壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

2009年12月31日 14時31分28秒 | Weblog
 現代人にとって、鏡は、毎日の生活に欠かせぬ、必需品であろう。
 鏡のおかげで、自分の顔の汚れや、ネクタイのゆがみに気がつく。鏡は誰にも同じに映して見せる。
 おもえば、私たちは「鏡を見る」というが、実は、「自分を見る」ことにほかならない。
 自分を修正し、自分を完成する営みが、「鏡を見る」ことではなかろうか。すると、「鏡を見る」というものの、実は鏡から「見られている」のが、実体というべきであろう。
 鏡のはたらきで、自分の外観は整えられるが、鏡に映らぬわが心を整えるには、修行する以外にすべはない。いや、〈ほとけ〉を拝み奉る、と言ってもよい。
 この上なく誠実に礼拝するなら、〈ほとけ〉は、誰ものこころを私なく、ありのままに拝んで下される。

 〈ほとけ〉を拝むとは、鏡と同じように実は、〈ほとけ〉から人間が拝まれているのだ。
 人間だれもの心の中に埋みこめられている〈ほとけのいのち〉が、〈ほとけ〉から拝まれ、その開発を〈ほとけ〉から念じられているのに気づかされ、はじめて〈ほとけ〉が拝めたことになる。

        鏡対像而無私(鏡は像に対して私無し)
        珠在盤而自転(珠は盤にあって自ずから転ず)
                 『従容録』第三十六則

 この一年、はたして自分は、いささかの私心もなく〈ほとけ〉を、拝み奉ったであろうか。そうして、その教えや心が自在にはたらいたであろうか。深く反省の大晦日である。

 拙文をお読みいただき、ありがとうございます。深く感謝申し上げます。
 明日からの新年、また、心新たに書きますので、よろしくご愛読ねがえれば、幸いです。では、よいお年を!


      とつとつとほとけの声か除夜の鐘     季 己

生きがい

2009年12月30日 21時36分26秒 | Weblog
        蛤の生けるかひあれ年の暮     芭 蕉

 もともとは、画賛としてのおかしみを志向した発想と思われる。
 楪(ゆずりは)の上に二つ描かれた蛤(はまぐり)の絵に、新春のさまを見て取っての作。この句を全部仮名書きにした真蹟があるが、その文字づかいにも蛤へ呼びかける気分を生かそうとしているところがある。当時の、おかしみへの傾きをうかがうことができる。
 しかし、何らの前書きも付していないことは、芭蕉自身に、画賛の句を、いわば述懐の句として独立させようとする気持があったためだと思われる。そこでは、俳諧師としての自分の侘びしい生活のありかたに、蛤が蓋(ふた)にこもって生きているのと、隠微相通ずるものを感じて、境涯を詠じた作となっているのである。

 「蛤」は、歳旦の吸物に使われるという点を指して、「生けるかひ」ということが言われているものと思う。「かひ」は、貝の意をこめての縁語仕立てと見るべきであり、「蛤の」の「の」は、「の如くに」という比喩の意を含んだ用法ととりたい。

 季語は「年の暮」で冬。「年の暮」という一年のかぎりを指すよりは、新しい年への心の傾きが中心になっている発想である。

    「蛤が新春の料として珍重され、生きていたかいがあるがごとくに、自分も
     新年への生きがいをいだきつつ、この年の暮を過ごしたいものだ」


      暦果てこの身に癌を残しけり     季 己

寒菊

2009年12月29日 23時17分27秒 | Weblog
        寒菊や粉糠のかかる臼の端

 眼にふれた寒菊を、即興的に詠んだように見られるが、前書きによれば、実は、芭蕉庵即時、つまり、芭蕉庵で眼前のものを詠んだということ。
 静かな芭蕉庵の冬のさまが出た作で、味わうと、寒菊が所を得た生かされ方をしていることがわかる。自分の心の直接の露出を抑えて、物に即して情を生かそうとする方向を目指していて、いかにも静謐(せいひつ)をたたえている作である。

