壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

つくづくし

2010年02月28日 22時36分54秒 | Weblog
        真福田が袴よそふかつくづくし     芭 蕉

 見立てによる発想をとっている。その点では、談林的なものの名残が感じられる。しかし、単なるおかしみをねらうものではなく、土筆(つくし)の可憐なさまをとらえ、語りかけるような口ぶりが詩として生かされていることに注目したい。

 「真福田(まふくだ)が袴」は、『今昔物語』や『奥義抄(おうぎしょう)』などにある行基菩薩(ぎょうきぼさつ)の話で、
     行基が前世に和泉(いずみ)の国の人の娘だったとき、仏道に志した下童(しもわらわ
     =雑事に召し使う子供)の真福田丸のために、片袴を仕立ててやり、その修行を励ま
     した。
 ことをさす。そこで土筆のさまから、真福田丸が袴を着けた姿が連想されたもの。
 「よそふ」は、装(よそお)う意で、(身なりなどを)つくろう、飾ること。
 「つくづくし」は土筆のこと。「つくしんぼ」・「筆の花」とも言う。春の季語。

    「今、土筆が萌え出たのを見ると、坊主頭に、みな節のところに小さな袴のようなものを
     つけている。なるほど、お前たちはみな、あの真福田丸で、それで、それぞれに小さな
     袴を身につけているのだな」


      つくしんぼ揃ふ田道や幼稚園     季 己

桃の花

2010年02月27日 21時36分00秒 | Weblog
        煩へば餅は食はじ桃の花     芭 蕉

 『山之井』の「三月三日」の条に、
     「よもぎのあも(注、餅)つくことはからの文にもあめると見ゆれば、
      おんぞろか(注、もちろん)是もけふの題なり」
 とあって、桃の節句に草餅はなくてはならないものの一つだが、その一つを欠くことになったことが、発想の契機となったものである。軽い即興の句として味わいたい。

 中七「餅(もちひ)は食はじ」を、「餅(もち)をも食はず」、「餅こそ喰はね」とする伝本があるが、土芳の伝えた「餅は食はじ」に従いたい。「餅をも食はず」は、「せっかくの餅さえ食わない」の意に近く、「餅こそ喰はね」という形だと、はっきり「餅を喰わない。けれども」という傾向をもつことになろう。

 「煩へば」は、病気で寝込んでいるとの意で、心に思い苦しむの意ではない。
 「餅は食はじ」は、餅は食うまいというので、食欲がないのであろう。餅は、桃の咲くころだから蓬餅(よもぎもち)かも知れない。「もちひ」は、「餅飯(もちいひ)」から出た古語。
 
 季語は「桃の花」で春。
 詩経の巻頭を飾る「桃之夭夭灼灼其華……」の句は、江戸時代の人たちは誰でも知っていたという。桜よりも温雅で、ぽってりとした花のかたちを好む人も多い。「緋桃」・「白桃」・「源平桃」など、品種もかなりあって、それぞれに艶である。梅と桜の花期の空白を埋める、貴重な花木でもある。

    「こうして病気をしていると食欲がないので、草餅の時節であるが、それは食べないでおこう。
     しかし、桃の花だけは、しみじみ見ることにしよう」


 抗ガン剤を打たない週はホッとする。抗ガン剤は、ガンを縮小させるために必要なのかも知れない。しかし、副作用が強く、我が身、我が命を縮めているような気がしてならない。
 幸い、副作用は、末梢神経障害ぐらいで、食欲はあるので、それを喜ばねばなるまい。だが、草餅も食べられなくなるのなら、即、抗ガン剤を拒否したい。
 「病は気から」と言われるが、最後は自分で治すしかなかろう。自然治癒力を信じて努力するほか……。

