壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

熊坂

2009年10月26日 20時00分13秒 | Weblog
          加賀の国を過ぐるとて
        熊坂がゆかりやいつの魂祭     芭 蕉

 「熊坂」という地名をその契機とした、即興の句である。おそらく謡曲「熊坂」があったので、心惹かれたものと思う。
 義経に心惹かれている芭蕉が、義経とは逆に、盗賊の名を負う熊坂の哀れを詠み生かしたもの。「魂祭(たままつり)」が、そのあわれを呼びさましている。

 熊坂長範は、平安末期の伝説的大盗賊。謡曲「熊坂」、幸若舞「烏帽子折」などによれば、美濃赤坂の宿に金売吉次を襲い、牛若丸に討たれたといわれる。
 「熊坂」は、山中温泉から二里、大聖寺(だいしょうじ)に近い江沼郡三木村にあり、熊坂長範の故郷であると伝えられているところ。

 『曾良書留』には、「熊坂が其の名やいつの玉祭」とある。出典の性格から考えて、これが初案であろう、といわれている。
 魂祭の折の作と考えれば、元禄二年(1689)七月十五日金沢での作か。熊坂あたりでの作とすれば、八月初旬ごろの作と思われる。
 季語は「魂祭」で秋。魂祭には誰も亡き魂を迎えられて孫子(まごこ)に弔われるのに、荒々しい盗賊であるだけに、誰もその営みをすることもないであろう、ということを哀れんだもの。「魂祭」という季語でないと、これだけの効果は、とうてい生まれてこないであろう。

    「熊坂長範の生地、熊坂を、自分はいま過ぎてゆくが、あの牛若丸に討たれた
     長範は、盗賊の名を負うこととて、ゆかりの者も世をはばかって、あからさ
     まにはその魂祭をいとなむこともなく、打ち絶えていることであろう。いつ
     の日、その魂祭がなされることであろうか」


      うそ寒むの雨夜はとみにルネサンス     季 己

秋天

2009年10月25日 20時08分34秒 | Weblog
        秋天の一翳もなき思ひなり     風 生 

「秋天」は、「秋の空」のこと。「女心と秋の空」のように、移ろいやすいもののたとえによく使う。しかし、俳句では、その澄明な奥深い色を秋の空の特色として詠みたいものである。「秋の天」ともいう。
 近代短歌にも、
        秋空は澄みきはまりて翳(かげ)もたず
          見はるかす海にただ一つの舟   佐佐木信綱
 とうたわれている。


          暮 立 (暮れに立つ)    白居易(はくきょい)
     黄昏独立佛堂前   黄昏(こうこん)独り立つ仏堂の前
     満地カイ花満樹蟬  地に満つるカイ花樹に満つる蟬
     大抵四時心総苦   大抵四時(たいていしいじ)心総べて苦しけれど
     就中腸断是秋天   就中(なかんずく)腸の断たれるは是れ秋天
       ※「カイ」は、木偏に鬼。“えんじゅ”のこと。

       たそがれに、ひとり仏堂の前に立つ。
       舞い散ったえんじゅの花が地面を覆い、樹という樹には蟬が鳴きしきる。
       およそ四季それぞれ、心にかなしみをさそうものだが、
       とりわけ、はらわたがちぎれるほどに悲しいのは、秋。

 白居易は、元和六年(811)、四十歳の時に母を亡くし、都から郷里に帰って喪に服した。この詩は、そのころ郷里にあっての作。
 この時期は、白居易の人生の上で、いわば最初の挫折にあたる。母の死という最大の不幸の上に、当時の政治状況も、白居易とは相容れない勢力の体制下にあった。政治家としての未来にも影がさしていたのである。
 郷里での日々も、それゆえ、平安とはいえ憂鬱で孤独なものであった。ひたすら憑かれたように読書に励んでいる。

