壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (83)親句と疎句④

2011年05月14日 20時08分17秒 | Weblog
 ――親句と疎句①②の段では、主として親句と疎句の実例を示したにすぎないので、③の段で、さらに詳しく説明しているのです。
 この段においても、心敬の重んじているのは疎句の方です。
 これを、教に対する禅、不了義経(方便のために教えを説いた経典)に対する了義経(真実究極の道理をそのまま説いた経典)に比したのも、疎句における前句と付句が、現象的なものでかかり合っているのではなく、微妙深甚な観念または情緒のうえで、かかり合っているのを指しているのです。
 また、「疎句の歌境を目指して修業しなくては、どうして歌道の奥義をきわめることができようか」とは、そうした仏道における大悟の境地にも比すべき疎句の歌を目標にして修業を重ねてこそ、はじめて歌道の奥義を体得できる、というのです。
 しかし、いったん疎句の歌の深甚な境地を体得できたなら、そこにばかり止まっていてはならない。なぜなら、親句は、疎句の精神が形をとって現れたものに他ならないので、親句といえどもおろそかにはできないからです。
 結局、親句あるいは疎句の一方の境地にだけとどまらず、臨機応変、融通無碍であるのが真の歌人だというのです。
 疎句の重んずべき所以を説く一方、それにのみ固執することの誤りをも指摘しているのです。

 心敬の思想と芸術を理解するには、格好の段ですが、仏教用語のオンパレードで、非常にわかりにくいと思います。
 この段の結論を簡単に言えば、「心敬の文芸理念の基盤にある仏教思想の中枢は、大乗仏教の根本である空の理念である」ということなのです。

 心敬は、疎句を重んじました。それは、疎句の連歌が、色や形にとらわれない真理そのものであるからです。
 そして、疎句の応用、つまり、色や形をまとったわかりやすい表現形態として、親句を位置づけたのです。
 色や形をまとった表現、わかりやすい表現である親句は、理解しやすいけれども意義が十分に説き示されていません。
 色や形を持たない表現、深奥な部分で響き合っている疎句は、理解しにくいけれども、意義が完全に解明されたものなのです。

 つぎに「大悟」ですが、これは菩薩の悟りのことです。
 菩薩の悟りを目指して修行しなければ、生死を離れることはできないということです。
 しかし、「一切空と観ずる悟りをひらいた」だけでは不十分だと、心敬は言うのです。それは「空」ということにとらわれているからです。

 立原道造の詩に、『のちのおもひに』というのがあります。

        夢はいつもかへつていつた 山の麓のさびしい村に
        水引草に風が立ち
        草ひばりのうたひやまない 
        しづまりかへつた午さがりの林道を

        うららかに青い空には陽がてり 火山は眠ってゐた
        ――そして私は
        見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
        だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……

        夢は そのさきには もうゆかない
        なにもかも 忘れ果てようとおもひ
        忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

        夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
        そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
        星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう
                       (立原道造 『萱草に寄す』)

 詩中の、「忘れつくしたことさへ わすれてしまつたとき」が、「大悟」に当たると思います。つまり、無心、無我、無意識の状態をいうのです。 


      白牡丹くづるる怒つたらあかん     季 己