壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

氷室

2009年07月31日 20時50分28秒 | Weblog
          風流亭
        水の奥氷室尋ぬる柳かな     芭 蕉

 芭蕉は、「おくのほそ道」の旅の途中、大石田から出羽の最上の庄、つまり新庄に出た。そこの風流(ふりゅう)の宅で詠じたもので、主人風流に対する挨拶の意を含んでいる。

 「氷室尋ぬる」は、眼前の流れが非常に清冽だったので、この源に氷室でもあるのだろうと想像し、さらに一ひねりして「尋ぬる」(尋ねてゆく、の意)と仮構したものであろう。謡曲の「氷室」を心に置いた発想かも知れない。
 謡曲「氷室」は、亀山の院に仕える臣下が、丹波の氷室に着き、氷室守(ひむろもり)に会って氷室の謂われを問い尋ね、氷調(ひつき)の祭を見るという構成である。
 芭蕉は、風流を由緒ある氷室守と見立て、氷室についての謂われを問う体になぞらえて、謡曲的口調を生かして発想したもので、それが風流への挨拶になっているのである。

 「風流亭」は、風流の家で詠んだ句、の意。風流は、新庄の俳人で、本名は渋谷甚兵衛。
 「水の奥」は、水の流れ湧く奥、の意で、水の湧き出る源のこと。
 「氷室」が夏の季語、「柳」は春の季語である。この句の詠まれたのが、元禄二年六月三日前後と考えられるので、「氷室」が季語であろう。
 ただ現代では、「氷室」が仮構のもので、「柳」が眼前のもの、そのうえ「柳かな」と切字を伴っているので、「柳」が季語、といわれても仕方なかろう。
 「氷室」は、古くは山陰の日の当たらぬ所に穴を掘り、蕨のほどろなどで氷をかこったもので、夏まで雪や氷を保存する設備である。

    「この柳かげを清らかな水が流れていて、なんとまあ涼しいことだろう。
     清冽な水の流れくる源に、さだめし氷室でもあるのだろう。なんとなく
     訪れてみたい気がしてくる」


      向かひあひ氷苺の午後三時     季 己

七月三十日

2009年07月30日 20時41分14秒 | Weblog
        幻談に燭して修す露伴の忌     鶏 二

 きょう七月三十日は「露伴忌」、つまり、明治・大正・昭和三代の文豪、幸田露伴の忌日である。
 露伴は本名「成行」、別に蝸牛庵とも号した。小説『五重塔』『運命』『連環記』その他名作が多く、史伝・随筆・考証などの著述も多い。俳句関係では『俳諧七部集評釈』が有名。昭和二十二年この日没、八十歳。

 おもしろい?ことに、明治天皇が明治45年(1912)、歌人で小説家の伊藤左千夫が大正2年(1913)、小説家の谷崎潤一郎が昭和40年(1965)の、それぞれ7月30日に亡くなっている。
 7月30日と、忌日を同じくするこれらの人物を、『広辞苑』ではどう書いているか、覗いてみた。

 【明治天皇】近代の天皇。名は睦仁(むつひと)。幼名、祐宮(さちのみや)。孝明天皇の第2皇子。生母は中山慶子(よしこ)。慶応3年(1867)1月9日践阼。同年12月天皇の名により王政復古の大号令を出す。翌年「五箇条のご誓文」を宣布、明治と改元。江戸を東京と改めて遷都。その治世下に、廃藩置県・憲法発布・議会招集・教育勅語発布など万般の新制が定められ、近代化が進められた。また、台湾出兵・日清戦争・日露戦争・韓国併合などの対外膨張も行われた。和歌をよくした。陵墓は伏見桃山陵。

 【伊藤左千夫】歌人。名は幸次郎。上総(千葉県)生れ1900年正岡子規の門に入る。子規没後、「馬酔木(あしび)」「アララギ」などを発刊し、その写生主義を強調。歌風は万葉風。門下に赤彦・茂吉などを出し、写生文の小説にも長じた。歌集・歌論集のほか、小説「野菊の墓」など。

 【谷崎潤一郎】小説家・劇作家。東京生れ。東大中退。第2次「新思潮」同人。「刺青(しせい)」「少年」など、耽美と背徳の空想的な世界を華麗に描いたが、大正後期から日本的な伝統美に傾倒し、王朝文学の息吹きを現代に生かした新しい境地を拓いた。作「蓼喰ふ虫」「春琴抄」「細雪」「少将滋幹の母」など。文化勲章。

