壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

真意

2009年05月31日 19時48分36秒 | Weblog
 テレビを見ていて腹が立ってきた。大腸ガンについてのQ&Aの番組で……
 「大腸ガン検査の年齢になったが、内視鏡検査が恥ずかしい。それでも検査をした方がよいか」という、女性からの質問である。
 これに対しての専門の大学教授の答えが、「恥ずかしいだろうが、内視鏡検査を受けた方がよい」というものだった。
 たしかに、質問の答えにはなっている。だが、これで質問の女性は納得、いや満足するだろうか。
 どうして、内視鏡検査の具体的方法を説明してあげないのだろうか。説明してあげれば、決して恥ずかしがるようなことではないと、わかるはずである。

 変人の受けた内視鏡検査は次のようなものだ。
 検査を受ける際は、手術着に着替える必要がある。手術着は、半袖のパジャマの上下と思えばよい。ただし、尻の部分が、男性用パジャマのように数センチあくようになっている。もちろん、更衣室で着替えるので恥ずかしくない。
 着替えた後、手術台にあがり、鎮静剤を打たれ、身体を「くの字」にして横になるだけである。うつらうつらしているうちに、15分ほどで検査は終了。
 休養室の寝台で2時間ほど休み、目が覚めたら検査結果の説明を受けて、すぐに帰宅できる。もちろん、帰宅後は何を食べてもオーケー。
 このように話してあげれば、女性にとっても恥ずかしくはなく、検査が受けやすいと思うのだが、いかかであろうか。
 質問者の真意をくんで答えることの大切さを、再認識させられた。

 腹立ちまぎれに家を出て、銀座に向かった。
 「ギャルリーためなが」に掛けられた大きな垂れ幕を見てムカッ。「TCHINAI」と書いてある。こんな「つづり」はない。これでは「っちない」ではないか。
 こんなことを思いながら、場違いのような立派な画廊「ギャルリーためなが」に入る。パソコンを前に座っている女性二人が、マニュアル通りの「いらっしゃいませ」の声。と、すぐに二人でおしゃべり開始。きっと中断された話の続きをしているのだろう。何か悪いことをしたような気になった。

 これが、あの智内兄助? ウソだろう。いつから智内兄助は、媚を売るようになったのだ。昔の方がよかった、あの時の方がよかった……

 「智内先生は、女性像を描かずに、女性のエロチックさを描き切っています。これが先生のすごいところです」
 「なるほどねえ。あの屋久杉はいいですね」
 「いいでしょう。琳派のように華やかで。実は屋久杉でなく桜の木なのですが、女性のヌードよりエロチックでしょう。いかがですか」
 「部屋に飾るには大きすぎるよ」
 「では、こちらのは如何でしょう。これなら和室にも洋間にもぴったりだと思います」
 「友達に金を持っているのがたくさんいるから、声を掛けておくよ」
 「ありがとうございます。なにしろ不景気で絵が売れないのです。よろしくお願いします」
 鑑賞中に聞こえてきた、女性スタッフといかにも金持ちそうな客との会話である。

 結局、この紳士が帰った後も、この女性はおろか、男性スタッフ2名からも全く声を掛けられることはなかった。それも当然、ホームレス顔負けの服装で、この立派な画廊に入ったのだから。
 おかげで、智内兄助の変貌の真意を探るには好都合だった。この変貌は、智内兄助の本意ではなく、画廊からの指示で描かされているのだ。昔からの智内兄助ファンとしては、せめて、そう思いたい。
 

      変貌の画家の個展や走り梅雨     季 己


  《御礼》今日で連続17ヶ月間、1日も欠かすことなく更新することができました。これも、皆様の応援のおかげと、深く感謝申し上げます。これからも気負わず、マイペースでつづけるつもりです。どうぞよろしくお願いいたします。

まほろば

2009年05月30日 22時55分49秒 | Weblog
 箸墓古墳を後に、桧原神社へ向かう途中、左側に池がある。井寺池である。
 井寺池のほとりには、3基の歌碑が建っている。

        大和は国のまほろばたたなづく青垣
          山ごもれる大和し美し

 『古事記』にある、倭建命(やまとたけるのみこと)の有名な歌である。歌碑の字の筆者は川端康成で、あの独特の書は、すぐに川端と知れる。
 「まほろば」は、すぐれたよい所の意。「たたなづく」は、枕詞とする説もあるが、幾重にもかさなりあう、の意だと思う。
    「大和は国中で、最もすぐれた素晴らしいところである。
     幾重にもかさなりあった青い垣根のような山々、
     そんな山々にかこまれた大和は、実にうるわしいところである」

        香具山は 畝傍ををしと 耳成と 相あらそひき
        神代より かくにあるらし いにしへも しかにあれこそ
        うつせみも 妻を あらそふらしき

 『萬葉集』巻一、天智天皇のお歌で、書は日本画家の東山魁夷。
    「香具山は、かわいい畝傍山を奪われまいとして、耳成(みみなし)山
     と争った。神代から、一人の女性を二人の男性が、妻争いをしたらし
     い。そうであったからこそ、今の世の人も妻を取り合って争うらしい」

 香具、耳成は男山、畝傍は女山である。二つの男山が、一つの女山を争った古い伝承を手本として、今の世の妻争いを位置づけ、嘆いた歌であろう。嘆きの背後には、作者が実の弟、大海人皇子(おおあまのみこ)と額田王(ぬかたのおおきみ)を争ったことをふまえているとも言われる。

