壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

夕涼み

2009年06月30日 20時49分51秒 | Weblog
          住みける人ほかにかくれて、葎(むぐら)生ひ茂る古き跡
          をとひて
        瓜作る君があれなと夕涼み     芭 蕉

 前書きの意味は、「昔ここに住んでいた人が、よそに移って後、雑草の生い茂ったその跡を尋ねて」というのである。
 『伊勢物語』・『古今集』に見える在原業平の、
        月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ
          わが身ひとつは もとの身にして
 の前書き「ほかにかくれにけり……」を踏まえたものと思われる。
 「君があれな」は、君がいたらよいのになあ、の意。

 芭蕉と「住みける人」との交情には、中国の古い、市井に隠居する人物のおもかげが感じられておもしろい。
 別の真蹟に「古園」と前書きするものがあるが、その「古園」という前書きを置いてみると、いっそうその感じが強い。

 『山家集』の
    「夏、熊野へ参りけるに、岩田と申す所に涼みて、下向しける。人に
     付けて、京へ西住上人のもとへ遣しける」
 と前書きした
        松が根の 岩田の岸の 夕涼み
          君があれなと おもほゆるかな
 を踏まえている。
 「瓜」については、『史記』の、秦の東陵侯召平が、秦の破れて後、長安城の東に瓜を作って、布衣の生活をしていたが、世人はこの瓜を東陵瓜と称した、という故事を踏まえたものといわれているが、その通りかも知れない。しかも、「瓜作る」が、いかにも俳諧を感じさせるものとなっている。
 「瓜」も夏をあらわすが、この句の中心は「夕涼み」なので、これが季語となる。

     「昔なじみの人の住んでいた跡を尋ねてみたが、雑草が生い茂って
      見る影もない。かつてここで瓜などを作って楽しんでいた君が、
      今もいてくれたらよかったのにと、独りあたりを歩いて、夕べの
      涼をとったことである」

        母の分もひとつくぐる茅の輪かな     一 茶

 今日は、六月のつごもり、「夏越の祓(なごしのはらえ)」である。各地の神社では、参詣人に「茅の輪」をくぐらせて祓い清める神事を行なう。夏の不祥を祓って、よき秋を迎えようとする気持ちの表れという。
 京都の伏見神宝神社では、毎年六月三十日の早暁、変人の「誕生奉告祭」を齋行してくださる。感謝の念でいっぱいである。


      大津絵の槍持奴 夕涼み     季 己

卯の花

2009年06月29日 21時02分35秒 | Weblog
 我が家の梅花空木(ばいかうつぎ)が咲き出した。今、二階の窓から確かめたが、夜目にもはっきりと真っ白い花が五輪……。

        梅恋ひて卯の花拝む涙かな     芭 蕉

 「梅恋ひて卯の花拝む涙」って、どんな涙?
 思わず、そう言いたくなるような句である。この句、このままでは解しがたい。それもそのはず、実はこの句には次のような前書きがあるのだ。

     「円覚寺の大顛(だいてん)和尚、今年睦月の初め遷化したまふよし。
      まことや夢の心地せらるるに、先づ其角が許へ申し遣はしける」

 この前書きを置いてみると、芭蕉の技巧的な面が、おどろくほど浮かび出てくるのを感じる。
 「大顛和尚」は、鎌倉五山の一つ臨済宗大本山円覚寺の第百六十三世である。名は梵千、芭蕉の弟子である其角の禅の師で、俳諧もよくした。
 「遷化」は、高僧の死をいう言葉。
 「卯の花拝む」とは、訃を聞いたのは卯の花の咲くころであり、和尚のおもかげをしのぶよすがに、眼前の卯の花を拝んで追懐したということだろう。

 「卯の花」は、「空木の花(うつぎのはな)」ともいい、初夏のころ、五枚の白い花弁をもった雅趣ゆたかな花が、雪のようにたくさんかたまって咲くさまは、清楚な感じがする。
 むかし小学唱歌であった『夏は来ぬ』に、
   卯の花の匂う垣根に ほととぎす早も来鳴きて 忍び音もらす夏は来ぬ
 とあるように、卯の花は、日本の初夏を代表するユキノシタ科の落葉低木である。垣根や畑の境界などに植えられる。
 卯の花はまた、梅雨時の花であり、その時期に降る雨を「卯の花腐(くた)し」ともいう。
 茎を切ると中が空(うつ)ろになっているので空木、あるいは、陰暦の四月に当たる卯月に咲くので、卯の花と呼ばれるという説もある。
 卯の花は、稲作との結びつきが強い。卯の花が長く咲いている年は豊作で、花が少ないか、長雨で早く朽ちてしまう年は凶作と、占うこともあったようである。

 箱根空木の花はとくに美しく、白から紅を経て紫と変化しながら、むらがり咲く。紅い紅空木(べにうつぎ)、黄色のうこん空木、谷空木、梅花空木など種類が多い。芭蕉の見た卯の花は、梅花空木だったかも知れない。

    「円覚寺・大顛和尚の遷化を旅の途中で聞いたが、今はもう遷化された
     梅の季節はとうに過ぎて、卯の花の咲くころとなってしまっている。
     和尚が愛し、和尚の高徳に比すべき梅、そして遷化のころ盛りであっ
     た梅をしのびながら、今、眼のあたりの、白梅にもまがうばかりの卯
     の花を拝んで、追懐の涙をとどめえぬものがある」