 と、ここまできたところで、電池が切れてしまった。実は、『広辞苑』といっても電子辞書の『広辞苑』を使っていたのだ。こういう事態になると、やはり書籍版がいいと思うのだが、日常、鞄に入れておくには……。


      四人(よったり)の忌日がそろふ極暑かな     季 己

かきつばた

2009年07月29日 23時10分14秒 | Weblog
        有難き姿拝まん杜若     芭 蕉 

 昨日とりあげた「夏山に足駄を拝む首途かな」は、元禄二年四月の作。この句はそれよりちょうど一年前の、貞享五年四月の作である。
 この句は、弟子の惣七に宛てた書簡に、
    「廿一日、布引の滝に登る。山崎道にかかりて、能因の塚、金竜寺の入
     相の鐘を見る。『花ぞ散りける』といひし桜も、若葉に見えて又をか
     しく、山崎宗鑑屋舗(やしき)、近衛殿の、『宗鑑が姿を見れば餓鬼
     つばた』と遊ばしけるをおもひ出でて」
 とあって掲出されている。

 書簡文中の「近衛殿の……」の話は、いろいろな本にあって人のよく知るところであった。句は、杜若(かきつばた)を折ろうとする宗鑑の痩せさらぼうた姿をからかったものである。
 芭蕉の句は、杜若そのものに宗鑑の面影を見ようというのではない。
 「宗鑑が姿を見れば餓鬼つばた」の句を通じ、杜若の縁で思い浮かべられる宗鑑の、餓鬼のようだといわれた痩せからびた、ありがたい姿を心中に思い、拝もうというのである。

 「山崎宗鑑屋舗」は、「待月庵」あるいは「妙喜庵」といい、山崎街道に近いところにあった。
 宗鑑は、足利義尚に仕え、のち剃髪して、山城の国(今の京都府の南部)山崎に住んで、油を売って生活したと云われる。『犬筑波集』を撰し、荒木田守武と並んで俳諧の祖といわれている。

 「杜若」が季語で夏。宗鑑の故事を呼び起こす契機となっているが、季語としては働いていない。

    「宗鑑の屋敷跡を尋ねたところ、折から杜若が咲いていた。その杜若の姿
     に、痩せからびた俳諧の先達の有難い姿を心に思い浮かべて、どれ、ひ
     とつ拝むとしようか」


      うぶすなのやうな村びと杜若     季 己

夏山に

2009年07月28日 20時47分51秒 | Weblog
          修験光明寺と云ふあり。そこにまねかれて、
          行者堂を拝す。
        夏山に足駄を拝む首途(かどで)かな     芭 蕉

 『おくの細道』、雲厳寺の条の前に掲出する。後述するが、この句はさまざまに解釈されている。と言うことは、名句なのかも……。
 『笈の小文』の中に、「ただ一日の願ひ二つのみ。今宵よき宿借らん、草鞋のわが足によろしきを求めんとばかりは、いささかの思ひなり」とある。こういう芭蕉の心を土台にしてこの句を味わうと、「足駄を拝む」というおかしみの底に、真面目な祈りの心が理解されてくる。

 初案は「首途を拝む高あしだ」であったらしいが、ややごたついていて印象を整理しきれない感がある。改案は、より明確・平易な表現に変わっている。
 「会話」のコツは「か・い・わ」、つまり、「簡潔に・印象的に・わかりやすく」ということだそうだが、俳句も全く同じである。

 『おくの細道』の旅の「首途」は、すでに江戸においてなされている。ここを旅の第二の「首途」として、「みちのく」に入ろうとする芭蕉の気構えが感じられる作である。
 「光明寺」は、即成山光明寺といい、黒羽に近い余瀬(よぜ)にあった、即身成仏を号に持つ天台修験の寺である。芭蕉は、「そこにまねかれて、行者堂を拝」した。「行者堂」とは、修験道の開祖、役小角(えんのおづぬ)の像を安置した堂のことである。小角は、役行者(えんのぎょうじゃ)とも称され、大和葛城の山中にいた。鬼神を駆使し、木履をつけて嶮岨を行くこと平地の如くであったといわれる。その像は、通常、一本歯もしくは二本歯の足駄を履いている。
 「足駄を拝む」とは、修験道の開祖といわれる役行者の高足駄を拝むことを意味する。ただ芭蕉は、その像の足駄を印象づけるとともに、これから遠い旅を続けるにあたり、役行者の健脚にあやかりたいと祈願する心をこめたのではなかろうか。