 この詩の後半は、四季のうちで、もっとも悲しいのは秋だ、という。当たり前の感慨に過ぎない。しかし、白居易の悲秋は一味ちがうのだ。
 起句(第一句)は、いわばこの詩の舞台背景をなす。
 承句(第二句)が実はこの詩の眼目である。満地のカイ花、満樹の蟬と、調子よく、暗くなりつつある中に、そこいら中に白い花が散らばっている情景を描く。樹という樹に蟬の声。それは、盛大な、という形容詞がふさわしいような秋の景だ。
 ところが、情景を目に浮かべるとき、この中に立つ作者の孤独なすがたが同時に鮮明にあらわれてくることに気づく。花びらの散乱と蟬の鳴き声、それは清浄世界の中の読経の大合唱にも聞こえてくるようだ。
 このように見ると、むしろ平凡にも思われる結句(第四句)が、ぐっと重みをもって迫る心地がする。


      秋天の銀座 流離のおもひあり     季 己

柳散る

2009年10月24日 20時00分05秒 | Weblog
 「昔恋しい銀座の柳……」と、歌にうたわれた柳が散るのは、秋風が吹きはじめるころ。細い葉が、しだいに黄ばんでいき、あるかなきかの風にほろほろこぼれるように散る風情は、まさしく、しみじみ秋を感じさせられる。
 銀杏のように、一時に散り尽くさず、秋の終わりから初冬にかけて散り尽くすのであるが、ここに柳の散り方の特色が見出せる。

        何喰うて小家は秋の柳蔭     芭 蕉

 この心のたどりゆく筋には、生きてゆくことのあわれさを深く感じているところが見える。
 「何喰うて」というこの発想の性格から見て、芭蕉晩年の作のように思える。この句は、『茶の草子』のほかには出ていない。おそらく元禄六年(1693)ごろの作ではないか。
 いうまでもなく、「何喰うて」は、決して小家(こいえ)の生活をさげすんだものではない。「秋深き隣は何をする人ぞ」に一脈通うものがある。ちなみに蕪村にも「凩(こがらし)や何に世渡る家五軒」の作がある。
 もちろん秋の句。「秋の柳蔭」で、秋の季を生かしている。柳には、「柳散る」という秋の季語もある。

    「散り初めた秋の柳の蔭に、一軒の小家が忘れられたようにある。この侘
     びしい小家の人は、何をたつきとしているとも見えず、ひっそりとして
     いる。いったい何を喰い、何をしてその日を送っているのであろうか」


      言の葉に倦みて画廊へ柳散る     季 己

蜻蛉

2009年10月23日 19時53分07秒 | Weblog
        蜻蜓やとりつきかねし草の上     芭 蕉

 蜻蛉(とんぼ)というものの動きを、柔軟にとらえた作である。
 眼前の景を、素直に把握した句で、自然を見る眼が、実に素直に出ている。
 蜻蛉自身の重みでか、あるいは風によってか、とにかく草の葉先が定まらないので、しきりにとまろうとして、なおとまりえない光景であるが、「とりつきかねし」という措辞も、この場合、なかなか味のあるつかみ方になっている。
 季語は「蜻蜓(とんぼう)」で秋季。蜻蛉そのものの一瞬が生かされている。

    「蜻蛉が羽をやすめようとして、草の葉に近づく。しかし、葉末はゆれて
     なかなかとまることができないでいる」


 病院への途次、秋空に赤トンボと飛行船を見た。何かの暗示のように。
 検査の結果は、思っていたよりは軽くすみそうである。しかし、入院して治療する必要があるので、10月27日に入院することにした。
 肺ガンの心配は全くなく、S状結腸ガンのそれも初期なので、副作用などの問題が生じなければ、31日には退院できるとのこと。
 まだ完全に安心はできないが、死ぬまでは生きられるので、それでヨシとしよう。昭和の作品を、鎌倉と言い張る骨董商ではないが、長い歴史からみれば、鎌倉も昭和も大差ないのだから……


      病院を出れば秋空 飛行船     季 己        

冷静な凝視

2009年10月22日 20時34分16秒 | Weblog
          山部宿祢赤人、故太政大臣藤原家の山池を詠ずる歌、一首。
        いにしへの 古きつつみは 年深み 池の渚(なぎさ)に
          水草生(みくさお)ひにけり   (『萬葉集』巻三)