      水音の光り夕桃花ざかり     季 己 

海苔汁

2010年02月26日 20時20分27秒 | Weblog
          浅草千里がもとにて
        海苔汁の手際見せけり浅黄椀     芭 蕉

 挨拶の句で、表に述べていることは海苔汁の手並みであるが、裏には感謝とその風雅な心をたたえる気持ちとがこめられている。「見せけり」という言い方にも、千里(ちり)の心づくしを認め、それを快く眺めている趣がある。ただ「手際見せけり」の調子が、高いものとはどうも言い切れないようである。
 年代は確定できないが、発想・動静などからみて、貞享元年(1684)ごろの作と考えられている。

 「千里」は苗村氏。通称、粕屋甚四郎。『野ざらし紀行』の折、芭蕉にお供し、「信あるかなこの人」といわれている人。大和、竹内村の出であるが、江戸に住んだ。
 「海苔汁」は、海苔の味噌汁。当時、「苔」の一字だけで海苔に用いるのが慣用であった。「海苔」は、春の季語としている歳時記がほとんどであるが、十一月半ばから一、二月が収穫のシーズンである。
 四代将軍家綱の代に、品川沖で人工的に栽培され、「浅草」で漉(す)かれて、日本どくとくの海産物となっていった。女竹(めだけ)や孟宗竹の枝の長いのを、干潮時に海底に立てる。これを海苔そだといい、これに胞子が流れついて発生するのを待った。現在は、ナイロン網を浮きで張り、貝の中で培養した胞子を放つので、確実に発生する。発育を早めるために冷凍処理をしたりして、科学的な産業と変わった。しかし、あの特徴ある紫色と、香気は今も変わってはいない。
 「浅黄椀」は塗椀の一種。黒塗りの上に縹色(はなだいろ)、つまり薄い藍色と赤・白の漆で花鳥を描いた椀で、京都二条新町で製した、といわれている。風雅な椀として珍重された。
 「海苔」が季語で春。

    「千里の心からのもてなしで、浅草名産の海苔を入れた海苔汁をふるまわれたが、
     まことに美味で、料理の手腕を遺憾なく見せたというべきである。しかも、海苔汁
     にふさわしく、雅趣に富む浅黄椀に盛られていて、亭主の心づかいのほども奥ゆ
     かしい」


      海苔買ふや雷門も夕まぐれ     季 己

2010年02月25日 22時46分47秒 | Weblog
        大比叡やしの字を引いて一霞     芭 蕉

 『一休咄(ばなし)』に、
     一休禅師が叡山に遊んだとき、衆徒が大字を書くことを望んだので、禅師は、
    坂本の里まで紙を継いで、しの字を引捨てた。
 とある逸話によったもの。
 一休の逸話を暗示しつつ、見立ての手法を駆使するところにねらいがあった句。このころのものとしては、口調が一気に通っていて、大景を想像させるだけの効果があがっている。
 『六百番俳諧発句合』に、「霞」と題してある。延宝五年(1677)ごろの作。

 「大比叡(おおひえ)」は、比叡山の美称。京都市の北東部、滋賀県との境にある山。日枝(ひえ)山・日吉(ひえ)山ともいった。頂上は二つに分かれ、四明岳と大比叡よりなる。大比叡の中腹に、天台宗の総本山延暦寺(えんりゃくじ)がある。
 叡山(えいざん)・天台山・北岳・北嶺(ほくれい)・ひえのやま、などとも言う。
 「しの字を引いて」は、縦に引くべき‘し’の字を、横に引いたように、の意。昔は‘し’の下を曲げない書き方が多かった。
 「一霞(ひとかすみ)」は、謡曲に見られる語で、一気に霞がたなびいている感じである。
 季語は「霞」で春。

    「大比叡山に、霞がずっと横にたなびきかかっている。昔、一休禅師は、叡山から坂本
     まで‘し’の字を縦に引かれたというが、この光景は、‘し’を横に一文字に引いた感じ
     でおもしろい」