 「夏山」が季語。「夏山」をはるかな行く手の峰々をさすと考えるのは、「夏山に」の「に」を現代風にとった考え方であろう。
 また、修験道の「春山」・「秋山」に対して「夏山」といった、とするのもうがちすぎと思う。霊場たる夏山で、その新緑の木立に囲まれての意、ととりたい。夏山の新緑が、「足駄を拝む」つつましい芭蕉の姿を覆い、その祈りの心にまで滲透している感じがする。

    「木々の茂った夏山の中なるこの光明寺に詣でて、行者堂に役行者の像を
     拝し、その健脚にあやかるべく行者の足駄を拝んだことだ。みちのくの山
     野、幾百里の旅の首途の祈願をこめて……」


      籐椅子や伊坂ワールド読みふけり     季 己

女性の悲しみ

2009年07月27日 20時07分09秒 | Weblog
        玉 階 怨     謝 朓

    夕 殿 下 珠 簾    夕殿珠簾(せきでんしゅれん)を下ろす
    流 蛍 飛 復 息    流蛍(りゅうけい)飛んでまた息(いこ)う
    長 夜 縫 羅 衣    長夜、羅衣(らい)を縫う
    思 君 此 何 極    君を思って此処に何ぞ極まらん

       宮殿に住む女性の悲しみ     謝 朓(しゃちょう)

    夕暮れの宮殿は、美しい真珠の簾を下ろして、ひっそりと静まりかえっている。
    簾の内では、蛍が時折すーっと光って流れるが、またいつしか消えてしまう。
    秋の夜長は、ひとり薄絹の着物を縫って過ごすばかり。
    でも、あなたを思う切なさは、どうしようもないのです。

 この詩は、失われた愛を思い、宮殿でひとり、ため息をつく女性をうたったものである。
 女が男を思って作った詩、いわゆる「閨怨(けいえん)」の詩であるが、中でも宮中の女性をうたったものなので、「宮詞(きゅうし)」といわれる。
 女性の悲しむ姿を「美しい」と感じたことは、やはり、新しい美の発見であった。

 第一句の、宮中の夕暮れはいかにもひっそりとしている。
 宮殿にかかる簾が並みのものでなく、きらきら光る豪華なものであるだけに、異様な静けさが胸に迫ってくる。夕日が赤々と真珠の簾を照らしている、ともとれる。
 宮女はひとり、簾の内で憂いに沈んでいる。やがて、あたりは薄墨を流したような闇に覆われる。

 第二句の蛍が、流れる光となって見えるのは、室内に明かりが灯されていないからである。
 暗い部屋の中で、明かりもつけずに、放心したようになっている宮女の姿が想像される。飛んだかと思うと、力なく何かにとまる蛍は、秋口までようやく生き残ったあわれな蛍である。これには、愛を失って傷心の日々をおくる宮女が象徴されている。

 以上の二句だけで、十分悲しい雰囲気が出ているが、第三句はそれに追い討ちをかける。
 本来ならば、お呼びがかかるのだろうが、秋の夜長を縫い物で過ごす。秋の夜長を眠られもせず、しょうことなしに薄絹の衣を縫う。おそらく涙で、針を持つ手は進まないことであろう。

 宮女が愛を捧げる対象は、宮中であるからにはもちろん天子である。しかし、当時、こういった詩のテーマは、すでに特殊なものではなくなっていたから、第四句の「君」に、ことさら天子を思い浮かべる必要はなかろう。
 唐の李白は、六朝(りくちょう)の詩を評価しなかったが、謝朓にだけは一目置いたという。


      あきらめの起伏にゆらり飛ぶ蛍     季 己     

2009年07月26日 20時58分45秒 | Weblog
          木曽路の旅を思ひ立ちて、大津にとどまる比(ころ)、
          先づ瀬田(せた)の蛍を見に出でて        
        此の蛍田毎の月にくらべみん     芭 蕉