      卯の花の夜を徘徊の下駄の音     季 己

六月二十七日……

2009年06月28日 20時26分47秒 | Weblog
          六月二十七日望湖楼醉書五絶     蘇 軾
        黒雲翻墨未遮山   黒雲墨を翻して未だ山を遮らず
        白雨跳珠乱入船   白雨珠を跳らせて乱れて船に入る
        巻地風来忽吹散   地を巻き風来たって忽ち吹き散ず
        望湖楼下水如天   望湖楼下(ぼうころうか)水天の如し

           黒い雲が墨をぶちまけたように広がってきたが、
          まだ山をすっかり隠してはいない。
           と見る間に、夕立の白い雨粒が真珠をまいたように
          ぱらぱらと船の中に降り込む。
           やがて、大地をまきあげるように風が来て、
          たちまち雲や雨を吹きはらい、
           望湖楼から見る湖の面(おもて)は、
          大空の色をたたえて広がっている。

 1072年、蘇軾、三十七才の作。
 蘇軾(そしょく)は、1066年、父の死によって、いったん官を辞し帰郷した。
 その三年後、再び都へ出たが、朝廷は、王安石の新法をめぐって、二派に分かれての抗争が行なわれていた。蘇軾も、新法に対して批判的発言をしたことから、新法党ににらまれ、前年自ら地方官を望んで、杭州の通判(つうはん=副知事)となった。
 杭州では、この地方の文人と交わったり、名勝を訪ねて詩を作るなどし、この時期から、蘇軾の文学者としての本当の活躍が始まる。
 この詩は、夏の一日、西湖(せいこ)に遊んで、事に触れて作った五首の絶句の連作の第一首目。湖を夕立が通り過ぎるのを、湖を一望にする楼閣からながめて作った詩である。

 墨壺をひっくり返したような黒雲、真珠をばらまいたような白雨。白雨は夕立のことで、ここは黒雲の対で、白い雨粒のイメージを示している。
 蘇軾の詩の大きな特徴に、比喩の面白さがあるが、ここはそれが対としてぴたりと対応していて、いっそう見事である。さらに句全体でも、山と船という、遠景と近景の対応になっている。
 墨を翻す、珠を跳らす、という躍動的な描写に、時間的な速さを加える働きをしている。

 転句では、さらに勢いのよい風が描かれる。筵を巻くように大地をひとまくりする強風が、それまでの雲や雨を一気に吹き払ってしまう。
 この転句で、起句・承句から続いてきた躍動的な自然の動きが頂点に達する。

 そして結句では、一転して、晴れ渡った空が、湖面に映った閑かなたたずまいの描写となる。勢いよく通り過ぎていく夏の夕立のさまが、あたかもスローモーションカメラでとらえたように、生き生きと描かれている。

 この詩の眼目は、「水如天」の三文字であろう。柳宗元(りゅうそうげん)の詩の、「…来たりて雲は墨に似、洞庭に春は尽きて水天の如し」に基づく表現であろうが、まさに「換骨奪胎(かんこつだったい)」の妙がある。
 動から静への転換、黒→白→青という色彩の変化、そうした一編のリズムを受け止めて、見事に収束している。画家としても名のあった蘇軾らしい詩である。
 俳句は、絵を描くように、歌うように!


      シーサーのあくび沖縄梅雨明けぬ     季 己

花橘

2009年06月27日 20時51分33秒 | Weblog
 『古今集』の「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」で一躍スターになった「花橘(はなたちばな)」。『萬葉集』にも、こんな歌がある。
        橘は 実さへ花さへ その葉さへ
          枝に霜降れど いや常葉の樹  (聖武天皇)

 古くから日本人に親しまれている花橘は、ミカン科の常緑低木である。台湾から日本の暖かい海岸に自生し、日本原産で別名「大和橘」ともいう。
 五月から六月にかけて、五枚の花弁をつけた白く小さい気品のある花を開く。
 陰暦五月は、別名「橘月」ともいい、この花の開花を待って、農事を始める習慣があった。例の「五月待つ」と歌われたように、柚子に似たかぐわしい香りは、とくに詩歌の世界で愛されてきた。
 秋になると、酸味の強い金色の小さな実をつけるが、おいしいとは思わない。
 京都御所の紫宸殿の前庭には左近の桜と並び、右近の橘が植えられている。文化勲章は、この花をかたどったものである。

        駿河路や花橘も茶の匂ひ     芭 蕉

 この句も、「五月待つ」をバックとして持っているだろう。
 「花橘も茶の匂ひ」は、おおまかな表現のようだが、上五に「駿河路や」と置かれてみると、非常に句柄が大きくなる。
 芭蕉が感覚を生かす場合には、包み込んでゆくようなふくよかさがあるが、これもその好例である。
 「茶の匂ひ」を単に強調したものではなく、「花橘」と「茶の匂ひ」の二つの季物をもって、「駿河路」という土地柄をたたえた句であろう。
 駿河の国島田の宿の如舟(じょしゅう)への挨拶の気持があるかも知れない。
 「茶摘み」関係は春の季語であるが、ここは「花橘」で夏。