 詞書きにより、赤人が、藤原不比等の亡きあとに、その邸宅を訪れる機会があって、その時に詠じたものであることが知れる。赤人は宮廷詩人であるが、おそらく権門としての藤原家に出入りしていて、不比等の生前にその邸に行き、山池を見たことがあるのであろう。「山池」とは林泉のことで、「しま」と読みたい。

 今、主人の亡きあとに、前回に訪れたときから相当の年が経過して、訪ねてみると、池の堤にも草が生じ、池にも水草がのびている、という意であろう。
 「年深み」というのは、年が経過したので、ということだが、年の経過だけで荒れたのではなく、主人公がいなくなって年を経たからである。
 地物にも霊魂があって、それが発動して荒れることもあるので、主人のいなくなった邸が荒れるのは、単に手入れが届かなくて荒れるというようにばかりは、古人は受け取らなかった。だから、この歌の無意識の創作動機には、そうした地物の浮動する霊魂に呼びかける気持もあり、また、その家に仕え、出入りしたことの長きを述べて、あらためて特別に目をかけて貰おうとする類型にはいっているとも言える。ただし、さすがに赤人この歌においては、そうした類型や実用的効果をはるかに高く抜いている。

 一見、平板なようで、かみしめて味わうと、含意の深い歌と言える。この上三句に、人麻呂や黒人の懐古と違った、赤人らしい冷静な凝視のあとがある。
 人麻呂は、ものに憑かれやすく、黒人は感傷におぼれやすい。赤人の叙景歌は、この両先輩歌人の風を学び、ことに黒人の細みを推し進めているのだが、客観性がより深まっている。「古きつつみは年深み」と、あくまでも対象との距離を見失わないのである。

 不比等の子供たちは、南家・北家・式家・京家の四家に分かれて独立し、その邸宅を相続したのは、三女安宿媛(あすかひめ)、後の光明皇后であった。ここで彼女は橘三千代の腹に生まれ、またここを皇后宮とし、天平十七年(745)に、文武・不比等・三千代のために居宅を捨てて宮寺を作り、それを後に法華寺とした。奈良市法華寺町に今もある。これから見ても、この邸の庭が実際に荒廃していたとは思われない。


      秋思ふと種のなかりし黒葡萄     季 己

          ※ 秋思(しゅうし)=秋のものおもい

我もさびしき

2009年10月21日 22時58分07秒 | Weblog
          洛の桑門雲竹自からの像にやあらむ、あなた
          の方に顔ふり向けたる法師を画きて、是に賛
          せよと申されければ、君は六十年余り、予は
          既に五十年に近し。ともに夢中にして、夢の
          かたちを顕す。是に加ふるに又寝言を以てす
        こちら向け我もさびしき秋の暮     芭 蕉

 この、画に向かって呼びかけるところに俳諧がある。これを画賛として味わってみると、侘びしさとともに、不思議なゆとりが漂ってくることを感ずる。
 「洛」は京都のこと。中国の洛陽にちなみ、都をいう。
 「桑門(さうもん)」は、出家して仏道を修める人。僧侶。
 「雲竹(うんちく)」は北向(きたむき)氏。京都東寺観智院の僧で、太虚庵と号し、大師流の書家であった。『鵲尾冠(しゃくびかん)』に越人の、「大師の後の細字雲竹」などがあり、芭蕉が書を学んだ師であると伝えられ、元禄三、四年頃は芭蕉との交渉が多く、『猿蓑』の其角序の版下を書いている。この年五十九歳。芭蕉は四十七歳。「六十年」・「五十年」は、それぞれ「むそぢ」・「いそぢ」と読む。
 「ともに夢中にして……」は、『荘子』斉物論の一節によったもの。二人とも夢のようなこの世を生きているが、この絵は、その夢にただよう姿をあらわしているの意。
 「秋の暮」が季語で、秋の夕暮れの意。その情を生かした使い方になっている。ちなみに、「暮の秋」は晩秋の意。

    「秋の暮れのたださえものさびしい中に、この画像のあるじはいつもむこ
     う向きになっている。私にもさびしい秋の暮れなのだ。さあ、こちらを
     向いてくれないか。そうして共に語り合おうではないか」