      機影まだ重なりあへる霞かな     季 己

柴胡

2010年02月24日 22時55分19秒 | Weblog
        陽炎や柴胡の糸の薄曇     芭 蕉

 古来、「柴胡の原の薄曇」のほうが、句として大景になって、ずっとよいとの評がある。しかし、柴胡(さいこ)は、夏秋の候は一メートル以上に達するとしても、陽炎(かげろう)の頃なら、そう丈高くなっているはずもない。単に大景を詠んだとみるのは、必ずしも適切な見方ではなかろう。
 陽炎がゆらゆらと立ち上っている、その薄くかげった感じの光のもとで、目にとめてよく見ると、思わず「糸」と呼びたいような、柴胡の細葉の芽生えが発見された趣と見たい。こう見たほうが、大景と見るよりは、はるかに鋭さが生きてくると思う。

 中七「柴胡の原の」とする本があり、古注のたぐいは「原」を支持するものが多い。けれども、「原」は「糸」の草書体を見誤ったものであろうと考えられている。

 「柴胡」は、ミシマサイコの別名で、セリ科の多年草。山野に自生し、高さ約一メートル。葉は線形。秋に多数の黄色小花をつける。根は柴胡とよび、漢方の解熱剤として、古来珍重されてきた。
 「柴胡掘る」は秋の季語となっているが、この句では、陽炎の頃であるからまだ芽である。「柴胡の糸」というのは、柴胡の芽生えの細いものをさしたのであろう。

 「陽炎」が春の季語。『猿蓑』にも陽炎の句として掲出。この句は、「陽炎」の現実体験に触れないと詠みとれないと思われるような、鋭いつかみ方である。

    「陽炎がゆらゆらと立ち上っている。見ると柴胡の細い糸のような芽生えに、薄く陽炎の
     かげが照りくもりしていることよ」


      生かされて不動明王かぎろひぬ     季 己

陽炎

2010年02月23日 20時32分06秒 | Weblog
          冬の紙子いまだ着かへず
        陽炎の我が肩に立つ紙子かな     芭 蕉

 いち早い春の訪れに驚くとともに、あらためて自己をふりかえっている心である。大垣を訪れての吟であることが知られるが、単なる属目吟にとどまらず、いわば自省の句として独立させようとしたものであることが、「冬の紙子いまだ着かへず」という前書きからわかる。
 紙子が冬のもので、おそらく着古したそれであることを心におくと、意外な発見に驚き、自己をあらためてふりかえっている気持ちがくみとれる。ことに、中七に据えられた「我が肩に」という把握には、驚きのみならず慎ましい喜びのひびきが感じられる。それは、「三月節句過ぎ早々、松島の朧月見にと思ひ立ち候。白河・塩釜の桜御羨ましかるべく候」(元禄二年二月十五日付桐葉宛書簡)とある、その時期の近きに踊り立つ心でもある。

 「紙子」は、白い厚紙に柿渋を塗り、かわかして夜露にさらし、揉みやわらげて仕立てた衣服のこと。もと律宗の僧が用いた。「紙衣」とも。
 「陽炎(かげろう)」は、水蒸気が上昇するとき、空気が乱され、遠くの物体が浮動して見える現象。古くは、曙光・火炎・蜻蛉・蜘蛛の糸など、ちらちら光るものすべてに言ったようだ。古人は、物のすべてがゆらぎはじめる様子に、神秘と畏敬の念を持ちつつ、人間のいのちの姿、あるいは存在そのものを感じ取ってきたのである。

 「陽炎」が季語で、春。「陽炎」の本質を把握したもの。芭蕉の、陽炎に対する繊細微妙な感じ方がよくあらわれている。

    「冬のよそおいである紙子を着たままの肩に、ふと気がつくと、ゆらゆらと陽炎が立って、
     早くも春の気配が感じられることだ」


      上げ潮の息ゆるやかに葦めぶく     季 己

衣更着

2010年02月22日 22時22分22秒 | Weblog
          二月十七日神路山を出づるとて、
          西行の涙をしたひ、増賀の信を
          かなしむ。
        裸にはまだ衣更着の嵐かな     芭 蕉