        三諸は 人の守る山 本辺は あしび花咲き 末辺は
        椿花咲く うらぐはし山ぞ 泣く児守る山

 『萬葉集』巻十三、作者不詳の歌で、書は国文学者で『萬葉集』研究の大家、久松潜一博士である。
    「三諸山(三輪山)は、人がみだりに立ち入ることなく、一木一草を
     大切に守ってきている山である。この山の麓の方には、馬酔木の花
     が咲き、山頂の方には、椿の花が咲く。
     この山は、心の底から美しく感じられる山だ。泣く児の気持ちを静
     めるように、あれこれと気をつかって、大切に守っていこうよ。」

 桧原神社は、JR桜井駅からおよそ4.5㎞の所にある。大神神社の摂社のひとつで、三輪山の山中にある磐座(いわくら)を御神体としているので、本殿はない。天照大神を祀り、元伊勢とも呼ばれている。
 井寺池周辺の万葉歌碑とともに、空間の中にとけこむような風情を見せている。ここも「まほろば」の一つに違いない。


      魁夷きて三輪の磐座月涼し     季 己

箸墓古墳

2009年05月29日 20時38分34秒 | Weblog
 山辺の道は、三輪から奈良へと通じる上古の道である。
 大和平野には、南北に走る上・中・下ツ道の官道があり、それぞれ7世紀の初めに造られた。上ツ道のさらに東にあって、三輪山から北へ連なる山裾を縫うように伸びる、起伏の多い道が山辺の道である。

 古代国家の発祥の地といわれる三輪山の麓には、おびただしい数の古墳が散在している。なかでも、崇神天皇の叔母にあたるヤマトトトヒモモソ姫の「箸墓」は、全長272メートル、後円部の直径は157メートル、高さ23メートル、前方部の幅は25メートル、高さ13メートルという雄大な前方後円墳だ。
 他の古墳よりも平野部に出ているため、そのこんもりとした森は、盆地に浮かぶ緑の島のように見える。

 姫は、三輪の大物主神の妻だった。夫の神が、夜だけしか姿を見せないので、姫が、昼間の姿を見たいと願うと、夫の神は承知して、
 「明日、そなたの櫛笥(くしげ)の中に入っていよう。わが姿を見て驚かぬように」
 と言った。あくる日、姫が櫛笥を開けてみると、衣の下紐ほどの、うるわしい小蛇が入っていた。姫が驚いて声を上げたので、神は、
 「私に恥をかかせた」
 と言って、三輪山に登ってしまわれた。姫は嘆き悲しんで、みまかったという。
 『日本書紀』に記された神婚説話である。

 この箸墓古墳には、「卑弥呼の墓」との説がある。
 このほど、国立歴史民族博物館(千葉県佐倉市)の研究グループが、箸墓古墳の築造時期について、240~260年とする調査結果をまとめた。
 読売新聞によれば、この年代は、魏志倭人伝に「卑弥呼以て死す、大いに“ちょう”を作る」と記載された247年頃と時期が一致し、倭の女王・卑弥呼がいた邪馬台国の位置論争にも影響を与えそうだ、とある。また、同グループの春成秀爾名誉教授は、
 「これで箸墓古墳が卑弥呼の墓であることは間違いなくなった」
 と話している、とのこと。
 またまたこれで、邪馬台国の、九州説と畿内説とのガチンコ勝負?が面白くなってきた。


      アンタレス卑弥呼の墓といふ古墳     季 己

時鳥

2009年05月28日 20時26分57秒 | Weblog
        ほととぎす叫びをおのが在処とす     多佳子

 時鳥(ほととぎす)は、古来、詩歌をはじめ多くの文学作品、伝説などに登場し、人々からその鳴き声を好まれてきた。郭公・筒鳥・慈悲心鳥などと同じホトトギス科の、いちばん小さい鳥である。その背面は灰褐色で、腹の部分は白色に黒い黄斑がある。翼の風切羽には白い斑が、長い尾羽には黒い地に白の黄縞が、それぞれついている。暗黒色をしたくちばしは扁平で、上嘴の端がすこし鉤状をしている。大体五月ごろに南方から渡って来て繁殖する。秋には、ふたたび南の国へ飛び去って行く渡り鳥である。夏の間、全国ほとんどの山地に定住するが、そこへ至るまでの間、平地の、樹木の多い地帯を通って行く。したがって、町なかに緑の森や林の多かった昔から、獄身近な鳥として、親しまれてきたのであるが、最近では、都会でその声をきくことは、まれになってしまった。(以上、角川春樹編『現代俳句歳時記』より)

        ほととぎす大竹藪を漏る月夜     芭 蕉

 心中をあらわに述べる語をまったく使わぬ、順客観的な発想のかたちをとり、発想の契機は、自然との感合の中にまったくその姿を消し去って、あるのは静謐な月下、時鳥を仰ぐ澄明感のみである。
 この句は、初五にはっきりと休止を置いて読むべきであろう。
 ある本の「月ぞ」の形は、あるいは初案かとも思われるが、句としては、発見の驚きの句調は出るにしても、句柄が小さくいささか騒がしく感じられる。
 「月夜」となると、大きな自然の静謐そのものが生かされた表現になってくる。

