壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

芭蕉野分して

2009年08月31日 19時55分10秒 | Weblog
          茅舎の感
        芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな     芭 蕉

 古くは台風という語はなかった。今日、台風といえば雨を伴うのであるが、野分(のわき)は風だけである。
 蕭条たる野分と雨とに、更けゆく夜の感じを音の世界によって把握した句であり、境涯的なものがにじみ出てきている。
 このとき、芭蕉は三十八歳。談林の波を凌(しの)いできた気息が、おのずから「芭蕉野分して」という字余りとなって、ほとばしった感がある。
 『三冊子』には「芭蕉野分盥(たらひ)に」の句形で出し、「はじめは、野分してと二字余りなり……後なしかへられ侍るか」とある。
 後年、このように改作したようだが、改作したものよりもこの字余りの句形の方が、把握の勢いを気息に乗せて生かしているように思う。

 芭蕉葉に雨音を聞く趣は、漢詩の恰好の題材とされたもので、白楽天の「夜雨」や『詩人玉屑』などにも見える。
 㝢柳(うりゅう)の『伊勢紀行』は、「斗時庵が家珍に」として、「老杜(らうと)、茅舎破風(ばうしゃはふう)の歌あり。坡翁(はをう)ふたたび此の句を侘びて、屋漏(をくろう)の句作る。其の夜の雨を芭蕉葉に聞きて独寝の草の戸」という前文とともに、冒頭の句形で掲出し、「是は深川庵中の吟にて、これより芭蕉の翁とは世にもてはやす事になりしとよ」と付記する。
 これによれば、杜甫・蘇東坡の詩を念頭に置いた作で、当時、代表作としてもてはやされたことがわかる。

 「茅舎の感」は、深川芭蕉庵での生活の感慨を詠んだ、という意。茅舎は草葺きの家、あばら屋。
 「芭蕉野分して」は、屋外の芭蕉に野分が吹きつのって、葉のざわめく音が聞こえるのをいったもの。
 「盥に雨を聞く」は、雨漏りをうける盥に雨音がしているさま。芭蕉葉に聞くべき雨音を盥に聞くというのである。
 「芭蕉」も「野分」も秋。

    「野分が吹きつのって、外の芭蕉はしきりにはためいている。雨漏りにあ
     てがった盥には、しきりに雨水がしたたって聞こえる。まことに侘びし
     い茅屋の夜の感じだ」


      片側の雲のまぶしき野分かな     季 己

初秋

2009年08月30日 14時29分05秒 | Weblog
        初秋や畳みながらの蚊屋の夜着

 「や」+「体言止め」の、典型的な取り合わせ(二句一章)の句である。
 「初秋」は、「はつあき」と読み、「初秋(しょしゅう)」、「秋口(あきぐち)」、「新秋(しんしゅう)」、「秋初め」などとも詠む。
 暑い夏を嘆いているうちに、いつのまにか風の音、雲の流れや山の形などに、どこか秋の気配を感じる。朝夕に、今までとは違う自然の安らぎを覚える。
 暑さはまだ残っているが、かそけき秋の気配を「初秋」と詠んでいる句が多いようである。
 「畳みながら」は畳んだまま、の意。「蚊屋」は、いわゆる「蚊帳(かや)」のこと。

 庶民生活の一コマをうたって、それが境涯的なものをおのずとただよわせ、季節の微妙なうごきを人間の生活を通して探りとっている作である。
 滲透型ともいうべき、芭蕉の発想の特色をうかがう好例ということが出来る。
 なお「蚊屋」については、『春の日』に、「芭蕉翁を宿し侍りて」と前書きした「霜寒き旅寝に蚊屋を着せ申す」という如行の句が見える。
 「初秋」が季語。「蚊屋」(夏)、「夜着」(冬)は、ここでは季語として働かない。「初秋」は、人の生活に寒さを及ぼす面で使われている。

    「もう初秋のこととて、用がなくなってきた蚊帳をたたんだままにしてお
     いたが、夜が更けてくると、初秋の涼気が身に迫ってくる。そこで、た
     たんだままの蚊帳を夜着の代わりとしてかけて寝たことだ」


      初秋の瀬音ととのふ百花園     季 己

カマキリ

2009年08月29日 20時06分44秒 | Weblog
 「最後のお願い……」と候補者の名を連呼しながら、選挙カーが走り過ぎた。
 いま、やっと静かになった。明日は衆議院選挙の投票日。
 正直言って、ぜひ投票したい人も政党もない。しかし、落選させたい人はいる。仕方がないので、当選できそうな対立候補に投票することに決めた。死票はイヤなので。
 国民の生活安定のためには、わが身を捨てて顧みない、というような議員は、いつになったら出てくるのであろうか。

        蟷螂が片手かけたり釣鐘に     一 茶

 蟷螂は、歴史的仮名遣いでは“たうろう”、現代仮名遣いでは“とうろう”であるが、カマキリのことである。もちろん、蟷螂と書いて、“かまきり”と読んでもよい。蟷螂は、かまきりの漢名なのだ。 
        かりかりと蟷螂蜂の貌を食む     誓 子
 の季語は、「蟷螂」で秋季であるが、
        蟷螂の斧をねぶりぬ生れてすぐ     誓 子
 の季語は、「蟷螂生る」で夏季となる。

