壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

木枯

2008年11月30日 21時46分20秒 | Weblog
 梢の枯葉もようやく散り過ごして、残り少なくなった頃、一思いに木を裸にしてゆく容赦のない激しい冬の風。これが木枯(こがらし)である。
 疾風枯葉を巻いて、木を真っ裸にする。文字通りの冬の風が、木枯である。

 バイカル湖あたりで発達した、大陸高気圧の張出しに伴なう冷たい烈風。枯木立を揺り、電線を鳴らし、戸に吹きつける北風。
 低気圧が日本列島の東で発達したとき、すさまじい北風が全国にわたって吹き荒れ、ときには数日間も止まない年がある。これが静まると、日本海側では雪になることが多い。
 最初の北風が、木々の枯葉を残りなく吹き落とすので、「木枯」と呼んだようである。「ならひ」「あなじ」「筑波颪」「六甲颪」「伊吹颪」など、地方によって、さまざまな名称で呼ばれ、それぞれの持ち味がある。

 「木枯」「北風」「寒風」「朔風」、みな四音で同意であるが、表現上、微妙な違いがある。
        木枯や目刺にのこる海のいろ     龍之介
        海に出て木枯帰るところなし      誓 子
        北風にたちむかふ身をほそめけり   夕 爾
        田を移るたびに北風つよき谷      龍 太
        寒風に吹きしぼらるる思ひかな     立 子
        寒風のぶつかりあひて海に出づ    誓 子
        朔風や十にも足らぬ羊守る       梧 逸
 北風は、大陸の寒冷な高気圧帯から吹いてくる北西または西よりの季節風である。俳句では一般に、冬の風を北風といっている。
 強い北風は、顔も向けられないくらいで、涙や水洟が出て歩行困難になるほどである。風速十数メートルに及ぶことも稀ではなく、暴風となることも多い。
        北風つのるどこより早く厨に灯     眸
 この句の場合、「北風」は、「きた」と読む。「きた」といっただけで北風を意味するのが俳句の世界。

 「空風(からかぜ)」「○○颪」は表日本のもので、乾燥しきっていて、身を切るような冷たさがある。「空っ風」「北颪」「北下ろし」ともいう。
 関東地方の空っ風が有名で、「かかあ天下と空っ風」といえば、すぐに上州(群馬)を思い起こす。乾ききった砂まじりの強い風が吹くと、目も開けられないくらいである。
        から風の吹きからしたる水田かな     桃 隣
        胸中に抱(いだ)く珠あり空ッ風       風 生
        北おろし一夜吹きても吹きたらず     甲子雄

 「冬の風」は、以上の風よりもややおとなしい気分を持っていることばであろう。
        冬の風人生誤算なからんや     蛇 笏

 この冬の間中、吹き続ける季節風の中で、比較的早い頃の、木の葉を吹き散らしてしまう風を、特に木枯と呼ぶのである。
        木枯に岩吹きとがる杉間かな    芭 蕉
 「吹きとがる」という把握には緊迫感のみなぎった力があり、「杉間かな」にも確かな感じが生かされている。自然のきびしいたたずまいに感応して成った句であろう。


      木枯の海に出でたる怒涛音     季 己

落葉

2008年11月29日 21時31分39秒 | Weblog
 冬になって木々は、はらはらと葉を落とすようになる。
 朱や紅の絵具をたらし込んだような柿の葉も、黄金色に輝いていた銀杏の葉も、日一日と色褪せてきたかと思うと、やがて枝を離れて、くるりくるりと散り落ちる。
        街路樹の夜も落葉をいそぐなり     素 十
 風のある日も、風のない日も、ふと思い切ったように枝を離れた枯葉は、しばし空間にひらひらと舞って、、音もなく地面に落ちる。
        吹きたまる落葉や町の行き止り     子 規
 はらはらと続けざまに梢を離れる枯葉、思い出したようにただ一枚散っていく枯葉、流れるように舞いながら落ちる枯葉、一面に散り敷いている落葉も、小さなつむじ風にくるくる廻りながら、道路の隅へ吹き寄せられていく。
        南無枯葉一枚の空暮れ残り     鬼 房
 この世に別れを告げた枯葉が、いろいろと醸し出す、それぞれに味わいを持った姿が、そこにはある。
        夫恋へば落葉音なくわが前に     信 子
 やがて朝ごとの霜に、うち朽たされて土にかえってゆくものを、自然はかくも濃やかな潤いを、最期の最期まで、忘れてはいないのだ。

 軽やかに美しいのは、桜の落葉。
        落葉降り夜は黄金のごとく降る     鷹 女
 眼の覚めるように艶めかしいのは、一面に散り敷いた銀杏の落葉。
        赤き独楽まはり澄みたる落葉かな     立 子
 垂らし込みの絵具のように、ひときわ目立つのは柿の落葉。
        朴落葉呼べば応へてひるがへる     風 生
 朴の落葉は、いかにも鷹揚で、王者が最期の眠りにつくまでのような落ち着きを見せている。

        降り積めば枯葉も心温もらす     真砂女
 枯葉は、木の葉や落葉より、枯れてしまっているものをいう。朽葉も似たり寄ったりであろう。そんな枯葉に、格別の魅力を見出す真砂女の心のやさしさ、あたたかさ。
        焚く程は風がもてくる落葉かな     一 茶
 掃いても掃いても、落葉の山はなくならない。一茶はきっと、これを焚いて一風呂浴びようとでも考えたのであろう。

        百歳の気色を庭の落葉かな     芭 蕉
 「百歳の気色」は、「ももとせのけしき」と読む。「気色を」の「を」の使い方がうまい。この「を」は、散文には見られない重い働きを示しているところに注目したい。
 この寺の庭には、落葉が降り積もって、木立・土石すべてがいよいよもの古り、いかにも百年の歳月の厚みを感じさせる、と寺の古雅なさまを称えた挨拶句。

