの音がしてすぐに縦揺れの余震がくるのは、恐ろしいようだ。
 Aさんのお宅は、震源から約20キロ。被害がないというのが不思議である。
 朝食後の時間であったせいか、火災は一件もなし。これが夕食の準備中の時間だったらと思うとぞっとする、とAさん。

 感心させられたのは、ご自分が手がけた建物の安否を、当日中に確認し終えたということだ。もちろん、被害は一軒もなかったという。
 Aさんご夫妻は、仕事熱心の上、責任感が非常に強い。本来はこれが普通なのだが、いまの時代、貴重な存在だ。
 絵の好きなAさんは、建物が完成すると、その建物にふさわしい絵を一点、自分のコレクションの中から、“永久にお貸しする”そうだ。
 「自分が好きで集めた作品だし、なかには高額なものもあるので差し上げることはできない」と微笑む。
 “永久に貸す”というのは、相手を気遣ったよいシステムだと思う。
 絵の好みは百人百様。自分の気に入らない絵を貰った建築主は、突き返すわけにも、飾らぬわけにもゆかず、大迷惑。
 “永久貸与”ならば、気楽に返せるし、気に入った作品ならば、永久に借りて、身の回りに飾っておけるのだ。
 Aさんらしい、思いやりのある発想である。
 そんなAさんに、例の中国の超人気画家Jの「お下げ髪の少女」の写真を見せたら、即、突き返された。「こんなの見るのもいやだ」と。
 やはり、Aさんと変人の“感性の磁力”は同じで、「画廊 宮坂」という強力な磁場に吸い寄せられて、やって来るらしい。

 今日あたりは、余震もだいぶ減った。しかし大雨の心配がまだある。
 政府をはじめ各県に、Aさんのような迅速なる対応を望みたい。
 被災された皆様に心よりお見舞い申し上げ、一日も早く復興されんことを念じて……。(合掌)


      地震七日 など啼きやまぬ四十雀     季 己 

飾り

2008年06月20日 21時38分21秒 | Weblog
 「生活必需品でないベアを、私たちは作っているのですから……」という、謙遜とも自嘲ともとれる声を聞いた。
 先日開かれた、テディベアのコンベンション会場でのことである。

 わが子同然という人もいるだろうが、大多数は、“飾り”物ではなかろうか。
 ベア作家により当然、価格はまちまちだが、数万円平均で、世界の3本の指の中に入る作家のベアでも30万円以内で購入できる。

 絵画がなくても、日常生活になんら不便はない。ベア同様、生活必需品ではない。
 では“飾り”物か。大多数は“飾り”物だが、一部は投機の対象になっているようだ。
 たとえば中国。50歳のJの油彩大作絵画が、この春の香港サザビーズ・オークションで約6億円で落札され、このたびの香港クリスティーズでも、「お下げ髪の少女」が約7800万円で取引された、とその写真つきで、読売新聞に報じられていた。
 この記事を書いた、読売新聞編集委員・菅原教夫氏は、並々ならぬ感性と深い造詣の持ち主とみえ、人民服を着た「お下げ髪の少女」を、「頭大身小の人物がいる、冷たくシンプルな画面が心に沁みてくる」と評している。
 身銭は切っているが、感性も造詣も浅い変人には、心に沁みるどころか、○○が出そうな感じさえする。たとえ7800円でも買わないだろう。
 見る眼のない悲しさと、“飾り”物ではない絵画があることを、痛感させられた。

 同じ紙面に、“「飾り」祝祭の日本文化”と題して、近世絵画史の大家、辻惟雄(つじ・のぶお)氏へのインタビュー記事が並んでいる。
 いま六本木のサントリー美術館で、「KAZARI 日本美の情熱」が開かれているが、その企画委員長を務めたのが辻氏。
 その中で辻氏は、「装飾美術なんていう美術史の概念でなく、生きることとかかわる『飾り』と言いたいんだな」と述べている。
 「生きることとかかわる『飾り』」、つまり「飾り」は生活必需品ということだ。「その通り!」と、思わず声を掛けたくなる。
 氏は、「飾りとは祝祭のための空間演出」とも言うが、「飾りとは、しつらひ」と考える変人には、大いにうなづける。
 「しつらひ」とは、「飾りつけること」のほかに、「晴の儀式の日に、寝殿の母屋および庇に調度類を整えること」という意味がある。

