――和歌の世界には、親句と疎句ということがあり、さまざまに
取りざたされております。連歌の世界では、あり得ないことな
のでしょうか。
――昔の人は、こうおっしゃっている。
まことにこの親句と疎句の区別がはっきりつかないようでは、
もろもろの句の付け様は理解できないだろう。
和歌には、一首のうちの上の句と下の句との親句、疎句のこ
とが、もっぱら説かれている。序詞や枕詞を長々と置き、下の
句でその理由や意味を言い表している歌は、上の句は疎句、
下の句は親句である。
また、各一首ずつに関しても親句、疎句の歌があるという。
上の句と下の句のつながりが緊密で理解しやすく、すべてを
言い尽くしているのは親句の歌である。また、上の句と下の句
との意味情趣だけが通じ合っていれば、別の変わった事象を、
各々が自分の思うとおりにつなぎ合わせたものでも、それは疎
句の歌であるという。
定家卿は、「秀歌は疎句の歌に多く、親句の歌には稀にしか
ない」とおっしゃった。
連歌にも、親句と疎句の付け方は必ずあるという。この覚悟
や修業が最も大事である。
疎句の連歌は、大略、
かへしたる田を又かへすなり
(一度耕した田を、また鋤返しているよ)
あし引きの山をふす猪の夜出でて
(山に寝ていた猪が、夜になって起き出してきて)
はじめも果ても知らぬ世の中
(その初めも終わりもどうなっているか分からない
世の中である)
朝夕に寄せてかへれる沖つ浪
(朝から晩まで、休みなく寄せては返す沖の白波)
これや伏屋におふるははき木
(これがみすぼらしい家に生えるという帚木なのか)
いなづまの光に見ゆる松の色
(稲妻の瞬間の光に、ちらっと見える松の緑の美しさ)
前句の持つ風姿や表現修辞を無視して、もっぱら意味合いや
情趣だけで継ぎ合わせた、こうした有名な句は多数ある。
(つづく)
竹皮を脱いではつかに癌小さく 季 己
取りざたされております。連歌の世界では、あり得ないことな
のでしょうか。
――昔の人は、こうおっしゃっている。
まことにこの親句と疎句の区別がはっきりつかないようでは、
もろもろの句の付け様は理解できないだろう。
和歌には、一首のうちの上の句と下の句との親句、疎句のこ
とが、もっぱら説かれている。序詞や枕詞を長々と置き、下の
句でその理由や意味を言い表している歌は、上の句は疎句、
下の句は親句である。
また、各一首ずつに関しても親句、疎句の歌があるという。
上の句と下の句のつながりが緊密で理解しやすく、すべてを
言い尽くしているのは親句の歌である。また、上の句と下の句
との意味情趣だけが通じ合っていれば、別の変わった事象を、
各々が自分の思うとおりにつなぎ合わせたものでも、それは疎
句の歌であるという。
定家卿は、「秀歌は疎句の歌に多く、親句の歌には稀にしか
ない」とおっしゃった。
連歌にも、親句と疎句の付け方は必ずあるという。この覚悟
や修業が最も大事である。
疎句の連歌は、大略、
かへしたる田を又かへすなり
(一度耕した田を、また鋤返しているよ)
あし引きの山をふす猪の夜出でて
(山に寝ていた猪が、夜になって起き出してきて)
はじめも果ても知らぬ世の中
(その初めも終わりもどうなっているか分からない
世の中である)
朝夕に寄せてかへれる沖つ浪
(朝から晩まで、休みなく寄せては返す沖の白波)
これや伏屋におふるははき木
(これがみすぼらしい家に生えるという帚木なのか)
いなづまの光に見ゆる松の色
(稲妻の瞬間の光に、ちらっと見える松の緑の美しさ)
前句の持つ風姿や表現修辞を無視して、もっぱら意味合いや
情趣だけで継ぎ合わせた、こうした有名な句は多数ある。
(つづく)
竹皮を脱いではつかに癌小さく 季 己