壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

奥の細道矢立初めの俳句大会

2007年12月28日 23時31分07秒 | Weblog
 今年も余すところ3日となった。
 何もまとまったことが出来なかった、この一年。
 頭は“からっぽ”であるが、はたして、心まで空(から)に出来ただろうか。
 「来年こそは…」「来年こそは…」と思いつつ、無為に毎日を過ごしてしまう。

 さて、その来年であるが、1月20日締切の俳句大会作品募集があるので、お知らせしよう。

   第14回 すさのお神社 奥の細道矢立初めの俳句大会
     日  時  平成20年3月30日(日)
     場  所  すさのお神社 参集殿
     作品募集  雑詠「春一切」 未発表作品2句1組(何組でも可)
     投句料   2句1組 1,000円(小為替または現金書留)
     投句方法  200字詰め原稿用紙に必要事項を記入の上、投句料を同封し、郵送する。
     選  者  主選者;「玉藻」主宰 星野 椿 先生
           (ほか、9名の選者)
     締  切  平成20年1月20日(当日消印有効)
      賞    大賞、荒川区長賞、すさのお神社賞 ほか30位まで
     投句先   116-0003 荒川区南千住6-60-1
               すさのお神社内 俳句大会係
              電話 03-3891-8281

 詳しくは、「すさのお神社」のホームページをご覧ください。

 参考までに、第13回俳句大会の入賞作品の上位3句は、次の通り。
   1位  卒業生校歌の山に登りけり   三重 横山さん
   2位  猪撃ちしあと漢らの寡黙なる  千葉 渡辺さん
   3位  船溜り縫って佃の残り鴨    埼玉 佐藤さん

 腕?に自信のある方も、また、ない方も、ぜひ応募してください。
 「そういうお前はどうか?」と、おっしゃるのですか。
 もちろん、荒川区のために投句しますよ。枯木も山の賑わい、だから。

己が火を

2007年12月26日 22時43分50秒 | Weblog
     もの音のなく立冬の火伏札

     己が火を放つこころの枯草に

     楽譜なす水の流れも小六月

     出雲より恵比須の紙よ酉の市

     大根や千六本も消えゆく語         

サントリー美術館

2007年12月26日 10時58分52秒 | Weblog
 六本木・東京ミッドタウン内のサントリー美術館で、至福のひと時を過ごした。
 通常、火曜日は休館なのだが、今日は[メンバーズ内覧会]ということで、特別に会員のみ、13時30分~15時30分の間だけ入館できる仕組みだ。
 開館から閉館までの二時間、じっくりと、「和モード 日本女性、華やぎの装い」展にひたることができた。
 この日、訪れた会員は、5~60名ほどだったので、好きな作品の前で立ち止まり、心ゆくまで鑑賞できた。ありがたい好企画である。

 サントリー美術館の会員種別は四つあるが、個人では、私も入っている、年会費7,000円の[レギュラー会員]が、おすすめ。主な特典は、
 ① 会員証の提示で、本人と同伴1名まで、展覧会期中、何度でも入館できる。
 ② イヤホンガイド(1台=500円)が、無料で利用できる。
 ③ 展覧会ごとに美術館ニュース(年6回発行)が、送付される。
 ④ 展覧会ごとに1回、通常休館時に行われるメンバーズ内覧会(学芸員の展示解説付き)に、同伴1名まで参加できる。
 ⑤ 図録が10%割引にて購入できる。
 ⑥ ショップでの買い物が、10%割引となる。
 などなどである。
 会期中に何度も足を運ぶ私には、経済的に大助かりである。
 先日終了したばかりの、「鳥獣戯画がやってきた」展には、4回行って、図録も購入しているので、これだけで年会費の元は取れたことになる。
 が、何よりありがたいのは、会員証の提示で即、入館できることだ。
 「鳥獣戯画」展の際にも、40分待ちの行列ができていたが、並ぶことなく、すぐに入れた。並んでいる人たちには申し訳なかったが、「会員になっていてよかった」と、しみじみ思った。

