壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

桃の花

2008年03月31日 23時45分23秒 | Weblog
 上野公園で、千円で買った“照手桃”が、そろそろ見頃になってきた。

  三月三日の雛祭を桃の節句というが、それならやはり、陰暦の三月三日でなければ、実感が伴わない。こんなことに気づいたのも、千円のおかげだ。
 氏神様の「すさのお神社」の桃の花も、今が満開で、《桃まつり》が行なわれている。

 春に先がけて咲く梅、春たけなわに開く桃、過ぎ行く春と共に散る桜。同じくバラ科に属する木の花であるが、それぞれに異なった味わいを持っている。
 ただ桃の花は、梅や桜にくらべて、ぽってりと肥えた感じのする花びらと濃厚な色彩とから、やや中国趣味に感じられる。その上、グルメ時代の近頃では、その果実のおいしさゆえに、花を愛でる人は少なくなったようだ。まさに「花より果実」である。

 イザナギノ尊がイザナミノ尊の怒りに触れて、黄泉の国から地上へ逃げ帰ったとき、黄泉平坂(よもつひらさか)で、追手の鬼に投げつけたのが三個の桃だった。
 中国の古い伝説に見える、三千年に一度実る西王母の桃などというのも、桃の実のおいしさから出た説話であろう。

 しかし、桃の花の燃え立つような美しさも、決して捨てたものではない。
 古代中国の民謡を集めた『詩経』には、
     桃ノ夭夭タル
     灼灼タル其ノ華
 と、輝くような花の美しさを讃えている。
 また、『万葉集』巻十九、大伴家持の、
     春の苑 くれなゐにほふ 桃の花
       下照る道に 出で立つ少女(おとめ)
 の有名な一首は、豪華な春の眺めを描いた絵のようであるが、まるで気分が乗っていない気がしてならない。


      明るくて暗くて雨の桃の花     季 己 

本物に触れさせる

2008年03月30日 21時52分19秒 | Weblog
 『東山魁夷展』の会場で、すてきな親娘の会話を聞いた。
 3歳ぐらいの女の子と、その若い母親との会話である。
 
 「○○ちゃん、どの絵がいちばん好き?」
 「○○、これ」と、《潮騒(スケッチ)》を指差し、
 「ママは?」と尋ねる。
 「ママは、これが好き」と、《松涛(スケッチ)》を指差す。
 すかさず女の子は、「○○、これも好き。ママと同じでよかったね」
 「そう、同じでよかったね」

 たったこれだけの会話であるが、胸が熱くなった。
 「なんと幸せなお嬢さんだろう。こんな幼いときから、すばらしい母親と、“ほんまもの”の絵を見られるなんて」と、思わずうれしくなった。

 ちょうど30年、幼稚園にかかわってきたが、常に、“ほんもの”に触れさせるよう、努めてきた。
 幼稚園の玄関、階段の踊り場、わたしの部屋には、“ほんもの”の絵や版画を飾り、複製写真などは掲げたことはない。すべて私のコレクションであるが……。
 「自分のコレクションを、ただ見せびらかしているだけさ」という声も聞こえてきたが、いっさい意に介しなかった。
 また、音楽に関しても、某オーケストラにお願いし、幼稚園でカルテットの演奏会を開いたこともある。
 園児たちの“おゆうぎ会”も、公共の大ホールを借りて、毎年、行なってきた。
 これらはすべて、「幼いときこそ、本物に触れて欲しい」という、私の信念からやったものだ。
 
 だから、前述の親娘の会話を聞いたときは、涙が出るほどうれしかったのである。
 「どの絵がいちばん好き?」と、尋ねた母親の聡明なこと!
 小学生ぐらいの子の母親はよく、知識を教え込もうとする。しかし、これは止めた方がいい。よけいなお節介ではあるが。

 心は、知識・感情・記憶の、3つの面に分類できるという。
 知識の面は、生きているものはみな持っていて、その“もと”の形が意欲。
 意欲は、草や木にもある。草木でも、日光が好きなものもあれば、雨の好きなものもある。生きているものは、みな意欲がある。
 意欲の“もと”は、好き嫌いという感情だと思う。好き嫌いという感情は、みんな違う。一人ひとり、はっきりわかれる。
 好き嫌いという感情が、なぜ、めいめい違うのかは、私にはわからない。
 けれども、幼い子に理屈で知識を教え込もうとすると、意欲をなくす子が出てくる、ということは言える。

 子どもに、本物に触れさせ、好きか嫌いかを見極めるだけでいい。それが親の務めというものであろう。


      片言や一つづつ飛ぶしやぼん玉     季 己

東山魁夷展

2008年03月29日 23時34分49秒 | Weblog
 きょうから東京国立近代美術館で始まった『東山魁夷展』に行ってきた。
 ちょうど桜も見頃ということで、地下鉄の「九段下駅」は、通勤ラッシュ以上の大混雑。交通規制まで行なわれる始末。
 九段下から竹橋まで、お花見がてら歩く。
 さすが“東山魁夷”、『薬師寺展』以上の人の入り。それでも空いているところを狙って、こまめに移動すれば、結構じっくり観ることができる。