 むかし、木(こ)の葉は、落葉と同義に使われてきたようである。だが、木の葉と落葉は違うと思う。木の葉は、より抽象的なことばであり、描写はより動的に、散りかかり、微かに鳴り、風にひるがえるさまに向いていた。古典句でも、「落葉かな」「木の葉かな」の入れ替えのきくのは少なく、さすがに、ことばはよく吟味されているな、と感心させられる。
 俳句は短詩である。一~二音の効きが勝負になる。「落葉」の句が出来たら、「木の葉ではどうかな?」と一応疑ってみたい。


      ふんはりと六十五くる柿落葉     季 己

霜葉

2008年11月28日 18時16分19秒 | Weblog
       山   行       杜 牧
   遠上寒山石径斜    遠く寒山に上れば石径(せっけい)斜めなり
   白雲生処有人家    白雲生ずるところ人家有り
   停車坐愛楓林晩    車を停(とど)めてそぞろに愛す楓林の晩(くれ)
   霜葉紅於二月花    霜葉(そうよう)は二月の花よりも紅なり

     遠く、ものさびしい山に登っていくと、
     石ころの多い小道が、斜めに続いている。
     そして、そのはるか上の白雲が生じるあたりに、
     人家が見える。
     車を止めさせて、気のむくままに、
     夕暮れの楓の林の景色を愛で眺めた。
     霜のために紅葉した楓の葉は、
     春の二月ごろに咲く花よりも、なおいっそう赤いことであった。

 秋のものさびしい一日、山を歩いて美しい紅葉を賞した作品である。

 「寒山」は、人名でも、山の名でもなく、秋になって木の葉が枯れ落ちた、ものさびしい山をいう。
 「石径」は、石ころの多い小道。「径」は小道のこと。
 「坐」は、「すずろに」あるいは「そぞろに」と読み、わけもなく、なんとはなしに、という意味。
 「霜葉」は、霜によって紅葉した楓(かえで)の木の葉のことである。

 まず、俗世間を離れた高雅な境地をうたう。そのポイントとなるのは、第二句の「白雲」である。この白雲は、ただの白雲ではない。隠逸世界の象徴である白雲なのだ。世俗のうす汚れたものの対極に位置する、高く遠いものである。
 「白雲抱幽石(はくうんゆうせきをいだく)」という禅語のように、隠逸の世界を取りまく点景の一つである。
 山の峰あたりに湧く白雲を描くことによって、高尚な雰囲気が漂うのだ。その白い雲をバックにして、点のように見える黒い人家は、隠者の住まいに違いない。白と黒の色彩効果は、いかにも杜牧らしい巧みなものである。
 白雲は決して、谷から湧く雲や、人家から立ちのぼる炊事の煙などではない。このように考えてはじめて、後半の風流が生きてくる。

 だが、何といってもこの詩の最大の妙味は、霜にうたれて色づいた楓の葉を、二月の春の盛りの花(桃の花であろう)よりもさらに赤い、と言い放った奇想天外さにある。
 この句が有名となった今だからこそ、当たり前のような気がするのだが、この句を見た当時の人々は、たぶんアッと驚いたことであろう。
 春の盛りに咲く花の赤さと、夕日に照り映える楓の葉の赤さという、全く異質なものを比較してみせたその意外性、言われてみてはじめてわかるその対比の妥当性、これがこの詩の生命である。このことは俳句にも通じ、非常に大切なことである。
 また、ものさびしい秋の山(寒山の寒の字がきいている)の、白雲と紅葉の対比の鮮やかさも、まことに心憎いばかりである。
 なお、芭蕉の門人である風鈴軒の句、「小車やそぞろに愛す花の時」は、この詩に基づくものと思われる。


      白き径すこしのぼりて落霜紅(うめもどき)     季 己

大根引

2008年11月27日 21時11分52秒 | Weblog
        鞍壺に小坊主乗るや大根引     芭 蕉

 この句、「大根引といふ事を」という前書きがある。「大根引」は、ふつう俳句では「だいこひき」と五音で読む。
 「百姓が、大根引に没頭している傍らには、抜き取った大根を括り付けて帰る馬が、繋ぎとめられている。見ると、その鞍壺には、いがぐり頭の男の子がちょこんと乗って、ひとりの時をのびのびと遊んでいるよ」の意。

 『三冊子』に、「『乗るや大根引』と小坊主のよく目に立つ所、句作りありとなり」と見え、鞍上の男の子に焦点を定めて、大根引の情景をとらえたその発想に、工夫の存したものであることを伝える。
 逆に、鑑賞する立場からみれば、「や・かな・けり」など、切れ字のある部分に句の中心(焦点)があるということだ。つまり、作者の興味は、季語である大根引よりも、親から解放されて、ひとりの時をのびのびと遊ぶ小坊主のほうにあるのだ。
 もし、「小坊主乗せて」としたら、眼目は、下五の大根引になり、芭蕉の当初の意図から、ずれたものになってしまう。
 「小坊主乗るや」には、俳諧のユーモアが感じられる。

 『去来抄』には、この句の世界を絵画に喩えて説明した去来のことばがあり、この句の素材・構図の新しみをたたえた上で、「大根引の傍ら、草食む馬の首うちさげたらん、鞍壺に小坊主のちょっこりと乗りたる図」と述べている。
 心の動きが露わに表に出ることを抑え、対象を静かな眼で生かすようになってきている点が注目される。芭蕉の、「軽み」の工夫の一つの実践がそこに見られる。

 大根を引くのは、十一月の末から十二月へかけてである。このころが、秋大根の収穫時期で、葉をつかんで引っぱれば、長大な大根が土から抜けてくる。大根引の名あるゆえんである。

