壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

おぼつかな

2010年07月31日 21時25分38秒 | Weblog
        蛍見や船頭酔うておぼつかな     芭 蕉

 瀬田川の石山の下にあたる螢谷。そのあたりの早瀬に、蛍見の舟を浮かべたときの作であろう。
 ここの蛍は、大きさも他よりすぐれており、北は瀬田の橋、南は供御が瀬まで25町(約2725㍍)にわたって飛び交う。夏至を過ぎると宇治橋あたりへ下って、有名な蛍合戦が行なわれるのである。
 当時は瀬田川に舟を浮かべ、一献傾けながら豪奢な蛍見が行なわれたらしい。軽い即興的な句であるが、「おぼつかな」は、乱れて明滅する光を闇に追う蛍見の心持ちをもあわせ味わうと、いっそう生きてくると思う。
 『猿蓑』に、「闇の夜や子供泣き出す蛍舟  凡兆」に続けて掲出。元禄三年ごろの作か。

 季語は「蛍見」で夏。蛍見物の情趣が主になった発想。

    「瀬田川へ蛍見の舟を出したが、船頭が酔ってしまって、この流れを漕ぐには
     どうやら頼りなくなってきたようだ」


 ――7月の最終土曜日は隅田川花火大会。隅田川に舟を繰り出し、一献かたむけながら絢爛豪華な花火見物をされた方も、おられることだろう。
 ところで、芭蕉さんには、花火の句は一句もない。仕方がないので、「花火」の代わりに「蛍」にした次第。

 脱水症状のため入院させた母も、おかげさまで元気になり、手すりにつかまって階段の上り下りが出来るようにまでなった。入院当日は、車椅子に乗せられ、階段を4人の看護師さんによって担ぎ上げられた母が。来週、血液検査をやり、それで退院ということになるだろう、とのこと。
 ということで、今週まだ一度も行っていない「画廊宮坂」へ行ってきた。妙高高原に別荘を持っている画家さん4人による『高原の仲間たち展』の最終日だ。
 画廊へ入るやいなや、一冊の本を渡された。「お客さんのAさんからの預かりものです」と宮坂さん。Aさんには先週こちらでお会いし、お話をしたばかり。抗ガン剤治療と一緒に、ビタミンC大量点滴療法をするとよい、とのことで、その本をプレゼントして下さったのだ。
 また昨日は、先週個展をなさった平野純子さんから、例の「天王原たまご」が送られてきた。荷を解くのももどかしく、すぐさま生のまま飲んだ。そのおいしいこと、いや「ウメー」ことといったらない。これまで食べたことのない卵の味がした。
 それから間もなく、うまそうなクリームソーダが溶けもせずに届いた。日本画家・菅田友子先生からの「はがき絵」である。菅田先生は毎月、励ましの「はがき絵」を送って下さる。
 このように、「画廊宮坂」で知り合った多くの方々に助けられ、生かされている幸せ。しみじみ有難く、感謝の念でいっぱいである。

      猫になるライオンの夢 夏の夢     季 己

千歳の憂い

2010年07月30日 21時34分01秒 | Weblog
               生年百に満たず     無名氏
             生年は百に満たざるに
             常に千歳の憂いを懐(いだ)く
             昼は短くして夜の長きに苦しむ
             何ぞ燭をとって遊ばざる
             楽しみをなすはまさに時に及ぶべし
             何ぞよく来年を待たん
             愚者は費を愛惜して
             ただ後世の嗤(わら)いとなる
             仙人王子喬(おうしきょう)と
             ともに期を等しくすべきこと難し

        「人の生きる年は、たったの百にも満たないのに、
         あの人はいつも、その十倍の千年も先のことまで心配している。
         昼が短くて夜が長すぎる、と言って苦しむなら、
         どうして、明かりを手にして、共に遊ばないのか。
         人生楽しむときは、それなりの好機というものがあるものだ。
         来年まで待とうなどと、どうしてそんなことができようか。
         愚かな者は、わずかのむだごとを惜しんで、倹約家ぶっているが、
         実は、むなしく一生を過ごして、後の世の笑いぐさとなるだけだ。
         あの仙人の王子喬と同じように、
         いつまでも生きながらえることなど、出来はしないぞ」

 『文選』にある五言古詩の一つ。従来この詩は、生命の移ろいやすいことを嘆き、青春の再び得難いことを惜しみ、千歳の憂いを抱く世の愚人をそしった歌である、とされている。また、享楽主義を讃美した歌である、ともされている。いずれにしても、ほぼ共通した見方がなされている詩である。