 まず、主催者の「あいさつ」文を紹介しよう。

   東山魁夷は今なお人々に最も親しまれる画家のひとりであり、その人気は
  国民的とも言えるほどです。このたび、その生誕100年を記念する展覧会
  を開催いたします。
   東山魁夷は、1908(明治41)年に横浜市に生れ、東京美術学校で日
  本画を学びました。戦後になって、代表作《道》に見られるような簡潔な画
  面構成による表現へと画風を展開させ、風景画家として独自の表現を確立し
  ました。自然や町を主題に、生の営みをいとおしむかのように描いた作品、
  祈りの風景とも言えるほどに沈潜した精神的な深みを窺わせる唐招提寺御影
  堂の障壁画などによって、戦後の日本画壇に大きな足跡を残しました。
  東山魁夷の作品は平明な描写のうちに、清新な叙情性深い精神性を湛えてい
  ます。それは徹底した自然観照から生まれた心象風景であり、自身の心の奥
  底に潜む想いの表白にほかなりません。また同時に、その作品は日本の伝統
  に連なりつつ、時代に生きる感覚をたしかに宿しています。東山芸術が今な
  お多くの人々に共感を得るのは、まさにそれゆえであると言えるでしょう。
   この展覧会では、東山魁夷の代表的な作品の中から約100点、スケッチ
  ・習作から約50点を出品し、唐招提寺御影堂の障壁画からは《濤声》の一
  部と、《揚州薫風》を紹介します。出品作を7つの章に分け、さらに5つの
  特集展示をもうけることで、その70年に及ぶ画業をたどるとともに、画風
  の展開や制作のプロセス、表現の特質などに迫ります。(以下省略)

 今日の目的は、《残照》、《道》、《秋翳》、《萬緑新》、《北山初雪》、《たにま》、《白夜光》、《緑響く》、《花明り》、《濤声》、《揚州薫風》、《渓音》の12作品との再会にある。
 お花見の最盛期?とかち合ったため、比較的ゆったりと観られたのは幸いだった。あと2~3回来るつもりなので、これらの作品の印象などは、そのときにまた書くつもりだ。

 入口から順に作品を観て、出口に来ると、今とは逆に観てゆき、入口へ来るとまた最初と同じように観てゆく。都合3回観て、会場を出る。
 そして人並みに、お花見としゃれこむ。

 北の丸公園と千鳥ヶ淵周辺を歩いたのだが、染井吉野、江戸彼岸、寒緋桜、紅枝垂れ、八重紅枝垂れ、関山、大島桜、楊貴妃、普賢象など、桜の代表的品種にほとんど逢える。
 ことに紅枝垂れの、中世ヨーロッパの貴婦人のスカート?のような中に入ってみたが、何とも心地よく、出るのがいやになったくらいだ。
 同じ桜でありながら、こちらの桜は上流階級、きのう見た上野の桜は庶民の桜のような気がする。


      紅しだれ八重紅しだれしだれけり     季 己 

桜月夜

2008年03月28日 23時38分29秒 | Weblog
 上野公園の桜は、いまが盛りだ。木によっては、はらり、はらりと散り始めている。
 宴会の始まっているグループもあれば、ブルーシートの上で場所取りの男が寝ているところもある。
 善意に解釈すれば,“夜桜見物”であろうが、実際は、酒を喰らってバカ騒ぎをしたいだけなのではなかろうか。

    清水へ 祇園をよぎる 桜月夜
      こよひ会ふ人 みな美しき

 情熱の歌人、与謝野晶子の有名な歌である。
 晶子が歌ったのは、夜桜の美しい頃の、京の夜景であろう。
 上野公園にも清水観音堂があるが、晶子の歌の清水は、本家本元の京都の清水寺のことだ。
 
 桜は満開を過ぎると、しきりに花びらを散らせる。満月も朧に煙る夜景である。
 「こよひ会ふ人 みな美しき」ということは、自分ももちろん美しいということだ。いかにも晶子らしい歌である。
 昼間ならば、眼につくもろもろの醜いものも、すべて夜の帳に隔てられる。桜の花びらばかりが、白々と浮かび上がって、なおその上に流れる月の光が、白銀の輝きを添える。
 夜桜の美しさに象徴される春の夜の魅力が、あくまでもロマンティックな夢をいざなう。

 夜桜を描いた作品で最も好きなのは、東山魁夷の『花明り』(個人蔵)だ。
 これは昭和43年(1968)の作で、魁夷の作品中、最も人気の高い作品といってもよいだろう。
 京都・円山公園のしだれ桜を描いたもので、晶子の歌った桜も、このしだれ桜であろう。
 『花明り』については、魁夷自身の書いた名文があるので、紹介しよう。

      円山
   花は紺青に暮れた東山を背景に、繚乱と咲き匂っている。この一株の
  しだれ桜に、京の春の豪華をあつめ尽したかのように。
   枝々は数知れぬ淡紅の瓔珞を下げ、地上には一片の落花も無い。
   山の頂が明るむ。月がわずかに覗き出る。丸い大きな月。静かに古代
  紫の空に浮び上る。
   花はいま月を見上げる。
   月も花を見る。
   桜樹を巡る地上のすべて、ぼんぼりの灯、篝火の焔、人々の雑踏、そ
  れらは跡かたもなく消え去って、月と花だけの天地となる。
   これを巡り合せというのだろうか。
   これを“いのち”というのだろうか。
                (東山魁夷著『京洛四季』・新潮文庫)

 「生誕100年 東山魁夷展」が、3月29日から5月18日まで、東京・北の丸公園の東京国立近代美術館で開かれる。
 『花明り』をはじめ、代表作を含めた100点余りの作品が展示される。


