壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

『去来抄』12 振舞や

2011年11月30日 20時09分39秒 | Weblog
        振舞や下座になほる去年の雛     去 来

 この句は、私に思うところがあって作ったものである。
 上五を、「古ゑぼし・紙衣(かみぎぬ)や」などとすれば、去年の雛が古くなったことを、さらに念押ししているようで、言い過ぎになる。
 この季節の自然の景物を置いたのでは、景は見えても、下にこめた自分の気持が伝わらない。
 そうかといって、「あさましや・口をしや」のたぐいでは、句意が見え見えで、句が浅くなってしまうので、今の「振舞や」を冠に置いて、先師の評を求めたところ、
 先師は「上の五文字に深く心をこめようとしては、信徳の〈人の代や〉の句みたいになってしまうな。十分とはいえないが、〈振舞や〉で我慢しよう」といわれた。


      痛む吾が腰に小春の日和かな     季 己

生ける験あり

2011年11月29日 23時04分32秒 | Weblog
                海犬養岡麿
        御民われ 生ける験あり 天地の
          栄ゆる時に 遭へらく念へば 
(『万葉集』巻六)

 天平六年、海犬養岡麿(あまのいぬかいのおかまろ)が、詔(みことのり)に応(こた)えまつった歌である。一首の意は、
        「天皇の御民(みたみ)である私らは、この天地(あめつち)と共に、
         栄える盛大の御世に遭遇して、何という生き甲斐のあることで
         あろう」
というのだ。
 「験(しるし)」は、効験、結果、甲斐などの意。
 一首は応召歌であるから、謹んで歌い、荘厳の気を漲らせている。そして、このように思想的大観的に歌うのは、この時代の歌にはよくあることで、その思想を統一して、一首の声調を全うするだけの力量が、まだこの時代の歌人にはあった。
 それが万葉を離れると、もはやその力量と熱意が無くなってしまって、弱々しい歌のみを辛うじて作るにとどまる状態となった。
 この歌は、万葉としては後期に属するのだが、聖武の盛世にあって、歌人たちも競い勉めたために、人麿調の復活ともなり、このような歌が作られるに至ったのであろう。


      ポケットより宝くじ出す冬帽子     季 己

過ぎて来にける

2011年11月28日 22時59分51秒 | Weblog
                 柿本人麿
        青駒の 足掻を速み 雲居にぞ
          妹があたりを 過ぎて来にける 
(『万葉集』巻二)

 人麿が、石見から大和へのぼって来る時の歌(長歌の反歌)である。
 「青駒(あおこま)」は、いわゆる青毛の馬で、黒に青みを帯びたもの、大体、黒馬と思ってよい。
 「足掻(あがき)を速み」は、駈けるのが速いので、の意。
 一首の意は、
        「妻のいるあたりをもっと見たいのだが、自分の乗っている
         青馬の駈けるのが速いので、妻のいるはずの里も、いつか
         空遠く隔たってしまった」
というのである。

 内容がこれだけだが、歌柄が大きく、人麿的声調を遺憾なく発揮したものである。荘重の気に打たれるといった声調である。そこにおのずから人麿的な一つの類型も連想されるのだが、人麿は細々したことを描写せずに、真率に真心こめて歌うのがその特徴だから、内容の単純化も行なわれるのである。「雲居(くもい)にぞ」といって、「過ぎて来にけり」と止めたのは実にうまい。


      日めくりをめくればふつと隙間風     季 己

見し人ぞ亡き

2011年11月27日 20時26分09秒 | Weblog
                大伴旅人
        吾妹子が 見し鞆の浦の 室の木は
          常世にあれど 見し人ぞ亡き  (『万葉集』巻三)

 太宰帥(だざいのそち)大伴旅人が、天平二年十二月、大納言になったので帰京途上、備後(びんご)鞆の浦を過ぎて詠んだ三首中の一首である。
 「室の木」は松杉科の常緑高木、杜松であろう。当時、鞆の浦には室の木の大樹があって、人目を引いたものとみえる。一首の意は、
        「太宰府に赴任する時には、妻も一緒に見た、鞆の浦の室の木は、
         今も少しも変わりはないが、このたび帰京しようとしてここを通る
         時には、妻はもうこの世にいない」
というので、「吾妹子(わぎもこ)」と「見し人」とは同一人である。妻・吾妹子の意味に「人」を用いている。
 旅人の歌は明快で、「見し人ぞ亡き」に詠嘆がこもっていて、感慨深い歌である。


