壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

書の名宝展

2008年08月31日 20時14分17秒 | Weblog
 書の愛好家、書の人口が如何に多いかを、思い知った展観であった。

 「北京故宮・書の名宝展」を拝観するため、両国の江戸東京博物館へ出かけた。
 日中平和友好条約締結30周年記念・江戸東京博物館開館15周年記念特別展とあるように、書のふるさと中国の北京故宮博物院から、名宝65点がやってきた。
 目玉は、王義之の「蘭亭序」で、ここは常に70人ほどの行列ができていた。並ぶのが嫌いなので、行列の人の肩越しに、名宝をじっくりと鑑賞した。
 行列の人たちは立ち止まることが許されず、ベルトコンベアのように動かねばならない。

 王義之は、4世紀初めの中国、晋の時代の名門貴族の出身で、若くして将軍や地方の長官を歴任した。
 7歳のころから書を学び、書が大変上手だった。
 現代の私たちが書いている漢字書体の発展に大きく貢献し、後の人々に大きな影響を与えた。今では、「書聖」と呼ばれている。

 ――永和九年(353)三月三日、会稽の地方長官だった王義之は、名勝として知られる「蘭亭」で、地元の名士たちを招いて「曲水の宴」という詩会を催した。
 この詩会はたいへん盛り上がり、酒の酔いも手伝って気持ちがよくなった王義之は、この詩会の作品を集めた詩集の序文を書いた。これが、「蘭亭序」という世界的に有名な作品なのである。
 ちなみに、王義之は、酔いがさめてから何度も「蘭亭序」を書き直したが、詩会の際に書いた作品よりうまく書けなかったそうだ。
 最も気持ちよく書いたものが、最も出来ばえがよい、ということか。

 「蘭亭序」には、詩会当日の天候や会場周辺の様子の他、「時代は変われども感動の源は同じ。後にこれらの詩文を読む人も、心を動かすであろう」などと、人間の普遍的な感動も書かれている。
 王義之は、書を芸術の域にまで高めただけはでなく、感じたこと、思ったことを素直に文章に書く、という意味においても先んじていた。

 王義之が自ら書いた「蘭亭序」は存在しない。
 中国の唐の時代の皇帝・太宗が、王義之の作品が大好きで、手当たりしだい集めた。中でも「蘭亭序」をこよなく愛し、「昭陵」という自分の墓まで持って行ってしまったのである。
 この皇帝・太宗は、当時の一流の書家に、たくさんの「蘭亭序」の複製を作らせた。その中で、最も出来のよい作品の一つである「八柱第三本」が、今回展示されている、ということだ。
 現存している「蘭亭序」の中でも保存状態がよく、鮮やかな墨色で、文字がくっきりと見える。
 北京故宮博物院でも通常は公開されていない貴重な作品であるが、北京故宮博物院の協力により、日本で初めて公開されることになった、という。

 これらの名宝に接し、つくづく思った。現代書壇を牛耳る連中の「品格」のなさを、「へた」さかげんを……。


      九月くる書の名宝をまのあたり     季 己


 ※王義之の「義」の字は正しくありません。正しい字をパソコンで出す力がないので、お許しください。

踊り

2008年08月30日 21時53分14秒 | Weblog
 ゲリラ豪雨が来てもいい格好で、浅草へ行った。「浅草サンバカーニバル」を見るためである。
 昨年は割に早く、見物席を確保できたが、昨年より人出が多いせいか、適当な見物席がない。ゲリラ豪雨があると確信しているので、アーケードがあってしかもよく見物できる場所を探したのだが、2時過ぎに行ってそんな場所があるわけがない。サンバカーニバルはもうとっくに始まっているのだから。
 雷門通りの、Nマンションの階段の踊り場が、絶好の見物スポットなのだが、部外者が無断で入るわけにもゆかず、某うなぎ店の前で見物することに決めた。
 辛抱強く待てば、必ず前列の人の何人かは帰るので……。

 「浅草サンバカーニバル」は、今年で28回目だという。
 見慣れた、ということもあるが、何かが物足りないのだ。それが何であるのか、自分でもわからない。
 もちろん、本場のサンバカーニバルは見たことがない。だが、今日のサンバカーニバルは、単なる仮装行列にしか見えないのだ。衣装をまとったロボットが手足を動かしている、悪く言えば、そんな感じだ。そう、踊っているのではなく、動いているに過ぎないのだ。
 だから、見る阿呆に感動がないのだ。
 望遠付一眼レフカメラを持った撮る阿呆は、露出度の高いセクシーなダンサーにしか、シャッターを切らない。中には超連写で撮る阿呆も。

 腹が立ってきたところへ、豪雨の襲来。各商店の雨樋から、猛烈な勢いで雨水が噴出し、下水のふたの穴からも水が噴き出している。
 あわてて、うなぎ店の敷地内に逃げ込み、雨宿りをさせてもらい、小降りになるのを待つ。
 それでも、サンバカーニバルは続いているようだ。
 小降りになったのを見計らって、バス停へ。
 こうして、ほとんど濡れることなく無事帰宅。

 午後6時から7時は、地元、仲町商店街の「阿波踊」。
 出演?は、浅草・写楽連と川越の埼玉・葵連の総勢30余名。
 恒例らしいのだが、見に行ったのは今回が初めて。
 こちらも感動がない。感性が衰えたらしい。どこかの首相のように「感動した」と言ってみたいものだ。
 こちらの原因はわかっている。
 本場徳島で、それも徳島で一、二と言われる連の阿波踊を、眼の前で踊っていただいたのだ。このときの感動は、言葉にすることが出来ない。ただ涙が流れ落ちるだけだった。
 この印象を後に詠んだのが、「阿波踊の鉦のかなしきはずはなし」である。

 ただ涙した阿波踊と、比較しているのだ。最初に最高のものを見てしまったので、それを超えるものになかなか出会えないのだ。
 それでもいいと思う。
 わかっても、わからなくても、最高のもの・本物を観ることは、非常に大切だと思う。子どものうちから、最高のもの・本物に触れさせることは、もっと重要だと思う。
 最高のもの・本物を知ることにより、偽物・駄物を知ることが出来るのだから。


