壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

まさきくあらば

2011年08月31日 00時22分41秒 | Weblog
                       有間皇子
        磐代(いはしろ)の 浜松が枝を 引き結び
          まさきくあらば また還り見む (『万葉集』巻二・141)

 有間皇子は孝徳天皇の御子である。十九歳の有間皇子が、斉明四年(658)に謀反をはかったという事件は、どうも中大兄皇子の仕組んだ事件だったらしい。
 宮廷の暗闘の犠牲となって、悲劇的最期を遂げたとされている。この歌と、この次の歌とは、捕らえられて紀州に護送される途中で、皇子が詠んだものと言われている。
 実はこの歌は、旅行の途中での歌で、単なる旅の歌である。道中の要所要所にいて、旅人にものを要求する恐ろしい神には、大事なものをあげたり、いろいろとお世辞をつかわなくてはならない。
 ――磐代にいらっしゃる道の神様に、海岸の松にわたしの魂をむすびつけてさしあげて、わたしが健康でありますようにとお祈りいたします。わたしの願い通り、わたしが健康でしたら、わたしはまた帰りにもこちらに立ち寄って、また神様に何か差し上げましょう。
 およそこんな意味だと思う。

 神にものを上げる時は、木の枝などに結びつける。この歌の「松が枝を引き結び」にもその意味がある。そして何を結びつけたかというと、人間の身体の中の魂を、一部分、分割して取り出して結びつけていくのである。
 この歌の次の歌の、
        家にあれば 笥(け)に盛る飯を くさまくら
          旅にしあれば 椎の葉に盛る (『万葉集』巻二・142)
の歌も、自分が食べるのではない。家でなら立派な器物に盛って差し上げるが、旅先だから、椎の葉に盛りつけて差し上げます、これで我慢してください。
というのである。


      初鵙とおもふ弱音は吐くまじく     季 己

妙義山

2011年08月30日 00時00分14秒 | Weblog
          妙義山
        立去ル事一里眉毛に秋の峰寒し   蕪 村

 上の句が非常に長くなり、かつ、漢語調で表現されている。けれども言葉そのものは漢語ではない。漢語調によって、全体に漢詩的な風趣が添えられ、それが南画的奇峰の打ち並んだ妙義山の実景に適合している。

 「立去ル事一里」も、麓を曳かずに屹立している妙義山の実状をあらわしている。直下にあった時には、山の全貌は眺め渡せなかったのである。
 「眉毛に」は、いわゆる「眉毛に迫って」であって、「打ち仰ぐ」気持がこめられている。

 季語は「秋の峰」で秋。

    「妙義山の麓から一里ほど歩み離れて振り返れば、己の眉より高く
     全貌が眺められる。晩秋の空に峰々が堂々とそびえ立っているが、
     いかにも寒々としたありさまである」


      がりがりの人ゐて秋の妙義山     季 己

一葉舟

2011年08月29日 00時05分24秒 | Weblog
        よるべをいつ一葉に虫の旅寝して     芭 蕉 

 「よるべをいつ」と字余りにしたところに、談林的な発想の声調にあらわれたものが感じられる。
 謡曲「浮舟」の「寄るべ定めぬ浮舟の……よる方わかで漂ふ世に」とか、「この浮舟ぞよるべ知られぬ」などを心に置いて仕立てた作であろう。
 一葉舟にすがる虫を旅寝と取りなしたところが、発想の中心になっている。宗因にも
        秋や来るのうのうそれなる一葉舟
の作がある。

 「よるべをいつ」は「寄る辺は何時」で、いつ寄る所を得ることぞの意。
 「一葉」は「桐一葉」と同じ。『淮南子(えなんじ)』の「一葉落つるを見て、歳のまさに暮れんとするを知る」その他の本文によるもので、秋に先がけて桐の葉が落ちるのを言う。また、その一葉が水に浮かんで舟のように見えるのを「一葉の舟」という。
 『増山井』に、「一葉 ひとはの舟 一葉は桐なり」とある。