 数ある昆虫の中でも、カマキリほど表情に富んだユーモラスな感じのするものはない。
 じっと胸を反らして、四本足で立ち上がった後ろに、さらりと垂れた長い翅はフロックコート。キョロキョロと大きな複眼を光らせた小さな三角頭は、鼻眼鏡をかけてチョビ髭を立てた気取り屋の紳士。
 しかも時折、仔細ありげに小首をかしげるもったいぶった様子ときたら堪らない。胸のあたりに真っ白いハンカチか、金の鎖でもちらついているような気さえする。
 ゆらりゆらりと尊大な足取りで、時にはぱっと翅を広げて見せて、伊達者ぶることもあれば、奥の手の鎌を振りかざして、不逞の輩を怒鳴りつけるに至っては、全く特権的なエチケットで寸分の隙もないワンマンぶりである。
 ともかく、首の関節・腰の関節を自由自在な角度に回すことが出来て、手と脚との使い分けがはっきりし、飛ぶも歩くも、横歩きも後ずさりも自由なカマキリは、あらゆる昆虫の中で最も人間に近い身のこなしをしてみせる。

 だから、昔の人も蟷螂を見ては、自分の身に引きくらべて、いろいろなたとえ話を作ったのだ。
 中国の古典『荘子』には、「蟷螂ノ臂(ヒヂ)ヲ怒ラシテ車ノ轍(ワダチ)ニ当ルガ如シ」と記して、自分の能力も知らずに、無謀な企てをする人の戒めとしている。
 そうかと思うと、『説苑』には、蟬が夢中になって歌っている背後には、蟷螂が一心に蟬をうかがっており、その蟷螂を鳥がうかがい、その鳥を撃ち落とそうと人間の自分が、露に着物が濡れることも知らずにうかがっている、という寓話を引いて、目先の利害に心を奪われて、正しい道を見失いがちな人生を戒めている。

 わが国でも、平安朝の昔には、「蟷螂(いぼじり)舞ひの頭筋(あたますぢ)」といって、蟷螂の滑稽な首の振り方をまねた猿楽の舞があった。
 ところがただ一つ、人間がとうていまねることの出来ないカマキリの習性がある。それは、生殖作用を終わったカマキリの雄が、喜んで雌に食われて死ぬという、あの献身的な愛情である。
 卵をもった雌の栄養維持のためには、わが身を捨てて顧みないカマキリの雄。いくら男女平等、レディーファーストと騒いでも、まさか人間が、そこまで進歩?することはあるまい。


      かまきりの構へて鎌は風のなか     季 己

残暑

2009年08月28日 20時37分21秒 | Weblog
 立秋後の暑さを「残暑」という。ここ数日、涼しさを感じた身体には、今日の残暑は、盛夏以上に厳しく感じられた。
 俗に、「暑さ寒さも彼岸まで」というように、秋の彼岸を過ぎると猛暑が嘘のように失せて涼しくなるが、はたして今年はどうだろうか。

        牛部屋に蚊の声くらき残暑かな     芭 蕉

 この句、『三冊子』に「此の句、『蚊の声弱し秋の風』と聞えしなり。後直りて、自筆に『残暑かな』とあり」と注記して掲出されている。また、『泊船集』などには「牛部屋に蚊の声弱し秋の風」とあり、これが初案であると思われる。

 初案では、「弱し」と「秋の風」がつきすぎていて、それだけに常識的な構成になってしまい、せっかくの「牛部屋」の特異性が十分に生きてこない。
 改案の「蚊の声くらき残暑かな」になると、蚊の声のあり方が、まさに残暑という一つの季節そのものの感じとして生かされるに至っている。

 聴覚的なものを視覚化して把握したものとしては、すでに『野ざらし紀行』の中に「海暮れて鴨の声ほのかに白し」の作があってよく知られているが、この「蚊の声くらき」もそれに並べて評価できるのではなかろうか。
 しかも、この場合の「くらき」は、牛部屋の昼の時間内における暗さ、獣のにおいそのものがもつ暗さをも感じさせるものとなっている。

 「残暑」が季語で秋。「蚊の声くらき」という特異な把握の中に、その季節が的確につかまれている。
 初案の季語は「秋の風」。「蚊」は夏季であるが、ここでは残暑につつまれてはたらく。

    「暑苦しく獣の匂いが満ちた牛部屋の暗がりの中に、蚊の声がくらくこもって
     いて、ひとしお残暑のけだるさを感じさせられることだ」


      秋暑し浅漬けに竹串を刺し     季 己

虫の声

2009年08月27日 21時00分40秒 | Weblog
        行水も日まぜになりぬむしのこゑ     来 山

 来山は、小西氏、名は伊右衛門。別号は満平・十万堂・湛翁(たんおう)・湛々翁・未来居士など。
 承応三年(1654)、大坂に生まれる。享保元年(1716)没。
 初め前川由平(まえかわよしひら)に俳諧や書を学び、のち西山宗因の門に入って談林俳人となる。
 『大坂八五十韻(おおざかはちごじゅういん)」を偏したりするも、俳諧革新の運動が起こると、「行水の捨てどころなき虫の声」で有名な鬼貫(おにつら)らと親交して、その流れに乗り一家を成す。
 また、元禄五年(1692)の『咲やこの花』以降は、雑俳点者としても活躍した。
 性格は洒脱磊落の反面、主情的で、俳風は都会趣味的、人事の句を得意とした。