 京都・嵯峨は竹薮が多く、芭蕉の「落柿舎の記」には、「洛の何某(なにがし)去来が別所は、下嵯峨の藪の中にして、嵐山のふもと、大井川の流れに近し」とある。これを芭蕉は、「大竹藪」と言ったのだ。
 「漏る」は、「ほととぎす」の声が漏れるのではなく、「月夜」が漏れるのである。
 「月夜」は、「ツキヨ」と読ませるのであろう。万葉語としては「ツクヨ」であるが、平安時代以後は「ツキヨ」が普通である。月、あるいは月光の意味で用いており、この用い方も『萬葉集』以来のものである。
 「月夜」は、季語としては秋であるが、ここでは季語としての中心的な働きはしていない。四月二十日の作であるから、夜半過ぎの時刻の半月よりも円い形であったはずである。
 季語は「ほととぎす」で夏。文学的伝統にすがってのものではなく、体験されたその鋭い声をとらえたものである。


      杉山の闇は直立ほととぎす     季 己

青葉若葉

2009年05月27日 23時09分00秒 | Weblog
        三井寺や日は午にせまる若楓     蕪 村

 春になると、楓は、その切り込みのある葉をくるくる巻き込んだ、紅色のやわらかい芽を、枝先につける。
 初夏を迎えて、その若芽が美しい黄緑色の葉にかわり、木全体をおおう。

        あらたふと青葉若葉の日の光     芭 蕉

 門人曾良を、ただ一人の伴として、芭蕉が日光山に詣でたのは、陰暦で卯月の一日というから、今の5月20日ごろだったであろう。
 この句の初案と思われる「あなたふと木の下闇も日の光」は、上に葉が茂ったために下が暗くなる感じをいう季語「木の下闇」を用い、そこへも日の光がさしこんでくるという点を強調することにより、この日光山の尊さ、すなわち東照宮の神徳を感じ取ろうとしているのであって、「日の光」は地名の「日光」を意識したことばであった。
 しかし、芭蕉は、この初案に満足しなかった。日光山のご利益を、闇と光の対句にした理屈っぽさを嫌ったのかもしれない。
 芭蕉は、自然そのもののあり方を実感として生かそうとする方向で改案を試みている。そして、日光山の、自然と建築と歴史とが心に築き上げた輝かしさが、「日の光」および季の具象としての「青葉若葉」によって、比喩を超えた一世界をかたちづくり生かされているのだ。
 蕪村の句も同様に、三井寺の、自然と建築と歴史とが、蕪村の心に築き上げたみずみずしさが、「午にせまる日」および季の具象としての「若楓」によって、ひとつの世界がかたちづくられているのである。

 陰暦四月は暦の上では初夏であるが、青葉若葉には少し早かったかもしれない。たとい、山にはまだ青葉若葉が十分に輝いていなかったとしても、眼前の若葉のほぐれ、青葉の匂いから、さらに一歩進めて、「青葉若葉の日の光」を心に呼び起こすのは、芭蕉の浸透型の発想法からは、きわめて自然なことであったと思われる。

 初五の「あなたふと」が「あらたふと」と改められていることには、初案を支配した心情が、いっそう直な感動として高められていることを感じる。
 それにつづく「青葉若葉の日の光」の流動的な音声美も見落としてはなるまい。ことに、終わりの「日の光」は、青葉や若葉にきらめくそれを印象づける、みごとな効果をあげ得ている。

 「青葉」は濃い色の葉、「若葉」はやや淡いやわらかい色の葉で、ともに夏である。区別して使っているところが大切である。
 「青葉若葉」と重ねると、葉のいろどりの入り乱れた木立が感じられる。


      青葉光 坐して恩師の菩薩めく     季 己

御目の雫

2009年05月26日 22時59分23秒 | Weblog
        若葉して御目の雫ぬぐはばや     芭 蕉

 『笈の小文』には、
    「招提寺鑑真和尚(しょうだいじがんじんわじやう)来朝の時、
     船中七十余度の難をしのぎたまひ、御目のうち潮風吹入りて、
     終に御目盲(し)ひさせ給ふ尊像を拝して」
 と、前書きがある。

 折から、あふれる初夏の陽光に、開山堂のあたりは、まばゆいばかりに若葉が照り映えている。
 若葉のみずみずしい色が目もさめるように堂の四辺を囲んでいる中で、目を移して尊像を拝すると、盲いた眼は永遠にとじられたままである。
 その眼のあたりには、涙のような雫さえ感じられる。それを拭ってさしあげたいと思ったのである。この気持ちは、尊像の姿と若葉の目のさめるようなあざやかさに映発されたものであろう。
 「このしたたるような若葉でもって、御目のもとの雫をぬぐってさしあげよう」とも解せるが、どうであろうか。
 お顔のあたりに揺曳する若葉のかげは、拭うような感じでこの気持を誘発したものと、最近、思うようになったが……。

 鋭い感覚の生きている句である。
 一句の眼目は、なんといっても「御目の雫」であろう。それは詩人の鋭い感覚が、尊像の御目もとに見留めた初夏の微妙な陰影のしめりであり、また同時に、潮風目にしむ船中七十余度の艱難を、わが身にひきくらべて追体験し、その痛さに、わが目をしばたたいてみた詩人の、その心眼がこぼした、清く尊い幻想の涙とみることもできよう。

