壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

佐保川

2008年02月29日 21時19分05秒 | Weblog
 奈良・東大寺の転害門(てがいもん)から法蓮を経て法華寺にいたる一条南大路を、一般には佐保路とよんでいる。
 奈良という地名は、奈良山からはじまる。奈良山とは、平城京以前からあった名で、語源は平らな山(ならされた山)の意であるという。
 『日本書紀』には、崇神天皇のとき、武埴安彦(たけはにやすひこ)を攻めた政府軍が、踏みならしたから奈良というと、伝えられている。
 般若寺坂から法華寺あたりまでの山(というより丘)を佐保山とよび、その南を流れ、平城京を東北から西南に斜めに横切る川が佐保川である。

 佐保川は流れて初瀬川と合流し、大和川となって竜田を過ぎ、大阪湾に注ぐ。
 古来、竜田姫が秋の女神であったのに対し、春の女神を佐保姫とよぶ。
 秋の紅葉、春の花に、自然の大きな力を認めた万葉人は、それを人称化し、この川の上流と下流に、春秋の季節の女神の存在を信じたのかもしれない。
 そうだとすると、『万葉集』の、

     うちのぼる佐保の川原の青柳は 今は春べとなりにけるかも
          (巻八、大伴坂上郎女:おおとものさかのうえのいらつめ)
     <上ってゆく佐保川のほとりの柳の木は青い新芽が吹いて、いよいよ春がやってきた>

 のような佐保川の春の歌は、万葉人には特別の感慨を持って詠まれたものと思われる。

     佐保川に鳴くなる千鳥何しかも 川原を偲びいや川のぼる (巻七)
     佐保川の清き川原に鳴く千鳥 かはづと二つ忘れかねつも (巻七)

 の歌のように、川に鳴く千鳥や蛙(かはづ)の声に季節を知ったりもした。
 佐保川はまた、彼らの恋の通い路でもあった。それらの歌は、『万葉集』をひときわ美しく飾っている。

 しかし、こういう佐保川を南にひかえて、東西につづく佐保山は、佐保川のロマンスとは打って変わった悲しい山であった。
 元明、元正、聖武の諸天皇の陵をはじめ、聖武天皇皇太子、聖武天皇生母、大伴家持(おおとものやかもち)の妻、藤原不比等火葬の地と、今わかっているだけでも、いくつもの人生の終焉の地であった。

 今は佐保あたりはまったくのどぶ川で、川原・川瀬の清さもないが、昔は水量も多く、かじかの声も聞かれるような川であったのだろう。
 こんにち、法蓮・佐保のあたりは民家が密集しているが、JRの鉄橋の西の堤に出れば、「今は春べ」の趣きもいくらかはしのぶことができる。
 「うちのぼる」の歌の作者は、旅人(たびと)の妹、家持の叔母である。
 「うちのぼる」は流れに沿ってのぼってゆく呼吸であろうか。すなおな、春のあゆみを思わせるような、調子をととのえた、いい歌だ。


      骨壷に欲しき水指 春たのし     季 己
 

リヤドロ

2008年02月28日 21時41分53秒 | Weblog
 スペイン大使館(東京・六本木)に初めて行った。
 と言っても、スペイン旅行のためではなく、「リヤドロプレミア招待会」に招かれたためだ。

 リヤドロ社は、1950年代初め、リヤドロ三兄弟が、スペインの古都バレンシア近郊に、小さな窯を築いたのが始まりという。『優しさあふれる世界を創造したい』という夢をポーセリンに託して…。
 リヤドロの『人生の喜びを描く』という創作理念と、あくなき技術探求に裏づけされた作品は、多くの人々の共感を得て、創業からおよそ50年という短期間で、ポーセリンのトップブランドへと成長した。
 リヤドロ作品は世界中で高い評価を受け、エルミタージュ美術館をはじめ名だたる美術館・博物館で常設展示あるいは所蔵されているとのこと。

 きょうの「リヤドロプレミア招待会」は、絶版になった限定制作の作品が、15%引きで購入できるめったにないチャンスだ。
 会場は人、人、人、それも8割方は女性である。もうすでに半分近くの作品に、売約済みの金色のシールが貼ってある。
 女性の一団が立ち去るのを待って、作品に近づき鑑賞する。こんなふうであるから、全部を観るのにかなりの時間がかかった。