 俳句初心者は、この「○○路」がお好きらしいが、木曽路・信濃路などはともかく、群馬路・福岡路・青森路などの類は感心できない。

    「駿河路をこうして辿ってくると、今まさに橘の花が、昔なつかしく咲き
    誇っている。その高い香りも、さすが茶どころだけに、折からの新茶の
    匂いに紛れてしまいそうである。まこと駿河の国は結構なところですな
    あ」


      志野茶碗 窓の向かうのさるすべり     季 己

梔子の花

2009年06月26日 22時45分04秒 | Weblog
 雨の降りそうな夜のこと。歩むにつれて、清楚な匂いがしだいに強くなってくる。梔子(くちなし)である。
 梔子は、「山梔子」とも書く。山を付けても読みは「クチナシ」である。
 梔子は、アカネ科の常緑低木で、高さ1~3メートルくらい。葉は光沢のある長楕円形で革質、梢に白色六弁の花を咲かせる。形が盃に似ているので梔子の字が当てられた。和名の「くちなし」は、実が熟しても口を開かないところから付けられた。「くちなし」という名が、そのために付けられたのではないにしても、沈黙の尊さを教えられるような、ゆかしい花である。
 咲き始めは純白だが、黄変して散る。実からは黄色の染料がとれ、乾燥させた山梔子は、解熱剤として用いられる。

        月の夜を経し山梔子は月色に     東門居

 たいていの香りの強い花がそうであるように、梔子もまた、南国が原産の植物である。日本には、ずいぶん早くから知られていて、『日本書紀』の、天武天皇十年(682)八月の条には、種子島の産物をあげた中に、「支子」と見えている。おそらく染料として利用されたもので、『和名類聚抄』にも、「木ノ実ハ、黄色ヲ染ム可キ者也」と記している。

 ところで、西洋の人が梔子の存在を知ったのは、案外、新しい時代のことのようだ。物の本には、十八世紀の中頃、インド航路の船が、南アフリカのケープタウンに寄港したとき、船長のハッチンソンという人が、満開の梔子を見つけて、それを根ごと掘り取って、鉢植えにして帰り、外国植物の蒐集家であった、R・ワーナーに贈ったのが初めであったという。
 ただし、これは八重の小輪梔子であったらしく、クチナシの仲間の植物を、英名でケープ・ジャスミンというのは、そのためとのこと。


      くちなしの匂ひ他人のふしあはせ     季 己

しのぶ摺り

2009年06月25日 17時03分53秒 | Weblog
        早苗とる手もとや昔しのぶ摺り     芭 蕉

 この句、『おくの細道』に、
    「明くれば、しのぶもぢ摺りの石を尋ねて、信夫の里に行く。遙か山陰
     の小里に、石半ば土に埋もれてあり。里の童部(わらべ)の来たりて
     教へける、『昔は此の山の上に侍りしを、往来(ゆきき)の人の麦草
     を荒らして此の石を試み侍るを憎みて、此の谷につき落とせば、石の
     面、下ざまに伏したり』と云ふ。さもあるべきことにや」
 とあって、掲出されている。

 この句は、早乙女の田を植えるさまをそのまま詠んだものでもなければ、古のしのぶ摺りのやさしくゆかしいさまを、想い描いただけのものでもない。
 古のしのぶ摺りの手振りを、今の早乙女の上にかさねて感じ取っているところが、俳諧としての発想になっているのだ。この重層的な発想は、絵画の世界ではよく見かけるが、現代俳句の写実的な発想とはまったく質を異にするものである。

 初案は、きのう記したように、「五月乙女に仕方望まんしのぶ摺り」と思われるが、いかにも対詠的な興じた調べになっている。
 決定稿は、それが棄てられて、沈潜した独詠の方向に案じ変えられている。
 名高い歌枕に、芭蕉は憧れの心を抱いて立ち寄ったのであるが、その期待は無残にも裏切られた。「風流の昔に衰ふる事、本意なくて」という初案の前書きのことばは、芭蕉の嘆きの心を伝えるものであろう。
 しかも、そうした中にあって、なお古の風流をおもい、現実を懐かしく言いとろうとするところに、芭蕉俳諧のあり方があったのである。
 「しのぶ摺りの仕方を早乙女に所望しよう」と“風流ぶった”己に気づき、早乙女の早苗をとる手振りが、その昔、もぢ摺り石でもじ摺りをした手振りなのであろうと、言いとったのである。
 《俳句は断定》ということが、うなづける。

 また再案は、「早苗つかむ手もとや昔しのぶ摺り」であったらしいが、「早苗つかむ」では優雅さに欠けた表現である。
 「早苗とる」は、早苗を苗代からとって田に植える動作をいう。
 「手もと」は、手つき、手ぶりなどの意。
 「もぢ摺り」は、「文字摺り」などの文字が当てられるが、元来は「捩摺り」の意で、乱れた模様ということである。歴史的仮名遣いでは「もぢずり」である。
 
 しのぶもじ摺りの石は、
        みちのくの しのぶもぢ摺り 誰ゆゑに
          乱れそめにし 我ならなくに
 にちなむ歌枕として名高い。「しのぶ」は、「信夫」と「昔をしのぶ」意を掛けている。

