壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

鯉のぼり

2008年04月30日 23時27分35秒 | Weblog
 五月の青空に泳ぐ鯉のぼり。
 青葉・若葉の薫る風を、いっぱいにはらんで、高く低く、身を翻して泳ぐ鯉のぼり。
 ぱくぱくあいている口に、思わず、柏餅を入れてあげたくなる鯉のぼり。

 からからと鳴る矢車が、さんさんと降り注ぐ初夏の太陽を照り返して、絶え間なく金色の光の矢を放っている。

 五月五日は、今は「こどもの日」であるが、「端午の節句」ともいう。
 「端」は初めの意で、もともとは中国で、月の初めの午の日を「端午」といった。のちに「午」は「五」と音が通じるなどの理由で、五月五日を「端午の節句」というようになった。
 古代から朝廷において、いろいろな行事があり、明治の初めごろまで続けられた。
 矢車・鯉のぼり・吹流し・武者飾り・菖蒲葺く・菖蒲湯など、男の子の日にふさわしい民俗行事が繰り広げられる。
 以前は旧暦五月の行事であったが、今は新暦で行なわれるため、立夏か、時にはその前日に当たることになる。

    江戸っ子は 五月(さつき)の鯉の 吹流し
      口ばかりにて 腸(はらわた)はなし
 という狂歌があるが、実にさばさばして気持がいい。
 もともと鯉のぼりは、武家の吹流しから始まったもので、軍(いくさ)の陣に用いた旗印をまねたものである。
 江戸時代になって、町方の家でも、武家にならって、紙で作った鯉の吹流しを立てることとなり、鯉のぼりという言葉が生まれた。
 それにしても、青空高く鯉を泳がせるとは、何とも素晴らしいアイディアではないか。
 ことに、男の子が生まれて、初めて迎える初節句には、初幟といって、親類縁者などから贈られたお祝いの幟が立てられた。

 今はこういう風習も少なくなり、村起しや町起しのために、川の両岸にワイヤーを張り、それに不用になった鯉のぼりを集めて吊るす、「鯉のぼりの川渡し」が風物詩となりつつある。
 まことにのどかな風景ではあるが、値上げ、値上げの続く昨今、さぞかし鯉のぼりも音をあげていることだろう。


      村起しの いま鯉のぼり風が欲し     季 己


 ☆ 悼 リンリン
   上野動物園にいる唯一のパンダ「リンリン」が、30日午前2時ごろ、天国へ。

俳句の変遷

2008年04月29日 23時38分52秒 | Weblog
 きょうは「昭和の日」で祝日。
 静かに昭和の時代を振り返る日なのであろうが、私にとっては「天皇誕生日」のほうが、馴染み深い。

 そこで変人としては、「昭和」ではなく、「俳句の変遷」を振り返ってみたい。それも、大学入試にはこの程度知っていれば、OKという目安で……。

 平安時代以降、貴族の間に盛んに行なわれていた和歌は、藤原定家以後、職業化し形式化して、伝授や秘伝を重んじすぎた。そのため人々は、その束縛を脱して、自由な詩の世界を求めるに至った。これが、室町期に入って連歌の発生をみた理由である。

 この新しい大衆芸術たる連歌が、応仁の乱の頃に活躍した大連歌師・宗祇(そうぎ)によって完成されると、民衆はさらに、自由な文芸を求めるようになった。
 この気運に促されて山崎宗鑑や荒木田守武らが、自由な「をかしみ」を旨とした俳諧連歌を創始した。

 この俳諧連歌は、江戸時代に入り、松永貞徳の古風となり、さらに西山宗因の談林風となったが、これらはいずれも技巧的・遊戯的で芸術味に乏しいものであった。
 元禄の頃、松尾芭蕉が出て、幽玄閑寂を旨とする正風(蕉風)を創始して、俳諧を芸術味の深いものとした。
 この蕉風は、榎本其角・向井去来・内藤丈草・服部嵐雪・各務支考(かがみしこう)らの門人によって継承されたが、ついに師の芭蕉以上には開拓されなかった。

 芭蕉によって向上させられた俳諧を中興したのが、天明調の創始者、与謝蕪村であった。
 その後、俳諧は、月並・雑俳(ざっぱい)の低調な遊戯文学に堕落しつつ幕末に至ったが、信濃の俳人、小林一茶が出て、近世俳諧史の最後を飾った。これを化政調(文化文政の調)ということもある。

 明治の新しい俳句は、正岡子規の写生主義に端を発した。同輩である内藤鳴雪・夏目漱石も、後輩である高浜虚子・河東碧梧桐(かわひがしへきごどう)も皆、大きな影響を受けている。
 虚子を中心とする一派をホトトギス派と称し、原石鼎・飯田蛇笏・村上鬼城・水原秋桜子らがその派から出ている。秋桜子は後に俳誌「馬酔木(あしび)」を創刊する。
 碧梧桐の門からは、荻原井泉水(おぎはらせいせんすい)が出て、自由詩的な新傾向運動を起こした。

 貞徳のころから、俳諧連歌のことを俳諧といい、連歌の最初の句だけを独立させて作ることも行なわれた。当時はこれを、発句(ほっく)と称えていたが、明治の子規に至り、これを俳句というようになった。


      遍歴の果てのこのみち緑さす     季 己


 ☆ 「ゴールデンスランバー」(伊坂幸太郎)が、第21回山本周五郎賞 候補作品に。
   山本周五郎は、直木賞を辞退した唯一の作家。その「山本周五郎賞」は、作品によっては、直木賞よりレベルが上のものが選ばれ、「先見の明の傾向がある賞」とのことであるが……。
 はたして選考委員に本当に「先見の明」があるのだろうか。
 「ゴールデンスランバー」が受賞すれば、いまの選考委員も、まんざら捨てたものではない、と言えるが。
 できれば、「山本周五郎賞を辞退した唯一の作家」と言われんことを!

