壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

凝視

2009年02月28日 22時52分25秒 | Weblog
        うごくとも見えで畑うつ男かな     去 来

 この句の下五「男かな」は、初案では「麓かな」であったらしい。「麓かな」の方が叙景的にはすぐれているようにも思われるが、やはり漠然としていて印象が弱い。畑を打つ男を登場させ、そこに焦点を合せることによって、のどかな田園風景を写すことに成功している。作者の改作の理由もそこにあるといえよう。

 はるか遠くで畑を耕している男は、いつまでも同じ場所に立っていて、いっこうに動いているようにも見えない。しかも、鍬をを上げ下ろしするだけの単調な動作をくりかえしているだけだから、遠くからはなおさら一ヶ所に釘づけになっているようにしか見えない。
 しかし、振り上げる鍬の刃先が、時折、春の光を受けてぴかっと光るのである。そこに動きがある。「うごくとも見えで」というところに動きを実感するのである。
 この句は、凝視によってなった俳句である。凝視のうちに「畑うつ男」一点へ、心が集中するのである。

 去来のこの句は、かのミレーの「落穂拾い」の絵を思い起こさせる。
 広々とした畑に、黙々と落穂を拾う農婦の姿は、西欧風だが、この句は、以下にも日本的な発想によって裏づけられている。すなわち、小景の中にたくみに自然をとらえ、「畑うつ男」という言葉に、農民の土くささがじかに感じられてくる。
 風土性の相違いうものであろう。ともかく、のどかで平和な小村の風景が快い。

        歩み来し人麦踏をはじめけり     素 十

 これも、早春の農村風景の1シーンである。
 畦道を麦畑まで歩いて来た農夫が、そのままの歩調で畑土を踏み歩きながら、黙々と麦踏をしているのである。
 無表情な農夫の動作に何の変化もないが、それがある地点に来て突然ある意味をになうようになったその突然変異に、素十は興趣を抱いたのである。運動する線上の一点をとらえたのである。

 この句は、描かれた俳句である。素十は、見て見て見抜く眼の忍耐を持っていることでも知られているが、その素十がつぎのように述べている。
 
 「無心の眼前に風景が去来する。そうして五分――十分――二十分。眺めている中にようやく心の内に興趣といったものが湧いてくる。その興趣をなお心から放さずに捉えて、なお見つめているうちにはっきりした印象となる。その印象をはじめて句に作る」

 自然に接して内なる興趣をわかし、凝視のうちに印象がはっきりした形となり、句となるまでのゆったりとした成熟が、素十の作品にはうかがわれる。つまりそれは、とろ火でじゅうぶん煮詰められた俳句である。

 素十の心は眼に乗り移って、自然の一点を凝視する。人物をも自然と同じ機能で見る。この麦踏の句も、凝視によってなった俳句である。


     白鷺の水鏡する余寒かな     季 己

よもぎ

2009年02月27日 22時56分32秒 | Weblog
 みぞれが雪にかわった。午前10時ごろのことである。東京で本格的な雪が降ったのは、今シーズン初めてだ。寒さもこの冬一番とのこと。
 その春の雪も、午後2時過ぎには春雨となった。

        春雨や蓬をのばす草の道     芭 蕉

 深川・芭蕉庵近辺での嘱目吟(しょくもくぎん=目にふれたものを即興的に詠むこと)という。
 「蓬をのばす」は、他の草の中から、ぐんぐん伸びてゆく蓬(よもぎ)を彷彿させるつかみ方で、素直に自然を見ている目が感じられる。
 「のばす」は連体形で、「蓬をのばす草の道」がひとまとまりになる。したがって、春雨が「蓬をのばす」というのではなく、春雨が「蓬をのばす草の道」に降りそそいでいるというのである。つまり、ひときわ目立って蓬が生長ぶりを見せている草の道に、春雨が降りそそいでいるのだ。

  「春雨がしとしとと草萌えの道に降りそそいでいる。その道には、蓬が、
   ひときわ目立って、すくすくと伸びはじめている」という意。

 春の野を渡る風はまだ冷たいとはいいながら、日も長くなり、そろそろ摘み草の季節となってきた。早春の野の摘み草は、まず蓬から始まる。
 蓬は、キク科の多年草で、野原や田畑の畦などに生え、高さは1メートルにもなる。早春、若葉を摘んで草餅を作る。摘んだ蓬の香は野趣に満ち、季節の歓びを味わわせてくれる。

        風吹いて持つ手にあまる蓬かな     秋櫻子

 まだ日は高い早春の野も、さすがに午後四時、五時ともなると、風が冷えてくる。摘み取った蓬も、両手にあまるほどとなった。こうして摘んだ、蓬の若葉を茹で上げて灰汁(あく)をぬき、細かく刻んで餅の中につきこんだり、上新粉をふかした餅にこねあわせて作るのが、草餅である。作りたての草餅の緑の鮮やかさは、これまた春の歓びを知らせるものであろう。