 季語は「一葉」で秋。ただし句中では一葉舟の意である。「虫」も秋。

    「水に落ちた桐の一葉にすがって、一匹の虫が旅寝をしている。いつ
     寄る辺の岸を得ることであろうか。まことに頼りないさまである」


      鉦の音の残る思ひの阿波踊     季 己

穂麦喰はん

2011年08月28日 00時03分20秒 | Weblog
          伊豆の国蛭が小島の桑門、これも去年
          (こぞ)の秋より行脚(あんぎゃ)しける
          に、我が名を聞きて、草の枕の道づれ
          にもと、尾張の国まで跡を慕ひ来たり
          ければ、
        いざともに穂麦喰はん草枕     芭 蕉

 「穂麦喰(くら)はん」という気持は、どういう気持なのであろうか。
 気軽に旅を続けようともとれそうであるが、ここはやはり、辛苦を共に堪えてゆこうという気持の方が強いと思う。
 そのまますぐには喰えない穂麦であるが、それをあえて言い出でたところに、その気持が出ているようである。貞享二年(1685)、再び尾張を訪れた時の作。

 「桑門(そうもん)」は、出家して仏道を修める人、つまり僧侶。
 「行脚」は、僧が諸国をめぐって修行すること。また、徒歩で諸国を旅すること。「あんぎゃ」と読む。「ぎょうきゃく」などと読まないように注意。他に、行灯(あんどん)、行火(あんか)など。
 「草枕」は旅寝のこと。旅をもいう。

 季語は「穂麦」で夏。

    「草を枕とする漂泊の旅であるから、穂麦を食って一時の飢えをしのぐ
     ような辛苦もあるが、その乏しさに堪えて、さあ共に旅を続けよう」


      降りにけり穂麦に雨の限りなく     季 己

堺町

2011年08月27日 07時48分37秒 | Weblog
        雨の日や世間の秋を堺町     桃 青

 「堺町(さかいちょう)」という名を掛詞的に生かしたところに、談林的な発想があった。そのような遊びの間隙に、実際の事象を感合してゆく気分がおのずとあらわれており、貞門の名辞的発想とは性格を異にしている。

 「堺町」は、江戸の盛り場の一つ。今の蠣殻(かきがら)町の北、芳(よし)町に近いあたり。はじめ遊里、後には芝居町として繁盛した。ここでは、「秋を」をうけて「堺」に境界線を画している意を掛けて用いている。

 秋の雑の句。「秋」を、侘びしさをさそうという前提のもとに扱っている。

    「秋雨がしとしとと降って、世間一体は沈んだ気分に閉ざされている日も、
     この堺町は、外のそうした世間とは打って変わって、別世界のように賑
     わい栄えている。堺町の名にふさわしく、まったく世間の秋と一線を画
     した世界だ」


      ゆく夏のしづかなる色白湯にあり     季 己

詠むる

2011年08月26日 00時05分35秒 | Weblog
        詠むるや江戸にはまれな山の月     桃 青

 「詠(なが)むる」は、つくづくと眺める意。
 「山の月」といったのは、伊賀山中の月を指したもの。

 平凡で何の奇もない句である。ただ、「江戸」に「穢土(えど)=けがれた国土。この世」が掛けられており、「江戸にはまれな」というあたりに、談林的な発想をうかがうことができる。
 『蕉翁全伝』に、「桑名氏何某ノ催ニ応ジ、渡部氏ノ方ニ会あり」として、この句が掲出されている。延宝四年(1676)帰郷の時の作という。

 季語は「月」で秋。

    「江戸を遠く離れ、久方ぶりに故郷へ帰ってみると、何もかも物珍しい感が深い。
     折しもこの世ならぬ清らかな月が山の上に昇ったが、これもまた人家の混み合
     うほこりっぽい江戸とは違った趣で、つくづくと見守られることだ」


      ちぎり絵のやうな蝶来て処暑すぎし     季 己 

程は雲居

2011年08月25日 00時01分10秒 | Weblog
        百里来たり程は雲居の下涼み     桃 青(芭蕉)

 「程は雲居」は、和歌でしばしば用いられる成句である。おそらく、『伊勢物語』の
        忘るなよ 程は雲居に なりぬとも
          空行く月の めぐりあふまで
        〈あなた方から距たること、雲ほどに遠のいたとしても、
         空を行く月がまた帰って来るように、再びめぐり逢う
         ときまで、私のことを忘れてくださいますな〉
などを、心に置いているのであろう。「百里来たり程は雲居」というところに、謡曲風な口調が出ており、その辺に談林的な味わいを感じさせる。