 「臼の端」は、臼の端っこという解も成り立つが、これはやはり、臼の傍らの意で、寒菊の位置を示しており、これを「粉糠のかかる」が修飾しているものと解したい。それで初めて、臼と寒菊とのかかわりが生きてくる。

 季語は「寒菊」で冬。実景に即している作。寒菊に粉糠のかかることが、寒菊を実によく生かしている。元禄六年(1693)の作。

    「庭先に臼を出して米搗きをすると、粉糠がしきりに舞い散ってあたりを
     白くする。その白のほとりには、寒菊がひっそりと咲いているのだが、
     見ると、その花にもしきりに粉糠が降りかかることだ」


      寒菊や心に傷のなきごとく     季 己

魚鳥の

2009年12月28日 23時01分02秒 | Weblog
        魚鳥の心は知らず年忘れ     芭 蕉

 人の世の煩わしさから、多少、魚鳥をうらやむ気持を動かしている。しかし、それはそれとして、もう一度、人の世の営みに心を向けてきているのである。

 「魚鳥の心は知らず」は、『荘子』秋水篇の「子魚ニ非ズ、安ゾ魚之楽ヲ知ラン」や、『方丈記』の「魚は水に飽かず。魚にあらざればその心をしらず。鳥は林をねがふ。鳥にあらざればその心をしらず」を念頭に置いた発想であろう。

 季語は「年忘れ」で冬。一年の間を無事に過ごしえたことを祝ったり、その年の労苦を忘れたりするために、一族知友などが集まって饗宴を張ること。今の忘年会。年齢を忘れる意味ではない。  

    「一年をふりかえってみると、いまさらのように感懐の新たなものがある。
     魚は水に、鳥は空に、自在にたのしんでいるようで羨ましいことだが、
     それはそれとして、自分は年忘れの情にひたろう」



      冬の海白き日輪かがやかす     季 己

囲炉裏

2009年12月27日 22時43分39秒 | Weblog
        五つ六つ茶の子にならぶ囲炉裏かな

 木曾から帰った芭蕉を囲んだ路通などが、師の前にかしこまって、茶の配られるのを待っている姿の見えるような句である。
 『茶の草子』に、「木曾の秋に痩せ細り芭蕉庵に籠もり居給ひし冬」という路通の前書きを付して出ている。前書きにより、元禄元年(1688)冬の作と知れる。

 「五つ六つ」は、人数を頭の数で言ったもの。茶の子の数としたのではおもしろみがない。
 「茶の子」は茶菓子、茶うけのこと。
 中七「茶の子にならふ」と清音に詠み、慣れ親しむの意とする説もある。

 季語は「囲炉裏」で冬。この季語が、あたたかいまどいの中心をあらわす。

    「五つ六つの頭が、囲炉裏を囲んで、出された茶の子を前に、かしこまって
     並んでいることよ」


      来月の予定ふえたる炬燵かな     季 己

薬飲む

2009年12月26日 21時18分14秒 | Weblog
        薬飲むさらでも霜の枕かな     芭 蕉
     
 『如行子』に、「翁、心ちあしくて、欄木起倒子へ薬の事いひつかはすとて」と、如行の前書きを付して掲出。
 
 医師に病苦をうったえる体になっている芭蕉。「さらでも」は、非常に力強く「霜の枕」の意味するさびしさへひびいている。身の寂しさを、病臥のふとんの襟にじっと噛みしめて味わっている感じがある。
 「さらでも」とは、そうでなくても、ただでさえの意で、具体的には、病中でなくてもの意である。

 芭蕉の動静などから、この句は、貞享四年(1687)十一月二十二、三日、名古屋市にある東海道の宿駅「熱田」での作。
 芭蕉は、胸部・腹部に起こる激痛、いわゆる「さしこみ」が持病で、このときもそれが起こったものと思われる。
 「霜の枕」は、霜の夜の寒さが身に沁みわたる旅寝の意。
 前書きにある「起倒子」は、熱田の医師。「子」は、人名に添えて、親しみや、敬称をあらわす。
 季語は、「霜」で冬。