      治療法きく耳二つ暮の秋     季 己

菅原智子個展

2009年10月20日 20時05分28秒 | Weblog
 菅原智子さんは、不思議な画家である。いや、不思議な作品を生み出す方だ。
 まず、何が描かれているのかわからない。わからないはずである。彼女は何も描いていないのだから。描かないでどうするのか?知りたい方は直接、個展会場(東京・銀座「画廊 宮坂」)へ出かけ、ご本人から直接お聞き願いたい。

 イタリア語の原題を、「内なる幻想」と変人訳したた菅原さんの作品が、階段の踊り場に飾ってある。時々、階段に腰を下ろし、ボケーッと作品を眺めるのも、楽しみの一つ。
 最近、菅原さんの作品は般若心経の「〈空〉の世界」を表現している、と思うようになってきた。もちろん真の〈空〉の解釈は、変人にはできない。あくまで自己流の解釈による「〈空〉の世界」ということだが……。
 〈空〉の普通の意味は、「からっぽ」ということ。この〈空〉と似た語に〈無〉がある。この二つは、よく混同されるが厳密には違う。
 たとえば、水の入っていない、からっぽのコップがあるとする。この場合、「コップは空」とは言えるが、「コップは無」とは言えない。コップはあるのだ。無いのは水なのだ。つまり、「無の状態」・「無の場所」を〈空〉と、勝手に解釈している。

 〈空〉とは形としては見えないが、存在するもの全てを包み込むエネルギーと言ってもよい。菅原さんの作品は、形としては見えない〈空〉を、形として見えるようにした作業の賜と言えるのではないか。
 般若心経が説く〈空〉とは即ち〈色〉である。〈色〉あるものとは〈形〉である。
 形のないものは、壊れる心配がない。それを、菅原さんはあえて形を与えているのだ。菅原さんのよいところは、形を作ることをしない点である。根を詰めて、自分の気に入る形が出現するまで、キャンバスを刷毛で塗りつづける。
 この世には存在しない形を生み出す作業は、苦しいこともあろうがそれ以上に楽しいのではないか。無責任に観る者にとっても、おもしろく楽しいこと、この上ない。
 菅原さんはイタリアのアトリエで、制作という瞑想をしているのだ。全宇宙と一体化するために。
 お若い菅原さんには、こだわり・とらわれの心がまだあるが、着実に進化しているのがうれしい。我を捨てたときの、彼女の作品が楽しみである。
 私という存在が〈空〉になるとき、そこに私は存在しない。


           『菅原智子 個展』
      2009年10月20日(火)~10月25日(日)
       am11:00~pm6:00(最終日5:00まで)
            「画廊 宮坂」
       中央区銀座7-12-5 銀星ビル4階
         ℡(03)3546-0343


      イタリアの古城に個展 天高し     季 己   

高尾大夫

2009年10月19日 20時38分03秒 | Weblog
 「ベラスケスもデューラーもルーベンスも、わが家の宮廷画家でした。」のキャッチコピーに惹かれて、『THEハプスブルク』(国立新美術館)を観てきた。
 さすが、優れた審美眼と熱意をもって芸術保護に乗り出しただけあって、美術の神髄を示す質の高いコレクションを形成している。眼福のひとときを持てたことに感謝したい。
 観光ボランティアガイドとして興味を覚えたのは、140年ぶりに里帰りした明治天皇からの贈り物『風俗・物語・花鳥図画帖』である。これは、当時の絵師による日本の風景や暮らしを描いた百点の絵画が綴じられたもの。日本初公開という。
 歌川広重(三代)の東京名勝図会ともいうべき作品、ことに「道灌山」・「吉原」に出会えたのはラッキーだった。ただ、「道灌山」の図は、初代広重の東都名所「道灌山虫聞之図」とほとんど同じであったのには、少々落胆した。

 また、今夜から23日の未明までが、オリオン座流星群観測の絶好のチャンスとのこと。もう一つの眼福にあずかろうか……        

        哀しる霜に石を粧ふ蔦の湯具     才 麿

 「遊心寺ノ高尾ガ廟」という前書きとともに、『虚栗(みなしぐり)』に掲出されている。
 前書きの「高尾」は、仙台伊達侯との伝説で有名な江戸吉原の三浦屋抱えの大夫で、仙台高尾とも万治高尾ともいわれる。(大夫は、最上位の遊女)
 「湯具」は腰巻のことで、蔦の紅葉を、紅い湯具にたとえたもの。湯具に見立てた紅葉を出したのは、高尾の紋所が、紅葉であった縁によるものかも知れない。
 評判記などによれば、高尾の容姿はきわめて美しく、性質はおだやかであったというが、佳人薄命のたとえのように、十九歳という若さで没したという。