 さて、「和モード」展であるが、
  第1章  小袖の和モード
  第2章  描かれた和モード
  第3章  化粧と嗜みの和モード
  第4章  髪形と髪飾りの和モード
  第5章  文明開化と近代の和モード
 の、5つに分けて、作品が展示されている。

 美術愛好家としては、「描かれた和モード」が最も楽しめた。
 江戸時代の邸内遊楽図や美人図、浮世絵などには、華やかな多くの女性の姿を見ることができる。絵画に描かれた女性の装いを追いながら、小袖や髪形、髪飾りの変遷も、興味深く見られる。
 「髪形と髪飾りの和モード」は、“光頭無毛”?の私にもけっこう楽しめた。

 クリスマスにちなみ、和モード展と同時に、サントリー美術館所蔵の《花鳥螺鈿蒔絵聖がん》の聖母マリアと幼児キリスト像が出ているのが、うれしい。
 この像に、同館蔵の《秋冬花鳥図屏風》を取り合わせているが、これは少々、こじつけに感じられる。
 「雪の積もった松や檜、槙の木が描かれており、松の下には赤い花をつけた椿が、地面には赤い実をつけた藪柑子も見えます。常緑樹の緑と、椿や藪柑子の赤はまさにクリス・マスカラー。雪の積もる松をクリスマス・ツリーに見立てた取り合わせです」と、解説にはあるのだが……。

 クリスマス・ツリーに用いられる樅にも、日本の正月の門松にも、背景には、冬の寒さにも衰えない常緑樹の生命力を尊ぶ信仰があるのだと知り、感動を覚えた。

 帰りに、東京ミッドタウン内のイベントホールで、CANTUS(カントゥス)のイノセントな響きの、エーデルワイスやクリスマス・ソングのメドレーを聴いた。
 CANTUSというのは、グレゴリオ聖歌やミサ曲などから、現代音楽まで、ふだん聞かれることの少ない合唱曲を、無伴奏で歌う、20代の女性8人で構成されている合唱隊。
 今日は、メンバー8人のうち5人の出演であったが、まっさらな歌声は、クリスマスの夕べの大気を輝かせ、聴く者の心を解放し、無にしてくれた。

 眼と耳とで、十二分にクリスマスを楽しんだ一日であった。


 ※ これは昨日、12月25日のものです。昨晩、投稿に失敗して、消失してしまったため、今朝、あらためて書き直しました。

護摩札

2007年12月24日 21時56分32秒 | Weblog
 成田山深川不動堂へ行った。
 母の代わりに、御護摩札を受けるためだ。

 護摩とは、梵語のhomaに由来し、不動明王を本尊として、護摩壇を設け、いろいろな供物を捧げ、護摩木を焚いて、息災・増益・降伏などを祈る、真言密教の秘法である。
 古くからインドで行われていた祭祀法を採り入れたもので、智慧の火で、煩悩の薪を焚くことを象徴するという。
 この護摩修行を通して、われわれの煩悩を、不動明王の智慧の炎によって焼き尽くし、われわれの願いが清浄な願いとして祈られた証として、目に見える形に現したのが護摩札である。
 智慧の炎によって清められ、願いの記されたた護摩札は、不度明王の霊徳を宿し、不動明王そのものを象徴しているという。

 酉年の母は、酉年の守り本尊といわれる不動明王を信じ、成田山新勝寺から受けた不動明王を祀り、毎朝、ご真言を唱えている。
 未年の私は、彫刻家であり、仏師でもある小野直子先生にお願いし、楠の霊木で大日如来を彫っていただき、朝晩、般若心経・光明真言を唱えている。