    「ただでさえ霜夜の寒さが身に沁みわたるころであるが、病に臥してこうして
     薬を飲む身になってみると、旅中病臥の寂寥(せきりょう)が、寒さと共に
     いっそう深く身に感じられる」


      霜の夜の宴席にゐてふとひとり     季 己

せつかれて

2009年12月25日 19時25分05秒 | Weblog
        せつかれて年忘れする機嫌かな     芭 蕉

 これはおそらく芭蕉庵でのことであろう。「機嫌かな」には、門人たちにせつかれて、年忘れの仲間に入っている自分を、自ら眺めているような余裕ある姿が見られる。生活気分そのものが、発想契機となっている作である。『芭蕉句集』によれば、元禄五年(1692)の作とのこと。

 「せつかれて」は、しきりに催促されて、の意。
 「年忘れ」は、今の忘年会のことで冬季。「年忘れ」の気分に素直にひたっている使い方。

    「門人たちに、年忘れをしましょうとせつかれて、年忘れの仲間に入ると、
     いつの間にか、われながら機嫌のよい気分になってゆくことだ」


      点滴も楽しやシクラメン赤し     季 己

しはす

2009年12月24日 22時41分59秒 | Weblog
        なかなかに心をかしきしはすかな     芭 蕉

 誰もが俗事に心を煩わされる「しはす(師走)」というもののなかに、かえって風雅の本情を見出してゆこうとするところは、このころの芭蕉としては、あまりに常套的に過ぎるようである。
 弟子の曲翠から、酒一樽を贈られたことに対する謝意と、勤番の労苦へのいたわりとをこめた挨拶の作である。

 この句は、馬指堂(曲翠)宛の書簡中での即興で、多分に曲翠に対するくだけた語りかけの気持が含まれていたものに違いない。どこか『徒然草』風の匂いが漂う発想である。
 書簡の文面は、「一樽賢慮に懸けられ寒風を凌ぎ、辱(かたじけな)く奉り候。明日より御番の由、ご苦労察し奉り候。『なかなかに心をかしきしはすかな』 御非番の間御尋ね芳慮を得可く候。折節対客早筆に及び候。頓首 酒堂も御手紙見申し候」とある。文面から見て、元禄五年(1692)十二月のもの。

 「なかなか」は、かえっての意。
 「しはす」は、師走で十二月のこと。これが冬の季をあらわす。「しはす」の俗にあわただしいところを踏まえて、その逆を導き出す発想で、実感としてとらえられたものでなく、一般的な意味として使われている。

    「師走は、いろいろと世俗のことであわただしいが、心のありようでかえって
     どこか年の暮れゆくあわれも感ぜられることだ」


      CDの志ん生に聴く師走かな     季 己

口切

2009年12月23日 22時52分41秒 | Weblog
          支梁亭口切
        口切に堺の庭ぞなつかしき     芭 蕉

 支梁(しりょう)の口切(くちきり)の茶事に招かれての挨拶の意がふくまれている。
 場所も深川のこととて、木の間がくれの海も見え、そこに堺の利休居士(りきゅうこじ)指図の有名な露地も、おのずから眼底に彷彿させられたことであろう。

 「支梁」は、江戸の蕉門であるが、詳しいことはわからない。その亭は深川にあったものらしい。
 「口切」は、「壺の口切」ともいい、新茶を壺に入れ密封して冷涼の地で夏を越させ、初冬のころ、この壺の口を切り、茶臼で抹茶にひいて行なう茶事。最も晴れの茶会とされ、茶人正月の名もある。
 「堺」は、大阪府堺市のこと。茶人紹鷗(じょうおう)・利休ゆかりの地。
 「堺の庭」については、『芭蕉句解』に、「泉州堺に利休居士指図の露地あり。句意是等によるか。此の露地は蒼海満々と見え渡りたるを、ことごとく植ゑかくし、手水(ちょうず)などつかふとき少し見せたり。ある茶伝の書に。海すこし庭に泉の木の間かな 宗祇」とある。