 昨年6月に『接吻(ハイポーセリン)』が、本邦初公開され、それ以来ずっと恋い焦れていたが、今回もその『接吻』の前で立ち尽くしてしまった。
 『接吻』は、クリムトの名画を色彩から質感までかなり忠実に再現した作品で、豊かな装飾が目を引く。
 赤銅色から錆色、光沢ある黄金色まで、さまざまなトーンの金彩、銀彩が、クリムト独特の幾何学的なモチーフを、よりいっそう引き立てる。
 クリムトのテーマは「至福の探求」で、その発露が「接吻」だったと思う。男と女の愛と情熱で満ち溢れた感情を象徴している。
 官能、力強さ、死、そしてどこか優しさ、清らかさも、ひしひしと伝わってくる。まさに芸術作品と呼ぶにふさわしい逸品である。
   《接吻(ハイポーセリン) H63×W67cm 限定制作数:80》


      紅梅の盛りスペイン大使館     季 己

孤高

2008年02月27日 21時49分14秒 | Weblog
 盆梅がやっと二輪咲いた。つぼみは昨年より多い気がする。
 寒い間、青いものを見なかった地面に眼をやると、枯れた葉や古株の間から、草の芽が早春の日差しを喜んでいる。
 しかし、連日の強風、風は冷たい。

 きのう買ったCD、「囃子組曲」を聴き、気持ちを高ぶらせて日本橋へ行く。
 三越・特選画廊で「エコール・ド・パリ21」を観る。
 一千万円以上の作品が大半で、私などおよびでない。
 どうしてあんなにバカ高いのだろう。誰があんなに高い値段をつけるのだろう。
 高価な絵をじっくり拝ましていただこうとしたが、絵のほうから「貧乏人は早く帰れ」と言われたような気がしたので、早々に退散。

 高島屋・美術画廊で「春季創画小品展」を観る。
 創画会会員の10号を中心とした新作が、一堂に展覧できるよい機会だ。
 初日でしかも「春季創画展」が明日からということもあり、観客は私ひとり。
 まず、会場の中央に立ち、全作品を見渡す。真っ先に私の心をとらえたのは、小嶋悠司の「凝視」。作品の前に立ち、こちらも作品を凝視。小嶋先生の「凝視」は数点所持しているが、これまでにない新味がある。
 からだ全体が、あたたかい空気に包まれ、涙があふれそうになってくる。孤高を感じる。
 先生の作品は誰にも真似は出来ない。落款がなくても一度見れば、小嶋悠司とすぐわかる。そのせいでもなかろうが、先生のサインは、よく観ないとわからない。絵にとけこんでしまっているのだ。サインを探すのも一つの楽しみだ。
 おそらく先生の本画は版画には出来ないであろう。

 小嶋先生と同じくらい好きなのが滝沢具幸先生だ。こちらも観れば観るほど、先生のあたたかい心が感じられ、釘付けになってしまう。
 滝沢先生からは毎年、先生ご自身でつくられた版画の賀状をいただくが、先生の本画も版画には出来ない。あの深くしかも清澄な色を、版画で出すのは至難の技であろう。
 そのほかに感銘を受けたのは、烏頭尾精、武田州左の両先生。

 明日からの「第34回 春季創画展」が楽しみである。
 入場無料なので、高島屋・8階ホールへぜひどうぞ。3月4日(火)まで。


      名草の芽一つ離れて孤に耐ふる     季 己

ロートレック展

2008年02月26日 20時34分52秒 | Weblog
 「ロートレック展」(サントリー美術館)のメンバーズ内覧会へ行ってきた。
 通常、火曜日は休館なのだが、会期中に一度、サントリー美術館メンバーズ・クラブの会員に限り、13時30分~15時30分まで、ゆったりと観覧できる仕組みだ。
 ざっと数えたところ100人強といったところか。お気に入りの作品の前で、心ゆくまで鑑賞できるのが、何よりうれしい。

 ロートレック(1864~1901)は、19世紀末のフランスを代表する画家の一人であり、ポスター作家、版画家としてもよく知られている。
 日本でいえば、正岡子規(1867~1902)と同時代の人で、宮沢賢治(1896~1933)と同じく36歳で亡くなっている。(こんなことは、関係ないか…)

 南フランスのアルビの名門貴族の家に生まれたロートレックは、歓楽街のモンマルトルでその才能を開花させ、ダンスホールやキャバレー、劇場、娼館などに入り浸り、芸人たちや娼婦、そしてそこに集まる人々の姿を、鋭い観察眼と卓越したデッサン力でとらえ、魅力的な作品に仕上げていった。

 今回の展示では、36年の彼の短い生涯の中で、多くの傑作を残した晩年の10数年間に焦点を絞り、日本初出品のオルセー美術館のロートレック・コレクションをはじめ、各国から集められた油彩画の名品の数々、さらに版画とポスターの代表作を網羅したという。