 「瀬田」は蛍の名所である。『滑稽雑談』に、「江州石山に蛍谷といふ所はべる。この地の蛍火、四月下旬、五月節に入りて後十日ほど、盛りに出る」とある。

 眼前の蛍にみとれながらも、思いは一方、田毎(たごと)の月に傾いている。いかにも旅に思いあこがれている心が感じられる句である。
 季語は「蛍」で夏。

    「音にきこえた瀬田の水に映るこの蛍の風情を心に深くとどめておいて、
     この秋に見る予定の、更科の田毎の月の風情と思い比べてみよう」

          ほたる
        目に残る吉野を瀬田の蛍かな     芭 蕉

 前の旅の強い印象が消えない上に、さらに新しい刺激を受けたとまどいが出ているような句である。
 発想は、「此の蛍田毎の月にくらべみん」の場合とは逆に、過去と現在の交錯になっている。
 この句は、真蹟懐紙の写しにのみ見え、「よしのハ」の「ハ」を見せ消ちにして「を」に改めてあるという。
 「此の蛍」の句と同様、『笈の小文』の旅で吉野に遊んだ後、木曽路の旅を思い立って、大津にとどまっていた頃、瀬田に遊んだ折の作と思われる。
 「吉野は」という初案の意は、「この旅中、さまざまな景物に触れえた。けれども、今も目に残るのは吉野の花のさまである。それと同様に、この瀬田の蛍の美しさも、長く目に残ることであろう」というのであろう。
 これが、「吉野を」となると、たった一字違いではあるが、つぎのような意になる。

    「瀬田の蛍を見に来たが、私のまぶたのうちにはまだ、吉野のあれこれ
     がはっきり残っている。その吉野の名残をかき乱すように、蛍が飛び
     舞っていることだ」


      恋蛍いろはくづして光りけり     季 己

いでや我

2009年07月25日 22時44分16秒 | Weblog
          門人杉風子、夏の料とて帷子を調じ送り
          けるに
        いでや我よき布着たり蟬衣     芭 蕉

 「いでや我」というところに、誇らしげな口ぶりを生かして、喜びと謝意を表しているのだ。
 「よき布着たり蟬衣」と、たたみかけるところにも、風狂の姿がでている。『古今集』の序の「いはば商人(あきびと)のよき衣着たらむがごとし」が、心の底にあったのであろう。
        吾はもや 安見児(やすみこ)得たり 皆人の
          得がてにすとふ 安見児得たり
 という『萬葉集』の、藤原鎌足の歌が思い出される口調である。

 この句を初めとして、芭蕉の作品を通じて言える大きな特色の一つは、芭蕉が、音調を生かす上できわめて力強い作家だ、ということである。
 貞門から談林、談林から蕉風と、作風が変遷してゆく過程に、この音調上の新しい流動性の発見ということが、大きくあらわれてきている。

 「杉風(さんぷう)子」は、杉山氏。深川の芭蕉庵は、この人の庇護によって出来たものである。
 「蟬衣」は、蟬の羽のように薄くて涼しい衣の意。帷子をさしている。帷子は裏をつけない一重の衣服。『千載集』の、
        今日かふる 蟬の羽衣 着てみれば
          袂(たもと)に夏は 立つにぞありける
 の歌が、心にあったものと思われる。
 季語は「蟬」で夏。

      木洩日の烏峠を烏蝶     季 己

夏野

2009年07月24日 20時26分51秒 | Weblog
 我が家の待宵草が、はびこれるだけはびこり、毎晩、数十の黄色い小さな花を咲かせている。
 夏草が生い茂り、緑も深く、日光の直射が厳しくなり、草いきれの立つ夏の野原を、俳句の世界では「夏野」という。
        夏野行く 牡鹿の角の 束の間も
          妹が心を 忘れておもへ    柿本人麻呂
 と『萬葉集』に見えるように、「夏野」のことばは、萬葉の時代からあった。

     陸奥に下らむとして、下野の国まで旅立ちけるに、
    那須の黒羽と云ふ所に、翠桃何某の住みけるを尋ねて、
    深き野を分け入る程、道もまがふばかり草深ければ
        秣負ふ人を枝折の夏野かな     芭 蕉

 秣(まぐさ)負う人を枝折(しをり)とするというのは、道のわからぬたよりない不安もあるが、それだけではなく、そう感ずることに、自ら興じているのではなかろうか。
 この句の初案は、上五が「馬草刈る」であった。
 「馬草刈る」だと一ヵ所に止まっている感じだが、「秣負ふ」だと動いていることになり、いっそう距離感が出る。