 展覧会場には、国宝「火焔型土器」が展示されていた。
 もし、この「火焔型土器」が日用品ならば、火焔部分は邪魔である。ではなぜ火焔をつけたのか。それは「飾り」としてつけたからに違いない。
 生きる喜びの表現が、「飾り」なのではなかろうか。
 辻氏もそのように考えて、国宝「火焔型土器」を展示されたのであろう。
 たしかに、ベアも絵画も生活必需品ではない。けれども、生きる喜びを表現したものが、ベアや絵画だ、といっても過言ではなかろう。

 もう一度、「KAZARI 日本美の情熱」を観てから、「飾り」について書きたい。


      火焔型土器みて夕の月見草     季 己

テニヲハの妙味

2008年06月19日 21時51分55秒 | Weblog
 きょう6月19日、三鷹・禅林寺の太宰治の墓前で、“桜桃忌”が修せられた。

 明治42年(1909)、青森県津軽に生れた太宰治(本名、津島修治)は、昭和5年(1930)に東京大学に入学、晩年は三鷹に居住した。
 無頼派、破滅型の作家といわれ、『斜陽』『人間失格』は、戦後文学の代表作とされる。
 昭和23年(1948)6月13日、玉川上水で愛人と入水自殺をした。39歳の若さだった。
 晩年の作品『桜桃』にちなみ、太宰の忌日6月13日を“桜桃忌”と呼び、俳句の季語にもなっている。
 毎年6月13日に、禅林寺の墓前で“桜桃忌”がいとなまれる。
 今年は、太宰没後60年ということで、今日、彼の誕生日である6月19日に修せられた、と思いきや、禅林寺では、入水した6月13日を忌日とし、死体が発見された6月19日(奇しくも太宰の誕生日)にも、法要を行なっているとのこと。

 また今日は、“朗読の日”であるという。6月19日を語呂合わせで、6・19、つまり、ロードクで、“朗読の日”にしたという。
 語呂合わせはあまりいただけないが、声に出して読むことは大切で、このことは老若男女、大いに実践していただきたい。
 とくに名歌、名句を声に出して読み、リズムを身体に染み込ませることが重要。

 ところで、先週の[宿題]、やっていただけただろうか。もし、お一人でもおられたら、感謝感激、心より御礼申し上げる。
 学生時代に口語訳を強いられたので、和歌は嫌いとか、和歌は分からないから、和歌という、などと変なことを言う人も出てくる。
 和歌(俳句も)は、まず、声に出して、何度も読むことが大切。
 つぎに、この歌は、作者が何について、あるいは何を言おうとしているかを、なんとなくつかめれば、それでいいと思う。
 つまり、あの[宿題]程度のことが分かればいいのだ。無理に口語訳する必要はない。専門家ではないし、また、名歌・名句ほど口語訳は難しいのだから。
 あの問題で、3問正解された方は、大いに自信を持ってよい。全問正解者は、大天才、現代の藤原定家である。(4問正解は、ふつう有り得ない)
 2問以下の方は、たまたまフィーリングが合わなかっただけ。今後は、声に出して読むことを心がければ、それでOK。1年後には、……。

                   柿本人麻呂歌集
       あしひきの 山川の瀬の 響(な)るなべに
         弓月(ゆつき)が嶽に 雲立ち渡る

 [宿題]中の一首。“山川”は、この歌の場合、“やまがわ”と濁音で読む。清音で“やまかわ”と読むと、意味が変わってしまう。これは覚えておくとよい。
   やまがわ=山を流れる川    やまかわ=山と川
 ということだが、お分かりいただけるだろうか。

