壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

めがね

2011年05月09日 20時43分12秒 | Weblog
        ゆく春や眼にあはぬめがねうしなひぬ     蕪 村

 「ゆく春」といえば、
        ゆく春やおもたき琵琶の抱ごころ
 の方が有名である。
 が、掲句は、身辺あるいは眼前に久しく存在していたものが、どこかへ姿を消してしまうことに、蕪村は、春が過ぎ去ってしまうはかなさの情を託しているのである。
 また、蕪村の連句の中にも、
        合はぬ眼鏡のおろか也けり
 の句があって、それほど愛着を感じていた品物ではないが、長く所持してきたために、いま紛失したとなると、それ相応の物足らなさを感じる。
 それを、春の行くことを軽くあきらめつつもあきらめきれない気持に通わしたのであろう。
 ただ、なぜこれが「眼にあはぬめがね」でなければならないかは、厳密には論理を超越している。これもまた、直観を主とする「意味のない意味」に属する。いかにも蕪村は「近代の詩人」であることを、思わずにはいられない句の一つである。

 季語は「ゆく春」で春。

    「もう春が過ぎ去ろうとする頃、ふと眼鏡がなくなってしまったことに気が
     ついた。度の合わない眼鏡だったので、それほど惜しいわけではない
     はずなのだが、やはりなんだかはかないような気持がした」


      ゆく春の彩をかさねて千羽鶴     季 己