――和歌や連歌の道は、一通りのことを学び終えた後でさえ、
少しでも修練を怠れば、それ以上の上達は望めないものな
のでしょうか。
――古の賢人に尋ねてみた。
どんなに年月を積んで苦学修練しても、努力工夫を少しで
もおろそかにすれば、これまでの努力は水泡に帰すであろう。
だから、『論語』にも「日々、幾たびとなく、我が身を省みるこ
と」と言っている。
近頃、当世第一の尺八吹きの頓阿という者が話していたそ
うだ。
「三日も尺八に触れずにいると、尺八の音が出なくなる」と。
いささか大げさではあるが、諸々の道に通じることで、戒めに
すべきことである。
また、ある人が話しておった。
梵燈庵主は、連歌の道を捨てて、東国や筑紫の田舎を久し
く放浪したあげく、都に帰ってきたので、
「連歌の道は、さぞかし跡形もなく消えてしまわれたことで
しょう」と、尋ねたところ、
「どうして、どうして、そんなことはありません。連歌は、座に
いないときこそ、連歌修業の時なのだから」と、言われたそうだ。
この戒めも、諸々の道にわたる心得であろう。
(『ささめごと』不断の修業)
新茶濃しガンダ彫刻たのしめり 季 己
少しでも修練を怠れば、それ以上の上達は望めないものな
のでしょうか。
――古の賢人に尋ねてみた。
どんなに年月を積んで苦学修練しても、努力工夫を少しで
もおろそかにすれば、これまでの努力は水泡に帰すであろう。
だから、『論語』にも「日々、幾たびとなく、我が身を省みるこ
と」と言っている。
近頃、当世第一の尺八吹きの頓阿という者が話していたそ
うだ。
「三日も尺八に触れずにいると、尺八の音が出なくなる」と。
いささか大げさではあるが、諸々の道に通じることで、戒めに
すべきことである。
また、ある人が話しておった。
梵燈庵主は、連歌の道を捨てて、東国や筑紫の田舎を久し
く放浪したあげく、都に帰ってきたので、
「連歌の道は、さぞかし跡形もなく消えてしまわれたことで
しょう」と、尋ねたところ、
「どうして、どうして、そんなことはありません。連歌は、座に
いないときこそ、連歌修業の時なのだから」と、言われたそうだ。
この戒めも、諸々の道にわたる心得であろう。
(『ささめごと』不断の修業)
新茶濃しガンダ彫刻たのしめり 季 己