壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

秋津島

2010年08月31日 22時26分36秒 | Weblog
        稲づまや浪もてゆへる秋つしま     蕪 村

 エル・グレコ(だったと思う)の有名な絵に、市街の全貌が稲妻に照らし出された瞬間を描いたものがあるが、これは日本全土を地図のように俯瞰して、それへ稲妻を閃(ひらめ)かしたのである。空想もこれだけの奔放さを極めると、確かに見事である。
 真っ黒な海の中に、青白い浪垣に囲まれて、稲妻の下に浮き出た秋津島の姿が、我々の想像理にも一種の神秘感を伴いながら呼び覚まされてくる。これを、人口に膾炙(かいしゃ)された
        不二ひとつうづみ残してわかばかな     蕪 村
 と比較してみれば、両句の本質的差異が、自ずから明らかとなる。
 「不二ひとつ」の方は、写実にも空想にも徹底せず、創作の動機が純粋な詩情に発しないで、理知の操作によっているために、ついに低俗な作品に堕している。

 「浪もてゆへる」は、四方が海なので、白浪をもって垣を結ったようである、の意。
 「秋つしま」は、日本国の別称。神武天皇が、大和国の山上から国見をして「蜻蛉(あきず)のとなめせるがごとし」と言ったという故事からという。

 季語は「稲妻」で秋。

    「すべてを超絶したような高い高い空間で、すべてを超絶したように
     激しい稲妻が閃いた。その瞬間、はるか下界の闇の中に、白浪で
     縁取りされた、小さな島の寄り合いが照らし出された。それが秋津
     島であった」


      残暑いつまで滑り落つ鳥の群     季 己

なまぐさし

2010年08月30日 22時09分14秒 | Weblog
        なまぐさし小葱が上の鮠の腸     芭 蕉

 『笈日記』に、支考がこの句に注目して、「残暑なるべし」と述べたところ、「翁もいとよしとは申されしなり」と伝えている。こうした実景の生々しい把握を通して、残暑の本意に迫ったところに、晩年の芭蕉の「軽み」への展開の足どりをうかがうこともできる。
 『笈日記』には、元禄七年の夏、芭蕉が、京の去来宅(桃花坊)に滞在したとき、弟子たちが寄り集まってよもやま話をしていた際に出来た句で、この句が残暑(秋)の句であると記されている。
 ただし、芭蕉の桃花坊滞在は、夏五、六月の変わり目なので、残暑を詠んだこの句の年代は、元禄六年以前ではないかと思う。

 「なまぐさし」は、素丸の『説叢大全』によれば、『十六夜日記』に
        浦人のしわざにや、隣よりくゆりかかる煙、いとむつかしき
        にほひなれば、「夜の家門(やかど)なまぐさし」といひける
        人のことばも思ひ出でらる」
 と引かれた『白氏文集』によるものかという。
 「小葱(こなぎ)」はミズナギともいい、水田や沼沢に生ずる一年生の水草で、形は水葵に似て小さく、長い柄のある卵形の葉を叢生する。晩夏・初秋のころ、頂に深碧色の花をつける。
 「鮠(はえ)」は、鮎に似た細長い魚で川に棲む。柳の葉に似ているので、柳鮠ともいう。

 季語は「小葱」で秋。実景に即した句であると思われ、鮮やかな感触のある句である。

    「秋に入って、水辺の小葱も花をつけているが、その密生した葉の上に
     釣り捨てられた鮠が、腸(わた)をはみだしてなまぐさい臭いを発して
     いる。それがいかにも残暑のいぶせさを感じさせる」


      湯の里にかがみ女の売る白桃     季 己

生禅

2010年08月29日 21時49分27秒 | Weblog
          ある智識ののたまはく、「生禅大疵の
          基」とかや、いとありがたく覚えて、
        稲妻に悟らぬ人の尊さよ     芭 蕉

