広庭の牡丹や天の一方に 蕪 村
「牡丹や」の「や」が、よくすわっている。蕪村の「や」の切字の用法は、ほとんどの場合、実によく利いている。
掲句においても、「広庭の牡丹や」がすわっているために、牡丹一株の姿が明確に印象づけられる。そのため、以後の部分が十分の余裕をもってふくらんでくる。
「天の一方に」は、蘇東坡の前赤壁賦中の「美人を天の一方に望む」を指す。蘇東坡の場合、美人とは月を指すのであるが、蕪村はそれを牡丹に転用したのである。
「天の一方に」は、蘇東坡の句のほんの一部分であり、本来はそれだけでは意味の表現上、不十分であるべきはずなのだが、前述のふくらみが、立派に役目を果たし得ている。
季語は「牡丹」で夏。
「広々とうち開いた庭の彼方に、ただ一株の牡丹が絢爛(けんらん)と咲き
ほこっている。人々は、周囲のすべてを、いや、地上のすべてを忘れ去り、
この世ならぬ麗人の姿を、天の一角に認めたかのように、その牡丹に、
目も心も奪われている」
忍辱の衣まとはむ夜の牡丹 季 己
「牡丹や」の「や」が、よくすわっている。蕪村の「や」の切字の用法は、ほとんどの場合、実によく利いている。
掲句においても、「広庭の牡丹や」がすわっているために、牡丹一株の姿が明確に印象づけられる。そのため、以後の部分が十分の余裕をもってふくらんでくる。
「天の一方に」は、蘇東坡の前赤壁賦中の「美人を天の一方に望む」を指す。蘇東坡の場合、美人とは月を指すのであるが、蕪村はそれを牡丹に転用したのである。
「天の一方に」は、蘇東坡の句のほんの一部分であり、本来はそれだけでは意味の表現上、不十分であるべきはずなのだが、前述のふくらみが、立派に役目を果たし得ている。
季語は「牡丹」で夏。
「広々とうち開いた庭の彼方に、ただ一株の牡丹が絢爛(けんらん)と咲き
ほこっている。人々は、周囲のすべてを、いや、地上のすべてを忘れ去り、
この世ならぬ麗人の姿を、天の一角に認めたかのように、その牡丹に、
目も心も奪われている」
忍辱の衣まとはむ夜の牡丹 季 己