壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

夜の鹿

2010年10月31日 22時07分48秒 | Weblog
        びいと啼く尻声悲し夜の鹿     芭 蕉

 元禄七年九月八日、支考・惟然・次郎兵衛らとうち連れて、芭蕉は奈良に入った。その夜の三更(午前零時)ごろ、猿沢の池のほとりを逍遥した折の作である。
 鹿の啼きように聴き入り、「びいと」という擬声語や、「尻声」のような俗語を駆使して、古来、和歌に詠まれた優雅な鹿の情趣を超えた、新しいもの悲しさを引き出したところが眼目になっている。そこに〈軽み〉の実践もあったのである。

 月光の冴えた神苑のあちらこちらに鹿が妻を呼ぶ、糸を引きのべるような細くもの悲しい尻声を引いているのが、健康の衰えのいちじるしい芭蕉の身に、ひとしおあわれに響いたものであろう。「夜の鹿」であるから、鹿の姿は視覚には入っていないので、いっそう、その声の哀切さが加わるのである。

 「尻声」は、あとへ引く声。「物売りの尻声高く名乗り捨て―去来」(猿蓑)の例が参考になる。

 季語は「鹿(の声)」で秋。『篇突』に、
        「鹿と云ふ物も歌の題にて、俳諧のかたち少し。びいとなく
         尻声の悲しさは、歌にも及びがたくや侍らん。南都の鹿は、
         紅葉踏み分くる姿は少し。……」
 とある。「妻呼ぶ鹿」そのものの情感を、その夜に即して把握したところが、この句の発想の眼目である。

    「牡鹿の、びーいと声を長く引いて牝鹿を呼ぶ声が、闇夜の彼方から
     まことにもの悲しく聞こえることよ」


      剥落の秘仏拝むや鹿の声     季 己

遊行柳

2010年10月30日 21時20分20秒 | Weblog
          遊行柳のもとにて
        柳 散 清 水 涸 石 処 々     蕪 村

 漢字ばかりのこの句、「やなぎちり しみずかれ いしところどころ」と読む。
 
 宰町、宰鳥と号していた一種の習作時代を脱して、蕪村と改号した自覚期に入ってから後の初期の作品である。しかも彼の一生の芸風をはやくも暗示規定した、俤のある点で非常に意味ある一句と思われる。このとき、蕪村は三十代の初めであった。
 彼は宝暦年間(1751~1764)、三十代の半ばにしてすでに、当時の俳家の作品および実生活上での沈滞堕落を慨嘆して、己こそ、この間にあって雄才他日必ず功をなすもの、との毅然とした自信を述べうる域に到達していた。事実、宝暦年間には、
        夏河を越すうれしさよ手に草履
        春の海終日(ひねもす)のたりのたり哉
 などの名作をものし得ているのである。
 ちなみに、蕪村の芸境は、彼が五十代の半ばに一応完成し尽くしたと見るべきであろう。その後十年間、洗練円熟を加えつづけたが、根本の心境そのものには、大きな変動進展がなかったと考えられる。

 芭蕉没後、幽玄の道を曲解した観念的遊戯に充ちていた当時の俳壇の中に据えてみるとき、この一句は、清新そのものともいうべき画期的意義を帯びるのである。和漢の教養に基づく文人的雅懐を、感覚を透す手法によって、自家独特の詩情へ構成する蕪村の態度が、すでにこの句にはっきりと現わされている。

 「遊行柳」は、下野蘆野(しもつけあしの)の里にある。謡曲「遊行柳」の伝説によって有名。
 西行の歌に、
        道のべに 清水流るる 柳かげ
          しばしとてこそ 立ちどまりつれ (新古今集)
 と詠まれ、後、芭蕉の『奥の細道』中に、
        田一枚植ゑて立ち去る柳かな
 と詠まれてさらに有名となった。

 「清水涸石処々」は、春風馬堤曲中にも「渓流石点々」の句があるが、もちろん蘇東坡の後赤壁賦の「水落石出」にきざしている。蕪村の教養人的要素を示すものであって、几董が『蕪村句集』中に、仮名を交えず漢詩のように誌したのも、そこを察しての上である。
 リズムの上からは一応、「5」「5」「8」というように区分され、その点、破天荒な新形式である。また、三つの部分に切り離したがために、柳、水、石と分散したようになった冬ざれ近い景色の、明るくも寂しい気息が如実に伝えられている。ここに、はやくも蕪村の感覚的客観描写の傾向が、明らかに示されている。

