壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

ところてん

2008年07月31日 23時38分02秒 | Weblog
 近所の大型スーパーに買い物に行った。何もかも高くなった、とぼやきながら、特売の心太(ところてん)をつい買ってしまった。心太はやはり夏の食べ物であると、しみじみ思う。特売品にしてはおいしかったが、初島で食べた心太が、最もおいしいと思う。「ところてん祭り」を行なうだけあり、心太は初島に限る。

 心太草(ところてんぐさ)を略して天草と言うそうだ。
 その天草を海から採取して、天日に干したものをよく洗い、寒夜にさらしたものを寒天と呼ぶ。その寒天を煮溶かして、麻袋でゴミを漉し取り、きれいになった煮汁を凝固させて、冷たい水の中に冷やしておき、これを心太突きで細長く突き出して食べるものを心太という。
 「ひとつき十円で過ごす方法なあんだ」「ところてん」「あたり」とは、ガキのころによくやったナゾナゾ遊びである。

 関東では、心太を酢醤油で食べるのがふつうである。
 聞いた話によると、他の料理に先んじて、お酒のつまみ物として、心太を客に供する風習があったという。だから今でも、最初に酒のつまみ物として出す小鉢の品を、一般に「つき出し」と言うのだそうだ。
 つまり、心太の突き出しが、その語源なのである。
 一方、関西では、心太は料理ではなく、糖蜜をかけて食べる間食とするのが普通であった。それが、より工夫を凝らしてえんどう豆などを添えた蜜豆になったということだ。

 それにしても、「心太」と書いて、「ところてん」と読むのはどうしてなのだろう。
 古くは、これをその文字通りに「こころぶと」と読んでいたことが、『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』に見える。
 図々しい人を江戸っ子は、「太い奴」いや「ふていやつ」と言う。これと同じように、「こころぶと」が、「こころふてい」になり、さらに「こころてい」となり、それがなまって「ところてん」になったのではなかろうか。
 このように、自分なりに語源を推理してゆくのも、なかなか楽しいものである。


      港より徒歩一分の心太     季 己

空蝉

2008年07月30日 23時31分13秒 | Weblog
 ひんやりした風が吹いてきた。連日の暑さにはなりそうもない。こういう日にこそ草刈をしよう、ということで草刈を始めた。
 伸び放題の草々を、手当たりしだい引っこ抜く。面倒になり、鎌を持ち出して雑草を刈る。そういえば、昭和天皇は、雑草という草はない、とおっしゃっていたとか。
 腰を伸ばし、一息入れたとき、思いもかけぬものを見つけた。空蝉だ。まだ生きているかのような姿勢で、蝉の抜け殻が取り付いている。
 透き通ったセルロイドのような艶のある茶褐色の抜け殻。こんな小さな穴から、よくも抜け出したものだと、しばらく感心して見つめてしまった。

 蝉の幼虫は、種類によって二、三年から十年以上もの長い間、土の中にいて蛹となる。その蛹が、いよいよ土を出て木に這いのぼり、背中から割れて固い殻を脱ぎ、見る見る翅を伸ばして空中に飛び立つ。
 長い長い期間を地中に過ごした蝉は、地上に出て、わずか一週間から十日で生殖を終えて死んでしまう。
 その短い生涯を、ジージー・ミンミン・シャーシャー・カナカナ・オーシーツクと、命の限り情熱を燃やして、華やかに鳴き通す。蝉のはかなくも哀れな生涯である。
 その鳴き声の華やかさ賑やかさ自体が、病葉の裏に残ってじっと動かぬ空蝉の形に籠められているような気がする。

        やがて死ぬけしきは見えず蝉の声     芭 蕉

 「やがて」は、すぐに、たちまちの意。「けしき」は、様子の意。
 「力いっぱい生気に満ちて鳴きつづけているこの蝉の声を耳にしていると、これがたちまち死んでゆくものだとはとうてい思えそうもない」といったところか。
 この句には、「無常迅速」という前書きがある。たしかに、鳴きしきる蝉にはこういう感じがあって、それが「無常迅速」という観念に結びつくのは、必然であろう。
 「無常迅速」は、おそらく、この句が成ったあとでつけられた前書きで、最初から「無常迅速」を詠もうとして詠んだものではなかろう。もっとも、このころ、しきりに無常迅速の思いを持っていたことは、(元禄三年)七月十七日付、牧童宛書簡に「無常迅速の暇もござ候はば、……諸善諸悪皆生涯の事のみ」などと見えることからもうかがえるから、それが下地になっていることはいうまでもない。

 この句の初案は、「けしきも」であったらしい。たった助詞一語のちがいであるが、「けしきは」のほうがずっと強くなる。
 蝉の、あのしきりに鳴きたてる声を心に置くと、やはり「は」のほうがよい。
 とくに俳句の初心者は、「も」を使いたがる傾向があるが、「も」を使うときは「は」ではどうかと、心して使いたいものである。