 「下野の国」は、今の栃木県。「那須の黒羽」は、今の大田原市。
 「翠桃(すいたう)」は、鹿子畑(かのこばた)高明の二男、岡忠治豊明(父高明が、事あって追放され、豊明の代に帰参がかなったが、はばかって鹿子畑を称することなく、親戚の姓である岡氏を名乗った)で、芭蕉の弟子。また、城代家老の浄法寺高勝の弟で、当時二十八歳。
 「秣負ふ人」は、馬の餌とする青草を刈って、背に負うて帰る人。諸本に「秣」と「馬草」の二通りの表記が見られるが、意味上の違いはない。
 「枝折」とは、山道のしるべとして、木の枝を折って心覚えとしたものであるが、広く、“道しるべ”の意でも用い、ここもそれである。
 「夏野」が季語。青一色の草の野で、枝折とすべき樹木とてない広漠とした感じを生かした素直な使い方だと思う。


      ゴンドラに揺られ眼下の山百合は     季 己

庵はやぶらず

2009年07月23日 21時18分39秒 | Weblog
        木啄も庵はやぶらず夏木立     芭 蕉

 木啄は、「きつつき」と読み、現在は「啄木鳥」と書く。
 啄木鳥は、けら・けらつつき・寺つつきなどとも呼ばれる。種類が多く、小げら・赤げら・青げらなどが普通。山地の暗い密林に棲み、堅い嘴(くちばし)で幹をつつき、幹に穿孔(せんこう)する昆虫を食べる。

 この句は『おくの細道』に、
     当国雲厳寺の奥に仏頂(ぶつちやう)和尚山居の跡あり。「竪横の五尺
    にたらぬ草の庵結ぶもくやし雨なかりせば」と松の炭して岩に書き付け侍
    りと、いつぞや聞こえ給ふ。その跡見んと、雲厳寺に杖を曳けば、……
     山は奥あるけしきにて、谷道はるかに、松・杉黒く、苔しただりて、卯
    月の天今なほ寒し。十景尽くる所、橋を渡つて山門に入る。さてかの跡は
    いづくのほどにやと、うしろの山によぢ登れば、石上の小庵、岩窟に結び
    びかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室を見るがごとし。
 とあって、掲出されている。

 「寺つつき」とさえ呼ばれている啄木鳥が、軒を破らないのは、仏頂和尚の徳の高さによるのだ、という心が裏に籠められている。その点が、この句を理にかたよらせて弱くしていると思う。
 俳句は、事実の報告や説明ではなく、“詩”なのである。それも17音の。
 俳句は3つの「きり」が大切と言われる。「はっきり・すっきり・どっきり」、つまり、「はっきりした情景・すっきりした調べ・驚き、発見のどっきり」の3つが大事なのだ。

 雲厳寺は、栃木県大田原市(黒羽)にある臨済宗の寺。
 仏頂和尚は、鹿島根本寺二十一世住職。訴訟のため、仏頂和尚が深川臨川庵に仮寓していた天和のころ、芭蕉は仏頂に就いて禅を学んだ。
 啄木鳥は、秋の季語であるが、ここでは現実体験としてとらえられておらず、ここは「夏木立」が強く一句を動かしている。もちろん「夏木立」が季語である。

    「鬱蒼たる夏木立の緑の中に、仏頂和尚の結ばれた尊い庵の跡がのこって
     いる。軒を破るというあの啄木鳥も、さすがにこの庵は破っておらず、
     師がここで行ない澄まされていたころの様が、今も偲ばれて心澄む思い
     がすることだ」 


      落雷のあと止めたる夏木立     季 己     

夕涼み

2009年07月22日 23時02分19秒 | Weblog
        破風口に日影や弱る夕涼み     芭 蕉

 暑さから解放されて、一日が終わってゆく移りゆきに、静かに目を注いでいるさまが、「日影や弱る」という言い方や、全体の低く静かな音調に表されている。
 この句は、諸本により、
        唐破風の入日や薄き夕涼み
        破風口や日影かげろふ夕涼み
        唐破風や日影かげろふ夕涼み
 などの句形がある。
 「唐破風(からはふ)の入日や」の句形は、一概に却けてしまうわけにはいかないが、日常吟として見れば、「唐破風の」より、「破風口(はふぐち)に」の方がおだやかである。
 また、「薄き」よりは「弱る」の方が、時間的変化をより微妙につかんでいると言えよう。
 「唐破風」の句形は、むしろ、挨拶句としてみると適切さが感じられるような句柄である。

 「破風」は、屋根の切妻(きりづま)についている合掌形の板をいう。ふつうは、直線形だが、唐門などに見られる波状のものを唐破風という。
 「日影や弱る」は、「日影かげろう」の形もあるところから考えると、実際に目にした情景で、「や」は感動の意であろう。係り結びの表現で、疑問ととれないこともないが、やはり感動と解したい。
 「かげろう」は、光がかげる意。
 季語は「夕涼み」で夏。属目(しょくもく)の実感と思われる。