        たらたらと日が真赤ぞよ大根引     茅 舎

 傷つきやすい、大根の真白な肌をいためぬためにも、霜に凍てついた土を避けて、大根引は、暖かな天候の日を選んでする。

        島大根引くや背に降る熱き火山灰(よな)   護

 練馬・宮重・方領・美濃早生・田辺・守口・桜島・聖護院などと、秋大根の種類は数多い。太くて丸い桜島大根や聖護院大根、反対に細くて長い守口大根は別として、たいていは、大根足と失礼な喩えに使われるように、太くて長いものである。

        荻窪の大根引くにたわいなし     照 子

 近頃は、すっかり市街地になってしまったが、長さ60センチにも及ぶ練馬大根は、火山灰地に育ったもので、45センチほどの宮重大根や美濃早生大根は、地味の肥えた濃尾平野で培われたものである。

        大根引き大根で道を教へけり     一 茶

 いかにも農村らしい、微笑ましい風景である。

 土のついた大根を、道端の小川で洗って、真白に磨き上げ、車に積んで近くの農協に送り出す農村の風景。
 足の踏み場もないほどに、真白い大根が山と積み上げられた青果市場の威勢のよい取引風景。
 八百屋の店先やスーパーに、美しく形をそろえて積まれている大根。
 沢庵漬の準備に、軒端に干し並べられた大根の列。
 日本人が日本人である限りは、毎年繰り返される、この頃の風景である。


      湯の町のはづれの畠の大根引     季 己

古暦

2008年11月26日 20時56分16秒 | Weblog
 最近、地下鉄の車内でカレンダーを持つ人を、チラホラ見かけるようになった。
 これが、十二月の声を聞くようになると、来年の暦やカレンダーが、どっと出回るようになる。来年用の暦が出てくると。今年ずっと使用してきた暦は、「古暦」ということになる。したがって、古暦は冬の季語。
 江戸時代には、暦は右巻きの巻物であったので、「暦巻く」も季語である。巻収めが軸元になるので、これを「暦の果」という。ここには、一年の果てんとする感慨が込められている。
 
        闇の夜に終る暦の表紙かな     蕪 村
        一日もおろそかならず古暦      虚 子
        古暦水はくらきを流れけり      万太郎

 無事泰平に過ごしてきた人も、その日その日に追われていた人も、またたくうちに一年の暦を繰りつくして、月日の経つのは、早いものだということになる。まことに「一日もおろそかならず」の年末である。
 「暦」という言葉は、「日読(かよ)み」、つまり「日を数える」という意味だと、『広辞苑』に書いてある。

 変人宅では、母が愛用しているが、「日めくり」といって、一日一枚ずつをちぎってゆくカレンダーがある。中には金言・格言、英会話のフレーズ、数独など、頭の体操になる日めくりもある。
 一日一枚ずつちぎってゆく「日めくり」、これこそが正真正銘の「暦(日読み)」であろう。

 元来、人間は、人類の始まりから、日影の伸び縮み、月の満ち欠け、草木の栄枯などから季節の移り変わりを悟って、生活の切り目をつけていた。
 そのうち、特に天体の運行に一定の法則があることを知って、だんだんと正確な時の観念を持つようになり、長年の経験から将来を予言することも出来るようになってきた。

 人間が狩猟・牧畜の時代から、農作・漁労の時代に入ると、その民族が正確な暦を持っているかいないかは、直接、その民族の栄枯盛衰を左右することになったのである。
 古代の民族の中で、すぐれた暦を持った中国やエジプト・アラビア・ギリシャ・ローマなどの諸民族が、早くから文化の華を咲かせたのも、そういう訳があってのことであった。

 そういうわけで、暦というものは、しだいにその内容も科学的に進歩してきたことに相違ない。国家・民族などの社会生活において、また個人の日常生活においても、暦というものが、船における羅針盤のように、重要な役割を果たしていることは、昔も今も変わりはない。

        板壁や親の世からの古暦         一 茶
        親あるうち癒えむとおもふ暦果つ     蕪 城
        ゴヤの裸婦一枚残し暦果つ        蒼 水

 というような、暦もあり、さまざまな生活が見えてくる。


      たましひの余白少しく古暦     季 己

心の友

2008年11月25日 21時36分58秒 | Weblog
        あはれさやしぐるるころの山家集     素 堂

 素堂と芭蕉との出会いがいつであるか、はっきりしてはいない。だが、西山宗因東下りを歓迎した延宝三年(1675)五月の百韻には名を並べ、翌年には有名な『江戸両吟』が成っている。
          梅の風俳諧国に盛なり     信 章
          こちとうづれも此時の春    桃 青
 信章は素堂の本名、桃青は芭蕉の旧号である。新しい波に乗る気負った若さが、この二人にはあった。六年には『江戸三吟』が成り、そのころ種々の俳書に二人の名が見える。
 素堂は仕官中であった。能吏でもあったらしいこの人が、翌七年には官職を辞し、上野不忍池のほとりに隠棲したが、その理由も定かでない。
 しかも、その翌年には、『桃青門弟独吟二十歌仙』で江戸の世評をさらった芭蕉が、深川に隠退してしまう。
 それ以来、二人の交情がますます親密になったのも当然であろう。年齢は、素堂のほうが二歳年長であった。数年後には、素堂も隠宅を葛飾に移し、住居まで近くなる。

 天和に焼失した芭蕉庵再興の勧進をし、『続虚栗(ぞくみなしぐり)』の序、『野ざらし紀行』の跋を書き、『おくのほそ道』の出立に漢詩を贈り、芭蕉と和漢連句を巻くなど、俳友というよりは高雅隠逸の交わりと言うに近い。
 それが「高く心を悟りて」といった芭蕉の心の支えになったことは、想像に難くない。ただし、芭蕉は「俗に帰る」ことによって、絶えず新風を開いた。
 行くとして可ならざるなき素堂は、書に茶に和歌に漢詩にと俗を拒絶した。