      動かざる石の地蔵と空蝉と     季 己

みっともない

2008年07月29日 23時32分48秒 | Weblog
 今年の元日に決意した。毎日ブログを更新しようと、それも必ず最後に今日の一句を添えて。
 三日坊主を脱し、三ヶ月、半年も無事クリア、おかげで今日は211日目。
 これも読んでくださる方があるため。改めて感謝申し上げる。
 毎日、知ったかぶりをして、エラそうに書いているが、実は、アルコール過敏症のため酒も飲めない、情けないヤツなのである。
 毎晩、しらふの勢いで書いているのだ。

                       大伴旅人
        あなみにく 賢(さか)しらをすと 酒飲まぬ
          人をよく見れば 猿にかも似る (『萬葉集』巻三)

 大伴旅人の「讃酒歌十三首」が、『萬葉集』巻三にまとまって記されている。
 平明な句が多く、旅人の歌の調子としては、ほかの歌に比べてだいぶ調子が違っている。無理に概念を作っているように感じられる。
 「あなみにく」とは、酒を飲まないで、えらぶっている人に対して「ああ、みっともない」と言ったのである。あいつをよく見てやれ、猿に似ているぞ、と言っているのであろう。

 ここにあげた一首はおそらく、大宰府あたりでの酒宴の席で披露された即興歌であろう。風刺というより諧謔味が勝っている。
 いかにも興に乗じて作った歌の溌剌とした魅力があって、酒宴の席で喝采を博しただろうと思われる。竹林の七賢に共感した旅人の、エセ賢人に対する痛罵である。
 
 だがこの連作は、一首一首として味わえばどこか物足りなく、概念的な発想が一首としての結晶度を弱めている。一首一首の完成に、さほど心血を注いだとも思えない。
 人麻呂・赤人などの専門歌人に較べると、憶良・旅人などにはアマチュア歌人的なところがある。召しに応じて作るよりも、歌は時に応じ、場に応じての、個の思想・感情の吐露の具であった。こういう純粋な作歌態度が出てきたところに、彼らの新しさがあり、ことに憶良・旅人は新しい漢学の素養があり、人生的感慨をそのまま歌に詠み込むことができた。

 旅人は、古来の大豪族大伴氏の“氏の上(うじのかみ)”である。だがそのころ、藤原氏や橘氏のような新勢力が台頭して来て、旧勢力を凌いで権力の座に坐った。
 彼が太宰帥に任ぜられたことは、政争から遠ざかったことを意味した。彼はそこで、教養人らしく風雅に遊び、酒に憂いを遣って、大宰府のサロンの主として自適の生活を送った。そのような生活と心境とを背景にして、この讃酒歌が生まれたのである。
 

      目覚むればペルシャ絨毯 花茣蓙に     季 己

秘密の出会い

2008年07月28日 21時56分37秒 | Weblog
      鹿 柴(ろくさい)    王 維
   空 山 不 見 人    空山人を見ず
   但 聞 人 語 響    但だ人語の響を聞く
   返 景 入 深 林    返景深林に入り
   復 照 青 苔 上    復た照らす青苔の上

   シーンとした山に、人の姿が見えない。
   ただ、人のことばの響だけが聞こえる。
   夕日の光が、深い林の中に差し込んできて、
   木々の根もとの苔を、青々と照らし出す。

 役人になった王維(おうい)は、官僚生活の合間に心を休める別荘を、都の南、藍田山(らんでんさん)の麓に求めた。
 そこは、初唐の詩人・宋之問(そうしもん)の所有していたものであった。山も森も谷川も湖もあり、その間にいくつも館が点在する広大な別荘である。
 王維はここで、気の合った友人たちと閑適の暮らしを楽しんだ。こういった生活を「半官半隠」(半分官吏で半分隠者)という。

 鹿柴は、王維の広い別荘の中での、自適の生活のひとこまを詠じた詩である。
 前半二句は、静寂さを強調する。その工夫は、人の姿は見えないが、どこからか人の声だけが聞こえてくる、といった何気ない表現にある。
 つまり、何も物音がしないというよりも、わずかに声だけが聞こえるという方が、いかにも深閑とした様子を際立たせるのである。
 芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」は、この手法を取り入れたものであろう。

 この詩は、後半二句がすばらしい。
 夕方になると、太陽の光は低い所から斜めに照らす。だから、深い林の中にも光が入り込んでくるのである。真上から照らすときは、深林に光は入らない。
 ふだんは、日の光に照らされることのない青苔(せいたい)が、その斜めの夕日に照らし出されるわけである。
 シーンとした深林、そこで残照が偶然に見せた、束の間の美的現象である。
 間もなく日が沈めば、深林は闇に包まれてしまう。
 いわばこの詩は、「夕日と苔の秘密の出会い」をとらえたもので、夕日の赤と苔の緑が印象的である。王維の画家としての才能が光る情景ともいえよう。
 わずか二十字の中で、人の知らぬあやしい世界を描き出している。

 よく「俳句は十七文字の文学」などというが、正しくないと思う。すべて仮名で書けば、十七文字であるが、漢字かな交じりで表記するのがふつうである。
 したがって変人は、「十七文字」ではなく「十七音」といっている。