 クリスマスイブに、護摩札の話。やはり私は変人か。
 

梅が香に

2007年12月23日 23時42分31秒 | Weblog
     梅が香にのつと日の出る山路かな   芭蕉

 早春の山路の景色を詠んだ佳句である。
 ところで、この句を、「梅の香にのつと日が出る山路かな」としたら、どうなるだろうか。
 この句は当時(元禄七年=1694年)、「のつと」が評判になり、芭蕉の弟子たちも「くわつと」、「すつと」などと濫用した、ということだ。

 むしろ、私は、この句から、「の」と「が」の使い分けを学びたい。
 ということで、つぎの(   )に「の」または「が」を入れて、俳句を完成させてください。句はすべて、今は亡き某俳人のものです。

    ① 川(   )ある田圃よぎりて初大師
    ② 白菜(   )割つて干しある祇園かな
    ③ お向ひの婆(   )ぽつぺん吹きなさる
    ④ 火の色の房(   )からんで花団扇
    ⑤ 記念樹の白梅けふは母(   )見て

 頭の体操と思い、ぜひ、楽しんでやってみてはいかが。

絵のタイトル

2007年12月22日 23時37分21秒 | Weblog
 絵のタイトルは、どのようにして決めるのだろうか。
 絵が先か、タイトルが先か。
 おそらく、描きあがってからつけるのが多いと思うが、どうであろうか。

 「ストールの裸婦」、「思い」、「ストールをまとう裸婦」、「感」、「希う」、「想い」、「青いワンピース」、「ひととき」、「かなた」、「惟る」。
 以上は、『木原和敏個展』の作品タイトルである。
 「ストールの裸婦」、「ストールをまとう裸婦」、「青いワンピース」の3点は、誰が見ても、解りすぎるくらい解るであろう。
 問題は、これら以外の作品のタイトルだ。
 「感」と「希(こいねが)う」は、どう違うのだろうか。見るではなく、よく観れば、「希う」のほうが「感」より、何かを望んでいるように感じられる。
 「ひととき」と「かなた」では、目線が若干違っている。「かなた」は確かに、はるかかなたを望んでいるように観える。
 では、「惟る」と「想い」「思い」とは、どう違うのか。「惟(おもんみ)る」とは、“よくよく考えること”だからと思って観れば、そう観えなくもない。
 だが、「想い」と「思い」になると、もうわからない。「想像」と「思考」と言う熟語を思い浮かべれば、言葉のうえでの違いはわかるが、絵の違いはわからない。
 
 多分、木原先生に尋ねても、「フィーリング、直感ですよ」と、にっこりされるだけだろう。
 そう、静かに、心を無にして、作品の前にたたずめばよいのだ。そして、作品を購入できれば、もっといいのだが…。
 今回の個展に限って言えば、「青いワンピース」、「ストールをまとう裸婦」に木原先生の強い思い入れを感じた。

画廊宮坂

2007年12月21日 23時55分41秒 | Weblog
 また、画廊宮坂に来てしまった。今週、2度目だ。
 「木原和敏個展」は、好評のようで、案内のハガキがなくなっていた。
 初日は、青森、広島から、この個展を見にこられた方がいたが、今日も、三重からこられた方がいた。
 画廊宮坂に来ると、いろいろな方にお目にかかれて、至福のときがすごせる。またおいしいコーヒーまでいただけるのだ。
 今日、最高にうれしかったのは、日展会員・池田清明先生のモデルをなさっている、先生のお嬢様にお目にかかれ、お話が出来たことだ。
 もちろん、木原先生とのお話も楽しいが、やはり美しい女性のほうが…。

 明日は用事があるので、あさっての最終日に、またまた行くぞ、画廊宮坂へ。

無言を強いる

2007年12月20日 23時23分27秒 | Weblog
 「フィラデルフィア美術館展」を観てきた。
 “ルノワール、モネ、ゴッホ、セザンヌ、マティス、ピカソ…、美のオールスター47作家、奇跡の饗宴!”という宣伝文句にのせられて、というのは10月のことで、今日は3回目の鑑賞だ。
 なぜ、3回も観たのか、自分でもわからない。しいて言えば、宣伝文句にある6名+ルオーの作品が観たかったからだ。