 この句『蕉翁全伝』に、「山岸氏半残に歌仙あり」として出ている。延宝四年(1676)の帰郷の際の作。半残は、芭蕉の姉の子、蕉門。
 「程は雲居」は、雲の彼方に遠く隔たっていることをいう語。ここでは「雲居の下涼み」とも続く。
 「来たり」の「たり」は完了の助動詞終止形なので、ここで切れる。

 「涼み」が季語、納涼で夏の句。

    「江戸を出て百里もやって来た。まさに“程は雲居”ともいうべき
     遙かな旅路である。自分は今、江戸を心に描きつつ、旅路の
     中なる故郷の大空の下でくつろいで涼みをしていることだ」


      母と居て別のさみしさ青簾     季 己

駒迎へ

2011年08月24日 00時19分28秒 | Weblog
        町医師や屋敷方より駒迎へ     桃 青(芭蕉)

 駒迎えに、晴の召し出しの感じを生かして詠んだものである。由緒深い禁中の行事を、市民生活に引き下ろしたところに起こる距離感におかしみがあったのである。そしてそこに、芭蕉における談林的なものの芽生えも認められる。

 「町医師」は、町の開業医。お抱え医師に対し、地位が低かった。
 「駒迎へ」は、駒牽(ひ)きのとき、諸国から貢進(こうしん)する駒を左右の馬寮(めりょう)の官人が、近江国逢坂の関まで出迎えたこと。駒牽きは、八月十五日(のちに十六日)諸国から貢進する駒を、天子が紫宸殿(ししんでん)または仁寿殿(じじゅうでん)でご覧になった儀式。御料馬を決定し、式後、駒を公卿に賜るのが慣例であった。

 季語は「駒迎へ」で秋。

    「町医師のもとへ大名とか旗本とかいう屋敷方(やしきがた)から、
     馬を差し向けて迎えが来た。まさに“駒迎え”である。町医師に
     とって、これは、禁中から召され駒迎えを受ける駒に比すべき名
     誉なことである」


      少年の心の怒りか雲の峰     季 己

梶の葉

2011年08月23日 00時00分03秒 | Weblog
        梶の葉を朗詠集のしほり哉     蕪 村

 古く七夕には、七枚の梶の葉に七夕の歌を書いて織女星を祭るのが、普通であった。その際によく利用されたのが「朗詠集」。正しくは『和漢朗詠集』といい、藤原公任の著で、和漢の詩歌の秀作を集輯(しゅうしゅう)したもの。
 先に、
        夏百日墨もゆがまぬこゝろかな     蕪 村
の句について説明したように(拙ブログ2011.07.08参照)、季語が自然に備えている事情を働かす以上には、特別に配合や技巧をこらさず、しかも季語の美感を十分に醸し出している種類の句である。その点、その句と性質が共通し、より以上に成功している句としては、
        駒迎ことにゆゝしや額白(ひたひじろ)     蕪 村
がある。昔、毎年陰暦八月十六日諸国の牧場から宮中へ良馬を献ずるのを、天皇が親覧せらるる行事を「駒牽(こまひき)」といい、その駒が近江逢坂の関まで着いたとき、宮廷から迎えに行くのを「駒迎(こまむかえ)」といった。この句の意味は――いずれも良馬ばかりだが、その中の一頭が額に真っ白な斑が鮮やかに大きく出ていて、いずれの馬よりも厳めしく勇ましい姿であった、というのである。

 「しほり」は「しをり」と書くのが正しい。

 季語は「梶の葉(七夕)」で秋。

    「梶の葉を栞代わりに挟んだ朗詠集が置いてある。七夕の部分を開いて
     そこにある歌を梶の葉に書き写していた最中、何かの用事が出来て
     そのままに座を立ってしまったのであろう。葉の緑の色が、本の白さに
     映えていかにも美しい」