    「夕涼みをしていると、にわかに涼気が感じられてくる。眺めやると、
     あの高い破風口に残っていた西日も、いま刻々に衰えてゆくようだ」


      梅雨晴間 路に日のかげ己が影     季 己

軽薄

2009年07月21日 20時35分34秒 | Weblog
 やっと衆議院が解散された。解散というより、ほとんど任期満了である。
 それにしても、総理という職は、一度手に入れたら殺されても放したくないおいしい職に違いない、軽佻浮薄の輩にとっては。

 「管鮑の交わり」という故事がある。
 管鮑(かんぽう)とは、中国の春秋時代の管仲(かんちゅう)と鮑叔(ほうしゅく)のことである。
 二人は、貧乏書生であったころから仲がよく、二人で商売を始めた。その分け前は、管仲が多く取ったが、鮑叔は、管仲が自分より貧しいことを理解していたので、欲張りとも思わず、怒ることもなかった。
 また、管仲は、三度戦争に行って三度とも逃げ帰ったが、鮑叔は、管仲を臆病者と思わなかった。管仲に老いた母がいるのを知っていたからである。    
 その後、管仲が宰相になったとき、「私を生んだのは父母だが、私を本当に知っているのは鮑叔である」といい、この貧しい時からの交友が、生涯変わらなかったという。

      題長安主人壁         長安の主人の壁に題す
    世 人 結 交 須 黄 金      世人交わりを結ぶに黄金をもちう
    黄 金 不 多 交 不 深      黄金多からざれば交わり深からず
    縦 令 然 諾 暫 相 許      たとい然諾して暫く相許すとも
    終 是 悠 悠 行 路 心      ついに是れ悠悠たる行路の心

    世間の人は、交際を結ぶときに金の力を必要とする。
    金が多くなければ、交際も深くならない。
    たとえ、友達となることを承諾して、しばらく親しくつきあっていても、
    結局は、行きずりの人のような無関心となってしまう。

 詩題に、「長安の主人の壁に題す」と言っているからには、作者の張謂(ちょうい)が、首都長安のどこかの家に身を寄せていた時、その家の主の部屋の壁に黒々と墨書したものであろう。
 内容から見て、張謂が故郷から長安に出てきて、まだ科挙の試験に及第していない若いころの作品、といわれている。

 「金の切れ目は、縁の切れ目」という意味のことを、詩としては随分あからさまに、露骨に述べている。
 杜甫の「貧交行」も、「管鮑の交わり」という故事をふまえて、世の中の交友関係の軽薄さを述べた詩であるが、それと似た激しさがある。
 若い張謂がこういう考えを持ち、それを詩に表現し、身を寄せている家の壁に書き付けたというのは、どういうことだったのだろう。
 若い時代の潔癖さから、世間の仕組みがおぞましく見えたのか。あるいはひどい裏切りを体験したのか。いずれにしても、若い時に、このような多少、被害者意識の感じられる考え方を持っていたことは、才能がありながら、とかくつまずくことが多かった、と見える張謂の人生にも関わっていることだろう。

 これは人間不信の詩である。裏を返せば、黄金に左右されない友情を渇望している詩とも言える。
 この詩は古来、広く知れわたっている。千年以上もの間、多くの人々がこの詩を口ずさんで、世人の薄情を恨み、世間から受けた痛手を慰めてきたのだ。
 

      伊邪那岐のやうな川石 戻り梅雨     季 己

蚊遣火

2009年07月20日 23時02分07秒 | Weblog
        蚊遣して婆云ふ「うまく老いなされ」     不死男

 蚊遣(かやり)は、蚊を追い払うために、煙をくゆらし立てること、また、そのものを云う。
 今は、電気や電子によりマット状のものや液体状のもので、蚊遣の役目をするのが一般的になった。拙宅も液体状のものを使っているが、渦巻状の蚊取線香も母は好んで使っている。

 近頃の建築には、ほとんどサッシのドアが多くなったので、室内に蠅や蚊が侵入することは、ずいぶん少なくなった。しかし、以前の夏には、これらの有害昆虫のために夏は困らされ通しだったのである。
 そこで、夏の風物として、欠くことの出来ないものが「蚊遣火」であった。