    「開山堂のあたりは若葉が満ち満ちて、さわやかな目のさめるような
     初夏である。この中にひとり鎮座まします鑑真和尚の尊像の盲いた
     御目の雫を拭ってさしあげたいものだ」


      白き夜となり公園の朴ひらく     季 己      

背も面も

2009年05月25日 20時23分09秒 | Weblog
 『第42回 現代名僧墨蹟展』の案内状が来た。案内状には、
   「各宗派管長、大本山貫首をはじめ200名の
      掛軸、色紙など約800点を展示即売。
    純益は仏教精神に基づいた青少年育成のための
      諸事業に充てさせていただきます。」
 とある。
 会場が、上野松坂屋・南館5階美術画廊、拙宅から近いので、毎年のように拝見はしている。最近は、剛毅木訥な書にお目にかかれないのが残念である。名僧といえども、ずいぶんとスケールが小さくなったものだ。
 今、床の間に「光明無背面」の軸が掛けてある。「光明に背(うら)も面(おもて)もなし」と読むのだろうか、十数年前に、この「墨蹟展」で購入したものである。

 明るく輝く光は、天地いっぱいにひろがるから、どちらが正面で、どちらが背面だとかの区別はない。
 それと同様に、人間の心の奥底に埋め込まれている純粋な人間性、つまり、《ほとけのこころ・ほとけのいのち》にも裏も表もない、というように解している。

 純粋な人間性は、十方を照らして、面や背の区別なく輝いている。ただ現実には、この光明も、人間の心身を悩まし乱す《煩悩》の黒雲でおおわれているに過ぎない。どのように密雲で厚く隠されても、太陽の光が無くなったのではないように、純粋な人間性の智慧の光は、前後・向背の区別なく輝いている。煩悩の雲も、やがて明るく照らされるであろう――との教えであろう。

 何ものにもさえぎられない光を、“無碍光(むげこう)”という。
 無碍とは、仏教語で、「障りのないこと。とらわれがなく自由自在なこと。また、障害のないこと。」と、『広辞苑』にある。
 無碍光は、煩悩の黒雲をも必ずとりのけてくれる。無碍光はまた、時間・空間の制約をも乗り越えて、永遠に随所に光り輝く。われわれを照らすとともに、われわれの《こころ》の底でも輝く。

    寒山出此語   寒山 此の語を出だすに
    復似顛狂漢   復(ま)た顛狂(てんきょう)の漢に似たり
    有事対面説   事あれば面に対して説く
    所以足人怨   所以(ゆえ)に人の怨み足(おお)し
    心直出語直   心直くして語を出だすことも直し
    直心無背面   直心(じきしん)には背(うら)も面(おもて)もなし

     わたし寒山が、このようなことを言い出すと、
      また、気狂いあつかいされることになりそうだ。
     わたしは言いたいことがあれば、面と向かって言う。
      だから、人の怨みを買うことが、たくさんある。
     しかし、心が真っ直ぐだと、ものの言い方も真っ直ぐだ。
      真っ直ぐな心には裏も表もなく、そのままが真実を語っているのだ。

 寒山拾得として有名な寒山は、その詩「寒山詩」の中で、「直心には背も面もなし」とうたっている。


      亀の子を買ふ少年の息づかひ     季 己     

衣がへ

2009年05月24日 23時11分14秒 | Weblog
           衣 更
        一つ脱いで後に負ひぬ衣がへ     芭 蕉

 貞享五年(1688)四月一日の作。つまり、『おくのほそ道』の旅に出る一年前の作である。「衣更(ころもがへ)」が季語で夏。
 旅に身をまかせきった芭蕉の姿がある。軽い句のように見えるが、その底を支えているものは実に根深い。
 口ずさんでいるうちに言葉が消え、その境地のみが心に残り、旅の芭蕉が生きて動く。内に充実したものが表現になりきり、言葉を消してしまっているからであろう。

 『笈の小文』の本文に、「踵(きびす)はやぶれて西行に等しく……」と、旅ゆくこころをつづった文がこの句の前にあって、それを読むとひとしお、この句の味わいが深くなる。
 同じ境地を詠んだ、弟子の杜国の「吉野出でて布子(ぬのこ)売りたし衣がへ」という、芸が表にあらわれた表現と比較してみると、なおそのことがはっきりする。

    「衣更えの季節になった。旅の途中のこととて、重ねていた一枚を
     脱いで包み、それを背に負うと、それでもう衣更えもすんでしま
     う。そしてまた、自分はそのまま歩きつづけてゆく」


      みな子忌の雷やことばの楽ひびく     季 己     

続続・大庭みな子さんの絵

2009年05月23日 20時24分53秒 | Weblog
 やっと謎が解けた。大庭みな子さんの《踊る猫》のナゾが……

 またまた今日、「大庭みな子さんの絵」展(東京・銀座『画廊 宮坂』)に吸い寄せられてしまった。
 この催しは、「大庭みな子全集」(全25巻 日本経済新聞出版社刊)刊行を記念して開かれたものである。
 読売新聞には、「大庭みな子さんの描いた未発表の絵画が見つかった。油絵やデッサンなど約150点を伊豆の別荘で家族が発見。人物や動物、風景をモチーフにしている。うち20点を19~24日、東京・銀座の画廊宮坂(03・3546・0343)で展示する。云々」とあった。
 実際の展示は18点であるが、その中で“異質”というか何というか、他の作品とは全く違う感じがする作品があった。《踊る猫》である。
 この作品にだけサインが入っているのだ、[mina]と。
 最初、この絵は、アメリカの大学や大学院で美術を学んだ際、学内の美術展に出品し、みな子さん自身の愛着が深いのかと思った。でも何となく違うのだ。
 “猫大嫌い人間”を惹きつける、不思議な絵《踊る猫》。ずっと気になっていたが、夜は爆睡できるところが変人。

