壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

春なれや

2010年01月31日 20時27分16秒 | Weblog
          奈良に出づる道のほど
        春なれや名もなき山の薄霞     芭 蕉

 『野ざらし紀行』(波静本)に所出の句であるが、異本その他には、下五「朝がすみ」とある。
 故郷の伊賀を出て、奈良から京都へ上るつもりだったようで、その伊賀上野から奈良へ出る途中の吟であろう。
 この句では、何より心静かに旅を楽しんでいる芭蕉の姿が見られる。これは故郷での生活が、芭蕉の心に潤いを与えたのと、奈良・京都へのあこがれの気持がおのずと心を和やかにしたためであろう。由緒ある山ではなく、「名もなき山」であるところに、芭蕉の心が動いているのである。下五「薄霞」は、むしろ初案と思われる「朝がすみ」に心ひかれる。
 奈良は今年、平城遷都1300年。「はじまりの奈良、めぐる感動」をテーマに県内各地で、1300年の時空を超えた感動の「場」と「機会」が準備されている。

 「春なれや」には、「春だなあ」と詠嘆に解するのと、「春なればこそだろうか」と理由を考えて肯(うなず)く気持に解するのと二説がある。「さすがに春だなあ」と、詠嘆説に従いたい。
 季語は「薄霞」で春。

    「静かに旅をつづけてゆくと、ふだんなら見過ごしてしまうような何の見どころもない山にも、
     霞が薄くかかっていて、何となく心ひかれる趣がある。さすがに春だからなあ」


      冬凪の川より海へ出るところ     季 己

すこし

2010年01月30日 21時37分34秒 | Weblog
        菎蒻の刺身もすこし梅の花     芭 蕉

 『蕉翁句集』によれば、去来の身寄りあるいは、去来と共通の知人の追福の意が、発想の契機と思われる。
 菎蒻(こんにゃく)の刺身も少し霊前に供えて、故人の追憶にひとりふけっている侘びしい姿を自ら眺めているおもむきである。余寒の庭前に咲き出し、かすかに匂うている梅の冷たさが、この心に一脈の明るさとさびしさとを通わせて、かすかな心のゆらぎを誘うのである。

 「菎蒻の刺身」は、仏前に供える精進料理の一つであるとも、伊賀の料理で、菎蒻を薄く切り、湯がいて酢味噌で食べるものともいう。
 「すこし」は、出典書すべてが仮名で表記しているので、「少し」とも、「凄(すご)し」とも両様に解せる。文語の「凄し」は、口語の「すごい」にあたり、
  ①恐ろしい。気味が悪い。すさまじい。
  ②ぞっとするほど物寂しい。
  ③恐ろしいほどすぐれている。すばらしい。
  ④程度がはなはだしい。ひどい。
 などという意味になる。
 『蒙引』は「凄し」と解し、『句解参考』にも、「亡き人の事をいふめれば、凄しといふ義理に必定せり」と述べている。また芭蕉は、この句より以前に、李下(りか)の妻を悼んで、「かづき伏す蒲団や寒き夜やすごき」とも詠んでおり、この説もむげには否定できない。しかし、ここでは素直に「少し」と見ておく。

 季語は「梅の花」で春。菎蒻の刺身というものの感じと対比して、「梅の花」がひときわ鮮やかな印象をとどめる。

    「亡き人の忌日とて、菎蒻の刺身も少し添えて斎膳(ときぜん)を供えた。庭前には、余寒の
     中に梅の花が咲き出て、故人を偲(しの)ぶ心にふさわしい」


      寒桜あたりありあり淡きかな     季 己

御意を得る

2010年01月29日 22時52分48秒 | Weblog
        梅が香や見ぬ世の人に御意を得る     芭 蕉

 『続寒菊』に、「此の句は、楚舟亭におはしたる時、はじめて見(まみ)えたる人に対してとの端書有り」と注記して所収。
 楚舟は江戸の人。『炭俵』・『別座鋪(べつざしき)』などに句が見えるが、詳しいことはわからない。芭蕉晩年の門人と思われる。

