壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

除夜の鐘

2008年12月31日 12時54分00秒 | Weblog
 冬の季語の一つに「狐火」がある。燐火が空気中で燃える現象とも、狐が口から吐く燐火であるともいわれ、青白く、墓場などに多い。
 狐火という青白い火の出現は方々にあり、冬の、なまあたたかい雨がしょぼしょぼ降る夜道で、変人も実際に見たことがある。
 狐が、燐火を噴く人骨をくわえて駆けるのだといい、

        狐火や髑髏に雨のたまる夜に     蕪 村

 の名吟もあるが、そこまで凄みを出すこともあるまい。現代ではやはり、“幻想”的なムード句が詠まれているようだ。
 こういう季語は、経験によらぬ机上の作が、案外成功するかもしれない。     
        狐火を信じ男を信ぜざる      風 生
        星あをく恋の狐火走りけり     星 眠

        狐火や王子に古き榎原     蓼 井

 狐火といえば、東京北区・王子の王子稲荷神社を思い起こす。ここにはかつて、「王子の狐火」というのがあった。広重の版画「大晦日の狐火」で、ご存知の方も多いと思う。
 大晦日の夜、王子稲荷の装束榎のもとに、関八州の狐が集まって、官位を定めるという民間伝承があった。無数の狐火が集まって、百万の燈火を点ずるような奇観を呈したので、付近の農民は、狐火が山道を伝い、川辺を伝うさまを見て、明くる年の吉凶を占ったと言う。
 この王子の狐火は、明治十四、五年まで実際に見えたそうである。
 なお、のどかな新年行事の「狐の行列」は、装束稲荷を午前零時に出発し、王子稲荷に零時四十五分到着の予定である。これを見て、厳かに初詣というのも一興かとも。

        追々に狐あつまる除夜の鐘

 人間の宿命とされる迷い――百八の煩悩を消滅しようという願いを込めて鳴らす梵鐘。増上寺・知恩院・三井寺などの名鐘は、テレビ・ラジオで各家庭のリビングにも響いてくるが、やはり、寺へ赴いて自身で撞くのが一番。
 個人的には、低音の知恩院の鐘と、高音の青蓮院の鐘との二重奏?が、最も好きである。

        百方に餓鬼うづくまる除夜の鐘

 五十歳前は京都、五十歳以後は奈良で、年末年始を迎えるのが常であった。と言うといかにも豪勢であるが、すべてユースホステルでお世話になるので、宿泊費は旅館の一泊分にも満たない。
 大晦日の夜、過ぎ行く年を送って、午前零時から撞き鳴らす除夜の鐘。
 軒並みに寺院が甍を連ねている京都の寺町を、旧年と新年とにまたがって、すずろ歩くならば、それはそれは素晴らしい梵鐘の交響楽を楽しむことが出来るのである。

        除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり     澄 雄

 ところで、大晦日の夜を除夜というのは、十二月を除月(じょげつ)、大晦日を除日(じょじつ)というのと同じく、過ぎてきた古い年を除き去る意味といわれる。過去を清算して、希望に満ちた新しい年を迎えるわけである。
 除夜には、一家中が集まって、服装を調え、先祖を祀り、夜を徹して酒宴を催すというのが、古い中国の習慣であったそうだ。

        おろかなる犬吠えてをり除夜の鐘     青 邨

 数限りない人間の悩みを、百八つの煩悩に象徴して、百八の鐘を撞く除夜の鐘。
鐘の音一つごとに、一つの煩悩を消滅する功徳があるというので、百八回、鐘を撞くのである。
 もとは、毎日、朝な夕なに百八の鐘を撞いたものだといわれるが、今では、一年に一回、大晦日の除夜の鐘ですませているのであろう。


      来し方の起伏それぞれ除夜の鐘     季 己

大晦日

2008年12月30日 17時42分09秒 | Weblog
 平成二十年も残りわずかとなった。「光陰矢のごとし」というように、月日の流れは淀みなく早い。ことに年末ともなると、誰もがそれを痛感する。そして過ぎし月日を思い浮かべる。このような感慨を、俳句の世界では「年惜しむ」という。

        大晦日定めなき世のさだめかな     西 鶴

 諸行無常、老少不定などといわれるように、何一つ定めのないこの世だけれど、借金取りに責め立てられる大晦日だけは、毎年きちんとやってくる。いわばそれは「定めなき世のさだめ」というべきだ……。