 じっくり観られたせいか、ロートレック芸術の本質や、ロートレックの情熱のすべてを一望できた、至福の2時間であった。
 250点余りの作品のなかで数点、心揺さぶられるものがあった。特に「イヴェット・ギルベール、ポスターの原案」の前では、足がすくみ、胸が締め付けられるような感動をおぼえた。
 誇張され、生き生きとした顔、イヴェットのトレードマークである黒い長手袋のなかの手の表情、指先の緊張感まで伝わってくる。
 さらっと描かれているのに、的確で非常に勢いのある線。線が生きていて本当にすばらしい。また、上半身のみで、ほとんど下半身を省略して描かないことに感銘を受ける。省略のきいた、余韻嫋々たる名句を、目の前にしている感じだ。生涯に一句でいいから、こんな句を詠んでみたいものだ。

 東京ミッドタウン内の名店を数店のぞき、銀座の山野楽器で江戸囃子のCDを買い、浅草へ……。


      ロートレック見て浅草へ春の宵     季 己

 

赤光

2008年02月25日 20時38分12秒 | Weblog
 きょう2月25日は、歌人・斉藤茂吉の忌日である。
 茂吉は、明治十五(1882)年、山形県に生まれ、十四歳で上京、一高を経て東大医科へ進み、精神病学を専攻した。
 一高在学中、正岡子規の遺稿歌集「竹の里歌」を読んで深い感動を受けた。以来茂吉は、子規の唱えた「写生」の説を、その強烈な個性によって深化拡充して受け継ぎ、子規から発する近代の写実的短歌の代表者としての道を歩んでゆくことになる。
 大学卒業後、斉藤家の婿養子として精神科医の本務のかたわら、伊藤左千夫の門に入り、雑誌「アララギ」の編集に従い、同派の長塚節・島木赤彦・古泉千樫らと短歌・歌論の制作に励んだ。
 また、森鷗外の観潮楼歌会に出席し、北原白秋ら「明星」「スバル」系の新進歌人と交流した。
 
 そうして赤彦とともに大正期「アララギ」の中心存在として、子規の写生論をおしすすめて、《実相観入》の説をたて、写生即象徴の独自の詠風を示した。
 
 茂吉は、昭和二十八(1953)年二月二十五日、七十一歳で死去した。茂吉の忌日を“赤光忌”とも呼ぶのは、茂吉の第一歌集『赤光』にちなんでである。
 『赤光』は、大正二年に刊行され、明治三十八年から大正二年までの作品を収める。茂吉の激しい生の意欲が、日本の伝統的抒情形式の中に、近代西欧の精神と感覚とを主体的に選び取っている。近代短歌の最高の達成を遂げ、当時の知的青年たちに多大の影響を与えた。

 タイトルの赤光(しゃっこう)は、母の野辺の送りの夜空に、茂吉が見た光なのである。「赤光のなかに浮びて棺ひとつ行き遥けかり野は涯ならん」とある。
 茂吉は、近代短歌のなかで、私の最も好きな歌人である。『赤光』のなかでも「死にたまふ母」の連作59首が特に感動的だ。
 4部構成、59首のなかから各部2首ずつ、絶唱を記す。

   ひろき葉は樹にひるがへり光りつつかくろひにつつしづ心なし
   みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる
   死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる
   のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり
   星のゐる夜ぞらのもとに赤赤とははそはの母は燃えにけるかも
   灰のなかに母をひろへり朝日子ののぼるがなかに母をひろへり
   笹原をただかき分けて行き行けど母を尋ねんわれならなくに
   山ゆゑに笹竹の子を食ひにけりははそはの母よははそはの母よ


      鏡台の前に母ゐる茂吉の忌     季 己
   

おかちめんこ

2008年02月24日 20時36分15秒 | Weblog
 今日も北西の風が吹き荒れ、外出を控えた。
 乾燥注意報がつづき、地面はからからに乾ききっている。そこに突風が起こると砂や埃、ゴミなどが舞い上がり、まるで砂嵐だ。季語にいう“春塵”である。

 広辞苑(第5版)であそんでいたら、「おかちめんこ」という懐かしい語にでくわした。
 「目鼻立ちの整わない顔。女をののしっていう語」とあるが、語源などは書かれていない。
 思うに、「おかち」と「めんこ」が合体して出来た語であろう。
 そこでまず「おかち」を引く。
 「御徒;徒侍(かちざむらい)。徒組(かちぐみ)」とあるが、これは無関係であると思う。
 つぎに、近くの「雄勝石」を見てみた。
 「宮城県桃生(ものう)郡雄勝町から産出する黒色の粘板岩。石碑・瓦代用・敷石・硯石などに用いる。玄昌石(げんしょうせき)。おかちいし」とある。
 「おかち」は、「おかちいし」にまず間違いなかろう。
 すると、「おかちめんこ」は、「おかちいし」で作った「めんこ」ということになる。

