壺中日月

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「俳句は心敬」 (93)心を澄ます②

2011年05月28日 21時07分24秒 | Weblog
 ――世俗に交わって社会的に名声を得るのは、歌人として好ましいことなのでしょうか。
 心敬はここで、古人の言を引いて、「それは人によるので、一概には言えない」と、早急には断定しません。
 しかし、例に引いた為家は、非常に楽天的かつ社交的であったので、四十四歳で正二位権中納言にまでなった人です。ちなみに、父の定家は、七十一歳にして正二位権中納言、祖父の俊成は、五十三歳で正三位非参議にまでしかなっておりません。
 その為家が、宴席で歌を詠むのを父の定家から諫められた話は、心敬の所存がいずれにあったかを示すものだと思います。

 また、俊成が桐火桶を抱えて云々という話は、『桐火桶』および『正徹物語』に伝えられている有名な話です。その部分を原文で掲げておきましょう。

    「亡父卿は寒夜のさえはてたるに、ともし火かすかにそむけて、白き浄衣の
     すすけたりしをうへばかりうちかけて紐むすびて、その上に衾をひきはり
     つつ、その衾の下に桐火桶をいだきて、ひぢをかの桶にかけて、ただ独り
     閑疎寂寞として、床の上にうそぶきて、よみ給ひけるなり」(『桐火桶』)

    「俊成はいつも煤けたる浄衣の上ばかりを打ち掛けて桐火桶に打ちかかり
     て案じ給ひしなり。仮令にも自由にし、臥したりなどして案じたりしことは
     なし」(『正徹物語』)

 心敬はこれらの話を引いて、「和歌の道に深く心をおかけになるお姿は、ほんとうに、伝え聞くだけでも云々」と、感服しきっているのです。

 建保六年(1218)十月、後鳥羽院皇子道助法親王家の御室御所で、五十首和歌の会が催されました。為家は、最初は作者のうちに加えられていたのですが、後鳥羽上皇の「為家は代々、和歌の家柄ではあるが、和歌が非常に未熟であるとの風評がある。よって出席はまかりならぬ」との仰せで、作者から除かれてしまったのです。

 また『正徹物語』に、
    「定家は南面をとりはらひて真中に居て南をはるかに見晴らして、衣紋正しく
     して案じ給ひき。これは、内裏仙洞などの晴の御会にて詠む様に違はずし
     て、よき也」
 とあります。
 晴の席に備えて、定家が心を澄まして、リハーサルを行なっていたことが、よくわかります。和歌の神様のような定家が、このような大変な努力をしていたとは……。

 「名声を得たい、世の称賛を得たいという人もいるが、問題は、作者の生活、詠歌する態度、心の持ち方いかんである」と、心敬は結論づけております。
 けれども、心敬の真意が、《閑居を好み、心を澄まさなければ、真実の作品はできない》ということにあったことは、明らかだと思います。


      避難して親子それぞれ梅雨深し     季 己