      夕冷えの桜の奥の応挙館     季 己

薬師寺展を観る③

2008年03月27日 21時43分24秒 | Weblog
 第4室は「国宝 吉祥天像」の部屋だ。
 部屋が広いせいか、吉祥天像が小さくみえる。縦53.0、横31.5センチということだから、絵画の標準寸法でいうと、ほぼ10号M大である。
 家庭に飾るにはちょうどいいサイズだが、博物館という広い空間では、「こんなに小さかったのか」と思うほど小さい。
 吉祥天像は、小さくとも国宝である。もし仮に、オークションにかけたら一体いくらの値がつくだろうか。例の大日如来像が、重文未指定でも14億円だから、と考え出すと夜も眠れなくなる?
 ましてや、世界の至宝「聖観音菩薩」・「日光菩薩」・「月光菩薩」は、値段のつけようがなかろう。
 美術的価値、崇高さ、祈りの深さ等々、すべてにおいて雲泥の差がある。
 「8年ほど前、古美術商から、会社員が給料で支払える程度の金額で譲ってもらった」という大日如来像を、14億円も出して購入した宗教団体は、ずいぶん高い買い物をしたものだと思う。
 もっとも、この大日如来を公開し、入場料を千円にした場合、1日平均300人の入場者があれば、13年で元はとれるから、この団体にしてみれば安い買い物なのかもしれない。

 話を元に戻そう。
 吉祥天像は、目の粗い麻布の上に、濃い絵具で、少し斜めに向いた豊頬の美人が描かれている。身体を包む絢爛豪華な衣は、細い緻密な線と、陰影を現す巧みな隈取とで描かれている。その衣の薄さや柔らかさに至るまで、遺憾なく表現されている。
 特に、柔らかい肩のあたりの薄い衣などは、その紗でもあるらしい布地の感じとともに、中に包んだ女の肉体の感じをも現している。束髪のようにきれいに上げた髪の下の丸々とした顔もまた精神の美を現すよりは肉体の美を現しているというべきであろう。
 その頬の円さ、口の小ささ、唇の厚さ、相接近した眉の濃さ、そうして下瞼はほとんど見えないくらいの淡い線を引いた媚のある眼。
 細い手や、半ば現れたかわいい耳も、感性的な魅力を欠かない。
 これは地上の女であって、神ではない。拝むより、思わずふるいつきたくなるような美女なのである。
 
 薬師寺は天武天皇勅願の寺であるが、その天武天皇がまだ東宮の大海人皇子であったときの相聞歌が、『万葉集』にある。

     紫草(むらさき)の にほへる妹(いも)を 憎くあらば
       人嬬(ひとづま)ゆゑに 吾恋ひめやも
  《紫草のように美しいあなたが憎いのなら、もう人妻になっているあなたに、どうして恋するだろうか》

 『万葉集』のこの相聞歌を読むたびに、この“むらさきの君”と吉祥天像が重なってしまう。
 また、天武天皇となられたのちの御製に、つぎのような名歌もある。

     み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間(ひま)なくぞ
     雨は降りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと
     くまもおちず 思ひつつぞ来る その山道を
  《吉野の耳我山に、雪や雨は絶えず降っている。そのように絶えず、へだてをおかず、人々のことを思い思いしながら越えて来るよ。その耳我の山道を》

 この長歌はいついかなるときの御製であるか不明であるが、上の短歌の激しい熱情に対し、憂いの調べの幽遠にこもっている名歌として、私の愛唱するところである。


      言霊が花の吉野にあくがれて     季 己

薬師寺展を観る②

2008年03月26日 21時42分55秒 | Weblog
 薬師寺金堂本尊両脇侍の日光・月光両菩薩像が揃って寺から出るのは、初めてのことだそうだ。1300年もの間、薬師寺から一歩も外へ出ていないということか。
 奈良の薬師寺へ行けばいつでも拝観できるが、薬師三尊が並んで安置され、それぞれ光背が背後に立つので、限られた角度からしか拝観できない。
 また、台座と合わせて高さ3.7メートルを越す大きな像が壇の上に安置されるため、低い位置から見上げることになる。
 照明は自然光が頼りなので、天候によって見え方が変わる。雨の日などは、薄暗くてお顔がよく見えないこともある。

 それが今回の展示では光背をはずし、日光・月光両菩薩像を離して展示してあるので、全方向から拝観することが出来る。
 また聖観音と同じように、高い位置から観られるように、壇を設置し、スロープも付いている。

 順路にしたがって歩を進めると、高い壇上から日光・月光両菩薩と対峙するような感じになる。もちろん、こんな高い位置から拝観するのは、初めてである。
 お顔の印象が、全くといってよいほど違う。
 これまでは感じなかったのだが、高い位置から観ると、日光菩薩は男性に、月光菩薩は女性に観えるのだ。確かめるべく、スロープを降りる。

 何よりもまず、その艶々した光沢に驚く。千三百年の歳月にもかかわらず、たったいま降誕したばかりのような、生き生きした光に輝いている。
 とろけるような漆黒の体躯の底に光の泉があって、絶え間なく滾々とあふれ出てくるように思える。