        蚊遣火の煙の末をながめけり     草 城

 「蚊遣」といえば、除虫菊の粉末を練り固めて渦巻状に型抜きをした蚊取線香が主役であった。明治十九年(1886)、アメリカから輸入した除虫菊が蚊遣の主役を占めるまでは、いろいろな材料が蚊遣に使われていた。
 まず、榧(かや)の木である。榧の木の木屑や大鋸屑(おがくず)・葉っぱなどを燻すと、蚊遣の効果があるというので、「カヤリノ木」から榧の木という名が出たという説があるほどである。
 榧に限らず、杉や松の青葉、楠の木屑、無花果の葉など、匂いの強い木には、蚊遣の効果が認められている。

        煙ゆゑ 塩屋とよそに 思ふらし
          蚊遣火立つる 住吉の里

 という慈鎮和尚の歌に見られるように、塩釜の煙と見違えられるほどに煙を立てて焚く蚊遣火とは、さぞ大がかりなものであったのだろう。

        兄妹に蚊遣は一夜渦巻けり     波 郷

 アメリカから輸入されて、抜群の効果を認められた除虫菊の粉は、これを練って渦巻状の線香にする以前、除虫菊の花ばかりでつくった粉を平にならした火鉢の灰の上に、細長く渦巻状に敷いて片方の端から火をつけて使っていた。
 それが、渦巻状の蚊取線香が発明されて間もなく、明治三十一年(1898)にはアメリカへ逆輸出するほどの勢いであった、ということである。


      履物をそろへて脱げば蚊遣香     季 己

土用

2009年07月19日 23時23分22秒 | Weblog
 今日は土用の丑の日。鰻屋の日である。

 暦の上では、春夏秋冬の各季節最後の十八日間を「土用」という。したがって、「土用」は四季それぞれにある。
 しかし、俳句のうえでは、最も暑く、農作業上でも大事な時期となる夏の土用を指す。また、一般的にも、単に「土用」といえば夏の土用のことを指すことが多い。

        土用鰻息子を呼んで食はせけり     時 彦

 「土用鰻」は、夏の土用の丑の日に、鰻を蒲焼きにしたものをいう。夏の体力が衰えるのを補う活力源の食べ物として、万葉のころからの言い伝えがある。
 土用の丑の日に食べるという習慣は、江戸末期からのもので、鰻を開いて串に刺して焼き、たれをつける食べ方には、いかにも庶民の味わいがある。
 なお、山椒を用いるのは、鰻の毒を消すためだという。

        土用鰻店ぢゆう水を流しをり     青 畝

 鰻が最もよくとれるのは夏で、季節の点でも一致している。現在は養殖が発達しているが、天然ものは高価で高級化している。
 関西は商人の町なので、腹を割って話すということから、腹を開く。江戸は武士の町なので、切腹を嫌って、背を開く。

        亡き人の小袖も今や土用干     芭 蕉

 土用干という身近な季を発想の手がかりとしたものだろう。
 土用干というものは、ふだん忘れられ、かくされていたものを明るみへ取り出して並べるものだ。
 その土用干にあたって、亡き人のいろいろのことが改めて思い出されるという人情の機微を、「小袖」および「今や」の語で的確につかみとり、弔意をあらわしたものである。
 この句には、「千子(ちね)が身まかりけるを聞きて、美濃の国より去来がもとへ申し遣はし侍りける」という前書きがある。
 「千子」は去来の妹。貞享三年、兄去来と『伊勢紀行』を著して芭蕉に批判を乞い、芭蕉はこれに対して跋を与え、「東西あはれさひとつ秋の風」の句を詠んでいる。
 千子は、貞享五年五月十五日に病気で亡くなる。
        もえやすく又きえやすき蛍かな     千 子
 が、辞世の句である。また、「妹の追善に」と前書きした去来の句、
        手の上にかなしく消ゆる蛍かな     去 来
 がある。

    「夏も土用となり、あなたも今頃は定めし土用干をしていることだろう。
     その中には、今は亡きあの千子の小袖も入っていて、あなたにとって
     ひとしお感慨に堪えぬものがあろうとおもう。どうか身を厭うように」


      蛍の火 椿山荘の闇みだす     季 己

無常迅速

2009年07月18日 22時49分16秒 | Weblog
 東京でも蟬の声が聞かれるようになった。

 “にいにい蟬”や“みんみん蟬”は、その鳴き声を負った名であるのに、ジージーと鳴く“油蟬”やシャーシャーとはやしたてるように鳴く“熊蟬”は、蟬の外観とか鳴き方から名付けられたのであろうか。
 それらの多くの蟬が一斉に鳴くのを、雨のごとく感じて蟬時雨といっている。
 同じ蟬であっても、“法師蟬”や“蜩(ひぐらし)”は、秋の季語に入れられている。