 「増賀の信(まこと)をかなしむ」という前書きの心が、この句と匂いあってところに微妙な味がある。「かなしむ」のは、その馬鹿正直なまでの実行性に、愛情とあわれみとを同時に感じているのであろう。この句の持つ、笑いの味にたいそう引きつけられる。
 
 「神路山」は、伊勢内宮南方の山。ここでは伊勢神宮の神域をさす。
 「増賀聖(ぞうがひじり)」の故事は、『撰集抄』に伝えられている。
    増賀はたいそう道心深く、伊勢大神宮に祈念して、名利を捨てよ、との示現を
    こうむったので、小袖などみな乞食どもに脱いで与えてしまって、赤裸で下向
    した。
 というのが、それである。
 「衣更着(きさらぎ)」とは、陰暦二月の異名で、余寒強く、「衣を更に着る」という意から出たという。現在「きさらぎ」は、「如月」と書く。
 語源には諸説あり、気更に来るとか、生更(きさら)ぎとか、草木が更生するなど、万物が萌え動き出す頃の意であろうか。
 「梅見月」・「初花月」・「雪解月」・「小草生月(おぐさおいづき)」ともいう。

 季語は「衣更着」で春。「きさらぎ」に、「衣を更に重ねて着る」意をひそませた使い方で、「裸には」に、それがはたらきかけるのである。貞享五年(1688)二月十七日の作。

    「増賀上人は伊勢に詣でて、〈名利を捨てよ〉との示現どおり、衣類をすっかり乞食に
     与えて、自分は裸で下向したというが、この二月のいまだ余寒きびしい嵐では、さら
     に着物を重ねたいくらいで、今の自分はとても裸でこの神域から下向できそうもない」


      梅見月こもりて母の足をもむ     季 己

道程

2010年02月21日 22時15分36秒 | Weblog
        鶯や柳のうしろ藪のまへ     芭 蕉

 芭蕉としては、珍しいくらいの単純な発想である。「柳のうしろ藪のまへ」で、柳や藪が点在する平和な田園風景の中で、自在に飛びまわり鳴き交わしている鶯が、軽やかに描き出されている。
 いまから見ると、単純すぎて何の奇もないように見られるところもある。けれども、貞門・談林以来、芭蕉の歩いてきた長い表現工夫の道程を考え合わせてくると、この単純への過程に振り落とされ、洗い上げられてきたものが、並々でなかったことを考えなければならない。
 この削り去ったものへの考慮なしに、この到達点をそのまま学ぼうとすることが、句を浅くしてしまうのだと思う。このことは、俳句に限らず、すべての芸術に通じるのではなかろうか。
 年代は『蕉翁句集』に、元禄五年(1692)とする。

 季語は、「柳」も春であるが、この句では「鶯」が主になっている。鶯そのものに触れて、軽やかにとらえてゆく発想の仕方がうかがわれる。
 なお、「鶯の初音(はつね)」は二月はじめごろ、さえずりの整うのは三月ごろ。ケキョケキョケキョと続けざまに鳴くのを、「鶯の谷渡り」という。

    「鶯があちこち移りあるいてしきりに鳴いている。その鳴いているのは、あるいは柳のうしろ
     であったり、あるいは藪の前であったりする」


 昨晩は、指先がしびれ、キーボードを打つのが非常に困難だった。そのため、稲盛和夫氏の「六つの精進」の解説部分を省略してしまった。理解を深めるために、稲盛和夫著『生き方』(サンマーク出版刊)より、そのまま引用させていただく。最近、この『生き方』はベストセラーになり、売れに売れている。変人が読んだのは今から五年前のことで、引用もその本に基づいていることを付記する。