      裸婦像の重き輝き晩夏かな     季 己

稲妻

2011年08月22日 00時03分11秒 | Weblog
        あの雲は稲妻を待つたよりかな     芭 蕉

        稲妻に悟らぬ人の貴さよ     芭 蕉
の観念的な詠みぶりから推して、掲句にも寓意があるとする説がある。けれども、「あの雲は」という素直な口調を生かし、ごく自然に解してよいと思われる。季節を感ずる心である。(「稲妻に」の句については、拙ブログ:2010.8.29を参照)

 「稲妻」が季語で秋。秋の夜、空いちめんに光が走って、うす桃やうす紫の妖しい色に染まる。稲を稔らせるものとして、「稲妻・いなびかり・稲の殿(との)」と呼ばれ、その果敢(かかん)ない美は“無常感”と連結されていた。雷雨に伴った電光のことではない。
 「稲妻を待つ」心があって、そのよすがとなる雲に心をうごかしているのである。

    「あのくろぐろと空に横たわる雲は、稲妻の閃(ひらめ)くよすがで、
     やがてあそこにさっと光が差すことだろう。それがひそかに待たれ
     ることだ」


      いなびかり空のけはしき北関東     季 己

清水

2011年08月21日 00時10分48秒 | Weblog
        石工の鑿冷したる清水かな     蕪 村

 この「石工(いしきり)」は、「石切人夫」のことで、したがって場所は、石切場と解するのが妥当であろう。また、装飾化されて表現されているが、
        水晶の山路わけゆく清水哉     蕪 村
 の句があるので、切り出されている石は、肌のなめらかな純白のもののような気がする。さらに
        石切の飛火流るゝしみづ哉     蕪 村
 の句もあるので、石工が仕事をしている身近に、清水がたたえられていると想像できる。

 「鑿(のみ)」は、石工(いしく)が石を細工する道具。たがね。

 季語は「清水」で夏。清水は、自然に湧く澄明の水。たたえているもの、流れているもの両方をいう。

    「石切場のすぐ近くに、清水がたたえられている。日盛りではあり硬い
     石を刻むので、鑿が火照ってくると見えて、一人の石工が仕事の手を
     止め、清水へ立ち寄ると鑿をどっぷりとその中に浸した。澄みきった
     水中、石床の上に寝かされている鑿の刃はきらきら光り、いかにも冷
     たそうに気持ちよさそうである」


      夏雲の先争はず流れゆく     季 己

椎の花

2011年08月20日 00時13分07秒 | Weblog
          述 懐
        椎花の人もすさめぬにほひ哉     蕪 村

 「椎の花」を持ってきたのは、明らかに芭蕉の、
        先づたのむ椎の木もあり夏木立
        世の人の見つけぬ花や軒の栗
 を意識している。
 両句の意味するものを一つにして、その上へ、自己の概念を通わし託そうとしたのであろう。
 宿命の自覚の上に築かれる真の決意、諦念の上に起ち上がる、真の覚悟というような切迫の気はほとんど感得されない。この句は、「述懐」よりも「感想」に近いのではないか。

 蕪村には別に、
        枇杷の花鳥もすさめず日くれたり
 の句があるが、枇杷の花そのものを詠ったに過ぎないこの句と、この述懐の句とは、用語も発想もリズムの密度も、全く同じであると言わざるを得ない。芭蕉の、
        此道や行く人なしに秋の暮
        旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
 の句はもちろんのこと、
        能なしのねむたし我を行々子
 の句が、人をうつ程度の真実さは、ほとんどここには見出され得ない。このような境地が、蕪村の境地でなかったというよりも、むしろ蕪村の偉大さは、このような境地とは本質を異にする別種の境地の芸術家であったところに存在すると言った方が早い。

 「すさめぬ」は、「すさめる」(もてはやす、賞美する)の打ち消し。
 季語は「椎の花」で夏。

    「仮に我が身を花にたとえるなら、自分はまさに椎の花。世の人々に
     賞美されるような、派手な魅力を持ち合わせていない。しかし、好
     ましいにおいでなくとも、椎は椎独特のにおいを格段に強く発して
     いるように、自分は天からあたえられた自分の性能を、自分なりに
     発揮してゆくだけである」