 マティスの『青いドレスの女』を観ては、これを秋山俊也君が描いたら、どうなるだろうかとか、ルノワールの『ルグラン嬢の肖像』と木原和敏作品とを、重ね合わせて想い描くとかするのだが、どこが、どういうように、いいのか、言うことが出来ない。
 いい絵というものは、観る者に、多くの思いを与え、いろいろな感慨をいだかせながらも、結局は無言を強いるものらしい。

 ルオーの『薔薇を持つピエロ』の解説文に、
 「ルオー自身、自分は世間から認められていないと思い込んでおり、そのため、ピエロのように社会の片隅に追いやられた人間たちに共感を抱いていたようである」
 とあったが、この作品に深く感動した私は…? 

伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』

2007年12月19日 23時31分02秒 | Weblog
 伊坂幸太郎の『ゴールデンスランバー』は、彼のこれまでの作品中、ぴか一だと思う。
 サービス精神が旺盛なせいか、今までの作品は、三冊分くらいの内容を一冊に詰め込んだためか、ラストに不満を覚えることが、いくらかあった。
 けれども、今回の『ゴールデンスランバー』は、そのラストが特に素晴らしい。
 いま、主人公の青柳が、その後どうなるのか、話題になっている。
 作者が言うには、そのヒントは、作品中に書いてあるとのこと。
 おおよその見当はついているが、確認のため、もう一度読んでみよう。

木原和敏個展

2007年12月18日 23時07分47秒 | Weblog
 楽しみにしていた「木原和敏個展」が、銀座の画廊宮坂で、今日から始まった。
 日展無鑑査『ストールの裸婦』(100号)、白日展『思い』(100号)を初め、10号や6号の作品を中心に、12点の力作が展覧されている。(詳しくは、画廊宮坂のHPをぜひ見ていただきたい)
 今年の日展は無鑑査ということで、初めて[裸婦]に挑戦したのではなかろうか。隅から隅まで細やかな神経が行き届き、モデルの女性の内面までがうかがい知れるよう、緻密に描きこまれている。確かに力作、傑作である。
 ただ、個人的好みだが、絨毯の部分で力を抜いて欲しかった。
 生真面目な好青年のうえ、技術も抜群なので、あまりにも緻密に描き過ぎてしまったのではないか。絵に安息を求める者にはかえって、息苦しさや疲れを感じさせてしまうのではなかろうか。脱力感の大切さを、つくづく感じさせられた。
 『思い』は、文句なく名品である。女性の色香が、ほんのりと漂い、心やすらぐ作品だ。
 他の小品も、定評ある女性像で、どれも観る者の心をほんわかと包んでくれる佳品である。どの作品をお求めになっても、決して後悔することはないと思う。
 木原作品の何よりもいいのは、愛のまなざしで対象を凝視し、愛の心で描いていることだ。
 画廊ではなく、小さな美術館に行くつもりで、ぜひ、観に行って欲しい、23日までやっているので……。
 帰りに日本橋三越に寄り、「白日会会員選抜展」を観た。
 6号の木原作品もあった。同じ6号で、白日会会長の作品には、木原作品の18.5倍の価格がついていたのには、ビックリ。
 絵のどこに、この価格の差があるのだろう。
 野の花と、豪華・ゴージャスな花との違いなのだろうか。
 まだまだ勉強不足、もっと勉強しなくては……。
 あさっては、どの展覧会を観に行こうかな?
 