        鶯の来て染めつらむ草の餅     嵐 雪

 芭蕉の弟子の嵐雪のこの句は、草餅にあふれる季節の感覚を詠んだものである。
 蓬は生命力が強く、これから夏にかけてぐんぐん成長し、1メートルほどの高さに伸びたころ、その葉をとってよく乾かし、それを手で揉んだり、石臼で搗くと、枯れた葉は粉となって散り、葉の裏の綿毛だけがまとまって残る。これがお灸に使う“もぐさ”である。モグサとは、よく燃える草モエクサの意だといわれている。
 百人一首で知られた実方朝臣の、
        かくとだに えやはいぶきの さしも草
          さしも知らじな 燃ゆる思ひを
 という歌に見える伊吹山は、“もぐさ”の有名な産地である。


      篠笛の音のつまづき春の雪     季 己

洗ひたてたる

2009年02月26日 23時10分02秒 | Weblog
 日本語ボランティアを休み、「春季 創画展」(日本橋 高島屋)をじっくりと鑑賞してきた。午後2時より、創画会会員の武田州左先生のギャラリートークがあり、楽しく拝聴させていただいた。ギャラリートークはたいてい30分ほどだが、今日はたっぷり1時間。州左先生の熱い思いが、ひしひしと感じられた。
 先生のお話から、絵画は見たまま描くのではなく、感じたままに描くことが大切なのだ、ということを再確認。俳句も“絵そらごと”でよいのだと、心を強くした次第。
 東京は明日、今シーズン一番の寒さとのことだが……。

        葱白く洗ひたてたる寒さかな     芭 蕉

   みごとな葱を真清水で洗いあげて、さえざえと真っ白な肌にしてゆくのを
  見ると、身のひきしまるような寒さを感ずる。

 元禄四年(1691)十月ごろ、美濃垂井の本龍寺住職規外を尋ねての吟といわれる。垂井は関ヶ原に近く、寒さが厳しい。垂井付近の宮代特産の「宮代のねぶか」は味がよいとされていた。
 『和漢三才図会』に、「濃州の宮代の葱白(ねぶか)、その白きところ尺に近く、葉よりも長し」とある。
 「洗ひたてたる」は、ここでは、少しの泥も残さぬように洗い上げることで、葱の白さは、内側から光ってくるような白さである。それも、たくさんの葱を冷たい流れですすいで積み重ねるのだ。
 「たて」は、補助動詞のように用いられ、「たつ」の連用形。上の動詞を強める働きがある。さかんに……する、の意。「洗ひたてたる」は、白い上にもしろじろと洗い上げたという、勢いを含んだ気持が出ている。

 句は直線的で鋭く厳しい。尋ねた相手が僧だから、句の厳しさは、寺と僧という制作の場の雰囲気にもかなっているように思われる。
 また、事象の中核に直ちに勘合してゆく態度なので、「寒さ」を視覚的に把握することをみごとに成功させている。『去来抄』にいう「黄金(こがね)を打ちのべたる」ゆき方といえよう。
 規外亭での作とのことなので、この句も土地の産物に対する賞美を通しての挨拶の心をつつんだ発想と思う。あるいは、葱汁(ねぶかじる)などが、もてなしとして出されたのかもしれない。

 「葱」も冬の季語であるが、ここでは葱の白の色彩からきた「寒さ」がつよくはたらくので、季語は「寒さ」としたい。
 なお、「葱」の読みに「ねぎ」と「ねぶか」の二説があるが、「ねぎしろく」と五音で読んだほうが、より「寒さ」が強く感じられると思うが、いかがなものであろうか。


      三寒の御所人形の頭かな     季 己

 

日本語ボランティア

2009年02月25日 20時22分07秒 | Weblog
 明日も休もうと思っている。
 これで4回連続の欠席だ。ボランティアの「日本語教室」のことである。

 外国人のためのこの「日本語教室」は、週2回、火曜日と木曜日に開かれている。日本語がほとんど分からない人を含めて、大勢の受講生に対して先生は一人。レベルや国籍もまちまちなので、当然、先生ひとりでは教えきれない。そこで、それを手助けするボランティアが必要となる。
 このボランティアになるためには、「日本語ボランティア養成講座」を受講しなければならない。受講の条件として、この講座は教養講座ではないので、養成講座修了後は、「日本語教室」あるいは「日本語サロン」で活動することが前提である、としている。

 昨年12月、全18回・36時間の講習を1回も休むことなく終え、修了証書をもらった。もちろん、これは公的なものではなく、持っていても何の役にも立たない代物である。
 それでも、この1月から外国人のお役に立てる、昔とった杵柄が活かせる、と心中ひそかに喜んでいたのだが……。
 今学期中、つまり3月いっぱいまでは、先輩ボランティアの教え方を勉強するように、先生から命じられた。
 実は昨年秋に、「時間のある人は、日本語教室に来て先輩の教え方を学ぶように」と言われていたのだが、わたし一人だけ、一度も参加していないのだ。22回も教室があったのに。それで今回、“見習い”を命じられたのだ。

