壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

アキイロ・ソライロ

2008年09月30日 21時52分11秒 | Weblog
 秋の雨は風を伴なわず、しょうしょうと降る。わびしいものである。
 芭蕉翁が旅の庵で聞いた音も、この音であったろう、とふっと思う。

 天気図を見ると、梅雨前線とまったく同じものが、本州付近にへばりついている。
 あたかも梅雨時のように、じめじめと降り続く秋の雨を、「秋りん」・「秋ついり」という。

 今朝も、その雨が降りつづいている。
 「読売新聞」を広げる。きょうも自民党、いや麻生総理をほめちぎっている。
 変人には、目立ちたがりやの腕白坊主が、調子付いて喧嘩を売っているとしか思えない所信表明。イヤ、負け犬の遠吠え、と言ったほうがよいかも知れぬ。
 日本一“公正中立”だと思って購読してきた読売新聞。それが最近、政府の御用新聞に成り下がったように思われ、心は「秋ついり」状態。
 ちょうど予約した購読期間が切れるので、他紙に変更しようとした矢先、次の夕刊小説が、伊坂幸太郎の『SOSの猿』と正式発表。

 10月3日(朝刊のみの地域は、翌4日)から、その連載が始まるというので、その連載が終わるまでは、購読を続けることにし、半年の予約継続をした。
 すっかり売れっ子の人気作家になった幸太郎さん。ウルトラ真面目人間の幸太郎さんのことだ、かえってその人気が、重荷にならなければと秘かに思う。
 自らは“不器用”だからと言っているが、彼の人間性・心のやさしさが、他の仕事を断り、『SOSの猿』の連載一本に全力を傾けるに違いない。そんな渾身の作品を、応援団の一人として読まないわけにはいかない。

 午後、空が明るくなり、雨も小降りになったので、東銀座へ行く。
 Mさんの陶展(笠間焼き)を見るため、G画廊に入る。笠間焼きも好きで、日常の食器に寺本守さんの作品を使っているので、Mさんの作品には食指が動かない。
 それを見透かされたか、「お掛けください」とも言われなかったので、会場をじっくりと2回りしただけで、そそくさと退散。
 画廊から案内状をいただき、最近の笠間の様子をMさんから伺おうと思っていたのだが……。まア、いいか。

 今日の目的、「山高 徹 展」を観るため、歌舞伎座の前を通り、画廊宮坂へ向かう。
 山高さんは、「家族を養うために、昼間、肉体労働をして、夜間、好きな絵を描いている」と、自嘲気味に話す。どの道でもそうだろうが、自分の好きなことだけしていたのでは、メシが喰えないのが日本だ。
 山高さんのような人にこそ、生活の心配のない、画業一筋の画家になって欲しいと、切実に思う。
 さて、山高さんの作品であるが、これまた独自のものである。キャンバスから自分で作るのだ。
 板に発泡スチロールの一種(確か、スタイロフォーム?)を貼り、その発泡スチロールを削って曲面や凹凸をつけ、その上に石膏を塗ったものが、彼独自のキャンバスとなる。
 風景画といえるが、ふつうイメージする風景画とは違う。高所から俯瞰した風景と言ったらよいだろうか。
 特に地表面が緻密に描かれているため、一見、写真を元に描いたように見える。だが少々それは違う。
 彼は心眼で対象の風景を凝視し、スケッチすると同時に胸中に焼き付ける。時によってはカメラで撮ることもあるだろう。問題はこの後だ。スケッチあるいは写真を参考に、胸中の風景を再構成する。再構成した風景が熟成したら、それを取り出し掌中に入れる。
 いわば掌中の珠となった風景を、自作のキャンバスに描いているのだ、精魂を込めて。

 今回の個展は、「~アキイロ・ソライロ~」と副題にあるように、秋の清々しい気持ちのよい作品ばかりである。
 コレクターとしては、「かえりみち」・「ヒ・クレル」を手元に置きたい。ことに「かえりみち」は、作品はもちろんだが、タイトルがいい。並みの作家では、このタイトルはつけられまい。また、作品に添えられた詩がステキである。さらに落款がないのがいい。彼の作品にはサインは不要なのだ。誰が見ても、山高徹だとわかるのだから。
 応援団としては、多くの方々に、彼の作品を持っていただきたいと願っている。先日の喜田直哉さんと同様に……。

     「山高 徹 展  ~アキイロ・ソライロ~」
       9月30日(火)~10月5日(日)
        11:00~18:00(最終日は17:00まで)
          「画 廊  宮 坂」
        中央区銀座7-12-5 銀星ビル4階
         ℡(03)3546-0343


      負け犬のそれも遠吠え 桐一葉     季 己

いちじく

2008年09月29日 21時53分02秒 | Weblog
 九月も余すところ一日。
 このブログもこの元日から一日も欠けることなく、九ヶ月。
 三日坊主が、よくも続いたものである。
 これもみな、読んでくださる皆様がおられる御蔭。深く感謝申し上げます。

 九月も末ともなると、果物屋の店先に、無花果(いちじく)を見かけることが少なくなった。本来、無花果は、八月末から九月にかけての果物である。つまり、台風シーズンの果物ともいえる。
 四、五年前のことだが、台風で垣根が無残に吹き倒された屋敷内に、無花果の木が露わに見えている、という光景に出くわしたことがある。
 惜しいことに無花果の実は、その根方にぽたぽたと落ちて散らばっていた。せっかく熟したのが、ぐしゃっと潰れている。折れやすい無花果の枝が、無残な裂け目から、白い樹液をしたたらせていた。