 季語は「柳散」で秋。

    「名高い遊行柳のもとに来てみれば、ここも折からの冬近い寂しい景色。
     柳はおおかた散り果て、“道のべの清水”も水が涸れ、河床から石が乾
     いた頭を、点々とのぞかせている」


      『たけくらべ』の町いとしめば柳散る     季 己

落穂拾ひ

2010年10月29日 23時19分21秒 | Weblog
        落穂拾ひ日あたる方へ歩み行く     蕪 村 

 いかにも技巧のない、しみじみとした句である。
 「日あたる方へ」というので、山陰・森陰などが、田の面の手前半分へ落ちて、その範囲をうすら寒くしていることが想像される。
 現代のわれわれは、「落穂拾い」というと、ミレーのあの画面を想い起こしがちであるが、あれは全面日向の明るさにあり、遠方などは大農式の賑やかさに満ちている。この句はもっと寂しく、日本的な小景である。

 「ろひ」「あたる」「たる」「ゆみ」の調べも、一句に落ち着きの感を与えている。
 上五「落穂拾ひ」の一音の字余りも、その者のたどたどしい動作に、かえってふさわしい。

 季語は「落穂拾ひ」で秋。

    「刈田に独り、落穂を拾っている者がいる。拾いつづけながら、しだいに
     遠方の日の当たっている、明るい所へと近づいてゆく」


      泣きじやくる子の手 落穂も夕冷えて     季 己 


            

履(くつ)の底

2010年10月28日 22時27分16秒 | Weblog
            元禄辛酉之初冬九日、素堂菊園之遊
          重陽の宴を神無月のけふにまうけ侍る事は、
          その比は花いまだ芽ぐみもやらず、「菊花開
          く時則ち重陽」といへるこころにより、かつは
          展重陽の例なきにしもあらねば、なほ秋菊を
          詠じて、人々をすすめられける事になりぬ
        菊の香や庭に切れたる履の底     芭 蕉

 発想の契機はもちろん、菊の咲いた庭のとりつくろわぬ風情にあるが、そこに隠君子の風格を持つ主に対する挨拶の気持もひそんでいる。
 主の素堂が、漢学の素養ゆたかな隠士であったから、文にもそういう点に対する配慮が見え、句でも「履の底」というような唐(から)めいた用意が加わっている。
 「菊」と「君子」では純然たる唐風であるが、「履の底」に俳諧を見つけているのである。「履の底」は、市井の姿を漂わせているのであって、いたずらなる気品の強調がないのは、“さび”を体得したところから句が生み出されているからであろう。

 干支の「辛酉(しんゆう)」は正しくは「癸酉(きゆう)」で、元禄六年。したがって、句の年代は元禄六年十月九日。
 「素堂」は山口氏、信章。葛飾派の祖。
 「重陽(ちょうよう)」は九月九日。
 「その比(ころ)」は、重陽のころをいう。
 「菊花開く時……」は蘇東坡の詩句。
 「展(てん)重陽」は、宮中の重陽の宴を国忌などのため、延期して残菊の宴の時に行なうこと。
 「なほ」は、初冬の十月にもなお、の意。
 「履の底」は、古草履(ふるぞうり)などの裏返しになったのを指しているのだが、唐めかして「履(くつ)」といったもの。履は、もと革製の履き物。

 季語は「菊」で秋。前書にあるように十月(冬)の作であるが、「菊花開く時 則(すなわ)ち重陽」の心で、秋として作句している。「菊の香」の高雅な感じが、「履の底」によって、みごとな効果をあげている。

    「菊花の遊びに、素堂の庵に招かれたところ、菊は今しも盛りで、
     香が庭に充ち満ちている。見ると、履物の切れたのが、裏返しに
     なって散らかっているが、物にかまわぬ主人の風格を通して、閑
     静のさまがうかがわれて、かえって、ゆかしいことだ」