姸斎津富の一面

2007年12月16日 11時57分51秒 | Weblog
 『姸斎落歯塚』の主、姸斎津富について記した文献は、ほとんど見当たらない。
 わずかに、『寝ものがたり』(鼠渓 著)に五話(5~9/236話)、見えるのみである。
 つぎに、その五話を現代語に直して、紹介しよう。


 [5]島津富(しま・しんふ)は蒼狐の門人で、素外とは同門である。
 初め、素外方に同居していたのだが、談林社中の者たちが集まり、津富のために草庵を造ってあげた。津富は喜んで移り住んだのだが、物好きにも、押入れの襖に、花使という絵を描かせた。
 さて、その訳を尋ねる者がいてうるさいので、津富は、花使の謂れを仮名で書き付けておいた。
 槌屋という富豪(俳名は失念)は、草庵建立の大後援者で、常々、津富の生活の面倒を見てきた人であったが、ある時、その草庵にやって来た。
 津富は机にもたれ、百韻の巻に評点をつけていたので、富豪は、彼のそばに座り、「あの花使の絵をさっきから眺めているのですが、老先生、これはどのようなことを描いたものなのでしょうか」と尋ねた。
 津富は、振り向きもせず、「上に訳を書いておいたので、読んで見られよ」と言う。
 「いま、読んでみたのですが、わかりません」と答えた。
 津富は声を怒らし、「読んでわからぬものが、聞いたとてわかるものか」と言って、叱り付けたということだ。


 [6]ある年、津富の草庵の近くで出火し、次第に風向きが悪くなってきたので、津富は、点式の入った箱だけを提げて表に出て、「焼けてしまう、焼けてしまう」と言って眺めていた。
 そばを通る人を呼び止め、「もしもし、あなたに用事があるのだが」と言う。
 その男が答えて「どのような御用か存じませんが、私たちは親類宅へ火事見舞いに参るところです。急ぎますので、御免こうむります」と言って、行こうとする。
 津富はそれを止めて、「いや、ほかの事ではござらん。拙宅は直ぐそこ。少々は家財道具もありますが、このまま捨て置けば灰燼に帰してしまうゆえ、あなた方に差し上げたい。遠慮なく持って行かれよ」と言った、ということだ。


 [7]類焼後、「草庵に独り住まいも侘しい」と言って、津富は、また、素外方へ同居した。
 素外の奥方は、非常にさばけた婦人であった。
 ある日、素外の留守中に、二人の間に諍いが起こり、しだいに言い募り、
 「このような家には片時でも居られるか」と、津富が言えば、
 「それなら、とっとと出て行かれよ」と、素外の奥方は返す。
 「出て行かないで、どうしようぞ」と言いながら、津富は出て行った。
 夕暮れに素外が帰り、「津富はどこへ行ったのか」と、奥方に尋ねた。
 奥方が、事のいきさつを話したところ、素外は笑って、「さぞ困っていることだろう。誰か呼びにやろう」と言う。
 それを奥方が止めて、「あの人は、どこへも行く気遣いはありません。槌屋か古梅園に居るに違いありません。日が暮れれば帰ってきますよ」と言っていたが、案にたがわず、六つ時分(午後六時頃)に、窓の下を、津富が謡を唄って通る。
 素外が聞きつけ、「津富に違いない」と言えば、奥方はまた、「もうしばらく、捨て置きましょう。あまり強情なので、もう少し懲らしめてやりましょう」と言う。
 また五つ時分(午後八時頃)に、謡を唄って通るのを、知らん顔をしていたところ、また一時間ほど過ぎた頃、通る。
 素外は家の中から、「津翁」と呼ぶ。
 「おう」と応えて、家に入るや否や、奥方は津富に向かって、
 「何度も何度も謡を唄って通らなくとも、さっさと家に入ってくればいいのに」と言ったところ、
 「おれも、いま呼んでくれるか、いま呼んでくれるかと思って、ゆっくり歩いていたのだが、なかなか呼んでくれないので、蚊に刺されて、大いに難儀をしたよ」と言った。


 [8]津富が、ある時、和角という人のところにやって来て、俳諧も終わり、夜食が出て、
 「津翁、鮭は召し上がりますか」と問われ、「大好物じゃ」と応えた。
 「それならば、一本提げておいでなさい」と言って、大きな鮭を出してくれた。
 「これはかたじけない。しかし、提げていくのは難儀だな」と、しばらく思案したが、
 「そうだ、これをお預かりくだされよ」と言って、小脇差を投げ出し、例の鮭を腰に差して帰った。
     和角は、本名、曲木又左衛門。和田倉御厩(今は会津候の向う屋敷)の
     御役宅角に住んでいたので、和角といわれたが、その子は、左幸、その
     養子は、閑水(俳諧付合、上手とのこと)