 話は横道にそれたが、八ヶ岳のよく見える所に、コレクションの展示室と収蔵庫、それに150号の絵が描けるアトリエを含めた別荘を建てるのが夢であった。
 若手の画家さんに、自由に使ってもらえる空間を提供したかったのだ。
 だが、予定外の早期退職で、すべては狂ってしまった。
 「夢は必ず実現する」というが、「実現したら夢でなくなる」というのも真である。
 富士には月見草がよく似合う、と言われるように、八ヶ岳にはアトリエがよく似合う、と思うのだが、いかがであろう。


      宙に浮く狭庭と見れば月見草     季 己

   

小粒になりぬ

2008年07月27日 23時40分57秒 | Weblog
        十団子も小粒になりぬ秋の風     許 六

 許六(きょりく)は、近江彦根の藩士で森川氏。
 はじめ絵画・漢詩に親しんだが、30歳ころから俳諧に近づき、季吟や常矩の門に学んだ後、蕉門の尚白・其角・嵐雪の指導を受けた。
 元禄五年(1692)の出府の際、芭蕉に入門、芭蕉にとっては晩年の門人の一人。
 芭蕉は許六から絵を学ぶとともに、芭蕉の許六に対する深い信頼は、元禄六年、許六の帰国に際して、芭蕉の贈った「柴門の辞」によっても知ることができる。

 さて、「十団子」は、「とおだご」と読む。
 許六が東海道の宇津の山を過ぎるとき、名物の十団子を見て、ふと心に浮かんだ感慨を詠んだものである。
 この句については、
 「作者は以前にも一度、宇津の山を通って十団子を賞味したことがあったが、いままたここを通りかかって茶屋に休み、十団子を見ると、この前より確かに小さくなっている、世の中のせちがらさがこんな山奥にも押し寄せているのか」
 と感慨をもよおしたという解釈もあるが、いちじるしく詩的イメージに欠ける。

 値上げ、値上げで音を上げている現在ならいざ知らず、あまりにも季語を無視した解釈であろう。
 秋風の吹きすさぶわびしい世界が、許六をして十団子も小粒になったことだと感じさせたのである。そうした雰囲気のいわば象徴としての小粒なのである。
 『去来抄』によると、この句について芭蕉は、「此の句しをりあり」といって称賛したという。
 「しをり」とは、蕉風俳諧の根本理念の一つで、人間や自然を哀憐をもって眺める心から流露したものが、おのずから句の姿に現れたものをいう。
 つまり、芭蕉は、人間や自然を愛の心を持って見つめよ、といっているのだ。
 十団子は、宇津の山名物の小さな団子で、十個ずつ麻糸につないで売ったものだという。


      己が声まださだまらず烏の子     季 己

テレビを消す

2008年07月26日 21時48分00秒 | Weblog
 むかむかしてきた。腹が立って物を投げつけたくなった。そんな気持ちをやっとこらえて、テレビを消した。
 消したあとで、何となくわかった。切れるとは、こういうことを言うのかと。
 「隅田川花火大会」のテレビ中継のことである。

 一昨日の「足立区花火大会」は、西新井橋際の土手に坐って、眼前の大花火を堪能してきた。
 そこで、「隅田川花火大会」は、家でじっくりとテレビ中継を楽しもうと、夕食も早めに済まし、テレビの前に陣取った。
 打ち上げが始まるとすぐ、ゲストのおしゃべり。花火を見たいのにゲストの顔を映す。ゲストの顔も見たくないし、おしゃべりも聞きたくない。花火を見たいのだ。
 CMが終わると、視聴者からのお便りやメールをゲストが読み上げる。オマエらのツラなんか見たくないんだよ、お便りなんか聞きたくもない!と、だんだん怒りが込み上げてくる。
 花火の最中に、ゲストの家族を映し、ゲストのおしゃべり……。ここでついに、ブッチギレ!!
 テレビを消したという次第。

 どうして静かに花火だけを見せてくれないのだろう。どうして高いギャラを払って、番組をぶち壊すのだろう。
 ゲストは一切呼ばず、アナウンサーと花火の専門家だけで、じっくりと花火を魅せることはできないのだろうか。
 隅田川の花火は年に一回しか見られないのだ。ゲストと称する芸能人や政治家の顔などは、見たくなくてもいつでも見られる。

 それにしても、テレビ番組のなんとつまらないこと。
 番組表を見ただけで、テレビを見る気が失せる。おかげで、読書がすすむので助かるが。
 さて、その読書。小説はあまり読まない。いや、読むのだが、最後まで読みきった小説は少ない、と言ったほうが正確であろう。
 小説は、最初の三行を読んで面白くなければ、もう読まない。三行を超え、1ページを読み終えた本だけ借りる。もちろん、図書館での話である。
 芥川賞や直木賞受賞作品は、書店で立ち読み。ありがたいことに、みんな三行で読む気がなくなり、購入しないですむので助かる。
 若手でただ一人、最後まで読ませられてしまう作家がいる。伊坂幸太郎だ。
 彼の作品、といっても単行本だが、これはすべて書店で購入した。図書館にもあるのだが、人気がありすぎて、いつでも貸出中状態。
 今度は彼の文庫本を購入、単行本と比較し、伊坂幸太郎論でも書くとしようか。