 無花果は、小アジアを原産地とするクワ科の落葉小高木で、江戸時代の初め、寛永年間(1624~1644)に中国から渡来したとのことである。
 イチジクという名が、何を意味しているのかは知らないが、花無き果(このみ)の意の無花果という当て字は、植物学的にいって、必ずしも正しくない。
 無花果と書くが、花がないわけではなく、嚢(ふくろ)状になった花托の内側には、無数の白色の小花と肉果があるのだが、花嚢の先端に小さな穴が開いているだけで、内部の花を外から見ることが出来ないだけなのだ。
 実は食用となるが、われわれが美味しく食べているのは、肉の多い花托の部分なのである。

 聞いたところによると、無花果には在来種の他に、実にたくさんの品種があるとのこと。
 わが国で栽培されている無花果は、いずれも生食が目的の果物として、アドリア種のものが多く、干し無花果を作るスミルナ種のものは、ほとんど欧米からの輸入品に限られているようだ。

 無花果の茎や葉を切ると、白い乳液が出る。これは痔やイボに効き、乾燥した葉を煎じて飲むと駆虫効果があるといわれている。

        呆けたりや熟無花果の脳を食ふ     澄 雄
 まさか、突然呆けたわけではなかろうが、在職五日で、大臣を辞める羽目に陥った方がいる。無花果のように、本心を隠しておけばよいものを、本心をむき出しにしたために……。


      無花果の割れて辞表を出すことも     季 己

2008年09月28日 22時06分57秒 | Weblog
 栗と柿、これは古くから日本の秋を代表する二つの木の実であった。
 猿蟹合戦のおとぎ話も、青い柿をぶっつけられて死んだ蟹から話が始まり、囲炉裏の中で爆ぜる栗の助太刀で、子蟹が親の仇討ちに成功するところで話が終わる。

 また、万葉の歌人、柿本人麻呂にちなんで、鎌倉時代の連歌師集団が、優雅な有心の連歌を詠む「柿の本」衆と、滑稽な無心の連歌を作る「栗の本」衆に区別されたこともあった。

 栗は、古代から日本人の周囲にあって、とくに馴染みの深い木の一つである。おもに関東以西の山野に自生する落葉高木で、適当な湿気があり、しかも水はけのよい土地が生育には最適であるという。
 高さ数メートル以上におよぶ大木もあるそうだが、畑などに栽培用に植えられたものは、適当な高さに育てられる。
 初夏の頃、独特の強い香りのある花が咲く。
 俗に「桃栗三年、柿八年」といわれるように、栗は植えてから三、四年すれば実を結ぶ、と水野果樹園の水野さんから教えられた。兵庫県の丹波地方でとれる丹波栗は、とくに有名だが、水野さんの栗もそれに劣らず美味いと思う。

 焼き栗・茹で栗・栗ご飯・栗羊羹・栗きんとん・栗ぜんざい…と、ただでさえ食欲のすすむ秋に、栗は手を替え品を替えて、食欲をそそり立てる。
 茹で栗・栗ぜんざいなどもいいが、細いひも状に絞り出した栗のピューレと泡立てた生クリームで作るモンブランの味は、また格別のものである。

 近頃は、「栗より美味い十三里」などと、さつま芋が幅を利かせているが、もとは「八里半」といって、栗には敬意を表していたといわれる。昔から栗は一番美味いものと相場がきまっていたのだ。

 古川柳に「丹波栗大坂へ来て名を書かれ」とあるように、大きいことで有名な丹波栗も、丹波の地元では丹波栗とは言わなかったらしい。
 さつま芋も、薩摩の国では琉球芋、花のお江戸では川越芋と呼ばれたように。


      栗焼いて万年筆の話など     季 己

にほの海

2008年09月27日 20時57分54秒 | Weblog
 きのうは広瀬惟然の、「別るゝや柿喰ひながら坂のうえ」を紹介した。
 惟然は、美濃の関に生まれたが、生年は不明である。家業の酒造業を捨てて遁世したことはわかっている。
 元禄元年(1688)、イギリスの名誉革命のあった年に芭蕉の門に入り、元禄三年以後は、芭蕉に随従し、骨身を惜しまず師の身の回りの世話をしたので、師から親愛された。
 師の芭蕉の亡き後は、九州・東北・北陸などを行脚(あんぎゃ)した。
 元禄十四年(1701)、京都岡崎の風羅坊に芭蕉像を奉安し、播磨行脚には、風羅念仏を唱えるなど、口語体の新風を興し、あまたの奇行を重ねた。
 天真爛漫な性格で、欲がなく、清貧を楽しみ、、丈草と親しい。
 また、鬼貫(おにつら)・月尋ともつきあいがあった。

 さて、惟然の句で、きのう紹介した句と同じような形の句があるので、きょうはそれを紹介しよう。

        蜻蛉や日は入りながらにほの海     惟 然

 「蜻蛉」は、「とんぼう」と読む。「にほ」は、カイツブリの古名であるが、「にほの海(湖)」となると、琵琶湖の別称である。
 「○○や○○ながら○○○」と、形が非常によく似ている。

 「日はまさに没しようとしているが、琵琶湖はまだ明るさを残している。岸辺近くには残光をたよりに、蜻蛉の群が湖面低く飛びかっている」という意である。季語は「蜻蛉」で秋である。