 生悟りの人は、自分の半端な悟りに結びつけ、その考えにしばられてかえって事象の真相を見失うことが多い。けれども悟らぬ人は、事象を事象として飾らずに見るので、その本質を感得することができる。その無心が尊い、というのである。
 曲水宛の書簡には、
        「此の辺やぶれかかり候へども、一筋の道に出づる事かたく、
         古き句に言葉のみ荒れて、酒くらひ豆腐くらひなどとののし
         る輩のみに候……」
 と、湖南の連衆の低迷ぶりを嘆く文字に続いて出ているので、大津や膳所あたりの俳人たちの、純粋に俳諧一筋に立ち向かうことのない生半可な態度を嘆いた気持ちを込めているものかと思われる。

 「智識(ちしき)」は、高徳の僧。
 「生禅(なまぜん)」は、生半可な禅。禅を中途半端に学んで悟り顔すること。
 「稲妻」は、秋の夜空に見える閃光で、雷雨に伴った電光のことではない。この雷光が稲を実らせるという信仰があって、秋の季語として定着している。稲光ともいう。

 季語は「稲妻」で秋。稲妻に触れて詠んだものではなく、観念的な作為が主になって使われている。

    「生禅の人は、稲妻を見ても、それをすぐに無常迅速に結びつけて、
     とかく悟り顔をするものである。だが、なまじいそんな悟り顔をする
     人よりも、悟らない人のほうが、かえって尊く思われることだ」


      あざなへる縄さかさまにいなびかり     季 己

聴閑

2010年08月28日 21時43分06秒 | Weblog
          聴 閑
        蓑虫の音を聞きに来よ草の庵     芭 蕉

 前書が、発想の契機をよく物語っている。草の庵の生活も、秋風の立つ頃となるとずいぶん侘びしいものであったろう。閑に居て、そこに自分を見つづけながらも、その閑を共に味わう友が欲しかった。その心の動きを、眼前の蓑虫によって発想したものと思われる。
 蓑虫は、実際は鳴くことはないのであるが、『枕草子』の、
        「みの虫、いとあはれなり。鬼のうみたりければ……
         八月(はづき)ばかりになれば、ちちよ、ちちよと、
         はかなげに鳴く、いみじうあはれなり」
 という文以来、鳴くものとされてきている。
 閑に居て、閑寂そのものに耳を傾ける芭蕉としては、身辺に見出した蓑虫から、閑を聴くことができたのであろう。その思いをそのまま「蓑虫の音(ね)を聞きに来(こ)よ」と、呼びかける体にしたものである。

 貞享四年(1687)秋、深川芭蕉庵で成り、素堂・嵐雪などに示し、さらに翌年、自画賛として用い、土芳に贈った句である。

 「聴閑」は、閑寂さに耳を澄まして聞き入り、それを味わう意。

 季語は「蓑虫」で秋。

    「秋風の中で、あわれに鳴いている蓑虫の音を聞きに、ぜひ、わたしの草庵
     をたずねてください。そして、共に閑寂な気分にひたりましょう」


      蓑虫の寝つかれぬ夜のひとりごと     季 己      

三代

2010年08月27日 22時29分06秒 | Weblog
          兎苓が父の別しょなつかしくしつらひて、
          園中数株の木の実に富めるを
        祖父親孫の栄えや柿蜜柑     芭 蕉

 「兎苓」は「とれい」、「数株」は「すしゅ」、「祖父親」は「おほじおや」と、それぞれ読む。また、「別しょ」の「しょ」は、「野」の下に「土」と書き、「別荘」の意である。元禄四年の作。

 兎苓の招きで、その父の別荘をたずね、兎苓一家の繁栄に対する挨拶として詠んだ句。作品としては、心のはずみが十分生かされるまでには達していないように思われる。

 「兎苓」は伝未詳。「やすやすと出でていざよふ月の雲」の作がある。
 「父」とは、柳瀬可休か、と言われる。『花見車』にその評判が見え、『京羽二重』に「五条御幸町東へ入」とある。琵琶湖のほとり堅田に別荘があったのであろう。