 「御意(ぎょい)を得(う)る」という口調のおもしろさに、自らひかれた発想だといえよう。発想に若いところを残しているので、貞享年代の作と考えられる。

 「見ぬ世の人」というのは、『徒然草』などに、「見ぬ世の人を友とする」とあるように、ゆかしい古人の意でいったもの。
 「御意を得る」は、「お目にかかる」あるいは、「お考えを承る」という意。ここでは前者。あらたまった侍口調に、狂言などのような軽い味がある。

 季語は「梅(が香)」で春。『徒然草』にも、「花橘(はなたちばな)は名にこそおへれ、なほ、梅の匂ひにぞ、いにしへのこともたちかへり恋しう思ひいでらるる」とあり、古(いにしえ)をしのぶよすがとして梅が生かされている。

    「初めてお目にかかる人だが、折から匂いたつ梅に惹(ひ)かれるように、高風まことに
     敬意を禁じ得ない。遠い昔の由ある人にお目にかかる思いがする」

 
 きのう、盆梅が二輪開花した。きょうの暖かさに、白い花がまた二つひらいた。二階のベランダに置いてあるのだが、間もなく八十九歳になる母のために玄関に移した。というのは表向きで、二階の部屋はまだ片付けていないので、それを見られたくないから……。
 午後、『窪田元彦写真展』(銀座・画廊宮坂)へ行く。「画廊宮坂」は不思議な空間である。今日も、とても素敵な方の御意を得た。
 宮坂さんの『画廊は小説よりも奇なり』に、「奥さんを大事にしろよ」で登場する古池國雄さんが、その人である。今年九十歳になられる古池さんとは初対面であるが、お噂はかねがね宮坂さんからうかがっていたので、旧知の間柄のように感じてしまった。
 今も現役で、重要な役職についておられる古池さん。ふつうなら変人など、お近づきになれない方なのだ。古池さんのすぐれたお人柄に、感服のしどおしであった。
 


      ヴェネツィアの海 白梅の花明り     季 己
 

不動明王

2010年01月28日 23時09分28秒 | Weblog
        正月の末の寒さや初不動     久保田万太郎

 初不動とは、不動尊のその年初めての縁日で、一月二十八日。関東では千葉の成田不動尊が知られ、大阪では天満宮のかたわらにある不動尊が有名である。
 この日、各地のお不動さんは老若男女を問わず、熱心な信者のお詣りで賑わいを見せる。

 お不動さんは、不動明王を親しみをこめた呼び名で、梵名をアシャラナータという。
 不動明王と呼ばれるのは、火を観想して動ぜず、あらゆる障害を焼き尽くす大智の火を身から発するといわれるからである。
 不動明王は、大日如来の使者となり、悪を断じ、善を修し、真言行者を守護する役割を担っている。しかし、本来的には大日如来の教令輪身(きょうりょうりんしん)で、如来そのものなのである。

 東寺講堂の不動明王像は、日本最古のもので、不動明王の基本形を示している。しかし、この像は両眼をともにひらき、上の歯で下唇を噛む形を示し、のちの不動明王像とは異なる姿である。
 京都・峰定寺(ぶじょうじ)の不動明王像は、左眼を半眼に閉じ、下の歯で上唇を噛み、二本の牙をあらわすが、これが普通の不動明王の姿である。この像は、頭髪もベン髪でなくて巻髪(けんぱつ)になっている。また、この像が三尊形式をとった立像だということも注目される。
 この像は、本尊千手観音像の脇侍なのだが、不動明王自身もその眷属として、右にこんがら童子、左にせいたか童子を従えている。

 不動明王への信仰は、密教が盛んになった平安初期から広まり、国や個人を守るものと考えられた。とくに江戸時代には、不動尊信仰に排他性がなく、どのような宗派のものでも信仰することが出来たために、東国民衆に広く信仰された。
 江戸には、目黒・目白・目青・目赤・目黄の五不動があったが、不動尊をその身体ないしは目の色で描き分けることは、平安時代からすでに存在していた。
 大津三井寺の黄不動・高野山明王院の赤不動・京都青蓮院の青不動を総称して、三不動という。


      雨雲の濃きも淡きも初不動     季 己

深川八貧

2010年01月27日 22時58分34秒 | Weblog
          雪の夜の戯れに題を探りて、「米買」の
          二字を得たり
        米買ひに雪の袋や投頭巾     芭 蕉

