壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

くらべみん

2010年06月30日 22時44分09秒 | Weblog
          木曽路の旅を思ひ立ちて、大津にとど
          まる比、先づ瀬田の蛍を見に出でて
        此の蛍田毎の月にくらべみん     芭 蕉

 眼前の蛍に見とれながらも、思いは一方、田毎の月に傾いている。いかにも旅に思いあこがれている心がうかがえる作である。
 『更級紀行』の旅に出る前、貞享五年夏の作。

 「瀬田」は蛍の名所。『滑稽雑談』に、
        「江州石山に蛍谷といふ所はべる。この地の蛍火、四月下旬、
         五月節に入りて後十日ほどに、盛りに出る」
 とある。

 季語は「蛍」で夏。

    「音にきこえた瀬田の水に映るこの蛍の風情を、心に深くとどめておいて、
     この秋に見る予定の、更級の田毎の月の風情と、思いくらべてみよう」


      星光りだす空っぽの蛍籠     季 己

瀬田の橋

2010年06月29日 22時36分17秒 | Weblog
        五月雨に隠れぬものや瀬田の橋     芭 蕉

 実際の風景に触れての感懐であろう。
 茫乎とした五月雨の中に一切が消え去って、瀬田の長橋一つが横たわっている大景を大きく詠嘆したもの。現代俳句には見られぬ、大まかな味わいである。
 手法としては、後の「五月雨の降り残してや光堂」の先駆をなすものといえよう。貞享五年、大津あたりに芭蕉が居た折の作であると考えられる。

 季語は「五月雨」で夏。「五月雨」が何もかも降りかくすという点を土台として、瀬田の橋がそれにかくれぬものとして、長さを強調されている。

    「茫々と煙る五月雨によって、湖も寺も森もみなかすんで見えなくなっている。
     その中で、百九十六間のこの瀬田の長橋だけは、さすがに延々と横たわっ
     ていて、五月雨にも降り隠されぬ眺めである」


      骸骨は進化の系譜 五月雨     季 己

喜び

2010年06月28日 20時35分04秒 | Weblog
          五月三十日、富士先づ目にかかるに
        目にかかる時やことさら五月富士     芭 蕉

 五月富士(さつきふじ)を仰ぎえた喜びなのか、見えない五月富士を思いやっての作なのか、判断に迷う。『蕉翁句集』の、この前書を信じれば、前者として解すべきものと思う。ただし、島田の宿からの五月十六日付曾良宛書簡には、
        「箱根雨難儀、下りも荷物を駕籠(かご)に付けて乗り候。漸(ようや)くに
         三島に泊り申し候。……十五日島田へ雨に降られながら着き候」
 とあり、前書には、この句を性格づけるための虚構のあとが感じられる。
 『野ざらし紀行』の、
        霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き
 に、遠く応ずる気持があったのではないか、という気もする。ともあれ、芭蕉には、これが富士の見納めになったのであった。元禄七年の作。

 「目にかかる」は、目につく、目にはいる。
 季語は「五月富士」で夏。
 なお、「五月富士」は、既成の季語のように芭蕉によって用いられているが、江戸期までの歳時記には、未登録の季語である。現在では、ほとんど雪も消え夏山めいて、新緑中にそびえる富士をいうが、詩歌の伝統では、五月(さつき)は「月見ず月」とか、「五月雨(さみだれ)月」の異名もあり、梅雨の月であって、したがって「五月富士」も、梅雨の晴れ間の富士を思い描く必要があろう。
 『芭蕉句解』には、
        「……雨の晴れ間に富士を眺めたるは、ことさら風流となり。『時や』は
         晴れ間珍しきをいふなるべし」
 とある。ちなみに『伊勢物語』に
        「富士の山を見れば、五月のつごもりに、雪いと白う降れり。時知らぬ山は
         富士の嶺(ね)いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらん」
 とある。

    「五月は五月雨の空が垂れこめがちで、富士の仰がれる日が少ない。それがたまたま
     晴天に恵まれて富士が望まれるときには、五月富士の名があるのももっともと思わ
     れる。今日わたしは、その五月富士を仰ぐことが出来て、これにまさる喜びはない」