      菊の香のかすかに雨月物語     季 己 

月見

2010年10月27日 22時47分42秒 | Weblog
        雲をりをり人を休める月見かな     芭 蕉

 月の清澄なようすを裏からたたえたもので、西行の
        なかなかに 時々雲の かゝるこそ
          月をもてなす かぎりなりけれ (山家集)
 を心にして詠じたものであろう。
 しかし、その踏まえ方は、詞句を取るという域をはるかに超えて、月を見るにあたっての情趣を取り入れている。

 「休める」は、
    ①心身を安らかにする。おだやかにする。
    ②安心させる。慰める。
    ③動いているものを止める。
    ④事を止めて休息させる。
 などの意味がある。ただし、語法的には、「休める」ではなく「休むる」の方がよい。

 季語は「月見」で秋。型にはまっているが、やわらかみを生み出しているところが注目される。

    「今宵の月は、清光限りなく、見入っているうちに心奪われて、
     われを忘れるくらいである。しかし、ときおり雲が過ぎて、その
     雲が月を隠している間は、われにかえってほっとすることだ」


      猫が塀ふみはづしたる月見かな     季 己

聖武天皇御製

2010年10月26日 22時35分22秒 | Weblog
                   聖武天皇
        おほの浦の その長浜に 寄する波
          ゆたけく君を 思ふこのごろ  (『萬葉集』巻八


 この歌は、遠江の国守、桜井王が聖武天皇に奉った歌、
        ながつきの その初雁の 使にも
          思ふ心は 聞こえ来ぬかも   (『萬葉集』巻八)
 に対して、天皇が下された歌である。
 遠江の国にいる桜井王が、
    「長月になって初雁がやって来るようになったが、君からのおたよりは一向に
     届いてこない。わたしのことなどお忘れになったのでしょうか」
 と、恨みをかるく訴えたのに対して、天皇が下し賜った歌である。

    「あなたの今いる遠江の国府(磐田市見付)の南にあたるおほの浦の、その
     長い海岸に寄せてくる波。その波がゆったりと寄せて来ている。それでは
     ないが、おおらかな気持であなたのことを思っている、今日この頃である」

 「ゆたけし」は、ゆったりとしている形容だが、揺れ動く意味があり、いつも、海・波・汐・船・浮くなどと、縁語のような関係で現れる。不安な動揺ではなく、のんびりとくつろいでいる状態をいう。
 したがって、「ゆたけく君を思ふ」とは、あなたがわたしに求めるような、心が一途に思っている状態ではなく、のんびりうつらうつらと思っている、というのである。
 このような返歌は、いかにものびやかな天平の宮廷ぶりである。主として、天皇や皇后の歌に、こういう闊達な、天衣無縫の詠み口は現れる。


 ――「正倉院の宝剣1250年ぶり確認」と、読売新聞は一面トップで報じた。
 東大寺・大仏殿の大仏の下から明治時代に見つかった国宝・金銀荘大刀(きんぎんそうのたち)が、1250年間、所在が確認されていなかった正倉院宝物の大刀「陽寶劔(ようのほうけん)」「陰寶劔(いんのほうけん)」だとわかった。
 陽寶劔、陰寶劔は、聖武天皇(701~756年)の遺愛品で、妻の光明皇后(701~760年)が献納した後、正倉院から持ち出され、〈幻の宝剣〉となっていたという。
 陽寶剣、陰寶剣は「国家珍宝帳(こっかちんぽうちょう)」記載の、大刀100本の筆頭に記され、最重要の刀とされる。
 この金銀荘大刀が、東京・上野の東京国立博物館で開催中の特別展「東大寺大仏―天平の至宝―」に出品されている。12月12日まで。
 10月10日にじっくりと観て、図録とフィギュア2体まで買ってきたが、あと2~3回は通うことになりそうだ。      

      陰陽の寶劔とかや霧月夜     季 己
     
 

稲架(はざ)

2010年10月25日 21時02分45秒 | Weblog
        新藁の出初めて早き時雨かな     芭 蕉

 伊賀は山中の土地であるから、時雨も早いのであろう。稲刈が終わると、今年の新藁が出初める。それと同時に、時雨がやってくる。その感じを確かに把握したものである。
 新藁の真新しい匂いと時雨の冷え冷えした感じとが、伊賀の山国の感をしみじみと湛(たた)えている。伊賀の季節のあわただしさ侘びしさをかみしめ、故郷のそれとして懐かしむ心のさまである。
 『蕉翁全伝』に、「ふと言ひてをかしがられし句なり」というのは、「即興の句であるが、風情の感じられる優れた句である」という意味であろうが、目に浮かぶような言い方である。