 仕方なしに、10回ほど先輩ボランティアの授業?ぶりを拝見させていただいた。たしかに十人十色、それぞれ教え方が違う。
 受講中、いまの日本語ボランティアは、10年以上のベテランと5年以下の経験の両極端で、中間がいないと聞いていた。
 見学していると、すぐにわかった。10年以上のベテランは手ぶらで来て、テープレコーダーのようにしゃべって、時間が来るとさっと帰る。
 5年以下の人は、テキスト以外に補助教材を手作りしたり、パソコンでプリントを作成したりしている。
 また、元小学校教諭の女性もすぐわかる。「これ、わかるよね」「わかったわよね」と、自分で納得して先へ進めてゆく。日本人である変人が聞いていても理解できない説明が、どうして外国人の受講生がわかろう……。
 そんなこんなでストレスがたまり、必要とされていないなら、休んでしまえということで、現在すねている状態。どうせこのまま放っておかれ、事実上のクビになるに違いない。ボランティアなどは、また「養成講座」を開けば、いくらでも集まるのだから。

 それに反して、水曜日の「日本語サロン」は楽しく、水曜日が待ち遠しい。
 こちらは、ある程度、日本語で日常会話が出来る外国人が対象だが、決まったテキストはない。国籍も、韓国・中国・タイ・インドネシア・ケニア・イタリアなどにぎやかである。自分である程度のテーマを持ってやって来る。
 「日本語サロン」は、「日本語教室」と違い、最初から担当させてもらえたのだ。これまで韓国・中国・タイ・イタリアの方々を担当してきた。
 帰り際に、「先生の説明よくわかりました。こんなこと教わったのは初めてです。ありがとうございました」などと言ってもらえるのが、最高にうれしい。


      春雨や教師のときの鞄さげ     季 己

白魚

2009年02月24日 22時48分16秒 | Weblog
 この汚い隅田川で、あの美しい白魚がとれたという。
 調べてみると、たしかに明治の中頃までは獲れたという記録がある。そのころまではきっと“澄”田川であったのであろう。
 浅草海苔は、隅田川の河口、江戸前浅草の漁場で、天日に干して作られたものだ。御茶ノ水というのも、神田川の水を汲んで、江戸城中のお茶を点てるのに使ったことから、その名が残されたといわれる。

       「月も朧に白魚の篝も霞む春の空……」

 ご存知『三人吉三廓初買(さんにんきちざくるわのはつがい)』で有名な名台詞。三人吉三出会いの場は、歌舞伎に興味を持つほどの人ならば、忘れることの出来ない美しい韻律を持った文句である。
 春の月が朧に霞む隅田川の堤に、四手網を操って白魚を獲る漁師の背中には、篝火がちらちらと明滅している。まさに、美しい大江戸情緒である。

        あけぼのや白魚白きこと一寸     芭 蕉

    夜明けの空が明るんできたころ、折から引き上げられた漁師の網の中に
   白魚がまじっている。しろじろとして、見ればまだ小さくて一寸ぐらいの白魚
   であった。

 芭蕉のこの句は、白魚にもっともふさわしい名句だと思う。

        白魚やさながら動く水の色     来 山

 透明なからだをした白魚の、水の中での生態をよくとらえた句である。
 二、三月頃、その透明なからだに、薄紅色の卵が透いて見える産卵期の白魚が、卵を産みつけるために河口をのぼってくる。
 そのころが、漁獲の最盛期で、一夜干しにした真白な魚体に包まれた卵の紅が、また可憐な美しさを見せてくれる。

        白魚や目まで白魚目は黒魚     鬼 貫

 干した白魚に、一点目立つ目の黒さ。鬼貫(おにつら)の句は、その鮮やかなコントラストをとらえた滑稽な表現である。

        白魚のさかなたること略しけり     道 夫

 現代の、白魚の名句をあげよと言われたなら、中原道夫のこの句を第一番にあげたい。


      白魚の身をよせあふや四手網     季 己

焼野のきぎす

2009年02月23日 20時45分55秒 | Weblog
 “すぐろの”、漢字で“末黒野”と書く。美しい字面と韻きではないか。野が焼かれたあとのセピアブラック、あの目にしみる色である。
 すすき、ちがやの原が焼かれ、ひと雨通ったあとの印象は、まさに末黒野である。心にくい季語だと思う。

        松風や末黒野にある水溜り     欣 一

 末黒野は、焼跡が黒々としている野をいう。末黒は、末黒野から生い出る植物を指すことがある。
 また、野焼きをしたあとの春の野を“焼野(やけの)”という。野焼きは害虫を駆除する目的もあるが、草の灰が肥料にもなり、ひと雨くると末黒野にも草が萌え出す。

        月いよいよ大空わたる焼野かな     蛇 笏

 自分の身を忘れてわが子を救う、という母親の偉大な愛情を現わした言葉に、「焼野の雉(きぎす)、夜の鶴」というのがある。
 雉が繁殖期を迎えるころ、ちょうどそれは、害虫を駆除して、草木灰肥料にもする野焼きの行事と重なる。その野焼きの炎が身近に迫っても、卵を抱えた雉は、このことわざ通りに巣を離れずに卵を守っているのである。