      鉦の音に遠き日のこと阿波踊     季 己 

ひやひや

2008年08月29日 22時02分27秒 | Weblog
         その後、大津の木節亭にあそぶとて
        ひやひやと壁をふまへて昼寝かな     芭 蕉

 出典は『笈日記』。
 前書きの「その後」は、前文を受けて、去来の落柿舎滞在の後の意であって、元禄七年(1694)六月二十日ごろと推定される。
 木節(ぼくせつ)は、大津の医師で芭蕉の門人。篤実な人だったので、芭蕉の信頼を得ており、この年の十月、芭蕉が大坂で倒れたときも駆けつけ、芭蕉は治療の一切を木節に任せた。

 句意は、「だるく物憂いので、ごろりと寝ころんで足を壁にあてて昼寝をしていると、ひいやりとした感触があって、残暑厳しい中にあっても、さすがにもう初秋を感じさせることである」というのである。

 支考の『笈日記』によれば、芭蕉が支考に、この句をどう理解するかと尋ねたので、支考が「残暑の句だと思います」と答え、さらに「かならず蚊帳の釣手など手にからまきながら、思ふべき事をおもひ居ける人ならん」と言ったところ、芭蕉は、この句の謎は支考に解かれた、といって笑ったそうである。
 「思ふべき事」というのは、このときの芭蕉の身辺の事情から考えて、江戸にいた寿貞の死のことと推察される。

 この句の季語は「ひやひや」で、「冷ややか」と同じく初秋の季語である。
 ちなみに、このころはまだ「昼寝」は季語でなく、「昼寝」が季語になったのは江戸末期である。
 「ひやひや」は、秋になってようやく冷気を覚えることをいうが、この句の場合は、支考が「残暑」だと言い、また門人の路通も「残暑の心を」と言っていて、残暑のけだるい気分の中で、わずかに壁に足をつけて冷気を覚えるというのであり、全体としては残暑の気分の句のようである。
 だから、「昼寝かな」とはあるが、ぐっすり眠り込んでいる昼寝ではなく、横になって鬱々と物思いに沈みながら、眼を閉じているさまであろう。


      ゴーガンの紅き腰巻 夏惜しむ     季 己

手元不如意

2008年08月28日 21時59分35秒 | Weblog
 夏ももうすぐ終り。
 といっても、暦の上ではすでに秋。
 今日も、個展の案内などが数通とどく。いよいよ「芸術の秋」到来。
 「案内」は、「あんない」と読むが、「あない」とも読むことをご存知だろうか。自分が俳句を詠むとき、あるいは人さまの句を読むとき、意外と役立つことがあるかもしれない。

 8月は、多くの画廊が夏休みのため、さびしくてならない。
 いきおい、デパートへ行く回数が増え、毎週、美術画廊や催事場をほっつき歩くという結果になった。
 まず、よかったなと感じたのは、「朱芯会」<日本画・洋画>の滝沢具幸先生の作品だ。安心して、春のような心で鑑賞できた。個人的な希望を言わせていただくと、“沼”などを含んだ作品が一点でもあれば、大満足であったろう。
 そのほかの展覧会で印象に残ったのは、武田州左・菅原健彦、両先生。

 反対に非常につまらなかったのは、いわゆる大家・大御所と呼ばれる大先生の特別展。大変失礼な言い方をすれば、まるで生前葬儀のようだ。
 弔辞ならぬ主催者側の、空虚な賛辞の羅列。これを読んで作品を鑑賞すると寒くなってくる。だからきっと、真夏のクソ暑い時を選んで開催したに違いない、と思いたくなる。
 最近は、驚く作品が少なく、値段に驚く作品が多いのは、どうしたことか。

 このことは絵画に限らず、工芸の世界にもいえる。
 たとえば陶芸。つい2~3年前までは、魂のこもった作品を良心的な価格で発表していた老?先生が、いまや茶碗が百万円近く。
 芸術家は仙人ではないので、霞を食って生きるわけにはいかない。家族がいて、生活がかかっているのもわかる。それにしても、適正価格というものがあろう。
 聞くところによると、某画商が老先生を取り込み、価格を吊り上げ、最近になり手持ちの昔の作品を、惜しむようにして売っているのだという。
 心やさしい老先生は、拒むことが出来ず、某画商に祀り上げられているらしい。
 「出会い」の大切さを、しみじみ感じさせられる話である。出会いによっては、人生が百八十度変わってしまうのだ。
 人と人、人と物、お互いによい出会いをしたいものである。

 物との出会いといえば、この夏、猛烈に欲しくなったものが五つある。
 そのうち実際に入手したものは、皮のショルダーバッグ(篠笛用袋付)と万華鏡の二つだけ。
 ショルダーバッグは、自分がイメージしたものを製作者に直に伝え、デザイン画をおこしてもらい、修正しながら最終決定したもので、作ってもらった。もちろん皮も自分で選んだ。
 篠笛用の袋は、百年以上使い込んだ酒袋に、これも豚皮で裏張りをしてもらった。寸法その他、全部こちらの指定どおりに仕上げていただいた。
 万華鏡も既製品ではない。この秋に正式発表する四種類の作品それぞれに、変人の好みを入れて製作したものを、じっくりと比較検討し、そのうち一点のみを購入。
 この作品は、世界中のまだ誰もがやっていないある工夫があり、作者の専売特許であるという。未発表作品ということで値段もついていないので、破格の安値で譲ってもらった。

 購入できなかったあとの三つは、神代欅の座卓、神代欅の茶棚、それにペルシャ絨毯である。
 神代欅の座卓と茶棚は、適正価格とは思うが、手元不如意の変人には手が出せない価格であった。そのかわり期間中、三度も遊びに行き、しっかりと脳裏に焼き付けてきた。お金があったら、今でも欲しい。魂が揺さぶられるほど素晴らしい作品であった。
 ペルシャ絨毯は、いわゆる適正価格というものが、自分ではわからない。それに、5割引、7割引などと言われても、高いか安いか判断できないのだ。
 また値段もピンからキリ。手元不如意としては、とてもとても怖くて手が出せなかった。けれども非常によい勉強をさせてもらった。