 「面子(めんこ);子供の玩具。円形または方形に作った厚紙で、多く表面に絵や写真がある。地上に置いた相手のものに交互に打ち当て、裏返せば勝とする」と広辞苑に説明がある。けれども当初は、厚紙ではなく「おかちいし」だったのだろう。

 最近は全く見かけないが、われわれが子供のころは、近所の駄菓子屋でメンコを買って、よく遊んだものである。そういえば、遊んでいる最中に、自分が好きな女の子が通ると、「やーい、おかちめんこ」などと言って、気を引いたものだ。

 メンコは、地面にたたきつけて遊ぶものだから、雄勝石の表面に彫ってあった顔がすり切れてぺちゃんこになり、わけのわからない顔になっていったので、これを人間の面(つら)の形容に用いたものであろう。
 われわれのころのメンコは、厚紙製であった。雄勝石のメンコは、明治時代あるいは江戸後期まで遡れるのではないか。
 いずれにしても、東京(江戸)の下町で、子供たちが誰云うとなく、自然発生的に生まれたことばなのかも知れない。
 ちなみに、『日本国語大辞典』(全20巻・旧版)には「おかちめんこ」は載っていない。


      春塵や おかちめんこの死語ならず     季 己

春一番

2008年02月23日 21時09分43秒 | Weblog
 昼過ぎから南よりの風が、急に強くなった。
 台風並みに発達した低気圧が、日本海から本州を通り抜けたとのこと。
 夜のニュースで、東京地方に“春一番”が吹いたと報じていた。
 春一番のあとは、お決まりの北風の突風が吹き荒れ、最大瞬間風速26.9メートルを記録したという。夜に入って気温がぐんぐん下がる。

 春一番は、その年初めて吹く強い南風のことで、年によって違うが、二月中旬から下旬、ときには三月上旬ころのこともある。
 もともとは、長崎県の島々の漁師たちの使っていたことばが、戦後、新聞やラジオで広められ、気象用語として定着したものという。

 春一番は、中国大陸から日本海に入ってきた発達した低気圧に、南の暖かい空気が流れ込んで吹くもので、春一(はるいち)とも呼ばれる。日本海側にフェーン現象を起こし、残雪の多い地域に、雪崩や雪解けの洪水を呼ぶこともある。

 春一番は、冬型の気圧配置の崩れを示すもので、本格的な春は、ここから始まるのである。
 新しい季語で、まだ熟した感じがしないが、近年さかんに詠まれている。

 二番目のが強く印象的な場合に限って、“春二番”というが、これはめったにお目にかかれないし、私自身も詠んだことはない。


      春一番 杉の花粉を起しけり     季 己

あれでも俳句

2008年02月22日 21時33分57秒 | Weblog
 俳句をはじめて3年のAさんから電話をもらった。
 このブログの最後の、俳句が楽しみで、毎日のぞいているとのこと。まことに有難いことである。
 しばらくして、言い難そうに「きのうの『きさらぎの生々流転絵巻かな』ですが、あれが本当の俳句なのですか…」と。
 「いや、あれでも俳句なのです。不出来ですが…」と、弁明しきりの私。

 俳句は、自分の思ったことや考えたことを、「ことば」で言わないで、具体的な「もの」で表す詩である。俳句は、象徴詩と言ってもよい。
 だから、俳句は事物を説明したり、原因結果を述べるものではないのだ。
 自分が、ある時、ある所で見た事物を、“心の眼”で写しとるものである。一期一会の出会いの把握、と言ってもよかろう。
 ここのところが腹の底からわかったなら、初心者卒業、いや免許皆伝であろう。

 さて、「きさらぎの生々流転絵巻かな」であるが、大観の「生々流転」絵巻を観て感銘をうけた、それが二月(きさらぎ)であった、と言うことで、意味など何もない。
 「その句はどういう意味ですか」とよく聞かれるが、俳句は象徴詩であるから、もともと意味などはないのだ。
 したがって、詩心をもって作品を虚心に観て、心に情景を描き、韻律を味わえばよいのである。
 「生々流転」がわからなければ辞書を引けばよい。広辞苑(第5版)には、「万物は永遠に生死を繰り返し、絶えず移り変ってゆくこと」とある。
 「きさらぎ」は、陰暦二月の異称で、春の季語。正確に言えば、春の半ば頃になるが、一般の人々の感覚では、まだ寒い季節のイメージが強いので、いまは新暦の二月にも、ふつうに使われている。
 では、二月は一体どんな月であろうか。
 大人にとっては、確定申告など、税の季節、就職の決まらない人、決まった人。
 子どもにとっては、入学試験、そして合格発表。志望校にめでたく合格した人、第2、第3志望に合格した人、不合格だった人などなど。
 二月は、さまざまな人の人生の縮図が見られる月ではなかろうか。