 「蜻蛉や」は、蕪村の「蜻蛉や村なつかしき壁の色」のように、すぐに夕日が連想され、切字の「や」によって、さまざまな余情を呼びおこす。「や」は、一字足りないから付け足すのではなく、この句の「や」のように使うものなのである。
 暮れようとする湖面と蜻蛉の翅が、ほのかな夕明りにときどき光り、微妙な明暗をはっきりとさせる。また、小さな蜻蛉が、その背景となっている琵琶湖の大景をひきしめている。

 さらに、この句と引きあいに出される芭蕉の「四方より花き吹入れてにほの海」は、春の鷹揚な趣と古典的なよさ、写実的というよりも、どこか幻想的な美を吟じているのに対して、惟然の句は、それを現実的情景に置き換え、芭蕉への慕情を残しながら、なんともいえない秋のさびしさを漂わせている。


      蜻蛉の風を見て身の置きどころ     季 己

柿喰ひながら

2008年09月26日 22時03分37秒 | Weblog
        別るゝや柿喰ひながら坂のうえ     惟 然

 この句は、『続猿蓑』の前書きに、「元禄七年の夏、ばせう翁の別れを見送り」とあり、『惟然坊句集』には、「翁の坂の下にて別るとて」とある。
 惟然は、晩年の芭蕉のそばからほとんど離れなかった。
 元禄七年(1694)閏五月に、芭蕉は嵯峨の落柿舎に滞在し、惟然も俳席を共にしている。
 六月中旬に、芭蕉が大津の無名庵に移ると、惟然は支考とともにそれに従った。
 七月上旬、芭蕉は、京桃花坊の去来宅に移ったが、故郷の兄半左衛門の便りで、中旬には伊賀に帰っている。

 この句はその頃のもので、惟然は、師とのしばしの別れを惜しんだ。
 句意は、芭蕉と柿をかじりながら坂の上まで見送ったものか、あるいは坂の上に立って、師の後姿を見送っているうちに、手にした柿を無心にほおばったのか、どちらにもとれる。
 「柿喰ひながら」という無造作ともみえる振舞いが、かえって師と弟子との親しみが自然にあふれ、また、初五の「別るゝや」で、惜別の情が強いひびきとなって心を打つ。

 惟然は、あまり季にはこだわらなかった。さきの『続猿蓑』には、「元禄七年の夏」とあるが、「柿」を季語とする秋の句としたほうがよいと思う。
 概して、世間に気兼ねしない思いのままの、俗気のないさっぱりとした表現が、惟然の句風の特色ともなっている。


      湯上りの母べつたりと富有柿     季 己

伊坂幸太郎 『SOSの猿』

2008年09月25日 21時38分18秒 | Weblog
 台風15号が発生した。今年は本土に上陸した台風は一つもなく、今度の台風も今のところ、上陸の可能性はゼロに近い。

 古くは台風という用語はなかったので、草木を吹き分ける秋の強風を「野分(のわき)」といい、その風が吹くことを「野分だつ」といった。
 台風といえば雨を伴なうが、野分は風だけである。しかも、どことなく風雅めく趣があり、野分のあとはからりと晴れて、秋草や垣根の倒れる哀れな情景とともに、えもいわれぬ爽涼感が到来するのである。 

 秋の野分に、くるくると吹き裏返されて、白みを帯びた葉裏を見せる葛の葉は、ひとしお秋の侘びしさを添えるものである。
 大型の三つ葉に分かれた葛の葉の、腋から15センチほどの穂を抽き出して、藤に似た蝶形の赤紫に咲く花も、秋の七草の一つに数えられて、可憐な風情のあるものである。
 山の木立の茂みや、荒れ果てた庭の片隅に、思いもかけず葛の花のはなやかな色彩を見出して、ふと驚かされることがある。

 葛湯・葛餅・葛根湯……、身近な人間生活に豊かな実益を提供しながら、決して栽培されることもなく、野生のままに放置され、あれだけ美しい花を咲かせながら、その美しさを忘れられている草も、珍しいのではなかろうか。

 葛の葉が、風のまにまに吹き裏返されて、その葉裏を見せることから、「裏見葛の葉」という言葉が生まれ、古くから、人の心の恨みに掛けて、和歌に詠み込まれているのも、なにがなし置き去りにされた葛の葉の恨みが通っているような気がする。

        恋しくば 尋ね来て見よ 和泉なる
          信太(しのだ)の森の うらみ葛の葉
 これは、有名な信太の森の白狐にまつわる、信太妻の伝説の中の歌である。
 助けた白狐が、美しい女性になって現われ、正体を狐と知らずに妻として、すぐれた子どもを得るという説話は、平安朝の初めに作られた『日本霊異記』に載せられている。
 浄瑠璃や常磐津、説経節、長唄に扱われる信太妻の物語は、この説話を脚色したものである。

 助けられて安倍保名(あべのやすな)の妻となった白狐は、夫の留守中、つい菊の花に見とれて本体を現わし、子どもに見つけられてしまう。
 そのことを恥じて白狐は、「恋しくば」の歌を障子に書き残して、姿をくらませてしまう。
 やがて、帰宅した保名はこれを見て、初めて妻の正体を悟り、母を慕う子どもを連れて、信太の森を尋ねる。
 しかし、二度と人間に立ち戻ることの出来ない白狐から、水晶の玉と黄金の箱とを与えられて帰る。
 その後、子どもは成長して、安倍晴明と名乗り、母から与えられた水晶の玉と黄金の箱との霊力によって、天文学と陰陽道のすぐれた博士になり、天下に名高い占いの名人になるという、虚実ないまぜた筋書きである。