 芸術の秋。これからどんな素晴らしい作品に出会えるか、期待が1で、どうせ、というあきらめが9といったところか。
 手元不如意の身としては、せめて眼福だけでも……。


      秋に入る かかる案内の五六通     季 己

夏の月

2008年08月27日 22時06分00秒 | Weblog
 今頃になってまた、「地方自治法施行60周年記念千円銀貨(北海道)」の代金払込のご案内が届いた。
 抽選は6月下旬に終了しているので、七月上旬には当選者に、代金払込のご案内を発送しているはずである。
 それが、変人宅には8月上旬に2通、その2日後に妹宅に1通、そして今回、妹宅に1通届いたという次第。
 おそらく大量にキャンセルが出たのであろう。キャンセルの穴埋めに順次、抽選で外れた人の中から補充し、それでもキャンセルが出て……という具合に、代金払込のご案内を送付しているに違いない。

 なんでも値上げ、値上げのご時勢に、千円銀貨を6千円で発売?するのだから、そう簡単に発行数、十万枚を完売できるわけがない。造幣局の見込み違いでもあろう。
 コイン商の価格も、良心的なT社では1万1千円、派手な宣伝のY社は1万6千円。ちなみに、Y社の買入れ価格は9千円である。
 今後、8年間にわたって47種類も発行されるカラーコイン(千円銀貨)。購入者は、コレクターと値上がりの期待をも含めた楽しみ方をしている人であろう。
 年内には、京都府版が10月ごろ、島根県版が12月ごろに発行されることは、正式決定している。
 6千円で購入した千円カラーコインが、3千円でも処分できない、という事態が起こらないとも限らない。
 願わくは、コレクターが泣きをみぬよう……。

        夏の月御油より出でて赤坂や     芭 蕉

    夏の夜の月は、出たと思うとすぐに入ってしまう。
    まるで、東海道五十三次の中で、御油(ごゆ)を出てから、
   たった十六町で赤坂へ着いてしまうのと、同じような感じである。

 実景を詠んだものではなく、夏の夜の短さを、東海道五十三次中、最も短い御油・赤坂間の距離(十六町)で、比喩的に仕上げたのが一つの作意。
 もう一つは、その短い夏の夜の月が、御油から赤坂まで歩くのだと、月を擬人化して言ったところを見るべきであろう。
 手法は、談林そのものであるが、芭蕉独自の感性がおのずからにじみ出ている点に注目したい。
 芥川龍之介は『芭蕉雑記』の中で、「御油」、「赤坂」などの地名の与える「色彩の感じ」と「耳に与える効果」とは、いかにも旅人の心らしい、と言っているが、傾聴すべきである。
 「御油」という地名と、そこから出た赤い月の感じを「赤坂」という地名にかけたところには、たしかに色彩感があり、音調のなだらかさとあいまって一種の美しさが感じられる。

 元来、御油と赤坂とは海道でも知られた“たわれ女”の多かった所。ことに赤坂は古来、東海道随一の遊興の地で、以前は大いに繁盛した土地柄である。
 句の裏に、遊興地の御油泊りだった旅人が、たった十六町の赤坂で、留女の手に引留められてしまうことを写しているのであろう。
 この句は、東海道の旅の経験を土台として生かしているところがあり、そこが新味だったわけである。
 芭蕉が、二十年後になって、「今もほのめかす一句」としているのも、なかなか暗示的である。
 この句は、「景が見える」・「リズムがよい」・「自分をうたう」の三拍子そろった佳句だと思う。


      酢のごとく烈しきものを男郎花     季 己

甜瓜

2008年08月26日 21時53分14秒 | Weblog
 「まだ、まだ、もっと喰え。喉から西瓜の赤いのが見えるまで喰え」
 小学生の頃、夏休みに母の実家(現在、茨城県常総市)に泊りに行き、西瓜畑でよく言われた言葉である。

 今は、夏の水菓子といえば、メロン・西瓜であるが、ずっとずっと昔は、薄青い縞の通った甜瓜(まくわうり)が、夏の水菓子を独占していたという。
 水菓子という言葉自体も、いまでは死語に近いのではなかろうか。美しい言葉が消えてゆき、「じゃないですか」などという押し付けがましいイヤな言葉がまかり通っている。
 生まれたばかりの猪の子が、縦縞模様の毛並みをしているのを、「瓜坊」と呼ぶのも、この甜瓜に似ているからである。
 昔は、ただ単に瓜といえば、甜瓜を指していた。甜瓜は、ホソジとか、アマウリ・カラウリなど、いろいろに呼ばれていた。
 その後、美濃の国本巣郡真桑村で産するものが、すぐれた品質を持っていたので、いつのまにか、真桑瓜が通り名になってしまったとのこと……。

 『今昔物語集』巻二十八にある「外術(げじゅつ)ヲ以テ瓜ヲ盗ミ食ハルル話」は、実に面白いおとぎ話である。
 ――頃は陰暦七月の暑い盛り。
 大和の国から京の都まで、青々と熟した甜瓜を籠に詰めて、何頭もの馬の背に積んで運んでゆく途中の若者たちがいた。
 「どうだい。ここいらで一休みしようか。暑くてたまらぬ」
 「そうだな。瓜でも喰って、一息入れよう」
 などと言いながら木陰で休んでいた。
 すると、よれよれの帷子(かたびら)に杖をついた一人の老人が、通りがかり、よろよろとやって来た。
 「若い衆よ、ずいぶんうまそうに喰べていなさる。そんなにたくさんあるのじゃから、この爺(じじい)にも一つ分けてくださらんか」
 けれども、若者たちは、素っ気なくことわった。
 すると、この爺さん、若者たちが吐き散らした種を拾って、その辺の土を杖で掘り返し、大真面目で種を蒔き始めた。
 「何だこの爺。瓜が貰えないので頭がおかしくなったのじゃないか」
 と、馬鹿にしながら見ていた。
 驚いたことには、その種から芽が出て、蔓が伸び、葉が繁って、見る見るうちに大きな瓜が鈴なりになって、熟してきたではないか。
 「いやあ、これは甘い。どうじゃな、お前さんがたも召し上がっては。とてもわし一人では喰べきれぬ」
 と言われると、先ほどの意地悪もどこへやら、若者たちは夢中で喰べ始めた。
 「どうじゃな、ご通行の皆さんも、遠慮なく召し上がれ」
 こうして、お爺さんは、自分の作った瓜がすっかりなくなると、
 「では、一足お先に」
 と立ち去っていった。残された若者たちも、
 「俺たちも、そろそろ出かけようか」
 と馬の背に籠を乗せようとしてビックリした。
 あれだけ幾つもの籠いっぱいに詰めてあった甜瓜が、一つも残っていないのだ。
 情け知らずの若者に怒った、不思議な爺さんが、幻術を使って、籠の甜瓜を、すっかり皆に喰べさせてしまった、という話である。芽出たし、メデタシ。


