壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (91)真の評価②

2011年05月26日 21時22分25秒 | Weblog
 ――すぐれた和歌・連歌には、必ず大衆性がなければならないものなのでしょうか。
 心敬は答えます。
 「世間の称賛とか評判は、必ずしもその通りではなく、むしろ逆の場合が多い」と。

 近頃、「カリスマ」と呼ばれる人がやたらに多いようです。「カリスマ」とは、時流に乗り、蒙昧な人々から誉めそやされる人、のように思えてなりません。
 したがって、第一人者、大家とカリスマはまったく違います。

 第一人者というのは、たとえば、漢字研究の故・白川静さんのような方を言うのです。
 白川静さんの字書三部作《字統・字訓・字通》の、最後に刊行された漢和辞典『字通』には、特にお世話になっております。 
   「白川さんが、群れの中に分け入ることなく、いつも自然体で孤高の道を歩いて
    おられる姿に畏怖の念を抱いていた。学問の道にひとり悠々と楽しんでおられ
    る風情に惹きつけられ、励まされていた」(『読売新聞』2006.11.3)
 と、宗教学者の山折哲雄さんが、悼んでおられます。

 厳しい精神の営みが象徴的に反映している作品こそ、真の歌・連歌だと考えている心敬は、世人の理解を期待しようとはしません。真の理解に立つ批評のみが問題なのです。その点では非常に高踏的です。
 白川さんはすぐれた学者でしたが、すぐれた芸術家にも、共通の孤高性と高踏性が共存しているために、そのどちらを重視するかで、評価の仕方が異なってくるのです。

 「谷底に生えている松は、その立派さを人に知られることなく、空しく老い朽ちるのが常である」に、世俗と自己の、どうしようもない隔たりを自覚し、諦観しかつ寂寥を感じている、心敬の心境をうかがい知ることができます。

 句会で、「一点しか入らなかった」と言ってがっかりする人、「十点入った」と言って得意になる人、いろいろおります。
 だが、ちょっと待ってください。得点ではなく、点の中身が問題なのです。
 昭和の俳聖、平成の俳聖といわれる人、いや、結社の主宰でもいいでしょう、そのような人に取っていただいた一点ならば、大いに喜ぶべきです。
 反対に、入会したばかりの、いわゆる「俳句の‘は’の字も知らないような人」に取ってもらった十点は、大いに反省の余地ありです。おそらく報告・説明のつまらない句だと思います。

 「一人でも、歌聖と仰がれるような人の」選に入ることが大切なのであり、「鑑賞したり、批判・理解する能力がない者に、いくらほめられても仕方がない」のです。句会は仲良しクラブではなく、修業の場なのですから。

 先に、「結社の主宰でもいいでしょう」と述べたのは、主宰といっても、その実力には雲泥の差があるからです。
 「私は選に命をかけている。私の選に文句は言わせない」という主宰の一点は、酒盃を片手に選をする宗匠気取りのエセ主宰の百点より、ずっとずっと尊いのです。


      ひきがへる空どう見てもなまぐさし     季 己