 「虚実ないまぜ」といえば、「実と虚の境目の世界」を描くのがうまいのが、伊坂幸太郎である。これは、「現実に、嘘を上手に交えた話ほど面白い」という彼自身の考え方の反映という。
 その伊坂幸太郎の『SOSの猿』が、読売新聞夕刊小説として、10月3日から連載が始まる。全国紙初登場である。
 困った人を救う「私の話」と、西遊記を取り込んだ「猿の話」が不思議で切ない世界に誘います、とは読売新聞のキャッチコピー。

 作者の言葉:「子供からのSOSを見逃すな」という言葉を記事で目にしたことがあります。とくだん新鮮とも思えない言葉がその時は妙に気になり、辞書で、「SOS]を引いてみたのですが、すると、「俗にSave Our Ship(Souls)の略」とあり、はっとしました。「私たちの船(魂)を救って!」という響きに、迫力を感じたからです。以降、頭にずっとその言葉が残っていて、今回、その「SOS]を柱に、お話を書くことになりました。楽しんでもらえれば幸いです。(読売新聞、9月25日夕刊)

 これまた虚実の間(あわい)を描いた、面白い小説になりそうで、連載開始の10月3日が待ち遠しい。
 これまで殆んど新聞連載の小説を読まなかった、いや正しくは、最初の3行を読んだだけで投げ出してしまった変人。その変人を、毎日読ますことができるか。
 伊坂幸太郎と変人の勝負が、10月3日から始まる。願わくは変人の負けになることを……!


      葛の葉の裏は見せまじ五合庵     季 己

赤とんぼ

2008年09月24日 21時33分55秒 | Weblog
        夕焼け小焼けの 赤とんぼ
        負われて見たのは いつの日か

        山の畑の 桑の実を
        小籠に摘んだは まぼろしか

 ご存知、三木露風 作詞、山田耕作 作曲の「赤とんぼ」の一節である。
 いま、篠笛でこの曲の練習をしているのだが、曲のつけ方が非常にうまいと、つくづく感心する。
 日常会話には、滅多に登場しない「赤とんぼ」であるが、時たま耳にするのは、「赤とんぼ」ではなく、「垢とんぼ」が多い。赤くてかわいいトンボが、垢まみれの薄汚れたトンボに思えてならない。「赤」と「垢」は、同じ「アカ」という発音であるが、アクセントが違うのだ。
 その点、山田耕作の曲は、正しい日本語のアクセントとピタリと一致している。さすが大作曲家と感心するばかりである。

 近くの自然公園には、つい最近まで、オニヤンマ・ギンヤンマ・シオカラトンボなどの姿が見られた。
 トンボ・ヤンマは夏季と思われがちだが、「あきつ(秋津)」の古名があるように、秋季である。
 これらのトンボの姿が見えなくなり、高く澄んだ青空の下を、赤とんぼの群が、低く飛び交うようになると、それはもう全くの秋である。
 それも、夕日が西の空を茜色に染める頃、赤とんぼの群は、いっそう低く低く飛んで、いまさらのように日脚が短く、暮れやすくなったことを思い知る。
 赤とんぼは、もっとも季感のあるトンボといえよう。

 一口に、赤とんぼと言っても、いろいろあって、秋あかね・深山あかね・夏あかねなどが普通で、眉立あかねは黒い眉斑が、牛若丸に似てかわいい。
 秋あかねは、夏は高山にいて、身体の色がまだ黄色味がかっているのだが、秋になり気温が低下してくると、赤味が増し、鮮やかな茜色になり平地に戻ってくる。
「雄は赤色だが、雌は黄褐色である」と、歳時記にはある。

        染めあへぬ尾のゆかしさよ赤蜻蛉     蕪 村
 すぐれた画人の眼をもって、赤とんぼの微妙に色変わりする生態を見逃さないのが、ナガレイシいや、さすが蕪村である。
 襟元がうすら寒くなる晩秋の、藁塚に早くも霜が白く光るような朝にさえ、忘れられたように一つ二つ飛んでいる赤とんぼ。
        うろたへな寒くなるとて赤とんぼ     一 茶
 これは一茶の句であるが、読み取り方により、二通りの解釈が可能であろう。
 「寒くなるからといってあわてるのじゃないよ、赤とんぼさん」と、赤ちゃんに呼びかけるような、一茶の優しさを読み取るのが普通であろうが、
 「寒くなるからといってあわてるのじゃないよ、まだ赤とんぼが飛んでいるじゃないか」と、自分を力づけていると見るのも面白い。


      赤とんぼこの頃おむつ干すを見ず     季 己

吾亦紅

2008年09月23日 21時53分53秒 | Weblog
 「花岡哲象 日本画展」会場(銀座・画廊宮坂)に、ファンからの贈り物であろうか、清楚な花束が飾られていた。その中の“吾亦紅”が、妙に強く印象に残っている。

 初々しい愛らしさを持つ春の草花。
 激しい情熱に燃える夏の草花。
 しっとりと落ち着いた美しさの中に、一抹の哀愁を漂わせる秋の草花。
 ――萩・薄・桔梗・女郎花、すべてその類である。
 その中でも、おのずから滲み出たような慎ましやかさ、というよりも、極めて自己抑制が強いというべきものに、吾亦紅がある。