      コスモスに園のふくらむ浜離宮     季 己

醍醐寺

2008年08月25日 21時58分19秒 | Weblog
 24日午前、京都市伏見区醍醐の世界遺産、醍醐寺の観音堂が全焼し、本尊の観音座像および多数の仏像も焼失した。
 
 ――山科盆地の南を押さえるようにして、醍醐の山上、山下にかけて、醍醐寺が広大な寺域を擁して建っている。
 奈良街道に面して、松並木と堀と築地の長々とつづく表構えが、真言宗醍醐派総本山の風格を見せる。
 総門内の両側には三宝院などの築地がのび、その先に深い上醍醐の山を負うて丹塗りの仁王門が現れる。明るく澄み切った眺めだ。

 醍醐寺の発足は上醍醐からはじまる。
 開山の理源大師聖宝(しょうぼう)は気宇雄大な人で、全国の名山霊地を遍歴し、貞観十八年(876)、ここ宇治郡笠取山の霊地に醍醐寺を開創した。
 これが、今回焼失した観音堂などを含む上醍醐で、その後、延長四年(926)に下醍醐の伽藍が開かれ、三宝院をはじめ多くの塔頭を擁し、古今を通じて、重要な真言の寺であった。
 多くの建物は、応仁の乱の兵火に焼失したが、近世、豊臣氏の援助によって再興した。

 上醍醐は、下の伽藍と相対して、醍醐寺の重要な伽藍を構成する。
 伝法院の奥からおよそ2kmの山道は、ときに急坂があって楽ではない。ようやく登りつめると、山上のここかしこの地勢を利用して、諸堂が配置されている。
 本堂の観音堂は、西国観音霊場第十一番札所であるが、隣接する休憩所ともども焼失してしまった。焼けた本堂は、昭和43年に再建されたもので、その前の本堂は、昭和14年に山火事で焼失し、およそ30年、本堂のない時期が続いた。
 昭和43年の再建のときには、本尊のお姿を模した百萬体佛が、一般信徒などに頒布されたと記憶している。そのうちの一体が、拙宅の仏壇に安置され、変人が毎朝、真言を唱えている。
 今後、本堂が再建されるかどうかわからぬが、西国観音霊場巡りには差し支えない。納経・ご朱印などは、下の三宝院でこれまでも行なってきたので、今後も変更はなかろう。

 古建築には、薬師堂(国宝・藤原時代)、清滝宮拝殿(国宝・室町時代)がある。如意輪堂(重文・桃山時代)は、山上の懸崖造りの奇構に眼を見張らせ、、開山堂(重文・桃山時代)とともに豊臣氏再興の建築である。
 幸い、これらの建物は、類焼を免れ無事であった。

 また、八月二十四日は地蔵盆。地蔵菩薩の縁日である。各地のお堂に香華が供えられる。
 お地蔵さんは、“六道”能化の方なので、天人以下、あらゆる悩みを持つ衆生を救われるが、ほかの仏が敬遠される餓鬼・地獄の亡者みまで救いの手をさしのべられる。特に、子どもを愛されて、賽の河原の水子にもなつかれている。

 あの哀調に満ちた和讃や、「オンカーカーカビサンマエイソワカ」の異様ともいえる真言のリズムは、いまもガキいや童子のころを懐かしむ私たちの胸をえぐる。
 ふだん頭を下げる人とてない、道端の欠け地蔵の前にも、昨晩は赤い提灯が灯ったことだろう。


      忍従の般若波羅密 秋燈下     季 己

女郎花

2008年08月24日 21時43分06秒 | Weblog
                   僧正遍昭        
         名にめでて 折れるばかりぞ 女郎花
           我れ落ちにきと 人に語るな    (『古今和歌集』)

 女郎花は、秋の七草の一つである。一メートルほどの細い茎をもち、羽状に深く裂けた葉を対生し、秋になると分枝して、粟のようなこまかな黄金色の花を咲かせる。山野に自生し、風に揺れるさまはいかにも頼りなげな風情である。
 一輪挿しよりも、「やはり野に置け」女郎花であろう。

 女郎花は昔から、和歌の世界では、萩に劣らず持てはやされた題材である。
 ただし、女郎花というその名の程に色めいた花ではない。
 上記の遍昭の歌も、「女郎花」という、名のみ事々しい花の実体を突いた皮肉な歌ということも出来るが、わかったようで、わからない歌である。
   「をみなへし」の「をみな」という名に愛でて手折っただけなのだ。
   決して我が物にしたわけではない。
   だから、あの坊主が女犯の罪を犯したなどと人に言ってくれるな。
 というほどの意で、ちょっとふざけた、軽妙洒脱な詠みぶりだと思う。

        見るに我(が)も折れるばかりぞ女郎花     芭 蕉
   女郎花のたおやかな風情には、美しい女の趣がある。
   見ていると、ほとほと感心させられるほどで、
   つい、手折ったまでのことだ。

