同じく疎句体の和歌
鷺のゐる池の汀の松古りて 都のほかの心地こそすれ
(鷺がじっと立っている汀の松も古木となって、都を遠く離れた
ところにいるような心地がする)
かすみたつ峰の桜の朝ぼらけ くれなゐくくる天の川浪
(霞の立ちのぼる峰の桜咲く朝ぼらけの風景は、真紅の絞り染め
の中を流れる天の川の波のようだ)
思ふことなどとふ人のなかるらん 仰げば空に月ぞさやけき
(悩み苦しむ自分を訪ね慰めてくれる人は、どうしていないのだ
ろうか。振り仰ぐと大空には澄みきった月が、さやさやと輝い
ている)
真菰かるみ津の御牧の夕間暮れ ねぬにめざますほととぎす哉
(み津の御牧の夕暮れ時、啼いて血を吐くといわれる時鳥の声を
聞くと、はっと眼が覚めるような衝撃を受ける)
桐の葉もふみ分けがたくなりにけり 必ず人を待つとなけれど
(散り積もる桐の落葉で、すっかり通い路もなくなってしまった
ことだ。必ずしも訪ねてくる人を待っているわけではないのだが)
椎の葉のうら吹きかへす木枯に 夕月夜見る有明のころ
(夜明けごろ、椎の葉の白い裏葉を木枯が吹き返してゆくさまに、
ふっと夕月夜の淡い夕べを感じることだ)
だいたい、これらの風姿が、疎句の歌であると言えようか。
(『ささめごと』親句、疎句)
――和歌の上の句と下の句の続き具合の密接なものを親句、上の句と下の句が一見それぞれ別のことを表現していながら、内面において深く連関しているものを疎句といいます。
つまり親句は、上の句とのつながりが言葉の取合わせや、景物の具体的な関連などに明らかに見て取れるものをいいます。
和歌における上の句と下の句の関係は、あくまで一首のうちの部分を出ないので、場合によっては、上の句と下の句の区別がなくても差しつかえありません。したがって、調べも上の句から下の句にかけて、一気にうねってゆく方が大きな感動の動きを表現できることも多いのです。
けれども、連歌の場合は、前句と付句はそれぞれ別個に独立したものであり、各々が深く相連関しなければならないので、疎句体である方が面白い上、また困難でもあります。
疎句は、前句とのつながりが一見明らかでなく、具体的な関係が見えないのですが、実は内奥にある情趣において深く呼応するものをいいます。
心敬は、親句よりも疎句を重んじています。
取合わせの妙や、機知に富んだ技法の面白さよりも、明瞭な表現を用いずに、面影や余情を浮かびあがらせる手法を好みました。真にすぐれた歌人だけが理解する、幽遠の句を理想としていたからです。
とは言っても、心敬は必ずしも疎句を固守したわけではありません。親句にも疎句にもとらわれず、一巻の連歌に変化あらしめようとした自由な広い全体的な見地に立っていたのです。
さて、親句、疎句を俳句の世界で言うと、何に当たるでしょうか。
親句が、上五から結句にかけて一気にうねってゆく「一物仕立ての句」、疎句が、内奥で深く連関している「取合わせの句」と言えると思います。
大まかに言えば、俳句の作り方は、「一物仕立て」と「取合わせ」の二つしかありません。
パソコンの昼の灯くらし走り梅雨 季 己
鷺のゐる池の汀の松古りて 都のほかの心地こそすれ
(鷺がじっと立っている汀の松も古木となって、都を遠く離れた
ところにいるような心地がする)
かすみたつ峰の桜の朝ぼらけ くれなゐくくる天の川浪
(霞の立ちのぼる峰の桜咲く朝ぼらけの風景は、真紅の絞り染め
の中を流れる天の川の波のようだ)
思ふことなどとふ人のなかるらん 仰げば空に月ぞさやけき
(悩み苦しむ自分を訪ね慰めてくれる人は、どうしていないのだ
ろうか。振り仰ぐと大空には澄みきった月が、さやさやと輝い
ている)
真菰かるみ津の御牧の夕間暮れ ねぬにめざますほととぎす哉
(み津の御牧の夕暮れ時、啼いて血を吐くといわれる時鳥の声を
聞くと、はっと眼が覚めるような衝撃を受ける)
桐の葉もふみ分けがたくなりにけり 必ず人を待つとなけれど
(散り積もる桐の落葉で、すっかり通い路もなくなってしまった
ことだ。必ずしも訪ねてくる人を待っているわけではないのだが)
椎の葉のうら吹きかへす木枯に 夕月夜見る有明のころ
(夜明けごろ、椎の葉の白い裏葉を木枯が吹き返してゆくさまに、
ふっと夕月夜の淡い夕べを感じることだ)
だいたい、これらの風姿が、疎句の歌であると言えようか。
(『ささめごと』親句、疎句)
――和歌の上の句と下の句の続き具合の密接なものを親句、上の句と下の句が一見それぞれ別のことを表現していながら、内面において深く連関しているものを疎句といいます。
つまり親句は、上の句とのつながりが言葉の取合わせや、景物の具体的な関連などに明らかに見て取れるものをいいます。
和歌における上の句と下の句の関係は、あくまで一首のうちの部分を出ないので、場合によっては、上の句と下の句の区別がなくても差しつかえありません。したがって、調べも上の句から下の句にかけて、一気にうねってゆく方が大きな感動の動きを表現できることも多いのです。
けれども、連歌の場合は、前句と付句はそれぞれ別個に独立したものであり、各々が深く相連関しなければならないので、疎句体である方が面白い上、また困難でもあります。
疎句は、前句とのつながりが一見明らかでなく、具体的な関係が見えないのですが、実は内奥にある情趣において深く呼応するものをいいます。
心敬は、親句よりも疎句を重んじています。
取合わせの妙や、機知に富んだ技法の面白さよりも、明瞭な表現を用いずに、面影や余情を浮かびあがらせる手法を好みました。真にすぐれた歌人だけが理解する、幽遠の句を理想としていたからです。
とは言っても、心敬は必ずしも疎句を固守したわけではありません。親句にも疎句にもとらわれず、一巻の連歌に変化あらしめようとした自由な広い全体的な見地に立っていたのです。
さて、親句、疎句を俳句の世界で言うと、何に当たるでしょうか。
親句が、上五から結句にかけて一気にうねってゆく「一物仕立ての句」、疎句が、内奥で深く連関している「取合わせの句」と言えると思います。
大まかに言えば、俳句の作り方は、「一物仕立て」と「取合わせ」の二つしかありません。
パソコンの昼の灯くらし走り梅雨 季 己