 陶芸家の東田茂正先生のご厚意で、至福の半日を過ごさせていただいた。
 俗事を忘れ、素の心になれる先生の工房で、茶碗を作らせていただけたのだ。もちろん、先生の懇切丁寧なご指導の下に。
 おかげで、実作者の立場としての〈もの作りの楽しさ、難しさ〉も実感でき、非常に為になった。〈もの〉は作るものではなく、生み出すもの、ということもよく理解できた。
 織部茶碗ということで、三碗つくった、いや、生み出したが、はたして結果は。この作品?が、わたしの遺作とならぬよう、日々、身体をいたわり、またチャレンジしたい。
 東田先生、本当にありがとうございました。

      喜雨の中けづる高台 無心とは     季 己

五月雨は

2010年06月27日 20時47分44秒 | Weblog
          須賀川の駅より東二里ばかりに、
          石河の滝といふ有るよし、行きて
          見ん事を思ひ催し侍れど、このご
          ろの雨に水嵩(みかさ)増さりて、
          河を越す事かなはず、と言ひてや
          みければ、
        五月雨は滝降り埋む水嵩かな     芭 蕉

 「五月雨は」の「は」は、俳句独特の用法で、眼前の五月雨のすさまじさが、そのまま、まだ見ぬ滝のさまに結びついていった表現である。
 「の」とか「に」とかでは、この感じが生きてこない。ためしに、次の句を声に出して読んでいただきたい。
        五月雨は 滝降り埋む水嵩かな
        五月雨の 滝降り埋む水嵩かな
        五月雨に 滝降り埋む水嵩かな
 何となく違うと、感じられたであろうか。「は」が、五月雨のすさまじさが最も強い、と感じられた方は、特に感性豊かな方とお見受けする。
 「降り埋(うず)む」も思い切った大ぶりな表現で、細かい描写を事とする今の俳句には、跡を絶った手法である。五月雨でせっかくの滝見物が出来ず、残念でならない気持を、何とかして自らに言い聞かせ納得させて静めようとしている口ぶりさえ、味わい取ることが出来る。
 なお、この句は、滝見物を断念した時点での作であるが、須賀川を出発した四月二十九日には、滝を見物することが出来た。『曾良随行日記』記載の状況より見て、元禄二年四月二十五、六日前後の作ではないか。

 「石河の滝」は、福島県石川郡玉川村にあり、「乙字(おつじ)が滝」とも呼ばれ、阿武隈川にかかる。
 「滝降り埋む」は、石河の滝が横に広く、高さがあまりない滝なので、水嵩が増すと滝の姿を消してしまうことを言ったもの。ただし、この句は、その景を思いやっての吟。案内をしてくれた医師の等雲などから、話を聞いたものであろう。

 季語は「五月雨」で夏。「五月雨」の勢いの面を取り上げた発想。実状を見ていないで詠んだものでありながら、この滝の性格をみごとに生かしていることに驚かされる。

    「五月雨は凄まじい勢いで降っている。こう降ったのでは、水嵩が増して、
     見たいと思っているあの石河の滝を降り埋め、滝の姿を消し去っている
     ことであろう」


      寝返りて隔つ手と足さみだるる     季 己

ひるがほ

2010年06月26日 19時33分49秒 | Weblog
          元禄元歳戊辰六月五日会
        鼓子花の短夜眠る昼間かな     芭 蕉

 会を主催した奇香亭の主に対する挨拶の句である。
 眼前の昼顔の安らかな夢見がちな花に託して、自分もやすらかに休ませてもらうことが出来る、という気持を表現したものであろう。

 「鼓子花」は「ヒルガオ」と読み、「昼顔」のこと。
 「眠る」は、「ネブル」と読む。

 季語は「鼓子花」で夏。この花の感じを踏まえた挨拶になっている。「短夜」も夏季だが弱い。

    「昼顔の花が、短夜の眠りのつづきのように、昼も夢見るような感じで咲きつづけて
     いるが、この昼顔の眠りのごとく、自分はこの昼顔の咲く昼間を、ゆるゆる眠りを
     楽しむことだ」