 人生を憂苦なものにしている愚かさを捨て去り、楽しむべき時には大いに楽しもうというのであれば、おそらくこの詩は、祭りの場あたりで、杯を酌み交わしながらうたった歌であろう。その場合、変人のように酒席になじまない、ある堅物の男がいたのかも知れない。それを「千歳の憂いを懐く」者、「愚者」と言ってはなじり、そして酒の肴としたのであろう。
 それはともあれ、これが祭りを背景にしてうたわれていることは、三句から六句までの描写で明らかである。季節は「夜長」の一語からしても、秋から暮れにかけてである。しかも、その頃に杯を酌み交わして享楽する祭り、といえば、ただちに豊年祭を想像する。
 なお、結びに伝説の主人公・王子喬を配するあたり、みんなで声をそろえてはやしたてた雰囲気が伝わる。周の霊王の太子、晋(しん)を王子喬という。政務を休み、誰かさんの結婚披露宴に出席するどこかの大臣のように、彼は政務を見ず、笙(しょう)を好んで吹いて、遊楽の生活を送っていた。後に道士に導かれて仙人となり、白い鶴に乗って仙界に去り、ついに永遠の命を得たという。
 

      吹かれをる髪のさみしさ釣忍     季 己       

藜(あかざ)

2010年07月29日 21時31分40秒 | Weblog
        やどりせむ藜の杖になる日まで     芭 蕉

 『笈日記』に、「画賛」として、
        所々見めぐりて、洛に暫(しばら)く旅寝せしほど、美濃の国より
        たびたび消息有りて、桑門(そうもん)己百(きはく)の主(ぬし)
        道しるべせむとて訪(とぶら)ひ来侍りて、
           しるべして見せばや美濃の田植歌   己 百
           笠あらためむ不破(ふは)の五月雨  芭 蕉
        その草庵に日比(ひごろ)ありて
 とあって掲出、句のあとに「貞享五年夏日」とある。

 やはり、主の己百に対する挨拶句であろう。眼前の藜が成長して杖となる日を想いやって、長逗留の意志をほのめかしているところが眼目。藜の杖をついて、ふたたび旅立とうという心がこめられている。
 「己百」は岐阜妙照寺の僧。草々庵と号した。
 季語は「藜」で夏。藜は、道端や空き地に生える、高い茎の一年草。若葉は、紅紫色の粉をつけたように見えて美しい。晩夏の頃、黄緑色のこまかな花を穂状につける。若葉が食用に供されるほか、堅い茎を乾燥させて藜の杖を作る。軽くて丈夫。

    「あたたかいもてなしがまことにうれしく、この好意に甘えて、
     庭前の藜が伸びて杖になる日まで滞在しよう」


 ――陶芸家の東田茂正先生から、織部茶碗の名品が送られてきた。先日、先生のご厚意で作らせていただいた、あの織部茶碗である。無我夢中で作った“迷品”を、先生は見事に“名品”に焼き上げてくださった。「終わり良ければすべて良し」ではないが、仕上げは東田先生なので、型はいびつであっても名品に見えるのだ。三点の内一点は、ことに涼やかに感じられ、大のお気に入りになりそうである。(これを自画自賛という、ノダ) 
 凌ぎやすくなったら、今度は「志野」に挑戦してみては……との有難いお言葉。このご好意に甘えて、念願の「志野茶碗」にいどむことにしよう。「画廊宮坂」の宮坂さんではないが、これで電信柱がまた一本増えた。それまではせいぜい、志野のホンマモノの名品を観てまわることにしよう。名品の気が、身に染み入るまで。

      おほらかに織部茶碗に滝ありぬ     季 己

初真桑

2010年07月28日 22時40分45秒 | Weblog
          閏五月二十二日、落柿舎乱吟
        柳行李片荷は涼し初真桑     芭 蕉

 片荷に初真桑を結びつけているということが、世の常の旅の装いと違い、道中を急がぬ気まかせな姿を感じさせておもしろい。あるいは、その日訪れた酒堂(しゃどう)が、土産に初真桑を持参したので、挨拶の心をこめて詠んだものででもあろうか。
 この連句に一座した支考は、『東西夜話』で、「なにがし実相院などいへる山伏の、旦那もどりのさまなりと見て置くべし」といって、檀家からもどる山伏が土産に真桑瓜をもらって帰るさまと見ている。
 
 「閏(うるう)」、閏年は今とちがい、閏月が一ヶ月加わった。この年は、五月の後に閏五月があったのである。
 「落柿舎(らくししゃ)」は、京都・洛西嵯峨にあった去来(きょらい)の別荘。『嵯峨日記』は元禄四年夏、ここに滞在した間の日記である。
 「乱吟(らんぎん)」は連俳用語。句順を定めず、年齢・身分などにもかかわらず、出来しだいに句を付けるのをいう。
 「柳行李(やなぎこり)」は、コリヤナギの皮をはいで乾燥させた枝を、麻糸でつづった行李で、旅道具を収める。
 「片荷(かたに)」は、振分けにした片方の荷。
 「酒堂」は浜田氏。蕉門俳人。前の号は珍碩(ちんせき)、珍夕(ちんせき)とも。膳所(ぜぜ)の医師。元禄二年ごろ芭蕉に入門。元禄六年正月を芭蕉庵で迎え、『深川集』編集。その年夏、大坂に移住。