竹の子

2008年04月28日 21時14分37秒 | Weblog
 其角とともに、江戸蕉門の双璧と目される嵐雪は、承応三年(1654)、江戸湯島に生まれた。幼少より武家奉公をつづけることおよそ三十年。そのかたわら、二二、三歳ごろから芭蕉の門人となり、俳諧の道に励んだ。
 嵐雪、四一歳ごろの作に、
       竹の子や児(ちご)の歯ぐきのうつくしき
 という句がある。季は「竹の子」で夏。

 『近世俳句俳文集』によると、この竹の子は根曲竹で、今の竹の子とは異なり、とうもろこしを食べるように、皮をむいたままのものを茹で、かぶりつくようにして食べたのであろう、という。

 多くの注釈書は、この句の典拠として、『源氏物語』横笛の巻にある、
  「御歯の生ひ出づるに食ひあてんとて、筍(たかうな)をつと握り持ちて、
  雫もよよと食ひ濡らし給へば」
 の部分をあげている。
 これは、幼い薫の君の有様を描いたもので、古来、有名な文章である。
 『寂聴源氏』では、
  「若君は歯が生えかけているので、物を噛もうとして、筍をぎゅっと握り
  しめて、口に当て涎をたらたら流していらっしゃいます」
 と、訳されている。

 芭蕉も、
     「たかうなや雫もよよの篠(ささ)の露」
 と、詠んでいる。
 『源氏』の上記の部分を裁ち入れ、「節々(よよ)」と「夜々(よよ)」の掛詞として用いたものである。
 人々によく知られた古典の詞句の一部分を裁ち入れることで、古典的気分と庶民的感覚との重層を生み出す、当時の常套的発想である。
 「筍が勢いよく伸びている。これは篠の節々にたまった露のしたたりを夜ごと夜ごと受けて、このように成長したものであろう」の意。

 芭蕉の「たかうなや」の句が詠まれたのは、嵐雪の「竹の子や」の句より十数年前である。嵐雪が、この芭蕉の句を知っていて、わざとその手法を真似たとは思えない。
 私にはむしろ、『枕草子』の「うつくしきもの」の方が強く連想される。
 その本文は、きのう書いた通り「うつくしきもの。瓜に描きたる稚児の顔」云々で、「竹の子」は出てこないが、「ちご」ということばが六回も繰り返される。そして「なにもなにも、小さきものは、みなうつくし」ということになる。
 『枕草子』の「うつくしきもの」に、『源氏物語』の「たかうな」、つまり「竹の子」が二重写しされていると、見てもよいのではなかろうか。

 もう一つ、多くの注が「うつくしき」を単に「美しい」と書いているのは如何なものか。ここはやはり古語として、「かわいい」「愛らしい」と解釈したい。
 「たけのこを手に握って食べている幼子の歯ぐきが、実に愛らしく見える」と。


      笑ふ山 目よりうろこの落ちにけり     季 己

うつくしきもの

2008年04月27日 21時43分41秒 | Weblog
      うつくしきもの。
       瓜に描きたる稚児の顔。
       雀の子の、ねず鳴きするに踊りくる。
       二つ、三つばかりなる稚児の、急ぎて這ひくるみちに、いと
      小さき塵のありけるを、目ざとに見つけて、いとをかしげなる
      およびにとらへて、大人ごとに見せたる、いとうつくし。  
       ………
       ………
       なにもなにも、小さきものは、みなうつくし。

 ご存知、清少納言の『枕草子』の有名な段のの一つ。
 
 「うつくしきもの」とは、「かわいらしいもの」「愛すべきもの」ということ。
 「うつくしい」を広辞苑で引くと
   (肉親への愛から小さいものへの愛に、そして小さいものの美への愛に、
   と意味が移り変り、さらに室町時代には、美そのものを現すようになった)
  ①あいらしい。かわいい。いとしい。
  ②形・色・声などが快く、このましい。きれいである。
   行動や心がけが立派で、心を打つ。
  ③いさぎよい。さっぱりして余計なものがない。
 とある。

 チュッチュッと口を鳴らすと、親鳥が呼ぶのかと誘われてピョンピョンやって来る子雀。
 這い這いをしてまわる幼児が、小さなゴミに興味をひかれて、大人たちもまた、自分と同じように、その発見に興味を感じてくれるかと、いかにも手柄顔に、それをつまみあげて見せびらかしている。
 このあと、いくつもの観察が続き、「何でもかでも、小さいものは、みなかわいい」という。
 清少納言の観察の微妙さ、感受性の鋭さが100パーセント発揮されている段だ。