 大晦日は一年間の貸借の決算期で、
 「世の定めとて大晦日は闇なる事、天の岩戸このかたしれたる事なるに、人みな常に渡世を油断して、毎年ひとつ胸算用ちがひ、節季を仕廻ひかね……」
 と、『世間胸算用』に活写されている。

 句は、『新葉集』雑下に見える、
        君はなほ 背きな果てそ とにかくに
          定めなき世の 定めなければ
 の歌のパロディーであるが、宇宙の絶対的真理としての「定めなき」と、人為的に設定された貸借決算の「定め」という、次元の異なる二つの《定め》を、同一次元内に結び合わせ、「定めなき世のさだめ」と逆説的にもじった点に、西鶴の独創性がよみとれる。
 そして、この独創性が、やがて生み出される浮世草子の前兆として、きわめて予感的であったことはいうまでもない。

 『好色一代男』をはじめ、『好色五人女』、『日本永代蔵』、『世間胸算用』など数多くの浮世草子の作者として名高い井原西鶴は、本業はプロの俳諧師であった。
 寛永十九年(1642)に大坂の商家に生まれ、自称十五歳で俳諧の道に入り、元禄六年(1693)に世を去るまで、「難波俳林松寿軒西鶴」が、その肩書きであった。
 宗因入門は、寛文中期ごろといわれている。
 延宝元年(1673)、『生玉万句』の興行により俳壇に雄飛したが、そのころすでに異端の俳諧師として、貞門派から阿蘭陀流と呼ばれていたらしい。
 貞享元年(1684)、一昼夜に二万三千五百句の矢数俳諧を興行するなど、話題に事欠かない町人俳諧師であった。

           辞世 人間五十年の究り、それさへ
            我にはあまりたるに、ましてや
        浮世の月見過しにけり末二年     西 鶴

 西鶴の辞世の句である。西鶴は、元禄六年(1693)八月十日、五十二歳でこの世を去った。
 「末二年」とは、人生五十年から生き過ごした終わりの二年間をいう。
 人生は五十年と言い伝えるのに、わたしはもう五十二年も生きながらえた。人麻呂の辞世になぞらえていえば、浮世の月を末二年だけ余分に見過ぎてしまったことだ、というのである。
 人麻呂の辞世とは、
        石見がた 高津の松の 木の間より
          うき世の月を 見はてぬるかな
 の歌をさすものと思われる。
 まことに淡々とした心境であるが、八月十日のこの日は、「末二年」目の名月を仰ぐにはまだ日がある。
 西鶴は、あるいは中秋の良夜まで生きながらえうると考えていたのだろうか。


      年惜しむ伊坂ワールド読み返し     季 己

河豚で大当たり

2008年12月29日 20時34分48秒 | Weblog
 十一月から二月までは、河豚(ふぐ)のもっとも美味な時期だという。
 魚が苦手な変人は、もちろん、河豚料理は食べたことがない。忘年会によく河豚料理が出てきたが、河豚大好き人間が隣に来て、全部片付けてくれたので大助かりだった。
 魚は食べなくても、知識として魚の勉強はした。句会で、人さまの句を拝見し、鑑賞するために必要だったからである。その時のメモや切抜きなどが、今、こうして役に立っている。

        あら何ともなやきのふは過ぎてふくと汁     芭 蕉

 「ふくと汁」は、「ふくと」と清音で読むのが当時の読みで、河豚の肉を実に入れた味噌汁のこと。
 句は、謡曲などで一種、慣用句的となっている「あら何(なに)ともなや」(何だつまらない、というような軽い意味で、間投詞的に用いられている)を、何事も起こらなかったと、文字通りの意に用いたところに談林的技巧がある。
 ただ、この句の場合、中七の「きのふは過ぎて」の措辞からみて、謡曲『芦刈』の「あら何ともなや候。此由をやがて申さうずるにて候。(中略)今とても為す業もなき身の行方。昨日と過ぎ今日と暮れ明日又かくこそ荒磯海」とあるのを踏まえているかと思われる。

 「河豚は食いたし、命は惜しし」と言われるように、河豚に恐ろしい毒のあることはご存知の通り。何しろ、河豚の毒の強さは、青酸カリの600倍というのだから、驚きである。