 この句、一年ほど前に当ブログでちょっとふれたが、季語は「むしのこゑ」で秋。
 虫というのは、草むらにすだく虫で、立秋の頃から鳴き始める。
 「行水」は、古くは潔斎を目的に行ない、垢離(こり)をとるのと同じ意味をもっていた。江戸時代にはすでに宗教的な意味を失い、たらいに湯を入れて手軽に湯浴みし、汗を流すという風物詩になっていた。しかし、当時はまだ季語にまではなっていない。

 「日まぜ」は、一日おきのこと。
 無意識のうちに季節の推移に身をゆだねていたが、ある日、ふと虫の声を聞きながら、先日までは今ごろ毎日行水を使っていたのに、と季節の微妙な変化に気づき、感慨をもらした句である。好感のもてる素直な句作りというべきであろう。

    「暑い夏の間は、毎日行水をしていたが、涼風が立ち、虫の声が聞かれる
     ようになったこの頃では、いつの間にか一日おきになってしまったことだ」


      日暮らしの里や捨て身の虫の声     季 己

しみ入る

2009年08月26日 15時47分39秒 | Weblog
        秋の蟬たかきに鳴きて愁ひあり     白葉女 
 
 めっきり涼しくなった朝方、みんみん蟬と法師蟬の競演があった。季語としては、みんみん蟬は夏で、法師蟬は秋である。
 また、秋の蟬という季語もある。
 初秋になって鳴き始める「ひぐらし」や「法師蟬」は、もとより秋の蟬で、そう詠んで差し支えないが、「油蟬」や「みんみん蟬」「にいにい蟬」が、生き残ってまだ鳴いている――という表現にふさわしいことばである。やがて、彼らは死ぬ。古句にもそんな気持ちをこめた作が多い。

        鰯雲炎えのこるもの地の涯に     八 束

 雲も秋。秋の雲には魚が多い、「うろこ雲」「いわし雲」「さば雲」……。
 魚の鱗のようにこまごまと秋の深い空をいろどる雲である。いのち短く、ふと目をそらしているうちに、どこかへ消え失せてしまう。

 『虚堂録一』にこんな詞がある。

   雲在嶺頭閑不徹   雲は嶺頭(れいとう)に在って閑不徹(かんぶてつ)
   水流礀下太忙生   水は礀下(かんか)を流れて太忙生(たいぼうしょう)

 雲は山頂にしずかに浮かび、水は礀間(たにま)を忙しそうに流れる。その雲や水の無心の状態をうたったものである。
 中国南宋の虚堂(きどう)禅師(1269没)が、報恩寺を引退されるときの詩の転結二句である。
 閑不徹の不徹は、閑かさを強める助辞(助けことば)で、意味よりも雲の無心さを読み取りたい。芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蟬の声」に通じる無心の深さをいう。不徹は、「しみ入る」徹底の徹底といえよう。

 太忙生の生も、さきの不徹と対応する語で意味はないが、やはり、水の流れの無心さを味わいたい。
 流れていく先々にさまざまな障害があっても、水は無心にさらさらと、たださらさらと流れていく。

 雲は無心のままに山頂に浮かぶから、暇をもてあます気もないし、「小人閑居シテ不善ヲナス」邪念も起きない。
 水は無心のままに谷間を流れるから、多忙で困るという愚痴も出ない。
 「閑静」・「多忙」のいずれにも充実した人生がある。ここに、多忙なままに「雲は嶺頭に在って閑不徹」という場に、自分が座れる道理がある。
 「忙」は、りっしんべん(心におなじ)に亡と書く、つまり、心が亡(な)い現象を忙の字形が示している。良心不在・中心亡失を絵にしたような字形だ。また、「忙」の偏と旁(つくり)とを縦に配置すると「忘」となるのもおもしろい。

 私たちは、多忙のあまり忘れごとが多いが、いちばん大切な自分をどこかへ置き忘れたりする。そんなことのないように、心の中心は常に、「閑不徹」でなければならぬと教えられる。


      いわし雲 山よりことば湧いてくる     季 己

岩にしみ入る

2009年08月25日 20時08分15秒 | Weblog
        閑かさや岩にしみ入る蟬の声     芭 蕉

 『おくのほそ道』、立石寺のところに、
    「日いまだ暮れず。麓の坊に宿かり置きて、山上の堂に登る。岩に巌を重
     ねて山とし、松柏年ふり、土石老いて、苔なめらかに、岩上の院々扉を
     閉ぢて物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這ひて仏閣を拝し、佳景寂寞
     として、こゝろすみ行くのみ覚ゆ」
 とあり、この句を置いている。