 薄化粧をして、紅い湯具をまとった高尾大夫の姿に見立てる説がある。それでは裸形の高尾ということになり、白い着物と紅い湯具という、清楚さと色っぽさをあわせもつ、高尾の不思議な魅力は浮かび上がってこない。
 漢詩文調の、やや難解な虚栗調といえる手法によりながら、談林派に身を置いた俳人らしく、つややかな人事句となっている。
 季語は「蔦」で秋季。

    「高尾大夫の墓前に詣でると、墓石には霜がうっすらとおいており、台座
     には紅葉した蔦が這いまとい、まるで白い着物を美しく着こなし、その
     裾からは紅い湯具がちらりとこぼれた、ありし日の高尾の姿を見る思い
     がする。これも薄命の遊女高尾をあわれんだ造化の神の配慮なのであろ
     うか」


      癌検査終へて五日の夜這星     季 己

土用干

2009年10月18日 20時16分28秒 | Weblog
 「菅原智子個展」(10月20日~10月25日)・「菅田友子日本画展」(10月27日~11月1日)と、2週つづけて銀座の「画廊宮坂」で、変人の好きな作家の作品が観られる。非常に楽しみである。が、一つ心配なのは「菅田友子日本画展」と、再入院とが重なりそうなのだ。これは10月23日にならなければわからないが……。

 「画廊宮坂」の来年の「年間スケジュール表」を見たら、おもしろいものを見つけた。1月12日から2週間、「虫干し展」とある。
 虫干しは、「夏の土用の頃、黴や虫害を防ぐために書籍・衣服などを日に干したり風にさらしたりすること。土用干し。虫払い」と、『広辞苑』にあるように、夏の土用に行なうのが普通である。それを正月にするとは、いかにも宮坂さんらしい。
 ふだん忘れられ、かくされていた作品を、明るみへ取り出して並べてあげようという、宮坂さんのやさしさ、思いやりの深さに、頭が下がる。

        竜宮もけふの潮路や土用干     芭 蕉

 『六百番俳諧発句合』に「上巳」と題して掲出されている。
 「上巳」は「じょうし」と読むが、俗に「じょうみ」とも読み、三月初の巳の日の意で、この日行なわれた節句をいう。中古以後は、三月三日とされている。
 この日は、潮が大いに干るといわれ、江戸の頃から潮干狩りを行なう風習がある。
 「土用干」は、ふつう夏の土用のころの虫干しをいうが、ここでは上巳の日の潮干を土用干と見立てたものだから、上巳で春の季となる。
 上巳の日、潮がはるかに干たところから、今日の潮路の果てに竜宮を思い起こし、その竜宮の土用干を連想したところが眼目である。

    「きょうは三月三日のこととて、ずっと沖まで潮が引いているが、これは
     海中の竜宮でも土用干をしているのであろう」


      波に浮くものみな白し秋の海     季 己

虫待宵

2009年10月17日 19時39分10秒 | Weblog
        野に嬉し虫待宵の小行燈     重 頼

 作者の重頼は、松永貞徳の門流であったが、のち貞徳の門流を離れて独自の俳諧活動をした人である。
 『山の井』の、
    「さればむしふくあらしの山のべのけしき。とぼしありくあんどうのかげに。
     をぐらの里もたどたどしからぬありさま。又させもが露を命にてすだく
     心ばへ。くれゆく秋をおしみなきするのべのあはれさ」
 という文章は、この句を理解する上にはなはだ有益である。
 この文章から、行燈(あんどん)を持ち歩いて、夜の野辺に虫を求める情景が想像されるが、この句はまさにそうした情景を描いているのである。
 当時は「あんどう」と読むのが普通だったのであろう「行燈」とは、室内の照明具で、木などで枠を作り紙を貼ってその中に油火を燃やすようになっているが、もとは持ち歩いたものであろう。