 「涼し」も夏の季語であるが、句の中心になるのは「初真桑」で夏季。

    「柳行李と振分けに肩にかけた片方の荷は初真桑で、その新鮮な色がいかにも
     涼しげである」


 ――居るべきところに居る人がいない、妙なさびしさ……
 「死んでも入院はしたくない」と言い張っていた母を、昨日、とうとう入院させた。
 24日の夜、38度3分の熱を出した。熱中症と思われたので、とにかく冷やし、水分補給につとめた。その熱も26日には下がったのであるが、食事・トイレ・水分補給のとき以外は、ほとんど熟睡状態。(正直言うと、昏睡状態に見えた)
 27日朝は、目をしょぼしょぼさせ、「起きられない」という。もちろん朝食もとらない。そうして突然、「死相が出ているかい」と聞く。「出ていないよ」というと、「なかなか死ねないもんだね」と言って、また寝てしまった。
 「これはまずい」と思い、かかりつけの医院に電話。先生に相談したところ、「大きな病院で診てもらったほうがいい」とのこと。幸い、義弟が休みだったので、車で病院へ運んでもらう。
 CT、レントゲン検査の結果、案の定、熱中症であったが、「もう症状は治っている。しかし、熱を出したことだし、体力も落ちているので入院した方が」ということで入院させた。
 今日、昼前に顔を出したところ、点滴中で、顔色が平常に戻っていた。昼食も「おいしい、おいしい」と言って、ほとんど食べた。ふだん家で食べる以上に、だ。
 どうやら“死神”が離れてくれたようだ。今年初めて、ミンミンゼミの声を聞いた。
 明日の午後は、自分自身のCT検査……

      蟬の穴 人はなかなか死ねぬもの     季 己

夏木立

2010年07月27日 20時08分06秒 | Weblog
        先づ頼む椎の木も有り夏木立     芭 蕉

 この句は、「幻住庵記」と続けて解してみることが大切だと思う。その終わりの部分の、
        「かくいへばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡をかくさむとにはあらず、
         やや病身人に倦(う)んで、世をいとひし人に似たり。つらつら年月の移りこ
         し拙(つたな)き身の科(とが)をおもふに、ある時は、仕官懸命の地をうら
         やみ、一たびは仏籬祖室の扉(とぼそ)に入らむとせしも、たどりなき風雲に
         身をせめ、花鳥に情を労じて、しばらく生涯のはかり事とさへなれば、終に無
         能無才にして、此の一筋につながる。楽天は五臓の神(しん)をやぶり、老杜
         は痩せたり。賢愚文質のひとしからざるも、いづれか幻の栖(すみか)ならず
         やと、おもひ捨ててふしぬ」
 という心の流れの中で、この句を誦すると、「先(ま)づ」は「ともかくも」とか、「何はともあれ」とかいう気持をふくんだ「しばらく」、「かりに」という心に解せられよう。
 この椎の木の大きく覆った庵に入って、何はともあれ、ほっとした気分になった、その心から「先づ頼む椎の木も有り」と発想されたものである。
 「先づ頼む」は、単に炎熱を避ける木蔭として感じられたりしただけのものではない。それは、「いづれか幻の栖ならずや」というような、「先づ頼む」ところの栖でなくてはならない。「いづれか幻の栖ならずやとおもひ捨て」る心が、人生と人の世の肯定に、しばらく落ち着こうとする気息を言い留めているのである。

 「夏木立」が季語。実際の夏木立に触れての発想だと思う。「先づ頼む椎の木も有り」との関連で、「夏木立」はあたり一面の夏の樹木で、椎の木はその中の一本なのか、椎の木が夏木立として「先づ頼む」に足るものなのか、という疑問がおこるが、後者の方が幻住庵を生かすと思うので、それを採る。

    「さまざまな紆余曲折があったが、結局は俳諧一筋につながってきた我が身である。
     その身を、この幻住庵に寄せようと立ち寄ってみると、ここは夏木立をなす大きな
     椎の木もあって、それが庵を覆っており、何はともあれ、しばし身を寄せるよすが
     としてはまことにふさわしいものだ」


      ふりかへり巫女に一礼 夏木立     季 己

タイトル

2010年07月26日 20時04分29秒 | Weblog
          蜀道にて期に後(おく)る     張 説(ちょうえつ)

        客心日月と争う
        来往あらかじめ程を期す
        秋風相待たず
        先ず至る洛陽城

        「旅人の心は、日月の流れと速さを競うかのようにせきたてられる。
         というのも、往復の日程を前もって決めておいたからなのだ。
         ところが、秋風は旅人を待たず、
         ひと足先に洛陽の町に着いてしまった。」

 この詩は、蜀(四川省)に出張した作者が、何かの理由によって予定の期日には戻れなかったことをうたっている。予定の期日とは、洛陽(らくよう)に秋風が吹く直前である。秋風は西から東へ、つまり、蜀から洛陽へ吹くものとされているから、作者は秋風よりひと足先に、洛陽に入っていなければならなかったのである。
 この詩のおもしろさは、機知の巧みさにある。旅人のあせる気持ちと、流れゆく日月との競争。「客心(かくしん)=旅人(作者)」は熱くなって必死だが、「日月(じつげつ)」は、素知らぬ顔をして過ぎてゆく。この対比が実におもしろい。そして、とうとう秋風が勝ってしまったというのである。
 どんな使命をおびて、いつ蜀(しょく)に行ったのかがわからないので、この詩の制作時期を定めることが出来ない。ただ、洛陽に帰っていることから、洛陽が神都と称された事実上の首都であった則天武后期のころであろうか、といわれている。