 宝珠山立石寺、通称“山寺(やまでら)”は、清和天皇の貞観二年(860)、延暦寺座主円仁(慈覚大師)が、勅許を賜って創建した名刹である。芭蕉のころの寺領は、1420石といわれる。
 全山凝灰岩で、まさに「岩に巌(いはほ)を重ねて」切り立った山を成している。そこに「しみ入る蟬の声」である。句を読みおえて、もう一度「閑かさや」と初五に戻って「しづかさ」は更に深まる。この句をつらぬく摩擦音Sの効果はすばらしい。

 蟬の声が一つか多数かということで、句意も変わってくるのであるが、芭蕉が山寺を訪れた時候を考え合わせてみると、あまり蟬の多い時節ではなかったようである。また、蟬の種類についても異論が多いが、どの蟬でなければならないということはない。今は一応、“にいにい蟬”であろう、ということに落ちついているようである。
 さらに、
        山寺や石にしみつく蟬の声
             ↓
        さびしさの岩にしみ込む蟬の声
             ↓
        さびしさや岩にしみ込む蟬の声
             ↓
        閑かさや岩にしみ込む蟬の声
             ↓
        閑かさや岩にしみ入る蟬の声
 などの推敲過程から見ても、注意を要する作である。
 上五は、初案の「山寺や」では単なる説明にとどまる。「さびしさや」ではなお、自己を包み込んでいる大いなる自然の静謐感がたちあらわれてこない。
 全山寂たる岩山の中、一筋に澄み徹る蟬の声に耳を傾けることによって、更に幽閑なる境に入り立ったとき、「閑かさや」という大きく奥深い語感と、おおらかな響きを備えた発想の中に、自ずと落ちついたものと思われる。
 中七について言えば、「石にしみつく」は、表層的で流動感に乏しく、「岩にしみ込む」でも、形のない声の感じが死んで、水などのような形あるもののあらわな手ざわりが入りこんできて純一でない。やはり、「しみ入る」とあってはじめて一筋に澄み徹るその細みは生かされる。

 句形は、初五に切字「や」を置き、体言で止める典型的な二句一章。季語は「蟬」で夏。岩を媒(なかだち)として、蟬そのものに集中した発想。芭蕉作品の中でも、物そのものに想いを集中する発想をとった代表的な秀句である。

    「全山寂としてしずまりかえった中で、蟬が鳴いている。蟬の声は一筋に
     澄み透って、岩の中に滲み入るように感じられ、その岩に滲み入る蟬の
     声に耳を澄ませていると、いよいよ深い静謐の中に融け入る想いがする
     ことだ」


      ひぐらしの明日は思はず神の杉     季 己

朝な朝な

2009年08月24日 20時43分09秒 | Weblog
        朝な朝な手習すすむきりぎりす     芭 蕉

 秋の清爽な朝の気分の中に、おのずと手習(てならい)の精が出て、目に見えて筆の進みが感ぜられて、さわやかにはずんだ気持を、季節にふさわしい蟋蟀(こおろぎ)と通わせて詠んだ句である。

 この句、摩詰庵雲鈴著『入日記』に、元禄十三年(1700)佐渡行脚に際し、門人に与えた芭蕉真蹟の句として掲出されている。他に出ているのを見ない。出典・発想から見て、芭蕉晩年の作であろうと言われている。

 「朝な朝な」は、朝ごとにの意。アサナアサナともアサナサナともいう。一朝ひとあさ進む感じであるから、ここは「アサナアサナ」の方が、語感の上で生きてくると思う。
 「すすむ」を自動詞、他動詞いずれにとるかで句の趣が変わる。他動詞にとり、女には裁縫を、男には手習を奨めるようにきりぎりすが鳴く、という解は、句としてのおもしろさがない。

 季語は「きりぎりす」で秋。
 「きりぎりす」は、コオロギの古名。コオロギには「筆つ虫」の異名もある。ツヅレサセコオロギは、人家近くにもおり、明け方しげく鳴く。
 「きりぎりす」の情感が素直に生かされた発想である。

    「毎朝、毎朝いそしんでいる手習が、自分でも進む感じがし、心楽しいこ
     のごろである。そのうえ季節もさわやかな秋に入り、こおろぎの鳴き声
     もすがすがしく聞かれることだ」

 やっとさわやかな秋になったな、と油断したのが間違いだった。歌舞伎座の前でドシャ降りに出くわしてしまった。夕立だ。しばらく歌舞伎座の軒先を借り、雨宿りと決め込んだ。
 小降りになったので、「画廊 宮坂」へ向かう。
 「画廊 宮坂」も夏休みが終わり、いよいよ“芸術の秋”到来である。その第一弾が、「スペイン風景―墨絵」と題する【伊藤清和個展】で、今日から30日(日)まで開催される。
 昨年取材されたというスペイン風景を中心に、先生のライフワークともいうべき人物(女性)像もあり、非常に見応えのある個展である。
 「スペインは光と影の国」と、わが俳句の師・岸田稚魚先生から聞かされていたが、伊藤先生は、その光の部分を金箔で、影の部分を墨で表現されている。光線の具合で、いろいろに楽しめるのも素晴らしい。
 人物をライフワークとしている先生だが、裸婦は描かないという。ヌードは、人間という動物にしか見えないかららしい。