 これだけ説明を要するということは、きのうの句は不出来ということだ。
 IDを、hidekiからhudekiにさっそく代えねば……。


      春風や地図に筑波をさがす母     季 己

生々流転

2008年02月21日 21時50分19秒 | Weblog
 折にふれ時にふれては、畳に広げ、慣れ親しんだ『生々流転』絵巻。
 『没後50年 横山大観』展で、久々に本物にお目にかかってきた。あまりのすごさに言葉にならない。手元の、複製であっても飽かず眺めた絵巻。
 その本物が今、目の前にあるのだ。じっくり観ようと立ち止まるとすぐに声が飛んできた。「後が大変混雑しています。立ち止まらずに歩きながらご覧ください」と。本物にふれる喜びも、これで半減してしまった。
 
  「山の奥深くの霧が、木の葉の露となって流れ落ち、やがて川となり、渓谷
  を通って大河となり、やがて海に流れ出て、最後は龍となり、水と大気の混
  沌とした状態となる水の変化・繰り返しを水墨の自然風景の中に描き出して
  いる。視点は川の流れに近づいては遠ざかり、絶妙な構図を作り出している。
  (同展『図録』、《作品解説》より)

 この絵巻のなかに、大観の全てが凝縮されていると思う。精神、技術、知見、境涯のすべてにわたる55年の蓄積、体験が結集されてはじめてこの大作が成立したのだ。
 思えば『生々流転』は、水の変転を軸にして描かれた一大ドラマであり、人生行路の比喩としても取れよう。また、宇宙哲理を托した、水墨による一大長編詩と見ることも可能であろう。
 前期展示のなかに『老子』という作品があった。老子は、中国・春秋時代の思想家で、道家の祖で、『老子(道徳経)』を書き残した。“無為自然”を説く老子の思想は、岡倉天心をはじめ、横山大観にも深い影響を与えたという。

 今その一例を、『タオ 老子』(加島祥造・ちくま文庫)で見てみよう。

     第八章 水のように

   タオの在り方にいちばん近いのは
   天と地であり、
   タオの働きにいちばん近いのは
   水の働きなんだ。
   タオの人がすばらしいのは
   水のようだというところにある。
   水ってのは
   すべてのものを生かし、養う。
   それでいて争わず、威張りもしない。
   人の厭がる低いところへ、先に立って行く。
   水はよほどタオの働きに
   近いんだ。

   タオの人は、自分のいる所を、いつも
   善いところと思っている。
   心は、深い淵のように静かだ。
   つきあう人をみんな善い人だとし、
   自分の言うことは
   みんな信じてもらえると考え
   社会にいても
   タオの働きの善さを見失わない。
   タオの人は、手出しをしないで
   あらゆる人たちの能力を充分に発揮させるから、
   人びとは
   自分のいちばんいいタイミングで活動する。

   これをひと口でまとめると
   争うな、ということだ。
   水のように、争わなければ、
   誰からも非難をうけないじゃないか。

 このあとの第九章、第十章も、『生々流転』と通じ合うものを感じる。


      きさらぎの生々流転絵巻かな     季 己

石の意思

2008年02月20日 20時57分22秒 | Weblog
 東銀座まで来たついでに、銀座の「画廊・宮坂」へ寄る。
 『きさらぎ展』も3週目となると、客は少ない。見慣れた作品ではあるが、もう一度じっくり観る。

 長谷川潔の版画「花」(1963年作 マニエール・ノワール)が、新しく額装し直され、作品が一段と輝いて見える。
 右隣に、片岡球子の60歳代の肉筆画「山」が並んでいるのだが、長谷川の“黒白”は、若き?日の片岡の“多彩な色”に、少しも負けてはいない。
 思わぬ眼福に感謝。けれども、今ベストセラー中の加島祥造を思い起こし、必死にこらえる。『求めない』『求めない』……と。貧乏人の悲哀である。

 地主悌助(じぬしていすけ)の「石」(6号)が見当たらない。聞けば、売れたとのこと。熱烈なファンが、今でもいることを知り驚く。
 白っぽいバックに、薄いブルーの石が一つ描かれた、何の変哲もない絵であった。もしあれが、石二つであったら、二つ返事で購入しただろう。むろん価格によるが。(私は1より2のほうが好きなのだ)

 「ついさっきまで波に洗われていた自然石を二つ、たった今、海岸から拾い上げてきて描いた、といった調子の絵だが、衒いがなく、押しつけがましさもまるでない。
 文章を書いている合間にふと見上げると、その静けさに、いつも気持ちがなごみ、落ち着いてくる。」
 と、白洲正子が『独楽抄』に書いているが、私はこういう絵に弱いのだ。すぐに求めてしまう。
 