 久しぶりに芭蕉庵に落ちつき、ふだん芭蕉庵に出入りしている親しい門人たちの中にとけこんでいる芭蕉。深川八貧と戯れたり、米買の番にあたって米袋をそのまま投頭巾にしようと興じたりする。そういう心のはずみが口調の上でごく自然に、「雪(行き)」という掛詞をはたらかせるわけで、風狂の体というべき一つであろう。
 この句、米袋を投頭巾とする説と、投頭巾を米袋とする説と二説ある。前者の説のように解した方が自然であろう。

 「深川八貧」とは、ふだん深川の芭蕉庵に出入りして、風雅の志を一つにした門人たち(依水・苔翠・泥芹・夕菊・友五・曾良・路通)に芭蕉自身を加えて、杜甫の「飲中八仙歌」になぞらえ、たわぶれにいったものであろう。
 「題を探りて」は探題のことで、詩歌の会で、与えられたいくつかの題の中から探りとった題で制作すること。
 「米買の二字を得たり」というのは、当夜、真木買・酒買・炭買・茶買・豆腐買・水汲・飯炊きおよび米買の八題を置いて句作し、芭蕉は米買にあたったので、その句を詠んだという意味。
 「米買ひに雪の袋」というのは、米買いに行くのに雪の中を提げてゆく姿の意で、「雪」に「行き」を掛けた発想。
 「投頭巾」は頭巾の一種、四角に縫った上の端を後ろに折ってかぶるもの。米を入れる袋をそのまま頭巾としたのである。

 季語は「頭巾」で冬。「雪」も冬季であるが、この句では、「頭巾」がつよくはたらいている。「雪の袋」は、おのずと雪まみれの投頭巾が目に浮かんでくるように、仕立てられている。弾みと勢いを持った表現である。

    「米買いに行こうとすると、外はさかんな雪である。そこで、この米袋を即席の投頭巾として
     出かけようぞ」


      おでん屋の卵ぶつかり不動尊     季 己

火桶

2010年01月26日 21時42分49秒 | Weblog
          古き世をしのびて
        霜の後撫子咲ける火桶かな     芭 蕉

 「霜の後」という口調には、その時節を指すだけでなく、花一つ見られないはずのところに、思いがけなく時ならぬ撫子(なでしこ)を見たという驚きを寄せていることが感じられる。
 古注の多くが、藤原定家の「霜さゆるあしたの原の冬枯れにひと花咲ける大和撫子」(『拾遺愚草』)を踏まえていると見て、
  イ、冬の間用いられた火桶に、今は撫子が植えられているさま。
  ロ、火のはなやかにおこったさま。
  ハ、俊成・定家の故事にならう意。
  ニ、火桶を撫で愛しむ意。
 などなどととる諸説がある。

 「古き世をしのびて」というのは、古い時代の火桶には撫子の絵が描かれていることが多く、中世の絵巻や奈良絵本の類に、そのさまをうかがうことができる。けれども、元禄の頃はすでに古風のものとなっていた。
 「撫子咲ける火桶」については、『住吉物語』(元禄八年刊か、清流編)に、清流の芭蕉を追悼した句に、「翁の句のはしをおもひとりて、なでしこの花もやつるる火桶かな」とある。
 「火桶」は、木を丸形に刳(く)り貫(ぬ)いてつくった火鉢。内側に銅や真鍮などの金属板が張ってある。「ひびつ」ともいい、初め桐の材を使い、それに絵を描いた。『枕草子』に、「人の家につきづきしきものは竹鶯ゑがきたる火桶」などとある。これが季語で冬。「霜」も冬。「撫子」は秋。

    「火桶の前にうずくまっていると、いかにも由緒ありげに撫子が描かれている。霜の後は何の
     花も目に入らぬ折のこととて、ここに思いがけなく撫子が咲いているのはうれしいことだ。
     この古めかしい火桶から、これを使った昔の人がおのずと思い起こされてくる」