      ひるがほの昼を爪食う少女かな     季 己

花と実と

2010年06月25日 22時35分44秒 | Weblog
        花と実と一度に瓜の盛りかな     芭 蕉

 花と実が、一度に盛りになるところに興を発した、軽い味わいのある句である。
 「瓜の盛り」は、花の盛りと実の食い盛りとをいうのであろう。
 ある本には、「花実相兼ぬる人」への挨拶の句とあるが、もし挨拶の句とすれば、あるいは親子などの風雅をたたえたものかとも考えられる。

 季語は「瓜」で夏。真桑瓜をさしているのであろう。五、六月ごろから花が咲き、七月ごろ実を結ぶ。

    「他の植物は花は花、実は実と、それぞれ別々になるものなのに、瓜は、花が咲いて
     いる盛りに、もう実も出盛りになるのが、まことにおもしろい」


      どくだみに雨意の風過ぐ校舎跡     季 己

紫陽花

2010年06月24日 19時51分53秒 | Weblog
        紫陽花や帷子時の薄浅黄     芭 蕉

 紫陽花の変化する微妙な色合いが、軽やかな帷子(かたびら)の着心地の感触につつまれて把握され、みずみずしさの出た作である。
 「帷子時(かたびらどき)」は、帷子を着る時節の意。帷子は、生絹(すずし=生糸の織物で、練っていないもの)や麻布で仕立てたひとえもの。
 「薄浅黄(うすあさぎ)」は、「薄浅葱(うすあさぎ)」に同じ。薄い葱(ねぎ)の葉の色の意で、薄い青色。水色。「浅葱帷子、黒子袖」といって、浅黄色が帷子の上品な色合いとされていた。

 季語は「紫陽花」で夏。「帷子」も夏の季語であるが、「紫陽花」がより夏の季を生かしている。

    「紫陽花が、折からの帷子を着る時節にふさわしく、帷子の色の薄浅葱に咲き匂っているよ」


――宮坂通信Web版を見ていたら、わたしのことが書かれていた。
        ……東京の「3度の武田」さんには、買う買わないは別にして是非行って
        もらいたい展覧会ではあるが(中略)
         『三人三様展』はもう二度と銀座では見られないから、是非にも行って
        欲しい……

 『三人三様展』は今、仙台「晩翠画廊」で好評開催中とのこと。
 『三人三様展』の『三人』とは、小嶋悠司・深沢軍治・菅原智子の三先生のことである。三人とも私の大好きな先生である。小品ではあるが、小嶋先生と菅原先生の作品は数点所有している。自分では、すべて名品であると、うぬぼれて?いる。もちろん全作品、画廊宮坂で購入したものだ。
 この三人に共通して言えることは、たとえサインがなくとも作家名がすぐ分かることだ。だが世間では、どこの誰が描いたか分からない作品に、○○と目立つようなサインがあると、ウン百万円で売れるのである。そう、世の中で最も美しいものは「絵はがき」なのである。この三人の作品は「絵はがき」ではなく、心に染み入る作品、つまり芭蕉いうところの「蟬の声」だと思う。

 いったい、どんな作品が展示されているのか知りたくて、「晩翠画廊」のHPをのぞいてみた。
 ある、ある、ある! なつかしい作品たちが、きらきらと輝いている。毎週1~2度、画廊宮坂でコーヒーをごちそうになっている変人ゆえ、「心の画集」の中にしっかりとインプットされている。
 それでも仙台まで出掛けて、再会したい作品も多数ある。特に、「身辺整理、身辺整理」と呪文を唱えなければならない作品が、四点あるのには参った。
 「もう二度と銀座では見られないから」ということは、売れ残った作品は、いわゆる、画商の交換会か、オークションに出品するつもりなのであろう。だから、その前に「是非にも行って欲しい」、十二分に名残を惜しんで欲しい、との宮坂さん一流のやさしい心のあらわれなのだと思う。
 しかし、正直言うと、行きたくない気持の方が強いのだ。理由は簡単、「晩翠画廊」のHPの中に、「雨が降っても画廊の仲(ママ)は癒しの空間」とあったからだ。変人は「癒し」、ことに「癒されたい」という言葉が大嫌い。
 だから旅番組は見ない。また、番組の中で「癒し」が出てきたら、即、チャンネルを変えるか、テレビを消すかする。それほど嫌いなのだ。
 晩翠画廊は、「癒しの空間」ということなので、そんな大嫌いな空間には、一秒たりとも居たくない。これが、癒し以外の空間なら、喜んで飛んでゆくのだが。やはり、わたしは変人。