      照紅葉 思ひつめたる歩を重ね    季 己 


 ――紫陽花寺として有名な本土寺の紅葉を、Mさんご夫妻のご厚意で、久しぶりに見ることが出来た。在職中は毎年のように、本土寺の紅葉を見たものだった。もちろん、有料の庭園には入らず、無料の境内からではあるが。退職してからは一度も行っていない。
 本土寺の紅葉は、例年「勤労感謝の日」ごろが見頃であるのだが、今年は今日が最盛期のように思えた。Mさんご夫妻のお心遣いが何より嬉しい。
 庭園には、松や杉、孟宗竹の竹林もある。それなのに、人はなぜ紅葉や黄葉しか写真に撮らないのだろう。それも、同じ樹を同じ方向から大勢で。撮れた写真は、俳句でいえば、類句・類想でボツ。
 いま、腸の具合が悪く、常に便意を催すため、かなりの仏頂面をしていたので、Mさんご夫妻と同行のEさんには不快な思いをさせてしまったのでは、と案じている。
 本土寺の紅葉もよかったが、Mさん宅に所狭しと飾られた絵画の中の一枚、小嶋悠司の作品が忘れられない。
      饒舌の紅葉 寡黙の杉と松     季 己

見ゆとふものを

2011年11月26日 22時20分44秒 | Weblog
                 笠 女 郎
        陸奥の 真野の草原 遠けども
          面影にして 見ゆとふものを (『万葉集』巻三)

 笠女郎(かさのいらつめ)が、大伴家持(おおとものやかもち)に贈った三首の一つである。
 「真野」は、磐城相馬郡真野村あたりの原野であろう、といわれている。
 一首の意は、
        「陸奥の真野の草原(かやはら)はあんなに遠くとも、面影に
         見えてくるというではありませぬか、それにあなたはちっと
         もお見えになりませぬ」
というのだが、一説には、「陸奥の真野の草原」までは「遠く」に続く序詞で、
        「こうしてあなたに遠く離れておりましても、あなたが眼前に
         浮かんでまいります。私の心持ちがお分かりになるでしょう」
と強めたのだという。
 「見ゆとふものを」は、「見えるというものを」で、人が一般に言うような言い方をして確かめている。
 女郎(いらつめ)がまだ若い家持にうったえる気持で甘えているところがある。万葉末期の細みを帯びた調子だが、そういう中にあっての佳作であろうか。


      甲斐駒を望み大根の天日干し     季 己
       

『去来抄』11 続・君が春

2011年11月25日 15時07分25秒 | Weblog
        君が春蚊屋はもよぎに極りぬ     越 人

 ――電子蚊取りが普及してから、めっきり蚊帳を見なくなった。「かや」は、今は「蚊帳」と書くことが多いが、この字は本来「かちょう」と読んだ。だから「かや」のことを「かちょう」ともいう。「蚊屋」は「かや」と読み、「蚊帳」と同じ。
 蚊屋は、『日本書紀』や『風土記』の時代から使われ、一般に普及したのが江戸時代。生地も絹から麻になり、色も水色であったのが、萌黄色に替わったという。

 「もよぎ」は「萌葱」、つまり葱(ねぎ)の萌え出たときの色で、蚊屋がこの色に決まっていて変わらないことを「もよぎに極りぬ」といったのだ。
 この句について、芭蕉は去来に言い聞かせているのだが、その内容は「発句とは何か」で、今のわれわれにも多いに勉強になる。

 『去来抄』中の芭蕉句「辛崎の松は花より朧にて」の条で、発句の条件の一つとして「即興感偶」性が確認できた。「即興感偶」とは簡単に言えば、その場で心に感じたことをそのまま詠むこと、ということだ。間違っても、見たままを詠んではならない。見たまま詠んだものは、説明・報告ということである。
 発句のもう一つの条件が、この条から知ることができる。「句は落付かざれば真の発句(ほく)にあらず」という芭蕉自身の言葉がそれである。
 芭蕉は、発句のもう一つの条件として「落ちつき」を指摘している。ところが、どの俳論書にも「落ちつき」なる俳論用語は、見当たらない。ということは、この条から推察するほかない。変人は、「情感のこもった安定した句」と、一応、解している。