      薔薇の花ゆびきりげんまんうそつくな     季 己

句作の秘密

2008年07月25日 23時45分16秒 | Weblog
        吹き飛ばす石は浅間の野分かな     芭 蕉

 「草木の少ない浅間山の野分は、磊々たる転石を吹き分け吹き飛ばして、浅ましいまで激しく吹き荒れる勢いである」という意であろう。
 この句は『更科紀行』にのみ見える。しかも、『更科紀行』の真蹟草稿影写本により、つぎの推敲過程を経たことがわかる。

        秋風や石吹きおろす浅間山
             ↓
        吹きおろす浅間は石の野分かな
             ↓
        吹き落とす浅間は石の野分かな
             ↓
        吹き落とす石を浅間の野分かな
             ↓
        吹き落とす石は浅間の野分かな
             ↓
        吹き飛ばす石は浅間の野分かな

 以上のように、順次推敲していった過程が残されているのだ。芭蕉の句作の秘密をうかがうことのできる好資料といえよう。
 この推敲過程に「浅間は石の野分」という形があったことでも明らかなように、この句の眼目は「石の野分」という珍しい趣向にある。つまり、ふつうの野分は、草木を吹き分けて荒れ狂うものであるが、ここ浅間山の野分は、石を吹き飛ばして吹きすさぶというのである。
 また、その風の浅ましいまでの凄さを、倒置法を用いて山の名に言い掛けたところがもう一つの自慢であったと見られる。

 発想は実感を基調としたもので、迫ってくる力がある。
 「秋風や」の形では、浅間の草一本ない山腹を吹きおろす野分の烈しい勢いが出ていない。
 「吹きおろす」の形に至って、浅間の特色ともいうべき石の野分が取り上げられた。しかしまだ、石を吹き動かす烈しさは十分表現されていないと考えたようである。
 それを生かして、「吹き落とす」と改められ、実感と表現された詞句との距離はかなり縮まり、さらに石が空を切るような烈しさを「吹き飛ばす」とし、気息のこもったこの形に定着させたのである。
 推敲過程を見ていくと、いかに句勢を強めるかに苦心していることがよくわかる。
 季語は「野分」で秋。野分はその勢いを浅間の石とのかかわりで生かされて、単なる寂しさに終わらず、烈しさの中の寂寥になっている。


      篠笛を置き濡れ縁に夕涼み     季 己

松葉牡丹

2008年07月24日 23時41分51秒 | Weblog
 きょう7月24日は、土用の丑の日であり、小説家芥川龍之介の忌日でもある。
 俳句は高浜虚子に師事して、俳号は餓鬼、『澄江堂句集』がある。好んで河童の絵を揮毫し、死の年に『河童』の作があるので、河童忌と呼んで親しまれている。
 龍之介は、明治二十五年(1892)三月一日、東京市京橋区入船町に生まれる。辰年辰月辰日の生れであることにより、龍之介と命名された。
 生後間もなく母の発狂により、実家芥川家の養子となる。養父は南画、俳句に趣味を持つ文人であった。
 東大在学中より小説を書き、菊池寛、久米正雄らと第三次「新思潮」を創刊。
 「帝国文学」で『羅生門』を発表。理知的で技巧的、芸術至上の態度を崩さず、多くの名短編を残した。昭和二年(1927)のこの日、東京・田端の自宅で服毒自殺した。三十六歳。
        河童忌や河童のかづく秋の草     久保田万太郎

 今夜は足立の花火大会。その前に、日本語ボランティア養成講座を二時間受講しなければならない。
 会場は、生涯学習センターの3階だ。生涯学習センターといっても、廃校となった中学校の校舎をそのまま利用したものである。校舎脇の花壇には、他の花に負けることなく、松葉牡丹が懸命に咲いている。
 赤・紫・黄・白など、色とりどりに、日盛りの花壇を、目もあやな色彩に埋め尽くし、コンクリートブロックの周りを縁取っている松葉牡丹。風のない真昼の静けさの中に、松葉牡丹ばかりは、夏の暑さを楽しんで咲き誇っている。
 暑い暑いと言い暮らしているが、この暑さにこだわらぬ松葉牡丹を、じっと眺めているうちに、いつしか暑さを忘れる。

 松葉牡丹は、スベリヒユ科に属する一年草で、南米ブラジルが原産。日本へは十九世紀半ばに渡来したとされ、古くから親しまれている草花である。もともとが熱帯の植物であるから、暑さには強いわけだ。
 草丈は十センチくらいの小さなものだが、特徴はなんといっても、肉質の茎と葉にあり、葉が松葉に似ており、花は小さいが牡丹に似ているところからこの名がある。
 松葉牡丹は、太陽が直射すれば花を開き、曇り空や夕方にはしぼむので、またの名を、日照り草ともいう。また、いたるところの葉の脇から白い鬚根を出しているので、茎をちぎって、そのまま地面に挿しておくと、すぐに根付いて繁殖するから、別の名を、爪切り草ともいう。

 しかも、どんどん枝分かれして花をつけ、毎日花を開いては萎みして、一週間もすれば、種子が採れるので、手まめに花粉を交配してやると、いくらでも変種ができるという。ただ、ものぐさな変人は、一度として試みたことはない。