 右に日光菩薩、左に月光菩薩が佇立しているが、この二尊はあくまで本尊の薬師如来と調和を保って、いわば三尊そろって一つの綜合的な曲線を描き、渾然たるメロディーを奏でるようにつくられたのではないか。それは意識的にそうなのだ。
 右側の日光菩薩は、胴体から腰をかすかに本尊の方へくねらせ、右足はいわゆる遊び足となってわずかに前方へ出ている。右手をあげて印をむすび、左手はさげたまま与願印をむすんでいる。
 左側の月光菩薩は、同じ挙措を対照的に示している。左手をあげて印をむすび、右手はさげたまま日光菩薩と同様の印をむすんでいる。

 二尊の後へまわって驚いた。
 背中の中央が窪んだ肉付き、肩にかかる天衣のひかえめな襞、裾の折り返し粘りのある彫り、まるで背面をみられることを前提にしたような入念さである。
 壇上での感じを確かめるべく、背面をつぶさに観察した。
 お尻の肉付き、筋肉など、尻の張りが違っている。
 やはり、日光菩薩は男性で、月光菩薩は女性を意識して、つくられたに違いない。
 み仏を比較しては失礼なのだが、日光菩薩の方が優れていることに、今回はじめて気づいた。お顔、手、肩、ことに下肢にまとう天衣が、日光菩薩の方がずっといいのだ。もしかしたら、異なった人の作であるかも知れない。

 しかし、こんなことはどうでもいいのだ。
 心がとろけるような美しさを持った日光・月光両菩薩に違いはないのだ。
 両菩薩から離れたくないほど、心ひかれる“魅力菩薩”である。


      芽吹く夜の日光月光菩薩かな     季 己 

薬師寺展を観る①

2008年03月25日 23時42分08秒 | Weblog
         かたよらない こころ
         こだわらない こころ
         とらわれない こころ
          ひろく ひろく
           もっと ひろく
         これが般若心経
          空のこころなり

 これは、薬師寺元管主・故高田好胤師の説かれた、般若心経「空」の心である。

 古代彫刻の世界の至宝とされる日光・月光菩薩立像や、天平絵画を代表する吉祥天像などの寺宝を紹介する「国宝 薬師寺展」が、きょう25日から、東京・上野公園の東京国立博物館・平成館で始まった。
 例により、昼食をとってからゆっくり出かけた。会場は思った以上に空いていてゆったりと拝観できた。

 東院堂聖観音立像は、天武天皇の時代、白鳳期最高の霊像といわれるみ仏である。千三百年の塵をきれいに拭われ、まことにさりげない様子で、黙然と立ちつくしている。
 聖観音の瞳は、あわれむごとく半眼に開いている。189センチの堂々たる体躯ですらりと立ちながら、やや胸を張り、気高い額を正面に向けたまま、永遠の沈黙の姿である。
 左手を静かに上にあげて施無畏(せむい)の印をむすび、「何も恐れることはないよ」と、右手は下方ゆるやかにさげたまま施願(せがん)の印をむすんで、「何でも願いをかなてあげるよ」と、微笑んでいる。
 印をむすんだその指の一つ一つの、なんと美しく繊細なことか。
 崇高な尊顔と、重厚な体躯から咲き出たような、この無比の指が、沈黙の奥深くにひそむ観音の慈悲心を示しているのだと思う。

 今回の展示では光背を付けず、しかも、360度どの方向からも観られるのが大変有難い。そのうえ、スロープつきの高い壇がうれしい。
 スロープを上がり、高い位置からつくづく観る。み仏は拝むものだということを忘れて……
 美しい荘厳な顔である。力強い雄大な肢体である。底知れぬ深味を感じさせる何ともいえない古銅の色。その銅のつややかな肌が、ふっくりと盛り上がっているあの気高い胸。堂々たる左右の手。衣文につつまれた清らかな下肢。
 それらはまさしく人の姿に、人間以上の威厳を表現したものであろう。

 スロープを降り、また近くで仰ぎ観る。
 美しく古びた銅の体躯から、一種の生気が放射してくるかのようだ。
 ことに、あの静かに垂れた右手に近寄って、横から見上げたときには、この像の新生面が開けたような気がした。
 横顔の美しさ、背部の力強さ、――背と胸とを共に観るときのあの胴体の完全さ――あの腕も腰も下肢もすべて横から観たときに、その全幅の美を露出する。
 この傑作の全身が、横からでも後からでも、好きな角度から自由に観られるということは、本当にうれしい。
 こんな機会は、もうないかもしれない。ぜひ拝観されるよう、強くおすすめしたい。


      観音を拝(おろが)み帰る花見客     季 己

かたくりの花

2008年03月24日 22時02分01秒 | Weblog
 かたくりの花が、そろそろ見頃をむかえる。

 かたくりの花は、かたかごの花ともいい、万葉集巻19に、
    もののふの 八十をとめらが 汲みまがふ
      寺井の上の かたかごの花     
 という、大伴家持の歌がある。
 “もののふの”は、“八十”にかかる枕詞。
 “八十”は、<やそ>と読み、<たくさんの>という意味。
 “まがふ”は、<さわぐ>の意で、“上”は、<ほとり>である。
 “かたかごの花”は、かたくりの花のことで、今も北国では、“かたこ”などと呼ぶ所があると言う。
 かたかごの花は、ことに雪の多い地方に分布し、越中国府付近にも多く目につき、家持の興を引いたものであろう。
 「多くの乙女らが、男のうわさでもしているのか、わいわい騒ぎながら寺の井戸で水汲みをしている。その井戸のほとりには、乙女らに負けず美しく、かたかごの花が咲いている」といった大意であろうか。