 また、芭蕉はこの条で、「重み出来(いでき)たり」・「心おもく、句きれいならず」とも述べている。「重み」・「重くれ」は、この時期の芭蕉の、句の評価基準でもあった。句が堅苦しくなったり、妙にごたごたしたもの、それが「重み」。そうなった状態を「重くれる」ともいう。これを嫌ったのが、この当時の芭蕉なのだ。
 一種の思わせぶり、見え見えの計らい、技巧をもてあそんだもの、情感のこもらぬ理屈の句、これらはみな「重くれ」た句なのである。
 芭蕉の目指していた境地、それは、淡泊な中に無限の滋味をたたえた「かるみ」の境地であった。


      ウインドーの紅葉散ること許されず     季 己

『去来抄』11 君が春

2011年11月24日 23時38分26秒 | Weblog
        君が春蚊屋はもよぎに極りぬ     越 人

 先師が私に語られるには、
 「句というものは、落ちつきがなければ真の発句とは言えない。越人の句は、もはや落ちついたと思っていたが、この句を見ると、また重みが出てきた。
 この句は、蚊屋はもよぎに極りぬ、というだけで十分なのだ。上五に、月影や・朝朗(あさぼらけ)などと置いて、蚊屋を詠んだ発句とするがよい。それをさらに、萌黄色の変わらないことを、君が代の変わらないことに結びつけて歳旦の句としたので、心が重く、句もさらりときれいにならなかったのだ。
 去来よ、お前の句もすでに落ちつきを得ている点ではわしは安心しているが、その句境にいつまでも安住してしまってはいけないよ」
と、いうことであった。


      回文の談志が死んだ日向ぼこ     季 己

新藁

2011年11月23日 23時00分18秒 | Weblog
        新藁の出初めて早き時雨かな     芭 蕉

 伊賀は山中の土地であるから、時雨も早い。稲刈が終わると、今年の新藁が出初める。それと同時に時雨がやってくる。その感じが確かに把握されている。新藁の真新しい匂いと、時雨の冷え冷えとした感じとが、伊賀の山国の感をしみじみと湛えている。
 伊賀の季節のあわただしさ侘びしさをかみしめ、故郷のそれとして懐かしむ心のさまである。

 「新藁」は、その年の稲から得られた藁をいい、秋の季語。「今年藁」ともいう。これが季語として働く。「新藁」は、芭蕉の使いはじめた言葉のようである。
 「早き時雨」は、いちはやく暮秋のうちにおとずれた時雨(秋時雨)をいったもの。「時雨」そのものは、もともと冬の季語である。

    「この伊賀の山中では、稲刈が終わり、新藁が出はじめると、早くも時雨が
     やってくる。まことにあわただしい季節の移りかわりである」


      陀羅尼助こぼれ下町しぐるるよ     季 己

『去来抄』10 続・面梶よ

2011年11月22日 22時32分09秒 | Weblog
        面梶よ明石のとまり時鳥     野 水

 ――解説に入る前に、お断りというか、注意しておきたいことがある。「凩の荷けい」として一躍有名になった〈荷けい〉が自ら編んだ『曠野後集(あらのこうしゅう)』に、一句を
        面櫂(おもかじ)やあかしの泊り郭公(ほととぎす)
の句形で収録している。『去来抄』で作者を〈野水〉としているのは、去来の記憶違いであろう。
 ただ、このエピソードの眼目は、着眼点の模倣、故意でない場合は類似、つまり等類ということに関してである。今日で言う類句・類想である。したがって、そのことを中心に解説をする。

 ――「面梶」は船のへさきを右へ向ける梶の取り方なので、一句の意は、
    「船が明石の港へ入ろうとするとき、時鳥が鳴いた。船頭よ、時鳥の
     鳴いたほうへ面梶をとってくれ」
ということであろう。
 この句を『猿蓑』に入れるか、入れないかが問題になり、去来は強硬に反対した。その理由は、先師・芭蕉が『おくのほそ道』の旅で詠んだ、
        野を横に馬引きむけよほととぎす
という句とそっくりであるから、というのだ。
 類句・類想ということは、今でもよく問題になる。