 しのぶもぢ摺りの石が、半分ほど土中に埋もれているわけを教えてくれた村童。摺り出しの手つきをしのばせていると観た早乙女。これらの姿の中に、芭蕉はいったい何を思い浮かべたのであろうか。のちに芭蕉は、越後の直江津で、「荒海や佐渡によこたふ天河」と詠んでいる。
        安寿恋しや、ほうやれほ。
        厨子王恋しや、ほうやれほ。
        鳥も生あるものなれば、
        疾(と)う疾う逃げよ、逐(お)はずとも。
 『山椒大夫』(森鷗外)のラストシーンが見えてくる、聞こえてくる。

    「もじ摺り石は、下向きに突き落とされてしまっていて、昔をしのぶ
     よすがさえない。それでも、あたりは折から早苗とりのころで、早
     乙女の姿が見られる。あの早乙女の早苗をとる手ぶりが、その昔、
     もじ摺り石でもじ摺りをした、あの、ゆかしい手振りなのであろう」
 

      息災な身と汗がありボランティア     季 己

捩花

2009年06月24日 20時37分00秒 | Weblog
        捩花のまことねぢれてゐたるかな     時 彦

 ベランダに並んだ植木鉢の一つに、捩花(ねぢばな)が今を盛りと咲いている。植えた記憶も全くないので、おそらく四十雀かなにかの置き土産であろう。その名の通り、ねじれて咲くのがなんとも愛らしい。
 捩花は、“ねぢればな”とも呼ばれ、畦や草地に見かけるラン科の多年草である。花穂がねじれているので“ねぢばな”の名がついたのかもしれない。
 初夏、茎を立て上部に螺旋状にねじれた穂を出して、桃紅色の筒状の小花をたくさん開く。
 福島県の型染め「捩摺(もじずり)」の模様に似ているので文字摺草(もじずりそう)ともいう。また単に、“もぢずり”・“もぢばな”ともいう。もちろん、夏の季語である。

           信夫の郡(こほり)しのぶ摺りの石は、茅(ちがや)の
           下に埋もれ果てて、今は其のわざもなかりければ、風流
           の昔に衰ふる事、本意なくて、
        五月乙女に仕方望まんしのぶ摺り     (芭 蕉)

 この句は、『おくの細道』の旅の途次での作。曾良の『随行日記』に書き留めてある。
 「しのぶ摺りの石」は、有名な歌枕で、福島市岡山大字山口にある。
 「しのぶもぢ摺り」とは、かつて、信夫郡で行なわれていた染色のことで、忍ぶ草などの葉や茎の緑を、布に摺り込んで染めたものだと伝えられている。そのとき、布を模様の刻まれた石に当てて摺り込んだらしいが、芭蕉は、これに用いられた「しのぶもぢ摺りの石」を尋ねて、「信夫のさと」におもむいたのである。
 「仕方望まん」というのは、一種の俳諧的な興じ方であるが、思いが露わで味わいに乏しい。「風流の昔に衰ふる事、本意なくて」という気持が、深みをもって流露するには至っていない。「仕方望まん」を具象化したものが、『おくの細道』の「早苗とる手もとや昔しのぶ摺り」と考えられる。

    「しのぶ摺りの石も雑草に埋もれ、古歌に名高いしのぶ摺りも、今は
     摺る人とてなくすたれてしまったが、信夫の里のあの早乙女たちに
     特に所望して、ゆかしいしのぶ摺りの摺り方をみせてもらおう」

 ところで、信夫の里というと、森鷗外の作品や説教節で知られる、『山椒大夫』が思い出される。信夫の里には、安寿と厨子王の父である岩城判官正氏の出城があった。安寿と厨子王の二人は、母と侍女に伴われ、九州へ流された父を訪ねてここから発ったが、越後の直江津まで来たとき、人買いにかどわかされる悲運にみまわれるのである……


      もぢずりの安寿恋しと身をよぢる     季 己

柚の花

2009年06月23日 20時40分25秒 | Weblog
       柚の花や昔しのばん料理の間     芭 蕉

 柚の花(ゆのはな)は、柚子の花(ゆずのはな)・花柚子(はなゆず)・花柚(はなゆ)などともいわれる。
 ミカン科の常緑小高木で、五、六月ごろ、白い五弁の小さい花を開き、高い香気を放つ。蕾は香味料にされる。柚は木のことで、柚子(酢)は実のことだという。

 『古今集』の「五月まつ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」(夏・詠み人知らず)心の底に置いて、「昔しのばん」というかたちで懐古の情を詠んでいる。
 「橘」を「柚の花」に、「袖」を「料理の間」に転じたところに、俳諧の詫びが認められる。「料理の間」は、柚の花の蕾が香味料として用いられていることから発想されたものであろう。

 『嵯峨日記』四月二十日の条に、
    「落柿舎は、昔のあるじの作れるままにして、処々頽破す。なかなかに
     作り磨かれたる昔のさまより、今のあはれなるさまこそ心とどまれ。
     彫(ほりもの)せし梁(うつばり)、画(えが)ける壁も、風に破れ、
     雨にぬれて、奇石、怪松も葎(むぐら)の下に隠れたるに、竹縁の前
     に柚の木一もと、花芳しければ」
 とあって、この句を掲出する。