 地主悌助は、並外れた眼力と技術の持ち主であると思う。そのうえで、それを全く感じさせず、定年退職後のおっさんが、さらっと描いたように見える。なんともスゴイ絵である。
 楽しく、一所懸命に描きながら、日々、描くことを楽しんでいたのだろう。
 彼は石を凝視して、石の表面を描いているのだが、実は石の内面の意思を描いていたに違いない。


      舟繋石に日溜まるすみれ草     季 己  

竜泉寺

2008年02月19日 20時15分31秒 | Weblog
   廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐ溝に燈火うつる三階の騒ぎも
  手に取る如く、明けくれなしの車の行来に、はかり知られぬ全盛をうらなひ
  て、大音寺前と名は佛くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申き。

 樋口一葉の不朽の名作、『たけくらべ』の冒頭部分である。
 「さりとは陽気の町」と書かれた竜泉寺町を、初めて歩いたのはおよそ40年前のことである。
 当時、大学生であった私らは、塩田良平教授に引率され、『たけくらべ』の講義の一環として、竜泉寺町を実地踏査をしたのである。いまで言う、「文学散歩」であろうか。
 このときの『たけくらべ』の講義が、どれほど私の血肉になったか計り知れない。大学院進学を決意したのも、この塩田先生の影響が多大であった。

 「おおもん」と「だいもん」の違いを知ったのは、このときである。
 ちなみに、広辞苑(第5版)を引くと、
  「おおもん」 ①大きな門。だいもん。
         ②邸宅、城郭などの第1の表門。正門。
         ③遊郭の入口の門。
  「だいもん」 ①大きな門。外構えの大きな正門。総門。
         ②大きな家柄。大家。
 とある。これで両者の違いが分かるだろうか。
 「大門」とある地名の簡単な見分け方は、昔そこに何があったかということだ。
 遊郭のあった跡なら「おおもん」、大寺院がある(あった)ところなら「だいもん」と読めば、まず間違いがない。城郭の正門も「おおもん」である。
 たとえば、「吉原大門」は、遊郭の跡だから「よしわらおおもん」、芝の「大門駅」は、増上寺の門前であるから、「だいもんえき」というように。

 さて、一葉がここ竜泉寺町に住んだのは、一年たらず。そして名作『たけくらべ』が誕生したのである。
 竜泉寺町で荒物屋を始めた一葉は、以前は机の前に座って、ただ眺めていただけの広い世界へ、飛び込んで行ったのだ。また、商売をしていたから、好悪の感情を越えて人々に接することになり、自然に人柄も練れてきて、人間観察も豊富に、かつ的確になった。
 このころの一葉の日記は、見るだけのものはしっかり見て、簡明に書くという方法がとられている。これは、店の仕事に追われて、忙しかったからであろう。緊張した精神に支えられた省略が、かえって、完全な表現になるということを、一葉は自得したのである。
 「俳句は省略して、単純化」を、あらためて再確認した次第。

 今、台東区の「一葉記念館」で、特別展「歌よむ人、樋口夏子~一葉が三十一文字に託した想い」が開かれている。
 60点余りの資料から、恋や文学に悩みながら生きた一葉の姿を、思い描いてみるのも一興ではないか。(4月13日まで。月曜休み。入館料は大人300円。)


      大門の見返り柳 春浅し     季 己

22.5cm

2008年02月18日 21時04分22秒 | Weblog
 相変わらず、咳と鼻水が止まらない。おまけに身体の節々まで痛む。
 3~4日前、都バスのなかで、ゲホゴホ咳をまきちらしている人がいた。「あぶない」と思い、すぐ逃げたのだが、時遅しだったようだ。
 昨日のコンサートでは、演奏中、何とか咳を抑えることができたのは幸いだった。
 このような状態で外出するのは…と思い、今日はどこへも出かけないことにする。

 これをチャンスに、陶芸関係の展覧会の図録を引っ張り出し、眺め始めた。見ているうちに、思いついたことがあり、すぐに実行にうつす。無意味で、実にばかげたことである。
 志野、織部、瀬戸黒、黄瀬戸の茶碗の写真を観て、自分の好みの形にチェックをしたのである。(形、すなわち「口径×高さ」のバランス)

 図録のチェック対象作家は、つぎの通り。(敬称略、順不同)
 荒川豊蔵、加藤唐九郎、加藤卓男、加藤重高、加藤孝造、加藤清三、加藤光右衛門、加藤康景、安藤日出武、久野勝生、小林文一、佐藤比良夫、佐々木正、酒井甲夫、鈴木蔵、玉置保夫、月形那比古、東田茂正、堀一郎、林正太郎、牧内徹美、美和隆治、若尾昌宏。

