壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (94)心を澄ます③

2011年05月29日 22時24分30秒 | Weblog
 ――本気の作品に出合うと、たとえそれが稚拙であっても、こちらも本気で添削したくなります。反対に、いかにもやっつけ仕事のような作品にぶつかると、こちらの心まで萎えてしまいます。
 今の時代、閑居は無理でしょうが、せめて、「心を澄まして」句を詠む、こんな努力ぐらいはしてほしいものです。
 そして、熱意あふれる師について、真剣勝負の気持でぶつかってゆく、これが、俳句上達の早道だと思います。

 俳句は、頭で作るものではありません。また、意味性を求めるものでもありません。
 セザンヌの絵を見て、「この絵の意味がわからない」と言いますか。
 モーツアルトを聴いて、「この曲の意味がわからない」などと言いますか。
 言わないでしょう。俳句も同じなのです。俳句は、十七音をリズムにのせて描いた、一枚の絵画なのです。これは俳句の基本作法の一つです。

 視点が平凡で表現もまた然り、という句は、頭で作っている証拠です。
 吟行をして、ものを凝視する訓練をしましょう。凝視して何をつかみ出すかは、人それぞれ。ですから、ものを凝視するということは、自分を観る、ということでもあるのです。
 つかみ出したものをいったん、胸の内に入れ、それを飾ることなく平明に、真実の言葉として吐露する。それが俳句です。だから、心を磨き、心を澄ますことが大切なのです。
 俳句は、作るものではありません。詠むもの、“うそぶく”ものです。“うそぶく”とは、胸の内から出てきた言葉、言い換えれば、“つぶやき”“となふ”ということです。


      ハンカチを叩いて干して独りかな     季 己