 「料理の間」というのは、料理を調える部屋のこと。
 落柿舎は、去来が貞享のころ手に入れた別荘。柿が四十本ほどあったが、完全に実ることなく落ちてしまうので、そう名付けたといわれる。
 もとは富豪の別荘であったようだが、小堀遠江守の茶室であったともいわれる。
 季語は「柚の花」で夏。「柚の花」が季感を生かすと共に、「花橘」を重層的に感じさせる点で、古典の俳諧化のはたらきをもしている。

    「庭先の柚子は、橘の花かと思われるまでに、ゆかしく薫っている。
     この香をかぎながら、永らく住む人もなく頽破したこの料理の間に
     身を置いて、ひっそりとしばらく、その昔を偲ぶことにしようよ」


      目薬をさしてふたいろ柚子の花     季 己

田植歌

2009年06月22日 20時23分27秒 | Weblog
 すべてが神の思し召しによって定められると思いこんでいた昔には、田植えに当たり、出来秋の作不作を危ぶむ気持は、甚だしいものがあったであろう。
 水田に挿す早苗の一本一本に、祈りの心がこめられていたのである。“祈りの心”は、何をする場合にも大切であろう。“祈りの心”をこめて句を詠みたいし、“祈りの心”で描かれた絵は、観る者の心を幸せにしてくれる。

 祈りの心をこめて植え進む早乙女の傍らでは、田楽を舞い囃して、神の御心を和らげ、一年の実りを護って貰おうと、心を傾け、興を尽くしていたのである。
 田植歌や田植踊りなどの田楽は、水田に下り立って働く田子(たご)たちの気持を励まし、作業の能率を上げさせるためというよりも、むしろ、こうした祈りの気持が、強く働いていたものと思う。
 日本の演劇・舞踊・流行歌といった芸能の歴史に、このような田植えに付随した田楽という芸能が占めていた地位は、なかなか大きなものがあったようだ。
 ことに、平安朝の末には、この田植えに伴った田楽が、たいそう流行して、わざわざ内裏の中に水田を作って、公卿たちが田植えの作業をし、田楽法師を招いて、興を添えさせるといったことも、しばしば行なわれていた。
 いま、最も古典的な演劇として知られている能楽も、もとはといえば、この農作業に付随した田楽から独立して発展してきたものである。

        風流の初や奥の田植歌     芭 蕉

 「風流の初(はじめ)」は、「風流」をどう解するかで説がいろいろある。あくまで芭蕉の立場に立ち、発想の「場」を生かして解釈すべきと思う。
 この句は、独り詠じたものではなく、『おくの細道』に、
    「須賀川の駅に等キウといふものを訪ねて、四五日とどめらる。先づ、
     白河の関いかに越えつるやと問ふ。長途の苦しみ、身心疲れ、かつは
     風景に魂うばはれ、懐旧に腸(はらわた)を断ちて、はかばかしう思
     ひめぐらさず」
 として出ており、句のあとに、「無下に越えんもさすがにと語れば、脇・第三と続けて三巻(みまき)となしぬ」とある。
 つまり、「白河の関いかに越えつるや」との等キウの問いに対して、「はかばかしう思ひめぐらさず」、「無下に越えんもさすがに」と、挨拶としてこの句を示しているのである。
 また、曾良の『随行日記』によれば、当時、須賀川のあたりはあたかも田植時に当たっていた。主(等キウ)宅に身を寄せたくつろぎの心のままに、折からの田植歌をよみとって、「風流の初」として挨拶するのは、きわめて自然な発想といえよう。

    「白河の関を越えて、ここ須賀川に来てみると、折しも田植の盛りで、
     みちのくの田植歌が聞かれる。鄙びた中に懐かしさがこもっていて、
     これこそ奥州路に入って最初に味わい得た風流であると、しみじみ
     感じたことである」


      横顔を見せて空似の夏帽子     季 己     

水鶏

2009年06月21日 20時11分20秒 | Weblog
          露川がともがら佐屋まで道送りして、共に仮寝す     
        水鶏啼くと人のいへばや佐屋泊り     芭 蕉

 『笈日記』その他に収める連句の前書きからすれば、佐屋の隠士山田氏に対する挨拶句のはず。しかし、山田氏は俳句をたしなまなかったのか、本来は亭主が付けるべき脇句を、露川(ろせん)が代わって付けている。そうしたこともあってか、『有磯海』では前書きが変えられ、はっきりと「露川がともがら」となっている。

 水鶏(くひな)の声をじかにとらえたものではなく、「と人のいへばや」という理由づけの形で言ったところには、人々の行為の中に身を置き、自分を他人の手にあずけきったいるような微妙な感じがあって、俳諧のおかしさを生む要因になっている。挨拶の句であることからすれば、もともと「水鶏啼く」ということをも、芭蕉の虚構と見ることも出来よう。