        野を横に馬引きむけよほととぎす
        面梶よ明石のとまり時鳥
 さて、この二句を比べて、あなたは類句と断定しますか?
 どちらも、ほととぎすが鋭く鳴いてさっと渡る一瞬をとらえている。芭蕉の句は、馬に乗っていて馬子に呼びかけたもの。「面梶よ」は、船頭に、ほととぎすの行った方に舵を取ってくれよ、と呼びかけたもの。
 どちらも少々、格好をつけたところが感じられるが、このような表現は、和歌以来、ほととぎすを賞美するときの、伝統的な手法なのである。
 たしかに、馬と船との違いはあっても、ほととぎすの飛んでいった方へ向けよ、と間髪を入れず命じる、という骨組みは同じである。いわゆる同工異曲。去来はそこを問題にしたのだ。
 芭蕉は、パターンは似ているが、ほととぎすを聞く場面が違うし、明石や船が出てきて別の風情がうまれている点がよい、という考えだったようだ。

 もし去来のような観点から類句を云々したら、おそらく、一瞬に鳴いて渡るというほととぎすの本意をとらえて詠んだ句のほとんどは、類句ということになりかねない。先行の句が多くなればなるほど、こうした問題は避けられない。
 『猿蓑』の撰では、類句を除くということを必要以上に厳密に行なっていたように感じられる。『猿蓑』に可能なかぎり良句を収録したいというだけでなく、重複や単調をさけ、一集としての体裁を整える、という全体性への配慮もあったと思う。


     竹に干す紺の手ぬぐひ一葉忌     季 己

       

『去来抄』10 面梶よ

2011年11月21日 22時36分56秒 | Weblog
        面梶よ明石のとまり時鳥     野 水

 『猿蓑』の撰のとき、
 私は「この句は先師(芭蕉)の、野を横に馬引きむけよほととぎす、と同じような句です。だから、この集に入れるべきではないでしょう」といった。
 先師は「明石という土地で、時鳥を詠んだのはよいではないか」といわれた。
 私は「明石で時鳥を詠むよさは存じません。ただ、この句は先師の句の馬を、舟に取り替えただけです。作者の創意による手柄はありません」と主張した。
 先師は「なるほど、句の創意工夫という点では、わしの句から一歩も出ていない。ただ、明石という土地を見出したのを取り柄に、まあ入れてもいいのではないかい。しかし、それは撰者であるお前たちふたりの考えに任せよう」といわれた。
 それで、ついにこの句を除くことにした。


      喜寿米寿まで生きたくて冬日向     季 己    

凝視

2011年11月20日 20時56分00秒 | Weblog
          旧里の道すがら
        しぐるるや田のあら株の黒むほど     芭 蕉

 「黒む」という対象の凝視と、それによる把握の仕方に、新鮮なものを感じる。自然のわびしさの中に、芭蕉のわびしさが滲透してなった句といえよう。俳句では、「凝視」と「対象と一体となる」ことが大切だと思う。

 「田のあら株」は、「荒株」ともとれるが、刈ったばかりの「新株」のほうがおだやかであろう。
 「黒む」は、雨のために腐って黒ずむことをいう。

 季語は「しぐる」で冬。時雨(しぐれ)そのものの中に入り込んでゆく態度が鮮やかである。

    「時雨がしきりに刈田の上に降りかかってくる。刈ったばかりの新しい株も
     たちまち腐って、黒ずんでくるほどだ」


      うめもどき親鸞像の翳りゐる     季 己

昼もかなしけ

2011年11月19日 22時48分00秒 | Weblog
                   防 人
        筑波嶺の さゆるの花の ゆ床にも
          かなしけ妹ぞ 昼もかなしけ  
(『万葉集』巻二十)