      心を磨くために必要な「六つの精進」

    ①だれにも負けない努力をする
      人よりも多く研鑽する。また、それをひたむきに継続すること。不平不満を
     いうひまがあったら、1センチでも前へ進み、向上するように努める。
    ②謙虚にして驕らず
      「謙は益を受く」という中国古典の一節のとおり、謙虚な心が幸福を呼び、
     魂を浄化されることにもつながっていく。
    ③反省のある日々を送る 
      日々の自分の行動や心のありようを点検して、自分のことだけを考えていな
     いか、卑怯な振る舞いはないかなど、自省自戒して、改めるよう努める。
    ④生きていることに感謝する
      生きているだけで幸せだと考えて、どんな小さなことにも感謝する心を育て
     る。
    ⑤善行、利他行を積む
      「積善の家に余慶あり」。善を行い、他を利する、思いやりある言動を心が
     ける。そのような善行を積んだ人にはよい報いがある。
    ⑥感性的な悩みをしない
      いつまでも不平をいったり、してもしかたのない心配にとらわれたり、くよ
     くよと悩んでいてはいけない。そのためにも、後悔をしないようなくらい、全
     身全霊を傾けて取り組むことが大切である。


      芽柳の銀座 点滴しのばせて     季 己   

誰まつ島ぞ

2010年02月20日 22時28分29秒 | Weblog
        あさよさを誰まつ島ぞ片心     芭 蕉

 松島を恋いあこがれる心を、恋に取りなした即興の句である。
 『桃舐集(ももねぶりしゅう)』の伝える「名所のみ雑(ぞう)の句有りたき事なり」という芭蕉の考え方は、芭蕉の季に対する意見を、うかがい知る上でよい参考となろう。つまり、地名を詠んだ句は、雑(季の詞なし)の句であってもいいじゃないか、ということだろう。芭蕉は一応、季語を入れようとしたのであろうが、入れる余地がなかったのだ。地名を詠み込めば、それだけで季語と同じくらいの音数をとってしまうのだから。

 『蕉翁句集』に、「此の句いつの年ともしらず、旅行前にやと此所に記す」と付記して、貞享五年の部に納める。句意を考慮すれば、元禄二年(1689)の『おくのほそ道』の旅の直前の句とも考えられる。
 「あさよさを」は、「朝夜さを」で、朝も夜も常にの意ととる。
 「誰(たれ)まつ島」は、「松」と「待つ」を掛けた言い方。
 「片心(かたごころ)」は、ひとり心の隅で思いつづけること。『源氏物語』などでは、いささか関心を寄せることの意に用いている。「片思い」とは異なる。
 雑の句で季語はない。

    「松島では誰かが自分を待っているとでもいうのであろうか、朝となく夜となく、松島をひとり
     恋しく思い続けていることだ」


 ――「やはり気になる。待っている気がする……」
 そんな気がして、抗ガン剤点滴の接続ポンプを着けたまま、銀座の「画廊宮坂」へ行く。『春風―日本画四人展―』の最終日である。
 この展覧会には、火曜・木曜と二度お邪魔し、ゆっくりと観させていただいている。おいしいコーヒーと珍しいお菓子をいただきながら。13点の作品を4時間かけて、穴の開くほど観た。その中に1点、心惹かれる作品があった。波根靖恵(はねよしえ)さんの「ツナグ」である。
 東京芸大大学院で、『源氏物語絵巻』の模写に携わっただけに、その技術はすばらしい。また、空間処理が実にいいので、余情・余韻が非常によく感じられる。また落款の入れ方にまで心を配っているのがうれしい。描かれている対象と落款とが完全に一体化しているのが、実にすばらしい。
 作品の前に立ち、真っ先に落款の(へたくそな)文字が目に飛び込んでくる作品ほどイヤラシイものはない。思わず、絵よりも名前を見せたいのか、と言いたくなる。心当たりの画家さんは、落款の入れ方を波根さんに学んでいただきたい。

