壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (82)親句と疎句③

2011年05月13日 22時33分11秒 | Weblog
        ――仏法でいえば、親句は聖人の教え、疎句は心から心へ伝える
         禅である。
          親句は、煩悩愛着を起こさせる現象世界、疎句は、現象世界
         を超絶した絶対空、真理である。
          親句は、方便のための教えを説いた経典、疎句は、真実究極
         の道理をそのまま説いた経典。
          仏道における大悟の境地にも比すべき疎句の歌境を目指して
         修業しなくては、どうして歌道の奥義を極めることができようか。

          仏法には、一切空と観ずる悟りをひらいた者の心をも、なお
         空の理にとらわれているといって非難する。しかし、天台の一
         切空と観ずる真理と相互に一体化する仏の教えでは、輪廻する
         迷いの十界も、凡夫と聖者の区別も、結局は同じ融通する一如
         の実相である。
          法華経にも、一切の真理は絶対空無を基にしているとある。
          仏陀の五十年間にわたる説法も、そのうち三十年間は、万有
         一切が空であることを説いている。

          そうではあるが、学び初めの時は、浅いところから次第に奥
         深いところに入り、一度奥義に到達したなら、今度は深いとこ
         ろから浅いところに出てくる。これが諸道の肝要な点である。

          あらゆる事象・現象は、原因は結果を生み、その結果は次の
         原因となっていく。
          有相に当たる親句の歌道にしても、無相である真如法身、つ
         まり疎句の歌の応用化現(けげん)したものである。いずれに
         しても、あだおろそかに考えてはならない。

          泥や木で作った仏像は、すぐれた仏の知恵から生まれ、紙に
         墨で書かれた経巻は、一切真理の法界から流れ出たものである。
          仏が衆生を救済しようと、この世に出現された最も大切な因
         縁は、自分だけの救済得悟を目的とした小乗から発している。
          しかし、執着愛憎の虚妄の法で人を教え導くことは、三千世
         界の無数の人の目を抜いて愚鈍にするよりも罪科がある、と説
         いている。 (『ささめごと』親句・疎句)


      忍辱といふ鬼の像 聖五月     季 己