      フィナーレは枝垂れ金彩 大花火     季 己

夏野

2008年07月23日 21時52分12秒 | Weblog
        順礼の棒ばかり行く夏野かな     重 頼

 作者の松江重頼は、慶長七年(1602)生まれ。京の人で撰糸売(せんじうり)を業とした。
 俳諧は、松永貞徳の門流であるが、貞徳が、俳諧を単なる慰みとしか見ていなかったときに、早くも積極的に俳諧と取り組んだ。のちに貞徳の門流を離れて独自の俳諧活動をした。
 正保二年(1645)に刊行されたと思われる『毛吹草』は、作法書と撰集を兼ねたユニークな編集で、世に広く行なわれ、初期俳壇に大きな足跡を残した。

 さて掲句、季語は「夏野」で夏。
 夏野とは、夏草が生い茂り、緑も深く、日光の直射が厳しくなり、草いきれの立つ夏の野原のことをいう。

 人間の背丈を隠すほど草が生い茂った野中の道を順礼が通って行くのだが、遠くから見るとその姿は見えず、順礼の持つ杖の先端だけが草の上に出ていて、まるで棒だけがひとりでに動いて行くようだ、の意である。
 順礼は巡礼とも書き、諸国の神社仏閣を参詣しながら巡り歩くこと、またその人を言うが、ここは順礼をする人の意である。その順礼の持つ長い杖を棒といったのである。

 一幅の絵を見るような叙景的な表現である。しかし、棒だけがひとりでに動いて行く、という機智的な見立てに作者のねらいがあったと見るべきであろう。
 基本的には貞門の手法に即しているが、ただそれが極めて洗練されてきているということは言えると思う。

 聞くところによると、関西方面の150余りの神社仏閣の巡拝コースを作ったガイドブックが、某出版社から発行される予定という。
 寺社の説明はもちろん、寺社の建物の絵画も添えられるという。20数人の画家が分担して描くということで、これらの画家の力量をはかるという楽しみが出来る。
 一部、その絵の写真版を見せてもらったが、まるで絵葉書のようで、まったく感動がない。おそらく画家は寺社の写真資料を与えられ、それを元に描いたのであろう。現場を見ていないので、現場の空気の描きようがないのだ。
 描く者に感動がない作品に、誰が感動しよう。感動のない作品が、どうして人々に感動を与えることが出来よう。
 一部だけを見て断定してはいけないのだが、楽しみは半減どころか……。


      三輪山をしかも隠すか夏の雲     季 己

麦こがし

2008年07月22日 23時37分56秒 | Weblog
 きょうは二十四節気の一つ「大暑」である。暦の上では、このころが夏の暑さの絶頂とされるが、その名にたがわず猛烈な暑さの一日であった。
 これからのおよそ二十日間が、最も暑さが厳しいのではなかろうか。

 暑いからといって、クーラーのつけっ放しは身体によくない。氷り小豆やアイスクリームの類も、糖分の摂りすぎで健康によくない。
 そこへくると、昔の人は、諦めがよかったようである。
 炒った大麦を袋に包んで大きな薬缶で煎じ出し、それをブリキの缶につめて、井戸に吊り下げて冷しておく。
 日盛りの外出から帰ってきては、ゴクゴクとそれを飲み干すコップ一杯の喉越し。何より香ばしく、野趣に富み、あっさりとしていて、飲んだ後味のさらりとしたところが、夏の飲み物の代表としてふさわしい。
 いまでは麦茶と称するのが一般的である。熱いままでなく氷や冷蔵庫で冷やして、そのまま飲むことが多いが、子どもには砂糖などを加えることもある。
 麦茶は、家庭で作るのがふつうであったが、最近は自動販売機で手軽に購入できるようになった。

 ところで、麦茶といえば、また懐かしいものに、麦こがしがある。
 炒った大麦を粉に挽いたものを、関東では麦こがし、関西ではハッタイ粉という。ハタクとは、叩き砕くこと。炒った大麦を叩いて粉にしたものが、ハタキ粉すなわちハッタイ粉なのである。
 砂糖を加えて食べるが、ふつう、湯で練って食べる。水の粉ともいって水でといて食べたり、固めて干菓子にもする。
 麦こがしは、やはり、冷たい水で掻いて食べるのが一番、妙に口中清涼を感じて、結構な暑さよけの食品であった。冷たい水の代わりに牛乳で溶くのも結構。
 麦こがしの落雁も、手作りで召し上がってみては如何でしょう。焦げた麦の香ばしさが郷愁をかき立てること間違いなし。


      けふの日の初め 麦茶を冷やしけり     季 己

土用波

2008年07月21日 21時51分12秒 | Weblog
 7月第3月曜日は、「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」日、つまり「海の日」で祝日である。
 今日も各地で最高気温をマークし、海の事故も跡を絶たない。趣旨は最初から関係なく、単に官公庁・会社が“お休みの日”というだけである。