 雉は、身体に巻きついた蛇をもバラバラに断ち切るほどに強い翼を持っているので、その飛ぶ速度はきわめて速いのだが、身体が重くて、それほど遠くへは飛べない。おいしい食肉となる雉は、もっぱら猟銃のよい標的にされるが、ケケーンとけたたましく鳴き声をあげてバタバタと飛び立つと、その着地するところをねらって撃つというのが、ハンターの常識であるという。
 「雉も鳴かずば撃たれまい」ということわざも、その雉の悲しい習性から出ているが、人間の世界にも、同じような悲劇があった。

 摂津の国、長柄の里の淀川にかけられた橋は、たびたびの洪水に、何度架け替えても流されてしまう。何とか丈夫な橋を、と人々が思案していると、神のお告げがあって、それには人柱を立てよとのことであった。
 さて、誰を人柱にするかということになると、なかなか結論が出ない。その時、長柄の里の長者、岩氏(いわじ)という人が、日を決めて、その日、長柄の渡し場を通りかかった者のうちで、綴じをつけた袴をはいた者を人柱にすればよい、と提案した。
 そして当日、その条件にかなって人柱となったのが、当の提案者の岩氏その人だったのである。

 この長者には、照日の前(てるひのまえ)という美しい娘があった。自ら覚悟しての父の死に、悲しみのあまり、その日から一言も口をきかなくなってしまった。
 その照日の前に同情して、嫁に迎えた河内の男がいたが、照日の前は、いっさい口をきかない。さすがの男も愛想をつかして、妻を長柄の里へ送り帰すこととした。その途中に通りかかった禁野(しめの)で、一羽の雉がけたたましく鳴いた。男はすかさず矢を放ち雉を射落とした。
 それを見た照日の前は、すぐさま、
        物言はじ 父は長柄の 人柱
          雉も鳴かずば 射(う)たれざらまし
 と、一首の和歌を詠み上げた。
 照日の前の心中深い悲しみを知った男は、わが身を恥じ、あらためて妻を連れ帰り、生涯大切に連れ添ったということである。


      すぐろ野を越え来し鐘の音にほふ     季 己

猫の日

2009年02月22日 22時41分41秒 | Weblog
 「ニャン・ニャン・ニャン」で、2月22日は「猫の日」という。誰が決めたか知らぬが、この伝で言えば、1月11日は「ワン・ワン・ワン」、11月11日は「ワン・ワン・ワン・ワン」で、ともに「犬の日」なのであろうか。
 「猫の日」というわけではないが、明治神宮へ行ったついでに、また「加山又造展」を観てきた……。

        猫の妻へつひの崩れより通ひけり     芭 蕉

 「『伊勢物語』のむかし、男は築地の崩れから、思う女のもとに通ったというが、これは猫のこととて、へつひ(竃=かまど)の崩れから、しかも妻猫のほうが牡のもとへかよっているよ」

 句は、『伊勢物語』第五段

 「むかし男ありけり。東の五条わたりにいと忍びていきけり。みそかなる所なれば、門よりもえ入らで、童べの踏みあけたる築地のくづれより通ひけり」

 による作意である。
 業平の恋を猫の恋に転じ、「築地のくづれ」を「へつひの崩れ」に転じたところがポイントである。
 また、人間は夫が通い、猫は逆に妻が通うという笑いをも含むものと思われる。談林の得意とする古典の卑俗化の手法によった作である。

 この句は、延宝五年(1677)刊の『六百番俳諧発句合』に出ているが、『句合』の判詞も、業平の歌「人知れぬわが通ひ路の関守はよひよひごとにうちも寝ななん」をもじって、「右のへつひの崩れより通らば、在原ののらにや、よひよひごとにうちもねうねうとこそ啼くらめ」といっている。

        またうどな犬踏みつけて猫の恋     芭 蕉

 「生真面目な犬が門を守っているのを、恋に浮かれた猫が踏みつけにして外に出てゆくことだわい」

 「またうど」は「全人(またうど)」で、欠点のない人の意。ここは「全人なり」という形容動詞で、まぬけとか、律儀とかの意。
 「踏みつけて」は俗に言う、踏みつけにしての意で、侮ってないがしろにすることである。

 軽い滑稽をいかした句である。さかりのついた猫は、ふだん怖れを抱くはずの犬さえ、いっこうにこわがらない。その恋に夢中な姿と、律儀な犬の姿が対比されたところに、一脈のおかしみが湧いてくる。
 季語は「猫の恋」で春であるが、猫の恋の情趣よりも、どこか人間くさい味わいが中心になっている。


      又造の猫の恋することありや     季 己

梅と若菜

2009年02月21日 23時07分05秒 | Weblog
         乙州(おとくに)が東武行(とうぶこう)に餞(はなむけ)す
        梅若菜鞠子(まりこ)の宿(しゅく)のとろろ汁    芭 蕉

 調子のよい句であるが、それだけではない。旅の経験者が、先達らしい心遣いで、若い後進に物を言いかけるあたたかさにあふれるとともに、東海道の早春の風物に対する愛情が、自ずと調子を生んで出来た句という感じがする。梅と若菜、そうしてあの鞠子の宿のとろろ汁、と芭蕉は心の中で数えあげているのだ。「梅」・「若菜」の雅語に対して、「とろろ汁」がよく俳味をただよわせる効果をあげている。