      良寛の軸や炭の炎とろとろと     季 己

窪田元彦写真展

2010年01月25日 23時09分06秒 | Weblog
          曾良何某は、此のあたりに近く仮に居を
          占めて、朝な夕なに訪ひつ訪はる。我喰
          物営む時は、柴折りくぶる助けとなり、
          茶を煮る夜は、来たりて軒をたたく。性
          隠閑を好む人にて、交り金を断つ。ある
          夜、雪を訪はれて、
        君火を焚けよき物見せん雪まるげ     芭 蕉

 雪の中を訪ねてくれた喜びにはずんだ気持が、まさに語りかけるような口調となって流れ出ている。「君火を焚け」という字余りは、この口調を生かす働きをしている。『笈日記』の「君火たけ」の形は、この流動感をまったく殺してしまうようである。

 「君」は、前書きにより曾良(そら)のこと。曾良は、岩波庄右衛門正字(まさたか)といい、後、河合惣五郎とも称した。信州諏訪の出身。『鹿島紀行』・『奥の細道』の旅に、随行した人である。
 前書きの「交り金(こがね)を断つ」は、「断金の交り」で、非常に深い交わりをいう。
 「雪まるげ」は、雪まろげ・雪まろばし・雪こかし、などともいい、雪を転がし丸める子どもの遊び。これが季語で冬。

    「わざわざ雪の夜を訪ねてきてくれた君へのもてなしに、よいものを見せてあげよう。
     君は炉にどんどん火を焚いてくれ。ひとつ私は庭先の雪で、雪丸げをこしらえて見せ
     よう」


 『窪田元彦写真展』(「銀座・画廊宮坂」)へ行ってきた。
 「Beyond the silence,Paris-Venice]と題する、パリとヴェニスの写真展である。写真家・窪田元彦氏の心眼と感性とでとらえられた、パリとヴェニスの風景が何とも心地よい。
 パリとヴェニスの最高の見どころや、滅多に見に行かぬ夜の光景などなど、本当に旅行している気分になれた。タダで海外旅行ができた上に、お茶とおいしいお菓子付き、非常に得した気分である。
 「画廊宮坂」の宮坂祐次さんといえば、この1月10日に、『宮坂通信 縮刷完全復刻版』と『画廊は小説よりも奇なり』の二冊を上梓された。私家版なので書店には並んでいないが、今、関係者の間では話題沸騰、売れに売れているようだ。
 今日も『画廊は……』に登場する「裏切られたその人は死んだと思え」の倉上さん、雨の千葉さん、「嚢中の錐」の水上さんなどともお話しできた。
 「嚢中の錐(のうちゅうのきり)」とは、『史記』(平原君伝)にあることばで、「内に才能のある人はたちまち外に現れることのたとえ」である。
 ちなみに、禅語にある「閑古錐(かんこすい)」は、心の安らいだ状態をたたえる語で、「真・善・美・聖をふみこえた大いなる愚の世界」をいうようである。
 「三度の武田」にとって、「画廊宮坂」は、まさに「閑古錐」の境地に浸れる絶好の〈喫茶画廊〉なのである。いくら感謝しても仕切れない……!


      嚢中の錐や冬雲 日矢放つ     季 己

酒飲めば

2010年01月24日 21時14分07秒 | Weblog
          あら物ぐさの翁や。日比(ひごろ)は人の訪ひ来るもうるさく、
          人にも見(まみ)えじ、人をも招かじと、あまたたび心に誓ふ
          なれど、月の夜、雪の朝(あした)のみ、友の慕はるるもわり
          なしや。物をも言はず、ひとり酒飲みて、心に問ひ心に語る。
          庵の戸おしあけて、雪を眺め、又は盃をとりて、筆を染め筆を
          捨つ。あら物狂ほしの翁や。

         (ああ、何とめんどうぐさがりな爺だこと。日ごろは、人が訪ねて
          来るのもうるさく、人にも会うまい、人をも招くまいと、何度も
          心に誓うのであるが、ことに月の夜や雪の朝は、友が恋しくなる
          のはしかたのないことであろう。物をも言わず、ひとり酒を飲ん
          で、自問自答する。庵の戸を押し開けて、降る雪を眺め、あるい
          は又、盃を片手に筆をとり、またすぐ、筆を置く。ああ、何とも
          気違いじみた爺だこと)