 これらは、空間的・物理的のみならず、心理的にも、清少納言が、そうした幼い子と同じ高さに下りて行って、対象と一体化しての観察であって、決して高所から見下ろした成人の目ではない。
 どこかの首相は、口では「国民の目線に立って」と言いながら、つねに高所から見下ろして物を言う。
 しかし、幼稚園の先生は、一対一のとき、必ずしゃがんで、幼児と同じ目線で話す。
 これと同じことを、千年前の清少納言はやっていたのだ。

 紀貫之は、高齢になってさえ、すべての自然現象を擬人化して、自分と対等に話しかける子どもの世界に自身を置いて、童心そのものの和歌を作っている。
 これも清少納言と同じく、すぐれた作家が持つ、精神の柔軟さと弾力を示すものであろう。

 動植物の生態を、清少納言は実に、つぶさに観察している。
 自分が幼少の頃に体験したことであろうが、そうした自然に対する驚きや歓びを、今のことのように胸中によみがえらせて、ここに筆を進めている清少納言は、やはり、いつまでも若々しく柔軟で豊かな人間性の持ち主であったといわねばなるまい。


      ともに生きともに楽しむ春の星     季 己

長谷寺

2008年04月26日 23時50分26秒 | Weblog
 西国第八番の札所、長谷寺の「ぼたん」は有名で、四月下旬から五月中旬までのころが見頃である。ゴールデンウイークには参道がびっしりと人で埋まり、身動きがとれなくなる。時には、駅から長谷寺まで2時間近くかかることも。

 さて、今年はどうなることやら。今日現在、牡丹は三分咲きで、しゃくなげや八重桜は見頃であるという。牡丹の見頃は、五月三日前後になると思われる。

 長谷寺の山門を入って、まず目の前に展開する第一の登廊を見た瞬間、そのあまりにも美しい建築の均整に声を呑む。
 千四段の石段に沿って延々とつづく円柱の列。天井に下げられた八方行灯(はっぽうあんどん)の連なりが、傾斜面に直線に伸びている。
 この長さ百七間の登廊の両側には、山内にある小寺院が競って、自慢の牡丹を咲かせている。
 今年も、5月3~5日には、ぼんぼりの下で、美人のモデルがポーズをつくることであろう。
 もし、参道が身動きがとれない状態であったら、山道を行くことをおすすめする。雑踏を見下ろしながら、楽に長谷寺の山門に着ける。

 長谷寺の門前町であり、また伊勢街道の旅籠町であるこの町が、バスや自家用車でごった返すのも、この時期だけの風物詩である。
 この牡丹を咲かすまでには、寒気の厳しいこの地方では、並々ならぬ苦労がいることであろう。

 ふだんのこの町は、いたって静かである。どうしてこんなにたくさんの旅館が、成り立っていけるのか不思議なくらいだ。
 かつて、観音信仰が今よりもっと盛んであったころ、そして交通が不便で、大阪や名古屋から日帰りできないころは、このたくさんの旅館は年中混雑したことであろう。そのうえ、ここはお伊勢参りの参宮街道であり、その参詣の人々を迎えて、この初瀬の門前町はだんだん細長く西にのびていったという。

 初瀬のシンボル的存在が、観音様をまつる長谷寺なのである。
 地中から湧き出た大磐石の上に立つ、高さ8.1メートルの金色の十一面観音が本尊である。他に類がないのは、観音なのに右手に錫杖を持っていることだ。ふつう錫杖は、地蔵が持つものだ。
 おそらく、現世利益のほかに、極楽浄土への先導もするのだろう。そう思えばまことにありがたい。ただ、あまり大きすぎるのと、拝む位置が近すぎて、ひと目で全体が入らない。もとの像は何回も焼けて、今のは天文七年(1538)の彫刻である。

 初瀬詣(はせもうで)は、『源氏物語』をはじめ、『枕草子』『更級日記』『大和物語』『住吉物語』『蜻蛉日記』『水鏡』『今昔物語』など、多くの文学にもとりあげられている。当時の不便な交通事情の中で、京都からここに通うことは容易でなかったと思うが、真剣な求道精神は、現世の悩みの救済と、末法接近の不安から、年とともにつのっていった。
 その間、何回も焼けたが、再建のために喜捨することは、かえっていっそうの信仰を深める結果となったらしい。
 豊臣秀吉の弟、大和大納言秀長が、もと、紀州根来の僧であった専誉法印に命じて再興させたので、法相宗から離れて真言宗となり、今日でも、新義真言宗豊山派の総本山となっている。

 真言宗の開祖、空海は、承和二年(835)三月二十一日に入寂した。新暦でいえば、四月二十六日、つまり今日ということである。


      八方に灯が入り牡丹三分咲き     季 己

藤の花

2008年04月25日 21時48分42秒 | Weblog
     くたびれて宿かる比や藤の花     芭 蕉

    古都大和の一日を歩きくたびれて、ようやく一夜の宿に辿りつこう
   とする疲れた目に、暮れなずむ夕もやの中に、薄紫の色をにじませて
   咲き垂れる、藤の花のおぼつかない様子が目について、いっそう疲れ
   が感じられる。

 この句には、「大和行脚のとき、丹波市とかやいふ処にて、日の暮れかかりけるを、藤の花おぼつかなく咲きこぼれけるを」と前書きがある。丹波市(たんばいち)は、今の天理市のことである。