 餞(はなむけ)の句でありながら、それらしい語は一語もなく、芭蕉の旅心そのものが、躍動して、この句を口ずさむ者を旅にかりたてるような気分にする。それがおのずから餞となっているのである。

 「君がこれから旅をしてゆく東海道は、いま梅の盛りであり、若菜も真っ青に萌えて目をたのしませるころである。それにあの名高い鞠子の宿ではとろろ汁のうまい時期で、きっと旅人の君の心を慰めてくれるであろう」という意。

 この句について『三冊子(さんぞうし)』には、

   この句、師のいはく、「工(たく)みて云へる句にあらず。ふといひて、
  宜(よろ)しとあとにてしりたる句なり。かくのごとくの句は、又せんと
  はいひがたし」となり。東武におもむく人に対しての吟なり。梅、若菜と
  興じて、鞠子の宿には、といひはなして当てたる一体(いってい)なり。

 と見えている。

 前書きは、乙州が東武、つまり江戸に赴くのを送って、そのはなむけに詠んだの意。鞠子の宿は、東海道の宿駅の一つで、駿河国安倍郡にあり、名物とろろ汁で有名であった。
 「とろろ汁」は、近代俳句では秋の季語とするが、当時はまだ季語として成立しておらず、この句では「梅」もしくは「若菜」が季語で、春。


      盆梅の吐息をついてこぼれけり     季 己

シクラメン

2009年02月20日 20時27分22秒 | Weblog
        シクラメン雪のまどべにしづかなり     万太郎

 このシクラメンは、何色だろうか。紅だろうか、白だろうか、それともピンク……。それにしても、この静けさはどうだろう。「まどべにしづか」と、ひらがなばかりにしたところから生まれる静けさであろう。言うまでもないが、この「まどべ」は、病院の窓辺である。
 ついでに、万太郎のシクラメンの句をもう一つ。

        シクラメン花のうれひを葉にわかち     万太郎

 ちかごろ、栽培技術が進んで、秋から鉢物が出回り、年末から正月にかけて家庭で楽しまれるようになった。
 シクラメンは、小アジアのシリア地方が原産の、サクラソウ科の球根多年草である。いまでは世界中、いたるところに栽培されている。
 日本には、いつごろ輸入されたものかはわからないが、おそらく明治以降ではないか、といわれている。
 かつて、シクラメンの別名に“豚の饅頭」”というのがあった。手元の30年ほど前の歳時記には載っているが、10年前の歳時記には“豚の饅頭”は記載されていない。“豚の饅頭”とは、いくらなんでもシクラメンが可愛そうである。
 シクラメンの根は、塊茎(かいけい)といって、里芋のようになっている。とても酸っぱい味がするにもかかわらず、イタリアのシシリー島では、野豚が好んでこれを掘り出して食べるので、「豚の饅頭」などと、情けない名がつけられたのであろう。

 しかし、わが国の分類植物学の権威、牧野富太郎博士は、この花に“篝火草”という美しい名をつけてくれた。
 シクラメンの五弁の花びらが、小首をかしげた茎から反り返って咲き、花全体は燃え立つ篝火のように、上へ反り返って開いているところから付けられた、いかにも洒落た名前であるが、いっこうにそれは通用していない。やはり、シクラメンという耳障りのよい名前が好まれているからであろう。


      シクラメンふたりで入る喫茶店     季 己

三井寺展

2009年02月19日 20時09分26秒 | Weblog
        三井寺の門たたかばやけふの月     芭 蕉

 「今夜の名月はまことにすばらしく、月見の興はどうにも尽きそうにない。この上は、名月にゆかりある三井寺の月下の門を、たたきたいものだ」

 元禄四年(1691)八月十五日、義仲寺無名庵での月見の句である。
 この日、芭蕉は門弟たちと相会し、琵琶湖に舟を浮かべ、深夜、千那(せんな)・尚白(しょうはく)を訪ねて驚かしたあげくの、五更過ぎの作といわれている。五更は、午前三時~五時のことであるから、正確には十六日の作であるが、どうでもよいことであろう。

 三井寺は、大津にある園城寺(おんじょうじ)のことで、琵琶湖を望む景勝の地に建ち、桜の名所、近江八景のひとつ「三井の晩鐘(ばんしょう)」として知られている。
 白鳳時代に創建され、平安時代に智証大師円珍(ちしょうだいしえんちん)が中興して天台別院となり、以後、権門寺院として栄えた。
 他の寺社との抗争や戦乱に遭いながらも、そのたびに不死鳥のように蘇り、今日に多くの寺宝を伝えている。

 2008年は智証大師円珍が唐より帰朝されて1150年、また狩野永徳の長男で、三井寺の勧学院に華麗な障壁画を残した狩野光信の没後400年にあたる。
 この節目の年を記念して、いま、「国宝 三井寺展」が、東京赤坂のサントリー美術館(東京ミッドタウン ガレリア3階)で開かれている(3月15日まで)。
 三井寺の名宝を中心に、国宝・重要文化財60件を含むおよそ180件が公開され、多彩な美術と歴史の織りなす三井寺の魅力を存分に味わえる。