 常陸那賀郡、上丁、大舎人部千文(おおとねりべのちぶみ)の作である。
 「さゆる」は「小百合(さゆり)」の、「ゆ床」は「夜床(よどこ)」の訛。また、「かなしけ」は、「かなしき」の訛である。
 「よどこ」をユドコと訛ったから、「ゆる」のユに連続させて序詞とした。しかし、「筑波嶺の小百合の花の」までは、ただの空想ではなく、郷土での実際の見聞を元としたのが珍しい。
 一首の意は、
      「筑波の山の百合の花のごとく、夜の床でも可愛い妻だが、昼日中でも
       可愛くて忘れられない」
というので、その言い方がいかにも素朴直截(ちょくせつ)で、愛誦するに堪えるべきものである。この言い方は、巻十四の東歌に見るような民謡風なものだから、あるいは、そういう既にあったものを書き記して通告したとも取れるが、もし、この千文という者が作ったとすると、東歌なども東国の人々によって作られたことが分かり、興味深い。


      冬桜あたりありあり淡きかな     季 己

父母を置きて

2011年11月18日 22時52分58秒 | Weblog
                          防 人
        大君の 命(みこと)かしこみ 磯に触(ふ)り
          海の原(うのはら)わたる 父母を置きて 
(『万葉集』巻二十)

 これも防人の歌で、助丁(すけのよぼろ)、丈部造人麿(はせつかべのみやつこひとまろ)という者が作った。助丁は、馬丁や園丁などの補助をした、召使いの男の意だと思う。
 一首は、
      「天皇の命令を恐れつつしみ、船を何度も岩礁に打ち当て、あぶない
       思いをし、浪荒く立つ海原をも渡って防人に行く。父も母もみな国元
       に残して」
というのであるが、かしこみ、触り、わたる、置きて、というぐあいにやや小きざみになっているのは、作歌的修練がまだ足りないからである。
 しかし、この歌では、「磯に触り」という語と、「父母を置きて」という語に心ひかれる。この男は、妻のことよりも「父母」のことが、第一に身に応えたのであっただろう。


      聞こえくる「瀬戸の花嫁」冬の空     季 己 

我が妻も画に

2011年11月17日 22時44分22秒 | Weblog
                      防 人
        我が妻も 画にかきとらむ いつまもが
          旅行く我(あれ)は 見つつしぬばむ 
(『万葉集』巻二十)

 天平勝宝七年二月、坂東(ばんどう)諸国の防人(さきもり)を筑紫に派遣して、先に行っていた防人と交代させた。その時、防人たちが歌を作ったのが一群となって、巻二十に集録されている。
 この歌は長下郡、物部古麿という者の作ったものである。一首は、
      「自分の妻の姿をも、画に描いて持ってゆく、その描く暇(いとま)が
       欲しいものだ。はるばると辺土の防備に行く自分は、その画を見て、
       妻のことを思い出し、しのぼう」
というので、歌は平凡であるが、「我が妻も画にかきとらむ」という意向が珍しくもあり、人間自然の意向でもある。

 いま、東京銀座の「画廊宮坂」で、【鈴木正二 展】が行なわれている。今日じっくりと観せていただき、ちょうど会場にいらした鈴木先生の奥様ともお話をした。
 その時ふっと、この歌を思い出したので、ここに書き留めておく次第……。


      ゆりかもめ真昼の川の睡りをる     季 己



天平感宝元年

2011年11月16日 20時56分51秒 | Weblog
                      大伴家持
        この見ゆる 雲ほびこりて との曇り
          雨も降らぬか 心足(こころたら)ひに
 (『万葉集』巻十八)

 天平感宝という時代は、実に短い。西暦749年4月14日から749年7月2日までである。
 その天平感宝元年閏五月六日以来、旱(ひでり)となって百姓たちが困っていた。六月一日にやっと雨雲の気を見たので、その夕方近く、家持は雨乞いの歌を作った。
 これはその反歌である。長歌の末段を独立させたような反歌であるが、長歌の無駄が省けて、このほうが遙かによい。

 「この見ゆる」の「この」は、「彼の」、「あの」という意である。
 「ほびこり」は「はびこり」と同じ。
 「との曇り」は、雲のたなびき曇ること。
 「心足らひに」は、心に満足するほどに、思い切りということであろう。

    「いま見えているあの雲がはびこって、雨が降らないものであろうか。
     心満ち足りるほどに」

 一首は大きくゆらぐ波動的声調を持ち、また海神にも迫るほどの強さがあって、家持の人麿から学んだ結果は、期せずして、このあたりにあらわれている。


     掘り当てててのひらのこの芋菩薩     季 己