「褒貶(ほうへん)の歌合」といって、一座の者が、人々の作った歌をその場で批評する歌合があるように、批評なくしては、作品の向上は有り得ません。
したがって心敬は、真の意味の批評を拒否していません。むしろその逆に、本当にその道に専心しているならば、批評精神は常に念頭を離れず、またそうなくては作品の向上は望めない、と説くのです。
心敬はここで、『法華経』を引用していますが、菩薩が衆生を教化する過程に託して、批評精神こそは、この国土に真の風雅の道を普及するものであることを、説明しようとしたものだと思います。
人様の作品を批評するときは、我が「心行を清浄にし、さらに教えを説」くことが大切だ、というのです。
作品を批判することは結構ですが、作者の人格を批判することは、絶対に慎むべきことだと思います。
九十八歳で亡くなられた、国語教育者の大村はま先生が、「私の好きな話」として、次のような話を披露されたことがあります。
「車を引いた男がぬかるみにはまった。汗びっしょりになって引っ張るが動かない。
見ていた仏様がちょっと指で車に触ると、車はすっとぬかるみから出て、男は元気
に引いていった。男は仏様に助けられたことを永遠に知らない。こういうのが一級
の教師なのだ」(「読売新聞」平成17年6月7日付夕刊)
なんともいい話です。一隅の一教師であった私も、「仏様のように教えたい」と実践してきたつもりですが、はたしてどうでしょうか。
作品の批評、添削もぜひ、こうありたいものです。
ところで、「仏法を誹謗して地獄に落ちる」云々は、どういうことでしょうか。おそらく、世間で一流と言われている人の優れた作品であっても、無条件でひざまずき、拝む必要はない、ということでしょう。
作品の前にひれ伏すことは、むしろ、これを誹謗するにしくはなしということです。真の理解の上に立った批評ならば、どんなに熾烈であってもよいのです。
いかに高い境地にあっても、そこに安住し、停滞して、一つの立場を固執するに至れば、それを迷妄と見なす仏教的な諦観に導かれたものであることは言うまでもありません。その迷妄を破るためには、熾烈な批評も必要、と言っているのです。
批評の本質が、迷妄を破るためだとすると、人は熾烈な批評によって、いったんは深く傷ついても、それによってまた真に立ち上がることが出来得るのです。
だから、批評は、それを受ける人の立場からいっても、まことに貴重なものなのです。
ここで、「魏の文王は」云々を説明しておきましょう。
魏の文王は、自分は賢王だと思って、臣下に向かい、「朕(ちん)は賢王であるか」と問いたもうたところ、一人の大臣が「君は賢王ではございません」と申し上げた。
文王が「なぜ賢王でないのか」と問うと、「天が与えた王位を受けたなら、賢王と申せますが、君は、力ずくで王位にお就きになったので、賢王とは申せません」と答えた。
文王は怒って、その大臣を追放してしまった。
つぎに、もう一人の大臣に、「朕は賢王であるか」と問いたもうた。大臣は「とてもとても賢王とは申せません」と答えた。
すると王は、「どういうわけでそのように申すのだ」と、問いたもうた。
「賢王には必ず、賢臣が生まれるものです。君が追放されたあの大臣ほどの賢臣が、君のおそばにいれば、君は賢王と申せましょう」と、大臣は答えた。
大臣のこの言葉に、王は大変恥じて、追放した大臣をまた召し返して、政治を正し、賢王の名を得たということである。
以上が話の概略です。「賢王には必ず、賢臣が生まれる」というのが主意でしょう。
来世また教師と生れむ春の雪 季 己
したがって心敬は、真の意味の批評を拒否していません。むしろその逆に、本当にその道に専心しているならば、批評精神は常に念頭を離れず、またそうなくては作品の向上は望めない、と説くのです。
心敬はここで、『法華経』を引用していますが、菩薩が衆生を教化する過程に託して、批評精神こそは、この国土に真の風雅の道を普及するものであることを、説明しようとしたものだと思います。
人様の作品を批評するときは、我が「心行を清浄にし、さらに教えを説」くことが大切だ、というのです。
作品を批判することは結構ですが、作者の人格を批判することは、絶対に慎むべきことだと思います。
九十八歳で亡くなられた、国語教育者の大村はま先生が、「私の好きな話」として、次のような話を披露されたことがあります。
「車を引いた男がぬかるみにはまった。汗びっしょりになって引っ張るが動かない。
見ていた仏様がちょっと指で車に触ると、車はすっとぬかるみから出て、男は元気
に引いていった。男は仏様に助けられたことを永遠に知らない。こういうのが一級
の教師なのだ」(「読売新聞」平成17年6月7日付夕刊)
なんともいい話です。一隅の一教師であった私も、「仏様のように教えたい」と実践してきたつもりですが、はたしてどうでしょうか。
作品の批評、添削もぜひ、こうありたいものです。
ところで、「仏法を誹謗して地獄に落ちる」云々は、どういうことでしょうか。おそらく、世間で一流と言われている人の優れた作品であっても、無条件でひざまずき、拝む必要はない、ということでしょう。
作品の前にひれ伏すことは、むしろ、これを誹謗するにしくはなしということです。真の理解の上に立った批評ならば、どんなに熾烈であってもよいのです。
いかに高い境地にあっても、そこに安住し、停滞して、一つの立場を固執するに至れば、それを迷妄と見なす仏教的な諦観に導かれたものであることは言うまでもありません。その迷妄を破るためには、熾烈な批評も必要、と言っているのです。
批評の本質が、迷妄を破るためだとすると、人は熾烈な批評によって、いったんは深く傷ついても、それによってまた真に立ち上がることが出来得るのです。
だから、批評は、それを受ける人の立場からいっても、まことに貴重なものなのです。
ここで、「魏の文王は」云々を説明しておきましょう。
魏の文王は、自分は賢王だと思って、臣下に向かい、「朕(ちん)は賢王であるか」と問いたもうたところ、一人の大臣が「君は賢王ではございません」と申し上げた。
文王が「なぜ賢王でないのか」と問うと、「天が与えた王位を受けたなら、賢王と申せますが、君は、力ずくで王位にお就きになったので、賢王とは申せません」と答えた。
文王は怒って、その大臣を追放してしまった。
つぎに、もう一人の大臣に、「朕は賢王であるか」と問いたもうた。大臣は「とてもとても賢王とは申せません」と答えた。
すると王は、「どういうわけでそのように申すのだ」と、問いたもうた。
「賢王には必ず、賢臣が生まれるものです。君が追放されたあの大臣ほどの賢臣が、君のおそばにいれば、君は賢王と申せましょう」と、大臣は答えた。
大臣のこの言葉に、王は大変恥じて、追放した大臣をまた召し返して、政治を正し、賢王の名を得たということである。
以上が話の概略です。「賢王には必ず、賢臣が生まれる」というのが主意でしょう。
来世また教師と生れむ春の雪 季 己