 暦法で立夏・立秋・立冬・立春の前十八日を土用という。したがって、土用は四季それぞれにある。
 しかし、俳句のうえでは、最も暑く、農作業のうえでも大事な時期となる夏の土用を指す。
 また、一般的にも単に土用といえば、夏の土用に限るように思われる。夏の土用は、小暑(七月二十日ごろ)から立秋までの十八日間で、土用の入りを土用太郎、続いて次郎、三郎と呼び、土用三郎の日の天候で耕作の吉凶を占う俗習があった。

 歳時記には、土用波・土用東風(どようごち)・土用鰻・土用灸・土用蜆・土用凪・土用干し・土用餅・土用芝居・土用芽などと、夏の土用にちなんだ俳句の季題が、目白押しに並んでいる。

 土用波は、夏の土用のころ、太平洋沿岸に打ち寄せてくる、うねりの高い大きな波のことをいう。南方洋上で発生した熱帯性低気圧の影響により、海面に大きなうねりを生じて、日本の海岸に高い波を打ち寄せてくる。
 そのために、船は大きくローリングし、海岸には砂を巻き込んで、背より高い磯波を打ち寄せる。こんなときには、不用意な海水浴客が海に引き込まれて、とんだ災難に遭うことが少なくない。
 土用波は、海水浴には要注意の現象だが、高い波を必要とするサーフィンなどのスポーツには適しており、波乗りだけは盛んになる。

 昔から、泳ぎ自慢の若者は、幅一尺・長さ三尺位の板を持って、土用波のうねりに乗ると、文字通り怒涛のような勢いで、浜辺まで空飛ぶようなスピードで打ち上げられるスリルを楽しんでいた。
 最近は、サーフィンと称して、いっそうこの快感を楽しむ若者が増えてきたが、台風が来るたびに、サーフィンによる犠牲者が絶えないことは困ったものである。
 生兵法は大怪我のもと、自分の命を大切にしない者は、他人の命にも、尊重の念を持たぬ道理である。

 自動車やオートバイを走らせれば、制限速度も騒音も他人迷惑はお構いなし。スピードとスリルを追求する果てには、そこまで育て上げてくれた親の苦労はおろか、自分自身の生命の尊さも顧みることなく、一瞬にしてこの世とおさらばするときては、いったい何を考えているのだろう。
 若者よ、どうか“バカ者”にだけは、ならないでいただきたい。


      土用波 少年の口一文字     季 己

ほととぎす

2008年07月20日 21時44分32秒 | Weblog
 初春の鶯、初夏のほととぎす、仲秋の雁、いずれも、その鳴き声に特徴を持つこの三つの鳥が、昔から歌にもよく詠まれて、最も親しみ深い鳥である。
 それらに続くものは、水鶏(くいな)・千鳥・田鶴(たづ)などであろう。
 なかでも、ほととぎすは、桜・ほととぎす・月・雪と、四季を代表する風物のベスト4の中に加えられていたから、鳥の中でのナンバー1ということになる。

 漢詩に、和歌にと、ほととぎすは、好題材として頻用されてきた。
 江戸時代までは多数見られたようであるが、今では少なく、姿を見た人は稀であろう。
 鳩よりやや小さく、胸に鷹のような横斑がある。夏鳥で、暖地では四月末に渡来し、山麓などを鳴きながら、一日に一里ほどの移動をし、しだいに深山に入って行く。
 古来、ほととぎすの初音は、鶯のそれとともに、俳人の耳冥加として待たれたものである。明け方や夕方の森の中から数十声、たてつづけに鳴くのを、在職中はよく聞いたものである。昼間や夜中には、一直線に飛びながらも鳴く。
 声の質は雨蛙に似た透る高音で、よく「特許許可局」などと聞きなされる。低空を鳴きすぎるときは、そのただ一声が印象に残る。

 芭蕉は“ほととぎす”を、“時鳥・子規・杜鵑・蜀魂・杜宇・郭公”と書き、この六種の文字を折によって使い分けて書いている。字面・他句との関連などを考慮しているのであろう。「郭公」は、今では“カッコウ”に用いるので、変人は使用を避けている。
 ほととぎすは、このほか“不如帰・杜魂”などとも書く。

        時鳥啼くや湖水のさゝにごり     丈 草

 「湖水」は、丈草の住んだ琵琶湖の湖畔からの眺望である。
 「さゝにごり」は、少し濁ること。「ささ」は名詞に冠して、「わずかな」「小さい」「こまかい」の意を表す。
 単に雨期だからというだけでなく、あたかも時鳥の鋭い鳴き声に、湖水が感応したかのごとき語感がある。毎日のように湖水の表情を見守っている者の、こまやかな情感がこめられている。
 去来に「湖の水まさりけり五月雨」という佳句がある。ともに五月雨のころの雄大な湖水の趣を写しているが、丈草の句には、大景の中に繊細にして清新な感覚のはたらきが認められる。
 語順をかえて、「さゝにごる湖水に啼くや時鳥」と言い換えて比べてみると、そうした平板な説明調をとらぬ丈草の句が、独自の叙法とリズムで成功していることがよく分かる。


     万世橋ゆつくり渡る浴衣かな     季 己

吉野の宮滝

2008年07月19日 21時50分53秒 | Weblog
                  弓 削 皇 子
        滝の上の 三船の山に 居る雲の
          常にあらむと わが思はなくに (『萬葉集』巻三)