 元禄元年(1688)四月二十五日付の芭蕉書簡によると、この句の初案は「ほととぎす宿かる比(ころ)の藤の花」であった。
 芭蕉の好きな素性(そせい)法師が、石上布留(いそのかみふる)でホトトギスの鳴くのを聞いて詠んだという「いそのかみ古き都のほととぎす こゑばかりこそ昔なりけれ」(古今集)という歌を思い起こして、今はちょうど時節もその頃であると、その点に懐かしい感興を催し、それのさめやらぬままに上五「ほととぎす」と発想したものであろう。
 しかし、“ほととぎす”では句が分裂し、中心がなくなってしまう。ちなみに、“ほととぎす”は夏、“藤の花”は春の季語。季語がそれぞれに自己主張して、句が分裂してしまうのだ。
 そこで、この句を発想した折の感興をさらに純化していってその果てに、くたびれて宿かる頃のおぼつかない気分と、『徒然草』に、「藤のおぼつかなきさましたる」といわれているような、藤の花の頼りなげな感じとに感合して、景物の“ほととぎす”を消し、“くたびれて”とこの句を定めたものであろう。
 疲労の中に自分がひたりきっている心と、暮色濃い晩春の軒のあたりに、藤の花がおぼつかなく物に絡まり垂れているその茫とした感じとが浸透した発想なのである。

 この“くたびれて”は、片田舎を歩き疲れたときの“くたびれて”ではなく、名所・旧跡の多い大和路を、懐旧の情にひたりながら行脚して行き暮れ、宿をかろうとするころの「くたびれて」であるとみなければならない。
 一句の中に、懐旧の情と旅愁と春愁とが、みごとに詠みこまれている。

 東京・亀戸天神では、藤の花が、ちょうど見頃である。
 聖火の到着した長野では、聖火リレーに関蓮した逮捕者がついに出てしまった。
 その聖火リレーは、あと数時間後……。


      藤波の騒いでをりぬ聖火とは     季 己

人物画

2008年04月24日 23時43分22秒 | Weblog
 風景画と人物画とでは、どちらが難しいのだろうか。
 素人考えでは、人物の方が難しいと思うが、いかがであろうか。特に、顔や手足の表情が……。

 人間の手ほど面白いものはなかろう。
 手には表情がある。人生がある。
 若い人の手には若さがあふれており、老人には老人の苦渋がある。
 顔の表情のようにめまぐるしく変わりはしないが、それだけに、にじみ出る味がある。
 手はモノを言う。
 人間の体の中で、手ほど意志をたくみに表現するものはない。
 人間は、手をはたらかすことによって、文明を築き上げたが、手で“こころ”を伝えようとしたところに、文化のおこりがあるのではないか。

 美貌で、しかも頭がきれる画家の存在を、つい最近、知った。
 彼女は、幽霊や内臓むきだしの人物を得意とするらしい。それを聞いて変人は、すぐに思った。「きっと、手足を描くのが苦手なのだ」と。
 “描かない”には、大きく2通りある。
 描けるけれども“描かない”場合と、描けないので“描かない”場合だ。
 いま、ちょっとした幽霊ブームのようである。
 手足の描けない?自分の弱点を逆手に取り、世の幽霊ブームに乗る、しかも美人とくればマスコミは放っておくわけがない。
 これが変人の偏見であることを、願っているが、そのためには、手足を描いたふつうの人物画を発表してほしい。その上で、お好きな幽霊を、内臓をお好きなだけお描きになればいい。

 「人形は、顔が命」というCMがあったが、人物画の場合、変人はまず手の表情を見る。腕がむき出しの場合は、力量が判断しやすい。
 腕が丸太でなく、血が通っていたら、顔の表情を見る。こうしてから、全体を凝視する。

 顔の表情、手の表情で好きなのは、木原和敏先生の作品。
 最近の作品では、第82回白日展の出品作『想』が、最も好きだ。
 手元に置きたいくらい好きだが、先立つものも、展示する場所もない。
 そこで先生に無理を言い、上半身だけを15号で描いていただくことにした。それが先日、仕上がってきた。思わず抱きしめたくなるような、いい作品だった。
 先生の『苦労はしましたが、楽しく描かせてもらいました』の一言が、うれしかった。
 苦労を苦労と感じさせる作品は、観ていて疲れる。
 仏師の松本明慶さんが、「この仕事が苦労と思えたら、とっくにやめていたでしょう。私はちっとも苦労はしていません。楽しくてしようがないのです」と、テレビで話されていたことを思い出す。

 作品は持っていないが、好きなのは池田清明先生。
 小品で特に好きなのは、タイトルが『初絵』となっている作品だ。どれも、心やすらぐ、いつまでも眺めていたい佳品である。
 9月の、日本橋三越での個展が、非常に楽しみである。

 俳句の場合、俳句がうまくても文章が下手な先生がいるが、文章のうまい先生は俳句もうまい。
 絵の場合も、人物がうまい先生は、風景もうまい、と思っているが…。
 画風は違うが、木原先生も池田先生も、実に素晴らしい風景をお描きになるので、間違いはないと思う。