 つぎに、図録の目録などで、チェックを入れた茶碗の寸法を調べた。
 その結果、私好みの茶碗の寸法は、おおよそ次の4通りであることがわかった。
 「13.5×9」、「13×9.5」、「12.5×10」、「12×10.5」 (単位はcm、もちろん数ミリの誤差はある)
 この結果を見て、さらにアホなことに気づいた。
 口径と高さを加えると、すべて22.5cmになるのだ。
 ただ、ざっと見た感じでは、21.5cm前後になるのも多いように思える。

 何の役にも立たないことをする私は、やはり変人かも?
 いや、私の無意識の世界に、「この手で、志野か織部の茶碗を生みだしたい、せめて成型だけでも」という願望が、あるのかも知れない。そう思いたい。


      遅き日の体温計をつよくふり     季 己  

アントニオ・クヮルテット

2008年02月17日 21時51分02秒 | Weblog
 春の日曜の昼下がり、柏市まで出かけ、室内楽を満喫してきた。
 「アントニオ・クヮルテット演奏会」が、アミュゼ柏・クリスタルホールで開かれた。小ぢんまりした会場で、室内楽にはもってこいの場所である。
 「アントニオ・クヮルテット」は、1999年12月、松戸市において地元の演奏家を中心に結成されたものである。
 いまは、新松戸にある音楽教室『みみミュージック』(代表=岡本潤也氏)の講師で編成されている。
 結成以来、年4回の定期演奏会をはじめ、これまでに東葛地区を中心に200ヶ所以上で演奏会などを催している。
 年々ファンも増え、今後の活躍が楽しみなクワルテットである。

 今日の演奏者は、岡本潤也(ビオラ)、瓜生愛(バイオリン)、岩本和子(バイオリン)、藤塚紗也香(チェロ)の4氏。

 1番目の曲は、ハイドンの「弦楽四重奏曲 第78番 作品76-4《日の出》」だ。
 《日の出》と呼ばれるように、冒頭のゆるやかに上昇していく演奏が、地平線から日が昇るさまが感じられる。
 軽快で生き生きした楽章、明るく軽やかな主題と奏され、華やかに曲が終わる。

 2番目は、ショスタコーヴィチの「弦楽四重奏曲 第1番 作品49」。
 いまの時期に演奏するのにピッタリの曲である。明るく、喜びにあふれた、楽しい、抒情的な曲だ。
 演奏技術も高く、明るく清らかな音楽性が、なんとも心地よい。

 プログラムの最後は、ベートーベンの「弦楽四重奏曲 第7番 作品59-1」である。40分を超える演奏は、まさに圧巻で、十二分に聴きごたえがあった。
 チェロによる第1主題がおおらかに歌われ、徐々に盛上り、やがて第1バイオリンから温かみのある第2主題が表れる。最後の楽章も、チェロの軽快な第1主題で始まる。第2バイオリンから歌われる第2主題は、おおらかで瞑想的である。瓜生愛の演奏が、心に染み入る。

 バイオリンとチェロの掛け合い、ぶつかり合いが堪能できた。ビオラは、縁の下の力持ちなのかもしれないが、もう少しビオラの音を楽しみたかった。

 名演奏は、情景が浮かび、登場人物の会話まで聴こえてきそうな気がする。
 名句は、情景が浮かび、音楽が聞こえてくる。
 「道は一つ」と、つくづく思う。


      みなもとは「おこと教室」春の昼     季 己

人間づくり

2008年02月16日 20時57分43秒 | Weblog
 文部科学省が、新学習指導要領案を公表した。
 教育基本法の改正後、初めての改定となる指導要領では、「生きる力の育成」という基本理念は変えないまま、授業時間や学習内容を、「ゆとり教育」前の水準に戻すという。

 指導要領改定案の骨子で一番問題なのは、小学5年からの英語活動を必修化することと、中学校での、肝心の国語の授業時間が英語より少ないということだ。
 「国際化」とか「グローバル化」などと言っているが、世間の親におもねり、迎合しているようにしか思えない。
 全ての教科の礎である国語を、なぜ重要視しないのであろう。
 「美しい国、日本」などと、どこかの国の首相が宣わっていたが、日本語を軽視して、どうして美しい国になれようか。
 「伝統・文化の尊重」と、一方で言っておきながら、肝心の国語をおろそかにするのはなぜだろう。
 英語、英語と騒ぐより、自分で考え、学ぶ姿勢を身につけさせていくことの方が大切である。“考える”のは、日本語で考えるのであって、英語ではないのだ。
 小・中学校で、徹底的に国語を叩き込むよう、再考を望みたい。