 この句で問題になるのは「虫待宵」だが、これを一般には、「虫待」と「待宵」が掛詞になっており、「待宵」を陰暦八月十四日の夜のこと、と説いている。
 しかし、「待宵」という詞が、季語として定着するのはもっと後のことであり、この当時は、中秋の名月の前夜を指すには、「小望月」というのが普通だったのではないか。したがって、「虫待宵」は、「虫待」に「待宵」を言い掛けたものではないと思う。
 「虫待宵」とは、「月待つよひの空なへだてそ」のように、歌に見える「月待宵」をもじった重頼の造語ではなかろうか。
 「月待宵」ならば明かりはいらないわけで、「虫待宵」だから野の明かりが嬉しいというのである。

 はなはだ知的な言語操作の上に成り立っている句で、作者のねらいは決して秋の夜の情趣を描き出すことにあったのではない、といえそうである。
 季語は「虫待宵」で秋。

    「虫の鳴き出すのを待って野原にいると、虫を求めてやってきた人の行燈
     の明かりが見える。暗がりの中で、それが心強く嬉しく思われる」


      寝返りを打てばこほろぎ喜びぬ     季 己

心の波立ち

2009年10月16日 20時09分46秒 | Weblog
        菊の花咲くや石屋の石の間     芭 蕉

 一見、何の奇もないように思われるが、その淡々たる中に芭蕉のしずかな驚きが見られ、それが「菊の花咲くや」という呼吸に感ぜられる。
 後世、こうした表現があり余るほど無反省に作られているので、現代人は見逃しがちである。しかし、「咲くや」というあたりに、呼吸を乱さぬ驚きがあり、この驚きは、以前のように驚きを外に放出するのではなく、静かな心の波立ちを楽しむ老境のすがたが見られるのではないか。
 「石屋の石の間(あひ)」も写実・格調ともに成功している。この句には、軽みへの志向もうかがわれる。

 この句、「八町堀にて」、「八町堀に行くとて」、「八町堀に行きて」などの前書きがある。「八町(丁)堀」は今の中央区。石材を船で運ぶのに便利なので、石屋が多かったという。
 季語は「菊」で秋。実際に即した発想であろう。

    「石屋の石が、ごつごつと乱雑に置かれている。その石の間に菊が生え出て、
     香り高い清楚な花を咲かせていることだ」


      菊日和 雲ひとつゆく浜離宮     季 己

桑の杖

2009年10月15日 20時08分21秒 | Weblog
          松倉嵐蘭を悼む(後略)
        秋風に折れて悲しき桑の杖     芭 蕉

 門人の嵐蘭を悼む心が、折からの秋風に誘われて発想されたものであろう。
 桑の杖のぽっくり折れ去った感じは、頼みとする人を失った悲痛な感じに通う。しかも、秋風という季節の感じが、この句の世界を蕭条たる天地とし、芭蕉の、門人を失った悲しみとが自然に感合して、悲しみに沈む芭蕉その人の姿を見るような悼句をなしている。

 「秋風に」と沈んだ調子で詠みだし、「折れて悲しき」と急転し、「桑の杖」と抑え込んだあたり、全体として重く湛えられた調子が生まれている。
 「秋風に」は、ここに小休止があり、句全体を包み込んでいる。単純に「折れて」に続くのではない。
 「桑の杖」は、桑でつくった杖。慣れ親しんだ門人であるから、自分からいえば杖のようにも思われる、という気持でいったものか。『芭蕉庵小文庫』に、史邦のしるすところによれば、「越の菅蓑に桑の杖つきたる自画の像」があり、元禄四年、史邦に譲られたという。
 慶長ごろ、江戸で桑の杖が流行したこともあったといわれる。また、「桑弧蓬矢(そうこほうし)」という熟語があり、桑の弓、蓬の矢ということで、男子が生まれたとき、これで天地四方を射て、将来の雄飛を祈った。転じて、男子が志を立てることの意となった。嵐蘭はもと武士であったから桑弧にかけて「桑の杖」としたものかともいわれる。一説には、桑は四十八を意味し、四十八歳を桑年というので、嵐蘭が桑年にも達しない、四十七歳で死んだのに言いかけたともいわれている。
『おくのほそ道』中の、「塚も動け我が泣く声は秋の風」が、外に放たれた号泣であるとすれば、この句は、内にひそみ入る慟哭(どうこく)といえよう。