 「そんなに感動したなら、2度目の時にどうして購入しないの?」とおっしゃる方がおられるかも知れない。「置き場所がない」というのが第一の理由。「若い作家さんの作品を多くの人にもってもらいたい」というのが第二の理由。「その作品と縁があれば、作品は他へは行かず待っていてくれる」というのが第三の理由。
 そうして最終日に、「わたしを迎えに来て!」と作品から呼ばれ、売約済みの赤丸が付いていなかったので、「三度の武田」となった次第。
 波根さんは、将来有望な作家である。ただ、技術に走り、技術におぼれなければよいがと心配したが、これはどうやら取り越し苦労のようだった。波根さんは、技術よりも心を第一に考えていると言い切る。これを聞いて安心した。

 俳句を詠む目的は、心を高めること、魂を磨くことにある、と思っている。絵画も全く同じであろう。
 では、魂を磨き、心を高めるにはどうすればよいか。稲盛和夫氏は、『生き方』の中で、次のように述べておられる。

         心を磨くために必要な「六つの精進」
    ①だれにも負けない努力をする
    ②謙虚にして驕らず
    ③反省のある日々を送る
    ④生きていることに感謝する
    ⑤善行、利他行を積む
    ⑥感性的な悩みをしない

 これらを稲盛氏は、常にご自分にいい聞かせ、実践するよう心がけておられるそうだ。氏のおっしゃるとおり、「六つの精進」は、やはりふだんの生活のうちに実行していくことが肝要と思い、極力まねをするようにしているのだが……。

     「ツナグ」といふ思ひや春日てのひらに     季 己

鏡の裏

2010年02月19日 22時39分10秒 | Weblog
        人も見ぬ春や鏡の裏の梅     芭 蕉

 鏡の裏に「人も見ぬ春」を感じた芭蕉。そんな態度に一応、つくりものめいたところが感じられなくもない。しかし、どこか心ひかれる、しみじみとした気持が感じられる。芭蕉の、隠れたものに向いてゆく愛憐(あいれん)の情の深さによるものであろう。
 この句、元禄五年(1692)の歳旦吟と考えられているが、歳旦吟として見れば、ここには、世に隠れて棲もうとする芭蕉の心の動きがこめられている、と考えてもよいだろう。

 「鏡の裏の梅」とは、昔の鏡は、裏に花や鳥などの模様が鋳つけてあった。この句の場合は、それが梅の形だったのである。「鏡の裏の梅」を、人の見ないものの比喩ととる説には従いがたい。
 鏡の裏を題材にした和歌には、
        見えぬには 影やはうつる 十寸(ます)鏡
          裏なる鶴の 音をのみぞなく  (俊 頼『夫木集』)
        千歳にも 何か祈らむ 裏に住む
          田鶴の上をも 見るべかりける  (伊 勢『拾遺集』)
 などがある。

 季語は、「人も見ぬ春」ともとれるが、「梅」が季語として働いているととり、春。
 『泊船集』の許六書入れによれば、題詠的な発想だったようで、鏡の裏の何かを詠み出づるというのは、一つの型になっていたとも見られる。これがこの句に、つくりものめいたものを感じさせるゆえんであろう。

    「鏡の裏の梅の模様をしみじみ見た。こんなところに、誰も見ぬさまに、ひっそりと春を迎え
     ている梅もあるのだ。なんともあわれなことよ……」


 本日、金曜日は、抗癌剤投与日。血小板の数値に多少問題があったようだが、GOサインが出た。また、2月15日に受けたCT検査の結果、肺に転移した癌は、前回より確実に小さくなっていた。当初の大きさと比べたところ、当初の四分の三以下になっており、治療の効果が出ていることが確認できた。
 これも多くの皆様の祈りと激励のおかげと、深く深く感謝申し上げます。これからも頑張らずに、癌と仲良く、楽しむつもりです。ありがとう! ありがとう! ありがとう!