          無 常 迅 速
        やがて死ぬけしきは見えず蟬の声     芭 蕉
 
 芭蕉が元禄3年(1690)4月から7月まで滞在した、大津の幻住庵の実境を句にしたものであろう。
 たしかに、鳴きしきる蟬にはこういう感じがあって、それが「無常迅速」という観念に結びつくのは、いわば必然の勢いというものであろう。
 「無常迅速」は、おそらく一度この句が成ったあとでつけられた前書きで、最初から「無常迅速」を詠もうとしたものではないと思う。
 もっとも、このころしきりに無常迅速の思いをもっていたことは、牧童宛書簡に「無常迅速の暇も御坐候はば、云々」などと見えることからもうかがえる。

 中七を「けしきも」とする本がある。「けしきも」と「けしきは」とでは、たった助詞一語のちがいであるが、後者の方がずっと強くなる。
 蟬の、あのしきりに鳴きたてる声を心に置くと、やはり、「は」の方がよい。

 「無常迅速」は、「人生はあっという間」という意味。

 だから、時間を無駄にしたくない。一瞬一瞬を無意識にやり過ごさない。怠惰に過ごしたくない。時は待ってくれないので。
 無駄な時間を過ごしたなあ、と思ったことが何度あるだろう。
 気持が散漫で、あれよあれよという間に時間がたってしまった時。
 何をすべきか考えあぐねて思いが定まらないうちに時間がたってしまった時。
 たいていのことは何かの役に立つか、教訓になっているはずだが、向かう方向の定まっていない時間はとかく無駄な時間と感じる。
 さらに、自由を奪われた時間も無駄になる。自分らしくなく過ごした時間は虚しさだけ。
 いつも、心の中の「正直な自分」に、問いかけながら進むのが時間を無駄にしない秘訣かも知れない。

 「やがて」は、すぐに、たちまちの意。
 「けしき」は「気色」で、様子の意。
 季語は「蟬の声」で夏。実際の蟬の声が、発想の契機になっている。

    「力いっぱい生気に満ちて鳴きつづけているこの蟬の声を耳にしていると、
     これがたちまち死んでゆくものだとは、とうてい思えそうもない。だが、
     しかし……」


      豆腐屋のまろき背中を蟬しぐれ     季 己

はかなき夢

2009年07月17日 21時06分16秒 | Weblog
          明石夜泊
        蛸壺やはかなき夢を夏の月     芭 蕉

 「蛸壺(たこつぼ)」は素焼きの壺で、海中に吊り下げ、蛸の入るのを待って引き上げる。明石では蛸が多くとれたので、実際にその様子を見聞したものと思われる。

 蛸壺は、眼前の海中に深く沈められて、その上に、明けやすい夏の月が照り渡っている。
 蛸壺の中で何の懸念もなく、蛸の夢見ている姿がふと胸に浮かぶ。その夢は一夜明ければはかなく破れ去るものだということに、深い感慨を催す。
 明るく冴えた月も、明るければ明るいほど、明けやすくはかない夏の月であることを感じさせる。その明るい光の中で、蛸への哀隣は、芭蕉の短夜の旅泊の思いと、ひそかに通い合っていたものであろう。

 「明石夜泊(あかしやはく)」は、「明石に一泊して」というのを、漢詩的に言ったもの。
 四月二十五日付惣七宛書簡に、「此の海見たらんこそ物にはかへられじと、明石より須磨に帰りて泊る」とあって、実際は、この日須磨から明石へ行き、さらに須磨に引き返して泊まっているので、「明石夜泊」は、この句の効果を上げるための仮構である。俳句は、事実の説明や報告ではないので、このようなことは、よくあるのだ。
 季語は「夏の月」。その明けやすい短夜の月の感じが、みごとに蛸壺の蛸のはかない夢と滲透した使い方である。
 この蛸壺の蛸が、どこかの国の首相に思えてならない。

    「蛸は壺の中で、はかない一夜の夢をむさぼっている。短い夏の夜が明け
     ると、海から引き上げられてしまうのも知らずに。その海上を、短夜の
     月が無心に照らしていることだ」


      こころ足る夜のベーグル蕃茄熟る     季 己

           ※ 蕃茄(とまと)