 「松倉嵐蘭」は、松倉甚左衛門盛教。肥前島原の板倉家の家臣で三百石を領したが、致仕して江戸へ出、延宝三年ごろ芭蕉に入門した。最も親炙した門人の一人で、元禄六年八月二十七日没。四十七歳。
 「秋風」が季語。

    「杖とも頼んでいた嵐蘭が、桑の杖がもろくも折れてしまったように、突如
     として死に赴いてしまって、自分はこの蕭条たる秋風の中に、悲しみの
     情に堪えられないでいる」


      風神になりきつてゐる花すすき     季 己

大いなる愚

2009年10月14日 00時01分27秒 | Weblog
 「大いなる愚」というと、大愚良寛を思い出す方が多いと思う。しかし、良寛さんの話ではない。
 江戸中期の白隠禅師の頌(じゅ)に、「徳雲ノ閑古錐(かんこすい)幾タビカ妙峰頂(みょうぶちょう)ヲ下ル。他ノ痴聖人(ちせいじん)ヲ傭ッテ雪ヲ担ッテ共ニ井ヲ塡(うず)ム」とある。
 「徳雲は修行を積んだ高僧だが、閑古錐と呼ぶ。徳雲は悟りの高峰でおさまってはいずに、たびたび山をおりる。そして痴聖人と連れ立って、雪を担って井戸を埋めにかかる」ということだろう。

 「閑古錐」の「閑」とは、“ひま”ということではなく、心の安らいだ状態をたたえる字である。「古錐」は、使い古した錐(きり)をいう。先もまるくなって、誰も使わないから、「閑」である。
 新しい錐は役に立つが、ときには他を傷つけることもある。古錐には、その憂いもないから心も安らぐ。
 買いたての錐は、先鋭で有能で貴重な存在であるように、“やり手”と讃えられる人間は切れすぎて、ときには他者だけでなく自分をも傷つけるきらいがある。「閑古錐」は、この辺の呼吸を示唆するのではなかろうか。
 錐は、穴をあける道具だから、はじめから先がまるくなっていては役に立たない。人間も若いうちは鋭角が多い方がいい。その鋭角の角が一つ一つとれて、はじめて円熟の人格となる。
 「円とは、無限の多角形なり」との数学の定義に、興趣を覚える。

 古来、名将とうたわれた人は、必ずしも快刀乱麻の切れ味のよさがすべてではない。ときには無能力者のように思われもする。現代社会にあって、よき指導者となるにも、「閑古錐」の語から何かを学びとる必要があろう。こうした心境を、禅語で「痴聖人」になぞらえる。「痴」は、たんなる愚ではない。真・善・美・聖を踏み越えた大いなる愚の世界である。

 東洋の古い思想の中には、無駄とわかっていても、なお努力をつづけるところに、人間の尊厳性を凝視したと思われるものがある。この考え方は現代においてこそ、じっくりと学ぶ必要があるのではなかろうか。


      生き死ににあらず明けたる花芙蓉     季 己

雲に鳥

2009年10月13日 14時04分37秒 | Weblog
          旅 懐
        此の秋は何で年よる雲に鳥     芭 蕉

 「旅懐」という前書きが示すように、純粋に旅のおもいを投げ出したもので、孤独なつぶやきのごとき味わいをもっている。
 師の井本農一先生は、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」を芭蕉の最高傑作とおっしゃっていたが、変人は、この「雲に鳥」の句こそ最高傑作だと思っている。さらに言えば、「俳句はつぶやき」を教えられた句でもある。