        河豚食うて仏陀の巨体見にゆかん     龍 太

 河豚の毒に当たって死んでもいいから、河豚を食いたい、というのであろう。
 河豚の毒に当たると、まず、唇や舌からしびれ始めて、手足が動かなくなり、チアノーゼを起こして、顔や指先が紫色となり、ついには呼吸が停止するという。
 マコ(卵巣)とキモ(肝臓)に、テトロドトキシンという毒素を含んでおり、この毒にやられるわけである。ところが、河豚の卵巣から純粋に抽き出した、このテトロドトキシンを注射薬として用いると、神経痛や痙攣、または夜尿症に薬効があるというのだから、まさに「毒変じて薬となる」面白いことである。

 ところで、今年は、『源氏物語』千年紀というわけで、『源氏物語』関係の書物が、ずいぶんと出版された。ただ、爆発的に売れたという話は聞かないので、やはり不景気なのであろう。ただ一人、瀬戸内寂聴さんだけが、全国を駆け巡っているのだけは目立ったが……。
 その『源氏物語』の作者である紫式部の夫、藤原宣孝(のぶたか)が、河豚中毒のお蔭で、大当たりを取ったという面白い話がある。

 紫式部は稀代の才女である上に、老父藤原為時や、すね者の弟惟規(のぶのり)を抱えて、なかなか適当な結婚相手が見つからず、ついつい婚期を逸して、数え年二十五歳となってしまった。
 その頃、しきりに求婚してきたのが、遠い親戚に当たる藤原宣孝だった。宣孝はすでに四十九歳にもなる初老の既婚者だった。といっても一夫多妻の世の中、バツイチではない。
 紫式部としても、ハイミスの自分をリードして、しかも家族の後盾となってくれるのは、世渡り上手な遣り手の宣孝より他にはあるまいと諦めて、長徳四年(998)に結婚した。

 かつて、宣孝は、就職祈願のために家の子郎党を引き連れて、吉野の蔵王権現にお参りをしたことがあった。
 修験道で有名な金峰山。ここへ参詣する人はみな、真白な浄衣姿で参るのに、宣孝一行は、きらびやかな狩衣・指貫あるいは水干姿で練り歩き、道行く人々の眼を驚かし、その派手さかげんは、遠く都まで語り草となった。

 ところが、それから僅か十日経つか経たぬかに、筑前守藤原知章の一族が、任地筑前の国府に到着して間もなく、知章を除いて、子息をはじめ家の子郎党三十余人が急死したという報告が、都へ到着した。
 そうして、後任者に誰を選ぶかという時、一座の頭に思い浮かべられたのが、蔵王権現華美装束の参詣で記憶に新しい宣孝だったのである。常識外れの才覚が認められ、まんまと宣孝が後任の筑前守に任命されたのだ。
 この風変わりな逸話は、清少納言も『枕草子』に書いているが、その知章一族の三十数人急死というのは、実は、河豚中毒以外に考えられないというのが、大方の推定である。
 集団河豚中毒事件の穴埋め人事が、思いもかけぬ宣孝の大当たりとなった、という一席。


      ゆくすゑのあらまし見ゆる河豚の皿     季 己

侘助が咲けば

2008年12月28日 20時27分49秒 | Weblog
 いよいよ今年も余すところ、あと三日。
 顧みれば、中国製ギョーザで中毒・無差別殺人・岩手宮城大地震・金融不安・雇用問題などなど、大変な一年であった。
 そのためか、今年の世相を表す漢字に「変」が選ばれたという。変人の「変」でもあるのだが、喜ぶことは出来ない。
 個人的には、年頭の“誓い”で達成できそうなのは、このブログただ一つだけ。この元日から大晦日まで、欠かさずブログを書き、最後に俳句を一句つけて、毎日更新する、というものだ。今日で363日目。あと3回……。
 周囲の方の「ブログ読んでるよ」の声に、どれだけ励まされたことか。いま改めて御礼を申し上げる。ありがとうございました!