 “なべに”は“並べに”であり、転じて“とともに”“と同時に”の意であるが、この語感は口語ではとらえられない。
 たぎち流れる山川の瀬の高鳴りと、今にも雨を呼ぶかのように峰に立ち渡る雲と、並べ連ねて、しかも強く太く張った一本の調べで貫いている。こういうことは声に出して読まなければ分からない。
 山にかかる雲を、単なる風景として詠んでいるのではあるまい。「あしひきノ 山川ノ瀬ノ」と、テニヲハの「の」を三つ畳みかけて、漸層的な調べを高潮させながら、「なべニ」で大きく転回し、「弓月が嶽ニ」とテニヲハの「に」を重ね、力強く結句は2音・5音で「雲 立ち渡る」と結んでいる。
 この調べの躍動する大きさは、天衣無縫というべき、テニヲハの使いようによることが大きい。

 こういう歌を読むと、万象を生きたものとして感じ取った古代人の自然観を、ひしひしと感じる。彼らは、つねに称辞(たたえごと=徳をほめたたえる言葉)でもって自然を呼ぶが、それは彼らが日常自然に対して、畏敬と愛護の気持ちを忘れていないことを物語っている。


      道行の果ては谷底 黒揚羽     季 己 

睡蓮

2008年06月18日 23時43分42秒 | Weblog
 涼を求めて池のほとりに下りてゆく。
 緑の水面に、白く輝くものが見える。
 アッと思わず息を呑む。睡蓮の花だ。
 あまりの美しさに心を奪われ、立ち尽くす。
 いつしか、額の汗も引いたようである。

 睡蓮の花ことばは、心の純潔を意味するという。
 彫りの深い真白な花びらが、八重に重なった奥に、心あたたまるような黄色い雄蕊が秩序正しく円い輪を描いて立ち並んでいる。まるで、白亜の神殿に輝く、黄金の燭台のように。その黄色は、三岸節子の黄色のように。
 睡蓮の花の学名は、水の精のニンフから来ているといわれるが、心の純潔といい、睡蓮の花の気高いまでの美しさを、うまく言い当てている。

 日本在来の睡蓮は、野生種に近い白い花が一種あっただけと聞くが、外来の睡蓮には、いろいろな花色を持った栽培種がある。
 美人睡蓮と訳されている花は、濃い紅(くれない)で、雄蕊は赤黒い。
 アフリカ睡蓮は、その名の通り、アフリカ原産の栽培種で、花は紫色、雄蕊は暗い赤という、風変わりな花である。
 また、男睡蓮というのは、花は硫黄のように明るい黄色で、花の中心へゆくほどに、黄色の濃さを増している。
 その他、野生の睡蓮に似て小型の、姫睡蓮というのもある。花の大きさは、5センチほどで、淡い黄色の花を咲かせて、小さな鉢植えにもなる。

 日本在来の睡蓮のことを、むかしは「ひつじ草」と呼んでいたと言われる。その理由は、毎日、朝開いて、未の刻(午後2時ごろ)にしぼみ始めるから、つまり、未の刻に睡り始める蓮の花というが、真偽のほどは知らない。
 ただ、歳時記には、午後二時ごろ開くので未草、夕方には閉じるところから睡蓮の名が生じた、とある。


      睡蓮の雄しべ 精進料理かな     季 己


  [宿題の解説]

 ①萬葉集巻十九、大伴家持の歌。「心がなしも独りし思へば」に着眼すれば、おのずと、語群のどの語と関係あるかが分かるだろう。
 ②萬葉集巻七、柿本人麻呂の歌。声に出して読めば、聴覚・視覚・体感の三者を通して、身に働きかけてくる偉大な力を感ぜずにはいられない。
 ③拾遺集巻一、紀貫之の歌。桜の花の散るのを、雪の降るのに見立てて、これを「空に知られぬ雪」(地上だけで空には関係のない雪、の意)といったのは、まったく機知を弄したものである。
 ④新古今集巻一、藤原定家の歌。「入日をあらふ沖つ白波」という華やかな光景、まったく絵のようである。
 ⑤千載集巻四、藤原俊成の歌。夕方⇒野辺の秋風⇒鶉の声⇒深草の里、これら四つの取材からかもし出される雰囲気が何であるかは説明するまでもない。「夕されば」は、「夕方になると」の意。