        酒飲めばいとど寝られね夜の雪     芭 蕉

 徹底した独詠の句である。自らもてあました嘆息が、聴かれるようである。
 「酒を飲むと思いがわき上がって、いよいよ眠れない」というので、「夜の雪」は眼前の景である。「酒を飲むといよいよ眠れないが、夜の雪を見ると、慰められる」というのではない。
 「深川八貧」のような興じた作品に、芭蕉庵生活の俳交の面を見るとともに、この句などに、孤独の面を見て、あの逸興の姿も、実は、こうした孤独の上に立っているのだと感じないではいられない。
 出典は『本朝文鑑』であるが、これからみて、元禄四年以前、前書きよりして深川芭蕉庵での作。該当する年として、貞享三年および元禄元年が考えられるが、『蕉翁句集』にいうごとく、おそらく貞享三年(1686)の作であろう。

 「いとど」は、「いよいよ・ますます・さらにいっそう」の意。
 「寝られね」の「ね」は、打ち消しの助動詞「ず」の已然形(いぜんけい)。〈係り結び〉といって、「こそ」が上にあり、それを受けて結ぶのが普通であるが、詩歌などでは、「こそ」がなくても強く言う場合に用いられている。ここはそれである。
 文語文で、係助詞「ぞ・なむ・や・か」は、連体形で結び、「こそ」は、已然形で結ぶことを〈係り結び〉という。係助詞を「係り」、呼応する活用形を「結び」という。

 季語は「雪」で冬。

    「夜の雪がしんしんと置いている。これに対していると、自分の寂寥がはっきり感じられて、
     酒を飲んでみるのだが、飲むと、いっそうさまざまの思いが胸を去来して、かえって寝つかれ
     ないことだ」


      点滴をして湯豆腐の浮き沈み     季 己     

紙衣

2010年01月23日 21時50分17秒 | Weblog
          ある人の会
        ためつけて雪見にまかる紙衣かな     芭 蕉

 紙衣を無邪気にためつけている芭蕉の姿が感じられて、なつかしい句である。こうして雪見に興じている姿に、寂しいが、ほのかな明るさが見られるようだ。貞享四年(1687)十一月二十八日の作。

 「ためつけて」は、着古されて、癖がついたり皺ができたりしている紙衣(かみこ)を、伸ばし直して、の意である。それが袴(はかま)や肩衣(かたぎぬ)でなく、紙衣であるところにおもしろみがあったわけで、雪見に出かける心のはずみが感じられる用語である。
 「まかる」は、参る、出かける、ということをやや興にまかせて言った口調。
 「紙衣」というのは、紙子、紙小などとも書き、厚紙に柿渋を引いて晒して乾かし、揉み和らげて、一夜、露に晒して臭みを抜き、それから衣服に仕立てたものである。天和・貞享のころ大いに流行した。

 季語は「紙衣」で冬であるが、この句では「雪見」がはたらいている。

    「自分の紙衣も着古して皺や癖が出来てしまった。雪見の会に出かけるのだから、せめて伸ばして、
     折り目を正して、さっぱりさせて出かけよう」


     ポケットの点滴はづみ冬帽子     季 己

ひろく ひろく もっとひろく

2010年01月22日 20時56分17秒 | Weblog
 「楽しい、たのしい金曜日。楽しい、たのしい点滴を受けて来ま~す!」と言ったら、「楽しい、たのしい点滴を始めましょう」と先生が応じてくれた。

 隔週金曜日が、楽しいたのしい点滴(抗癌剤治療)の日。今日が、その楽しい金曜日。
 尿・血液検査、血圧、体温、体重、すべて申し分ない数値だという。それで本日の抗癌剤治療にGOサインが出たのだ。