 ――日本画家N先生の奥様より、丁重なるお礼のコメントを頂き恐縮している。もちろん『平野 純子 個展』に対してであるが、変人の変なブログをご覧いただいているとは感謝感激である。
 その『平野 純子 個展』の最終日にもお邪魔した。平野さんの人望か、お友達が大勢いらしているので、その人の間を縫うようにして再度の鑑賞。
 鑑賞を終え、冷たいウーロン茶をいただいていると、平野さんが「ほとり」という作品について、お友達に説明を始めた。聞くともなしに聞いて驚いた。「ほとり」というタイトルが、あまりにもうますぎるのだ。そこで、このタイトルはどういう意図で付けたのか尋ねた。平野さんは即座に、
 「この作品を初め、全部N先生が付けてくださいました。自分では“静寂”と決めていたのですが……」
 と応えてくれた。
 これで納得。やはりN先生は凄い!
 「ほとり」には、〈水ぎわ・岸〉のほか、〈きわみ・際限〉、〈身近な縁故のある者〉という意味もある。これらの意味と、平野さんの説明がぴったりと一致するのだ。
 それに対し、「静寂」はあまりにも平凡(失礼!)。第一、観る者に対し、「静寂」を感じて欲しい、と見方・感じ方を強制するものではないのか。
 作品を観て、どのように感じるかは鑑賞者の勝手。鑑賞者に無理強いするようなタイトルは、失敗だと思う。極論を言えば、タイトルは番号だけでもいい。作品が思い浮かべられればいいのだ。
 今、平野さんからいただいた目録を見直しているが、N先生の付けられたタイトルを見ただけで、作品がすべて目に浮かぶ。タイトルの付け方は、ぜひ、こうありたい、としみじみ思う。

      さう言へば入院食に土用蜆     季 己

蝉のから

2010年07月25日 21時04分03秒 | Weblog
        梢よりあだに落ちけり蟬のから     芭 蕉

 「蟬のから」に「蟬の唐衣」という古典の夢を匂わせつつ、それを現実の些事(さじ)の中に引き下ろしたところが談林的である。
 謡曲「杜若(かきつばた)」に、「梢に鳴くは蟬の唐衣(からごろも)の袖白妙の……」とあり、唐衣をつけた杜若の精が舞う。ここはそれを踏まえ、舞も舞わずにむなしく落ちた蟬のからを「あだに」といったものであろう。延宝五年(1677)ごろの作。

 「あだ」は、「①まごころがないこと。忠実でないこと。②はかないこと。むなしいこと。③うわきなこと。④むだなこと。」などの意がある。したがって「あだに」は、いたずらにとか、むなしくの意。謡曲「桜川」の「梢よりあだに散りぬる花なれば」を踏まえたものであろう。
 「蟬のから」は蟬の脱殻で、和歌などは、空蟬(うつせみ)というのを俗な言い方にしたもの。

 季語は「蟬のから」で夏。

    「梢を離れた蟬が、舞うこともなくむなしく地に落ちてしまった。見ると、
     『蟬の唐衣』ならぬ蟬の殻である。殻であってみれば、舞わないのも道理だ」


 ――連日連夜の猛暑。「もうしょ、もうしょカメよ」などと唄う元気さえない。
 それでも今日、行きたいところが二ヵ所あった。しかし、外出不可能となってしまった。母がとうとう調子を崩してしまったのだ。どうやら熱中症にかかったらしい。
 変人の部屋には扇風機さえないが、居間には、クーラーも扇風機もある。ところが母は、大のクーラー嫌い。それでやられてしまったらしい。
 平生は、独り身を謳歌している変人であるが、母の具合が悪くなると、独り身の悲哀をしみじみと感じる。数え90歳の母親、今後は日増しに衰えてゆくことだろう。そうなると、毎日出歩いてばかりはいられない。そうか、「身辺整理、身辺整理」という呪文を唱える必要もなくなる、か……。

      たらちねの母の干からぶ猛暑かな     季 己

近江蚊屋

2010年07月24日 22時54分15秒 | Weblog
        近江蚊屋汗やさざ波夜の床     芭 蕉

 『六百番俳諧発句合』に「蚊屋」と題してある。この『発句合』の判詞にも「あふみ蚊屋といひて汗やさざなみといへる、又めづらかに優美なり」とあるように、近江蚊屋の名とその色から琵琶湖を連想し、その揺れ動くさまに応じて、汗をさざ波と見立て、同時に、近江の枕詞である「さざ波」の意を縁語的に働かせた発想である。軽い口調もまた談林の特色である。