 季語は「柿」・「蜜柑」。柿は秋。蜜柑は現代では冬とされるが、『毛吹草』・『増山井』以下は秋九月とする。柿の実るころ、すでに青い蜜柑も樹に見られるので、色づき熟れた柿と未熟の蜜柑が共に園中にあるところを、この一家の繁栄に思い寄せた発想である。

    「この別荘に招かれて来てみると、祖父、親、その子と、三代にわたって
     栄えているこの家にふさわしく、園内には、柿や蜜柑がたわわに実って
     いる」


       月ほつとあり黙々と真枝の樹     季 己
 

草の花

2010年08月26日 22時48分53秒 | Weblog
        草いろいろおのおの花の手柄かな     芭 蕉

 『笈日記』に、「留別四句」の一つとして載っている。
 花をほめる気持が、実は、送別の人々それぞれの句風のおもしろさを褒めるこころにもなっている。

 「草いろいろ」は『古今集』の、
        みどりなる ひとつ草とぞ 春は見し
          秋はいろいろの 花にぞありける (読人知らず)
 をふまえた表現。
 「花の手柄」は、花を咲かせているという手柄、の意。

 「草の花」を季語として意識した表現で秋。眼前の花をほめることが、比喩的に挨拶になった使い方。

    「こうしてよく見ると、いろいろな草があって、おのおの自分自分の花を
     咲かせ妍を競っている。それが皆ちがっていて一様でないところが、
     それぞれの草の手柄である」


 ――秋は、野山といわず路傍といわず、たくさんの草が花をつける。そのほとんどは、春や夏の花とはちがって、さびしく可憐な花である。その種類は枚挙にいとまないほどで、古くから、千草の花あるいは八千草の花ともいわれている。また、木の花は春、草の花は秋、と言いならわされている……

 午後2時前、室温が40度を超えた。窓は全開してあるが、居られたものではない。外も猛烈に暑い。「岡本真枝 展」に行くつもりであったが、万一のことを考え、クーラーのある居間で昼寝を決め込んだ。連日の睡眠不足のためか、2時間ほど寝てしまった。
 「岡本真枝 展」は、大好評のようで非常にうれしい。
 「草いろいろ」ではないが、作品いろいろで、どれもこれも彼女自身の〈花〉を、彼女自身の表現方法で描いている。これまでの作品は、少々〈独りよがり〉の感があったが、今回の作品を観た限り、完全に抜け出したように思う。
 一例を挙げれば、〈モノのカタチが具体的によく見える〉ようになったことだ。それも、見る人によって、見る人の心によって、さまざまなモノが思い浮かぶようになったのが、うれしい。
 残された会期は、あと二日。おいしいコーヒーをいただくために、いや、澄んだ心で、魂込めた真枝さんの作品を拝見するため、「画廊宮坂」へ行くとするか、二日つづけて……。

      言継げばうなづきゐたり草の花     季 己    

賤(しず)の子

2010年08月25日 22時59分33秒 | Weblog
        賤の子や稲摺りかけて月を見る     芭 蕉

 『鹿島紀行』にある句だが、自筆短冊によるとして、上五「里の子や」の形で出す本もある。
 一体に、『鹿島紀行』の句は、こうした情趣化の傾向をおびている。貞享元年から二年にかけての『野ざらし紀行』の旅は、はげしい探求的な精神が、火花の如くほとばしったものであるが、帰府後の俳諧には、一つの峠を命がけで越えた後の、ほっとしたゆとりがただよっている。それが芭蕉の俳諧に、一脈の余裕を与えてきたのであろう。