 正午ごろ、外科処置室のベッドに横になる。0時15分に先生が見えて、楽しい、たのしい点滴の始まり、はじまり。
 今日も三時間あまりを、うつらうつら。自分のいびきで目を覚ましたのは、二回と記憶しているが定かではない。
 なお、治験のKさんのおすすめで医療相談室へ行ったところ、二月からの医療費の自己負担は、月額24,600円で済むことになった。(治験のKさん、および医療相談室のKさんに心より感謝申し上げます)
 たとえ3ヶ月後に戻ってくるとは言え、一ヶ月の負担が、十六万円余りから24,600円になるのだから大助かりである。ただしこの制度は、入院の際に適用されるもので、外来の場合は、それぞれの区市町村の条例により、適用・不適用がある、とのことである。幸い、荒川区には、外来の場合も適用される制度があったので、病院と区との話し合いの結果、適用が決まった次第。

 ――『金剛般若経』に、こんな“ことば”がある。

        「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」

 「応(まさ)に住する所無くして其の心(しん)を生ずべし」と、読むのであろう。
 「応無所住而生其心」は、釈尊が、十大弟子の中で最もよく空思想を理解した須菩提(しゅぼだい。また、スボダイともいう)に、心の持ちようの要点を教えた言葉として知られている。
 梵語原典からの漢訳と、その詠み方はよくわからなかった。幸いなことに、原典からの和訳があるので大変勉強になった。すなわち、
        「求道者・すぐれた人々は、とらわれない心をおこさなければならない。何ものかに
         とらわれた心をおこしてはならない」(中村元、紀野一義氏訳)
 と。これではっきりするが、もう少しその先を読みつづけると、いっそう意味が明確になる。
        「形にとらわれた心をおこしてはならない。声や、香りや味や、触れられるものや、
         心の対象にとらわれた心をおこしてはならない」

 漢訳の「住する」とは、「住む・とどまる」の意味で、心が一点に停滞する状態をいう。交通渋滞が交通事故につながるように、心の停滞は、人間を迷わす根源となる。
 つまり、「応無所住而生其心」の意味は、「一点に執着することのない心をおこさなければならない」ということになろう。
 この「心」は、歌題にもされたほど、日本人の心に深く根を下ろしている。『続拾遺和歌集(しょくしゅういわかしゅう)』に、
        あはれなり 雲井を渡る 初雁も 心あればぞ ねをば鳴くらん
 とある。

 唐代の禅者は、「而生其心(しかも其の心を生ず)」の四字を深く見るようだ。「其心(ごしん)」とは、とらわれのない心で、その心が、般若の智慧のはたらきをするからである。
 奈良・薬師寺管長であった、故高田好胤師のつねに提唱された
        「かたよらない心 こだわらない心 とらわれない心
           ひろく ひろく もっとひろく ……」
 は、現代の人々によく理解される“ことば”であろう。


      セーターの看護師 勤め終へたらし     季 己

水仙花

2010年01月21日 21時28分49秒 | Weblog
        其の匂ひ桃より白し水仙花     芭 蕉

 『笈日記』の前書きに、「新城(しんしろ)に白雪という男がいて、風雅をたしなむ息子が二人いた。二人ともたいそう賢かった。芭蕉翁もその少年の才を見抜き、この二人に桃先、桃後という俳号を与えた。新城はむかし、芭蕉翁が逍遥した地である」とある。
 白雪の二人の子の才をほめるのに、水仙の花の風韻高きをもってし、それにちなむ俳号を贈った際の句で、技巧的な発想であるために、句の純一化を妨げているところがある。

 「匂ひ」は、古く、視覚的な美を意味したことばで、ここもそう解すれば、下の「白し」との関連も自然になる。ここでは、そのように解しておくが、水仙の清らかな香りをさしたものととる説も捨てがたい。
 「白し」は、上の「匂ひ」を香りととった場合には、「海暮れて鴨の声ほのかに白し」、「石山の石より白し秋の風」などとも対比される用い方で、臭覚を視覚的に表現し、香りの清らかさをいったものと解される。もしかすると、亭主白雪の「白」をきかせているかもしれない。

 白雪は、通称、太田(大田)金左右衛門長孝。升屋といった新城の庄屋。元禄四年以前の芭蕉との関係は明らかでないが、以後、蕉門俳人らと広く交遊している。
 長男重英・次男孝知も俳人で、このとき芭蕉からそれぞれ桃先・桃後の号を与えられた。桃先・桃後は、支考によれば、水仙花の異名にちなんだものというが、その異名の桃先・桃後は、顔潜庵の水仙を詠じた詩に、「翠袖黄冠玉作神、桃前梅後独迎春」とあるのによるもので、いささか記憶の誤りもあったものかという。
 桃青の一字をを与える気持もあったのではないか、という気がする。

