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壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (87)『てにをは』の怖さ

2011年05月21日 20時35分57秒 | Weblog
        ――長年の修業を経て、達人・名人と言われる人ほど、ますます
         その句の良さがわからなくなるのは、どうしてなのでしょうか。

        ――先達も言っていることだが、連歌の修業というのは、前句の
         意味や「てにをは」の一字をもおろそかにせず、打越・遠輪廻、
         あるいは自分の句に後の人が付けることまで用意周到に考え、
         百韻全体の立場から前後のことまで考慮する作家の句を、ただ
         自分の句のみを思案するような連中には、とうてい理解できな
         いであろう。

          小野道風の手跡でも、至極の境地に達した後の作品は、世間
         にそれを判別できる人はなかったという。
          楚の人、ベンカが名玉を得て王に献上したが、ただの石とさ
         れて、左右の足を次々と切られ、三代目の王のとき、はじめて
         名玉として真価が認められたということだ。
          仏法には、悟りの完成の極致ともいうべき円教の境地がある
         が、これは凡夫の理解を絶するものである。
                         (『ささめごと』名人の句の難しさ)


 ――至極の境地に達した名人の句の真価は、平々凡々たる者には理解できなくて当然である、というのが結論でしょう。

 連歌の一句だけを取り出して比較する場合、ある一句がその句だけでいかに真価があるかということよりも、前句との関係がどうなっているか、つまり、前句の内容とどのように響き合っているか、前句の表現の仕方の微妙さをいかに生かして受け取っているかが問題なのです。
 そして打越(付けようとする句より二句前の句)や遠輪廻(数句以上を隔てて同じような趣の句が出てくること)、あるいは自分の後に付ける人の立場まで顧慮して、広く一巻全体の調和を考えた上で句作しなければなりません。そういう点をすべて考慮に入れた総合的見地に立たなければ、真の判断は不可能だというのです。
 このように名人の句は、部分を見、全体を見、その他もろもろのことを考え、「てにをは」までにも心をつかって句を作るので、並の人間には理解できないのです。

 俳句は、連歌の発句が発達したものなので、五七五の詩形と季語、それに“切れ”だけを考慮すればよいので、その点は楽です。(とは書いたものの、実際は大変です)
 最近、“切れ”のない句が受けているようですが、これは困りものです。
 『書は余白の美』と言われるように、書においては“間(ま)”を重要視します。文字そのものの美しさよりも、“間”の美しさを尊ぶのです。
 俳句における“間”が、“切れ”なのです。

        手にうけて確かめて雨夕ざくら     稚 魚

 中七の体言止めの心憎さ、お解りいただけますか。この中七の後の“間”で、人物も夕ざくらも見えてくるのです。(蛇足ながら、“止め”も“間”を表しますので、“切れ”と同様に考えておること、記しておきます)

        冬の日の露店のうしろ通るなり     稚 魚

 「日の」の「の」の使い方、並の人ですと「日に」とやりやすい。「冬の日に」とすると説明になってしまいます。この句、「冬の日の」で“切れ”ているのです。

        落葉掻く音の一人の加はりし     稚 魚

 「音の一人の」の「の」の使い方のうまさ、絶妙です。こういう使い方のできる人を名人と言うのでしょうね。

        水中に魚の目無数寒ゆるぶ     稚 魚

 「水中に魚の目無数」という写生の的確さ、水中に息づいているものの生命を写しています。そして「寒ゆるぶ」という揺るぎない季語!

        終戦日といふ一日を人はみな     稚 魚

 中七の「を」に込められた稚魚師の想いの深さ、このように「てにをは」が使えたら、俳句は楽しくてしようがないでしょうね。
 俳句のうまさは、「てにをは」によって決まる、と言ってもよいほど、恐いものなのです。


     花ざくろ女子高生の化粧かな     季 己