 「女郎花」という花の名に、遊女を匂わせて発想したものであろう。
 『古今集』の僧正遍昭の「名にめでて……」を踏まえたものであることはいうまでもない。
 貞門時代の発想は、後年のように、対象をしっかりつかむというのではなくて、古典の裁ち入れや、掛詞や比喩の巧みな使い方で、笑いを呼びおこすところが中心になっている。
 「我を折る」は、当時、「感心する、恐れ入る」あるいは「閉口する」などの意に用いられていた。

        僧正よ鞍がかへつて女郎花     其 角
 この句も、遍昭の歌の裏の意味を読み取っての遊びであろう。
 「落ちにき」を、「馬から落ちた」という解釈が、遍昭の時代からあったらしい。

 また同じく芭蕉の弟子の、各務支考(かがみしこう)の、
        野にも寝よ宿かるかやに女郎花     支 考
 という句は、『古今集』巻四にある、小野美材(おののよしき)の、
        女郎花 多かる野辺に 宿りせば
          あやなくあだの 名をや立ちなむ
 を敷衍して、刈萱まで取り込んだものである。

 「女郎花」という名のゆえに、実体以上に和歌や俳句の世界で持てはやされたのであろう。
        女郎花そも茎ながら花ながら     蕪 村
 この蕪村の句は、さすが画人だけあって、実体以上に女郎花を持ち上げることなく、そのなよなよとして力無げな風情を、何の虚飾もなく取り上げた、数少ない例である。


      きぬぎぬの風のつかひや女郎花     季 己

蜩(ひぐらし)

2008年08月23日 21時56分11秒 | Weblog
 立秋から十六日めを、「処暑」という。つまり今日、八月二十三日がその処暑。
 処暑は、烈しい残暑にストップのかかる頃で、よい時候語であるが、二音、重ね音で歯切れがよくないせいか、句にする人は少ない。
 こういう季語も常識として、マスターしようとするが……。やはり使い慣れることが必要であろう。

 八月も下旬となると、めっきり日脚が短くなってくる。
 そういえば、蜩(ひぐらし)の声を、今年はまだ一度も聞いていない。
 例年ならば、七月の末から耳馴れていた蜩の声が、いまさら身に沁みて秋を知るのが、ちょうど今頃である。
 この「ひぐらし」という蝉の名は、暑い日盛りにはひそまっていて、日暮れを待って盛んに鳴き立てるところから、与えられたものだという。

 以前、ユースホステルで同室になった、日本に来たての外人さんから、「アレハ、ナントイウ 鳥デスカ?」と尋ねられたことがある。
 早朝や黄昏に、甲高い声で涼やかに鳴く蜩。梅雨明け頃から鳴きはじめるというが、あの声はやはり爽秋のものであろう。
 小さな体にちかちかと金緑の筋があり、透きとおった翅も長くてスマートな、かわいい蝉である。

 蜩の哀調をおびた声は涼しげで、どこか寂しげに聞こえる。カナカナカナ……と美しい声で鳴くため、「かなかな」ともいわれている。
 蝉の鳴き声の中で、蜩がもっとも美しいといったのは、小泉八雲とのこと。

        蜩や几(つくえ)を圧す椎の影     正岡子規
 八月も末、夕日の翳りがくっきりと目立つ頃になると、蜩の声もひとしお身に沁みて聞く人の心をひきつけるようである。
 上記の子規の句も、その時間帯をとらえたものであろう。「几を圧す」が非凡である。

        ひらがなのかなかな啼かせ母郷かな     辺見じゅん
 これは、そのセンチメンタルなノスタルジーをうたったものだが、「ひらがなのかなかな」と「母郷」の「母」とが響きあって素晴らしい。また、K音の多用が涼しさを増幅している。

        ひぐらしのこゑのつまづく午後三時     飯田蛇笏
 まず、「午後三時」のみ漢字で、あとは“ひらがな”という表記に感心する。また「つまづく」が上手い。
 ただ、この句のせいか知らぬが、句会などで「こゑのつまづく」はもちろん、「○○のつまづく」が多いのは、考え物である。

        かなかなや少年の日は神のごとし     角川源義
 「かなかなや」が効いている。これを「蜩や」としたら、低級の句に成り下がってしまう。ことばの吟味の大切さを教えられた。
 どこか、わが身の衰えを「かなかな」の声に誘われた句のように思えるのは、己の年齢のせいであろうか。


      風の香の身につき処暑の茶棚かな     季 己 

藤村忌

2008年08月22日 21時57分55秒 | Weblog
 島崎藤村が小諸義塾の教師となって、その町へ赴任したのは、いまから109年前、すなわち藤村、二十八歳の春のことである。
 そのころの小諸は、それこそ山麓の小さな町だった、という。
 懐古園の断崖から望む千曲川の流れは、いまでは発電所のダムが出来て展望が変わった。
 人口が増え、町も広くなり、観光客も多い。そんなふうに町の風物は変化したけれども、懐古園を訪れる人のほとんどが、108年前の「小諸なる古城のほとり」を愛誦し、その情趣をとおして懐古園や千曲川の流れを見る。

      小諸なる古城のほとり
      雲白く遊子(ゆうし)悲しむ
      緑なすはこべは萌えず
      若草もしくによしなし
      しろがねのふすまの岡辺
      日に溶けて淡雪流る

      あたゝかき光はあれど
      野に満つる香もしらず
      浅くのみ春は霞みて
      麦の色はつかに青し
      旅人の群はいくつか
      畠中の道を急ぎぬ

      暮れ行けば浅間も見えず
      歌哀し佐久の草笛
      千曲川いざよふ波の
      岸近き宿にのぼりつ
      濁り酒濁れる飲みて
      草枕しばし慰む

 この詩は、「秋風の歌」と並んで、藤村詩中の双璧と称せられているものである。「秋風の歌」が、藤村の処女詩集たる「若菜集」中の逸品であるに対し、この詩は、藤村の最後の詩集たる「落梅集」中、随一の名作である。
 これは、藤村が長野県の小諸に来て二年目、すなわち明治三十三年(1900)の初春に成ったものである。
 これがうたわれた場所が、小諸の懐古園であることは言うまでもないが、いま、これが園内に詩碑として建てられている。
 その碑は、有島生馬の意匠になり、文字は、藤村自身の筆になったもの。
 懐古園に遊ぶ者の、まず第一に観るものとなっている。