 季語は「口切」で冬。堺の庭を通しての利休への思いがそのまま挨拶となっている。元禄五年(1692)の作。

    「口切の席に列してまことに結構な庭を見ることが出来ました。これを見る
     につけ、茶事で知られた堺の庭が、しみじみなつかしく慕わしく偲ばれる
     ことです」


      冬うらら好きで集めし画の五十     季 己

木の葉掻く

2009年12月22日 20時22分21秒 | Weblog
          九年の春秋、市中に住み侘びて、居を深川の
          ほとりに移す。「長安は古来名利の地、空手
          にして金なきものは行路難し」と云ひけむ人
          のかしこく覚え侍るは、この身のとぼしき故
          にや。
        柴の戸に茶を木の葉搔くあらしかな     芭 蕉

 深川芭蕉庵に移住した折の句。
 「茶を木の葉搔(か)く」あたりには、今までの作風の痕跡(こんせき)を残してはいるが、それを越えて人に迫る力を持っている。自然の見据え方が真摯さを帯び、自然そのものの深奥にうがち入ろうとしている。談林のむなしい笑いが影をひそめ、漢詩の情趣も内面化したところで摂取されている。
 この句の詞書はきわめて重くはたらいていて、句と交響する趣が感じられ、この嵐に吹き立てられる芭蕉の身の置き方が生きてくるように思われる。
 詞書をつけるならこのようにつけたいが、個人的には詞書をつけることを潔しとしない。

 詞書の「長安は……」は、白楽天の「張山人ノ嵩陽ニ帰ルヲ送ル」の中の、「長安ハ古来名利ノ地、空手(くうしゅ)金(こがね)無クバ行路難シ」という詩句。
長安は昔から、名誉と利欲中心の土地柄であって、無一物で金を持たない人は、生活が困難である、の意である。
 「かしこく覚え侍る」は、よくぞ言ったものと感心される、の意。
 「柴の戸」は、細い枝で作った戸。芭蕉庵を指す。
 「木の葉搔く」は、落ち散った木の葉を掻き集めること。

 「木の葉(搔く)」が冬の季語。延宝八年(1680)の作。

    「柴の戸に冬の激しい風が吹きつけ、落ちたまった茶の古葉がしきりに
     舞い立っているが、この嵐は、茶を煮る料として茶の古葉を掻きたて、
     掃きたてて柴の戸に吹き寄せている感じがする」


      夕暮の青さ増したる冬至かな     季 己

冬至

2009年12月21日 19時58分55秒 | Weblog
        門前の小家もあそぶ冬至かな     凡 兆

 「冬至」は、一年中で最も太陽の位置が低く、昼が最も短い日である。
 旧暦では十一月にあり、陽暦では十二月二十二日頃にあたる。
 古来、「陰極まって陽始まる日」として、朝廷はじめ庶民も祝日とした。また、禅寺では特に、師家(しけ)や門弟に酒飯(しゅはん)を送って祝ったから、「門前」は、禅寺またはそれに類する寺と思われる。
 寺の門前には、参詣者相手の店があるから、「小家(こいへ)」はその一軒であろう。

 この句は、「門前の小家」を客観的に詠んだ写生句であるが、「あそぶ」というところに、休日を得た庶民の姿が生動する。
 冬至の句は、蕉門に他にもあるが、これほどの秀句はないと思う。
 季語は「冬至」で冬。

    「そうか今日は冬至だ。宮中でも祝賀が催されるが、ここの寺も、いつもの
     厳しさが感じられず、どことなくのんびりしている。門前の小さな店屋の
     人たちも、一日商いを休んでゆったりと遊んでいるよ」