 「賤の子や」とあるのと、「里の子や」とあるのとでは気分に相違が出てくる。「賤」は、いやしいこと、身分の低い、の意。したがって、「賤の子」といった場合は、かなり優雅にとりなされた見方であるが、「里の子」といった場合は、田舎の子供の素朴なままの姿が感じられる。
 「稲摺りかけて」は、籾(もみ)を摺(す)りかけて、の意。籾を臼に入れて、籾摺臼の取っ手を握ってごろごろ回しながら摺るのであるが、その手を止めて、の意。

 季語は「月見」で秋。貞享四年八月の作。

    「農家の子が、籾摺をしていたが、ふと籾摺の手を休めて、折からの月を
     眺めていることよ」


 ――『個の地平〈洋画〉』展(日本橋高島屋6階美術画廊)へ行ってきた。
 はっきりとした〈地平〉を持ったアーティストということで、以下の十二人の作家による作品、およそ50点ほどの展覧である。
            〈出品作家〉(敬称略・五十音順)
           安達博文   稲垣考二   井上 悟
           大沼映夫   佐々木豊   島田鮎子
           島田章三   城 康夫   田代甚一郎
           津地威汎   増地保男   宮下 実

 それぞれ〈個の地平〉を持った作家だけに、個性が強くなかなか面白い展覧会である。稲垣考二先生の作品を観たいがために、猛暑の中を出かけたのだ。(これも「天王原のたまご」のおかげ)
 やはり、期待は裏切られなかった。稲垣先生の作品がダントツ、ピカ一。先生の作品の前に立つとことばを失う。芭蕉の「松島やああ松島や松島や」の状態。
 稲垣作品だけで十二分に満足したが、ついでに隣のX展をのぞいてみた。こちらは、斎藤典彦先生の作品がよかった。また、竹内啓さんも進化が感じられ、何故かほっとした。

 三越へ行き、「杜窯会」展を見る。予想通り、手元に置きたいと思うような作品は一点もなし。
 「杜窯会」展は、東京芸大の学部4年生・大学院生・研究生および卒業生による作品展。一昨年は、金大容(キム・デヨン)さんを初め、数名の方の作品に心うたれたが、今年はゼロ。どっと疲れが出た。
 その金大容さんの「粉青面取壺」(大壺)と、コノキ・ミクオ先生のガンダ作品「あーっ」が、いま我が家の玄関に鎮座ましましている。

      月赤し眠りゐる人みな青し     季 己

   ※今日および昨日の句も、「岡本真枝 展」の作品からインスピレーションを得ています。

まこと顔

2010年08月24日 23時06分40秒 | Weblog
          鹿島に詣でる比、根本寺に宿す。
        寺に寝てまこと顔なる月見かな     芭 蕉

 「寺に寝て」が、「まこと顔なる月見」をひきだすところが眼目の発想である。「寺に寝て」を単に原因とすると、この句は理詰めに感じられよう。
 しかし、寺に寝ることが自然に自分の内を顧みさせ、禅の寺らしい雰囲気の中で身が引きしまってゆく。そのために、おのずと禅寺らしい「まこと顔なる月見」になるのである。

 前書の「根本寺」は臨済宗の寺で、鹿島神宮の西方にあり、山号は瑞甕山という。芭蕉は、ここの先代の住職で自分の禅の師である仏頂和尚を訪ねてきたもの。この頃、和尚は付近に隠棲していたらしい。芭蕉は、かつて延宝・天和の交、仏頂和尚が訴訟事件で上府している間に禅を学んだもので、その頃から交わりがあった。
 「まこと顔なる」は、今の語感からいうと、誠らしい顔つきを装うということになるが、そうではなく、おのずから誠の心を覚えて、誠顔になっている意である。
 『鹿島紀行』の本文に、
        「このふもとに根本寺の前(さき)の和尚、今は世をのがれて、
         このところにおはしけるといふを聞きて、尋ね入りて臥しぬ。
         すこぶる人をして深省を発せしむと吟じけむ、しばらく清浄の
         心を得るに似たり」
 とあるが、「人をして深省を発せしむ」というのは、杜甫の「遊竜門奉先寺詩」に、
        「覚メント欲シテ晨鐘ヲ聞ケバ、人ヲシテ深省ヲ発セ令ム」
 とあるのを引いたもので、「まこと顔」は、この、深省を発した心があらわれてきた顔と見なくてはならない。