      入力の心そぞろに秋出水     季 己

『去来抄』2 続・辛崎の

2011年08月19日 00時02分43秒 | Weblog
 この伏見の某有名俳人と其角の論争は、其角『雑談集』巻頭の話であるが、其角も芭蕉の真意は、よくわかっていないようである。
 この「にて」は、「ただ花より松の朧にて面白かりしのみなり」の「にて」であり、おのずから「切字」の役割を負っていると見なされる。
 つまり、「切字に用ふるときは、四十八字皆切字なり。用ひざるときは、一字も切字なし」の範疇における「切字」の「にて」ということである。

 次は、芭蕉の門人で出羽の国で染物業を営む呂丸と、去来との会話である。呂丸は『奥の細道』に出てくる図司左吉が、この人である。
 呂丸は、
 「にて留めのことは、すでに其角の『雑談集』の説明通りだと思う。ただ、この句は発句ではなく、第三の句ではないでしょうか。伏見の作者は、どうしてこれを発句と見たのだろうか」
 と、分かった風なことをいった。
 去来は、呂丸は新しい門人なので、何にも分かってはいないと思ったが、
 「これは即興感偶、つまり、その場に臨んで興を感じ、すぐさま句になったもので、発句であることは間違いありません。連句の第三は、前句に応じて考えをめぐらして作るものであります。もし、この発句が即興でなく、頭の中で考えて作ったのであるとすれば、この句の価値は、二流に成り下がるでありましょう」
 と言った。

 連句の第三は、発句・脇句を受けてこれを転ずる場である。だから、実感ではなく、頭の中で考えて作ることになる。
 つまり、第三は、脇句の世界を転じて、格調高く、伸び伸びと安らかに作るべきとされている。そういう格式を考えて作らねばならず、即興感偶というわけにはゆかない、というのである。
 その場で心に感じたことを、そのまま詠むことを即興感偶という。即興は、折にふれてものに感じたときの面白み、感偶は、正しくは偶感で、ふと起こった感想の意である。

 次の場面は、元禄七年の夏、芭蕉が去来の落柿舎に滞在中のことである。
 芭蕉は、またも去来に教え諭すように、
 「其角やお前さんの言うのは、みな理屈というものだ。わたしは、ただ、朧のために桜の花よりも松の方が、もっとぼんやりと見えたのを、おもしろいと感じて句にしたまでだ」
 と、言われた。

 ――これが、芭蕉先生の結論である。つまり、本来くっきり見えるはずの松が、淡い桜の花よりも、もっと朦朧(もうろう)としている意外性の美を発見したのだ。
 芭蕉の眼前にあるのは、自然が演出したアイロニー、すなわち意外性の美である。これが、句を成り立たせているポエジーの核心。一般の予想や常識的な見方の裏をかき、新鮮な世界を開いて見せるのがアイロニーの詩法だが、これは俳句に限らず、詩本来の手法と言ってよい。

 発句は、理屈ではない。芭蕉が、「ただ眼前なるは」と言っているように、
     眼前のものに、意外性の美を発見し、新鮮な世界を開き、
     自分の実感をよりどころにして言葉を探り、
     自分の感動のまったき表現を、
     五・七・五のリズムにのせ、
     季節を表す言葉「季語」を入れ、
     切字(きれ)が不可欠
 なものを、「発句」というのである。
 これは現在の「俳句」にも十二分に通じることである。これらのことをしっかりと腹の底におさめつつも、これらにとらわれることなく、自由な心で、楽しく句を詠めばいいのである。
 初心のうちは、知識や礼儀作法をしっかり覚えて守る。けれども、上達したなら、蓄えたものを忘れてゆくことは、もっと大切。
 理屈はどんどん忘れていって、空っぽの状態になったとき、その人は、内なる自由を獲得できる。つまり、変幻自在に独創的な句が詠めるということだ。