      点滴や触るるばかりのマスク愛(は)し     季 己

やつるる恋

2010年02月18日 22時59分38秒 | Weblog
          田家にありて
        麦飯にやつるる恋か猫の妻     芭 蕉

 「田家(でんか)」とは文字通り、田舎(いなか)の家、あるいは単に、田舎を意味する。その田家の雌猫が、痩せてそわそわしている様に、興じている句である。
 「やつるる」は、田家の猫が麦飯にやつれる様と、恋にやつれる様とを、微妙にからませた表現で、「麦飯に」の「に」も、単に原因をあらわす以上に、微妙な用い方をしているように思える。
 どことなく、田舎住まいの侘び人の恋の姿が寄せられているようなところに、俳諧が感じられる発想である。

 「猫の妻」は、交尾期にある雌猫。「猫の恋」にかかわる季語で春。古典の匂いをただよわせたところが俳諧で、句の眼目になる。

    「麦飯ばかり食わされて痩せている雌猫が、このごろまた、ひとしおやつれているのは、
     これはまた、恋ゆえであろうか」


      いくたびも闇あたためて恋の猫     季 己 

荻の二葉

2010年02月17日 22時54分44秒 | Weblog
          李下、芭蕉を贈る
        芭蕉植ゑてまづ憎む荻の二葉かな     芭 蕉

 この句、これまでの外的な媒介による発想がかげをひそめ、芭蕉庵の静かな明け暮れの中で、自分の身辺に目を注ぎ、そこから素直に詩を発見してきていることがわかる。

 「芭蕉を移す詞」(元禄五年作)に、
    いづれの年にや、栖(すみか)を此の境に移す時、芭蕉一本(ひともと)を植う。
    風土芭蕉の心にやかなひけむ、数株の茎を備へ、その葉茂り重なりて庭を狭め、
    萱(かや)が軒端(のきば)もかくるばかりなり。人呼びて草庵の名とす。
 とある。

 芭蕉庵に入った時期は、古来、説が多いが、延宝八年(1680)冬とするのが、ほぼ定説になっているようだ。したがって、この句は延宝九年春の作と推定される。
 前書きにある「李下」は、蕉門初期の俳人であるが、伝不詳。

 「荻の二葉」が、「荻の角(つの)」「荻の若葉」などと同類の季語で春。

    「李下から贈られた芭蕉を植えて、その成長繁茂を待っていると、思いもよらず荻の二葉が
     芽を出してはびこりだした。芭蕉の成長を願うにつけて、まず、この荻の二葉を憎む気に
     なったことだ」


      芽吹かんとして大木のあたり冷ゆ     季 己

梅が香

2010年02月16日 22時30分07秒 | Weblog
 立春が過ぎ、十日以上もたつというのに、今夜も雪。東京の二月の雪日数の平均は3.5日というのに、今年は今夜で7日目の雪という。
 日脚はたしかに伸びてはいるが、春になったという実感は全くない。‘春隣り’といったところだろうか。

        梅が香やとなりは荻生惣右衛門     其 角

 荻生惣右衛門(おぎゅうそうえもん)というのは、元禄時代の有名な漢学者、荻生徂徠のことで、江戸茅場町に、其角と隣り合わせに住んでいた。
 塀越しに、梅の香りが漂ってくる近所づきあいの親しさは、
        秋深き隣は何をする人ぞ
 という芭蕉の句とは違って、むしろ、弟子の其角の人間くささが妙にうれしい。
 隠密かとも疑われるほど、旅に明け、旅に暮らした芭蕉は、江戸深川の芭蕉庵にいても、あまり腰が落ち着かず、ほとんど近所づきあいをしなかったのかも知れない。

 それはさておき、関東では熱海、関西では南部(みなべ)など、温暖な梅林では、中咲きの梅が盛りを迎えた頃であろうか。我が家の盆梅も、一つは満開、もう一つは、日増しに莟をふくらませている。
 もっとも、早梅(そうばい)などといって、暮れや冬至の頃に咲き出す、早咲きの梅もある。春にさきがけてとか、寒さをしのいで、などと形容されるように、大寒の終わり頃からほころび始める梅にこそ、その潔い風格が尊ばれることである。