 季語は「月見」で秋。貞享四年八月の作。

    「寺に宿り、折からのよい月を仰いだが、世塵の中にあって、外物にとらわれ
     がちな心で月見をするのとはちがい、心の底から洗い上げられるような清浄
     な気を感じて、ふだんと違ったまじめな顔になって月を見ることだ」


      うぶすなの杜みゆる窓 月のぼる     季 己

蘭の香

2010年08月23日 22時17分31秒 | Weblog
          蘭の香やてふの翅に薫物す     芭 蕉
 『野ざらし紀行』に、
        「ある茶店に立ち寄りけるに、てふと云ひける女、吾(あ)が名に
         発句(ほく)せよと云ひて、白き絹出だしけるに書き付け侍る」
 とあって出ている。
 『三冊子』には、この句の成立事情が詳しく記されている。それによれば、茶店の先代の主人の妻「つる」に、西山宗因が「葛の葉のおつるのうらみ夜の霜」という句を与えたというので、それを前書にしてこの句を遣わしたものという。

 「翅」は、この句の場合「つばさ」と読む。いわゆる「羽」であるが、それを加工したものは、「赤い羽根」のように「羽根」を使う。「翅」は、昆虫の場合に使う。
 「薫物す」は、種々の香を合わせた煉香を、衣服などにたきしめることをいう。王朝時代の優雅さを感じさせる語である。

 季語は「蘭」で秋。

    「芳香を放つ蘭の花に、秋の蝶が羽を休めている。蘭の芳香が翅に
     しみてゆくそのさまは、あたかも美しい衣装に香を薫きしめている
     ような感じである。あなたはまさに、その蝶にたとえるべき人だ」


 ――天王原の“ンメー”卵が、宅急便で送られてきた。日本画のN先生の奥様からである。
 画廊めぐりには元気が必要。抗ガン剤に負けないよう、元気をつけて下さい、とのことで送って下さったのだ。毎年、N先生の個展を拝見させていただいているだけなのに、こうした温かい励まし。涙の出るほどありがたかった。
 早速、昨日購入したばかりの小鉢に卵を割り、味わいながらゴクッと飲む。思わず「ンメー」。この小鉢は、一昨年の東京芸大大学院「博士展」の際に目をつけた吉田幸子さんの作品。案内状にあった陶箱が気にいっていたので、最終日だから残っていないだろうと思いつつ出かけた。ところがどっこい、ちゃんと待っていてくれたのだ。やはり、縁のあるものは、作品の方から待っていてくれるのだ。小さいけれど、見ているだけで心安らぎ、無になれる。
 その時、同じような小鉢7点に、目が行った。一見、蕎麦猪口にぴったりと思ったが、そこが変人、毎朝食べるプレーンヨーグルトの器に使うために、一つ購入することにした。同じ作家がつくったものだが、手作りだから当然微妙に違う。凝視した結果、一点がことに心にひびいた。が、素知らぬふりをして、「どれがいいか、選んでくれませんか」と吉田さんにお願いした。吉田さんはしばらく見比べて、4点をはじき、この3点が出来がいいです」と。その中に変人の惚れ込んだ作品があった。もちろん、即、お買い上げ。
 今朝は、カップ入りのヨーグルトが残っていたのでそれを食べた。したがって、N先生の奥様から送られた天王原の生卵が、吉田さんの小鉢の使い初めと相成った次第。(吉田幸子さんについては、拙ブログの2009.1.6をご覧下さい)

 処暑とはいえ猛暑の中、元気をつけた変人、早速『岡本真枝展』(銀座「画廊宮坂」)に出かけて行った。これについては後日、記すことにする。今日の一句は、岡本さんの作品からインスピレーション得て……