 作品を堪能していたら、サプライズがあった。なんと画廊で、【津軽三味線演奏会】が始まったのだ。
 演奏者は、先生の友人である、若き津軽三味線奏者・小野田雄互(おのだゆうご)さんだ。プロになって日が浅いらしく、民謡好きの変人も存じ上げなかった。
 演奏を聴くかぎりでは、しっかりとした師匠について、とてもよく勉強されていると感じた。しかし、プロは技術があって当たり前。あとは“こころ”をいかに磨くかである。一冬でいいから津軽の冬を肌で感じ、その想いを演奏に生かしたら、より心打つ演奏になると思う。
 「朝な朝な」津軽三味線を“敲く”だけでなく、“弾く”こともすれば、今の若い奏者の「見せる」津軽三味線を超え、「魅せる」津軽三味線奏者になれると確信する。
 頑張らなくていい、力まなくていい、ひたすら津軽の風土を全身で感じて欲しい。


      雨脚が見得切つてゐる夕立かな     季 己

続 故郷

2009年08月23日 14時25分11秒 | Weblog
        秋十年却つて江戸を指す故郷     芭 蕉

 賈島(かとう)の詩の想のみならず、その口調まで学んでいる。そして、その詩の中に入り込んで、その詩の世界を自分の境として感じとろうとしている。そこが新鮮な感じを与えるとともに、一脈の生硬さをとどめる点にもなっている。

 「秋十年(あきととせ)」の「秋」は、星霜・春秋・春などで一年をあらわすのと同じ用法で、十年の星霜というほどの意である。
 江戸出府よりは足かけ十三年、延宝四年の帰郷よりは九年の月日が経過しているので、「秋十年」は、概数をいって句の声調を生かそうとしたものであろう。
 「却(かへ)つて江戸を指す故郷」は、伊賀が芭蕉の故郷であるが、江戸に十年の星霜を経てみると、かえって江戸の方が故郷らしく感じられるの意で、きのう記した、賈島の「桑乾を渡る」の詩を踏まえている。

 また、『笈の小文』の旅の折に、山口素堂の贈った餞別詩の序には、「老人(芭蕉)常ニ謂フ、他郷即チ吾ガ郷ト」とあり、これは、他郷がそのままわが故郷である、の意である。

 「秋十年」の「秋」が季をあらわすが、きわめて漢詩的な使い方で、季感はほとんど感じられない。
 貞享元年の作で、『野ざらし紀行』に「野ざらしを心に風の沁む身かな」と並んで出ている。

    「故郷へ帰ろうとして、いま江戸を出立するに際して考えてみると、すで
     に十余年の星霜を重ねた江戸の方が、帰ろうとしている故郷よりもかえ
     って故郷らしい懐かしさを感じさせることだ」


      踊りぬき残る思ひの阿波踊     季 己

故郷

2009年08月22日 19時56分41秒 | Weblog
 詩文を作るのに、字句をさまざまに練ることを「推敲」という。「推敲」にはこんな故事がある。
 唐の詩人、賈島(かとう)は、白居易(はくきょい)・元稹(げんじん)などの平易・通俗的な詩風の流行に反発、奇癖の句を求めて苦吟しつづけた。
 ある時、「鳥は宿る池中の樹、僧は推す月下の門」という対句を得た。けれども、「僧は推(お)す」がよいか、「敲(たた)く」がよいかと思いあぐね、推したり敲いたりする仕草をして歩くうち、都の長官、韓愈の行列にぶつかってしまった。韓愈は、賈島の熱意に免じて非礼を許し、「敲の字がよい」と評した。
 その後、毎年晦日に、神前に一年分の自作の詩をささげ、「これが私の終年(いちねん)の苦心であります」と祀り祈ったとも伝えられている。
 死後には、病気のロバと古い琴を残すのみであったという。

        度桑乾 (そうかんをわたる)   賈 島

   客舎幷州已十霜   幷州(へいしゅう)に客舎して已に十霜(じっそう)
   帰心日夜憶咸陽   帰心(きしん)日夜咸陽(かんよう))を憶(おも)う
   無端更渡桑乾水   端無くも更に渡る桑乾(そうかん)の水
   却望幷州是故郷   却(かえ)って幷州を望めば是れ故郷

     幷州での旅暮らしも、すでに十年になった。
     その間、日ごと夜ごとに帰心はつのるばかりで、都の長安を思い続けてきたのだ。
     ところが今、思いがけずまたもや桑乾の流れを渡り、別の任地に旅立つことになった。
     なんと幷州を望みやれば、仮の宿りと思ったその町が、故郷のように懐かしまれる。

 長年、厭い続けた任地の町に別れを告げる時、その町にむしろ第二の故郷を感じたという心境をうたった詩である。望郷詩の変形バージョンである。
 咸陽(長安)は、作者の実の故郷ではない。しかし、華やかな都の暮らしこそは、彼の心の故郷なのだ。その都を追われて、不本意にも十年の田舎暮らし。
 その間、都への思いをつのらせたと説く起・承二句は、「已十霜(十年の冬をすごした)」という寒々とした、その地での長い辛苦の経験を暗示する表現で、地方官づとめの惨めさを切なく感じさせる。