      紫陽花の彩ふつふつと蕎麦処     季 己

平常心

2010年06月23日 23時05分16秒 | Weblog
 「平常心」と赤字で書かれた三文字が、目に飛び込んできた。つづいてアナウンサーが、「ふつうヘイジョウシンと読んでいるが、正しくはビョウジョウシンである云々」と解説を始めた。テレビの昼のワイドショーでのことである。

 九世紀末の中国唐代のこと。禅の高僧として知られた趙州(じょうしゅう)がまだ修行中のころ、師の南泉和尚(なんせんおしょう)に
 「道とは何でしょうか」
 とたずねた。そのとき南泉が趙州に答えた語が
 「平常心是道(びょうじょうしんこれどう)」
 である。

 「平常心」の「平」は、平等・共通の意。「常」は、変わらないさま、コンスタント。「道」は、真髄・真理の意味である。
 よって、平常心とは、何ものにも動かされない、執着しない心をいう。この心が、真理や真実そのものであるから、「平常心是道」との答となる。「道」というと、何か特別の存在や意味があるように考えるが、その必要はない。
 わたしたちの立ち居振る舞いに、身びいきや身勝手なエゴイズムの思いがないのが「平常心」。この平常心で行動するのが、そのまま真理の道であるからだ。

 「平常(びょうじょう)」と「平生(へいぜい)」とは、似て非なるものである。平生は、〈ふだん・そのまま〉だが、平常には、このほかに「自然(じねん)」の意味がある。
 「自然(じねん)」と「自然(しぜん)」ともまた異なる。山川草木(さんせんそうもく)などのたたずまいに、手を加えずにそのままにしておくのが自然(しぜん)であろう。
 自然(じねん)は、真理そのままにある状態をいう。真理のままに自然(しぜん)があるのを、「自然法爾(じねんほうに)」とも「法爾自然(ほうにじねん)」ともいう。天然自然そのままに真理が示されているということだ。浄土宗開祖の法然上人(ほうねんしょうにん)の名も、ここに拠るという。リンゴが枝から下に落ちる自然そのままに、宇宙引力があらわれているのが、その一例だ。
 リンゴは地に落ちるのを嫌って、樹枝にしがみつくようなことはしない。熟して枝から離れる時期が来れば、無心にぽとりと落ちる。それが真理の道なのである。執着心のないところに、おのずから人の踏むべき真理の道が開ける。

 俳句・絵画・武道・華道・スポーツの道でもみな同じ。「うまく見せよう」などと自分に取り付くと、とかく、あがったり、つまらないミスを犯すであろう。稽古や練習のときのように、本番でも無心にふるまえるのが「平常心是道」である。
 この域に達するには、どの世界でも練習と稽古の積み上げしかなかろう。練習・稽古の習慣化が大切だと思う。


      六月の山にしづかな眼あり     季 己

消え行く方

2010年06月22日 20時39分43秒 | Weblog
        ほととぎす消え行く方や島一つ     芭 蕉

 「消え行く方」は、「消えたる方」ではない。鳴き声が聞こえつつ消えて行く、の意である。もちろん鳴き声は一、二回しか聞きとめることは出来なかったろうが、その感じを生かしたものである。
 島はおそらく淡路島であろう。『古今集』の、
        「ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に
           島隠れゆく 舟をしぞおもふ」
 や『千載集』の、
        「時鳥 鳴きつるかたを ながむれば
           ただ有明の 月ぞのこれる」
 あたりが遠く匂っているようである。
 『笈の小文』に掲出されていることから推定すれば、須磨での吟かも知れない。すると、貞享五年四月二十日ごろの作。