 「近江蚊屋(おうみかや)」は、近江名産の蚊屋。「蚊屋」は、蚊を防ぐために、麻や木綿などで作って吊り下げて寝床をおおうもの。「蚊帳(かちょう)」ともいう。今は、「蚊屋」の文字は余り用いず、「かや」といえばもっぱら「蚊帳(かや)」の文字を用いる。今日では、一般的に蚊帳は使われなくなってきたが、幼児用の折り畳み式のものなどは、現在でも使われている。萌黄(もえぎ)色に染め、赤い縁布をつけているものが普通。蚊帳の産地としては、奈良や近江など近畿地方が有名。
 「さざ波」は、「さざ波の」「さざ波や」のかたちで近江の枕詞とされる語。
 「夜」に「寄る」を掛けてある。

 季語は「蚊屋」で夏。「汗」も夏。

    「夜の床に吊った蚊帳が揺れ動くさまは、近江蚊屋の名にふさわしく、琵琶湖
     上に風の立った感じである。そうなると、肌の汗はさしずめ、湖の〈さざ波〉が
     寄るというところであろう」


      をんな来て別のうれしさ花氷     季 己

初真桑

2010年07月23日 20時35分16秒 | Weblog
          あふみや玉志亭にして、納涼の佳興に
          瓜をもてなして、発句を乞うて曰く、
          「句なきものは喰ふ事あたはじ」と
          戯れければ、
        初真桑四つにや断らん輪に切らん     芭 蕉

 前書の「句なきものは喰(くら)ふ事あたはじ」は、李白の「如詩不成、罰依金谷酒数」を心に置いているもので、挨拶の心をこめた即興の句である。いかにも、かろがろと心のはずみが出ていて快い句である。
 たわむれに、「句が出来ない者は、喰うてはいけませんぞ」と言われながら、初真桑を愛惜して、どう食べようかと撫でまわしている姿が目に見えてくるような句だ。

 前書の冒頭は、真蹟懐紙に「あふみや玉志亭」と表記されており、「あふみや(近江屋)」あるいは「あぶみや(鐙屋)」の両説がある。『随行日記』によれば「近江屋」説、句の内容からすると「鐙屋」説であるが、しばらく「鐙屋」説に従う。
 中七は、真蹟懐紙に「断ン」とあり、「たたん」などとも読めるが、「わらん」と読んでおく。

 「玉志」は、『随行日記』にいう「近江屋」とすれば、名は三郎兵衛か。従来、一般には、西鶴の『日本永代蔵』巻二「舟人(ふなびと)馬かた鐙屋(あぶみや)の庭」に出てくる、豪商鐙屋惣左衛門のことかとされている。ただし、代々、近江屋嘉右衛門を名乗った家かとも考えられている。

 季語は「初真桑」で夏。「初」に賞美の心があり、それが即興風の発想を通してみごとに生きて働いている。

    「さあ、もてなしに出されたこの初真桑をいっしょに食べよう、たて四つに割っ
     たらよいか、輪切りにしたらよいか、さてさて、どちらにしたものであろうか」


      青メロン屋根に太陽光パネル     季 己

平野純子 個展

2010年07月22日 20時28分55秒 | Weblog
        秋近き心の寄りや四畳半     芭 蕉

 連衆心(れんじゅしん)を詠みとったところに、俳席の亭主への感謝がこもり、挨拶が息づいたものである。
 芭蕉と内縁関係にあった女性かと想像せられている寿貞の訃報に接した直後の芭蕉が、弟子たちの寡黙なことばのうちに無限のいたわりを感じつつ、静かに坐している姿が目に浮かぶようである。
 このとき会したのは、芭蕉・木節・支考・惟然の四人であった。

 中七は従来「心の寄るや」と読まれてきたものであるが、土芳が芭蕉から直接に聞いたとして伝えるところにより、中七は「心の寄りや」を正しい句形と認めなければならないと思う。これは、心の交流という意味をはっきり出したかったものであろうか。淡々とした表現をとりながら、孤独を越えた深い心の通いあいをうつし出し、内なるゆらめきが直ちに句に匂い出ているところがあって、軽みの世界を示している。
 木節はモクセツまたはボクセツ。大津の蕉門。望月氏。医師で、芭蕉の最期を看取った人。

 季語は「秋近し」で夏。「秋近き」が「四畳半」という把握と相応じて、みごとにその季感の本質的なものを生かしている。これだけ確かな「秋近き」は、他に見ることが出来ないようである。

    「しのび寄る秋の気配の中に、連衆の心もしんみりとなごみあい、
     この四畳半の部屋で静かな時をもちえて、満ち足りた思いです」


 ――先週金曜日に受けた抗ガン剤治療の副作用のため、ずっと食欲不振がつづき、外出する気力もなくなってしまった。そのため、年中行事の「画廊宮坂」詣でにも行けず、イライラしていた。
 「画廊宮坂」のホームページを見てみると、今週は『平野純子 個展』とある。初めて見る名前ではあるが、作品の一部に、わが敬愛する日本画家N先生の〈におい〉が感じられた。これは是非にも早速お邪魔し、拝見しなくては…と思うのだが、身体が言うことを聞かない。
 そこで昨日、大型スーパーへ行き、高品質の滋養卵を4個買ってきた。夕食に、卵かけご飯にして食べたところ、昔の卵の味がしておいしく、食欲が出てきた。(大正解!)
 今朝も卵かけご飯にして食べたら、体調も戻り、今度は自分の直感が正しいかどうか早く確かめたくて、うずうずしてきた。
 昼食をしっかりと取り、室温40度の部屋から逃げ出し、銀座の「画廊宮坂」へ向かった。