 元禄七年(1694)十月、しぐれの降るころ、芭蕉は没した。
 元禄十一年刊の『むつちどり』は、「亡友芭蕉居士、近来、山家集の風体をしたはれければ、追悼に此の集を読誦するものならし」と前書きした「あはれさや」の句を載せる。
 句意はまことに明瞭、苦渋といわれる素堂の句の中で、珍しく平明で素直である。芭蕉が慕ってやまなかった西行の『山家集』を「読誦」して回向するのは、まことによき心の友であった証である。固執した漢詩調も忘れ、思わず「あはれさや」と打ち出すところに、素堂の嘆きの深さがある。


      茜さす轍や木の葉ねむりゐる     季 己

続・鎌倉

2008年11月24日 21時18分43秒 | Weblog
 円覚寺を出て、南へ一キロメートルほどの所に、建長寺がある。建長寺は、鎌倉五山の第一の禅寺である。
 鎌倉五山というのは、その由緒と寺勢によって、第一座から第五座まで格付けされた、鎌倉の代表的な禅寺のこと。
 今は、第一座の建長寺と第二座の円覚寺のほかは、ほとんどふるわないようだ。第三の寿福寺、第四の浄智寺、第五の浄妙寺と、いずれも平日は、観光客のあまり来ない静かな寺である。なまじ五山に列した歴史を持つことが、かえってあわれをふかくしている。

 建長寺は、古くからの刑場にあった地蔵堂を中心に寺となったといわれる。五代目の執権、北条時頼は、寛元四年(1246)にきた宋の帰化僧、蘭渓道隆に帰依し、建長元年(1294)に寺域をひらき、建長三年十一月八日にはお堂の造営を始め、建長五年十一月二十五日に完成した。丈六(約五メートル)の地蔵を本尊とし、七堂伽藍完備、塔頭四十九を持った、鎌倉第一の禅林であった。
 年号を寺の名とする点、東京の寛永寺、滋賀の延暦寺、京都の仁和寺、奈良の永久寺などとともに、重い格式の寺であったことがわかる。
 創建年代は、五山第三座の寿福寺に遅れること半世紀、第二の古さである。

 鎌倉は、関西と違って、古い建物がない。鎌倉時代のものは、円覚寺の舎利殿だけ。覚園寺の薬師堂と建長寺の開山堂、昭堂がわずかに足利時代のもの。この四つを除けば、ほかはみな江戸時代以降である。たびたびの大火と地震、それに戦火が、こうして中世の建物を地上から消したのである。

 総門から、山門を入ると、柏槙の巨樹が茂っている。
 正面に大きい重層四注造り、銅版葺きの仏殿がある。静岡の久能山に建てられた徳川家康の廟を、移したものという。江戸時代の御霊屋建築の代表的なもので、かつ貴重な資料でもある。ここに本尊として丈六の地蔵を安置する。禅寺院だから釈迦を本尊とするのがふつうであるが、古来の地蔵堂から発達した寺であるので、そのあとをとどめているのだろう。
 仏殿の後ろが法堂、その奥が唐門で、仏殿とともに久能山から移したもの。その正面奥が方丈である。方丈の裏の庭園は、心字形の広い池を中心とした禅風の庭で、夢想国師疎石が造ったという伝説がある。史跡に指定されてはいるが、夢想の庭園といわれるほかの類例とは似ても似つかぬもので、ずっと後の手の入ったものと思われる。

 寺内には、山門を右へ山にのぼると、織田有楽斎の墓があり、方丈庭園の後ろから半僧坊へのぼる道の、左へ入ったところに、河村瑞軒父子の墓がある。鎌倉を愛し、鎌倉に住んだ瑞軒は、江戸時代、幾多の土木事業に功を立てた後、静かにこの山間に眠っている……。

 ――鶴岡八幡宮は、鎌倉のシンボルとして、その中心部にあり、その社前は多くの悲喜明暗の舞台となった。
 八幡宮といえば、三代将軍の源実朝が遭難した所として、誰もが銀杏の大木を思い出す。今でも観光バスのガイドさんは、「実朝を暗殺した公暁の隠れた銀杏として有名です」と説明しているのであろうか。
 この大銀杏は、高さ三十一メートル、樹齢千年といわれ、今もなお茂っており、天然記念物の価値はじゅうぶんある。けれども本当は、樹齢数百年というところか。まだ、青々としていて、黄葉見物には早すぎる。おそらく見頃は、十二月中頃ではないかと思われる。
 ちょうど神前結婚式がすみ、大勢の観光客の前で、花嫁・花婿が結婚指輪を披露しているところだった。

 いまでも、八幡宮は鎌倉の中心として、観光客のまず参拝する神社であるだけではない。その信仰は、鎌倉市民のみならず、広く一般に生きている。
 百万人をこえる正月の参拝客は、鎌倉駅から段葛の上を通って社前まで、数日絶えることがない。近年、名物になった破魔矢は、悪魔退散の象徴として、もとめるのに一苦労する。
 毎年九月の例祭の「やぶさめの神事」には、鎌倉時代が今に息吹いているような錯覚をおぼえる。
 ――弁天池の都鳥(ユリカモメ)めがけて、トンビが急降下して来た。


      実朝のあはれは今も都鳥     季 己

鎌倉

2008年11月23日 21時10分21秒 | Weblog
        一葉忌折目を六ツに薬包紙     不死男

 きょうは一葉忌、明治の女流作家、樋口一葉の忌日である。
 一葉は、明治五年(1872)東京に生まれ、本名は奈津。若くして中島歌子の歌塾に入ったが、間もなく小説を志し、半井桃水(なからいとうすい)から戯作的手法を学ぶ。
 明治二十五年『うもれ木』を発表し、世の注目を浴びた。『大つごもり』以降、独創的境地をひらき、『にごりえ』『十三夜』と声価を高め、『たけくらべ』では評論家の激賞を受け、一葉の声価は絶頂を極めた。
 明治二十九年(1896)十一月二十三日、肺結核のため二十四歳の若さで逝った。

