似合はしや豆の粉飯に桜狩 芭 蕉
桜狩の際の、豆の粉飯(こめし)そのものに風趣を感じている、と言ったら言い過ぎだろうか。この不調和に見えるところに、俳諧的風情を感じとろうとしている。それが眼目なのである。
元禄三年、伊賀上野での作という。
「似合はしや」ということばはすでに、「似合はしや新年古き米五升」の例がある。
「豆の粉飯」は、豆を挽いた黄粉(きなこ)をまぶした飯のことで、極めてひなびたものである。
「桜狩」は花見のこと。これが季語で春。「桜狩」は、もちろん自分が花見に出かけるのだが、古典的和歌的な世界を発想の下敷きにする働きをしている。
「桜狩というと、誰も酒や肴を用意して浮かれ立つところだが、自分は、豆の粉飯を
持つだけである。これがかえって、風雅に身を置く自分にふさわしい感じがする」
桜狩 杖より低き婆ふたり 季 己
桜狩の際の、豆の粉飯(こめし)そのものに風趣を感じている、と言ったら言い過ぎだろうか。この不調和に見えるところに、俳諧的風情を感じとろうとしている。それが眼目なのである。
元禄三年、伊賀上野での作という。
「似合はしや」ということばはすでに、「似合はしや新年古き米五升」の例がある。
「豆の粉飯」は、豆を挽いた黄粉(きなこ)をまぶした飯のことで、極めてひなびたものである。
「桜狩」は花見のこと。これが季語で春。「桜狩」は、もちろん自分が花見に出かけるのだが、古典的和歌的な世界を発想の下敷きにする働きをしている。
「桜狩というと、誰も酒や肴を用意して浮かれ立つところだが、自分は、豆の粉飯を
持つだけである。これがかえって、風雅に身を置く自分にふさわしい感じがする」
桜狩 杖より低き婆ふたり 季 己