 昔、塾で教えていたときのことである。
 K子という中2の女の子が、母親に連れられてやってきた。
 K子は数学が1で、他は全て3以上だと言う。できれば数学も3以上に…、というのが母親の望みだった。
 母親は、「先生の厳しいことは存じています。男の子が、竹刀で尻をたたかれることも聞いています。それでも先生を信頼してお任せしますので、どうか面倒を見てください」と言う。
 入塾後、K子とじっくり話し合ったところ、K子は将来、スチュワーデスになる夢を持っていることが分かった。スチュワーデスになるには、数学は関係がないと思って、勉強してこなかったのである。
 「K子には、夢がある。夢がある子は絶対に伸びる」と確信し、K子に「スチュワーデスになるには、数学も必要なんだよ。夢をかなえるために先生と一緒に勉強しないか。数学が楽しくなるように教えてあげるから」と。
 それから、K子は懸命に数学を勉強するようになり、成績も学期ごとに上がり、中2の3学期は4、中3の1学期はついに5になった。
 私はK子を手取り足取り教えたわけではない。ただ“やる気”を出すきっかけを与え、K子と共に楽しく学んできただけなのだ。
 
 教育の原点は、「人間づくり」にあると思う。
 この「人間をつくる」のは、指導要領ではなく、主に、教師と父母である。
 父母は教師のやり方に賛同し、信頼する。教師は父母に応え、情熱を持って、魂を込めた教育をする。家庭においては、親と子の絆を深める。
 教師と親は、常に子どもたちに
 一、目標を作れ
 一、夢を持て
 一、ロマンを追え
 一、物事に素直に感動できる感性を養え
 一、何事も楽しく、一所懸命
 と繰り返し繰り返し、熱く説くことが大切だと思う。



      春落葉 夕日まともに子どもたち     季 己

素心陶戯

2008年02月15日 21時38分40秒 | Weblog
 東田茂正氏の窯は、東京都小金井市にある。
 駅から徒歩10分位の所に屋敷があり、門前に「素心窯」と書かれた壺が置いてあった。工房を建て替える前にしか、伺っていないので、現在のことは分からない。
 ご自分で、「素心窯」と命名されたという。
 「素心」とは、飾り気のない清らかな心、本心、ふだんの心、などという意味がある。まさに、氏の人間性が出ているピッタリの命名だと、感心する。

 「東田茂正展」の会場入口に大きなパネルがあり、そこには「素心陶戯」の四文字が、さりげなく、堂々と踊っている。
 「素心陶戯」は、氏の十年の歩みをまとめた「東田茂正作品集」の題名である。その中で氏は、
 「この作品集『素心陶戯』と題しました。日々ゆったりと作陶三昧なる生活への遥かな憧れの気持ちを、この言葉に託してみました」
 と、述べておられる。

 禅の言葉に『一行三昧(いちぎょうざんまい)』というのがある。一つのことに精神を統一して邁進する、という意味である。
 「一行三昧」の境地に至るには、心が素直で純真でなければならない。逆に、日常生活の全てにおいて、心が素直で純真でいられたら、それもまた「一行三昧」なのである。どんな環境にいても「一行三昧」ずることで、そこが極楽浄土になるのである。

 「戯」とは、「たわむれ、あそぶこと」と辞書にあるが、いやいや遊ぶ人や、苦しみながら遊ぶ人がいるだろうか。ふつう、遊ぶときは、楽しく、一所懸命ではなかろうか。したがって私は、楽しく、一所懸命することを「戯」ととらえている。

 「素心陶戯」には、純真無垢な心で、陶芸の世界で楽しく一所懸命にあそび、そこを極楽浄土とすることはもちろん、その中から生まれた作品を観る人をも、極楽浄土にあそぶ気持ちになってもらいたいという、東田氏の願いが込められているに違いない。

 また氏は、「素心陶戯」のなかで、
 「幸運な偶然とが相まって、たまたまできた作品群」とか「焼物は、炎の洗礼を受けるという神秘性を内在し、自らの手で作ったなどと豪語することは、とてもできそうにありません」と述べておられる。
 「作品の完成度は80%、偶然が20%」という謙虚さを持ちつづけ、
 一、土でしかできない表現を
 一、なにものにもとらわれない、こだわらない造形を
 一、古人の感性を礎に、己の内なる感性を、確固たる信念を持って
今後も作品を“つくる”のではなく、“生み出して”いただきたい。

 以上が「東田茂正展」、二度目の感想である。
 私が勝手に『初草』と銘をつけた、氏の初めての「黄瀬戸茶碗」が、私を待っていてくれた。氏の記念すべき作品が、コレクションに加えられ、ますます極楽浄土に遊べることを喜び、感謝したい。


      初草と思ひそめたる茶碗かな     季 己