 [9]津富は、かつて乞われて雨乞いをしたことを、ふだんは聞かれても笑って答えなかった。
 ある時、津富が酒を飲んで上機嫌の折、私の祖父が、このことを尋ねたところ、
津富は次のように答えた。
 私(津富)が地方へ行ったときのこと。
 ある在家に逗留していた折、大旱魃で早苗が枯れはじめた。
 百姓たちが集まり、
 「昔、榎本其角という俳諧師が、三囲神社で雨乞いをされたとか聞いております。あなたも俳諧師とのこと、どうか雨乞いの句を詠んでくだされよ」と言う。
 私が固く辞しても聞かず、「たって、詠んで欲しい」と言う。
 しかたなく、
 「それならば詠んでみますが、今ここで詠んでも効き目はないでしょう。明日、こちらの鎮守に参り、神前にてお詠みいたしましょう」と言うと、
 「それは、ごもっとも」と言って、みな帰っていった。
 さて、翌日は精進潔斎をして、正午頃、氏神様の社に詣で、詠んだ句は、即ち、
       しろしめせ神の門田の早苗時      津富
 この句を短冊にしたため、宿に帰ったのは八つ時(午後二時)過ぎであった。
 いくらか曇ってきたが、一体どうなることやら、不安で不安でしようがない。
 夕食もそこそこに、日が暮れるのを待って寝床に入ったが、鬱々として眠れない。
 五つ時(午後八時)頃、さっさっと雨の音が聞こえたので、「ああ、うれしい」と思ううち、雨はだんだん強くなり、降りも降ったり、三日三晩、間断なく降り続いた。
 雨が晴れた後、百姓たちは、白銀十枚に土地の産物を添えて、礼にやって来た。
 思わぬことで得をしたので、つい調子に乗って、「こんなことが度々あればいいのになあ」と、口走ってしまった。
     これもまた、どこの国の、何という鎮守の祭神かなどは、聞いた
     のだが忘れてしまった。残念なことに、遠いところの、片田舎の
     ことゆえ、世間でこのことを知る人は少ない。
     

養福寺『姸斎落歯塚』

2007年12月15日 23時55分08秒 | Weblog
 “ひぐらしのさと”養福寺に、『姸斎落歯塚』という珍しい碑がある。
 荒川区登録有形文化財になっていないせいか、これを説明した文献が見当たらない。
 
 碑の正面には、
   姸斎落歯塚
 左側面には、
   寛政九年丁巳十月
       門人  方円庵得器
                建之

 と刻してある。
 つまり、寛政九年(1797)十月に、師匠である姸斎の落歯塚を、門人の方円庵得器が建てた、ということであろう。
 縄文・弥生時代から、多く成年式など、社会儀礼の一つとして、特定の歯を人為的に抜く風習があった。
 おそらく、この影響で後代、歯を自分の分骨として崇め、抜け落ちた際には、それらを拾い集め、小壺に入れ、丁重に土中に埋めたものと思われる。そうしてその上に塚を作り、碑を建て、供養されたものが、落歯塚である。

 では、建碑者の方円庵得器とは、どのような人物なのであろうか。
 葛飾北斎が、文化二年頃に描いた肉筆画『鏡面美人図』(ボストン美術館所蔵)の画賛に、
     待人の たよりや夏の 夜みせ前      得器
 とあり、また、文化十一年(1814)に刊行された見聞録『耳嚢』に、「廻文発句之事」と題して、
 