        侘助が咲けばこの年かへりみる     澄 雄

 春にさきがけて咲く梅よりも早く、寒中に咲く寒椿よりも早いものに、侘助椿がある。
 ただ、一番早いのは、白玉椿で、これは椿の中でも、最も品格が高く、九月の末、十月の初めに、大輪で牡丹咲きの美しい花を開く。
 重なりあった六枚の真白い花びらが、心もち首をかしげて、黄金色に飾られた雄蕊の輪をのぞかせる。飽かず眺めていれば、世の中の憂さ辛さを忘れさせてくれるのが、白玉椿である。

        侘助や出を待つ如く人を待つ     隆 保

 十月の末頃から、ちらりほらりと咲いていた侘助が、いまは盛りとなった。もっともこの椿は、うっかりすると見落としてしまうほど、慎ましやかな花である。
 花が一重で、花数も少なく、いかにも侘びた姿をしているので、この名があるといわれている。また、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、加藤清正が持ち帰ったものを、千利休と同じ時代を生きた茶人侘助がこよなく愛したところから、この名が付いたともいわれ、お茶の活け花として喜ばれるものである。
 学名は、カメリア・レティクラタ・ワビスケ・マキノと呼ばれるとのことなので、分類植物学の第一人者の牧野富太郎博士が、学会に報告したものと思われる。

        侘助の咲きかはりたる別の花     風 生

 白・桃色・紅(くれない)と紅白の絞りなどの栽培品種がある侘助は、いずれもがいつが盛りということもなく、今年の冬から翌年の初夏までの長い期間を咲き続ける。雪や霜にも傷められず、何ヶ月も咲き通して、変わることのない律儀さが尊ばれる。

        侘助のひとつの花の日数かな     青 畝

 こうした侘助の持ち味は、お茶や俳句の世界でいう、「わび」だとか「さび」だとか、「不易流行」と呼ばれる精神にも通じているのだろう。
 ただ、侘助という「変」な名で、句に詠むのに抵抗を感じるようでもある。


      侘助や丘をまたいで去る夕日     季 己

餅つき

2008年12月27日 22時10分22秒 | Weblog
 近所のスーパーで、真空パックの鏡餅と切り餅とを買ってきた。
 近頃では、代表的な“年用意”である「餅つき」が見られなくなってしまった。
 都会では、各家庭で正月のお餅をつくことがなくなり、ほとんどは、真空パックの切り餅をスーパーやコンビニ、あるいは通販で買ってすませる。よほど手間隙をいとわぬ家庭でも、電動の餅つき機でつきたてのほやほやを楽しむのが精一杯である。したがって、

        餅搗くや框(かまち)にとびし餅のきれ     素 十

 などという光景は見られない。

 しかし、昔の仕来たりを厳格に守っている旧家では、臼や杵が用意してあって、家中総出でお餅をついたり、賃餅の若い衆を頼んで来て、自宅の土間で餅をつかせたりするなどは、餅つきは歳末の行事の中でも、最も晴れがましい楽しみであったと思う。

        餅搗に祝儀とらする夜明かな     鬼 城

 太い薪が、パチパチと火の粉を散らして、真っ赤に燃えさかっている。もうもうと湯気を立てている釜の上の蒸籠(せいろう)。掛け声も勇ましく、ペッタン、ペッタンと休みなく振り下ろされる杵の音。調子を合わせて、吸う息・吐く息も油断のない捏ね取り。
 やがて、つきあがった一臼の餅が、真白い取り粉の上に、ドサッと投げ出されると、まわりから寄ってたかって手早く小さくちぎり、丸い小餅にされたり、四角い伸し餅になったり、品のよい鏡餅が出来上がったりする。

        餅つきや焚火のうつる嫁の顔     召 波

 要領よく分業された餅つきの、持ち場持ち場に働いている人が、すべて呼吸を合わせて、活気に満ちた一つのリズムに乗っている。昔からあった家庭行事で、餅つきほど張り合いのあるものは少なかろう。

        餅飛ぶやぱたりと犬の大口へ     一 茶

 「犬も歩けば餅にありつける」と、一茶は言いたいのであろうか。やわらかい、つきたてのお餅にパクリと噛みついた犬は、それこそ災難。牙にくっついて大変な難儀をする。
 二十年余、幼稚園で「おもちつき」を行なってきたが、園児が餅を喉に詰まらせないように、気を配り、眼を配ることが、園長の大仕事……。
 園児たちにとっては、つきたてのお餅をちぎって、黄な粉や餡子をまぶしたり、大根おろしのからみ餅にしたりと、大喜びの行事であったろう。
 もちろん、男性職員が手を添えて、園児たちに餅をつかせたりと、いろいろと楽しみの多い行事であったといえる。