 第一連は、小諸城址の早春の寂しい景色をうたっている。
 すなわち、空には白雲がところ定めず漂い、地上には日に溶けゆく淡雪が見られるだけで、草もまだ伸びていない、と深い感傷に浸っている。
 濃く澄んだ青空を背景として、ふわりふわりと飛びゆく白雲と、故郷を離れてさすらう遊子との間には、一脈相通じるものがある。
 こうした古城のもたらす寂しさと、わびしい早春の旅情とは、そくそくとして作者の胸に迫り、「遊子悲しむ」と歎息せしめずにはおかなかったのであろう。
 この遊子旅情の悲しみが、この詩全編の基調をなしていることは否めない。
 ひるがえって思うに、作者は長野県筑摩郡神坂村の出身で、しかもこの詩を作ったときには、小諸に居を構えていたのであるから、「遊子」という語が大げさで、いささか穏当を欠くようであるが、作者は九歳の時、故郷を去って以来、それに身をよせることがほとんどなく、大部分を旅先で過ごした関係上、小諸にいることがむしろ、旅先にあるような感じがしたであろう。それに、人間の一生をば、悠久無限な永生の一旅程とも感じたのであろう。
 こう考えると、「遊子」と言ったのも無理はないと思われる。

 第二連。暖かい春の光に照らし出されている山麓の野に眼を放ち、いったいに赤茶けた陰鬱な光景の中に、わずかに麦の青い色を認めたところに、早春のわびしさがよく表れている。
 ここに畑中を急ぎ行く幾群れかの旅人を点出したのも、早春のわびしさを強める上に非常に効果的である。この旅人は、おそらく行商人であろうが、「急ぎぬ」という表現によって、早春の寒さを思わせる。

 第三連は、時が過ぎて夕方となる。
 いつしか浅間山は姿を隠し、佐久平にも夕闇が訪れた。草笛の音は、調べ哀しく夕闇の中を流れてくる。
 作者は旅愁やらんかたなく、千曲河畔の旅宿に入って、濁り酒に心を紛らしたのである。
 「濁り酒濁れる飲みて」の句によって、作者の境涯と旅宿のさまとが想像される。

 この憂愁はどこからくるのであろうか。東京を離れて知らぬ土地へ移ったことのわびしさか。孤独感か。そのいずれでもあり、いずれでもなかった。
 憂愁は、まさに青春の終わろうとすることの何ともいえない傷みであり、青春の光彩の消えようとすることの悲しみであった。

 全編を通じて、主観的な語が少なく、客観的な叙景・叙事に托して、平静な抒情に終始している。こういうところに、「若菜集」時代の詩に見えるような純抒情詩から離れて、新しい境地を開こうとする試みが見える。

 きょう八月二十二日は、詩人・小説家、島崎藤村の忌日である。昭和十八年、変人の生まれた年に、71歳で亡くなった。


      山の木にみどり落ちつき法師蝉     季 己

夏の夜

2008年08月21日 22時00分02秒 | Weblog
 どうやら雷雨は通り過ぎたようだ。
 午後6時過ぎに突風が吹き、2階のベランダの鉢植えは、白梅・楓をはじめ、ほとんどが倒された。倒れなかったのは、直径30センチほどの鉢に植えた“金の成る木”のみ。
 今の室温、29.5度。これなら今夜はぐっすり眠れそうだ。連日、夜中の室温が、窓を開けていても31度以上あった一週間ほど前までが、ウソのようである。
 日中の暑さは、図書館などに避暑に行けばしのげるが、夜になってもうだるような暑さには、まったくお手上げである。

      夏 夜 追 涼      楊 万里
  夜熱依然午熱同    夜熱(やねつ)依然として午熱(ごねつ)に同じ
  開門小立月明中    門を開いて小立す月明の中(うち)
  竹深樹密虫鳴処    竹深く樹密なり 虫鳴く処
  時有微涼不是風    時に微涼有り 是れ風ならず

  夜になっても依然として日中のうだるような暑さのまま
  門を出て、月明かりの下で、しばらく立って涼んでいた
  あたりには竹がうっそうと生え、樹木が生い茂り、虫が鳴いていた
  すると、風もないのに、何とはなしにいくらか涼しさが染み通った気がした

 この詩は、七言絶句。絶句は「起承転結」の構成であるから、この作品のポイントは、第四句である。前の三句は、第四句のための用意をしている、と見てよい。
 起句では、夜に入っても昼と同じうだるような暑さだ、といって「夜」の語がもたらす涼味を否定する。
 承句、暑さにたまらず外へ出るが、起句の用意によって、この月明かりは、秋のそれとは異なり、月に暈(かさ)でもかかっているような、ムーッとしたものを感じさせる。
 「小立」の「小」の語が、結句の「微」の伏線になっているのも上手い。
 転句で、明から暗へ。竹が深く樹が密だ、ということによって、月の光を通さない部分に目を注ぐ。その真っ暗な中で、チチッと虫が鳴いた。
 その瞬間に、「微涼」、つまり、ほんの微かな涼味を感じたのだ。それは無論、風ではない。心理的な涼味、といったところか。
 もしこれが、むせるような月の下の草むらかなんかで鳴いたのだったら、涼味など少しもない。その意味で、転句の暗部が効いていることになる。

 風が涼味を運ぶのは当たり前。当たり前では詩にならない。
 この詩は、その常套を一ひねりした、機知の詩である。常套を破り、機知をねらうのが、宋詩の特色の一つであるが、この詩は、平易な表現の中にも、細かい工夫が生きていて、気のきいた小品となっている。

 このように、楊万里(ようばんり)の詩は、宋代の他の詩人の詩がそうであったのと同じく、スケッチであり日記であり、人生の一コマを、鮮やかにとどめるものであった。
 その積み重ねによって、その人生の折々の意味と美しさとを、新たに発見し直していくものであったといえよう。
 俳句の道を歩む者として、これらの点をしっかり学びたいと思う。