 季語は「ほととぎす」で夏。時鳥の習性をとらえて句に詠み込んでいる。

    「ほととぎすの声を追って海上へ目を移すと、その消え行く方に島が一つ、
     ぽっかりと洋上に浮かんでいるのが見えた」


      大鋸屑に冷えが移りてほととぎす     季 己

かたつぶり

2010年06月21日 21時39分08秒 | Weblog
          此の境 這ひわたるほどといへるも、
          ここの事にや
        かたつぶり角ふりわけよ須磨明石     芭 蕉

 発想の契機は、『源氏物語』の「這ひ渡るほど」の語から、蝸牛(かたつぶり)が想い起こされたところにある。初夏の朝、蝸牛がしとどの露の中で、角(つの)ふるさまを実際に目にして生かしたものであろう。
 初夏のさわやかな朝、蝸牛が角ふる眼前、左右に須磨・明石の景がひろがっている。つまり、角ふるその方向に須磨があり、明石があるので、「蝸牛よ、須磨・明石へ角ふりわけよ」と興じたくなるのは、ごく自然の気持であると思う。『笈の小文』には、
        「淡路島手に取るやうに見えて、須磨・明石の海右左にわかる。
         呉楚(ごそ)東南の詠(ながめ)もかかる所にや。物知れる
         人の見侍らば、さまざまの境にも、おもひなぞらふるべし」
 と情景が描写されている。
 制作場所からみて、『笈の小文』旅中、貞享五年四月二十日ごろの作。

 前書の「這ひわたるほど」の語は、『源氏物語』須磨の巻の、
        「明石の浦はただ這ひ渡るほどなれば、良清の朝臣の入道の
         むすめを思ひ出でて、文などやりけれど、返りごともせず」
 とある文によったもの。明石の浦が、須磨に近接していることを言いたかったものと思う。

 季語は「かたつぶり」で夏。『源氏物語』の「明石の浦はただ這ひ渡るほどなれば」が、この蝸牛の這いわたることと結びついた発想である。

    「かたつぶりよ、お前のそのよく動く角を、〈這ひわたるほど〉といわれるぐらい
     近接し、ともに景のすぐれた左右の須磨・明石に振り分け、指し示して見せよ」


      素通りす夏至の花鳥画世界展     季 己

愚に暗く

2010年06月20日 21時33分17秒 | Weblog
        愚に暗く棘をつかむ蛍かな     桃 青(芭蕉)

 「愚に暗く」という言い方のおもしろさに加えて、そこに人生一般のことを暗に含めた作意である。こういう寓意的な手法は、荘子の寓言にもとづくものであって、談林の主流をなす手法であった。

 「愚に暗く」は、愚かで思慮の足りない意。夜の暗さを掛けている。
 季語は「蛍」で夏。

    「夜の暗さに、ただ蛍をとりたい一心で、深い思慮もなしに手を伸ばして、愚かしくも
     蛍ならぬ手に痛い棘(いばら)をつかんでしまった」


 おぶせミュージアムへ「荻原克哉展」を観にゆく予定であった。しかし、町会の当番で「形代」の頒布をするため、町会内の家々を一軒ずつ、注文取りよろしく廻らねばならなくなった。
 頒布を終えた午後、少し時間があったので“おぶせ”は無理だが、近間の美術館へ行くことにした。何の気なしに美術展のチラシを見ていたら、「ボストン美術館展 西洋絵画の巨匠たち」の最終日が今日であることに気づいた。すっかり忘れていて未見だったので、六本木へ出掛けることにした。
 やはり観て良かった。本物はチガウ! だから画廊も小まめに通わなければ……と、つくづく思う。
 日ごろ、変人などとうそぶいているが、「ボストン美術館展」の名画80点に関しては、常人であると思っている。なぜなら、もっとも心を揺さぶられた三作品が、ミレーの「馬鈴薯植え」、モネの「積みわら(日没)」、ゴッホの「オーヴェールの家々」なのだから。