      金銀の水引 餅がつきあがり     季 己

火の用心

2008年12月26日 21時40分59秒 | Weblog
 カッチ、カッチ、カーッチカチ。遠くから拍子木の音が響いてくる。この冬一番の寒さの中、火の番が廻っている。
 冬ともなると火を使うことが多いので、火災予防のためと、防犯のために、町会の防犯部の方が、火の番として出てくれているのだ。こうして部屋の中にいてさえ、しんしんと冷えてくるのに、丹念に町の角々を改めながら廻ってくる“火の用心”とは、まことに頭が下がることである。

        火の番や麻布谷町こだまする     椎 花

 カッチ、カッチ、「火の用心」と、拍子木の音の合間に声をかけながら廻ってくる火の番は、懐かしい冬の夜の情趣の一つといえよう。
 かつて、まだ宵の内に、町の子供たちが、「火の用心、マッチ一本火事のもと」と、声をそろえて練り歩いたものだった。
 子供たちの公徳心を養うにも効果の大きい社会教育であったが、「誰でもよかった」といって簡単に人の命を奪ってしまう狂ったご時勢、とてもじゃないが、やらすことは出来ない。
 今はたいてい、背中の曲った老人までも、夜番に駆り出されて廻ることが多く、かえって痛ましい気がする。その点を、町会役員に尋ねたら、「いや、志願して廻ってくれているんです。もっとも、夜番の後の熱燗が楽しみでね…」との答えが返ってきた。

        街角に触れて消えたる夜番かな     波 郷

 今夜のように、北風が耳や鼻を凍らせて吹きちぎれそうな夜、特に気を配って、「こちらは○○町会防犯部です。おやすみ前に、戸締り・火の元を十分お確かめください」と、声をかけながら行く火の番の足元のおぼつかなさ。
 万一、町のどこかで火の手が上がろうものなら、「火事です、火事です。火事は▲▲近辺です」と触れ歩く、火災報知機の役まで勤めたのが、昔の習わしであったという。

        この木戸や鎖(じゃう)のさされて冬の月     其 角

 江戸時代には、町ごとに木戸を設けて、治安の維持にあたり、昼は、中央の大木戸を開いて自由に通行させ、夜は、四つ、すなわち午後十時を限って大木戸を閉ざし、町ごとの木戸は小さな潜り戸を開けて、人を通していた。その潜り戸を人が出入りするたびに、木戸番が拍子木を打って町中に知らせたのだから、用心のいい事はこの上もない。
 この拍子木を送り拍子と言い、番屋に詰めている木戸番を、番太郎と呼んでいた。明治以後の夜番や火の用心は、この番太郎の仕来たりを受け継いだものとも言えよう。


      火の用心 巡り来るたび星ふゆる     季 己

みぞれ

2008年12月25日 21時13分47秒 | Weblog
        淋しさの底ぬけてふるみぞれかな     丈 草

 『けふの昔』(元禄十二年)には、下五が「しぐれかな」とあるが、時雨は短時間降る急雨で、あわただしい気分を伴ない、「淋しさの底ぬけて降る」というには適さない。
 また、『はだか麦』(元禄十四年)には、「霰かな」とあるが、芭蕉の句に「いかめしき音や霰の檜木笠」とあるように、霰は、しみじみとした淋しさにはほど遠い。
 みぞれは、白く舞い落ちる雪とも異なり、うそ寒く陰鬱な気分をもたらす。
 手元の『現代俳句歳時記』(角川春樹編)で、「霙」の項を見ると、次のような解説があり、霙にもっともふさわしい名句として、上記の丈草の句が選ばれている。

 【霙(みぞれ)】雪と雨が入りまじって降るものをいう。冬の初めと終わりに多い。雪が降るときに地表に近い所の気温が高いと、雪の一部が解けてつめたい水滴となり、雨まじりの雪となるのである。降りはじめが霙で、しだいに雪に変わってゆくということが多いようだ。雪や霰のような華やかさがなく、暗くてしめっぽく、積極的に美しさを認めたくなるような現象ではないが、それだけに複雑な心境と取り合わせて、心理的な深みを表現し得る季語ではあろう。霙る、みぞるる、みぞれけり、などと、動詞としても用いる。(『現代俳句歳時記・冬』:角川春樹編、P60より)