 転・結二句の、思いがけずこの町に別れを告げ、都ならぬ別の地に転勤する時、にわかに町への親しみの情がつきあげてきたという語は、この詩の生命である。
 桑乾などという片田舎の川を、都に背を向けて、とぼとぼ渡って行かねばならないやりきれなさ、無念さが、痛いほどに迫ってくる。
 「却望幷州」の結句の四字が、起句の「客舎幷州」と句を隔てて、同位置に置かれているのは印象深く、心憎いばかりである。


      秋日さす路地の簾を故郷とも     季 己

覚悟と決意

2009年08月21日 20時11分36秒 | Weblog
 候補者の名前を連呼しながら、選挙カーが通り過ぎてゆく。
 ただでさえ、暑くてたまらぬのに、選挙期間中は、暑苦しく、気が狂いそうになってくる。選挙の時だけ、口当たりのいい、おいしいことを並べ立て、選挙が終われば知らんぷり。
 はたして候補者に、どれだけの覚悟と決意があるのだろうか。

        野ざらしを心に風の沁む身かな     芭 蕉

 旅に出ようとするにあたって、自分の旅の前途を思いやっているのである。思いやった末には、旅に果てた白骨が横たわっている。それは旅に死んだ古人の白骨であるとともに、自分の旅の果の姿でもある。
 こういう自分を、芭蕉の目はしっかり見つめているわけである。自分の運命を凝視する思いと、現実に沁みわたってくる秋風の季感とが感合滲透して、決意を思わせる声調を生み出しているのである。
 身に沁む秋風の中に、旅の果の「野ざらし(=されこうべ)」を思うところなど、漢詩文的な骨子を踏まえた発想でありながら、それが今までよりいちじるしく柔軟な声調となっている。この時期の俳風に比して、おどろくべき新鮮さというべきであろう。

 この句は、『野ざらし紀行』冒頭の句で、
    「千里に旅立ちて路粮(みちかて)をつつまず、三更月下無何(さんかう
     げつかむか)に入ると云ひけむむかしの人の杖にすがりて、貞享甲子秋
     八月、江上の破屋を出づるほど、風のこゑそぞろ寒げなり」
 とあって出ている。
 「千里に……」は、『荘子』逍遥遊篇の「適千里者三月聚糧」、「路粮をつつまず」は、『江湖風月集』にある広聞和尚の詞によった表現といわれる。遠い旅に出るのに食料の用意もせず、真夜中の月の下、無我の境地に入る、の意。
 「無何」は、『荘子』の無何有之郷。
 「江上の破屋」は、隅田川のほとりの芭蕉庵をさす。

 『野ざらし紀行』は、『甲子(かつし)吟行』ともいわれる紀行文である。
 貞享元年(1684)秋八月、四十一歳の芭蕉は、門人千里(ちり)を伴って深川の草庵を出で、東海道を伊勢まで直行して、九月、郷里の伊賀に入った。さらに大和へ廻って千里と別れ、吉野・山城・近江・美濃・尾張と経めぐり、郷里で越年した。
 翌、貞享二年、奈良・京都・伏見・大津を経て名古屋に至り、甲斐の山中に立ち寄って四月末に帰庵するまで、九ヶ月の旅をつづけた際の紀行文なのだ。
 芭蕉の紀行文として最初のものであり、また、芭蕉七部集の第一集『冬の日』の中の連句作品がこの旅中につくられ、蕉風樹立を記念する旅であった。

 「野ざらし」は、野にさらされた髑髏(されこうべ)。
 「心に」は、心に置いて、の意。
 「風の沁む身」は、秋風のひえびえとした冷気が身に沁みて感じられることをいったもの。
 「身に沁む」は秋の季語。ここでは「風の沁む身」と変化させて用いた。季の生かし方は、句の内容に滲透してくるようになっている。

    「いま長途の旅に出立しようとして、つくづく思いやると、旅路の果に、
     行路に倒れて白骨となって横たわる自分の姿が心に浮かんでくる。折し
     も秋八月のこととて、立ちそめた冷気がひとしお身にひえびえと沁みこ
     んでくるような思いである」


      秋暑く思ひかたれよ夕鴉     季 己

現実の把握

2009年08月20日 20時11分51秒 | Weblog
        秋風や藪も畠も不破の関     芭 蕉

 この句は、貞享元年(1684)九月、芭蕉が、近江から美濃へ廻った時の作で、『野ざらし紀行』に「不破」と前書きされている。不破は、古代の不破の関で、その遺蹟は今の関ヶ原町にある。時の推移とともに荒廃してしまって、のちにはその荒廃ゆえに歌枕となった。
 「不破の関」は、伊勢の鈴鹿、越前の愛発(あらち)とともに、昔の三関の一つである。