 変人は常々、仏像は見るものではなく、拝むものだと思っている。仏像が美しいのは、多くの人の祈りが込められているからだ、とも思っている。
 多くの人が拝み、祈るから、仏像もそれに応えるために、より気高く、より美しくなるのだ。今、東京・上野で開かれている《阿修羅像》が、そのいい例だ。
 幼い時から「かわいい、かわいい」と言われつづけた子は、“かわいい子”になり、「おまえはダメだ、ダメだ」と言われて育った子は、“ダメな子”になる。
 日本画家の花岡哲象先生は、「絵画は、多くの人に見られることにより、成長する」とおっしゃっている。

 そんなことを思いながら、画廊宮坂の扉を開けた。
 じっくりと「大庭みな子さんの絵」を観てから、おいしいコーヒーをいただいているとき、大庭利雄さんの、おだやかでやさしい声が、耳に入った。
 それによると、《踊る猫》は、今回新たに見つかった作品ではなく、みな子さんの部屋にずっと掛けられていたものだったのだ。
 読売新聞の記事を鵜呑みにした変人は、18点全部が長年、伊豆の別荘で眠っていたとばかり思い込んでいた。だから、《踊る猫》に違和感を覚えたのだ。
 《踊る猫》は、みな子さんにずうっと愛玩され、多くの人に見られて、成長を続けたに違いない。だから、眠っていた作品より“ビタミン愛”が豊富で、より高みに成長していたのだ。
 あす5月24日は、大庭みな子さんの三回忌、これをご縁に、明朝のお勤めには、みな子さんのお名前も読み上げさせてもらおう。

 これで益々、「大庭みな子全集」を全巻、読みたくなった。
 あなたも全巻読み通してみませんか。
 お金や本を全巻置ける場所がなくても大丈夫。お近くの図書館に「大庭みな子全集」全25巻の購入をお願いするだけだ。
 全25巻の購入者には、特製の「大庭みな子 ドローイング・ブック」が、全巻刊行後に進呈されるとのこと。
 図書館が購入の暁には、大庭みな子さんの“生きた証し”が、全集と絵画の両方で味わえるのだ。レッツゴー図書館!


      三匹の蟹来て礁に不協和音     季 己

石竹

2009年05月22日 22時56分02秒 | Weblog
 人によく知れ渡っていながら、案外に品種の見分けのつけ難い草花に、石竹科の植物がある。

        石竹やおん母小さくなりにけり      波 郷
        なでしこや人をたのまぬ世すごしに   汀 女
        常夏に切り割る河原河原かな      一 茶
        花売女カーネーションを抱き歌ふ    青 邨

 石竹・撫子(なでしこ)・常夏・大和撫子・唐撫子・河原撫子・浜撫子・富士撫子に鷺撫子、アンジャベルにオランダ石竹・カーネーションと、名前だけは、たいていの人が知っている。
 では、この中のどれとどれとが、同じものを別の名で呼んでいるのかとか、どれとどれとは、違った花なのかなどと、人に聞かれて、満足に答えられる人はどれくらいいるだろうか。
 思い出す力の弱い変人も例外ではなく、「何れ菖蒲(あやめ)か杜若(かきつばた)」どころの騒ぎではない。

 さて、前に揚げた、いろいろな石竹科の草花の中で、石竹と唐撫子(からなでしこ)というのは、中国が原産の同じ一つのもの、撫子と大和撫子とは、これまた同じ品種で、外来の石竹すなわち唐撫子に対して、日本在来の品種であるという区別がつけられたものと思われる。
 よく河原に咲くので河原撫子とも言い、同様に、浜撫子・富士撫子とも言う。

 菅原孝標女(たかすえのむすめ)が著した『更級日記』には、相模の国の大磯のあたりを通った時、撫子がこぼれ咲いているのを見て、そこの地名が「唐土(もろこし)が原」と呼ばれているのにかけて、「唐土が原に大和撫子が咲いているとはねえ」と、一行の人々が冗談を言ったことを記している。

 また、オランダ石竹とかアンジャベルというのは、今はやりのカーネーションのことである。カーネーションは、他の撫子や石竹と比べて、花弁の縁の切れ込みが浅く、たいていは八重咲であるところが、区別をつけやすいところだ。
 ところで、カーネーションのことをオランダ石竹というのは、徳川三百年の鎖国時代に、日本と通商が許されていた西洋の国がオランダに限られていたからで、アンジャベルというのも、撫子を指したオランダ語のアンジェリエルが訛ったもの。
 『和訓栞』に「アンジャベル、阿蘭陀石竹の類なり」とある。