 上五・中七は、「軽み」をめざした口語表現で、門人の支考の伝えるところによれば、比較的すらすらと発想されたもののようである。しかし、下五は「寸々の腸をさかれ」たものだという。
 事実、この句の眼目は、「雲に鳥」によって、「此の秋は何で年よる」という独語的なものが支えられているところにある。
 芸道上のはるかな憧れ、はてしない漂泊への誘い、迫り来る老衰の自覚……。こうしたさまざまな思いを一気に吐き出したのが上五・中七であった。それが、「雲に鳥」という、あくまで具象的で、しかも無限の虚しさの中に吸い込まれるような寂寥に満ちた詩句と浸透しあうことによって、一句としての全き世界は形づくられているのである。
 こうして形を与えられたその孤独感は、特定の事物から来たものではなく、もっと深く人生の根源的なかなしみにかかわるものであって、もはや如何なるものをもってしても覆いがたい孤心(ひとりごころ)である。
 「此の秋はいかなる事の心に叶はざるにかあらん。伊賀を出で後心地すこやかならず、明暮になやみ申されしが、……」とは、同行の支考が、この句に触れて書きしるすところである。

 「雲に鳥」について、陶淵明の「帰去来辞」や蘇東坡の「四家絶句」を引く説がある。しかし、変人は、芭蕉の心酔する宗祇(そうぎ)の師である心敬(しんけい)の付句にあると思っている。
 「我が心たれに語らむ秋の空」という句に、
  心敬は、「荻にゆふかぜ雲にかりがね」と付けている。
 「荻には夕風」「雲には雁」がいて、秋の寂しさの中でも互いにその心にふれあうこともできる。しかし、この私には自らの心を語るべき相手ももうなくなってしまった、という意味が含まれていよう。
 心敬を学ぶまでは、「雲に鳥」がよくわからなかった。それがこの付句を見たとたん、芭蕉最晩年の「雲に鳥」を思い起こしたのである。
 後世の芭蕉が、「雲に鳥」によって意味したものが、心敬の付句を見ることによって、まざまざと蘇り、はじめて芭蕉の“こころ”が身に沁みて理解できたように思う。

    「今年の秋は、どうしてこのように年老い、身衰えるというおもいが、深
     く身に沁みるのであろう。眺めやると、かなたの雲にいま鳥影が没して
     ゆこうとしている。その孤独な影にも、雲という語り合えるものがいる
     ではないか。それにひきかえ、漂泊流浪の果て、かかる衰残の身を旅に
     置いている我が身には、自らの心を語るべき相手ももういない……」


      鳥渡る一山一湖一大河     季 己

羅生門

2009年10月12日 20時05分36秒 | Weblog
          辛未の秋、洛に遊びて、九条羅生門を
          過ぐるとて
        荻の穂や頭をつかむ羅生門     芭 蕉

 即興のたわぶれともいうべき発想である。もともとは和歌的な優雅な世界のものである荻の、秋風にそよぐ情景を俳諧の世界に移し、謡曲「羅生門」を下敷きとして鬼に結びつけ、春を秋に、しころを頭に転じたおかしさを味わいたい。

 「辛未(しんび)」は元禄四年(1692)の干支。
 「洛」は、洛陽が長く都であったことになぞらえて、わが国で京都をいう語。
 「羅生門」はもと羅城門と書き、平城京・平安京の外郭の正門。朱雀大路の南方正面にあり、北の朱雀門と対していた。平安京のそれは、東寺の西のところにあった。
 謡曲「羅生門」は、源頼光の臣、渡辺綱が春雨の降る夜、羅生門に赴き、楼上に棲む鬼に兜のしころを摑まれたが、その片腕を斬りおとすという筋で、この句はそれによって仕立てている。謡曲のもとになっていると思われる『平家物語』では、鬼女に髻(もとどり)を提げられることになっている。

 「頭」の読みは、『鹿島紀行』に「かしら」と、かなで表記しているので、それに従っておく。
 「荻(の穂)」は秋季。この句の場合、擬人的に用いている。
 「荻」は、イネ科の多年草で、海萱(うみがや)・浜荻(はまおぎ)などの名があり、多く水辺に生じ、芒に似た穂を出す。その荻の穂の風になびいたのが、鬼女の手のように頭にふれたのを、「頭をつかむ」といったのである。

    「羅生門のあたりを過ぎると、荻の穂がゆらりとなびいて頭にふれたが、
     場所が場所だけに、その感じは、あの渡辺綱につかみかかった鬼女の趣
     であった」


      体育の日の運動場がらんどう     季 己