 「新藁」は、その年の稲から得られた藁をいい、秋の季語。「今年藁」ともいう。これが季語として働く。「新藁」は、芭蕉の使いはじめた言葉のようで、当時は「わせ藁」といっていた。
 「早き時雨」は、いちはやく暮秋のうちにおとずれた時雨(しぐれ=秋時雨)をいったもの。「時雨」そのものは、もともと冬季のものである。

    「この伊賀の山中では、稲刈が終わり、新藁が出はじめると、早くも
     時雨がやってくる。まことにあわただしい季節の移りかわりである」


 ――刈取られた稲は、木や竹で組み上げた横木に掛け、乾燥させることが多かった。西濃・北近江では、そのために畦に「榛(はん)の木」が植えられていた。立木に掛ける方式である。

 「榛の木」といえば、過日、「画廊宮坂」で開かれた『平野純子 展』の作品「ほとり」が、今でも忘れられない。これからも「榛の木」を見るたびに、「ほとり」と平野さんのあたたかい心とを、想い起こすことであろう。

 また直接、稲束をもたせ合って地上に立て並べる仕方もあり、脱穀の終わった新藁を冬中、田の隅に積んでおくのも風習であった。
 地方により、これにもいろいろな方法があり、秋の旅の見どころの一つとして面白い。

      稲架とかれ美濃の榛の木高くあり     季 己

穂蓼

2010年10月24日 22時17分13秒 | Weblog
        甲斐がねや穂蓼の上を塩車     蕪 村

 武田信玄と上杉謙信との故事にもあるとおり、甲斐は山国であるために、他国から絶えず塩の供給を仰がねばならない。ここへ塩車を登場させることは、不自然ではない。塩車が分けつつ行くものも、他の草よりは蓼にした方が、塩の白と、この花の赤との色彩上の対照が生じて、生き生きとする。
 「甲斐がねや」と、いくつもの峻峰の姿を背景に描き出したのであるから、山間とはいえ、比較的明るく開けた場所と解したい。

 「甲斐がね」は、『古今集』の東歌に、
        かひがねを さやにもみしが けゝれなく
          よこほりふせる さやの中山   ※「けゝれ」は「心」に同じ。
 があり、後人はこれを富士山と解釈している。
 しかし、『伊勢物語』では「甲斐がね」は、甲斐の白峰(しらね)の意味であり、西行の歌中のそれも同じく白峰である。
 したがって、この句にあっては、富士・白峰などの特定の山を指さずに、ただ甲斐にあるさまざまの峻嶺というように、広い意味に取った方が、一句を自然な味わいの中に保つことが出来るように思われる。

 季語は「穂蓼」で秋。単に「蓼」というときは夏季に属し、「花蓼」(蓼の花)・「穂蓼」(蓼の穂)というときは、秋季に属するようである。

    「どちらへ目を向けても、峻峰ばかりのそびえ立っている甲斐の国。
     とある甲斐の道を、いま真っ白な塩を積んだ車が、赤い花穂を茂ら
     した蓼叢(むら)をしのいで、上ってゆく」


     蓼の花 雲やはらかに筑波嶺へ     季 己

菊の花

2010年10月23日 23時02分56秒 | Weblog
        稲扱の姥もめでたし菊の花     芭 蕉

 『笈日記』他によれば、近江国平田明照寺(めんしょうじ)に李由(りゆう)をたずねる途中、服部某に導かれて、付近の北村某の家を訪い、宿したときの作。その家の庭前にある菊と、その傍らで稲扱(いねこき)をする、すこやかな姥(うば=老女)とを結びつけて、挨拶の意をこめて詠んだものである。
 菊の花は、例の、南陽県の甘谷の下流の水を汲むと、長寿を保つという中国の故事もあって、めでたい花とされる。菊と長寿を結びつけた発想は、俳諧としてはむしろ陳腐なものである。けれどもこの句では、長寿延齢の縁が一句の裏にひそめられてしまって、菊の花そのものが旧家の庭前の生きた姿としてとらえられている。元禄四年の作。秋の句なので九月ごろか。