 「桃」は春だが、ここでは「水仙」が季語としてはたらき冬。

    「水仙が香り高く咲いている。その気品ある純白さは、桃などよりもずっとすぐれている
     ようである」
 (それ故に、「その水仙にもたとえるべきこの家の二人の息子に、水仙の異名にちなんで、わたしは桃先・桃後の号を贈ろう」というこころが含められている)


      房総の海の若さよ野水仙     季 己

2010年01月20日 22時47分25秒 | Weblog
          旅 宿
        ごを焼いて手拭あぶる寒さかな     芭 蕉

 しみじみとした覉旅(きりょ)の寒さが感じられる句である。「手拭(てぬぐい)あぶる」という語に芭蕉の姿があり、多くの句の中でも、芭蕉の肉体がじかに感じられる語の一つであろう。この「寒さ」は季の寒さであるが、人間と自然の滲透し合った「寒さ」でもある。

 『笈日記』ほか二書の前書きは「旅宿」であるが、一書には、「吉田の内、下地(しもじ)にて」と前書き。
 諸本、「焼て」とあるので、「たいて」・「たきて」の両様に読めるが、ここでは「たいて」と読んでおく。
 貞享四年(1687)十一月十日前後、弟子の杜国を訪ねたときの句。

 「ご」は松の枯落葉のこと。多くはかき集めて焚物にするのをいう。「こくば」・「こくぼ」ともいう。また、落松葉を掻き寄せる熊手を「ごかき」という。
 江戸時代、伊賀・尾張・三河地方に方言として残った。『宇津保物語』(菊宴)に、「紅葉折りしきて松のご、果(くだもの)盛りて……」とあるのが初出という。
 「下地」は、豊橋市内の下地町。

 季語は「寒さ」で冬。

    「旅の宿に泊まって、松葉を焚いて濡れ手拭をあぶってかわかしていると、寒村の寒々とした
     旅情が、身に沁みるようである」


 きょう一月二十日は、二十四節気の〈大寒〉である。一年で最も寒さが厳しい時季なのだが、今日の暖かさは異常である。
 「虫干し展」で虫干しを終えた“箱入り娘”たちが、「画廊宮坂」から拙宅に戻り、それらを二階に上げるのに一苦労。大寒に、大汗を掻きながら全て二階には上げたが、整理は後日と決め込んだ。
 今頃になって、手が痛くなってきた。やはり年のせいか……

      大寒や疲れしらざる花椿     季 己

松飾り

2010年01月19日 22時42分54秒 | Weblog
        幾霜に心ばせをの松飾り     芭 蕉

 掛詞が使われているので、中七のところの句意があいまいであるが、心のはずみは、かなり出ているようである。芭蕉を、わが庵の門松として見立てようという意にも解されるが、やはり、幾霜に節操を守る松の意で、そこに自己の操守(そうしゅ)を託したものであろう。過去の手法を、かなり色濃く残している句である。

 「幾霜に」は、幾たびとなく霜にあってもの意で、幾度、霜や雪を経ても操守かわらぬ松の緑を裏にひそませていっている。
 「心ばせを」は、「心ばせ」すなわち操守の意と、「ばせを(芭蕉)」とをかけたもの。『古今集』物名部、紀乳母(きのめのと)の「ささ、まつ、びは、ばせをば」と題した歌に「いささめに 時まつまにぞ 日はへぬる 心ばせをば 人に見えつつ」という歌があるが、この歌が、遠くから匂っているようでもある。