 家柄も低く、貧しい家に生まれ育ち、ついには中央の高官、地方の長官などを歴任しながらも、たえず詩人、楊万里の眼は、庶民とその生活のすみずみにまで行きわたっていた、といえよう。


      夏の夜や母の寝息の聞こえよがし     季 己

百日紅

2008年08月20日 21時56分06秒 | Weblog
 毎月、第三水曜日は、区の観光ボランティアガイドの自主的勉強会の日である。
 思うところがあって、一度も出席していない。そのうち出席者の間から、欠席者の資格を剥奪せよ、との意見も出るだろうが、それも承知の上である。
 もちろん、今日も出席せず、地下鉄大江戸線で「汐留駅」へ。浜離宮恩賜庭園を散策するためである。

 まず、涼を求めて水辺へ。
 岸辺の松は、夏の名残の強い日差しを浴びながら、興趣を感じさせるのはさすがである。
 お花畑は、10万本といわれるキバナコスモスが、いまが盛りと咲き誇っている。濃いオレンジ色に加えて、黄色い花も増えてきた。また、一部ではあるが、秋のコスモスのピンク色も……。
 蝶や蜂たちも忙しく飛び回り、都心のお花畑を満喫している。

 園内を句材をさがしながら散策していると、ひときわ鮮やかなサルスベリの、柔らかなピンクのフリルの花が眼に飛び込んでくる。
 炎天のなか、梢に紅や白のサルスベリの花が揺れるさまは、はるかな日々を思い出させてくれるようである。

 サルスベリは、ミソハギ科の落葉高木で、原産地はインド、あるいは中国南部ともいわれる。いずれにしても、熱帯が原産ということで間違いなかろう。
 江戸時代の初めに中国から渡来し、寺の境内などに植えられた。
 百日紅の名は、盛夏のころから十月ごろまで百日もの間、紅色の花が咲き続けるというので名付けられた。花は淡紫色・白など、花の色には変化が多い。
 和名のさるすべりは、幹の肌がつるつるして猿でも滑りそうだというところから出ている。“さるすべり”とは、よく名付けたものである。

        散れば咲き散れば咲きして百日紅     千代女
 「朝顔」の句同様、決してすぐれた句とは言えないが、たいていの「歳時記」の百日紅の項の例句として採られている。
 たしかに、盛夏から十月にかけて、いかにも花期の長い百日紅のさまを言い表してはいるが、上等の句とは思えない。
 百日紅(ひゃくじつこう)という中国名も、その花期の長さゆえに与えられたものであろう。
 百日紅は、「ひゃくじつこう」と「さるすべり」の二通りの読み方があるので、注意したい。

 鎌倉初期の歌人、藤原為家に次のような歌がある。
        足ひきの 山の桟道(かけぢ)の さるすべり
          すべらかにても 世を渡らばや
 この歌は、百日紅の樹の肌の、たいそう滑らかで艶があり、木登り上手の猿でも滑り落ちそうな点で、サルスベリという名が与えられたことを、円転滑脱な世渡りの術にかけて詠んだものである。

 百日紅の樹の幹は、ずいぶん曲がりくねっていて、思いもかけぬ方向に枝を出している。
 樹皮のまだらにはげた、なめらかな幹をなでると、かすかな振動が増幅されながら梢まで伝わり、花や葉がわさわさと声を立てて揺れるので、別名を「くすぐりの木」とか「笑いの木」という。

 原産の熱帯地方の百日紅は、樹の肌がガサガサして、樹幹は直立しているそうだ。すると、サルスベリではなく、サルスベラーズであったのだろうか。


      思ひ出し笑ひしてをり百日紅     季 己

氷室

2008年08月19日 21時19分16秒 | Weblog
        花氷 雨夜のおもひふかめけり     久保田万太郎

 花氷とは、冷房と装飾を兼ねた氷の柱で、デパート・ホテル・劇場・レストランなどに置かれていた。氷の中に美しい花や、金魚などを封じ込めて、見た目の美しさとともにその冷気で涼しさを呼ぶ、いかにも夏ならではの演出である。

 いまは冷房化が進み、ほとんど見かけることはなくなった。まれにホテルなどの結婚式で、ロビーに飾られたりするだけである。
 また、最近は花氷ではなく、氷で彫刻した花や鳥などを飾るところのほうが多いようである。これを氷彫刻というが、歳時記には、格好の例句は載っていない。

 今日のように人造氷のなかった昔は、どのようにして夏に氷を手に入れたのだろうか。
 それについて、『日本書紀』の仁徳天皇六十二年の条には、次のような詳しい記事が載っている。

 その年(374年)、額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)という方が、大和の国の闘鶏(つけ)という所へ、狩に出かけた時のことである。
 山の上から眺めると、野中に庵のようなものが見えた。人をやって見て来させると、それは洞穴だということである。
 そこで、闘鶏の稲置大山主(いなぎおおやまぬし)にお尋ねになると、「あれは氷室でございます」と答えた。
 「氷室とは、一体どんな物だ」と訊かれると、大山主が説明するには、「土を一丈あまり掘り下げまして、萱で屋根を作り、底に厚く茅(ちがや)や荻を敷きます。その上に、山から取ってきた氷を積んで、囲っておきますと、夏になっても溶けません。夏の暑い盛りには、水や酒の中にその氷を入れて、冷たいのを飲むのでございます」
 たいそう珍しく思われた皇子は、早速その氷を持ち帰り、仁徳天皇に献上された。天皇はたいそう喜ばれて、それから朝廷も、冬の終りには必ず氷室の中に氷を囲っておいて、夏の用に当てることになったという。
 以来、朝廷には、氷の保存を掌る役人が置かれることとなった。
 氷の連(むらじ)とか氷の宿禰(すくね)などという姓で呼ばれる氷部(こおりべ)の存在が、その事実を証明している。


      念珠つまぐり冷房の喫茶店     季 己
 

取合せの効果

2008年08月18日 21時53分25秒 | Weblog
 昨日に比べれば暑かったが、それでもだいぶ凌ぎやすくなった。
 このまま秋に突入してくれればいいが、まだまだ残暑が続くことだろう。