 「露川がともがら」は、露川の連衆の意。曾良宛書簡に、
   「……露川、門人独り召し連れ、道にて待ちかけ、佐屋までつき参り候ひ
    て、佐屋に半日一夜とどまり、不埒(ふらち)なる云ひ捨て十句ばかり、
    俳談少々説き聞かせ候」
 と見える。
 露川は、伊賀の生まれで、名古屋で数珠商を営み、元禄四年、芭蕉に入門した俳人。晩年はその勢力拡張に努め、門人二千余と称した。作風は平俗低調に陥った。
 「佐屋」は、いま愛知県愛西市。東海道熱田から桑名に至る海上七里の渡しが風波の激しいときは、陸路六里佐屋へ出て、木曾川を三里舟で下り、桑名に至るコースをとり、佐屋廻りといった。

 「水鶏」は、ツル目の鳥で数種類あり、キョッキョッキョキョ、あるいは、コッコッコッと高い声で啼くのは緋水鶏(ひくひな)である。繁殖期の五月から八月にかけて、全国各地の水辺に巣を作る。ことに、六月ごろの交尾期になると、雄はカタカタカタと、あたかも戸をたたくような声で啼くことから、それを「水鶏たたく」と呼ばれている。
        叩けども叩けども水鶏許されず     虚 子

 「いへばや」は、已然形に助詞「ば」・「や」が接続したもの。「や」は、切字ととることも考えられるが、疑問の係助詞と見て、「人のいへばにや」と解したい。『古今集』秋上・忠岑の歌に、
        久方の 月の桂も 秋はなほ
          紅葉すればや 照りまさるらむ
 というような言い方があるところから、抵抗なしに用いられるに至った語法かも知れない。「紅葉すればや」の「や」は、明らかに係助詞である。
 水鶏は、春に日本にやって来て、秋に南の方へ去るので、夏の季語となっている。背はオリーブ褐色、下面は赤褐色で、一度見たら忘れられない印象的な色彩である。脚が長く、歩き方も一風変わっている。


      東雲をたたく緋水鶏 沼明り     季 己

「新樹会」展…鴈野佳世子

2009年06月20日 20時27分44秒 | Weblog
 昨日に続き、また日本橋三越へ来てしまった。「新樹会 ー日本画展ー」を観るために。
 「新樹会」は、今年で7回目を迎えた。この展覧会は、東京藝術大学を卒業し、前年秋の「院展」に入選した若者たちの、十号作品による競作といえよう。
 「新樹会」の命名者は平山郁夫画伯で、「新しい木々がすくすく育つように」との願いがこめられているとのこと。
 「新樹会」はその願い通りに育ち、若い人たちの発表の場として、新しい感覚の意欲的な作品が集まり、大変素晴らしい展覧会になってきた。
 出品された57名の顔がみな違うように、57作品がそれぞれ自己主張し、なかなか見応えがある。日本美術院招待から初入選まで、バラエティーに富んで面白い。
 以前、このブログで指摘した某先生の目立ちすぎの落款が、今回は目立たぬように、しかも一字省略して二文字で署名されているので、非常にすっきりした。落款でこんなに違うとは……、観ていてうれしくなった。この奥ゆかしい落款を今後も続けていただけたら、ますますうれしくなり、ファンになるだろう。

 ところで、どうして二日続けて観に来たかというと、気になる作品、いや心惹かれる作品が一点あったのだ。鴈野佳世子さんの「凌霄花」である。
 鴈野さんは、昨秋の「院展」で初入選した、いわば新人である。そのときの作品、萩の花を描いた「花火」が印象に残り、頭の中のチェックリストにインプットしておいた。
 それがたまたま、東京藝大の「博士展」で、《鴈野佳世子》の名前を発見、ご本人にもお会いすることが出来たのだ。このとき初めて、鴈野さんが、東京藝大の博士課程の学生であることを知った。
 博士論文は、「甲斐万福寺旧蔵『源誓上人絵伝』に関する研究」で、これまた非常によく勉強されていると感服した。藤原隆信を研究していた私には、その苦労と楽しさもよくわかる。
 『源誓上人絵伝』は、東京藝大本とシアトル美術館本の二本が現存し、鴈野さんは、その二本の現状を模写し、失われてしまったと思われる想定本の再制作、三幅対を完成させたのだ。原本と見まごうばかりの素晴らしい作品に。
 こんなことを言ったら大変失礼なのだが、東京藝大の「博士展」は、作品は素晴らしいが、論文はイマイチと思っていた。
 ところが、鴈野さんの研究論文は、イマイチを通り越し、日光を越えて、大変結構。なぜだ、とずっと疑問だった。

 それが今日、三越の会場でお目にかかり、お話を伺って合点がいった。
 鴈野さんは、早稲田大学第一文学部史学科美術史学専修を卒業し、どうしても絵を描くことがあきらめきれず、東京藝大の大学院に入ったという。
 美術史という素地のうえに、日本画の技術を会得し、古典の模写で眼と腕を磨いたのだ。まさに鬼に金棒である。
 今は博士号を取得し、東京藝大大学院 保存修復日本画研究室の教育研究助手として、後進の指導と自身の研究に励んでおられるとのこと、非常に喜ばしい。(願わくは、変な画商の口車に乗らず、楽しく一所懸命に描き続けてほしい)
 そういう鴈野佳世子さんの作品「凌霄花」の悪かろうはずはない。観れば観るほど、凌霄花(のうぜんかづら)の“いのち”が感じられる。
 この春の院展の「在処」もよかったが、「花火」は終生、忘れられぬ作品となりそうである。