      遊印は「空即是色」白牡丹     季 己

思いなければ

2008年04月23日 23時41分31秒 | Weblog
 JR西日暮里駅の近くに、臨済宗妙心寺派の寺院、南泉寺がある。
 南泉寺は、元和二年(1616)に、徳川家から境内三千二百坪を拝領した、禅僧・大愚により創建された。
 その後、三代将軍家光および四代将軍家綱に仕えた老女岡野の遺言により、貞享三年(1686)、朱印地三十石が寄進され、徳川家や越前松平家、美濃遠山家などの帰依を受けた。
 境内には、儒者・医師・画家などの墓も多く、松林伯円(講談師)、横山大観(画家)、白井光太郎(理学博士)らの墓もある。

 さて、開創の大愚が、南泉寺に住したころ、自分の身にふりかかった誤解を解くため、京都の妙心寺へ赴いた。
 たまたま鈴鹿峠を馬で越すとき、馬子が歌う「何をくよくよ川端柳、思いなければ晴れてゆく」を聞き、弁解の無用を悟った。
 京都を目前にしながら、大愚は江戸へ戻ってきてしまった。
 思いなければ、つまり、無心ならおのずから晴れる、門が開く、ということだ。

 禅語に、「風来自開門(かぜきたりておのずからもんひらく)」という言葉がある。「風来たりて自ずから門開く」のは、人間の力ではない。

 日本に臨済禅を伝えた栄西禅師は、新仏教という理由で、各方面から迫害を受けた。
 あるとき、京都を中心に、近畿地方一帯に大風が吹いた。京の街の人々は、「栄西らの禅僧が、大きな袖の異国の衣を着て歩くから、風神を呼び寄せたのだ」と言いふらした。
 今から考えれば、全く馬鹿げたことだが、批難の声は、“世論”となった。朝廷も放っておけず、「禅宗停止令」が出された。
 この処置に対する栄西の反駁は、科学的だった。
 「風は天の気であって、人のよくするところではない。栄西は風神にあらず。それでもなお風を吹かせる力が栄西にあるなら、神は栄西を見捨てはすまい」と。
 この合理的で聡明な申し開きに、朝廷も感じ入り、先の発令を廃止した。

 風は吹くべくして吹く。チャンスが来れば、また因縁が熟したら、風が門を開くように、事は成る。
 「自ずから」は、単なる「ひとりでに」ではなく、「努力を重ねていけば、自ずから開く」という意味だと思う。
 「念ずれば花ひらく」や「求めよ、さらば開かれん」にも通じる。

 わたしたちは、自分が不利な立場におかれると、とかく自己弁護に躍起になり、果ては他の非をあげることになる。
 しかし、そんなにあせらなくとも、必ず正しい風は、行く手の難関を開いてくれるに違いない。
 思いなければ、おのずから門は開く。


      東山 春あけぼののうすねむり     季 己

西新井大師の牡丹

2008年04月22日 23時49分19秒 | Weblog
 昼食後だしぬけに、「西新井大師へ行きたい」と母が言うので、お大師様へ連れて行った。
 西新井大師は、正式には五智山遍照院総持寺といい、真言宗豊山派の寺である。
 今から1180年ほど前、弘法大師が巡錫の折、この地に立ち寄り、悪疫流行に悩む村人を救わんと、21日間の祈祷を行なった。すると、枯れ井戸から清らかな水が湧き出て、悪疫はたちどころに治まったという。
 その井戸が、お堂の西側にあったことから、「西新井」の地名ができたと伝えられている。
 西新井は、お大師様と切っても切れない関係を持っている。

 合掌してから、趣のある山門をくぐり、本堂へ向かう。
 本堂は現在、改修工事中のため、ぐるりをシートで囲まれて、中へ入ることはできない。
 特設の賽銭箱にお賽銭を入れ、母の長寿と日頃の健康を感謝し、真言を唱える。

 「西の長谷寺、東の西新井」と言われるように、西新井大師は、牡丹の名所である。
 長谷寺は、真言宗・豊山派の総本山で、奈良県桜井市初瀬(はせ)にある。もちろん牡丹の名所で、150種、7000株が植えられ、東洋一の牡丹寺といわれている。
 総本山長谷寺から移植され、西新井大師に“ぼたん園”が出来たのが、今からおよそ200年前のことという。
 
 西新井大師には5ヶ所の“ぼたん園”があると、案内板に書いてあるが、4ヶ所しか見つからなかった。
 全部で、100種、4500株の牡丹が植えられ、寺社では関東一の規模だという。最も大きい“第2ぼたん園”が、遊歩道も整備され、見ごたえがある。これから咲くのもあるが、今が一番の見頃であろう。

 「立てば芍薬、坐れば牡丹、歩く姿は百合の花」とは、美人評のこと。
 芍薬は、じつの姿は牡丹とかわらない。だが、中国の詩においては、春に男を野に誘い、恋を楽しんだ女が、別れに男から贈られる花としてうたわれている。いわば、触れなば落ちんという女を連想させる。
 牡丹は、国一番の美女、つまり楊貴妃を連想させ、「花の王」とか「富貴草」と呼ばれる。一点の隙もないゆったりとした落ち着きと、汲めども尽きぬあでやかさに満ちた美しさがある。
 「楊貴妃」という牡丹もあったが、わたしは「蓮鶴」が最も好きだ。八重咲の中輪で、花弁は雪白色の「連鶴」は、純白色の品種の中では、容姿も最もすぐれていると思う。