 弓削皇子(ゆげのみこ)が、吉野に遊ばれたときの御歌である。
 この吉野とは、いわゆる花の吉野山のところではなく、もっと吉野川の上流、今の宮滝付近であった。
 最寄り駅の上市(かみいち)で電車を下り、バスで20分以上かかる不便なところである。はたして、今でもバスがあるのだろうか。
 
 作者の弓削皇子は、天武天皇の第六皇子で、文武天皇三年(699)に薨去された。
 この歌の「滝(たぎ)」は、宮滝の東南にその跡が残っている。その南に高さ四八七メートルの三船山がある。
 滝のほとりの三船山には、あのようにいつも雲がかかって見えるが、自分たちはああいう具合に変わりなくいるだろうとは、私には思えないことだ。それが悲しい、というので、「居る雲の」は、「常」にかかるのであろう。
 「常にあらむとわが思はなくに」の句に深い感慨が感じられる。当時の人の心にそういう観想的傾向があったのだろうか。

 宮滝といえば忘れられない話がある。
 天武天皇が、壬申の乱に勝って即位した八年目に、皇后(のちの持統天皇)と六人の皇子を連れてここに行幸した。その目的は、大化の改新、壬申の乱と繰返した動乱のあとで、ここで諸皇子たちに、天地の神祇に誓って天皇に忠誠をつくすことを盟約させるためであった。
 六皇子は、おのおのその母を異にしている。そしてみんな、壬申の乱に天皇と行動をともにして功のあった皇子である。
 将来、彼らの異心や離反のあることをおそれ、集権国家の強力な天皇維持の盟約であった、といわれている。

 草壁皇子が先ず進み出て、
 「自ら十余人の男王は、みな異腹から生まれているが、今日以後、同腹と同じく互いに助け合い、天皇の命に服しましょう。もし、この約束を破るときには、身は滅び、子孫は絶えるでしょう」
 と、神祇および天皇に誓った。つづいて、あとの五人の皇子も同じく盟約した。
 天皇は感動して、
 「自分の子はみな異腹ではあるが、今日から一母同産(ひとつおもはらから)のごとく慈しみましょう」
 といって襟を開いて、六皇子を同時に抱いたという。六皇子とは、草壁、大津、高市、河島、忍壁、志貴の六人であった。弓削皇子の名はない。

 しかし、それから七年目、天武天皇が崩じ、皇后が即位すると、ひと月足らずで、かつて天智天皇の鍾愛を受けたことのある第二皇子大津は、謀反のかどで死を命じられて世を去った。
 思えば、壬申の乱に勝利を得たとはいえ、天武・持統政権には、まだまだ不安な事態が多かったのである。
 このとき、わざわざ吉野まで来て盟約を結ぶ理由はどこにあったのだろう。
 吉野はたんに風光が美しいというようなことではなく、禊(みそぎ)の川である吉野川があるから、その川に禊して、ここに天神地祇をまつったものと、考えられている。

 梅雨が明けた今日も、中学三年の女子が、父親を刺し殺すという事件が起きた。
 昨晩、ともに買い物をし、ともに夕食を作り、ともに食べた、その父親を包丁で刺し殺したという。どうにも不可解だ。
 親にしかられ、親を困らせたいと、バスジャックする少年。
 昔も今も変わらぬ親殺し・子殺しは、いったいいつまでつづくのであろう。


      梅雨明けのみちのく津波注意報     季 己      

お食事券で汚職事件

2008年07月18日 21時54分34秒 | Weblog
 大分県教委の汚職事件が、大問題になっている。これまた、何で今ごろになって問題になるのか分からない。
 40年も前にも、「先生の子どもは、教員採用試験に合格しやすい」、「教頭・校長試験には、引きやコネがなければ合格しない」などと、堂々?と言われていた。
 さらに前の、変人が小学生のころ、校長にべたべたし、色目を使い、授業はまるでダメというオナゴ先生がいた。いま考えてみれば、教頭になりたくて腰巾着になっていたのであろう。
 その腰巾着のオナゴ先生は、今、寝巻きや下着姿で、時には裸足で徘徊しているという。

 長い間の悪しき慣習で、罪の意識はまったくなく、どこの都道府県でも大なり小なり行なわれていたと思う。
 金銭の授受はともかく、口利き・不公平が100パーセントない、と言い切れる教委がはたしていくつあるやら。変人はゼロと思うが如何。
 文部科学省は、幕引きのタイミングを狙っているだろうが、早く幕を引かないと日本中の公立校は、収拾のつかない状態に陥るに違いない。
 生徒や保護者に動揺を与えないため、と称して、大分県だけで捜査は終結するのではないか。
 現金や商品券では汚職になるから、今度から「お食事券」を贈ろうだって!それこそマズイ、「お食事券」は、汚職事件になるので……。