 三井寺の広大な境内には、30を超えるお堂が建ち、膨大な数の経典、仏画、仏像が伝来している。
 その名宝を一堂に会し、三井寺の魅力を余すところなく伝える本展では、修行を積んだ限られた人しかお姿を拝むことが出来ない秘仏の数々も公開されている。毎日でも通いたい名宝展である。

 今回、最も期待しているのが、25日(水)から特別公開される秘仏中の秘仏、国宝《不動明王像(黄不動尊)》だ。これは、円珍が山にこもって修行しているときに、眼前に現れた金色に輝く不動明王の画像である。
 円珍は、忽然と現れた不動から「仏の教えを究めて迷える衆生を導くべし」と告げられた、と伝えられている。その姿を画工に写させたという黄不動尊は、平安から鎌倉時代にかけて盛んに模写され、また彫刻化されて信仰されている。

 また、円珍が唐から帰国する船中に現れ、円珍を三井寺に導いたのが新羅(しんら)明神。異国の神の姿を刻んだ国宝《新羅明神坐像》は、三井寺独特の神像という。その表情、お姿は、非常に特異で、怖い気もするが、特別なお像という感じがする。これほど長い期間、一般に公開されるのは今回が初めてという、神秘の秘仏である。

 これらの他に、霊験あらたかに感じた仏さまは、《御骨大師》《中尊大師》の二つの国宝の智証大師坐像、重要文化財の《不動明王立像(黄不動尊)》、国宝《伝船中湧現観音像》および重要文化財の《護法善神立像》。
 さらに国宝《五部心観》と、円珍の出自・僧歴・入唐の足跡・求法の成果と教学に関する書状には、心がふるえるほど感動した。
 会期終了の3月15日(日)まで、当分、「三井寺展」詣でがつづきそうである。


      冴えかへる中尊御骨大師像     季 己

はこべ

2009年02月18日 22時45分52秒 | Weblog
        古諸なる古城のほとり
        雲白く遊子悲しむ
        緑なす繁縷(はこべ)は萌えず
        若草も藉(し)くによしなし
        しろがねの衾(ふすま)の岡辺
        日に溶けて淡雪流る     (島崎藤村『落梅集』より)

 春浅い千曲川のほとりで、ひとり酒を酌みながら、自分を旅人としてみるその憂愁。この憂愁はどこからくるのであろうか。
 東京を離れて知らぬ土地へ移ったことのわびしさか。失意か。孤独感か。そのいずれでもあり、そのいずれでもなかった。
 憂愁はまさに青春の終ろうとすることの、何ともいえない傷みであり、青春の光彩の消えようとすることの悲しみであった。

 島崎藤村の有名な「古諸なる古城のほとり」によれば、まだ春浅い信濃路には、雪が消え残って、“はこべ”さえ萌え出ていないようである。ふつう、“はこべ”という草は、冬の間も枯れ切ってしまうことなく、雪や霜にいじけ切ってはいても、何とか寒さを耐え忍んで、生命をつないでいる、見た目のか細さに似合わぬ丈夫な草である。

        ななくさのはこべのみ萌え葛飾野     登四郎

    せり・なずな・ごぎょう・はこべら・
      ほとけのざ・すずな・すずしろ、これぞ七草

 春の七草を詠んだ歌の中でも、“はこべ”は、雪のまだ消えやらぬ野道のあちこちに、若葉を萌え出させて、立春間もないころのビタミンC補給源として、有益な野草であった。
 見るからに新鮮な若草色の“はこべ”が、二筋三筋、茎を伸ばして繁殖し始めると、よちよち歩きの鶏のひよこが、逸早くそれを見つけて啄ばむというのも、最近では、全く見かけることのない田園風景となってしまった。

        はこべらや焦土のいろの雀ども     波 郷

 焼け跡に、はこべらが生い出で、雀どもが降りて啄ばんでいるのだ。「雀ども」に愛憐の思いがこもっている。さらに「焦土のいろ」と言って、いっそうそのうら悲しい姿への愛しさを深めている。雀の羽色の形容で、一面の焦土を暗示している見事な句である。

 こうして、昔は摘み草の代表的植物であった“はこべ”も、ただの雑草として見過ごされている。
 さっと熱湯で湯がいて、おひたしにすると、ほうれん草にもおとらず美味しい、とは母の口癖。葉も茎も柔らかく、全く癖のない“はこべ”のおひたしは、決して捨てたものではない。

 ナデシコ科に属する“はこべ”にもいろいろある。茎に紅色を帯びて、葉の小さな“紅はこべ”は、少々固くて口に合わない。薄い若草色の茎が長く伸びて、卵型の葉も大きく二センチ近くに伸び広がった普通の“はこべ”が、最も食用に適している。学説によれば、“はこべ”のおひたしは、虫垂炎その他の胃腸の病気にも効能があるという。


     おひたしははこべに限る定年後     季 己

ほうれん草

2009年02月17日 22時42分51秒 | Weblog
 ほうれん草、白菜、ぶなしめじ、舞茸、豚肩ロース肉、納豆……、今日、スーパーで買った品々である。
 「ほうれん草」は、歴史的仮名遣いでは「はうれん草」と書くが、早春の青菜の代表とでもいうべく、葉は緑濃く柔らかで、根元は紅い。滋養に富んでいるので、最近は季節にかかわらず栽培されるが、いちばん味のよいのは、早春の今頃である。