 母のおかげで、すてきな花見ができたことに感謝。
 その母も疲れたらしく、今日はいつもより一時間早く、ベッドにもぐりこんだようである。


      ははそばの母にくづるる白牡丹     季 己 

言葉のあや

2008年04月21日 23時41分54秒 | Weblog
  大賞 ゴールデンスランバー  
       伊坂幸太郎
        首相暗殺の濡れ衣を着せられた男は、
        巨大な陰謀から逃げ切ることができるのか?
        精緻極まる伏線、忘れがたい会話、
        構築度の高い物語世界――。
        伊坂幸太郎が持てる力の全てを注ぎ込んだ、
        直球勝負のエンターテイメント大作。

 これは読売朝刊の、新潮社の広告の一部である。
 「第五回 本屋大賞」を受賞した、伊坂幸太郎著『ゴールデンスランバー』のセールスコピーだ。
 「全国書店員が選んだいちばん!売りたい本」の第一位に選ばれたのだから、わたしも心の底から喜んでいる。伊坂幸太郎に最もふさわしい賞である、と。
 これからも世評に惑わされることなく、自分のスタイルを貫き、“我が道”を歩んでいって欲しい。

 さて、本題の「言葉のあや」に入ろう。
 『ゴールデンスランバー』は、“これまでの”伊坂作品の最高傑作だと思う。そしてこれを越える作品を、つぎつぎと発表してくれることを望み、また、それを確信している。
 もう、お気づきと思うが、「伊坂幸太郎が持てる力の全てを注ぎ込んだ」という部分が、気に食わないのだ。
 屁理屈を言えば、「持てる力の全てを注ぎ込ん」でしまったら、残るものは何?
 言いたいことは分かるし、「言葉のあや」であることも…。

 同じようなことが、北京オリンピックの代表選手選考会でもあった。
 多くの選手が、「全力を出し切って、北京への切符を手に入れたい。そして北京で結果を出したい」と、インタビューに答えていた。
 「選考会で全力を出し切ったら、本番で力が残っているの?」と、思わず尋ねてみたくなる。

 事件・事故で人が亡くなれば、“無言の帰宅”、そして“しめやか”に通夜が営まれる。
 甲子園で負ければ、“がっくり肩を落とし”、秋になれば、“詩情ゆたかに”紅葉する。
 たしかに、慣用句的な決まり文句にすれば、楽であろう。
 しかし、こういうことは俳句では禁物。見る人が見れば“陳腐”と言われるのがオチだから。

 某区の、秋の文化祭の一環として俳句大会が行なわれた。
 人だかりの中から、「さすが先生ね、“詩情ゆたかに”なんて言葉、出てこないわよね」という声が聞こえてきた。見れば、そのときの選者の「暮坂峠詩情ゆたかに紅葉せり」という句であった。
 その夜のテレビのニュースで、「日光いろは坂では、詩情ゆたかに紅葉した…」と、報じていたのには、苦笑してしまった。

 「言葉のあや」といってしまえばすむが、真剣に考えると、日本語は本当に難しい。

 「言葉のあや」ではなく、「光の采(あや)」シリーズの、「武田州左 個展」が、銀座・画廊宮坂で開かれている。
 これまでの厚塗りから、日本画の顔料の好さを生かした、瀟洒な作品に仕上がっている。楽々と描いたように見えるが、相当な研究努力、精進をされたことと思う。しかし、それを見せないのがプロというものだ。(さすが武田だ……)
 だからこそ、「持てる力の全てを注ぎ込んだ」などと書いて欲しくないのだ。
 武田州左が、“光”を色彩として、どのように感じ、どのように捉えたかを、心で感じ取って欲しい。
 武田州左の「色彩の調和」を、ぜひご覧いただきたい。26日まで。


      さへづりや元祖本家と向ひ合ひ     季 己

かはづと山吹

2008年04月20日 23時20分46秒 | Weblog
     かはづ鳴く 神奈備川に 影見えて
       今か咲くらむ 山吹の花  (「万葉集」巻八)

 厚見王(あつみのおおきみ)の歌である。
 「かはづ」は、広い意味では、すべての蛙ということになるが、「万葉集」では、川の中で鳴く種類のものだから、河鹿ということになろう。ただ、文学の上では、蛙の古い呼び名がかわずだと思ってよい。
 「神奈備」は、神の鎮座する山や森のことで、「みもろ」ともいう。この神奈備のふもとを流れている川を、神奈備川という。
 神奈備川は、飛鳥・三輪・竜田・春日など、方々にある。
 神奈備山の周囲を、帯状に取り巻くように流れているのが原型である。山には神の依代(よりしろ)としての樹木・巌などがある。
 この歌は、どこの神奈備川か分からない。
 「影見えて」は、影が映って、あるいは、影を映して。

 一首は、「河鹿の鳴いている神奈備川に影を映して、ちょうど今、咲いているだろうよ、山吹の花が」というので、こだわりのない美しい歌である。
 この歌が秀歌としてもてはやされたのは、流麗な調べと、「影見えて」、「今か咲くらむ」という、いくらか後世ぶりのところがあるため、気に入られたものであろう。
 そうして、この歌は、類型の始まりとなった。
 つまり、時候の来たことに驚く型と、その時に見るべきものが思い合わせられるという型が出来ていった。
   逢坂の 関の清水に 影見えて 今や引くらむ 望月の駒 (拾遺集、紀貫之)
   春深み 神奈備川に 影見えて うつろひにけり 山吹の花 (金葉集)
 などは、道具を替えただけの全く同じような歌だ。