 昨日、取合せの句にふれたが、今日は、取合せの効果について考えてみたい。

        あき風やしら木の弓に弦はらん     去 来
 
 さわやかな秋風の今日この頃、久しぶりに白木の弓を手に、的に向かってみたいものだ、との意であろう。
 秋風の感触と白木の弓とが、感覚的にマッチして、いかにも快い。
 秋は、素秋ともいわれるように、白がふさわしい。「素」は白の意で、五行で白を秋に配するところから、秋の異称となり、また白秋ともいう。

 俳句には、その表現手法の一つとして、しばしば“取合せ”ということが問題にされる。感覚的に通じ合う二つの素材を一句の中に詠みこんで、そのイメージを豊かにし、印象効果を高める方法である。
 取合せの効果は、“和”ではなくて“積”であるといわれる。
 三と三とを加えれば六であるが、取合せの巧みなものは、三と三の積、すなわち九の効果をもたらす。
 去来のこの句は、その意味で成功した例である。

 取合せのコツを会得するには、蕪村の句を学ぶのがよい。
 蕪村は、取合せの第一人者であったが、例えば、「行く春やおもたき琵琶の抱きごころ」には、「行く春」のけだるい気分と、「琵琶の抱きごころ」の重ったるい感情とが、巧みに取合わされて、晩春のものうい季節感が、まことに巧みにうたいあげられている。
 こうした二つの素材を発見するには、鋭敏な感覚と繊細な感受性とが、詩人に要求されることはもちろんである。

 秋風の句で最も好きなのは、原石鼎のつぎの句である。
        秋風や模様のちがふ皿二つ     原  石 鼎
 小さな卓袱台(ちゃぶだい)に、模様も大きさも揃わない皿が二つ。その小さな陶器の模様を、あたかも不思議な発見であるかのように、じっと見入っている男の所在なさ、やるせなさの思いが、ひしひしと胸に伝わってくる。
 この句も、「秋風」と「模様のちがふ皿二つ」の取合せである。「秋風」と「模様のちがふ皿二つ」との間には、なんの因果関係もないが、デリケートな情感と秋風とが、みごとにマッチしている。
 この句は、秋風索漠の情感が沁み透った、作者、一世一代の秀吟と言われるが、変人も強くそう思う。


      この川も廃校となる目高かな     季 己

行水

2008年08月17日 21時54分32秒 | Weblog
 銭湯に入ったことがお有りだろうか。
 今の時代、銭湯自体、知らない人が多いのではないか。平たく言うと「ふろや」つまり、料金を取って入浴させる公衆浴場のことである。
 ここ下町も、銭湯がめっきり減った。子どもの頃、5軒あった銭湯が、昨年、今年と続けて2軒廃業して、今は2軒のみが、細々と営業しているのみである。
 下町は古い民家が多く、「ふろ」のない家がまだかなりある。今ある2軒が廃業したら、どうなるのであろうか。他人事ながら心配である。
 昔ならいざ知らず、行水をするわけにも……。

 日中の汗を流さずに夕餉の膳に向かう気にならず、そこで、縁先に盥(たらい)を据えて、水を湛え、汗を流す程度の手軽な湯浴みは、夏にはなくて叶わぬ習慣であった。
 真夏の頃は、毎日、内風呂を立てるのは無駄、かといって銭湯へ通うのも、というときにするのが昔の行水である。したがって、行水は夏の季語となっている。

        行水の捨てどころなき虫の声     鬼 貫
 「行水」は先述のように、盥に湯を入れて手軽に湯浴みすることをいうが、ここでは使った後の湯をさす。
 「行水に使った湯を捨てようとしたが、庭にはあちらこちらで虫が鳴いている。せっかくの美しい鳴き声を止めるのが惜しさに、湯の捨て場に困っている」
 の意。季語は「行水」ではなく、「虫の声」で秋ということになる。

 この句は、誰もが経験する日常生活的な風流心を扱っただけにわかりやすく、万人の共感を呼んで、後の川柳にも「鬼貫は夜中盥を持ち歩き」と揶揄されるほどであった。
 しかし、作品としては、人口に膾炙している千代女の「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」ほどではないが、作意が感じられて一級の句とは言いがたい。
 行水と虫の声を取り合わせた句としては、来山(らいざん)の「行水も日まぜになりぬ虫の声」があるが、この句のほうがずっと詩情は深い。「日まぜ」は、「一日おき」の意。
 この句も、季語は「虫の声」で秋、と思うが、ある有名歳時記には、夏の巻の「行水」の例句として載っている。
 だが、山本健吉編『最新俳句歳時記』(文春文庫)には、鬼貫・来山の両句とも、「虫の声」の例句として載っている。

 季語であるか否かの判断は、“句の中心”が何であるかを考えればよい。つまり、句の主題がいずれにあるかを判断すればよいと思う。よくよく読めば、どちらかが主で、どちらかが従であることがわかる。
 鬼貫の句は、「行水の捨てどころなき」と「虫の声」に、来山の句は、「行水も日まぜになりぬ」と「虫の声」にわけられる。
 このようにすれば、「行水」と「虫の声」のどちらが主題であるか、自ずからわかると思う。
 数学的に言えば、両句とも、“5・7対5”、つまり、“12音 対 5音”でバランスがとれている、ということだ。したがって、5音の方の比重が高い、すなわち、こちらが主で季語となる。
 もっと簡単に言えば、“句の中心”は、切字がある場合は、切字の部分、ない場合は、下五にあることが非常に多い、ということだ。

 鬼貫は『独言』の中で、
    「作意をいひ立てたる句ハ、心なき人の耳にもおもしろしとや
     おぼえ侍らん。又、おもしろきハ句のやまひなりとぞ」
 と、作為を排す立場をとったのであるが、彼の場合は、その主張が、一句の句作りのうえで必ずしも具現化されぬ憾みがあった。まるでどこかの誰かのように。
 
 なお、中七を「捨てどころなし」の形で載せる伝本がある。
 「なき」と連体形で「虫の声」に続けるよりは、「なし」と切ったほうがよいと思うが如何。


      ひとしきり注連の青さを盆の風     季 己