      碑(いしぶみ)の歳月かたる秋の水     季 己     

唐辛子

2010年08月22日 23時08分18秒 | Weblog
          三州烏巣にあひ給ひて
        かくさぬぞ宿は菜汁に唐辛子     芭 蕉

 「宿」は烏巣(うそう)の家である。「烏巣」は三州つまり三河の医師。加藤氏。当時20歳くらいかという。烏巣のとりつくろわず、自ら恃(たの)む生活に共鳴して、それをほめる気持を寄せたものである。

 「かくさぬぞ」の「く」を「ゝ」とみて、「かゝさぬぞ」とする説もあるが、やはり「隠さぬぞ」ととった方が自然である。

 季語は「唐辛子」で秋。唐辛子は菜汁とともに、簡素な生活をあらわすものとして用いられている。

    「世間並みの栄華を求めぬこの宿は、菜汁に唐辛子を添えただけという
     簡素な生活を、人の目から隠そうともしないでいる。まことにゆかしい
     ことだ」


      電柱も絡めとつたり凌霄花     季 己

御遷宮

2010年08月21日 23時03分33秒 | Weblog
          内宮はことおさまり、外宮は遷宮
          拝み奉りて
        たふとさに皆押しあひぬ御遷宮     芭 蕉

 内宮(ないくう)の遷宮に間に合わなかったが、外宮(げくう)の遷宮には間に合って、ようやくその思いを果たして詠んだのがこの句である。
 芭蕉はかつて、
        何の木の花とは知らず匂ひかな
 と詠んでいるが、それは、ひとりつつしむ心であった。今度の作は、多くの人々の中に身を置いて、それと一つになりながら味わっているところに余裕が感じられる。元禄二年(1689)九月十三日作。

 「御遷宮(ごせんぐう)」は、伊勢神宮の式年遷宮のこと。伊勢神宮の場合は、前遷宮年を第一年とする二十年目に、旧社殿の隣接敷地で行なうのを、奈良朝以来の定めとしていた。中世末の中絶期を経て、慶長十四年(1609)の遷宮以後は、二十一年目に行なわれるようになる。これが式年遷宮で、ほかに臨時の遷宮もあった。
 また、初めは内宮(皇太神宮)造替えの二年後に外宮(豊受大神宮)を遷したが、後には同時に行なわれるようになった。日取りも、儀式の中心となる御霊遷奉が、内宮は九月十六日夜、外宮は同十五日夜を定めとしていたが、後には、あらかじめ吉日を卜(ぼく)して定めるようになった。
 この年の場合は、内宮は九月十日(陽暦・十月二十二日)、外宮は九月十三日であった。芭蕉の山田着は九月十二日、前書にもあるように、内宮には間に合わず外宮の遷宮を拝したもの。

 季語は「(伊勢)御遷宮」で秋季。御遷宮を拝する人に焦点を合わせた発想。季語に用いた例としては古い。ちなみに、次回「第62回式年遷宮」は平成25年。平成17年からそのための諸祭・行事が進行中である。

    「伊勢の御遷宮の尊さを目にしようとして、あふれるように集まった人々が、
     皆、押し合いながら拝したことである」


      石たたきうれしきときは石たたく     季 己

心敬さんの声

2010年08月20日 20時24分09秒 | Weblog
 『ささめごと』の、「昔と中ごろの連歌」の項を読むたびに、心敬さんの声が聞こえてきます。

        俳句は、自然と自分とのかかわりを詠うもの。季語の心、つまり、
       季感を忘れて、ただいたずらに美辞麗句を並べ立てたり、しゃれた
       表現をしようなどと考えてはだめなの。季語は飾り物ではないのじゃ。
       季語のそなえ持っている季感に、おのれ自身の心を通わせ、そして
       心を季感に沈潜し、おのれの周辺を見渡すのだ。
        そうして、心にうったえてくるものや、おのれの実感を季語と結び
       つけ、具体的に表現する。観念語を使ったり、こけおどし的なことば
       を使うと、句が死んでしまうの。実感として季節を感じ、一字一句を
       おろそかにせず、簡潔に表現することが大切なのじゃ。
        つまりだな、俳句は、自分の心情や感動を、具体的なモノ(季題)
       に託して、うたいあげるものなの。