 常夏は、石竹の変種で、濃紅色の美しい可憐な花を、初夏から秋の頃まで咲きつづけるので、この名がある。


      蔓バラや指切りげんまん嘘つくな     季 己

高取城跡

2009年05月21日 22時53分30秒 | Weblog
 「高取城に行きたいのですが、一緒に行っていただけませんか」
 そう声をかけられたのは、壺坂寺を出て5分もたたないうちだった。見れば、一人旅のうら若い女性である。
 「高取城といっても城跡だけで、“猿石”以外は何もないですよ。第一、めったに人も行きませんよ」
 と、暗に行くのを止めた。
 「卒論の関係で、その“猿石”がどうしても見たいのです。一人ではとっても怖くて……。どうかお願いします」
 「よっぽど安全牌に見られたんだな」と、心の中では悔しかったが、結局、一緒に行くことにした。

 ふつう、誰も人がいないと怖いという。けれども変人は、誰か人がいると怖いのだ。誰も人がいない、ということがわかっていれば少しも怖くはない。いちばん怖いのは人間で、幽霊などというものは全然恐ろしくない。

 聞けば、東京の某大学史学部の3年生とのこと、道々、話をしながら高取城跡を目指した。今から30年ほど前のことである……

 壺坂寺の横の吉野街道を少し登り、左へ300メートルほど行ったところに、累々として怪奇な顔をした五百羅漢が、山肌にへばりついている。
 大和に石仏が多いことは有名である。しかし、こんなみごとで壮大な群像は珍しい。どの顔もあどけない素朴なものである。
 どれもこれもおおらかで、超然としているのである。これらの群像を見ていると、小さなことにこだわったり、力んだりしていることがバカらしくなってくるくらいだ。
 おそらく、そんな気持の人が、悠々と時の流れを超越して彫ったものであろう。
 この五百羅漢の上に、高取城跡があるから、戦国時代の終わりにでも、付近の合戦の戦死者のために残されたのかもしれない。

 高取城といえば、大和では有名な城である。
 先の女子大生が、身の危険?をかえりみず高取城へ行ったのは、高取城が付近の石造文化財を壊して石積みをやっていることだった。
 たとえば、弘法大師のつくった益田池碑という大きな碑が、むかし橿原市にあった。その碑文が伝わり、碑の台石も残っているのに、碑そのものは現存しない。ところが、高取城には、ところどころに碑文の一点一画を彫った石材が積まれているという。弘法大師の碑は、割り砕かれて、城の石垣の中に消えたのは、どうやら間違いないことらしい。

 また、城の道の傍に、“猿石”と呼ばれるものが立っている。これは、明日香村桧隈にある欽明帝陵のそばの吉備姫の墓や、橘寺にある飛鳥地方特有の、飛鳥時代の石人の一つと思われる。
 さすがに、石舞台古墳の石は、大きすぎて運べなかったが、それでも、羨道(せんどう)の天井石は全部なくなっている。これは、昔から、高取城へ持ち去られたと伝えられている。

 飛鳥の有名な“鬼の雪隠(せっちん)”・“鬼の俎(まないた)”は、俎が石室の底で、その上に雪隠といわれるものが伏せて置いてあったのである。それを今のようにひっくり返し、しかも俎を割ろうとして、一面に石割り用のくさびの穴を入れてあるのは、ともに高取城の仕業だと伝えられている。
 すると、飛鳥地方には、昔はもっともっと多くの石造物があり、運びやすいものはみな持ち去られて、大きすぎるものだけが取り残されているのだと言えそうだ。


      大夕焼 羅漢の上に羅漢ゐて     季 己

観音霊場

2009年05月20日 21時12分41秒 | Weblog
 大の親日家としても有名なフルートの巨匠、ジャン・ピエール・ランバルが亡くなったのが、2000年5月20日である。
 パリ国立音楽院を5ヶ月で卒業し、25歳のときに、ジュネーヴ国際コンクールで優勝、天賦の才能で20世紀を代表するフルート奏者となった。

 1978年5月20日、新東京国際空港、つまり、現在の成田国際空港が開港した。

 また、知人のMさんの結婚記念日が今日で、最近、旅行業をはじめたMさんの記念すべき第1回目の企画が、きょう行なわれ、秩父まで行って来た。
 秩父といえば、なんといっても秩父夜祭と秩父札所めぐりであろう。
 秩父札所は、秩父三十四ヶ所観音霊場とも呼ばれ、西国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所と共に、日本百番観音に数えられている。
 秩父札所は、室町時代後期には定着したと考えられ、江戸時代になると、観音信仰は庶民の心の支えとして流布し、隆盛をみるようになった。
 秩父巡礼は、一番の四萬部寺から三十四番の水潜寺まで、静寂な山村と美しい自然の風光を背景に、一巡100kmほどある。この間、ある時は谷を渡り、山路ををたどり、野面を横切っての巡拝は、秩父札所ならでは、と言えよう。

 観音様のご利益の話でもっともよく知られているのは、お里・沢市の物語だろう。
 この物語の原型は、壺坂寺に古くから伝えられていたもので、寺の北方にある高取城下に住む盲目の沢市が、壺坂寺の観音様に三年間日参をして、ついに光明を回復したという、きわめてシンプルなものである。
 これに、貞女お里を配して、一篇の夫婦愛の物語に仕立て上げたが、『壺坂霊験記』である。
 観音信仰は、明治十年頃から全国的にたかまり、明治維新前後にしばらく下火になっていた観音霊場めぐりが復活する。それに伴なって、西国三十三ヶ所の寺々では、それぞれ霊験記が作られた。
 「三つちがいの兄さんと」で有名な『壺坂霊験記』は、そのもっとも成功した例で、当代きっての三味線の名手といわれた二代目豊沢団平と、その妻の千賀とが作曲したといわれている。