 懐古的感懐の句としては、代表的なものの一つとなっている。
 発想の契機は、日本詩歌の伝統ともなっている不破の関の荒廃感である。『新古今和歌集』の、
        人住まぬ 不破の関屋の 板庇(いたびさし)
          荒れにし後は ただ秋の風   藤原良経
 の歌は、この句の本歌として働いてはいるが、「藪も畠も不破の関」という現実の確かな把握による感動の底に沈められ、完全にこの句に同化されている。
 「秋風」という季語も、関跡に立ってのしみじみとした感懐に滲透するものとして生かされ、不動の重みをもっている。「不破」という地名が「破れず」という意をもつにもかかわらず、現実には荒れ果ててしまっていることへの心の動きが、発想に働きかけていたことは否定できない。
 しかし、「藪も畠も」という眼前の現実に即した俳諧的な“発見”を高く評価すべきであろう。

 この句に類似するものに、
        豆植ゑる畑も木部屋も名所かな     凡 兆
 というのがある。これらの句の「も」を重ねてゆく用法を考えるに、それは「藪」とか「畠」、あるいは「畑」とか「木部屋」が、昔の遺蹟の跡だという間接的な認識ではなく、それらがそのまま「不破の関」であり、名所だと読み取るべき句法ではないかと思う。

 この句の本歌とされる良経の歌は、昔の不破の関屋に連続し、その荒廃を見ている趣向であるのに対し、これは、不破の関屋とのかかわりを断絶し、現実の「藪」や「畠」の中に、イメージとしてその面影を重ねている。
 『おくのほそ道』の白河の条の、「秋風を耳に残し、紅葉をおもかげにして、青葉の梢猶あはれ也」という現実肯定の姿勢に先立つ句として、これは意義が認められる。

      「いにしえに、厳しく人の出入りをとどめた不破の関は、その名も空
       しくすっかり荒れ果ててしまった。古人を嘆かせた板庇とて今はな
       く、ただ目に入るものは藪と畠ばかり。そこを秋風がさびしく吹き
       めぐっているのみである。この藪もこの畠もすべて不破の関の跡で
       あると思うと、うたた感慨に堪えないものがある」


      甲斐駒をみて秋風に背を押され     季 己

俳句の日

2009年08月19日 22時39分37秒 | Weblog
 きょう八月十九日は、俳句の日だという。いつ・誰が決めたか知らぬが、8.19を語呂合わせでハイクと読んだのだろう。同じ理由で、バイク好きは、バイクの日だという。
 変人にとっては、毎日が俳句の日でもあるが……。

        芭蕉葉を柱にかけん庵の月     芭 蕉

 新しい芭蕉庵が落成して、愛する芭蕉を移し植えることのできた喜びを詠んだものである。
 今回の第三次芭蕉庵は、門弟でありパトロンでもある杉風(さんぷう)らの手で成ったもので、昨冬からこの五月までの間は仮寓にいたのである。
 第二次芭蕉庵を売って、『おくのほそ道』の旅に出立して以来三年に及ぶ旅泊の果ての江戸定住であるから、芭蕉を移し植えた新庵を、しみじみと眺め入ったことと思う。
 新築成った芭蕉庵に、芭蕉を移し植えたときの作なので、元禄五年(1692)八月に詠まれたもの。

 「柱にかけん」は、さまざまな解釈があり、定説はないようである。といってもすべてを調べたわけではないが。
 ここでは、芭蕉の葉が伸びて破れやすいのを、柱にもたせかける意、としておく。月光によって、芭蕉の葉影を柱にかけよう、との解もあるが、技巧に走りすぎであろう。
 植えたばかりの芭蕉の葉を折り取り、名月の句を書いて柱にかける意、ととるのも穏やかではないように思う。

 新庵に移し植えた芭蕉はかつて、門人の李下(りか)が贈り、庵号・俳号の因を成したもので、『おくのほそ道』出立に際して、近隣の人にあずけ、霜の覆い、風の囲いなどの面倒を見てもらっていたものであった。
 「芭蕉」は本来、「ばせう」が正しいが、芭蕉さんは古雅なつづりで常に「はせを」とサインした。
 『移芭蕉詞(ばしょうをうつすことば)』の末尾に次のようにある。

    「初月の夕より、夜毎に雨をいとひ雲を苦しむ……猶、名月のよそほひに
     とて芭蕉五本(いつもと)を植ゑて、其の葉七尺余り、凡そ琴を隠しぬ
     べく、琵琶の袋にも縫ひつべし。風は鳳尾(ほうび)を動かし、雨は青
     竜の耳をうがつて、新葉日々に横渠(わうきよ)先生の智を巻き、少年
     上人の筆を待ちて開く。予はそのふたつをとらず。唯此のかげに遊びて
     風雨に破れやすからむ事を愛すのみ」

 「横渠先生……」は、宋の張横渠が、芭蕉の新葉が次々にひろがるように、新徳を養い新智を起こすことを願った故事をさす。
 「少年上人」は、唐の懐素が家貧しく、紙のかわりに芭蕉の葉に手習いをした故事をいう。
 句意からみて、季語は「芭蕉」で秋季であるが、「月」も秋の季語で、いずれが主とも言えないくらいよく働いている。けれども、風雅の情趣を構成するために使われているところがあって、感動は薄い。
 俳句は、作るものではなく、つぶやくものである、としみじみ感じる。

    「芭蕉庵が新たに成り、前の庵の芭蕉をここに移し植えた。今年の秋はこ
     の芭蕉の破れやすい葉を柱に懸け、風になびかせて、この庵の月を仰ぎ
     見ることにしよう」