 この歌では、「かはづ鳴く」がまだしも内容があるが、やがて慣用的になり、枕詞のようになってしまう。
 すでにこのころから、“かはづと山吹”との取り合わせが出来ていたようだ。この取り合わせは、日本の詩歌の伝統で、芭蕉の「古池や」の句も、別伝には「山吹や かはづとびこむ 水の音」とある。

 “山吹”と“河鹿”の季節には、若干ずれがある。したがって山吹が実景であり、「かはづ鳴く」は修辞的な虚像と見てよい。河鹿は清流に棲んで、声が美しいので、川の褒め言葉となる。山吹も「山吹の 立ちよそひたる 山清水」(巻二)をはじめ、水辺に詠まれることが多かった。

 芭蕉も、“かはづと山吹”の取り合わせは陳腐と思い、“山吹”から連想をめぐらし、“水辺”から“古池”と、たどったに違いない。


      時あかりして山吹に夕の雨     季 己

木蓮

2008年04月19日 21時45分06秒 | Weblog
 春雨けむる自然公園の一隅に、真白い木蓮の花が匂っている。
 どこか蓮華に似た、九弁の大きな受け咲きの花。

 木蓮は、冬の間から蕾を用意していて、暖かい南風に誘われて、急に花を開く。
 前年の秋、葉が落ちるか落ちないかの頃に、すでに短い毛に蔽われた苞の中に蕾をはぐくむ。そうして、だんだんとその苞を脱ぎ捨てて、中から真白な蕾をあらわしてくる。こうなれば、花が開くのは、ほんの一夜のこと。
 大らかで厚めの花びらが、少し結ぼれがとけ、ほころび始めた頃が、ことに奥ゆかしく、花の香りも高いようだ。

 盛りを過ぎて、花びらの開ききった頃には、品も落ち、まして黄ばんできたのは、風情がない。
 それにしても、まだ一枚の葉も出ない大木の、しなやかな梢に、白い焔が燃えさかっているかのように、無数の大きな花を咲かせて、あたり一面、むせ返るような香りを撒き散らしている。実に壮観である。

 この白木蓮にくらべて、六弁の紫色の花を咲かせる紫木蓮は、花の咲く時期も少し遅れ、香りも引き立たない。しかし、それはそれで、一種、妖しいまでの艶めかしさに、見る人を引きつけるものがある。

 少し離れたところに、かなりの花を残している桜の樹が一本、折からの風にあおられ、花びらを散らしている。
 散り残った桜の花のことを、残花(ざんか)という。もちろん春の季語である。残桜(ざんおう)・残る花・名残の花・残る桜というのも同じことである。

 立夏を過ぎても咲き残っている花を余花(よか)といい、季は夏である。
 山桜も、染井吉野も、花の散りぎわから若葉がひろがりはじめ、花が終わると、もう新緑滴る景観である。この葉桜ももちろん、季は夏。あわただしくも鮮やかな色彩の一変に、強い季感を覚えるものである。


      散る花の思ひとどまるときあるや     季 己

朝倉文夫

2008年04月18日 21時26分54秒 | Weblog
 初めてだった、宙を舞う屋根を見たのは。
 今朝9時過ぎ、突風が吹いたと思った瞬間、ベリベリという凄い音がした。
 窓の外を見ると、斜め前のクリーニング店の屋上の小屋の屋根が、突風で壊れ、屋根の三分の一が宙を舞っていたのだ。
 ほどなく、畳2枚分ぐらいの屋根が、道路に落下した。人通りがなかったのが幸いだったが、まだトタン板1枚が、光ファイバーのケーブルに引掛り、ゆらゆら風に揺れている。

 110番通報で、警察官と関電工?の作業員が駆けつけ、30分ほどで事なきを得た。
 テレビのニュースでは、よく見る光景だが、実際に見るとこんなに興奮するのだと、改めて感じた。 
 ケガ人こそ出なかったが、凄い光景を見てしまったので、外出は控えることにした。ほんとうは、谷中の「朝倉彫塑館」に行く予定だったのだが……。

 朝倉彫塑館は、彫刻家・朝倉文夫のかつての居宅を改造したもので、いまは台東区の所有となっている。
 鉄筋コンクリート造りの旧アトリエ部分と、丸太や竹をモチーフにした数寄屋造りの旧住居部からなっている。和洋折衷の特異な建築は、朝倉文夫本人の設計で、本人の意向が強く反映されているという。

 中庭の池と、5つの巨石の石組みもまた格別な日本庭園は、いつ訪ねても心安らぐ。大きなオリーブの樹が印象的な屋上菜園もいい。
 しばし縁側に坐り込んで、朝倉文夫を偲ぶ…、何と満ち足りた時間と空間であろう。
 その朝倉文夫は、昭和39年(1964)4月18日、急性骨髄性白血病で89年の生涯を閉じた。