 平野さんは、いわゆるプロの絵描きさんではなかった。思った通り、N先生のお弟子さんで、20年間、指導を受けているという。まず〈20年間〉にビックリ。20年と言えば、変人が幼稚園の園長をしていた期間がちょうど20年。その間、こどもたちに言いつづけたことは、「楽しく、一所懸命」の一言だけ。
 その「楽しく、一所懸命」が、平野さんの作品からひしひしと感じられ、非常にうれしく、あたたかい気持になれた。N先生の教えの根っ子はきちんと守り、幹や枝葉の部分は己の感性のおもむくまま。これがなかなか出来ないことだ。N先生も手こずる反面、内心では喜んでいたのではなかろうか。何とも羨ましい限りの師弟である。

 「カナダの森」・「ほとり」・「ペリカン」・「フローラ」・「ホスピタル」などなど、どれも感心させられる作品である。「ほとり」を凝視していると、そこはかとない‘かなしみ’が感じられ、「残りしか残されゐしか春の鴨」という句が想い起こされる。この句は、俳句の手ほどきを受けた岡本眸先生の御句で、変人の俳句開眼の句ともいうべき作品である。
 「ほとり」は、存在のかなしみを描いたものではなかろうか。ふと、そんな気がした。

 突然、卵の話が出て、「とてもおいしい卵があるから、送ってあげます」と、平野さんから言われたときには、唖然として何も言えなかった。卵かけご飯で食欲が出て、こうして『平野純子 個展』を拝見することが出来たのだ。余りにも熱心に送ってくださると言うので、「実は……」と話したところ、一同ビックリ。平野さんは鳥肌が立った、と……。 やはり、『画廊宮坂は小説よりも奇なり』であった。

      榛の木の池の明るさ通し鴨     季 己

雲の峰

2010年07月21日 22時59分39秒 | Weblog
        湖や暑さを惜しむ雲の峰     芭 蕉

 あらゆるものが涼味を帯びている中で、雲の峰だけが炎暑の名残をとどめているという「納涼」にふさわしい感じをとらえた作である。やはり挨拶の心をこめていよう。

 「暑さを惜しむ」は、過ぎゆく夏の暑さを惜しむ意にもとれるが、納涼の属目吟なので、一日の暑さをとどめていると解したい。
 「雲の峰」は、漢詩に「夏雲奇峰多し」(陶淵明)とあり、この影響を受けて作られたことばである、といわれている。学名は積乱雲で、強い日射のときの勢いのある上昇気流によって生ずる。積雲は高さ一万メートル前後に達すると、頂上が刷いたように崩れ、下面も雨脚のために不明瞭に暗む。積乱雲(夕立雲)に発展したのである。
 複雑な渦状の動きをしながら、むくむくとふくらんで行くさまを、その形から入道雲とも呼んでいる。また、その中に多量の電気を蓄積するので雷雲となり、さらに夕立雲にもなる。

 季語は「雲の峰」で夏。「雲の峰」を擬人化した発想である。

    「湖水に面したこの眺めは夕暮れに向かうにつれて、すべて涼味に満ちているが、
     彼方に立っている雲の峰だけが、なお灼けつづけ、あたかも過ぎゆく一日の暑さ
     を惜しむような感じがする」


 ――夏雲は皓(しろ)い。上昇気流の激しさをそのままに、頭のまるい、下部を切りそいだような積雲が、夏雲の代表であろう。それが、みるみる育って、塔のように、山塊のようにそそり立つ。気流のすさまじい渦の動きが手に取るように見える。これが雲の峰で、地名を冠して川のように、坂東太郎・丹波太郎・安達太郎・比古太郎・信濃太郎・石見太郎などと呼ばれることも以前はあった。

 それにしても今日の暑さのものすごさ。「暑さを惜しむ」などとは絶対に言えない。二階の変人の部屋は、窓を全開しておいても、昼前に38度を超え、午後2時過ぎにはついに40度に達した。今も33.5度ある。

      六十にして順わず雲の峰     季 己

たゆたふ命

2010年07月20日 23時19分56秒 | Weblog
                     大伴旅人の従
        家にても たゆたふ命 波の上に 浮きてし居れば 
         奥処(おくか)知らずも (『萬葉集』巻十七)

 「家にてもたゆたふ命」とは、どういうことだろう。人は旅先では常に魂が遊離する脅威にさらされ、そのために魂ふりをやって鎮めようとした。
 この作者、大伴旅人の従(けんじゅう)、つまり、側近に奉仕する家来のことだが、彼の場合は、家の内にいても、日常の生活においても不安なのである。
 「たゆたふ命」というのは、煩悶しているというようなことではなく、安定していない命だといっているのであって、魂のしずまらないことだ。魂が、人の肉体の中の、おさまるべきところに、すっぽりと落ち着いていないことをいう。
 普通の人なら、旅先では魂が安定しないということがあるが、家にいればまず魂が動揺するということはない。それが、自分は家にいても動揺している魂なのだから、まして今のように波の上に浮かんでいると、先行きのことがまるでわからない、という歌であろう。
 「奥処(おくか)」は、心の奥底ともとれるし、時間的に将来のことともとれる。