 バラ科の多年草で、山野に自生し、日当たりのよいところに多い。高さ約70センチで、小さな葉は、楡(にれ)の葉に似ている。
 初秋、暗い紅色の花の穂が、糸のように細い茎の先に抽き出て、道の辺の草叢からそっと差し覗いているこの花の姿は、「吾も亦紅(またくれない)なり」と、この文字を宛てた人の心遣いが偲ばれるほどに、いかにも控え目なものである。
 花というよりは桑の実に似て、野趣に富み、古くから歌にも詠まれている。

 吾も亦紅なりと、忘れられがちな身の上をかこつこの花の心が、その心を汲み取った人の心を揺り動かして、「吾亦紅」という漢字で表記させたものであろう。
 本来、ワレモコウという名があって、ただそれに「吾亦紅」の三文字を宛てたものとは思えない。
 ただ変人は、「吾も斯(こ)う」の意で、自分もそうなりたいの意から転じたもの、と考えている。
 「広辞苑」や「歳時記」には、「吾木香」とか「我毛香」という字も宛てているが、同じバラ科には属していても、モッコウバラとは似ても似つかぬ花である。ましてや、我が毛の香りなどとは、とんでもないことである。やはり、「吾亦紅」の文字がふさわしい。

        しやんとして千草の中や吾亦紅     路 通
 この句は、自己の存在を言葉少なに主張する、吾亦紅の心栄えを詠んだものであろう。
        此秋も吾亦紅よと見て過ぎぬ     白 雄
 また、この句は、控え目すぎて、世間から認められない己れの姿を、吾亦紅と共感した侘びしさを詠んだものかも知れない。


      日も水も己が香をもち吾亦紅     季 己

芙蓉

2008年09月22日 21時55分14秒 | Weblog
 大柄な花の少ない秋の季節に、ひときわ美しく咲き誇るのが芙蓉である。
 芙蓉は、木槿と同じくアオイ科の落葉低木で、花も葉も、木槿よりは一回りも二回りも大きく、木の丈は小さい。
 その花は、牡丹や芍薬にも似た艶めかしさと華やかさとを備え、夕顔や朝顔にも似たやや淋しい清らかさといった、互いに矛盾した味わいを一つに集めて、人の眼をひくのが芙蓉の花の特徴であろう。
 芙蓉は、沖縄県・九州・中国地方に自生するが、室町時代頃に、中国から伝わって来たものといわれている。

 木槿が、木の槿(あさがお)と書くように、芙蓉も木芙蓉(もくふよう)というのが正しいという。もともと芙蓉というのは、中国では蓮の別名であった。したがって「広辞苑」で“芙蓉”を引くと、「①ハスの花の別称。美人のたとえ」とある。同じく“蓮”を引くと「③ムクゲの別称」とあり、“木槿”を引くと「はちす。きはちす。ゆうかげぐさ。もくげ」とある。
 ということは、芙蓉も蓮も木槿もみな同じということになってしまう。古句を鑑賞する場合、よくよく注意する必要がある。
 木槿と芙蓉は似ているが、蓮の花と芙蓉の花とは、あまり似たところが見受けられないのに、これは一体どうしたことだろう。

 芙蓉は、観賞用に庭園や花壇によく植えられ、おもに淡紅色の美しい五弁の花を開くが一日でしぼんでしまう。高さ1.5メートルほど、花の大きさは10センチ前後で、白い花や八重咲きのものもある。
 一重の芙蓉には清らかさがまさり、八重の芙蓉には、華やかさと艶めかしさがまさっている。
 その八重の芙蓉を、中国では「酔芙蓉」というとのこと。
 八重の芙蓉は、はじめは白い花を咲かせているうちに、だんだんと紅色が出てきて、ついには鮮紅色に変わってしまうので、お酒を飲んだ人の顔が、だんだん赤らんでくるのに喩えたものであろう。
 だから、八重の芙蓉の木には、一株の中に、白い花や淡紅色、真っ赤な花などと、色とりどりに咲き乱れているのが見られるわけである。

        枝ぶりの日ごとにかはる芙蓉かな     芭 蕉
 「芙蓉は下のほうから咲き始めて、しだいに高いところに及ぶ。朝咲いて夕方しぼむので日ごとにかわった感じだ。その枝ぶりも日に日に変化するようでまことにおもしろい」という意であろう。
 この句は、画賛であるので、描かれている芙蓉に動きを加えた発想である。遊女の画賛という言い伝えもあるが、それでは思わせぶりな句になってしまう。

 ところで、芙蓉や蓮の花などを描かせたら天下一品なのが、花岡哲象先生であろう。
 今ちょうど、東京銀座の「画廊 宮坂」で、先生の個展が開かれている。ぜひ会場へ足を運ばれ、ご自分の眼で確かめていただきたい。

       第42回 花岡哲象 日本画展
       9月22日(月)~27日(土) 午前11時~午後6時
       先生は、25日~27日の午後、会場にいらっしゃいます。
           「画廊 宮坂」
       中央区銀座7-12-5 銀星ビル4階
         電話 (03)3546-0343 


      雨過ぎて常の日となり白芙蓉     季 己

幻想

2008年09月21日 21時54分24秒 | Weblog
 小雨の中、「21世紀の森と広場」を散策する。木々や草花、鳥や昆虫などと、俳句の材料には事欠かない。逆に、句材が多すぎて、一句をものすことが困難になるのも事実である。
 「21世紀の森と広場」は、新京成「八柱駅」の南口から、桜並木のさくら通りを進み、左に折れ、さくら橋の下を潜り抜けた先にある。駅から徒歩15分ほどであろうか。
 案内板によると、
 21世紀の森と広場は「自然尊重型都市公園」を計画理念としてつくられ、平成5年4月29日にオープンしました。
 公園づくりのコンセプトは、「千駄堀の自然を守り育てる」です。
 ということである。

