壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (88)不断の修業①

2011年05月22日 22時13分57秒 | Weblog
        ――和歌や連歌の道は、一通りのことを学び終えた後でさえ、
         少しでも修練を怠れば、それ以上の上達は望めないものな
         のでしょうか。

        ――古の賢人に尋ねてみた。
          どんなに年月を積んで苦学修練しても、努力工夫を少しで
         もおろそかにすれば、これまでの努力は水泡に帰すであろう。
         だから、『論語』にも「日々、幾たびとなく、我が身を省みるこ
         と」と言っている。

          近頃、当世第一の尺八吹きの頓阿という者が話していたそ
         うだ。
          「三日も尺八に触れずにいると、尺八の音が出なくなる」と。
         いささか大げさではあるが、諸々の道に通じることで、戒めに
         すべきことである。

          また、ある人が話しておった。
          梵燈庵主は、連歌の道を捨てて、東国や筑紫の田舎を久し
         く放浪したあげく、都に帰ってきたので、
          「連歌の道は、さぞかし跡形もなく消えてしまわれたことで
         しょう」と、尋ねたところ、
          「どうして、どうして、そんなことはありません。連歌は、座に
         いないときこそ、連歌修業の時なのだから」と、言われたそうだ。
          この戒めも、諸々の道にわたる心得であろう。
                              (『ささめごと』不断の修業)


      新茶濃しガンダ彫刻たのしめり     季 己