        連歌では「捨て所」が急所であったが、俳句では「省略・単純化」が
       命なの。ただ、捨てて、捨てて、すべて切り捨てた結果としての単純で
       なければいけないんだな。
        「いいおおせて何かある」。省略がきけばきくほど、読む者の想像が
       広がってくるのじゃよ。だが、省略された部分が、ほのかに思い浮かぶ
       ような省略でなければならない。ここが難しいんだな。

        もう一つ教えておこう。「俳句は愛情」。これを忘れてはいけないよ。
       この世に存在するすべてのものに、濃やかな愛情をもって接すること。
       そして何よりも、自分自身に対しても愛情を持つこと。
        これらが名句の特色、つまりは、俳句を作るコツなのじゃよ。


 ――好中球が2週間で、750から2050にまで回復した。
 抗ガン剤から解放されたこの2週間、連日の猛暑にかかわらず、体調は絶好調。だが外出は?
 この抗ガン剤は、直射日光に当たると、皮膚が黒ずんでくるので、外出はなるべく控えるようにしている。美術館・博物館はもちろん、画廊めぐりも……、もっともこの時期、夏季休廊が多いが。
 今朝、9時20分に家を出て、帰宅したのが午後6時10分。長~い“待ち”の一日であった。
 都バスを乗り継いでの通院だが、渋滞で、チョロッと動いたかと思うと、またしばらく動かない。やっと病院に着くと、患者が多くて、診察待ち、抗ガン剤の調剤待ち。おまけに点滴の落ちる速度が遅く、いつもより1時間ほど長くかかった。もう一つおまけに、主治医が、持ち帰りの薬の入力を忘れたため、また30分ほど待った。そして会計は、9万7920円也。
 絶好調の身体に、一日かけて抗ガン剤治療を受け、体調を不調にする。にっくき癌を押さえ込むためとはいえ、これからの2週間を考えると……。だが、来週あたりから夏季休廊も明け、「美術の秋」のシーズンに入る。
 そうだ、大好きな岡本真枝さんの個展が、23日(月)から「画廊 宮坂」で始まる。これを一本目の電信柱にすることにしよう。

      奈良に見しひとひらの雲 秋はじめ     季 己

俳句の日

2010年08月19日 21時50分55秒 | Weblog
 8月19日は俳句の日。
 その俳句の日の前日、俳壇の第一人者で、読売俳壇選者を37年間務めた森澄雄さんが亡くなった。直接の師系ではないが、敬愛する俳人のおひとりであった。いつも古典と向き合う一方、時代を超えた格調高い句を詠んでこられた。ここに、謹んで哀悼の意を表する。

 芭蕉の句をネタに、このブログを書いているが、わたしの目指す俳句は、芭蕉ではなく心敬。では何故……?
 大学・大学院とご指導を受けたのが、芭蕉研究の第一人者、井本農一先生。
 ある事情から、芭蕉の全句に解説と口語訳をつけることを余儀なくされた。今でも手元に残るその資料をもとに、ブログを書いている、というのが種明かし。ただ、チェックを入れていないので、同じ句が重複して登場することもあるので、どうぞお許しを。

 ところで、芭蕉の『笈の小文』に、
        「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、
         利休が茶における、その貫道するものは一なり」
 とあるように、芭蕉は、連歌師の宗祇を敬愛していた。そして、この宗祇の連歌の師が心敬なのである。芭蕉は、宗祇を敬愛していたが、その師である心敬については一言も触れていない。しかし芭蕉は、心敬の精神を学んでいたにちがいない。
 心敬の著『ささめごと』には、芭蕉が説いた教えと少しも変わらぬ精神が流れている。そして、心敬の連歌論と芭蕉の俳諧論の間には、密接な関係が認められるのである。(明日につづく)