 1時半になったので、隣接の「森のホール21」へと急ぐ。小ホールでの「岡本孝慈 ピアノリサイタル」を拝聴するためである。
 岡本孝慈氏は、東京藝術大学大学院終了の後、ドイツ学術交流会の奨学金を得て、デトモルト音楽大学に留学、修了試験に首席で合格したという逸材である。
 氏は、知人のビオラ奏者、岡本潤也氏の実兄である。

 プログラムは、
   ベートーヴェン  幻想的なソナタ 嬰ハ短調 作品27-2「月光」
   ブラームス    幻想曲 作品116
   マルタン     フラメンコのリズムによる幻想曲
   ベートーヴェン  「熱情」のソナタ ヘ短調 作品57
 の4曲で、このほかにアンコールとして、小品を2曲演奏された。
 今日のプログラムは、最後の「熱情」のソナタ以外はすべて幻想曲。どうやら本日のテーマは、幻想曲ということらしい。
 作曲家が、その作品に「幻想曲」と名付けるには、どんな理由があるのだろう。
 浅学にして「幻想曲」の意味さえ知らないので、「広辞苑」をひいてみた。

 【幻想曲】楽想の自由な展開によって作曲した形式不定のロマン的器楽曲。
     古くは模倣的対位法による楽曲の一種。ファンタジア。ファンタジー。

 ますます分からなくなった。そこで、今日の演奏を思い起こし、3曲の幻想曲の共通性を探ることにする。「幻想曲」と名付けるには、その表現内容には、ある一貫性があるような気がするので。
 「幻想曲」には、何か神秘的な“激しさ”があるように感じる。それは、演奏者の外面的な動きのみならず、内面的な“情熱”からくる“激しさ”ではないか。
 作曲家それぞれの個人的な感情の中に入っていくことは、なかなか難しいことである。したがって、演奏者が、何らかのインスピレーションを得た、と思えたときに「幻想曲」をプログラムに取り上げるのではなかろうか。
 最後の演目、「熱情」のソナタが、それを暗示しているように思えてならない。
 ピアニストのミケランジェリは、「500回弾かないと駄目だ」と言ったそうだが、そのくらいの“情熱”を持って、自分自身、篠笛の稽古に取り組んでいきたいと、しみじみ思った。

 詩人であり、童話作家であり、宗教家、科学者でもあった宮沢賢治は、昭和8年(1933)の今日、9月21日に37歳の若さで没した。
 賢治の多彩な才能によって形象化された作品世界は、思想性の強い特異な言語宇宙である。それゆえに、一つひとつの作品は、われわれの前にさまざまな読みの可能性をひらいている。
         金剛の露ひとつぶや石の上     茅 舎
 一滴の露に全宇宙の美を見、一陣の風に永遠のときを感ずる。空にひび割れを見、天に響く妖しい楽の音を聴き、月にりんごの匂いを感ずる。
 賢治は、心の中に明滅するさまざまな幻想や思念を、その場で書き留めて、それらを「心象スケッチ」と呼んだ。
 賢治は、美を目指したというよりは、はるかに強く生を目指した、といえよう。生の心象そのものが、内からの照射を受けて幻化している。
 賢治の作品の多くは、幻化された心象世界によって、読者の心を魅了するのだと思う。


      賢治忌の月に林檎の匂ひかな     季 己

絵画三昧

2008年09月20日 21時52分39秒 | Weblog
 花屋の仏花が千円になると、彼岸がやってくる。

 きょう九月二十日は彼岸の入り。今年の中日(秋分の日)は、二十三日である。
 俳句の世界では、単に「彼岸」といえば春の彼岸を指す。秋の彼岸は、「秋彼岸」・「後の彼岸」といい、秋分を中日とした七日間をいう。
 法要や墓参など、春の彼岸と同様に行なわれる。
 また、彼岸は花屋の日でもある。ふだん六百円の仏花が千円に跳ね上がる。この仏花の値段で、彼岸やお盆の近いことを知るのだから、やはり変人。

 和菓子屋の前では、「おはぎ」と大書された幟が、台風一過の風にはためいていた。
 「おはぎ」といえば、日本画家の菅田友子先生から早々に、おいしそう、いや、うまそうな「おはぎ」を送っていただいた。それも、餡こと黄粉の二種類を。
 けれどもまだ食べてはいない。飾ってあるだけである。
 そう、「おはぎ」は、いつも先生が送ってくださる絵手紙の絵なのである。

 午後二時から、日本橋三越の「池田清明油絵展」会場で、池田清明先生のギャラリートークを拝聴する。先生のほか、奥様・二人のお嬢様、つまり家族全員参加という非常に珍しいギャラリートークとなった。
 お二人のお嬢様をモデルに、描き続けてこられた池田先生の女性像は、尽きせぬ愛情と幸福感にみちみちて、その可憐な表情の清純さと凛とした強さを感じさせる美しさは、観る者の心をひきつけてやまない。
 長女の初絵さんから「ご案内」をいただいたので挨拶をしようとしたが、次から次へと応対し、忙しそうだったので今日も声をかけずに会場を出た。実は、初日と二日目も来たのだが、初日は、今日以上の混みよう、二日目は、姿が見えなかった、という次第。