 では「命」とはなんであろう。ここに命と言っているのは、どうも従来の「うつせみの命」などと言った場合と、意味が違ってきているようだ。魂と言えば古風に過ぎ、精神と言えば新風に過ぎよう。折口信夫博士は、心と命とのあいだを考えているようだと言われた。
 「たゆたふ」は、動揺して定まらぬことであり、命が「たゆたふ」と言えば、存在の不安、生命の恐怖であろう。不安は、すでに一種の虚無思想に犯された者には、旅先だろうが家の中だろうが、どこへでもやってくる。
 人間はどこから来て、どこへ行くのかわからない。その不安が、大海で波に揺られていると、きわめて間近に、現実として感じられてくる。波に揺れることで、心の奥底の不安を揺さぶり出されている感じである。だから「奥処知らずも」――このおれという不安な存在の、先のことはわからない、と言っているのだ。

 「家にても」の歌は、折口信夫博士が、『萬葉集』の中からもっとも価値の高い歌をたった一首だけ選べと言われたら、この歌を選ぶと言われた歌である。


      キムヒョンヒ降り立ちしあと地の灼くる     季 己

2010年07月19日 20時26分43秒 | Weblog
          桃 夭(とうよう)     無名氏

 一章  桃の夭夭たる 灼灼たる其の華 之の子干(ゆ)き帰(とつ)がば
     其の室家(しつか)に宜しからん

 二章  桃の夭夭たる 有蕡(ゆうふん)たる其の実 之の子干き帰がば
     其の家室(かしつ)に宜しからん

 三章  桃の夭夭たる 其の葉蓁蓁(しんしん)たり 之の子干き帰がば
     其の家人に宜しからん

 「桃」は、ももの木。 
 「夭夭(ようよう)」は、若々しいさま。  
 「灼灼(しゃくしゃく)」は、明るいさま。 
 「華」は、もものはな。従来、ももの花や実や葉は、嫁ぎゆく若い娘をたとえたもの、と解されている。しかし、実はこれは、もともとは懐妊や安産を祈願する際に、ももの木をほめたたえる呪詞であり、それをうたって花嫁を祝賀する詞とした、と見るべきとする意見が多い。「めでためでた」の気分が出てくるのはそのためである。
 「之の子(このこ)」は、この子。娘のこと。
 「帰」は、嫁の古語で、「とつぐ」と読む。
 「宜しからん」は、よく似合う。
 「室家」は、先方の家庭。二章の家室や三章の家人も、韻字の都合で変えただけで、意味はほぼ同じ。
 「有蕡(ゆうふん)」は、実の多いさま。
 「蓁蓁(しんしん)」は、盛んに茂るさま。

 ――かつてはこの詩は、皇后の徳化によって、男女の婚姻が正しく時を得ていることをうたった歌である、と解されていた。けれども今日では、嫁ぎゆく娘を祝福した婚礼の祝い歌である、とするのがほぼ共通した見方である。
 この詩の形式は、三章繰り返し。詩句も平明で少ない。また、擬態語の多様でによる音調もよい。これは大勢の人々がうたうことを条件としていたからであろう。
 すなわち、一章では、まず、ももの木の若々しさとその花の明るく咲くさまをうたって祝賀の詞とし、その幸いを身に受けて、この若い娘が嫁いでいっても、きっと明るい家庭に似合うだろう、とうたう。そのほめたたえが、この詩の主題である。
 二章では、ももの実が多く実っていることを祝賀の詞とする。これはそのまま将来の子だくさんを予祝しているのであろう。
 三章では、ももの葉が盛んに茂っているさまを祝賀の詞とする。これは、にぎにぎしく栄える一族の繁栄を予祝しているのであろう。
 このように、嫁ぎゆく若い娘の幸せや一族の繁栄が、ももの木とその花・実・葉によってもたらされる構成をとっているのは、かつてはそれが信仰の対象であったことを明らかにしている。したがって、ももの木のそれらがうたわれているのは、単に若くて美しい娘をたとえたのではないのである。
 中国の留学生に聞いたところに寄ると、この詩は中国では、地方によっては今なおうたいつがれているという。民謡は、生活の中から自然発生的に生まれるが、その生活に結びついた民謡とは、この詩のようなことをいうのであろう。
 なお日本でも、樹木は信仰の対象となっていた。松の木もその一つである。ことに、「めでためでたの若松様よ、枝も栄えて葉も茂る」とうたわれて、婚礼の祝い歌として用いられているのは、「桃夭編」ときわめて似通うものがあるといえよう。