  ※この問題は、国立某大学の、過去の入試問題を拝借しました。

見物

2008年06月17日 23時48分33秒 | Weblog
 「国宝 薬師寺展」が終り、東京国立博物館は、閑散としていた。
 それでも、入口付近に5~6人の人だかりがしていた。例の超高値の大日如来のレントゲン写真の説明を読んでいるのだ。
 日本の宗教団体が落札したが、何年かここに寄託し、調査・研究をしてもらうらしい。
 落札後の初公開としては、話題になったわりには、閑散としすぎている。
 入室して、大日如来さんと久々のご対面。あまりの高値に、照れておられる。
 360度方向から拝観できるように展示されているが、拝観しているのは変人のほかに5名だけ。熱心に観ているのは、70近い紳士のみ、あとの4人は、四方から一通り眺めて、すぐに他の仏像へ。
 あんなに騒がれ、話題にもなったのに、ナゼだ?

 しばらく、離れたところから、入場者の様子を観察する。
 「薬師寺展」のときには、合掌する人が結構いた。年配者だけでなく、若者、それも男性が多かった。
 30分程いたが、合掌した人はまったくいなかった。ほとんどが、「ああ、これが例の仏像か」といった程度で、そそくさとその場を去ってゆく。
 “拝観”ではなく、“見物”なのだ。“仏さま”ではなく、“見世物”なのだ。
 こんなバカな事をしなければよかった、と後悔したが、あとの祭。

 たしかに仏像の“でき”はいい。腕のよい仏師、いや運慶作といってもよいが、少なくとも何らかの形で絡んでいると思われる。
 印を結ぶ両腕の量感、質感のすばらしさ。比較しては失礼だが、円成寺の大日如来よりは、お顔の“つくり”がずっと劣るけれども。
 いま流行りの言葉で言えば、“オーラ”が感じられないのが残念。
 円成寺の大日如来さんの前に立つと、自然と手を合わせ、拝んでしまう。
 そうして、何とも言えぬ、あたたかい気に包まれて、その場から離れられなくなってしまう。初めてのときには、4~5時間、ボケーっとしていた記憶がある。

 真如苑蔵となった大日如来は、明治初年の廃仏毀釈の際か、終戦のどさくさに持ち出され、どこかに隠されていたのではないか。
 すべて推察に過ぎないので、これ以上、推察するのはやめよう。他人を中傷することになってはいけないので……。
 結論としては、この大日如来さんは、数奇な運命をたどり、どういうわけか人々の“祈り”が、あまり込められておらず、大切に扱われてこなかった、ということだけは言える。
 これから多くの人々が、真剣に祈りを捧げれば、百年後には、オーラにつつまれたすばらしい仏像になるに違いない。
 この部屋の他の“仏さま”も拝んだだけで、東博を出る。

 科学博物館を通り過ぎ、国立西洋美術館の「コロー展」を観る。
 自然をいとおしみ、敬愛したコローの風景画に、まず魅了されてしまう。特に樹木を大きく描いた作品には、釘づけにされてしまう。
 コローの名作をこれほど多く観られる幸せ。(岩手・宮城の被災者の方には、誠に申し訳ないが、お許しください)
 
 その幸せな時を破るように、小学生の集団がドカドカとやってきた。社会科見学の一環だろうか。みな手に手に資料らしきものを持っている。
 作品を見ると思いきや、展示室を最短距離で小走りに横切ってゆく。一団去ってまた一団。これまた小走りに、時間にして20秒ほど。
 しつけの行き届いた学校とみえ、私語が一切なかったのには感心したが、何のために「コロー展」に来たのか、“見物”ともいえず、実に不思議である。
 すっかり気分が壊れ、こちらも早々に退散。日曜日にまた来ることにする。