 言われてみれば、みぞれこそ「淋しさ」の極北にある降り物、という気がしてくる。「淋しさの底ぬけてふる」とは、主観の強い大胆な表現であるが、誇張や嫌味を感じさせないのは、丈草のいつわらぬ諦観の表白にほかならないからである。
 「淋しさの」の「の」は、淋しさそのもの「が」という意の主格にとれなくもない。しかし、そう解すると、「底ぬけ“て”ふる」が「底ぬけ“に”ふる」と同義になって、感心しない。「淋しさ」というものに底があるとすれば、その底をさらにつきぬけて、と連体修飾格に解すべきであろう。
 「淋しさの底ぬけて」とは、尋常の淋しさを通り越して、底しれぬ孤独に誘い込まれることを言ったのである。

 丈草は、ふつう何がしかの甘い感情を伴なう「淋しさ」を突き抜けたところの、禅者の自在な働きに根ざす本質的な淋しさ、いわば実存的な寂寥感を「みぞれ」のなかに看取したのにちがいない。

        「のちのおもひに」
                       立原道造

     (前略)
     夢は そのさきには もうゆかない
     なにもかも 忘れ果てようとおもひ
     忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

     夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
     そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
     星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう
 
 「忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには」に、「淋しさの底ぬけて」と共通するものが、感じられてならない。


      みぞるるや地蔵は目鼻失へり     季 己    

賤の門松

2008年12月24日 21時32分19秒 | Weblog
 日本橋・高島屋の地下、食品売り場には、ところどころ異様な行列が出来ていた。どうやら、クリスマスケーキを買うために並んでいるらしい。
 キリスト教の国でもない日本が、どうして、世界でも類を見ないほどに、底抜け騒ぎのクリスマス・イブを楽しむのだろうか。
 と思う間もなく、大晦日にはお寺で除夜の鐘、そうしてそのまま神社へ初詣。日本人は、多神教というより無宗教で、ただ単にドンチャン騒ぎ、いや並ぶのが好きなだけなのかもしれない。行列の中にいれば、安心できる民族なのであろう。

 高島屋へ行く前に、近所のスーパーで大根締めと輪飾りを買った。どちらも、歳の市の値段の半額以下の値段であった。
 ところで、正月の縁起物としての門松は、太い削ぎ竹を真ん中に立て、下廻りを短い竹で囲った豪勢なものを立てるお邸がある。また拙宅のように、町会を通して配布される、紙に印刷したもので済ませる家もある。
 各人各様であるが、富裕なお邸で、その財力を誇って、滅多やたらと立派な門松を立てるのは、いかがなものであろうか。実は、これは滑稽な錯覚なのである。

と言うのも、平安時代の、内裏や貴族の邸宅では、門松を立てることもなく、注連縄を張ることもなく、むしろ、門松や注連縄は、貧しい民家で用いる習慣だったのである。
 それは平安末期に描かれた『年中行事絵巻』を見ても、貴族の邸宅の門前には門松も注連飾りもなく、道路に沿った民家の垣根に、注連縄が張り巡らされている構図があるのを見てもわかることである。

 その上、紀貫之の『土佐日記』には、承平五年(935)正月元日の条に、塩押鮎の頭が、人間にかじられた時、互いに交わした私語として、
 「今日は都のみぞ思ひやらるる」
 「小家の門の注連縄の鯔の頭・柊ら、如何にぞ」
 と言わせているところからして、門松や注連縄だけでなく、近世では、節分の塩鰯の頭を柊の枝にさして飾る魔除けの風習も、平安時代には、庶民階級に限られた、実は、家の中の穢れを外へ出させずに閉じ込める、官尊民卑の風習であったことがわかるのである。

 さらに、『嘉応二年(1170)五月二十九日左衛門督実国歌合』の、歳暮題四番右方の右京権大夫源頼政の歌に、
        おのがじし 賤(しづ)の門松 持て騒ぐ
          立つべき春や 近くなるらむ
 というのがあるが、ちょうど歳の暮の市中の庶民が、正月の準備に右往左往するさまを描写したものである。立派な門松を立てる大金持ちとは、実は欲の深い賤しい庶民なのかもしれない。
 (※おのがじし=めいめい。それぞれ。 賤=身分の低い者。いやしいこと。)


      寒椿むかし影踏みせしところ     季 己

きよしこの夜

2008年12月23日 20時26分11秒 | Weblog
 「ソーラソミー ソーラソミー レーレシー ドードソー ラーラドーシラ…」と吹いてみるが、なかなか難しい。