 これまでなら、一葉記念館(台東区)へ、幸田弘子の一葉作品朗読を聴きに行っていたのだが、担当のオエライさんが代わったため、この行事がなくなってしまった。「一葉忌」が、「一葉祭」に変化してしまったのだ。
 幸田弘子の、一葉作品朗読は絶品である。カセットテープは全巻持っているが、やはり、生で、かぶりつきで聴くのでは大違いである。この楽しみがなくなったので、今年は一葉記念館には行かず、イザ、鎌倉へ行ってきた。

 鎌倉にはお寺が多い。北条泰時が制定した、日本最初の武家の法律「貞永式目」のはじめに、武士はあつく神仏を敬うよう規定している。
 中世の武士の心のよりどころは、神さまと仏さまであった。封建社会のてこ入れのために必要だったからであろう。
 神さまのほうは、鶴岡八幡宮があったが、仏さまのほうは、いろいろの寺院が信仰された。お寺を建立(こんりゅう)《どこかの首相ならケンリツと読むであろう》すれば、死者の供養になると信じられていた。エライ坊さんのために、お寺を建てることも、功徳になると考えられた。そのため、お寺の数が増えたのであろう。

 円覚寺は、横須賀線「北鎌倉」駅に接してある。前の白鷺池にかかる降魔橋(こうまばし)を渡って、石段を上り、総門に入る。古い杉木立をとおして総門をあおぐと、今にも、托鉢姿の雲水が出てきそうな気がする。禅寺としての演出は完璧である。ただ、その総門の階下を横須賀線の線路が通っているのが、はなはだ目障りだ。

 円覚寺の塔頭の一つに帰源院がある。夏目漱石の小説『門』は、この帰源院の門をいう。漱石がここに泊り、住職の宗活(そうかつ)の世話を受けながら、円覚寺管長釈宗演に参禅した。明治二十七年(1894)のことである。しかし、『父母未生以前本来之面目』という題が悟れず、むなしく、ここを去った。
 また、その前年には、島崎藤村が、佐藤輔子との恋の悩みに耐えられず、この寺にしばらく止宿している。藤村は、『春』などの作品にそのことを書いている。
 この二人とも、ここで悟ることは出来なかったが、ここの雰囲気が、その文学に与えた影響は無視できない。


      漱石を読み鎌倉の薄紅葉     季 己

藪柑子

2008年11月22日 21時58分33秒 | Weblog
 冬の山道を歩いて、ふと崖を見上げると、褐色に塗り潰された冬枯れの藪蔭に、僅かに残る緑の葉の間に、美しい紅色の実が、ちらちらと見え隠れしている。藪柑子だ。いじらしくもあり、懐かしい気持がして、足を止める。
 南天の実にも似て、なお可憐な美しさと、これはまた、木というにはあまりにも小ぶりな、15センチほどの小潅木、これが藪柑子なのである。

 藪柑子は、昔は山橘(やまたちばな)と呼ばれていた。また、深見草とも言ったらしい。そういえば、柑子も橘も、ともに柑橘類の植物であり、『萬葉集』巻四に見える、
        あしびきの 山橘の 色に出でよ
          語らひ次ぎて 逢ふこともあらむ
 という春日王(かすがのおおきみ)の歌は、恋する者が恋の成就を祈った歌ではあるが、その恋心が、はっきりと表に現われる意味の「色に出でよ」と言う言葉は、この藪柑子の実の、鮮やかに目立つ紅色にかけて用いられたものである。
 同じく巻十九にある大伴家持の、
        この雪の 消遺る時に いざゆかな
          山橘の 実の照るも見む
 という歌は、雪深い山道の雪がようやく消え残るばかりになって、その雪間から藪柑子の実が鮮やかな紅に輝くのを見がてらに、山越しに、恋人のもとへ急ごうという、ひたむきな恋心を歌ったものである。

 この山橘が、いつの頃から藪柑子と呼ばれるようになったか、正確なことはわからない。京都あたりでは、室町時代にも、まだ山橘の名で庭園に栽培されていたことが知られるが、元禄時代の江戸ではすでに、藪柑子の名が通っていたようで、多くの園芸品種が作り出されていたようだ。

 芭蕉の弟子の杉風(さんぷう)の句にもあるが、古くから藪柑子は、正月飾りにも使われている。
 紅い実がふつうだが、白い実のなる白実藪柑子、葉に白と淡紅色がまじる三色藪柑子がある。


      鎮魂の歌かちらちら藪柑子     季 己

波郷忌

2008年11月21日 21時59分18秒 | Weblog
 きょう11月21日は“波郷忌”、つまり俳人石田波郷の忌日である。“風鶴忌(ふうかくき)”・“忍冬忌(にんとうき)”・“借命忌(しゃくみょうき)”ともいう。

 波郷は、大正二年(1913)愛媛県松山に生まれた。子規・虚子・碧梧桐・鳴雪を輩出した「近代俳句のエルサレム」の只中に、生まれ育った、ということだ。
 昭和五年(1930)、郷里松山で秋桜子門の五十崎古郷を知り、『馬酔木』に投句するようになった。
 秋桜子は当時、誓子・青畝・素十とともに『ホトトギス』の四Sと称され、その新鮮な抒情的作風は、若い俳人の人気の的であった。
 波郷は、秋桜子に師事したが、《方丈の大庇より春の蝶》の句で有名な素十の「純粋俳句」に惹かれ、青畝の『万両』の句などは、ことごとく諳んじていたほど、青畝にも惹かれたという。

        バスを待ち大路の春をうたがはず     波 郷

 波郷の代表的な青春句である。都会のさなかにあって、のびのびと青春を謳歌している。日はうららかに照り、街路樹は芽吹き、道行く人は春の装いに身も軽い。青春の胸は、それらの光景に高らかに鳴り響いている。