 「稲扱」・「菊の花」ともに秋季。ここでは「菊の花」が主として働き、菊そのものの感じを生かしている。

    「庭前には、齢(よわい)を延べるという菊の花が咲き匂い、それに
     ふさわしく稲扱の媼(おうな)がすこやかに働いていることよ」


      足弱の母の咲かせし黄菊かな     季 己

木の実

2010年10月22日 22時55分34秒 | Weblog
          恕水子別ショにて即興   
        籠り居て木の実草の実拾はばや     芭 蕉

 別宅の閑雅のさまに心惹かれることを通して、恕水への挨拶の句としたものである。
 『奥の細道』の長い旅をいま終えて、雨に打たれ、風にもまれた心身の疲れを、恕水の別宅で懇ろなもてなしを受けながら、静かに癒している感じが出ている。
 もちろん、木の実・草の実を拾うところには、『方丈記』に、
        帰るさには、をりにつけつつ、桜を狩り、紅葉を求め、
        わらびを折り、木の実をひろひて、かつは仏にたてま
        つり、かつは家づととす。
 などとある古人のおもかげにならう心が強くはたらいている。それが重い体験のあとの必然として、素直なつぶやきとなって流れ出ている句である。

 「恕水子」の「子」は敬称、恕水は如水とも書く。戸田氏、通称 権太夫。家老格の大垣藩士。
 「別ショ」は別宅の意。(「ショ」は、「野」の下に「土」)
 「拾はばや」は、拾いたい、あるいは、拾おう、の意。
 『方丈記』中の、「帰るさ」は、帰るとき、の意。
 「かつは……かつは……」は、一つは……し、もう一つは……、の意。
 「家づと」は、家へ持ち帰る土産(みやげ)。

 季語は「木の実」で秋。後には「草の実」も秋季とされる。「木の実」も「草の実」も、風雅の趣をあらわすものとして使われている。

    「このしずかな別宅にしばらく籠り、古人にならって、庭の木の実や
     草の実を拾って、閑をたのしませてもらおう」


      木の実降る音のはづみも百度石     季 己

姨捨山(おばすてやま)

2010年10月21日 22時37分43秒 | Weblog
          姨捨山
        俤や姨ひとり泣く月の友     芭 蕉

 「俤(おもかげ)や」と打ち出して、「姨(おば)ひとり泣く月の友」と表現してあるところから見て、中七以下は「俤や」の内容、つまり述語に当たるものであろう。そうすると、想は現実の月から離れてしまうようだが、決してそうではない。
 この俤は、現実の月によって描かれたものであり、俤の中の月と、現実の白く清らかな月とは、互いに相照らし合っているのである。そういう意味で、姨の俤が、わが今宵の月の友であるの意ではなくして、姨が月のみを友としてひとり泣いている俤を、芭蕉が澄みきった月下に思い描いているものと解したい。『雑談抄』によれば、芭蕉会心の作という。貞享五年八月十五日の作。

 「俤や」は、謡曲「姨捨」の一節を心に置いて、月を仰ぎつつ、物語の中の捨てられた姨の俤を、心に思い描いているのである。

 季語は「月の友」で秋。「月の友」は、共に月見をする友、あるいは月見に招いた客の意で使うようだが、連歌書にすでに見える季語で、しばしば「月を友」と並べられる。ここでも、月を親しく眺めるもの、月を友とすることなどの気持で用いているのであろう。姨捨の月の明るさに、姨捨伝説と結びついた幻想を生かした発想。

    「姨捨の月を仰いでいると、遠い昔、この山に捨てられてただ一人、月の下に
     月だけを友として泣いていた、あのあわれな姨の俤が思い出されてくる」


      推敲の師の面影よ灯の親し     季 己

伊勢の墓原

2010年10月20日 17時04分12秒 | Weblog
          伊勢の国 中村といふ所にて
        秋の風伊勢の墓原猶すごし     芭 蕉