 日本橋から徒歩で銀座の「画廊 宮坂」まで。『喜田直哉 個展』の復習と再確認をするためだ。
 初日にも楽しませていただいたが、今日が最終日なので、彼の作品をしっかりと身体に沁み込ませ、思い出と希望とが詰まった作品に、どっぷりと浸かった。
 この個展については、9月15日のブログで書いた。独断と偏見によるものだが、喜田さんも見てくださり、逆に、このブログをお友達に宣伝していただき、恐縮している。
 茶道の大成者、千利休の茶の湯の道歌に、「稽古とは、一より習い十を知り、十よりかえるもとのその一」というのがある。茶の湯の心得が全くないので、勝手に「昔の物事や古典をよく学び、道理や意味合いを正確に会得し、現在の生き方の光とする謙虚さ」と理解している。
 喜田さんにこの謙虚さがあるからこそ、古格のなかに新味のある独創的な作品が生まれるのであろう。
 今日もまた、絵画三昧の一日を過ごせたことに感謝!


      どつぷりと絵画三昧 秋彼岸     季 己 

秋の蚊

2008年09月19日 21時49分48秒 | Weblog
 残暑の厳しい頃には、あんなにもうるさいほど飛びまわっていた蠅や蚊が、秋風が立ちはじめると、めっきり数が少なくなった。
 しかし、その少なくなった蠅や蚊は、これがまた浅ましいまでに、生への執着を見せる。
 羽ばたきも物憂く、動作も鈍くなった蠅が、食卓にとまって、追っても追っても飛び立とうとしない図々しさ。
 盛りの夏には、蠅たたきの気配よりも逸早く逃げ去った蠅が、秋の彼岸ごろには、手も触れんばかりに追い立てても、じっと食物に取り付いたまま、一歩も譲らない。
        日だまりの石を離れず秋の蠅     良 介
 いずれ終わる命の束の間を、食物に飽き満ちるまでは、たとい打たれようともこの場は動かぬふてぶてしさ。あのうるさい五月の蠅以上に、憎々しさが増す反面、一抹の哀れさを感じる。
        秋の蠅うてば減りたる淋しさよ     虚 子

 ところが、秋の蚊となると、同じ憎さでも、蠅とはちょっと事情が違ってくる。夏よりも生活条件が悪くなった秋には、蚊もボーフラから抜け出たばかりの小型に出来上がっている。そのごく小さい蚊が夕方のほんのひと時、ここを先途と攻め立ててくるのが猛烈だ。
 秋も深まるにつれて数が減り、動作も鈍くなり、なんとなく弱々しく思える蠅とは違って、この小さな蚊は、すこぶる敏捷である。
 打とうとしても、たやすく打つことは出来ない。そのうえ、いったん逃がしたとなると、姿が小さいものだから、すぐに見失って、追うことすら出来ない。
        秋の蚊を手もて払へばなかりけり     虚 子
 逃げたかと思って油断をしていると、すぐ耳もとをくすぐるようにプーンと鳴いて来ては、チクリと刺す。どれほどの血を吸うでもないのに、それがまた猛烈に痛くて痒いのだ。
        
        秋の蚊のしふねきことを怒りけり     風 生
 動作に緩急の差はあっても、やがて終わる生命に執着して、ひと時の快楽をぬすもうとする執念深さにおいては、蠅も蚊もえらぶところはない。
 しかし、秋が深まり気温も低くなって動きが鈍くなり、見るからに弱々しく飛ぶ姿は、なんとなく哀れに見えてくる。
        秋の蚊のほのかに見えてなきにけり     草 城

 蠅も蚊も、ともに夏のうとましい虫であるが、秋が深まってからは心なしか、人なつっこい感じがする。
 「秋」の、われわれにもたらす感傷のためであろうか……。


      秋の蚊に攻められ母のひとりごと     季 己 

木槿

2008年09月18日 21時54分59秒 | Weblog
 散歩をしていると、そこここに木槿(むくげ)の花が目立つ。
 荒川区には、韓国の方が非常に多い。木槿は韓国の国花と聞くが、それと木槿の花の多さとは関係があるのだろうか。

           馬上吟
        道の辺の木槿は馬に食はれけり     芭 蕉

 「馬上に旅を続けていると、道の辺に木槿が白い花を一つ咲かせているのが目に入った。何気なく見て過ぎようとしたとき、その木槿の花は馬に食われて、眼前からふと消え失せ、にわかに心惹かれるものを感じることだ」という意に解する。
 この句は、「出る杭は打たれる」という寓意だとか、「無常迅速」を観じたと見るのは、あたらないと思う。
 「馬上吟」と前書きがあるように、この句は「眼前」の吟なのだ。
 見るともなしに見ていた木槿の白い花が、ひょいと食われてしまった、という一瞬の心の動きが言いとめられたものなのである。ことさらに巧んでなく、自然な句の姿で、今までの作にくらべて、その点に芭蕉の新しい歩みの跡をうかがうことができる。古今の木槿を詠んだ句の、ナンバーワンだと思う。

 木槿は、むかしは生垣や畑の境目などに植えられていたが、いまは独立した一本の木として、この辺では植えられている。
 芙蓉によく似た花で、うす紫で花底の濃い色のものが多く、白やピンクもある。夏の終りから咲き始めて、秋の最中に盛んに咲く花である。

        鼻かんで捨てたるはてや白木槿     也 有
 この句は、白木槿の落花が、鼻をかみ捨てたチリ紙のように見える形を、ありのまま取り上げはしたものの、ただそれだけのおかしさで、芭蕉の句のような広がりがない。