  文化の頃、俳諧点者に得器といひて滑稽の頓才なる有しが、田舎わたりせし
 頃、奉納の額に梅を書て、お徳女の面かきしを出して、「是へ賛せよ」と申け
 る故、「一通にては面白からず」と、即興に廻文の発句せし。
      めむのみかしろしにしろしかみの梅
 達才の取廻しともいふべきか。
                    (根岸鎮衛『耳嚢』巻八=岩波文庫)

 とあることから、建碑者の方円庵得器は、神田お玉ヶ池在住の、江戸座俳諧の宗匠、方円庵・島得器とみて間違いない。

 碑の右側面には、発句と前書きが書いてあるらしいのだが、前書きの部分が判読できない。つぎに発句の部分だけを記す。

       ひろひよせて埋むおちはや風の売 津富

 最後の二文字「津富」は作者名で、句は、「拾ひ寄せて埋むおちばや風の売」となる。「おちば」は、「落葉」に「落歯」が掛けてあることは、言うまでもない。
   風に付き物である落ち葉を拾い寄せて、土に埋めるように、風邪(病気)
  のために抜け落ちた歯を拾い寄せ、わが分骨として土に埋めている。その
  私自身も、もう間もなく土に返ることであろう。
 といった、句意であろうか。

 さて、塚の主「姸斎津富」とは、一体どんな人物なのか。
 文学、国語、歴史、人物など各種大辞典を引いても、その名は出てこない。
 しかし、北斎の肉筆画に賛を書く、江戸座俳諧の宗匠、得器の師匠であるから、かなりの俳諧宗匠に違いない。
 落歯塚をなぜ、養福寺に建てたのか。
 ひらめくものがあり、養福寺の談林派歴代句碑をつぶさに調べた。「灯台下暗し」とはこのこと。「月の碑」に、
       夜すすぎや名月に戸をたゝく音    姸斎津富
 と、あるではないか。
 月の碑というのは、当時の談林派の長老四名の名月の句と俳号を、正面に刻したものである。
 月の碑の左側面から裏側にかけては、梅翁・西山宗因の略伝、および建碑の理由が書かれている。そして、右側面には四長老の忌日が、
   寛政十年戊午二月十九日                 後五千堂
   文政六年癸未二月八日                  一陽井
   寛政九年丁巳十二月二十一日    師没後素外属     姸斎
   寛政五年癸丑五月二十一日     仝          幽雲斎
 と刻されている。
 この碑が建てられたのは、寛政四年八月ということなので、右側面の忌日は、もちろん後に刻されたものである。
 この碑から、姸斎津富は、師の六世、五千堂蒼狐が亡くなった後、後事を托された一陽井素外(谷素外)の門に属し、寛政九年十二月二十一日に死去した、ということが知れる。今からちょうど二百十年前のことである。
 『姸斎落歯塚』は、姸斎の亡くなるわずか二ヶ月前に、談林派歴代の句碑が見通せるこの場所に建てられたのである。

 江戸時代後期の、雑俳作者の逸話秘聞を伝える『寝ものがたり』(鼠渓著)によると、津富は、姓を島といい、談林派六世・五千堂蒼狐の門人で、素外とは同門であった。独り者で変人の津富は、素外宅に同居していたという。
 素外は、得器と同じく、神田お玉ヶ池に住んでいたので、津富も居候ではあるが、神田お玉ヶ池に住んでいたことになる。

 また、素外は、小林一茶とも親交があり、一茶の句集の中に、
        素外賀新庭
      出来たての山にさつそく時鳥
 とある。
 おそらく、同居の無欲恬淡な津富とも、一茶は親交があったに違いない。
 安永四年(1775)刊の、俳諧選集『名所方角集』には、編は素外で、跋文は津富、とある。

 『姸斎落歯塚』が、いつの日か、荒川区登録文化財として、談林派歴代の句碑とともに、末永く保護、保存されることを、切に祈るしだいである。



 ※ 本稿の発表については、養福寺ご住職の快諾を得ております。
   
 ◎ 養福寺=荒川区西日暮里3-3-8