      七月の藁葺き屋根と白雲と     季 己

水鶏

2010年06月19日 21時45分56秒 | Weblog
        関守の宿を水鶏に問はうもの     芭 蕉

 何云(かうん)宛真蹟書簡に、
        「白河の風雅聞きもらしたり。いと残り多かりければ、須賀川の旅店(りょてん)
         より申しつかはし侍る」
        (白河では、あなたの風雅に接し得ずに終わりました。たいへん名残惜しく存じます
         ので、遅ればせながら、須賀川の旅宿より一筆啓上仕ります)
 として掲出。

 何云に対する挨拶の句である。挨拶の吟としての一種の軽みは出ているが、「水鶏(くいな)」は人を訪ねる縁でもちこまれたものであるため、実感に乏しい。
 前書に示す成立事情よりみて、元禄二年四月須賀川での作。

 「関守」は何云をたとえていったもの。必ず問うべきであった人の意をふくめている。何云は白河藩士で俳人。
 「水鶏に問はうもの」は、水鶏の鳴き声は戸を叩くような音として聞かれ、和歌などでは、その鳴くのを「たたく」というので、何云の宿の戸を叩いて問う意にきかせていったもの。

 季語は「水鶏」で夏。水鶏は種類が多いが、中でも緋水鶏(ひくいな)が叩くような声を発する。胸が赤褐色で、尾が短い。「たたく」という歌語を念頭において、句中に呼び込んでいる俳諧的発想である。

    「白河の関を過ぎる際、よく存じ上げないままにお訪ねもしないでしまって口惜しい次第です。
     あのとき、ちょうどあたりで鳴いていた水鶏に、関守ともいうべきあなたのお宿を尋ね、その
     戸をたたいてお訪ねして、あなたの風雅に接すべきでしたのに、いまさら残念に思われてな
     りません」


      あけぼのの身の内たたく水鶏かな     季 己

須磨の浦

2010年06月18日 21時53分17秒 | Weblog
        須磨の海士の矢先に鳴くか郭公     芭 蕉

 『笈の小文』に、
        「東須磨・西須磨・浜須磨と三所に分かれて、あながちに何わざするとも見えず、
         『藻塩たれつつ』など歌にも聞こえ侍るも、今はかかるわざするなども見えず、
         きすごといふ魚を網して、真砂の上に干し散らしけるを、鳥の飛び来たりてつか
         み去る。是を憎みて弓をもておどすぞ、海士のわざとも見えず。若し、古戦場の
         名残をとどめて、かかる事をなすにやといとど罪深く、なほ昔の恋しきままに、
         鉄拐(てつかい)が峯に登らんとする」
 云々とあって、この句を記している。

 この紀行本文によると、芭蕉が心に描いてきた
        「わくらばに 問ふひとあらば 須磨の浦に
           藻塩垂れつつ わぶとこたへよ」
 と、罪により遠方に流された行平が詠んだ面影はなく、古戦場の名残か、鳥を弓で脅すなどの殺風景なことが見られるのみであるのを、心に嘆じての作である。
 「矢先」という語も、古戦場であるところからひきだされた語である。
 「矢先に鳴くか」という表現は、弓でねらったその矢先を郭公(ほととぎす)が鳴きすぎる刹那の把握で、気合いのこもった表現である。
 古典に出てくる須磨の海士(あま)は、ゆかしいものであるが、現実の海士には優しげなところがない。現実の味気なさが、芭蕉の心をとらえた刹那、時鳥(ほととぎす)の鋭い声が天の一角を横切り、両者相響いて刹那の微妙な感じがとらえられている。

 季語は「郭公(ほととぎす)」で夏。「ほととぎす」は、「時鳥」・「子規」・「杜鵑」・「蜀魂」・「杜宇」・「郭公」と書き、芭蕉もこの六種の文字を折によって使い分けて書いている。字面・他句との関連などを考慮しているのであろう。「郭公」は現在「カッコウ」に用いるので、使用を避けた方がよいと思う。