 「見るだけでは物足りないから触ってみたいという、触感を誘うまでにその作品ができていれば、すこぶる傑作だということができる」
 という言葉を残しているだけに、朝倉の作品には、むしゃぶりつきたくなる作品が多い。やはり傑作が多いということであろう。
 代表作に、「墓守」「時の流れ」「大隈重信」「翼の像」などがある。

 展覧会に行くと、よく「作品には絶対に手を触れないでください」という表示を見かける。たしかに木彫は、手の汗や皮脂がついて、売り物にならなくなってしまうだろう。しかし、ブロンズや、陶磁器なら許してもいいのではないか。
 ただ、拝見する方も、指輪をはずすという、最低限度の心遣いは必要だ。
 先日見た「木彫二人展」にも、「作品には手を触れないでください」との表示がいくつもあったが、手を触れたくなるような作品は、皆無であった。


      吹抜けのそこに「墓守」風光る     季 己

グラヌラツィオーネ

2008年04月17日 23時40分52秒 | Weblog
 「三越イタリアフェア」が、日本橋・三越で開かれている(25日まで)。
 食料品、リビング用品、ファッションなどで、7階・催事場がごった返している。
 魚介類が苦手なわたしには、食料品売り場は全く興味がない。興味があるのは、工芸品の実演。
 いつ見ても感心するのが、シェルカメオの実演だ。
 今回は、人物モチーフを得意とする巨匠アキート氏と、古典芸術の雄セルベ氏が、実演のために来日された。
 女性の横顔を彫ったアキート作の、気品あふれるシェルカメオに感銘を受けた。もちろん、セルベ作のシェルカメオの神々しさも、素晴らしかった。

 今回初めて日本お目見えの「金細工の工房」、これがまた素晴らしい。
 この工房(会社)は、1950年の創業以来、さまざまな金細工製品を創作してきたという。
 たゆまぬ研究と熟練の職人技が生み出すジュエリーは、アンティークからモダンなデザインまで、伝統美と現代的なエトルリア様式とがもたらす芸術作品である。
 この独特な技法を、「グラヌラツィオーネ」(粒金加工)と呼ぶそうだ。こんな技法があることは、初めって知った。興味しんしんで、通訳の女性を通していくつか質問したが、いやな顔をせず、丁寧に答えていただき感謝している。

 「グラヌラツィオーネ」というのは、世界最古の金細工技法のひとつで、古代エトルリア人がすでに優れた技術を持っていたとされる。
 薄い金の板に描かれた図柄にそって、極小の金の粒を乗せ、溶接・加工していくのが特徴という。
 実演の方は2代目で、父親である初代の、長年にわたる研究と努力が、神秘の古代エトルリア人の金細工技術を、現代に蘇らせることを可能にしたのだ。
 実演を見ていると、薄い金の板には何も描かれておらず、極小の金の粒に接着剤のようなものをつけ、それを薄い金の板に次々と置いていき、ひとつの図柄を完成する。熟練と根気の要る、まさに神業のような作業である。

 この工房の作品は、すべてが一点もの。伝統的な金細工技術を用いて、完全な手作業で制作している。つまり、“世界でひとつだけ”の価値があるということ。
 数千年の歴史を持つ「グラヌラツィオーネ」技法により、現代的なイメージのジュエリーから、エトルリアや古代ローマの文明を発想するネックレス、宝石と組み合わせたペンダントなど、あらゆるデザインの製品を作り上げている。
 どの作品にも、際立った品質の良さと、美しさが備わっていて、出るのは“ため息”ばかり……。


      春雨と カメオの少女つぶやきぬ     季 己

竹の秋

2008年04月16日 23時27分11秒 | Weblog
 玄関脇のラッキョウ竹が、だいぶ黄ばんできた。風に揺られて葉を落とすのもある。

 野山の木々は萌え、やわらかな緑の若葉が広がる頃、竹や篠は去年の古い葉が黄色く色あせてくる。地中の筍を育てるために、葉に養分を使わないからだ。
 ふつうの草木が、黄や赤に色づくのは秋なので、これを「竹の秋」という。
 また、「竹秋」というのは、陰暦三月の異名でもある。枯れきった竹の葉は、やがて、さらさらと散って、地面を埋める。時には風に吹かれて、玄関に散り敷くことも。

 古い葉が若葉と入れ替わると共に、筍が土を破って顔を出す。なかでも孟宗竹は、冬の間から筍がとれる。二月下旬から今頃にかけてが盛りだが、五月中旬までの長い期間、われわれの味覚を楽しませてくれる。

 筍といえば、京都近郊の春景色が懐かしく思い出される。
 桂川の向こう、嵯峨野から大原野にかけての洛西、山科・醍醐から宇治に及ぶ山沿いの竹やぶ、ことに、乙訓(おとくに)や山城の孟宗竹の藪の「竹の秋」は、黄金色に輝いて美しい。
 そよ風にさや鳴る竹の葉ずれが、眠気を誘う京の春である。

 ふかふかと柔らかく耕された竹薮の赤土が、そこここに持ち上がって、地割れがしているのを見かければ、筍が頭を持ち上げるのは、間もないことであろう。
 ちなみに、「竹落葉」「今年竹」「筍飯」は夏、「竹の春」は秋の季語である。


      竹秋の嵯峨野や源氏千年紀     季 己