      芭蕉庵出でて芭蕉の風の中     季 己

蓮の花

2009年08月18日 20時44分34秒 | Weblog
 日本画家の花岡哲象先生から、個展の案内状が届いた。
 一枚は、「そごう横浜店」で開かれる『花岡哲象 日本画展』で、もう一枚は、東京・銀座の「画廊 宮坂」で催される『第46回 花岡哲象 日本画展』である。
 「そごう横浜店」の『花岡哲象 日本画展』は、9月1日(火)~7日(月)の1週間、6階=美術画廊で開催される。
 先生の作品「蓮池白鷺」を絵葉書にした案内状には、
    「このたびそごう横浜店におきまして花岡哲象先生の個展を開催いたしま
     す。自然の生命と気配を絹本に繊細なタッチで描く新作を一堂に取り揃
     えご紹介いたします。
     ぜひこの機会にご高覧下さいますようご案内申し上げます。」
 とある。

 現存の画家で、花岡先生以上に蓮の花の“いのち”を描ける人はいないと思う。
 先生は、会期中の5日・6日の午後は会場にいらっしゃるとのことなので、今から予定に入れて、楽しみにしている。

 「画廊 宮坂」での『花岡哲象 日本画展』の案内状がすばらしい。
 花岡先生のライフワークともいえる“黄山”を描いた作品「黄山春夜」だ。写真で見ても感動するのだから、実物はさぞや……と、胸をわくわくさせている。さらに、50号の「雨過顕青」にお目にかかるのも、非常に楽しみである。しかし、「三度のTさん」になりそうなのが、恐い!

       『第46回 花岡哲象 日本画展』
   平成21年9月21日(月)~26日(土)  11:00~18:00
       作家在場  21日~23日(12:00~18:00)
     「画廊 宮坂」  中央区銀座7-12-5 銀星ビル4階 
        TEL(03)3546-0343 


        蓮池や折らで其のまま魂祭     芭 蕉

 蓮池は余り大きくない方が、「折らで其のまま」という表現にふさわしい。「折らで其のまま」に、興ずる気持が見えている。
 「折らで其のまま」は、折らないで、蓮池に咲いているそのままを供華(くげ)とする、という意。
 「蓮」は夏季のものであるが、ここは「魂祭」がはたらいているので、こちらが季語で秋季。

    「清らかな蓮が、小さな庭前の池に葉をひろげ、美しい花をつけている。
     今日の魂祭には、蓮の花を折り取ったりしないで、この池に咲いたまま
     で蓮をお供えしようよ」


      こぼしては鷺がふりむく蓮の花     季 己 

秋近し

2009年08月17日 20時08分35秒 | Weblog
 このところ、かなり大きな地震が続いている。今日も、石垣島近海を震源とするM6.8とM6.5の地震が起きている。マグニチュードが大きい割には、被害が全くないのは幸いである。
 そういえば、10年前の今日、つまり1999年8月17日、トルコでM7.4の大地震があり、1万7千人を超える死者を出したことは、記憶に新しい。

        秋近き心の寄りや四畳半     芭 蕉

 寿貞(前々回「魂祭」参照)の訃報に接した直後の芭蕉が、弟子たちの寡黙なことばのうちに無限のいたわりを感じつつ、静かに座している姿が目に浮かぶようである。
 このとき会したのは、芭蕉・木節・支考・惟然の四人であった。

 従来、中七は「心の寄るや」と読まれてきた。
 ところが、『赤冊子草稿』は、「よるや」の「る」を消して「り」に改め、「是(これ)、直に聞く句なり。『初蟬』には、『心のよるや』と有り。『木節亭』と題を付けて出だす」と付記して収めている。
 高弟の土芳が、芭蕉から直接に聞いたとして伝えているのであるから、中七は「心の寄りや」を正しい句形と認めなければならない。
 文法的には、動詞と名詞の違いである。思うに、芭蕉は、心の交流という意味をはっきり出したかったのではないのか。淡々とした表現をとりながら、孤独を越えた深い心の通い合いをうつし出し、内なるゆらめきが直ちに句に匂い出ているところがあって、軽みの世界を示している。
 また調べの上からも、「き」・「ち」・「き」・「り」の「イ音」が、清澄な感じを醸し出している。
 ただし、『赤冊子草稿』以外の諸本は、「心のよるや」という形で伝えるものが多いので、それも一概に捨て去ることに、ためらいを覚える。だが、やはり芭蕉の直話によるという土芳説に従いたい。

 この句は、元禄七年六月二十一日、大津の木節庵で詠まれた。
 木節は、モクセツあるいはボクセツと読むのか不明。大津の蕉門で望月氏。医師で、芭蕉の最期をみとった人である。
 季語は「秋近き」で夏。「秋近き」が「四畳半」という把握と相応じて、みごとにその季感の本質的なものを生かしている。これだけ確かな「秋近き」は、他に見たことがない。

    「しのび寄る秋の気配の中に、連衆の心もしんみりとなごみあい、この四
     畳半の部屋で静かな時をもちえて、この上ない幸せをかみしめている」


      浜をゆく少年の眼に秋きざす     季 己