        初蝶や吾が三十の袖袂     波 郷

 昭和十七年の作で、三好達治が『諷詠十二月』の中で、可憐と評して推賞した。
 この可憐さは、幼さではなく、感受性に富んだ詩人の純の境地が醸し出すものにほかならない。初蝶の軽やかさが袖袂に映発する。「三十」には波郷の複雑な感懐が託されている。三十とは、青春期に決別して壮年期に入る合図であり、「三十而立」と言われる時であり、己の道への自信を打ち立てる時期である。「三十」の語は動かない。

        胸の手や暁方は夏過ぎにけり     波 郷

 長身であった波郷が、しおらしく胸に手を組んで眠ることを想像すると、思わず微笑ましくなる。夏の早暁のさわやかな冷気を、しみじみと言い取っている。「暁方は夏過ぎにけり」は、清純な美しい表現だ。「胸の手や」という一見無造作な言い方に作者の不適な作者魂がのぞいている。
 波郷は、「何が何して何とやらといった俳句はもう御免だ」と言って、動詞の多い一本調子の説明調の句をきらった。彼は敢然と「や」「かな」「けり」を用いているが、微塵も安易さはなく、的確な据わりようを示している。
 俳句は、断定する意志である。そして、そのような意志の支えとなっているのが切れ字なのだ。切れ字によって、詩型の堅固感と句意の的確性が獲得されることを、波郷の弟子である稚魚師に教えられた。
 波郷は、当時流行していた散文的表現に反抗して、韻文性を樹立しようとして、古典の格と技法に学び、俳句の根本的性格に探り入ったという。「霜柱俳句は切字響きけり」の戯作は、この間の消息を物語っている。

        雁の束の間に蕎麦刈られけり     波 郷

 「雁(かりがね)の束の間」という措辞の微妙さに感嘆する。誰でも言えそうで言えないと思う。また「の」のたたみかける使い方がいい。
 十一月初旬ごろの田園風景。作者には、しばらく前に見た実った蕎麦畠の印象がはっきり残っているのだ。それが今、通ってみると、いつの間にかすっかり刈り取られて、紅色の茎の切り株ばかりが鮮やかに残っている。その小さな驚きが「束の間」に表現されている。

 人生の日々を、静かに凝視した句境を格調高い表現によって詠みつづけた波郷。
 俳句の研究と句作に精魂を打ち込み、病と闘いつつ、この道一筋に生きてきて、昭和の俳壇に不滅の光を放った波郷。
 その「俳人であり、病人である」石田波郷は、昭和四十四年(1969)の今日、肺結核で亡くなった。


      波郷忌の茶の花いろをはげしうす     季 己
 

心に持ちて

2008年11月20日 21時20分39秒 | Weblog
                狭野茅上娘子
        あしひきの 山路越えむと する君を
          心に持ちて 安けくもなし (『萬葉集』巻十五)

 中臣朝臣宅守(なかとみのあそみやかもり)が、結婚問題で罪を得て、越前国に配流された時に、狭野茅上娘子(さののちがみのおとめ)の詠んだ歌である。
 『萬葉集』巻十五の後半は、ふつう「宅守相聞(やかもりそうもん)」といわれる六十三首からなる歌群である。
 娘子の伝ははっきりわからないが、宅守と深く親しんだことは、この一聯の歌群を読めばわかる。目録に蔵部女嬬(にょじゅ)とあるから、低い女官であったと思われる。

 一首の意は、「あなたがいよいよ山越えをして行かれるのを、しじゅう心の中に持っておりまして、あきらめきれず、不安でなりませぬ」という程の歌である。
 「君を心に持つ」は、あなたを心の中に持つこと、心に抱き持つこと、恋しくて忘れられぬこと、あきらめられぬこと、というぐらいになる。
 「君を心に持つ」と具体的に云ったので、親しさがかえって増したように思われる。

 『萬葉集』目録にある詞書によると、宅守は、娘子との結婚問題が罪に問われて、越前の国に流された。そういう境遇におかれた二人の間に交わされた歌だとある。けれども詳しいことはわからない。
 この「あしひきの」の歌は、歌群の第一首目である。まさに流されようとしている時、別れにあたっての歌である。
 大和から近江に出て、さらに北国に行くのだから、その道中を想像して、「山路越えむとする」と言ったのだが、歌群の第一首目として、叙事詩的な価値を十分に示している。

 この歌の次に、
        君が行く 道の長路(ながて)を 繰りたたね
          焼き亡ぼさむ 天の火もがも
 がつづく。一般的には、この歌のほうが人気があろう。
 情熱が、過重な技巧によって露出している点を高く見るかどうか、ということになるが、「焼き亡ぼさむ天の火もがも」の情熱を心の底に沈潜させた「心に持ちて安けくもなし」のほうが、一段と、歌としては秀でていると思う。
 和歌に限らず、俳句・絵画等においても、過重な技巧よりも、心の底に沈潜させた情熱の作品が好きである。

 宅守は越前に流されたのだから、娘子はここで、逢坂山から琵琶湖の北岸を経て、塩津山を抜けて敦賀へ出る山道を考えているのである。
 その恋人の山越えに難儀する姿を思いやり、「心に持ちて安けくもなし」と言った。
 「山路越えむとする君」とは、今やまさに山越えにかかろうとする、といった、一種の活弁口調に似たものが感じられる。まざまざと眼に浮かべているかのように、切実感を強調して、聴き手の心をそそるのである。


      胸中のあらひざらひを冬一番     季 己  

霜除け

2008年11月19日 22時36分43秒 | Weblog
 東京のような暖地では、あまり目立ったことはしないが、寒冷の地方では、冬を迎える用意をいろいろしなければならない。これを「冬構(ふゆがまえ)」という。
        雪吊の百万石の城曇る     青 畝
        雪吊の縄しゆるしゆると投げられし     稚 魚
 冬将軍に対する必死の営みが、また美しい叙事詩・叙景詩を生む。
 金沢・兼六園の雪吊の線など、襟を正したくなるような引きしまった気をただよわせる。