 『萬葉集』巻十に見える、
        朝がほは 朝露負ひて 咲くといへど
          ゆふかげにこそ 咲きまさりけれ
 の歌に詠まれた「朝がほ」は、いまの木槿のことで、おそらくこれも白木槿であろう。実体に忠実な観察がなされている、と言えよう。
 朝の明るい光の下では、也有の句に詠まれた、鼻をかみ捨てたチリ紙ほどにしか見えない白木槿の花が、黄昏時の薄明かりには、かえってぽっかりと浮かび上がって、妖しいまでの美しさを漂わせている微妙な効果に着目した、万葉歌人の鑑賞眼を褒めねばなるまい。


      ゆるやかに着て笛匠(ふえだくみ)むくげ咲く     季 己

曼珠沙華

2008年09月17日 21時54分57秒 | Weblog
 地下鉄などの駅構内に、曼珠沙華のドアップ写真のポスターを見かけることが多くなった。今日も日本橋駅で、高麗の観光ポスターの曼珠沙華に出会った。

 曼珠沙華は、秋の彼岸のころ咲くので、彼岸花と和名がついた通り、その頃を盛りに焔と燃えて、真っ赤に群がって咲いている。そうして彼岸が過ぎると、消えたようにぱったりと花を終わらせてしまう不思議な花である。

        西国の畦曼珠沙華曼珠沙華     澄 雄
 田の畦や川の土手、丘の裾や墓などの湿った場所に、群がり咲いている曼珠沙華。その燃えるような紅の色が、秋の空のコバルト色と鋭いコントラストを見せて、花の盛りが短いだけに、いっそう鮮やかな印象を与える。
 それに、曼珠沙華には毒があるということも手伝って、その花の美しさには、何か息苦しい妖しさを感じてしまう。たとえば、毒婦・高橋お伝のような……。

 真紅・凄艶な曼珠沙華は、歌題に詠まれなかったためか、許六・蕪村が、
        弁柄の毒々しさよ曼珠沙華     許 六
        まんじゆさげ蘭に類ひて狐啼く     蕪 村
 と、よそよそしく詠んだだけで、全く顧みられなかった。
 激情の人・芭蕉さえも、旅の途中に、この花の赤光に目を射られながら、ついに句にはしなかった。
 和歌から派生した連句を祖とする俳句の、哀しい絆(ほだ)しのようなものの感じがする。
 この花に、極楽を荘厳するという赤花「曼珠沙華」の名を充てた人は、誰だったろうか。

 昭和に入ってから、俳人の目は拭われてきた。
        つきぬけて天上の紺曼珠沙華     誓 子
 を筆頭に、絶唱ともいえる名吟が目白押しに現れて、しかもまだ、この妖花の味わいは詠みつくされていない。
        むらがりていよいよ寂しひがんばな     草 城
 彼岸花と言い換えると、なつかしい道の辺の童画の草花と化すのもいい。

 曼珠沙華の鱗茎(球根)は、搗いてよく水にさらすと、純白な餅やウエハースの原料にもなる。
 死人花・捨子花・幽霊花・狐花の陰惨な名を持つこの毒草に、飢餓を救われた人々の数もまた少なくはない。

        曼珠沙華不思議は茎のみどりかな     双 魚
 曼珠沙華は、冬の終りから、野蒜に似た細い葉を出すが、この葉は春がゆくとともに、枯れてなくなり、秋には花茎だけをひきだして、それが生命のような真っ赤な花を咲かせる。そこで曼珠沙華のことを、「葉見ず花見ず」とも言う。葉は花を知らず、花は葉を知らぬということである。

 彼岸が過ぎると、花を散らせた茎だけが残って、淋しげに立ち並ぶ。間もなく霜の頃には折れ朽ちて、その跡から新しい翌春の葉を芽生えさせる。
        曼珠沙華消えたる茎のならびけり     夜 半
 ところで、昔の飢饉に際しては、この毒があるという曼珠沙華の鱗茎を水にさらして、片栗のような粉を作り、お餅に搗いて食べたこともあるというのだから、飢えというものは恐ろしいものである。

 稲作の伝来とともに中国から渡来したと考えられる曼珠沙華は、梵語の赤い花という意味といわれる。
 白花種もあるが、これは「しょうき蘭」との雑種と推定されている。


      三味線の上達祈願 曼珠沙華     季 己

黄菊白菊

2008年09月16日 23時37分11秒 | Weblog
 「九月菊花アリ、花事ココニ至リテ窮マリ尽ク……」とあるように、菊は、花の決定版であろう。奈良朝後期の中国からの渡来品であるというが、清く、あでやかで荘厳でさえある。

        黄菊白菊其の外の名はなくも哉     嵐 雪
 「色とりどりの菊が咲き揃っているが、清楚な美しさにおいて黄菊白菊が最もよい。そのほかの菊は、むしろ無い方がよい」の意である。
 「其の外の名は」と言っているが、実は「其の外の菊は」の意である。「菊」の重複を避けて、「名は」と表現したのは技巧である。
 この句は、「菊花九唱」として発表された連作中の其の三で、「百花を揃へけるに」の詞書がある。

 菊を愛することは、隠逸のポーズとして、当時の俳人の間にも流行していたものと思われる。
 この句は、嵐雪の代表作の一として、後世ことに喧伝された。
 『俳諧世説』によると、其角がこの句に深く感じて「我、一生此の句に及ぶこと思ひもよらず」と嘆息したという。この逸話は、真偽のほどが明らかでないが、こうしたことが一層この句を有名にしたものと思われる。


      雲丸くまるく下総菊日和     季 己