      絵手紙の鯛焼の顔やさしかり     季 己

鉢叩

2009年12月20日 22時47分43秒 | Weblog
        納豆切る音しばし待て鉢叩     芭 蕉

 「鉢叩(はちたたき)」は、空也念仏(くうやねんぶつ)、あるいは空也念仏をして歩く半俗の僧のこと。十一月十三日の空也忌から大晦日までの四十八日間、空也堂の半僧半俗、有髪の僧が鉦(かね)を打ち鳴らし、念仏和讃を唱えながら、洛中洛外を巡り歩く。
 鉢叩の起源は、空也上人の飼っていた鹿を、平定盛が殺したため、上人は大いに悲しみ、定盛に仏道を説いたところ、定盛は発心し、瓢箪をたたいて念仏を唱したことから来ている。

 この鉢叩の音はまだ遠い。しかし、この音のもつわびしい寒さに心ひかれて、しばし耳を澄ましたいのである。「しばし待て」は、そうした感興の高まりを示した表現である。
 「納豆(なっと)切る音」は、なかなか冬の味わいの深いものであり、冬の市井(しせい)の生活をにおわせた趣がある。
 即興的な発想であるが、手を以て制しつつ、耳を傾ける芭蕉の姿がうかがわれて、一脈のなつかしさがわく句である。

 「納豆切る」は、納豆汁をつくるために、納豆を俎板(まないた)の上でたたいてつぶすことである。納豆汁は『年浪草』によれば、切りくだいた納豆を塩・酒・魚・野菜と和して汁物としたもの。初めは多く僧家のものであったが、後、ひろく市井庶民の食物となった。

 季語は「鉢叩」で冬。当時、納豆はまだ季語としては一般化していなかったが、「納豆汁」は十月としている。現在の「納豆汁」・「なつと汁」は、納豆をよくすり、それを味噌汁でのばして鍋で煮立てた、山形地方の料理を言うようである。

    「納豆を切るせわしい音をやめてくれないかな。ほら、あのように心にしみる
     鉢叩の音が聞こえてくるから」


      刻む手をなだめすかして根深汁     季 己

荒れたきままの

2009年12月19日 22時55分29秒 | Weblog
          人の庵をたづねて
        さればこそ荒れたきままの霜の宿     芭 蕉

 「荒れたるままの」と表現すれば、無難でわかりやすいが、それでは傍観者の表現にとどまる。
 前書きの「人の庵(いほり)」は、いま、不幸な境遇にある弟子の杜国の庵。杜国の隠棲の身の上への芭蕉の痛嘆は、そんな生ぬるい傍観者的な描写ではあきたらないほどの切実さで盛り上がって、一気に「荒れたきままの」と緊迫した発想になっていったものであろう。

 「さればこそ」というのは、隠棲の生活がこうもあろうかと思っていたが、はたしてその通りの事実を眼前にして、驚きの衝きあげる気持ちを表している。
 「荒れたきままの」は、荒れたいままに荒れたの意で、荒れ放題の、という気持である。
 『如行子』によれば、貞享四年(1687)十一月十三日の作。

 季語は「霜」で冬。実在の霜のはたらきだけでなく、不幸な生活を強いられている宿というこころをこめた使い方である。

    「杜国をたずねてやって来たが、そういう隠棲の身では、さぞかしこうも
     あろうかと思っていたまさにそのとおりに、これはまあ、荒れ放題に荒れ
     てしまった霜枯れの宿に、寒々と棲み堪えていることよ」


      初霜やポテトチップの破れ袋     季 己

芹焼

2009年12月18日 20時36分37秒 | Weblog
        悲しまむや墨子芹焼を見てもなほ     芭 蕉

 『エ南子(えなんじ)』の、墨子が白い練糸を見て、それが黄・黒などの色に染められ、変わってゆくことを泣いた、という故事を踏まえて発想したもの。(エは、氵に隹)