 ところで、佐野市の「かたくりの花まつり」は、町谷町の「万葉自然公園かたくりの里」で、4月6日まで行なわれる。開花のピークは例年、3月25日前後とのこと。今年も例年通りで、間もなく開花のピークを迎えるようだ。
 佐野市は、かたくりの群落を市の天然記念物に指定し、その群生地を含む約8ヘクタールを「万葉自然公園かたくりの里」として整備した。
 今は、JR・東武の駅から、無料のシャトルバスが期間中だけ運行されるが、昔は、駅から“みかも山”までハイキングをしたものだ。
 尾根伝いに南に向かい、眺望を楽しめる龍ヶ岳を経て“みかも神社”までのコースも何回か楽しんだことがある。
 そうして、佐野駅から徒歩30分程の所に、「相沢民芸店」があり、相沢市太郎翁と話をし、教えを乞うのが何よりの楽しみでもあった。その当時求めた土鈴は、今でも大切に保存、あるいは飾ったりしている。

 “みかも山”の、かたくりの群落ほどではないが、秩父の小川町のかたくりの花も素晴らしい。ここでは、定期入れを落としてしまい、すぐ無事に届いた、といううれしい思い出がある。
 かたくりの花が咲くと、土鈴・定期入れという、思い出の花も咲くのである。


      風動くところかたくり花盛り     季 己

西行の日

2008年03月23日 21時02分10秒 | Weblog
    花あれば西行の日とおもふべし    角川源義

 西行忌を詠んだ名句で、西行忌を詠んだ最も有名な句である。
 “西行の日”とは、西行の忌日で、陰暦2月16日のことである。
 たいていの歳時記には、歌人西行の忌日が、建久元年(1190)二月十六日となっている。
 しかし、西行の亡くなったのは、文治六年(1190)二月十六日未時(ひつじのとき=午後二時ごろ)で、建久に改元されたのは四月十一日のことである。
 したがって厳密に言えば、建久元年二月十六日は存在しない。

 西行はかねてから、
    ねがはくは 花の下にて 春死なむ 
     そのきさらぎの 望月のころ
 と詠んで、釈尊入滅の日に合わせて死ぬことを願っていた。その死に対する願いが、はからずも現実に一致した。
 その念願どおりに往生したことは、西方浄土にあこがれていた当時の人々には驚きであり、大きな衝撃でもあった。
 そうして西行法師の名は、広く世に広がったのである。

 西行の法名が円位であったので、その忌日を円位忌ともいう。
 実際に亡くなったのは、二月十六日であるが、「ねがはくは……望月のころ」の歌にちなみ、一般には二月十五日としている。
 今日がその、陰暦二月十六日にあたる。

 もともと東洋では、“生活の芸術化”が文人の生き方として希求されてきた。
 西行が紆余曲折を経ながらも、若き日から宗教の世界を目指し、しかもその当時、仏教の教理とは相容れないものという考え方もされていた文芸の一つである和歌の道に深く心を入れ、宗教と文芸とが両立するという道を切り開いたのである。
 それだけでも西行は、理想的な生涯と思われたであろう。

 その上さらに、“自分と対象との一体化”、ことに「ねがはくは」の歌で願望しているのは、《花と月》に対する数寄が、罪障とはならず、むしろ極楽往生の道に通ずるという、奇跡に見えたのである。

 西行の死を聞いた藤原俊成は、
    願ひおきし 花のもとにて 終りけり
     蓮(はちす)の上も たがはざらなむ
 と、西行が極楽浄土の蓮の花の座の上に、再生することを祈念して瞑目した。
 藤原定家もまた、
    望月の ころはたがはぬ 空なれど
     消えけむ雲の ゆくへ悲しき
 と、西行の願いの成就(じょうじゅ)したことを喜びながらも、その死を悲しんだ。

 西行は、“月と花の歌人”といわれる。たしかに月と花を素材にした歌は多い。だが、むしろ“心の歌人”と呼んだほうが、西行の本質に近いのではなかろうか。このことについては、いずれまた……。


      花どきの水の曇りも西行忌     季 己 

目の毒

2008年03月22日 21時55分53秒 | Weblog
 やっと晴れた。今日はやることが3つある。
 まず、墓参り。
 お中日に行く予定だったが、風雨が非常に強くて取りやめた。まるで、イージス艦の見張員のようであるが…。
 東武伊勢崎線に乗り、春日部へ向かう。春日部も、来るたびに昔あった懐かしい家が消え、マンションが聳え立っている。
 父の墓のある源徳寺の周囲にも、マンションが6棟建っている。
 曽良の「旅日記」によれば、芭蕉と曽良は『奥の細道』の途次、この粕壁(春日部)に宿泊している。けれども、その証となる古文書、懐紙、短冊などの存在を知らない。

 墓参を済ませ、遅い昼食のあと、篠笛の練習をする。音が割れたり、調子っぱずれの奇妙な音が出る。
 今日の稽古は、特別に3時15分から5時15分まで。
 まずは江戸囃子の締太鼓と笛の練習から。教室へ来ると、奇妙な音さえ出ない。
昨晩テレビで観た浅田真央を思い起こし、心を静めて音を探ると、結構聴ける音が出るようになった。
 次いで、今の時期にぴったりの「山ざくらの歌」の練習だ。この曲は、間の取り方が非常に難しい。
 8月末の発表会に向け、私を除く皆さんは気合十分。私はマイペースで、とにかく音を出すことに専念するしかない。
 頑張らないで、楽しく、一所懸命が、私の信条だ。