 文部科学省の次は、外務省がらみの話。
 海外での日本語教育が強化される、と読売新聞が報じている。
 それによると、インドネシアやフィリピンの看護師と介護士を受け入れることが決まっているが、受け入れの最大の障害が「言語の壁」だという。海外で日本語教育が普及すれば、試験に不合格で帰国を余儀なくされるケースが、確実に減らせるだろう。
 これまで決して熱心とは言えなかった日本の取り組みをよそに、日本語を学ぶ外国人の数は、27年間で約23倍に膨れ上がっているという。
 こうした将来の「知日派」たちを育てていくことは、文化や経済の交流拡大、対日摩擦の緩和など様々な恩恵をもたらすに違いない。
 そのためには、第2外国語の授業で日本語を教える教師は、片手間ではなく、日本語教育の訓練を受けた専門家でなければならない。
 団塊の世代の大量退職者の中には、国語教育に携わってきた方がいるはずだ。そういう方々を集めて、日本語教育の研修を行なえば、即戦力になるのではなかろうか。

 昨年は、「観光ボランティアガイド養成講座」を受講し資格を得たが、出番がまわってこない。
 ボランティアガイドは40名以上いるが、ガイド依頼が年に3~4件しかない。これでは2~3年に一度しか出番はまわってこない。
 それでもまた、「観光ボランティア養成講座」を開き、ガイドを養成するとのこと。するとますます出番がなくなる。
 ということで今年は、「日本語ボランティア養成講座」を受講し始め、あと16回残っている。
 日本語ボランティアは、在日外国人の日本語習得のお手伝いが、おもな仕事?である。
 区のセンターの学習室に、日本語を学びに来る外国人と、教科書に基づき、マンツーマンで、共に学ぶというシステムである。
 日本語は国語ではないということで、「国語科教員免許」も「小学校教員免許」もクソの役にも立たない。
 たしかに、日本語を話している者に教えるのと、日本語をまったく知らない外国人に教えるのとでは、大きな違いがある。

 ちなみに、使用している日本語教科書の目次をここに記す。
   第1課 テストは9時10分からです。
   第2課 これは誰のテープですか。
   第3課 この大きい猫は誰のですか。
   第4課 広いですか。
   第5課 冷蔵庫の中にビールとおさしみがあります。
   第6課 吉田さんの一日、佐藤さんの一日
   第7課 財布を落としました。
   第8課 天気はどうでしたか。
   第9課 使い方を教えてください。
   第10課 団体旅行
   第11課 自己紹介
   第12課 料理教室
   第13課 留学生の生活意識
   第14課 マリーさんの日記
   第15課 どちらのほうが近いですか。
   第16課 病院
   第17課 天気予報
   第18課 朝食と健康

 これらを教えるのに、小学校教諭、中学・高校国語科教諭の経験者でも何の特典もないのだ。
 どんな教科書であれ、きちんと教えられるのが教師である。生徒一人ひとりの顔を思い浮かべ、授業案を練り、実践し、反省する毎日を過ごしてきているのだ。何か考えてくれてもよさそうだが、やはり、「お食事券」でも贈らなくてはダメか。

 高校国語科一級免許を所持し、国語はもちろんのこと、数学、俳句、ソロバンなどを、三歳の幼児から93歳の方まで教えてきた変人は、日本語ボランティアになるため、ただいま勉強中。毎時間、キツイ質問をして、先生が何と答えるかを楽しみながら……。


      質問のできる悦び ねむの花     季 己

夏の夜

2008年07月17日 23時24分08秒 | Weblog
        夏の夜や崩れて明けし冷し物     芭 蕉

 元禄七年(1694)六月十六日(陽暦の7月18日)、琵琶湖の南、膳所(ぜぜ)に住む菅沼曲翠(はじめ曲水)の家での作である。
 当夜は主人の曲翠のほか、芭蕉・臥高・惟然・支考が集まり五吟歌仙巻いたが、その時の発句である。
 「冷し物」はよくわからないが、野菜や果物を錫などの鉢に盛り、水に冷した夏の料理と思われる。また、冷し素麺などのことという説もあるが、崩れるというところからすれば、この説は取れない。

 季語は「夏の夜」で、夏であるが、夏の夜は短く明けやすいことを本意とする。
 遅くまで明るく、日が暮れて少し夜更かしをしたかと思うと、しらじらと明け初める、そのはかない感じを詠むのが本意である。
 この句も、その本意に添って詠まれた句で、宴席の興奮もようやく収まり、話も途切れがちになり、疲れがしだいに襲ってくるころ、卓上の料理の冷し物も、いまは崩れて見るかげもない。短い夏の夜は、早くもしらじらと明け初める気配だ、というのであろう。

 歓楽の果て、興奮の収まったあとのむなしさを、夏の夜のはかない季節感と重ね合わせて、見事に写し出している。
 このとき同席した支考はのちに、「今宵ノ賦」という文章を書いて、一座の雰囲気を伝えている。
 風雅の交わりであるから、淡きをむねとしているので、この次はいつ、どこで、こうして会えるか期しがたい心持が、人々の胸中にあることを述べ、「去年の今宵は夢のごとく、明年はいまだきたらず、今宵の興宴、何ぞあからさまならん」と述べ、また「おぼえず鶏啼きて月もかたぶきける也」とも記している。


      夏の夜や独りの旅の月走る     季 己