 「伊勢」という地名に、特別の意味を感じとるかどうかで、句意が変わる。ここはやはり重く見て、解すべきであろう。
 『山家集』の、
        吹きわたす 風にあはれを ひとしめて
          いづくもすごき 秋の夕暮れ
    (「ひとしめて」は、等しくさせての意。「すごき」は、荒涼として 
     身もすくむような感じであるの意。)
 を心の隅に置いての発想かとも思う。
 『去来抄』には、
        不易の句は俳諧の体にして、いまだ一つも物数寄(ものずき)
        なき句なり。一時の物ずきなきゆゑに、古今に叶へり。
 として、
        月に柄をさしたらばよき団扇かな   宗 鑑
        是は是はとばかり花の吉野山     貞 室
 とともに、この句を不易の句の実例として掲出している。

 伝本により、上五が「秋の風」・「秋風や」・「秋風の」「初風や」「秋も末」などのかたちがあるが、「秋の風」のかたちが、もっとも句の構成を緊密・重量のあるものにするように思う。

 「中村」は、伊勢市宇治の東北、伊勢市中村町。菩提山神宮寺のあるところ。
 「秋の風」が季語。本来の季感を生かして使われている。

    「秋風が吹く中に墓原が広がっている。伊勢は神国と言われ、死の不浄を
     忌むこと甚だしいと聞いているが、その国に見る墓であり、しかも広々と
     した墓原なので、いっそう凄涼たる感じを強くすることだ」


      秋の風ガイド終へたる手をはなれ     季 己 

松風や

2010年10月19日 22時32分44秒 | Weblog
        松風や軒をめぐつて秋暮れぬ     芭 蕉

 「此の道や」の半歌仙が行なわれた「茶店」で、主人の四郎左衛門の求めに応じて与えた作。
 松風が吹きめぐるというのは、その家のさまを讃えているのであり、そこに挨拶の心が生きている。もともと即興的な作であったはずだが、この句にもどこか、深い寂寥感がひそんでいることは確かである。

 「松風や」は、切字「や」を含むが、中七に対して主語となる。『師走囊』に、
        此の松風は実は松風にあるまじ。茶店とあれば、釜のたぎる
        音の松風のごときを、常住 軒をめぐると聞きなして、生涯
        茶を楽しみて秋を経たりとなり。
 とある。松風は、現実の松籟(しょうらい)とすべきだが、茶の湯との連想は必ずしも捨てきれない。
 「軒をめぐつて」は、松が軒近くにそびえているのに即して、言ったものであろう。なお、「松風の軒をめぐりて」の形も残っているが、「めぐりて」よりは、「めぐつて」の方が軽快である。『笈日記』により、元禄七年九月二十六日の作。
 芭蕉はこの年、九月十日に之道宅で発病。十月五日、病床を大坂御堂前、花屋仁右衛門方の貸座敷に移す。十月八日「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」を詠む。十月十二日、午後四時ごろ没。

 四郎左衛門は、名高い、大坂新清水の料理茶屋浮瀬(うかむせ)の主人。新清水は、大阪市天王寺区の台地。寛永年間、京都清水寺を勧請(かんじょう)した。

 「秋暮れぬ」が季語になっている。古くは「秋暮れて」のかたちで季語として見える。「秋果つる」ともいう。心象的なものが薄く、景に即する面がつよい使い方である。

    「この座敷に坐して耳を澄ますと、松風が軒のあたりを静かに吹きめぐって
     いる。ただ、そうそうと吹き過ぎる松籟の中に、今年の秋もまさに過ぎよう
     としていることを、しみじみと感ずる」


      CTの検査待つ間や暮の秋     季 己

声澄みて

2010年10月18日 21時10分04秒 | Weblog
        声澄みて北斗にひびく砧かな     芭 蕉

 砧(きぬた)そのものに即して詠み、聴覚と視覚とに同時に澄み入るものが感じられる。
 「音澄みて」といわず「声澄みて」としたのは、李白の「長安一片ノ月、万戸衣ヲ檮(う)ツノ声」(子夜呉歌)などが心にあった発想であろう。
 また、『和漢朗詠集』には「北斗星前旅雁ヲ横タフ、南楼月下寒衣ヲ檮ツ」(劉元叔)があり、この冬、伊賀での歌仙の発句に「霜に今行くや北斗の星の前  百歳子」がある。