      日のさかり歩いて谷中根津あたり     季 己

『去来抄』2 辛崎の

2011年08月18日 00時03分09秒 | Weblog
        辛崎の松は花より朧にて     芭 蕉


 ――とらわれの心のない人は、誰に対しても自由でいられる。ただ微笑んで……


     お手紙ありがたく拝見しました。
     お元気とのこと、何よりです。
     大津滞在の折には、ゆったりした時を過ごさせていただき、大変うれしう
    ございました。
     ところでお願いなのですが、貴僧のお住まいの、本福寺別院で詠みました
    愚句を、つぎのようにお改めください。
      辛崎の松は小町が身の朧 → 辛崎の松は花より朧にて
      何とはなしに何やら床し菫草 → 山路来て何やらゆかしすみれ草
     このように、旅の途次に詠んだ句が五十三句ありますが、随時、推敲して
    いこうと思っています。
     あなたの御句「夏萩の此の萩いやかほととぎす」が、論争の種になっている
    ようですね。論争するのも俳諧修業の道ではありますが、必要以上に論争を
    することは、わたしの好むところではありません。不必要に論争せずに、適
    切にやってください。
     あなたが寄せた其角宛書状については、重ねて其角本人から返事がいくこ
    とでしょう。嵐雪は近頃、主君 井上相模守に随行して、越後高田に出張中
    ですので、あなたのお手紙は、まだ本人に届いていません。
     何やらかにやら、まだ取込中なので、積もる話は山ほどありますが、暇が
    ないので用件のみにて失礼します。
     渋谷与茂作殿から書簡があり、貴僧がお元気だということがわかりました。
       以上  五月十二日   芭蕉桃青


 この千那(せんな)宛の手紙にあるように、「辛崎の松は花より朧にて」の句は、貞享二年(1685)三月中旬、『野ざらし紀行』の旅で大津滞在中の作である。
 「湖水の眺望」という詞書があるこの句は、

        辛崎の松は小町が身の朧
        辛崎の松は花より朧かな
        辛崎の松は花より朧にて

 と三度の推敲を経て決定したようである。
 芭蕉はなぜ、「小野小町」を「花」に変えたのであろうか。
 山本健吉氏のすぐれた評釈があるので、それを見てみよう。

     いい課さないところに現実と幻想との交錯する濃淡複雑なイメーヂが
    生れてくる。小町の幻想は消えても、この「花」は幽艶な情緒を生み出
    している。この「花」が言葉としてはありながら、具象としてはない。
    しかも詩的イメーヂとして存在するという重層的な性質に、この句の魔
    力がかかっていると思うのである。(『芭蕉その鑑賞と批評』)


 ――ある俳席で、伏見の名の知れた俳人が、芭蕉のこの句に対して、
 「連句の発句は必ず“云ひ切るべし”という教えのあるとおり、切字が必ずあるべきである。それなのに、この句は「にて留め」になっていて、切字がない。そこが欠点であると思う。それとも、名人ならば許されるのでしょうか」
 と噛みついた。
 それに対して其角は、
 「連句の第三句目は、ふつう、“て留め”や“にて留め”を多く用います。“にて”には、詠嘆して軽く切る意があり、“かな”に通用するので、“かな留め”の発句の場合は、連句の第三句目の終わりを“にて”で留めることを、嫌うことが多いのです。
 この句の場合、“かな”とすると句調の上で切迫した感じがするので、“にて”と余韻を持たせるように留めたものと思います」
 と評した。(つづく)


      白桃のしづく六根自在かな     季 己

あやしき

2011年08月17日 00時10分49秒 | Weblog
        飛入の力者あやしき角力かな     蕪 村

 「あやしき」が、この句の眼目である。「人間業ではない」という村人の、ひたすらな驚歎ぶりがユーモラスに、しかも俗臭を帯びないで言い表されている。
 しかも、この語はまた、「力者(りきしゃ)」が忽然(こつぜん)と出現したさまを伝えている。
 村相撲は普通、かがり火を焚いて夜催す。そこへ文字通り「闇から現れた男」とでもいうように、不可思議な男が出現して絶技を振るうところに、村人にとっては、一種の気味悪さが覚えられるわけである。

 季語は「角力(すもう)」で秋。「角力」は、夏場所をいう場合と、村相撲、草相撲をいう場合とがある。

    「毎夜、村の若者が辻に集まって、角力を催している。近隣の者ばかり
     なので、誰が強いかの相場もおおよそ定まっている。ところがある晩、
     かつて見かけない若者が飛び入りで土俵に現れ、力自慢の連中を
     片端から手玉にとって翻弄(ほんろう)した。どこの者だろう、どういう
     素性の奴だろう、あまりに水際だった勝ちぶりに、村の連中はただ
     あっけにとられている」


      寺坂ののうぜんかづら奉加帳     季 己