うごくとも見えで畑うつ男かな 去 来
この句の下五「男かな」は、初案では「麓かな」であったらしい。「麓かな」の方が叙景的にはすぐれているようにも思われるが、やはり漠然としていて印象が弱い。畑を打つ男を登場させ、そこに焦点を合せることによって、のどかな田園風景を写すことに成功している。作者の改作の理由もそこにあるといえよう。
はるか遠くで畑を耕している男は、いつまでも同じ場所に立っていて、いっこうに動いているようにも見えない。しかも、鍬をを上げ下ろしするだけの単調な動作をくりかえしているだけだから、遠くからはなおさら一ヶ所に釘づけになっているようにしか見えない。
しかし、振り上げる鍬の刃先が、時折、春の光を受けてぴかっと光るのである。そこに動きがある。「うごくとも見えで」というところに動きを実感するのである。
この句は、凝視によってなった俳句である。凝視のうちに「畑うつ男」一点へ、心が集中するのである。
去来のこの句は、かのミレーの「落穂拾い」の絵を思い起こさせる。
広々とした畑に、黙々と落穂を拾う農婦の姿は、西欧風だが、この句は、以下にも日本的な発想によって裏づけられている。すなわち、小景の中にたくみに自然をとらえ、「畑うつ男」という言葉に、農民の土くささがじかに感じられてくる。
風土性の相違いうものであろう。ともかく、のどかで平和な小村の風景が快い。
歩み来し人麦踏をはじめけり 素 十
これも、早春の農村風景の1シーンである。
畦道を麦畑まで歩いて来た農夫が、そのままの歩調で畑土を踏み歩きながら、黙々と麦踏をしているのである。
無表情な農夫の動作に何の変化もないが、それがある地点に来て突然ある意味をになうようになったその突然変異に、素十は興趣を抱いたのである。運動する線上の一点をとらえたのである。
この句は、描かれた俳句である。素十は、見て見て見抜く眼の忍耐を持っていることでも知られているが、その素十がつぎのように述べている。
「無心の眼前に風景が去来する。そうして五分――十分――二十分。眺めている中にようやく心の内に興趣といったものが湧いてくる。その興趣をなお心から放さずに捉えて、なお見つめているうちにはっきりした印象となる。その印象をはじめて句に作る」
自然に接して内なる興趣をわかし、凝視のうちに印象がはっきりした形となり、句となるまでのゆったりとした成熟が、素十の作品にはうかがわれる。つまりそれは、とろ火でじゅうぶん煮詰められた俳句である。
素十の心は眼に乗り移って、自然の一点を凝視する。人物をも自然と同じ機能で見る。この麦踏の句も、凝視によってなった俳句である。
白鷺の水鏡する余寒かな 季 己
この句の下五「男かな」は、初案では「麓かな」であったらしい。「麓かな」の方が叙景的にはすぐれているようにも思われるが、やはり漠然としていて印象が弱い。畑を打つ男を登場させ、そこに焦点を合せることによって、のどかな田園風景を写すことに成功している。作者の改作の理由もそこにあるといえよう。
はるか遠くで畑を耕している男は、いつまでも同じ場所に立っていて、いっこうに動いているようにも見えない。しかも、鍬をを上げ下ろしするだけの単調な動作をくりかえしているだけだから、遠くからはなおさら一ヶ所に釘づけになっているようにしか見えない。
しかし、振り上げる鍬の刃先が、時折、春の光を受けてぴかっと光るのである。そこに動きがある。「うごくとも見えで」というところに動きを実感するのである。
この句は、凝視によってなった俳句である。凝視のうちに「畑うつ男」一点へ、心が集中するのである。
去来のこの句は、かのミレーの「落穂拾い」の絵を思い起こさせる。
広々とした畑に、黙々と落穂を拾う農婦の姿は、西欧風だが、この句は、以下にも日本的な発想によって裏づけられている。すなわち、小景の中にたくみに自然をとらえ、「畑うつ男」という言葉に、農民の土くささがじかに感じられてくる。
風土性の相違いうものであろう。ともかく、のどかで平和な小村の風景が快い。
歩み来し人麦踏をはじめけり 素 十
これも、早春の農村風景の1シーンである。
畦道を麦畑まで歩いて来た農夫が、そのままの歩調で畑土を踏み歩きながら、黙々と麦踏をしているのである。
無表情な農夫の動作に何の変化もないが、それがある地点に来て突然ある意味をになうようになったその突然変異に、素十は興趣を抱いたのである。運動する線上の一点をとらえたのである。
この句は、描かれた俳句である。素十は、見て見て見抜く眼の忍耐を持っていることでも知られているが、その素十がつぎのように述べている。
「無心の眼前に風景が去来する。そうして五分――十分――二十分。眺めている中にようやく心の内に興趣といったものが湧いてくる。その興趣をなお心から放さずに捉えて、なお見つめているうちにはっきりした印象となる。その印象をはじめて句に作る」
自然に接して内なる興趣をわかし、凝視のうちに印象がはっきりした形となり、句となるまでのゆったりとした成熟が、素十の作品にはうかがわれる。つまりそれは、とろ火でじゅうぶん煮詰められた俳句である。
素十の心は眼に乗り移って、自然の一点を凝視する。人物をも自然と同じ機能で見る。この麦踏の句も、凝視によってなった俳句である。
白鷺の水鏡する余寒かな 季 己