 「芹焼(せりやき)」は、鴨・雁などの鳥肉の切身に、臭いを消すために芹を入れ、さらに慈姑(くわい)・麩(ふ)・蒲鉾(かまぼこ)・蓮根(れんこん)などを加えて、醤油で味付けをした鍋焼料理。鍋のまま食べる鍋焼がふつうだが、昔は、焼石の上に芹を置いて、蒸焼きにしたといわれる。
 この句の場合、芹そのものを茹でるか炒める場合と考えた方がいい。
 『毛吹草』に作者不知(さくしゃしらず)として、
        「沢辺でも芹やきするか水烟」
 という句があり、『料理物語』に、「芹。汁・あへもの・せりやき・なます・いり鳥に入る。みつばぜりも同じ」とある。
 「墨子(ぼくし)」は、春秋戦国時代の思想家で、兼愛説と非戦論を唱えた。著書に『墨子』五十三編がある。

 「芹」そのものは春の季語であるが、この句は「芹焼」で冬季。

    「いま、芹が焼かれて緑の色を変えてゆく。これを墨子が見たら、練糸の色が
     さまざまに染まるのを悲しんだように、やはり嘆くであろうか、いや、この
     こうばしい香に心をひかれてしまうことであろうよ」


      人来れば母の機嫌の蕪蒸     季 己

宴席の中座

2009年12月17日 23時00分12秒 | Weblog
 忘年会のシーズンである。アルコール過敏症で酒は飲めず、おまけに魚介類はほとんどダメという変人は、忘年会は大の苦手。
 しかし、欠席するわけにもゆかず、たいていは出席する。昨日も忘年会に出たが、ウーロン茶一杯と、こんにゃくのお通し・枝豆で二時間ほど歓談し、中座させてもらった。「今日中にブログを更新しなければならないので……」と言って。

        憶良らは 今はまからむ 子泣くらむ
          そのかの母も 吾を待つらむぞ 
               (山上憶良『萬葉集・巻三』)

 原文「其彼母毛」は、ふつう「そのかの母も」と読むが、「そもその母も」「それその母も」「そを負ふ母も」「その子の母も」など、さまざまである。

 これは、憶良が宴会の席を退出するときの歌である。
     「憶良は、もうお暇(いとま)をいただきましょう。わたしの子は、
      ひもじさに泣いていることでしょう。そして、その子どもの母親も
      首を長くして待っているでしょう」
 と、ふつうは解釈されている。
 しかし、これは宴会の歌で、本来、もっとおどけたものと思う。

 この宴席の歌は、太宰府でのものであろう。
 この当時、憶良はすでに、七十ほどのご老体である。若い者と一緒に痛飲する体力は、もうない。こっそり中座しようとしたが、上官の大伴旅人に、見とがめられたのかも知れない。
    「憶良めは、そろそろ失礼させていただきます」
    「山上さん、なぜそんなに急いで帰るの。もう少しいいじゃないか」
    「いや、うちのガキどもが、きっと泣いているでしょうから」
    「子どもを出しにして逃げるつもりかね。ほんとうはあの若いカミさんに逢いたいんだろう」
    「そうそう、実は、その子のおっかさんも、私を待ちこがれているので」
 と、憶良はのろけて、さっと身をひるがえして出て行った。
 残された一座は、やんやの喝采で、座は大いに盛り上がったに違いない。

 七十ほどの憶良に、泣きわめく赤子など、おそらくいなかったであろう。いなかったからこそ、あたかも赤子があるかのように、戯れて「子泣くらむ」と、当座の即興で言ったのが効くのだ。
 宴会という場を十分考慮に入れて考えると、この歌は、そういう機知に富んだ、いかにも酒席のにぎわいの聞こえるような歌である。
 一座からの冷やかしを、即興的に歌で応えた、いかにも憶良らしい、飾らない表現の歌である。その即興のうちに、作者の人柄が浮かび上がってくる。


      留学生つれて羽子板市の中     季 己