        大寺や霜除けしつる芭蕉林     鬼 城
 自然を愛する心の深い日本人は、草や木にも、人間に対するとおなじく温かい思いやりを持っている。
 冬になれば、人は着衣を厚くして寒さを防ぐ。獣も、柔らかく密生する冬毛に衣更えをして、冬に備える。しかし、草や木は、寒さで傷みやすい葉を自ら捨て去って、寒さに犯されることを避けるだけである。
 だから、われわれ人間が、自分の好みにしたがって、ほしいままに庭に移し植えた、寒さに弱い植物に対しては、人間の責任において、冬の寒さから守ってやらねばならない。
 冬になって、最も恐ろしい草木の敵は、霜だという。雪はかえって、保温の働きをすることもあって、霜ほどにひどい害は与えないそうだ。

        霜除すなほ玉を巻く芭蕉より     悌二郎
        霜囲めをとのごとくそれは牡丹     青 邨
        霜覆してあるものをたしかめし     汀 女
 霜除(しもよけ)は、庭木・菜園などで、霜に傷みやすいものに薦(こも)・藁・蓆(むしろ)などで囲って、霜の害を防ぐ防寒装置で、霜覆(しもおおい)・霜囲(しもがこい)ともいう。
 松や棕櫚・芭蕉などは、新巻鮭のように、固く薦で巻くし、牡丹や芍薬などは、藁で帽子を作ってかぶせ、それぞれに風流な細工を施して、藁人形がにょきにょきと突っ立っているような姿になる。
 
        霜除や月より冴ゆるオリオン座     水 巴
 新しい藁や蓆の色が、霜除けの庭に目新しく、鮮やかな印象を与えるようになると、それはもう冬の季節が到来した証拠である。

 先日購入したオリーブの苗木2本を、植木鉢に定植してから、本日のご出勤?
 わざわざ大江戸線「青山一丁目駅」で下車し、赤坂御用地を左手に、青山通りを赤坂見附へと向かう。
 元厚生次官宅連続テロ事件の影響か、警官の数がやたらに多い。それの数百倍多いのが、御用地沿いの道の落葉の数。誰も掃除をしないのか、落葉の絨毯ならぬ落葉の蓆状態。他のビルや豊川稲荷沿いの道は、きれいに掃かれているのに……。

 目的地のニューオータニ美術館で、「日経日本画大賞展」を観る。一時間ほど鑑賞していたが、その間、出会った人は五人。静かにゆったりと観ることができた。

   21世紀の美術界を担う気鋭の日本画家を表彰する制度として創設した
  「東山魁夷記念 日経日本画大賞」は本年4回目を迎えました。
   本賞は、日本画壇の巨匠・故東山魁夷画伯が遺した功績を称えるとともに、
  これまで受け継がれてきた日本画の世界を後世に伝えることと、日々研鑽を
  積んでいる日本画家の仕事を客観的に評価し、次代をリードする画家の発掘を
  目標としています。
   「第4回 東山魁夷記念 日経日本画大賞展」は入選作全14作品を展示し
  伝統的な枠組みに縛られず、独自の世界を拓こうとする意気込みに溢れた現代
  日本画のたくましい創造性と新たな魅力を紹介します。
                          (同展チラシより転載)

 全14作品中、心惹かれた作品は8点あった。この8作品は、甲乙つけがたかったが、一時間かけて8作品と対峙・凝視して、あえて順位をつけてみた。ただし、大賞の岡村桂三郎《獅子08-1》は、神奈川県立近代美術館へ出品中のため、見られなかったので、新作での評価である。
       変人による「日経日本画大賞展」ベスト8
         1位 斉藤 典彦 《彼の丘》
         2位 間島 秀徳 《Kinesis No316 hydrometeor》
          3位 奥村 美佳 《いざない》
         4位 武田 州左 《光の采・672》
         5位 岡村桂三郎 《獅子08-1》
         6位 園家 誠二 《うつろい-1》
         7位 植田 一穂 《夏の花》
         8位 及川 聡子 《視》

 「月より冴ゆるオリオン座」を見ながら家路につく……。


      雪吊や竪琴を弾く加賀の風     季 己

木(こ)の葉

2008年11月18日 23時25分35秒 | Weblog
        水底の岩に落ちつく木の葉かな     丈 草

 水草も枯れ、動くものの影とてない冬の水底(みなそこ)の嘱目吟である。
 「水底の岩」とあるので、溜池などではなく、おそらくは渓流に近い川の一隅であろう。
 「落ちつく」が、この句の眼目である。
 やや水の涸れた、寒々と延びる川べりを歩いていた作者は、もしや虫か小魚でもと、しゃがみこんで、しばらく水底に眼を凝らしていたのであろう。どこからか吹かれてきた一枚の乾いた木の葉が、水に落ちたと見ると、冷たく澄んだ水中に沈んでいく。やがて、水底の黒い岩に達すると、一、二度かすかに動き、それきり死んだように動かなくなってしまった、というのである。

 「落ちつく」とあるからには、目にとめたとき、すでに木の葉が水底に沈んで、岩にへばりついていたのではあるまい。「落ちつく」は、落葉の水底における微妙な動きを、精確に言いとろうとした言葉に違いない。
 冬の水底に、木の葉のかすかな動きを認めたがゆえに、かえって、静謐と言い知れぬ侘びしさが、いつまでも心を領するのである。
 師である芭蕉の、「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」と同じく、岩を仲立として、木の葉そのものに集中した発想である。物そのものに思いを集中する発想法をとった秀句であると思う。

 なお掲句の場合、「木の葉」は、「このは」と読み、冬の季語となる。「きのは」といったら、季節に関係なく、一般的な樹木の葉を意味することになってしまう。
 木(こ)の葉は、散りゆく木の葉、散り敷く木の葉のみならず、落ちようとしてまだ梢に残っている木の葉も含めていう。
 木の葉雨・木の葉時雨は、本当の雨ではなく、木の葉が、軒などにしきりに散るときにたてる音を、雨や時雨になぞらえたものである。