 壺坂寺は数度の火災で、清少納言が「寺は、壺坂」と記した頃の威容は失っているが、お里が通った山路は、秋の紅葉がそれはそれは美しい。


      薫風の宮居よこぎる母子かな     季 己

麦の秋

2009年05月19日 23時13分33秒 | Weblog
 麦が熟する頃の季節を「麦の秋」という。収穫をむかえた麦を指すのではない。

 中国の古典『礼記』に、「孟夏ノ月、麦秋(ばくしゅう)至ル」という句がある。孟夏は初夏のこと。すべての穀物の稔りの時を秋というのだが、麦にとっては初夏が稔りの時期にあたるので、特に麦秋と呼ばれている。
 ただし、初夏は四月だが、陰暦の四月はだいたい、太陽暦の五月に相当する。そこで農家では、立春から数えて百二十日目前後を、麦刈りの好季としている。
 五月の終わり、六月の初めにかけて麦を刈り取り、六月十二日ごろの入梅以前に、麦扱きや麦打ちなどの作業をすませて、収穫を確保しなければならない。

        麦秋や蛇と戦ふ寺の猫     鬼 城

 芽吹きから新緑に移った木々が、周囲の風景を生き生きとさせ、田には、早苗が青空を映す水の中に根をひろげる。気候も安定し、日本がいちばん美しい緑に包まれる時期である。

        宵闇ぞ最中なりけり麦の秋     暁 台

 日のあるうちに月が沈んでしまい、早くも宵闇となった暗がりの中でも、麦の刈り入れを急いでいる農家の実感を詠んだものであろう。これもまた、米の秋とは別の農繁期である。麦秋は、江戸時代に使い始めた季語である。

        麦の秋さびしき貌(かほ)の狂女かな     蕪 村

 まさに一幅の絵。画人蕪村の、物を見る角度には、並みの人とは違ったものがある。猫の手も借りたいほどに忙しい麦刈りの時、相手になってからかってくれる子どももいない狂女の、手持ち無沙汰な表情。決して作り事ではない実感が迫ってくる。


      麦秋や利雄みな子の書簡集     季 己

続・大庭みな子さんの絵

2009年05月18日 22時49分28秒 | Weblog
 計算どおりというか、思ったとおりだった。
 東京・銀座の「画廊 宮坂」へ着いたのは、午後3時過ぎだった。

 明日19日から24日まで開催される『大庭みな子さんの絵』展は、『大庭みな子全集(全25巻)』の刊行を記念して開かれるものである。
 昼食後から始めて3時には、飾り付けが終わるのではないか。そう考えて、3時過ぎに「画廊 宮坂」に到着するよう、自宅を出たのである。それがピタリと当たり、全作品18点の飾り付けが終わり、一息いれているところへ、お邪魔したという次第。会期前だが、もちろん、快く見せてくださった。感謝!
 おかげで、じっくりと心ゆくまで鑑賞でき、眼福のひとときが過ごせた。

 本来、作品の鑑賞というものは、いろいろと説明して、その作品の良さを、誰彼に納得させようというものではない。自分がすぐれた作品だと直感したものを、どうしてそういう風に直感したかということを、一つ一つ解きほぐして、自分自身を納得させる作業であるように思えてならない。
 絵画も俳句も、意味を明確にすることを本質としない。いろいろに解せられるということは、その作品の深みであり幅であり味である。何かを「感じ」たら、それで充分だと思う。

 『大庭みな子さんの絵』に展示される作品は、
 「犬と横たわる裸婦」・「踊る猫」・「草木乱舞」・「シトカの海と山と空」・「T・O像」・「家並」・「尖塔」・「うつむく裸婦」・「樹下の裸婦」・「女とペリカン」・「カオス」・「トーテム」・「生きものたち」・「女と犬たち」・「よりかかる裸婦」・「花と獣」・「自画像」・「きぬぎぬ」
 の、18点。なお、作品名は、全集の編集担当者が付けた、と漏れ聞いている。

 コレクターとして手元に置きたいと思うのは、
 「犬と横たわる裸婦」・「踊る猫」・「シトカの海と山と空」・「樹下の裸婦」・「女とペリカン」・「生きものたち」
 の6点。
 「どれか1点だけ、あげる」と言われたら少々迷うが、やはり「犬と横たわる裸婦」を選ぶ。