 教室から帰宅後、すぐに銀座へ。
 リヤドロブティック銀座本店で、「2008年春の新作発表」を観る。
 ハイポーセリン最新作『臥龍』が、登場したので眼の保養をさせてもらう。リヤドロ芸術の粋を極めた素晴らしい作品だ。この『臥龍』には、“紅龍”と“青龍”とがあり、すでに日本橋三越の「大リヤドロ展」で両方とも観ている。
 先日、2度目に覗きに行ったときには、私の大好きなハイポーセリンの作品「接吻」(189万円)が売約済になっていた。
 昨年夏から恋焦がれていた「接吻」であるが、これで諦めがつくと思っていたのだが……。

 3階で、新作発表会を記念して、リヤドロ社の社長ロサ・リヤドロ氏が来日、特別サイン会が行なわれていた。
 ここで購入した作品に、特別にサインを入れてくれるのだ。このような機会は、年に数度しかない。
 図々しくも私は、昨年11月に購入した作品にサインを入れてもらうために、やって来たのだ。もちろん、そういう約束で購入したのであるが。
 サインを入れてもらったのは大変良かったのだが、出逢ってはならないものに出逢ってしまった。
 あの「接吻」が、社長のロサ・リヤドロ女史の横に、鎮座しているではないか。
聞けば、スペインの本社に残っていた一点を、社長の来日にあわせ送ったものが、今日届いたのだと言う。なんと目の毒、気の毒!
 うれしかった反面、見てはならないものを見てしまった、複雑な心境である。

 きょうは旧暦の2月15日。夜空には重そうな満月。
 東京に、ソメイヨシノの開花宣言が出た。
    ねがはくは 花のしたにて 春死なむ
      そのきさらぎの 望月のころ    西 行
 西行は、文治六年二月十六日未時(ひつじのとき=午後二時ごろ)に亡くなった。西行については、明日また…。


      目の毒を見てよりおもし春の月     季 己      

母は昔

2008年03月21日 23時50分05秒 | Weblog
 浅草、駒形橋界隈を歩こうと思い、まず浅草寺へ。
 本堂でお参りを済ませ、浅草神社のところに来ると、20名ほどのグループがいた。ボランティアであろうか、ガイドらしき男性が一心に説明していた。
 「これは勉強になるぞ」と思い、観光ボランティアガイドの卵である私は、そっとグループの後に。
 「二天門には、増長天・持国天の二天が祀られ……」と、熱弁をふるっている。
 現在、二天門は工事中で、シートで覆われていて中は見えない。その見えない二天門を説明しているのだ。

 説明が終わったところで、一人の外国人が日本語で質問をした。大よそのところ、こうだ。
 「二天門は、ひらがなで“にてんもん”と書き、ローマ字では“Nitemmon”と書いてある。同じ“ん”なのに、どうして、ローマ字では“m”と“n”と違って書くのか」
 鋭い質問だ。どう答えるか、ワクワクしてきた。
 ガイドらしき人は一瞬、ことばに詰まった。そして一言。
 「誠に申し訳ありません。不勉強でわかりません」と。
 定法どおり、「不勉強で申し訳ありません」と、逃げたのだ。
 相手から突っ込まれたり、鋭い質問を受けたときは、論争をしないで相手を立てて、「不勉強で…」と答えるように、私も教わったことだ。

 「母は昔、パパだった」と言ったら、驚くだろうか。実は、奈良時代には、母はパパだったのだ。
 奈良時代、“母”を“papa”と発音していた。人間、だんだん横着になったか、その後、“fafa”つまり、下唇を軽く噛んで発音する“ファファ”になった。さらに横着になり、下唇を噛まないで“haha”と発音するようになり、現在に至っているという次第。だから「hahaは、むかしpapaだった」のである。
 時代と共に、発音がだらしなくなって、変化する場合が多々あるのだ。

 さて、冒頭の“ん”のことであるが、“Nitemmon”は、改修ヘボン式ローマ字表記法によるもので、パスポートや駅名などで使われる。
 ヘボン式ではふつう、“ん”は“N”で表記する。
 ただし、B、M、Pの前では、“ん”は“M”で表記する。
 つまり、“新聞”は“shimbun”、“天満屋”は“temmaya”、“散歩”は“sampo”のように。
 では、なぜB、M、Pの前だけ“M”と表記するのか。
 実は、日本語の“ん”の発音には二通りあり、われわれは無意識のうちに使い分けているのだ。
 一つは、上唇と下唇を合わせずに発音する“ん”と、もう一つは、上唇と下唇を合わせて(閉じて)発音する“む”である。

 日本語で、上唇と下唇を合わせなければ発音できないのが、バビブベボ、マミムメモ、パピプペポ、つまり、B、M、Pである。
 したがって、“ん”の後に、バ行・マ行・パ行がくると、無意識のうちに“ん”の段階で、唇を閉じて、つぎの発音に備えるために、“ん”よりも“む”に近い発音をするのだ。
 だから、B、M、Pの前では、“ん”は“M”で表記するのである。
 これは実際に試していただければ、お分かりいただけると思う。