    「一章 ももの木は若々しく、明るく咲き乱れるその花よ。(めでたい、めでたい)
        この子がお嫁に行ったなら、きっと明るい家庭に似合うだろう。

     二章 ももの木は若々しく、多く実ったその実よ。(めでたい、めでたい)
        この子がお嫁に行ったなら、きっとにぎわう家庭に似合うだろう。

     三章 ももの木は若々しく、盛んに茂るその葉よ。(めでたい、めでたい)
        この子がお嫁に行ったなら、きっと栄える家族に似合うだろう。」


      白桃のしづく六根清浄す     季 己

夕顔

2010年07月18日 22時26分28秒 | Weblog
        夕顔の白く夜の後架に紙燭とりて     芭 蕉

 『源氏物語』の夕顔の巻の話を心に置いている。源氏が大弐の乳母(めのと)を見舞ったとき、夕顔の咲いている垣から女の顔がのぞく。その女から扇をもらい、見舞いをすまして、「出で給ふとて、惟光(これみつ)に紙燭召して、ありつる扇御覧ずれば」、その扇に、「心あてにそれかとぞ見る白露のひかり添へたる夕顔の花」という歌が書かれていたという話である。
 この話は後年しきりに謡曲などにも採られており、芭蕉はそれを「後架(こうか)に」と俳諧化したのであるが、句全体は物語的な雰囲気に包むようにしてある。口調のみならず、原点の表記には漢文的な感じを生かそうとしたあとがうかがわれ、かつ、切れをもたない表現をあえてとっているところなど、この時期の特色である。
 『武蔵曲(むさしぶり)』(天和二年三月刊・千春編)に「芭蕉」名で所収。延宝九年(天和元年=1681)以前の作。

 「後架(こうか)」は、禅家で、僧堂のうしろに架(か)け渡した洗面所。後に便所。かわや。
 「紙燭(しそく)」は、脂燭に同じ。昔、室内照明にした灯り。松の木を一尺五寸(約45センチ)、太さ三分(直径約1センチ)に切り、先を炭火で焦がし、その上に油を引きかわかし、手元を紙屋紙で巻いたもの。また、‘こより’を油に浸して点火するもの。王朝的なものである。

 季語は「夕顔」で夏。

    「夕顔がほのかに白く闇に浮かんでいるのが、紙燭を手にして厠(かわや)に
     立とうとする目にさっと入ってきた」


      夕顔をはなれ光陰人を待たず     季 己

コカリナ

2010年07月17日 20時28分38秒 | Weblog
        富士の風や扇に載せて江戸土産     桃 青(芭蕉)

 ものを贈る場合、盆や白扇に載せて差し出す風習を生かしている。扇によって風を送り出しながら、「この風は富士の風ですよ」とでも言っている場面で、気軽な機知、口軽い調子に談林的な庶民性が見られるのである。
 『蕉翁全伝』に「高畑氏市隠ニテ歌仙あり」として出ている。市隠は俳号で、芭蕉の主であった藤堂良精に仕えた人。『芭蕉翁全伝』にも「其(延宝四年)六月伊賀高畑氏市隠亭にて」として所収。

 季語は「扇」で夏。

    「江戸の土産といっても何も持っていませんが、道中、富士の涼しい風を
     仕入れてきましたから、その涼風を扇に載せて、江戸土産として差し上
     げましょう」


 ――今日午前、関東地方にも梅雨明け宣言が出された。平年より3日早く、昨年より3日遅い。
 同じく梅雨明け宣言の出た京都では、祇園祭の圧巻、長刀鉾を先頭とした山鉾三十二基の巡行である。コンコンチキチンコンチキチンの祇園囃子は、親しみが持たれるので俳句の素材にしてみたいが、類句・類想になりやすいのでやめておこう。

 ということで、京都地方民謡の「竹田の子守歌」をコカリナで吹くにとどめておいた。ところで「コカリナ」という楽器をご存じだろうか。コカリナのルーツは、東ヨーロッパ・ハンガリーで生まれた〈さくらの木で出来たオカリナ〉といわれている。
 現在、木のオカリナは、全国各地でその土地の風土で育った木を基本に製作されている。さくら・かえで・なら・杉・クルミなどなど。変人のコカリナは、八ヶ岳の麓・原村にお住まいの安川誠氏に作って頂いたクルミ製のもの。
 コカリナは、手の中にすっぽりと収まってしまう小さな楽器だが、この木がどこで生まれ、どんな歴史を持って育ったのかを想像しながら吹いてみるのも面白い。
 6個の指穴があり、その組み合わせを替えることで、ハ長調のド~(高音の)レまで9つの音階を出せ、半音を含めると15音階の音が出せる。ヘ長調の指使いを覚えれば、もっとレパートリーも増えるのだが、独学の変人のレベルは、まだそこまではいっていない。(「安川誠作 木のオカリナ」解説文より引用)

 五月の連休明けに植えたゴーヤーも、二階まで届くほどに生長し、実も10個余りついている。また、月見草の初花が今夜一輪開いた。春に蒔いた種が、二本だけ芽を出し50センチほどの高さになったとき、垣根の外から、根こそぎ一本だけ抜かれてしまった。手の届かなかったもう一本が無事に残り、今夜初花が開いたという次第。

      月見草ひらき竹田の子守歌     季 己