        夫(つま)愛すはうれん草の紅愛す     眸

 ほうれん草というと、敬愛する岡本眸先生のこの句を思い起こす。風の便りでは、体調をくずされたとお聞きしているが、もう全快なさったのであろうか。

 ところで、ほうれん草は、いつ頃、誰が、日本へ持って来たのであろうか。もとは中央アジアが原産のアカザ科の植物というが、あの柔らかな葉と、香りの高さ、甘味と、すべての条件を備えたほうれん草が作り出されるまでには、ずいぶんと人の手を煩わせたことと思う。
 およそ四百年ほど前、江戸時代の初め頃に、中国から持って帰ったものだと言われているが、それがどこの誰だかは一切わからない。
 しかし、ほうれん草を日本にもたらした人の功績は、日本人の生活文化、特に食生活を高めた点で、じゅうぶん、勲章ものであろう。

        肥ききて赤きが悲しはうれん草     浜 人

 ほうれん草は、食べて味がよく、柔らかいばかりでなく、ビタミンABCD、たんぱく質、脂肪分、炭水化物、灰分、カルシュウム、燐、鉄分と、何でも揃っている。
 キャベツや大根の葉、白菜、蕪の葉、小松菜、みつば、葱などの、葉を食べる野菜の中では、こうした栄養分の含有量は、鉄分・ビタミンA・Cが一番、たんぱく質・脂肪分・ビタミンBは二番といった、優秀な成分を持っている。
 しかも、こうした栄養素の含有量だけを取り上げるならば、ほうれん草より優れた点のある大根の葉も、ほうれん草のように新鮮なままで口にすることを拒む固さを持っている。みつばも値段が高くて、ほうれん草のようにたくさん摂ることはできない。
 あらゆることを総合してみて、ほうれん草は、葉を食べる野菜の中では、最もすぐれたものだし、しかも、野菜の乏しい冬場にも欠かすことのない便利さが、日本人の食生活の中で、ほうれん草の地位を築いたものといえよう。


      師よ癒えよはうれん草の紅愛す     季 己

春寒

2009年02月16日 20時46分26秒 | Weblog
 立春になってから訪れる寒さを「春寒(はるさむ)」という。
 「拝啓 春寒料峭の候」と手紙の書き出しに使う「春寒」が、ちょうど今夜のことであろう。
 この二、三日ポカポカと春めいて、ほころび始めた盆梅が、ベランダで縮み上がるばかり、急に寒さが立ち返ったようだ。
 暦の上では春は立っても、今夜から明後日にかけての天気図は、縦縞模様の冬型で、雪の山から吹き降ろしてくる北風は冷たい。

        春寒し泊瀬の廊下の足のうら     太 祇

 「泊瀬」は、この句の場合「はせ」と読み、奈良の長谷寺のことである。
 長谷寺は、一般には長谷観音と呼ばれ、鎌倉の長谷観音と同様に絶大な信仰を集めている。本尊は十一面観音で、脇侍として難陀竜王と雨宝童子がひかえている。
 また、長谷寺は西国第八番の霊場としても有名である。白装束をまとい「幾度もまいる心は長谷寺(はつせでら)、山も誓いも深き谷川」と御詠歌をとなえながら、長い廊下をつたわって本堂に昇っていく善男善女にあうとき、われわれはこの寺が信仰の絶え間ない霊場であることを知るとともに、観音さまへの帰依の心を起こさずにはいられない。そしてまた、これらの人々は、巡礼の常として本堂に籠って夜を過ごすことも多かった。俳聖芭蕉も、つぎのように詠んでいる。

        春の夜や籠り人ゆかし堂の隅     芭 蕉

 立春を過ぎてもなお残っている寒さを「余寒(よかん)」という。「春寒」、「冴返る」などとほぼ同じ季感を表す季語である。
 しかし、「春寒」は春のほうに重きがあり、「冴返る」は春をひとたび、ふたたびと体感して後の寒さであるが、「余寒」は、寒が明けても寒さが残っているという、寒のほうに思いの傾いた感じのする季語である。

        春寒し水田の上の根なし草     碧梧桐
        筆選ぶ店先にゐて冴え返る     犀 星
        鎌倉を驚かしたる余寒あり     虚 子

 もう一息の暖かさが続けば、盆梅の蕾もつぎつぎ開いて、快く清らかな香りを漂わせることだろうに、この寒さに蕾も開きかねているに違いない。


      春寒の雨宝童子の宝珠かな     季 己

明珠在掌

2009年02月15日 23時05分41秒 | Weblog
 鏡を見たら、眉間にしわが寄っていた。何が不満なのだろう。頭の中では分かっているつもりなのだが……。

 禅語に「明珠在掌」というのがある。ふつう「みょうじゅたなごころにあり」と読んでいる。
 明珠は明玉と同じ意で、光り輝く「たま」のこと。「ほとけのこころ」を明珠にたとえたものである。
 したがって、「明珠在掌」は、「ほとけのこころ」は我々が生まれながらに本来そなえている事実をいう。仏教でいう「般若の智慧」すなわち「ほとけのこころ」を、誰もが常に手中に握っているのだから、他を探すのは愚かであると告げる言葉である。