      いそがずに行く浅草の桜餅     季 己

彼岸

2008年03月20日 21時49分44秒 | Weblog
 きょう3月20日は春分の日。
 春分は3月21日、まれに閏年などに20日となる。
 春分は、太陽の中心が春分点上に来た時の称で、昼と夜の長さが同じというが、20分ほど昼の方が長いらしい。
 春分の日を“中日”として、前後7日間が彼岸である。“彼岸の入り”に始まり、“お結願”に終わる。
 「彼岸」で最も有名な句は、正岡子規の「毎年よ彼岸の入に寒いのは」であろう。

 彼岸とは、梵語のハラミッタの訳語で、生死を超越しないこの世、此岸に対する語で、悟りの世界のことである。
 彼岸の間、さまざまな仏事が修され、「彼岸寺」・「彼岸会」・「入り彼岸」・「お中日」・「彼岸舟」・「彼岸前」・「彼岸過」など、さまざまな季語を生んでいる。
 「彼岸」は秋にもあるが、「遠足」・「峰入り」などと共に、年二度の時物は、先を正とするのが、俳句の世界の約束のようである。
 したがって、単に「彼岸」ならば春季のもので、秋のは「秋彼岸」とするか、秋の季語を加えて区別しなければならない。
 俳人の心は、「彼岸」の方に傾いているようで、「春分」の句はめったにお目にかかれない。

 「彼岸」のつく季語は、以上のほかに「彼岸詣」・「彼岸道」・「彼岸団子」・「彼岸餅」などがある。
 また、「彼岸西風(ひがんにし)」は、彼岸の頃に吹く西風をいう。西方浄土から現し世への訪れとして吹く風で、この風が止むと春が訪れる。
 「彼岸桜」は、彼岸ごろ咲き出す桜で、「糸ざくら」と呼ばれる枝垂れ性のものもあり、やさしく、心を和ましてくれる。
 山桜と同時に咲くのも多いが、ガクや幹の様子で区別がつく。名木・根尾の「薄墨桜」は、この系統であるという。
 私のこよなく愛する句に、岸田稚魚先生の「光陰のやがて淡墨桜かな」がある。
 もちろん「淡墨桜」は、“うすずみざくら”と読み、「薄墨桜」のことである。
 別に、「江戸彼岸」があり、細身の幹が群れ立ちするので、「千本彼岸」の別名を持っている。


      彼岸西風 自から問ひて答へつつ     季 己

運慶 流出回避

2008年03月19日 21時56分08秒 | Weblog
 “祈りは込められていた”と、思いたい。

 ニューヨークで競売にかけられた運慶作と見られる大日如来座像は、三越が落札、海外流出はひとまず避けられるようだ。
 しかし、1437万7000ドル(約14億3700万円)という高額な落札には、ただただ驚くばかり。
 日本美術、仏教美術では史上最高額という。
 これまでクリスティーズ社が扱った日本美術の最高額は、17世紀の「洛中洛外図」で、176万ドル、日本近代美術も含めると、黒田清輝作「木かげ」の280万ドルだったとのこと。
 どう考えても、1000万ドル高い気がする。美術品には、適正価格などないのだろうが、4億円程度が適正と思うが、いかがなものだろうか。

 落札した三越によると、「お客様からの依頼で落札を代行した。日本人のお客様だが、詳細は言えない」とのこと。
 この、“日本人のお客様”が、民間の美術館であるならば、公開され、また調査も可能なので、一安心できる。
 また、個人のコレクター、あるいは海外流出を防ぐために応札した奇特な方なら、ぜひ、博物館に寄託して、一般公開していただきたい。
 まさかないとは思うが、最も困るのは、転売を目的にした“お客様”だった場合だ。時が来ればまた、オークションにかけること必定だから。

 絵画や版画の場合、数人でグループを作り、狙い定めた若手の画家の作品を秘かに買占め、話題を作り上げ、うわさを流すなどして時期を待つ。
 頃合いを見計らってオークションにかけ、仲間どうしで値を吊り上げ、高額で落札する。これが話題になり、一気に人気が出る。価格がますます上がる。
 こうして、市場価格を十分吊り上げたところで、手持ちの作品を売りに出し、莫大な利益を上げるという寸法だ。

 このたびの件は、このような裏事情はなかった、と信じたい。
 明治の廃仏毀釈にあうまで、多くの人々が、この大日如来座像に祈りを捧げ、なおかつ今回の海外流出を憂えたたくさんの人たちの願いにより、大日如来自身が、日本に残れるように計ったのだと思いたい。
 
 床の間の御厨子に安置している、我家の大日如来座像(小野直子作・樟)のお顔もほころんでいるように見える。
 ともあれ、運慶作品の海外流出回避を、心から喜びたい。


      春眠の足りて如来の知拳印     季 己      

世界の万年筆祭

2008年03月18日 23時46分53秒 | Weblog
 限定品をはじめ、コレクター垂涎の逸品が見られる、万年筆の祭典「第10回世界の万年筆祭」が、日本橋・三越で18日から始まった。
 今回のテーマは「粋」で、伝統技法の職人技が光る粋な万年筆、小粋にファッショナブルに使いこなす万年筆など、世界の万年筆が一堂に見られるよい機会である。
 ただ、正直に言えば、10回目を迎える“万年筆の祭典”としては、いささかさびしい。初日で平日ということもあるが、この人数の少なさ、ブースの店員の何と暇なことか。第一、例年に比べ会場の広さが半分になったような気がするし、出展のメーカーもぐんと少なくなっている。非常に残念で悲しい。