        霜雪も いまだ過ぎねば 思はぬに
          春日の里に 梅の花見つ

 『萬葉集』巻八に見えるこの歌は、ちょうど今頃の梅を歌ったものであろうか。


      四人展出て春雪の青むかに     季 己

しのぶ

2010年02月15日 20時47分47秒 | Weblog
        しのぶさへ枯れて餅買ふやどりかな     芭 蕉

 『野ざらし紀行』に、
    熱田に詣づ。社頭大いに破れ、築地(ついじ)は倒れて叢(くさむら)にかくる。
    かしこに縄を張りて小社の跡をしるし、ここに石を据ゑて其の神と名のる。蓬(よ
    もぎ)・忍(しのぶ)、心のままに生ひたるぞ、なかなかにめでたきよりも心とど
    まりける。
 とあって出ている。

 おそらく熱田神宮社前の茶店などに休んだことを、「餅買ふやどり」と興じたのであろう。旅中の手軽な食事として餅を買うということで、俳諧味を生かそうとしているのである。
 句はしみじみとした味わいを出しているが、「しのぶ」に「偲ぶ」という心をこめる発想が、まだ払拭されていないようである。

 「熱田」は熱田神宮。『広辞苑』に、「名古屋市熱田区にある元官弊大社。熱田大神を主とし、相殿に天照大神・素戔嗚尊・日本武尊・宮簀姫命(みやすひめのみこと)・建稲種命(たけいなたねのみこと)を祀る。神体は草薙剣(くさなぎのつるぎ)」とある。
 「やどり」は、①宿ること。②旅宿りすること。③とどまること。④星の宿り。などの意があるが、前書きからして、神前の茶店にひととき休んだ、の意であろう。
 「枯れ忍」の句ということで冬季。

    「熱田神宮に詣でると、宮のほとりはすっかり荒れ果て、その昔を偲ぶよすがもない。
     忍ぶ草さえ枯れ果ててしまっている。そこで神前の茶店に休んで、餅などを食べて、
     しばし旅情を慰めたことであった」


      夢見るは補陀落渡海 寒椿     季 己

つらら

2010年02月14日 22時46分44秒 | Weblog
 降り積んだ雪が消え残る屋根の廂(ひさし)に、長い氷柱(つらら)が下がっている。降り続いた雪が晴れて、日の光にとけた雪のしずくが、そのまま凍って垂れ下がっている。
 もちろん、テレビの画面で見た光景である。温暖化した近頃の東京では、まず見られないが、氷柱は、冬の風物として忘れられないものの一つといえよう。
 ことに、日当たりのよい軒に下がった氷柱が、朝日を受けてキラキラ輝いているのは、寒さも忘れてうっとりする美しさである。なめらかな氷の表面を伝わってゆく水滴の音もない流れにこそ、〈つらら〉という言葉の感覚が、生き生きと感じ取れる。
 日の光を受けた氷柱が、プリズムのように、日光を七色に染め分けて輝くとき、自然の織りなす美しさを痛感せずにはいられない。

 北の国の高い山には、樹の枝や岩石などからしたたり落ちる水が凍って、樹木や岩石ごとの氷柱(ひょうちゅう)になったものも見受けられる。高い絶壁からほとばしり落ちていた滝が、そのまま凍って、氷の簾(すだれ)をかけたような豪壮な氷柱(つらら)となっていることもある。それは、何万年もかけて造り上げられた鍾乳洞の自然の美に、優るとも劣らぬ荘厳な美しさを、わたしたちに見せつけてくれる。

 紫式部も、『源氏物語』の末摘花(すえつむはな)の巻の中に、こんな歌を残している。

        朝日射す 軒の垂氷(たるひ)は 解けながら
          などか氷柱(つらら)の 結ぼほるらむ


        立松和平さんを悼む
      へうへうと和平は旅へ大氷柱     季 己