      落書のチョークのかすれ秋暑し     季 己

朝顔

2010年08月18日 22時24分16秒 | Weblog
          角が蓼蛍の句に和す
        朝顔に我は飯くふ男かな     芭 蕉

 「角が蓼蛍の句」とは、『虚栗』所収、其角の次の句をさす。
        草の戸に我は蓼くふ蛍かな
 其角のこの句は、「蓼食う虫もすきずき」という諺(ことわざ)をふまえたもので、
        「自分は世俗を離れて草庵に住み、世の人の好まぬ蓼を好んで
         食うような、そして、昼よりも夜を楽しむような人間である」
 と、世俗になずまぬことを詠んだものである。
 したがって、この「朝顔」には、朝のすがすがしい顔の意が、夜の蛍に対して込められているのではないかと思う。このころの句風として、これくらいの興じ方はあって決して不思議ではないからである。
 淡々と自分の境涯を叙し、唱和とも独白とも見うる、独自の体を備えた句となっている。「我は……男かな」と呼応する詠みぶりも妙味がある。
 『去来抄』に、
        「あくまで巧みたる句の答なり。句上に事なし。こたゆる処に趣あり」
 と、いっているのは急所をついてうまく当たっている。つまり、句自身としては変わったところはないが、其角の蓼蛍の句に、五・七・五のそれぞれが対応しつつ、唱和体を完成しているというところに、格別の趣がある、というのである。
 寓意を談林的なところにとることをせず、自分の日常生活をその姿において生かそうとしているのは、一歩蕉風に踏み込んだ点である。

 季語は「朝顔」で秋。天和二年以前の作と思われるので、「芭蕉」ではなく、「桃青」であったかも知れない。ちなみに、天和二年(1682)三月、千春編『武蔵曲』入集の句に、初めて「芭蕉」の俳号を見る。この年の十二月二十八日、駒込大円寺に発した大火、いわゆる八百屋お七の火事で、深川の芭蕉庵は類焼した。今風に言えば、文京区駒込に起きた火災が、江東区深川まで燃え広がる大火になったということだ。

    「其角は草の戸に世を逃れ、自分は蓼食う蛍のごとき出世間的な人間だと
     自負しているが、私は世の常の人のごとく、夜はよく眠り、朝は早く起きて、
     早朝の朝顔に向かって飯を食う平凡な男である」


      朝顔の庭ラジオ体操の庭     季 己

庭一杯の

2010年08月17日 22時11分54秒 | Weblog
        此の寺は庭一杯の芭蕉かな     芭 蕉

 みごとに広げた芭蕉の葉を、「庭一杯の」と把握したところが眼目である。即興的な調子が感じられる。取り立てて言うほどの作ではないが、やや弾んだ気持は出ている。
 『蕉翁句集』に、元禄五年として収める。

 季語は「芭蕉」で秋。中国原産で、バショウ科の多年草。高さ五メートルにも及び、葉鞘は互いに抱いて直立。葉は鮮緑色の楕円形で、長さは二メートルほど。長柄を持ち、支脈に沿って裂けやすい。秋に巨大な花穂を出し、帯黄色の単性花を段階状に輪生する。
 松尾芭蕉が、「その性 風雨に傷みやすきを愛す」といって、自らを芭蕉と号したことは、よく知られている。その松尾芭蕉が、「芭蕉」を即興風にとらえたもの。

    「さして広くもないこの寺の庭ではあるが、芭蕉が、いまそれだけで庭一杯
     になるほどまでに葉を広げ、みごとな眺めを見せていることだ」


      芭蕉葉や風も地熱をかつさらふ     季 己