 「松飾り」が季語で春(新年)。

    「幾霜を経ても変わることなき心ばせを見せている、わが芭蕉庵の松飾りである。それを
     見ながら、私はいま新たな年を迎えている」


      骨壺の話こまごま野水仙     季 己       

一生に一度

2010年01月18日 11時05分00秒 | Weblog
 一生に一度の貴重な体験をさせていただいた。東京銀座「画廊宮坂」での『虫干し展』のことである。

 箱入り娘のまま、長年積んでおいた作品の点検が目的なので、『虫干し展』としたのだが、冬に“虫干し”とは変だ。また、『虫干し展』というと、画廊の在庫作品の虫干しということで、佳い作品が格安で入手できるチャンスと期待してしまう。来てみたら、本当に一個人の作品の虫干しで、それならそうと書いておけよ、と思われた方もおられたに違いない。(心よりお詫び申し上げます)

 「俳句はつぶやき」を標榜する変人としては、大上段に振りかぶった作品よりも、心にしみいる作品が好きなので、そのような作品を購入してきたつもりである。
 もちろん、このことは「画廊宮坂」の宮坂祐次さんとの“出会い”以後のことで、それ以前のものは授業料だと思っている。
 人と人との出会い、人と物との出合い。この“出会い”によって、人生はさまざまに変化することを、しみじみ感じた五日間であった。
 また、何ごとも「道は一つ」ということも、あらためて確信できた。絵画も俳句も、〈つくった作品〉はイヤらしく、〈さずかった作品〉は人をあたたかく包みこむ。授(さず)かるためには、己を磨かねばならない。等々いろいろ考えさせられた得難い「虫干し展」であった。

 損得だけしか考えない画商に出会った作家は、不幸だと思う。もっとも、ご本人は、己を磨くことなく、画商の指示にしたがって描きさえすれば、大金と名声が転がり込んでくると思っているだろうが……。
 さらに不幸なのは、そういう作品を舌先三寸の口車に乗って、買わされてしまう人だ。これも出会いの悲劇の一つである。

 あとあと後悔しない作品が欲しいなら、「画廊宮坂」へ通うことだ。お茶を出されても買う必要はない。お茶をいただきながら、じっくりと作品を観ればいい。“見る”ではなく“観る”ことが大切だと思う。
 そうしてある日、気に入った作品と出合ったとしても、即決しないこと。もう一度、日を改めて出かけ、それでもやはり欲しいのであれば、ぜひ購入していただきたい。こうして手に入れた作品は“ご縁”のある作品なのだから。“ご縁”のある作品は、必ず作品の方で待っていてくれる。反対に、“ご縁”のない作品はその間に、ご縁のある他の人のところへ行ってしまうのが、「画廊宮坂」の不思議なところ。
 ちなみに、初めて入った画廊でお茶を出してくれたのは、「画廊宮坂」とH画廊(今はない)の二軒だけであった。他の画廊は「いらっしゃいませ」の一言だけで、帰り際こちらが「ありがとうございました」と言っても、無視?されるのがほとんどであった。

 ご来場くださった皆様に深く深く感謝申し上げます! ありがとうございました!


      冬晴れのひと声ひかる画廊かな     季 己

闇を見よとや

2010年01月17日 22時26分30秒 | Weblog
          鳴海に泊りて
        星崎の闇を見よとや啼く千鳥     芭 蕉

 闇夜を残念がる亭主、安信への挨拶の発想かとも思われる。けれども、夜の千鳥の声に対し、星崎の闇の景を見よ、と呼びかけているのかと興じたところに、星崎の闇の景に、実は自分が心ひかれてゆく心情が生かされていると思う。
 自らの想に興じながらも旅情に支えられて、どこかつぶやくような寂寥の感が迫ってくる。
 この句の、「星崎の闇を」から「見よとや」にかかる微妙な声調の屈折が、自ずと「啼く千鳥」にわれわれを引きつけてゆくような感じがある。

 「星崎の闇を見よとや」というのは、真蹟画賛の前書きによれば、「寝覚めによいのは松風の里、呼続(よびつぎ)の浜は夜明けてから、笠寺は雪の日がよい」につづけて、「この星崎は(星にゆかりがあるから)闇の景がふさわしい」という心で、「星崎の闇の景を見よというのであろうか」の意に働いている。
 松風の里・呼続・笠寺・星崎は、いずれも鳴海潟付近の地名。
 季語は「千鳥」で冬。

    「星崎の闇の中で、千鳥が啼いている。あれは星崎の闇の景を見よというのであろうか」


      大仏の下まで冬日来て遊べ     季 己