 去来が、「句におゐて、其のしづかなること丈草に及ばず」と、『旅寝論』で歎じたように、その澄んだ観照が、焦点を絞りきった簡明な表現にうかがえる。


      いろは順五十音順木の葉散る     季 己

帰り花

2008年11月17日 21時30分37秒 | Weblog
 小春日和の暖かさに、季節でもない草木の花が、ちらほらと咲いている。これを「帰り花」といい、「返り花」の字も用いる。
 桜・梨・山吹・ツツジなど、春から初夏にかけての花が、よくこの帰り花を咲かせることが多い。タンポポやスミレなどの草花までが帰り咲くと、ふと春かと思わせられて、懐かしいものである。
 帰り花は、帰り咲き・狂い咲き・忘れ咲き・二度咲き、あるいは狂い花・忘れ花とも言われる。

 気温が急に高くなったために、花芽が思わぬ発育をして開花するもので、花は小さく、形もくずれているが、いろはより濃く、あわれをそそる。
 秋の台風に傷められた年などは特に多く、八重桜・平戸ツツジなど、“先祖返り”した花が咲き出て、その園芸種のルーツがわかる場合もあって面白い。
 葉の落ちつくした梢に一、二輪咲いていたり、植え込みのツツジのところどころに花がついていたり、わびしくさびしい趣である。

 どの花であっても、季節はずれに帰り咲く花を帰り花というが、厳密には桜の花に限られていたようで、しかも桜には、毎年きまって狂い咲く桜の木があるようだ。

        帰り咲く八重の桜や法隆寺     子 規

 というのが、それである。

        晩年の身につくうれひ帰り花     舟 月

 春の桜でさえ、盛りよりも散り際を愛するのが、日本人の好みである。まして、もののあわれは、帰り花のはかなさに尽きることであろう。

        夢に似てうつつも白し帰り花     蓼 太

 花びらの色も淡くはかなく、夢か現かと、見返りたくなるのが帰り花の桜である。

        木枯らしに匂ひやつけし帰り花     芭 蕉

 耕雪の別荘で詠んだ挨拶句で、「この庭には時ならぬ帰り花が咲いている。あの帰り花は、吹きすさぶ木枯らしに、かぐわしい匂いを添えているのであろう。木枯らしの中でありながら、冬景色もこんなに匂やかな感じで眺めやられる」の意。
 嘱目の帰り花を通して、亭主耕雪への挨拶としたものである。その温雅な風格をたたえようとしたのであろう。句としては、挨拶の意に支配されて“はからい”が入り込み、低調なものになってしまった憾みがある。
 耕雪は、芭蕉の弟子で、『続猿蓑』などに句が見える。「木枯らし」も冬の季語であるが、ここは「帰り花」が主であるので、こちらが季語。けれども、挨拶に縛られたために、帰り花そのものが生かされた使い方ではない。

 『土居 進 展』(銀座・画廊宮坂)で、瀬戸内風景を満喫して帰宅したら、宮坂さんから、来年のカレンダー「大矢十四彦 『華』」が届いていた。いつもながらのお心遣い、深く感謝申し上げる。

      
     帰り花うれしいときはかたまつて     季 己

茶の花

2008年11月16日 21時58分28秒 | Weblog
 ぽかぽかと暖かい冬の日差しが、座敷の畳の上まで長く伸び始めてきた。
 自然公園の生垣に、ちらりほらりと茶の花の咲いているのが眼につく。

        茶の花の咲くまで忘れられし径     笹 舟

 純白で半開き、ふくよかな五弁の小さい花。花を見るというには、あまりにも慎ましい茶の花だが、その趣きの風雅さにいたっては、同じ仲間の椿や山茶花に優るとも劣らぬものがある。

        茶の花や働くこゑのちらばりし     林 火

 檜葉・かなめもち・枳殻・槙・満天星(どうだん)と、生垣にする木も数々あるが、茶の木を生垣に仕立てた人のゆかしさが、改めて心を打つ。
 暮れやすい冬の夕べを、美術館巡りから急ぐ家路に、ほのかに白く浮かぶ茶の花とそのさわやかな香りも、また懐かしいものである。

        茶の花のわづかに黄なる夕べかな     蕪 村

 霜解けの畑や、冬枯れの田の畦道を、現役のころはよく歩いたものだった。ここばかりは、濃い緑に区切った茶の生垣に、白く咲いた花の、黄色い雄蕊が眼に沁みる。

        京を出て茶の花日和極まりし     正一郎

 まして日差しの暖かな茶畑に、丸く刈り込まれた茶の木が、一面に花を咲かせて、冬籠りを急ぐ蜜蜂が、くすぐったい羽音を立てて群がっているさまは、冬というには余りにものどかな楽しい風景である。
 「京を出て」の句は、茶の名所・宇治のこの頃を詠んだものであろうか。

        茶の花に喜撰が歌はなかりけり     几 菫
 
 この句は、六歌仙の一人、喜撰法師の、

        我が庵は 都の辰巳 しかぞ棲む
          世を宇治山と 人はいふなり

 を踏まえたもの。煎茶の銘に「喜撰」というのがあるのは、この歌からであろうし、嘉永六年(1853)六月、ペリー提督浦賀来航に際して流行したという、

        泰平の眠りを覚ます蒸気船(上喜撰)
          たつた四杯(四隻)で夜も眠れず

 という狂歌も、元をたどれば喜撰法師の古歌に由来している。

 また、茶の花が下を向いて咲く冬は、雪が深いという。茶の花はまことに、あわれに、いとしい花である。
 “お茶の花”という言い方も、たんに五音にして句調を整えるためだけではない。俳句は、この花の“いのち”を、しかとつかんでいるのである。少なくとも、茶の花だけは、俳句でなければ詠めない花であると思う。


      流れゐる壺中日月お茶の花     季 己