 この句、『都曲(みやこぶり)』(元禄三年二月跋・言水編)に「京 芭蕉」と入集(にっしゅう)しているが、他に出ているのを見ない。元禄二年、もしくはそれ以前の作。

 「北斗」は北斗七星のこと。

 季語は「砧」で秋。「砧」は、布を打つ木や石の台、キヌイタの略という。布や洗濯物を打って、つやを出したりやわらかにしたりするもの。砧そのものの味わいを生かす。ただし、場面は想像されたもののような感じがある。

    「秋の夜、砧を打つ音が澄んでいて、仰ぐと北斗星があざやかにかかっている。
     北斗星を仰ぎつづけていると、その砧の音が北斗星に響くように感じられる」


      狛犬のこゑか鎌倉星月夜     季 己     

此の道や

2010年10月17日 22時14分17秒 | Weblog
          所 思(しょし)
        此の道や行く人なしに秋の暮     芭 蕉

 「秋の暮」の句から「所思」の句へと、深化・推敲されていった作品である。
        「此の道を行く人なしに」
             ↓
        「此の道を行く人なしや」
             ↓
        「此の道や行く人なしに」
 という推敲の過程をたどったものと思われる。この間に、「行く人なし」を中心とするところから「此の道」を眼目するところへ変わってゆき、「此の道」が、人生とか芸道とかを象徴するものとして、決定をみるに至ったものである。
 この句は、芭蕉の心象風景といってよく、つぎつぎと遙かなものを追い求めて歩みつづける作家の孤独の影が、ここには刻まれているのである。そして、その寂寥・孤独については、芭蕉の身体の急速な衰え、また、先ごろの寿貞の死、さらには、江戸蕉門の逸脱、尾張蕉門の疎隔、伊賀蕉門の停滞、難波蕉門の内輪もめ等々に加えて、俳諧の工夫の到達点であるはずの〈軽み〉に対する主要門人の無理解といった、芭蕉をめぐる諸事情はやはり見過ごすことは出来ない。

 この句の初案は、九月二十三日付の書簡に初めて出るが、そのいわば古い句を推敲を加えた上で、別案と並べて二十六日の俳諧の席に提示したのは、どういう気持であったのであろうか。
 「此の道や」の句は、それが前述したように、象徴の句であればあるほど、立句(たてく=俳諧連句の第一句)向きではなくなるのである。「此の道や」を立句としようとしたとき、芭蕉はこの句に、そのさびしい「一筋」をたどりあう同志としての、連衆の連帯感を読み取ることを期待したのではなかったか。そう読むことによってはじめて、この句は挨拶となりえたであろう、と考えられるからである。しかし、門人たちは、師の心をくみ取ることが出来ず、単なる「秋の暮」の句としか読めなかった。
 芭蕉としては、この句をそのように単なる「秋の暮」の句として放置することは、あまりにも未練を残すことであり、そのために、やや異例の「所思」という前書が加えられたと考えられる。
 『芭蕉翁追善之日記』に、
        「此の道や行く人なしに」と独歩(とっぽ)し給へる所、誰かその
        後(しりえ)に従ひ候はんと申しければ、あそう(注、芭蕉)も、
        吾が心にもさる事侍りとて、是に「所思」といふ題をつけて半歌仙
        ととのほり侍る。
 とある記事は、その辺の微妙な経緯に触れているように思う。

 「所思」は、思うところ、という意。この句が心境を吐露したものであるという前書である。
 「行く人なしに」は、唐詩選にある五言絶句「秋日」が、発想の契機をなしていると見られよう。(一昨日の当ブログ参照)

 季語は「秋の暮」。「行く人なしに秋の暮」と滲透しあって、芭蕉の内奥を象徴するものとなっている。

    「この道は、行く人とてないままに、晩秋の夕暮れのかなたへ延びていて、
     わが人生・芸道の来し方行く末の寂寥・孤独を見るおもいがすることだ」


 ――「秋の暮」は秋の夕暮れ(仲秋のみに用いる)、「暮の秋」は晩秋、という暗黙の了解がある。しかし、動きやすい言葉で、数多い古典句の中にも、その辺が適当に詠まれているのがあるので、鑑賞の際には気をつけたい。上記の「此の道や」もその一つであると思う。

      悲喜こもごも聞く耳二つ暮の秋     季 己