 「ほとけのいのち」が、人間を人間たらしめているのだ。その人をその人として保たしめるのが、「ほとけのいのち」なのだ。
 その表象としての明珠が掌にあるとは、「ほとけのいのち」は人間の内面の深いところに埋めこめられているが、自分の内部というあまりの至近距離にあるため、かえって気づかない愚かさの悲哀感をともなう。
 弘法大師空海が、「それ仏法遥かにあらず。心中にして即ち近し。真如外にあらず。身を棄てて何(いずく)にか求めん」と教えるのも、みな同じであろう。

 メーテルリンクの名作『青い鳥』では、チルチル、ミチルの二人の子どもが、幸福を象徴する青い鳥を探して、遠くさまざまな国を遍歴するのも、真如(ほとけのいのち)を外に求めるのに似ている。
 一休さんの歌だといわれるが、「極楽は西方のみかは東にも、来た(北)道さがせ、みんな身(南)にあり」や、道元禅師の「極楽は眉毛の上のつるしもの、あまり近さに見つけざりけり」も、やさしい和歌で、この真理をうたいあげている。

 おそらく漢詩を翻案したものと思われるが、つぎのような「うた」がある。
 「咲いた咲いたに、つい浮かされて、春を尋ねて、西また東、草鞋減らして、帰ってみれば、家じゃ梅花が、笑ってた」
 よく味わうと、「明珠在掌」のこころが、うなずける。

 お坊さんでさえ、自分が宝(明珠)を持っていることに気づくために修行を重ねる。ましてや変人は、辛抱してもっともっと修行を重ねなければ……。
 自分をよく知ることは簡単そうだが、実は、かなり難しいことなのである。


      春の月おもしおもしと観覧車     季 己

涅槃会

2009年02月14日 20時31分39秒 | Weblog
        朱の多き涅槃図かかり湖の寺     澄 雄
 
 陰暦二月十五日を釈迦入滅の日としている。釈迦が入滅されたことを涅槃と呼び、この日、全国の寺々で法要が営まれる。その法要を「涅槃会(ねはんえ)」といっている。
 金色・赤色の多い条幅の涅槃図が掲げられ、香華と共に五色の団子が供えられるのが特徴で、図絵には釈尊を囲んで悲泣する五十二類・三十六禽の一切有情が精密に描かれる。寄添って臨終を暗然と告げるのは、天竺一番の名医ギバであり、床辺に哀しみのあまり白葉と変じているのは、涙知る名樹、沙羅双樹の茂みである。

        葛城の山懐に寝釈迦かな     青 畝

 『仏祖統記』という中国の書物に、
 「如来ハ周ノ穆王(ボクオウ)五十三年二月十五日ニ入滅ス。凡(オヨ)そ伽藍ニアリテハ、必ズ供(ク)ヲ修シ、礼(ライ)ヲ設ク。コレヲ仏忌トイフ」
 と記されているところから、二月十五日には、釈迦入滅を記念する涅槃会が行なわれることとなった。

 お釈迦様が亡くなられた年については、いろいろの説がある。
 『仏祖統記』に見える、周の穆王五十三年というのは、西暦紀元前948年、今から2957年前の昔となるが、これは何かの間違いで、大体紀元前480年頃、今から2490年以前のことと考えられている。

 さて、釈迦入滅の夜、満月の煌々と輝くクシナガラの地に、弟子たちの手厚い看護を受けながら、人類に慈悲の教えを説いた釈尊は、その月の沈むのと共に、静かに息を引き取られた。
 涅槃というのは、梵語のニルバーナ、あるいはパーリ語のニッパーナの音訳で、その言葉の意味は、吹き消すこと、また、それから転じた静寂すなわち死を意味する言葉である。
 そしてこの時、沙羅双樹の枝は、ことごとく垂れて、釈尊の亡骸を覆い、葉の色は変じて白い鶴の羽のようになったので、双林の夕べとか鶴の林という言葉が生まれたといわれる。

        涅槃図に洩れて障子の外の猫     化 石

 伝説によると、この日、釈尊の死を惜しんで、天界から不死の霊薬が投げられた。ところが、その袋が沙羅の木の枝に引っかかってしまった。ネズミが薬袋の紐を食いちぎって落とそうと木に登って行ったところ、一匹の猫が飛びかかって、そのネズミを食ってしまった。そのため、せっかくの薬が間に合わず、釈尊は息を引き取られたという。
 そういうわけで、釈尊入滅の床には、天地の間のあらゆる生物が集まって、歎き悲しんだ中に、猫だけは仲間外れにされたのだと伝えられている。
 釈尊入滅の有様を描いた涅槃図に、猫が描かれていないのは、そのためで、子丑寅とつづく十二支の中に、猫が入っていないのもそのためだという。
 そういえば、たいていの涅槃図には猫が描かれていないが、京都・東福寺の涅槃図には、猫も描かれ、歎きに加わっている。


      涅槃図に束の間入りし猫嫌ひ     季 己