      紫陽花の朝 みそ汁にやげん堀     季 己


 ☆先週の「宿題」の解答 (簡単な解説は、明日)

 ① ア   ② オ   ③ エ   ④ イ   ⑤ ウ

伊藤清和個展

2008年06月16日 21時54分41秒 | Weblog
 浅草雷門近く、道路脇の植込みに立葵が二本、凛とした姿で立っている。
 先週見た時より、だいぶ咲き上ってきた。あと七つ八つ蕾を残すだけだ。他の植込みにはまったく見られず、ここだけ二本、立葵がすっくと立っているのだ。
 iPodの「English as a Second Language Podcast]を聴きながら、都営地下鉄で東銀座へ。

画廊宮坂で、「伊藤清和個展」を観る。
 「ウーン」と唸らせる作品が多く、作品の前に立ち止まること、しばしば。
 今回初めて試みられたという水墨調の作品も数点。洋画の伊藤先生が墨をお使いになるとは、予想だにしなかった。
 油と墨、相反するものの長所を生かし、洋画・日本画という垣根を取り払い、これぞ“絵画”というものを追究されているように、思える。
 先生は、50代半ばとお見受けするが、凝り固まることなく、日々、精進をかさねられていると、確信する。
 ふつうは安易に流れ、これまでに蓄えたものを小出しに、しかも大仰に表現し、(悪く言えば)驚かすだけの作品を、垂れ流す人が多い。どういうわけか、そういう作品が売れ筋とは、情けないことだ。
 先生はそういうところは微塵もなく、日夜研究努力され、当たり前のことを疑い、新しいものを創造されている。
 
 伊藤先生は、“線”が描ける画家である。いや、“琴線”が描ける画家である。
人の心に触れる線が描けるということは、本物の画家ということだ。
 それは、今回の三点のデッサンを観れば、よくわかる。
 モデルの女性の肌の状態はもちろん、内面の佳いところをつかみ出し、さりげなく描写されている。
 デッサンは三点とも素晴らしいが、「シガレット」が特に佳いと思う。ただし、タバコ大嫌い人間なので……。

 F30号の「勇者の歩み」も佳い。伊藤若冲のようであり、若冲でなく、葛飾北斎のようであり、北斎ではなく、伊藤清和なのだ。
 いろいろな意味で、先生は“暴れん坊将軍”であると思う。
 小品ではあるが、「秋深く」には、心ひかれ、感動を覚えた。作品から風、それも晩秋の風が非常によく感じられる。画題もぴったりだ。

 大先生に大変失礼であるが、俳句的見地から一言、言わせていただくと……
 画題で特に損をしているのが、「柔らかい心」と「妖しい瞳」である。
 「柔らかい」・「妖しい」は、観る人に感じてもらうもので、それを題にするのは、手品の種明かしを先にされたようで、好ましくないと思う。
 俳句を詠む場合、極力、形容詞・副詞をさけるようにしている。形容詞・副詞を多用すると、どうしても説明になり、“詩”ではなくなってしまうからだ。
 先に、「秋深く」に感動したと書いたが、これが、たとえば「晩秋の風」などとなっていたら、「ナルホドネ」で終わっていたかもしれない。
 作者の感動を露骨に、読み手に強いる俳句に、名句はない。
 変人も、そう心がけているのだが、言うは易く、行なうは難し、である。

 感動を季語やモノに託し、語らないのが“俳句”、感動を線や色彩に託し、語らない(画題にしない)のが“絵画”ではなかろうか。

 以上は変人の偏見で、作品自体はどれも佳品で、あとは個人個人の好みであろう。
 “暴れん坊将軍”いや、「伊藤清和個展」の、暴れん坊ぶりを、ぜひご覧いただきたい。

     「伊藤清和個展」
     6月16日(月)~21日(土)
     午前11時より、午後6時まで。(最終日は5時まで)
     画廊 宮坂
     中央区銀座7-12-5 銀星ビル4階
     TEL(03)3546-0343


      鍵穴の向うの世界 昼寝覚     季 己