    「須磨の浦に来てみたが、この土地の海士たちは、弓で干魚とりの鳥をおどしていた。
     折しもその矢先の空の一角を、時鳥(ほととぎす)が鋭い声を残して翔(か)け過ぎた
     ことだ」

 
      翡翠の来て川音のとがり出す     季 己         

一つ葉

2010年06月17日 22時50分25秒 | Weblog
        夏来てもただ一つ葉の一葉かな     芭 蕉

 一つ葉は、持てるただ一枚の葉をかざして、春夏秋冬、変わらぬ姿で立っている。じっと見つめているうちに、その寂しい姿に愛情を覚えてくる。この愛情は、自分自身の姿を知らず知らずのうちに、一つ葉の中に感じとったためのもので、こういう愛情が基調となって、その「一つ葉」の名に哀れな興を覚えての発想であろう。まさに「俳句は愛情」である。

 この句は『笈日記』岐阜部に掲出されている。ただ、下五について『泊船集』に、
    「曠野(あらの)には、“一葉”を“一つかな”と誤りぬ」
 と注記がある。ただし、許六の書入れは「一つかな」とする。
 下五の「一葉かな」・「一つかな」のいずれをとるか、論の多いところである。
 「一つかな」をとる説は、芭蕉生前の集である『曠野』に「一つかな」とあるのを証とし、「一葉かな」をとる説は、『泊船集』の注記を論拠とする。
 声に出しても、目で見ても、「一葉かな」の方が自然な発想であると思うので、これに従った。

 季語は「一つ葉」で夏。「一つ葉」は、暖地の山間の岩の上や木蔭に群生する、常緑のシダ類多年草で、セキイ・イシノカワ・イワグミなどともいう。岐阜・金華山の、いたるところの岩上に群生しているシダの一種でもある。
 葉は、名前どおりの単葉で、表は濃緑、裏はさび色で、風情がある。
 一枚ずつ葉が生じ、冬も枯れないが、春夏に増えもしない。そこにある種の寂しさのただよう植物で、そこが発想の契機となった使い方である。
 なお『曠野』には、初夏の部に更衣につづけて掲出されているので、上五の「夏来ても」を季語として意識したのではなかろうか。
 芭蕉によって、「夏来てもただ一つ葉の一葉かな」と詠まれて以後、「一つ葉」が夏季のものとなったのではなかろうか。

    「夏の山路をたどりつつ眺めると、あたりの草は青々と葉を茂らせているのに、一つ葉
     だけは、相変わらず、少しもかわらぬ一葉きりのわりなき姿で、そこに心惹かれるあわ
     れを覚えたことだ」


      一つ葉にひと日の風の矢立句碑     季 己

ほととぎ朱

2010年06月16日 22時34分31秒 | Weblog
        岩躑躅染むる泪やほととぎ朱     桃 青(芭蕉)

 これは躑躅(つつじ)の色を見て、衣の色を連想したものであろう。表が紅で裏が紫の襲(かさね)の色目を「いわつつじ」というので、躑躅の別名の杜鵑花(つつはな)から連想して、杜鵑(ほととぎす)の泪(なみだ)が染めた紅だと興じた発想。
 「ほととぎ朱(す)」と書いてあるのもその縁なのである。杜鵑は口中が赤く、俗に、「鳴いて血を吐く」といわれている鳥で、それが心にあったものであろう。
 なお、表白・裏紅の色目を「つつじの衣」、表紫・裏紅を「もちつつじ」などという。『増山井』に「つつじ衣」を三月に掲出、「表蘇芳(すおう)・裏青」とある。
 
 「躑躅」は春の季語であるが、この句では「ほととぎす」が季語で、夏季をあらわす。

    「“ほととぎ朱”はその名の通り、血の涙によって、あの岩躑躅を真紅に染めたので
     あろうか」


      夕虹のあとに立ちたる雀かな     季 己