        凌霄や問ふべくもなき門つづき     汀 女

 「のうぜんかづら」は、凌霄(のうぜん)・凌霄花(のうぜんか)・凌霄の花とも呼ばれ、今から千年ほど前に、中国から渡来した、と言われている。付着根を生じ、塀や垣根、樹木などによじのぼり、六メートルほどにもなる。漏斗形の花で、花筒は四、五センチ、花径は六、七センチの唇形で橙黄色の鮮やかな花である。蔓性の落葉樹で葉は対生。風に舞う花の姿は、真夏の象徴のように美しくみごとである。
 鴈野佳世子さんの「凌霄花」は、凌霄花の“いのち”を描いてみごとである……


      凌霄花でんぐり返る森光子     季 己

結の精神――泉崎村

2009年06月19日 21時08分01秒 | Weblog
 梅雨とともに、農家には忙しい田植え時がやってきた。
 麦刈りがすむと、休む間もなく、田を耕し水を引いてならし、田植えが始まる。21世紀の今日でも、田植えはやはり、国民の生命がかかった大切な行事である。
 田植えは、苗代で育てた稲の苗を、田に移す作業である。大昔は、田に直接籾を蒔く直播きをしていたらしいが、奈良時代に、移植する方法がとりいれられ、平安時代には一般化し、現在に至っている。

        田を植ゑるしづかな音へ出でにけり     草田男

 梅雨どきの墨絵めいた田の中に並ぶ早乙女の笠、投げ配られる早苗の描く波紋、叱られて子供の引く田植縄など、どれ一つを取っても絵になる。植え終わったあとには、神聖なまでに正しい苗の並びの植田に、夕風が吹き渡り、数日の後にはもう緑の色が深く、青田という感じになってくる。
 しかし、水面すれすれに体を曲げて、苗を植えてゆく手植えは重労働であり、「結(ゆい)」という村の共同作業が中心であった。

  「村に住むすべての人が、お互いに助け合い手を取り合って、仲良く生活
  していけるよう、むらづくりの基本理念を『結の精神』と定め、相互扶助
  の精神で、むらづくりを進めるとともに、村に住むすべての人が健康で、
  安心して一生涯暮らしていけるよう、むらづくりの目標を『健康で心豊か
  な福祉の里いずみざき』とし、村政各分野における施策を総合的に推進し
  て参りました。
   村が分譲する『天王台ニュータウン』へ新たに住まう方々にも、村とし
  て『安心して楽しんで貰える暮らしづくり』のため様々な努力を致してお
  ります。」(『田舎暮らしの理想郷 泉崎村』より)

 「結の精神」を基本理念として、“むらづくり”を進めているのが、福島県泉崎村である。白河丘陵と須賀川盆地に挟まれた泉崎村は、福島県内でも比較的温暖な地域で、冬の積雪も少ないという。
 上記は、泉崎村が分譲する「天王台ニュータウン」の宣伝用パンフレットから、“村長あいさつ”のほんの一部分を引いたものである。
 小林日出夫村長は、「天王台ニュータウン」をPRするために、泉崎村から東京・銀座まで歩き通した方である。マスコミでも取り上げられたので、ご存じの方もおられるだろう。
 変人も“田舎暮らし”に興味があるので、小林村長とは何度かお目にかかっている。非常に精力的、かつ高潔な方で、この人が村長なら泉崎村はさぞかし、と思わせる人物である。
 “田舎暮らし”をお考えの方には、ぜひ泉崎村を!とおすすめしたい。
 泉崎村では、海外や国内からの「インターネット村民(e-村民)」を募集している。詳しくはホームページ(http://www.e-sonmin.jp/)をご覧いただき、登録してみては如何。変人ももちろん「e-村民」である。いつか泉崎村の、烏峠のよく見えるところに……。


      田を植ゑて烏峠の日暮れかな     季 己

よごれて涼し

2009年06月18日 20時25分37秒 | Weblog
        朝露によごれて涼し瓜の泥     芭 蕉

 この句の初案は、

        朝露や撫でて涼しき瓜の土   (初案)

 であった。それだと、触覚によって、瓜についた土の涼しさを感じ取ったことになり、やや大げさな感じがする。
 中七「撫でて涼しき」が、下五「瓜の土」につづく修飾語のかたちをとっているので、上五に切字「や」を用いたのであろう。
 けれども、「朝露」と「瓜の土」とが、二物配合(二句一章)に近い印象を与えることになり、感覚の新鮮さが必ずしも出ていない気がする。

        朝露によごれて涼し瓜の土  (再案)