 ふつう、万年筆は一本あれば一生使える。日常生活では、3本で105円のボールペンで十分だ。
 「万年筆が好きで、何本も持っている」などと職場で言えば、変人扱いされるのがオチである。かく申す私も変人であるが、常に持ち歩く万年筆が2本、自宅の机の上に3本、引出しの中に十数本しか持っていない。コレクターとは呼べない、まだまだヒヨコである。

 万年筆を買う場合、大きく分けて二つあると思う。
 一つは実用で、もう一つは観賞用である。
 実用には、書き味が第一なのだが、これが千差万別で、自分にピッタリの万年筆に出会うには、大変な労力を必要とする。
 また、観賞用はピンからキリまで、それこそフトコロ次第だ。
 今回、会場で魅了された逸品がある。
 “万年筆の神様”と言われ、セーラー万年筆のオリジナルペン先を生み出してきた名工「長原宣義」と、加賀蒔絵の名工「田村一舟」とのコラボレーションから生れた、完璧なまでに昇華した匠技の入魂の作『牡丹菊立湧乃流水』である。
 もちろん私には購入できない。価格が、15,750,000円もするのだから。
 しかし、とても素晴らしい目の保養をさせていただいたことに、感謝!

 私が常に鞄に入れて持ち歩いているのは、一本は、鳥取の「万年筆博士」の田中晴美さんの、万年筆博士50周年記念のもので、筆記角度、傾斜、筆圧、筆速、ペンの太さ、軸の重さ、バランスなどを、私に合わせて作っていただいたもの。
 もう一本は、万年筆専門店「フルハルター」で買った、パイロット万年筆85周年記念モデル「飛天」のペン先を、店主の森山さんが私に合わせて調整してくれたものだ。
 この「飛天」は蒔絵なので、観賞用としても申し分なく、実用としても、紙がペン先に触れたとたんにインクがヌラヌラと出る。ひっかかることもなく、ボタボタとインクが漏れることもない。本当に森山さんは調整の名人だ。
 田中さんと森山さんに感謝!


      弥次喜多の江戸日本橋 黄砂降る     季 己 

新人演奏会

2008年03月17日 21時45分54秒 | Weblog
 上野公園入口、交番横の大寒桜が満開になった。
 先日、近くを通ったときは、遠目に白く見えたのが、今は淡紅色というより、ピンクがかって見える。
 同じ木の同じ桜なのに、花の時期によって色の印象が違ってくる桜。散り始める頃になると、もっとピンクが濃くなるという。
 寒桜の枝ぶりよりも、やわらかく広がるような雰囲気が、この木にはある。花弁に切込みがあり、寒桜より花びらが細長くストレートで、一回り大きい感じがする。
 近くの五条天神社にも、ここと同じような大寒桜が二本、満開であった。
 いわゆる“お花見”の前に、静かに、ゆったりと花を愛でる幸せ……。なぜか、とても得をした気になった。

 今日の目的、東京文化会館で、5月3日、4日に行なわれる「第78回 新人演奏会」のチケットを購入する。
 これは読売新聞社の主催で、全国の音楽大学、短大の今年卒業する者のうち、各大学が推薦する首席卒業生による、2日がかりの大演奏会である。
 まだチラシも出来ていない状態なので、どこの大学の誰が何を演奏するのか、全く分からないが、とにかくチケットだけ購入した次第。
 全席自由で、千円。これで音大首席卒業者の、生の演奏が2~3時間楽しめるのだからたまらない。

 音楽に限らず、芸術の分野では、卒業制作、音楽で言えばこの「新人演奏会」が技術的には最高のときだと思う。
 あとは、如何にその技術を維持し、人間を磨く修業をするかにかかっている。
 卒業制作を観て、新人演奏会を聴いて、どの人が将来伸びるかチェックを入れるのも、楽しみの一つである。

 清水観音堂に参る。
 この御堂は、寛永八年(1631)に、寛永寺の開山・天海大僧正により創建されたものである。
 天海大僧正は、寛永二年(1625)に、二代将軍・秀忠から寄進されていた上野忍が岡に、平安京と比叡山との関係にならい、「東叡山寛永寺」を開いた。それは同時に、江戸城鬼門の守りをも意味した。
 そして、比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と建立した中の一つが、清水観音堂なのである。もちろん、京都の音羽山清水寺を模して。
 ここの本尊は、千手観音で、子年生まれの守り本尊と言われている。
 子年の今年、子年の方はぜひ参詣を。何かご利益があるかも。
 ちなみに、十二支による守り本尊を記しておく。ただ俗信であることを申し添える。

        「十二支による守り本尊」
   子年   生れの本尊    千手観音
   丑・寅年 生れの本尊    虚空蔵菩薩
   卯年   生れの本尊    文殊菩薩
   辰・巳年 生れの本尊    普賢菩薩
   午年   生れの本尊    勢至菩薩
   未・申年 生れの本尊    大日如来
   酉年   生れの本尊    不動明王
   戌・亥年 生れの本尊    阿弥陀如来

 また、清水観音堂は、人形供養の寺としても有名である。
 捨てるに捨てられない雛人形をはじめ、諸々の人形を、毎年秋に供養をして処分してくれる。受付はいつでもOK。

 受験生に人気があるのが、上野大仏だ。
 上野大仏は、度重なる震災で数回、首が落ち、現在はお顔だけが置かれている。
 もうこれ以上落ちることはない、ということで、合格祈願の受験生の間で、ひそかなお参りスポットになっている。


      袈裟はづす僧に日暮れの木の芽風     季 己