壺中日月

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「俳句は心敬」 (85)すべての風体を学べ①

2011年05月18日 19時41分15秒 | Weblog
        ――ただ一つの風体だけでも、心をこめて修業したならば、
         至極の境地に達することができるでしょうか。

        ――先学に尋ねたところ、次のようにおっしゃられた。
          だいたい、どんな風体でも好き嫌いを言わずに詠むこと
         が、二人といない優れた歌人というべきであろう。
          一つの形、風体のみに固執して、そこから一歩も出ない
         というのでは、あまりにも残り惜しい気がする。

          「君子は、すべての人と親しく交わり、人を選ばない。
         小人は、人を選り好みして、広く交わらない」と、『論語』
         にもある。
          周の武王の行ないを非として首陽山に死んだ伯夷・叔斉
         は、ともに清廉潔白で邪悪を憎む、聖人中の清節である。
          殷の湯王の宰相で、君を愛し国を思うあまり、君を廃立
         した伊インは、聖人中の和合を願った人である。
          孔子こそは、時期を得て、聖人中の聖人といわれるよう
         に、聖を集大成したような人である。
          仏陀は、福徳と知恵の二つを持つ両足尊ともいわれる。
          いま仏教を、小乗・中乗・大乗という三つの段階に区別
         しているが、仏陀自身は、もともと三乗に区別する心など
         持っていないのだ。 (『ささめごと』諸々の歌体を学べ)


 ――十四世紀に入って、二条為世・冷泉為相以来、二条家と冷泉家が対立的歌風になりました。
  正しい風体は一つしかなく、その一つの風体、つまり真体を極めてゆくというのが、二条派の立場です。ですから、「一つの風体だけでも、心をこめて修業したならば、至極の境地に至るか」という質問は、二条派の見解に立てば当然、是認されなければならないはずです。
 けれども心敬は、それが良いとも、悪いとも答えず、もっと広い見地に立つよう望んでいます。
 
 広く、定家の唱えた十体のすべてを学んで、そのうちから自分の性質に最もかなった一体を選んで修業してゆく、というのが冷泉派の立場です。
 心敬の答えもその線に沿ってなされていますが、十体のいずれをも捨てず、すべてを学び取ろうというのが、心敬の態度です。
 その場にあたって常に新鮮で、しかも絶えず時々の変化に応じてゆかねばならない連歌の特質上、冷泉派の見解は、心敬に至ってさらに拡大されたのです。
 一つの見解に固執するのを嫌う、僧心敬として融通無碍の心構えが、人生観の面から、そういう傾向を強力に裏打ちしているのです。
 「かたよらず、こだわらず、とらわれず、広く、もっと広く学べ」と、心敬は言っているのです。


      オリーブ茶すこし濃くする暑さかな     季 己