 再案が、視覚的把握によって句を統一し、中七に休止を置いた構成にしたことは、句の感覚性を一段と高めたと思う。まず、瓜に「よごれ」を発見したのがいい。次いで、その発見をどう感じたのか、それを表現するのが俳句だと思う。
 しかし、「瓜の土」だと、朝露に濡れた土の新鮮さが出てこない。
 『三冊子』に、「この句は、『瓜の土』とはじめ有り。涼しきといふに活きたる所を見て『泥』とはなしかへられ侍るか」と、改案の理由を推察しているが、これは的確な見解と言うべきであろう。辞書で「泥」を引くと、「水がまじって軟らかくなった土」とあるように、“みずみずしさ”がより感じられる。“泥んこ”“泥遊び”“泥ネギ”などのように、親しみも出る。
 淡々とした詠みぶりの中に、自然の中に滲透してゆく鋭い目が感じられる。
 元禄七年六月、京都・嵯峨での作。「露」は秋の季語、「涼し」は夏の季語。違う季節の季語が二つあるが、「瓜」(真桑瓜)の感触が強くはたらいているので、夏の句とみる。

     「朝露にしっとりと濡れたもぎたての瓜。その瓜に少し泥がついて
      よごれているのが、かえっていかにも新鮮で、涼しく感じられる」


      涼しさは風林火山の旗印     季 己

もの恋しきに

2009年06月17日 20時21分34秒 | Weblog
                     高 市 黒 人        
        旅にして もの恋(こほ)しきに やましたの
          朱(あけ)のそほ船 沖にこぐ見ゆ (『萬葉集』巻三)

 高市黒人(たけちのくろひと)の覉旅(きりょ)八首中の一つである。
 この歌の、「やましたの」は、「秋山の下ぶる妹」(『萬葉集』巻二)などのように、紅葉の美しいのに関係せしめて使っているから、「朱」の枕詞に用いたものかも知れない。が、完全に枕詞になりきっているとも言えない。
 「そほ」は、赭土(しゃど)から取った塗料で、赤土、鉄分を含んだねば土である。その精品を真朱(まそほ)というが、「そほ」を塗った船が「朱のそほ船」である。船に赤い土を塗るのは、もとは魔除けであったが、後には、官船が皆塗ったので、旅先で赤く塗った船を見ると、「あれは官船だ」というところから、連想が飛躍して、都のことが思われてくるのであろう。

 旅にあると、心がからっぽになったり、もの足りぬ思いになってくる。あるいは我が家(都)が恋しくなってくる。そういう状態の時に、あかあかと土を塗った船が、たった一隻、沖を通ってゆく。それを見て心が動いたのである。何の企みも下心もなく詠んでいるので、作者の心の内奥にあるものが出てきている。

    「旅中にあれば、心むなしくなり、何につけても都が恋しいのに、沖の
     方に眼をやれば、赤く塗った船が通って行く、あれはきっと都へ上る
     のであろう。なんとも羨ましいことだ」

 今のわれわれの目で見れば、この歌は、覉旅の歌の常套手段のようにもとれるが、当時の歌人にとっては、常に実感であったのであろう。
 黒人の歌は、具象的で写象も鮮明である。ただ、柿本人麻呂の歌調ほど切実でないから、いささか通俗に感じられるのかも知れない。

 『萬葉集』巻一に、「旅にして もの恋しきに 鶴(たず)が音も 聞えざりせば 恋ひて死なまし」というのがある。
 慶雲三年(706)正月に、持統上皇が難波宮に行幸のとき、高安大島(たかやすのおおしま)の詠んだ歌である。
 黒人のとどちらが早いかわからない。旅中の寂寥感は、誰にも共感されるものであったから、類型句として人々の脳裏にあったのかも知れない。
 歌の深さにおいては、格段に黒人の方が上だから、あるいは大島の方が黒人を模倣したのかも知れない。難波宮への行幸なら大人数だったろうし、黒人の歌に見る何か気が遠くなるような寂寥感は、大島の場合それほど強くはなかったろう。
 大島の方が先だとしても、下の句にその類型を突き破って、黒人独自の境地を開いている。


      梅雨晴間 赤門寺に閻魔堂     季 己

擬人化

2009年06月16日 22時40分45秒 | Weblog
 今夜も東京は雷雨。午後8時頃から雨脚が強くなり、9時過ぎからは、かなり激しい雷雨となった。2、3発、かなり近くへ落ちたようだ。
 そのためかどうか知らぬが、自分のメールが開かず、まだ読めないでいる。

        山の腰にはく夕たちや雲の帯     貞 徳

 『犬子集』所収の句で、季語は「夕たち」で夏。
 「山の腰」は、山の下の方、腰に当たる部分をいい、山腹などと同じ意で用いられたもの。同じような例として、
    「山のこしをめぐりてみるや花の雲  一重」(『新続犬筑波集』)
 がある。
 また、「夕たち」は、「夕立」と「太刀」とをいい掛けており、
    「夕たちは只一ふりをめいよかな」(『犬子集』)
    「夕たちはあつさをはらふ剣かな」(『犬子集』)
 などの例が見られ、貞門では一般的なものであった。
 「夕たち」の「太刀」から「腰にはく」、「帯」が縁語になっている。

 一句は、山の腰に雲の帯をしめ、太刀をはいたように、山腹に雨雲がかかり、夕立が降ってきた、の意。
 山を擬人化して、その腰に雲の帯をさせ、太刀をはかせ、それを夕立にいい掛けた点に、一句の面白さがある。多分に掛詞と縁語を使って、技巧を凝らして作られた句である。


      落雷や湯船にがばと立つ裸像     季 己