 「犬と横たわる裸婦」は、不思議な魅力のある絵だ。白と黒の大型犬の間に裸婦も横たわっている……、しかも裸婦の顔は見えず、長い後ろ髪には血のような赤が塗りたくってある。裸婦の視線の先も謎だらけ。
 この作品は1960年代、アメリカ、アラスカ州シトカ市で描かれたものという。
 思うにこれは、変化のない毎日を嫌い、常に新しいことにチャレンジしていくことを好む「大庭みな子」が、彼女自身の日常生活、つまり、快楽と刺激と発見に満ち満ちている生活を描いたものではないのか。
 白い犬は「快楽」、黒い犬は「刺激」、そして裸婦は「発見」を象徴しているのではないか。と同時に白い犬は「みな子」を、黒い犬は夫の「利雄」氏をあらわしているのだ。裸婦は、そんな二人を見つめているもう一人の「みな子」に違いない。
 ここで恥ずかしいことを告白すると、変人は、大庭みな子さんの作品を全く読んでいない。したがってどんな人物であったかも当然、知らない。だから、絵から「感じた」ことを書いているだけである。
 大庭みな子さんは、集中力、順応性があり、物事を肯定的に捉えることができた人ではなかったか。長い髪に赤が塗られているところから、そんなことを感じる。裸婦の視線の先は、明確な目標を見つけようと、未来を凝視しているのだ。そうして、目標に向かって一直線に突き進み、大きな成果を手にしようと虎視眈々とねらっているのだ。
 と、書きながら、案内状の写真「犬と横たわる裸婦」を見る。するとどうだろう。裸婦の視線の先に、その裸婦と向かい合い、彼女を大きく包み込むような男性像が見えるではないか。
 社交性があり、にぎやかな雰囲気を好み、人脈作りがうまく、頭の回転が速いため話術にも長けていたであろう大庭みな子さんのエネルギッシュな魅力に、周囲も羨望の眼差しを送ったに違いない。
 そのように考えると、「犬と横たわる裸婦」は、シトカにおける「きぬぎぬ」を描いたものともいえる。
 「きぬぎぬ」は、「衣衣」あるいは「後朝」と書き、衣を重ねて共寝した男女が、翌朝、それぞれの着物を着て別れることを意味する。
 源氏物語の世界でいえば、「後朝の使い」を待っている女、それも何人もの男を侍らせて……
 
 瀬戸内寂聴さん言うところの「夫婦愛の産物」、すなわち、
 「トシとふたりで書いたのが私の作品のすべてです」と、寂聴さんに語ったという大庭みな子さんの“心のうち”を描いたのが、「犬と横たわる裸婦」なのだと思う。
 つまり、「犬と横たわる裸婦」は、『三匹の蟹』を書く前の彼女自身の覚悟を、絵画化したもので、「生きものたち」・「女とペリカン」・「樹下の裸婦」は、『三匹の蟹』の構想段階、あるいは執筆中に描かれたものではないか、と勝手に想像して、楽しんでいる。

 明日は早速、荒川図書館に行き、『大庭みな子全集』の購入をお願いするつもりでいる。購入された暁には、もちろん全25巻を読み通すつもりである。

   『大庭みな子全集(全25巻)』(日本経済新聞出版社)刊行記念
            「大庭みな子さんの絵」
      2009年5月19日(火)~5月24日(日)
        11:00am~6:00pm(最終日5:00pmまで)
            [画 廊  宮 坂]
        中央区銀座7-12-5 銀星ビル4階
          ℡(03)3546-0343


      蚊の声す乳房の見えぬ裸婦がゐて     季 己

竹植うる日

2009年05月17日 22時55分54秒 | Weblog
        降らずとも竹植うる日は蓑と笠     芭 蕉

    「蓑と笠の姿は、いかにも、竹を植えるのにふさわしい姿である。
     たとい雨は降らずとも、竹を植える日は、蓑と笠をつけた姿で
     あってほしい」

 この句は、一つの調和の美を説いているように思えるが、芭蕉の風雅観の一面を物語っていておもしろい。
 蓑と笠という梅雨時にふさわしい姿が、どこか隠逸で高雅な味のある「竹植うる日」の感じにぴったり調和することを発見しているのである。この“発見”が、俳句では大事なのだ。
 この句を、竹の絵の賛としてみれば、いっそうおもしろさが生かされると思う。
 『笈日記』大垣部に「画賛」とし、「竹 木因亭」と前書きして掲出、「是は五月の節をいへるにや、いと珍し」と付記されている。

 木因亭での作とすれば、芭蕉の動静および季から考えて、貞享五年と思われる。ただし、貞享五年は岐阜に滞在したが、大垣を訪ねた確証はなく、また画賛とすれば、季にこだわることもない。
 ちなみに、芭蕉が、明らかに大垣を訪ねたのは、貞享元年冬、元禄二年秋、元禄四年冬の三回、といわれている。

 「竹植うる日」が季語で、夏。中国の古い俗説に、竹酔日(ちくすいじつ)とか竹迷日(ちくめいじつ)とかいって、この日に竹を植えれば、必ずうまく植えつくといわれている。もともと気むずかしい竹が、この日はボーッとしているので、その隙に植えて活着させるのだという。
 日については諸説あるが、日本では、陰暦五月十三日を竹酔日と称し、この日に定着した。ちょうど梅雨入りの前後に当たり、移植の適期には違いない。
 『木枯』に、「此の句より竹植ゆる日の季と成りしも、翁の晩作なり」とある。
 また『去来抄』にも、「魯町曰く、竹植うる日は古来より季にや。去来曰く、覚悟せず。先師の句にて初めて見侍る。古来の季ならずとも、季に然るべきものあらば、選び用ゆべし。先師、季節の一つも探し出したらんは、後世によき賜となり」とある。

 芭蕉は、「竹植うる日」という伝えに興を発したものであろう。竹は、芭蕉が愛し、しばしば画題としたものであった。


      竹植うる男ごころの悔いの数     季 己