 先日、鎌倉・小町通りで、白井進さんから8ホールのオカリナを購入した。今、それを使って「きよしこの夜」の練習をしている。5ホールのものは、10年ほど前から持っているが、ボケ防止のために、8ホールに挑戦したのだが、思った以上に大変である。

 ところで「きよしこの夜」の誕生には、いくつかの説があるようだ。インターネットでざっと調べてみたが、だいたい同じようなこと(説)が多かった。そこで若干違う説を、違う目線で書いてみる。なお、引用の『聖書』は、国際ギデオン協会から無料配布された『新約聖書』によることを、お断りしておく。

 「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。
 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
 ヨゼフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」(ルカの福音書:イエスの誕生)

 1818年12月24日の夜、オーストリアの、アルプスの山中にあるオーベルンドルフという村で、ヨゼフ・モールという神父が、ひとり静かに聖書を読んでいた。その真夜中に行なわれる、クリスマスのミサの話の準備をしていたのである。

 「さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
 御使いは彼らに言った。
 『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです』」(ルカの福音書:羊飼いの礼拝)

 ちょうどそこまで読んできた時、戸口を叩く音がした。一人の百姓女が、その日の朝早く山奥の炭焼小屋で生まれた、赤ん坊の洗礼を頼みに来たのである。
 やがて、薄暗い炭焼小屋に赤ん坊を抱いて横になっている若い母親を見た時、モール神父は、さっき読んだばかりの聖書の言葉を、まざまざと思い出した。
 そして、洗礼をすませて山を下りて行く神父は、今夜のミサにお参りするために谷間を上って来る人々の、松明の光と折から鳴り出した鐘の音に、すっかり神秘的な暗示に包まれていた。

 真夜中の礼拝が終って、書斎に腰を下ろしたモール神父は、その日、自分に起こった出来事を、何気なく紙に書き留めておいた。そうして夜が明けたとき、それは、立派な一篇の詩になっていた。
 25日、クリスマスの当日。モール神父は、その詩に、村の学校の音楽教師であったフランツ・グルーバーに頼んで、曲をつけてもらった。

   清しこの夜、星は光り、救いの御子は、御母の胸に 眠り給う、夢安く。
   清しこの夜、御告げ受けし、羊飼等は、御子の御前に、額づきぬ、畏みて。

 世界中に知られた、クリスマス・イブのこの歌は、こうした美しく清らかなインスピレーションから生まれてきたものだ、ということである。


      耳打ちの少女の頬も聖夜の灯     季 己

焼き芋

2008年12月22日 17時03分16秒 | Weblog
 昨日から吹き荒れた南風で、今朝の室温は23度。もちろん、暖房器具は何も使っていない。
 それが夕方、窓ガラスが真白に曇ってしまった。風が北風に変わったのだ。指で落書きをしたくなったが、ぐっと、こらえた。

        いも屋の前に焼けるを待つ下女子守なんど     子 規

 冬の食べ物で、懐かしさを覚えるものに、焼き芋がある。
 焼き芋というと、女性の専売特許?と思っている変人は、焼き芋を買うのが恥ずかしく、滅多に買ったことはないが、子供のころはよく食べたものだった。
 焼き芋に限らず、芋・豆・南瓜など、含水炭素を多く含む澱粉質の食べ物は、皮下脂肪を蓄えて、女性の肌を美しくする作用があるという。だから、焼き芋は、女性の本能的に好物となるのであろう。
 近頃のように、ダイエットばやりでは、意識して、その食欲を抑えていらっしゃる方も多いのではなかろうか。

        甘藷(いも)焼けてゐる藁の火の美しく     虚 子

 しかし、その材料の薩摩芋としては、焼き芋ほど簡単でおいしい料理法はなかろう。
 今はなくなってしまったが、近所に、夏は氷屋、冬は焼き芋屋という店があったが、これは、当時の商売の定法であったのだろう。

        壺焼芋何か途方に暮れゐたる     千 空
        ネロの業火石焼芋の竃に燃ゆ     三 鬼      

 「歳時記」で“焼藷”の項を見ると、傍題として、焼芋・西京焼・ほつこり・石焼いも・壺焼・大学いも・焼藷屋、とある。
 これまた今は出来ないが、落葉焚きのときなど、薩摩芋を火中に入れて焼いたものは、最高にうまい。「栗より(九里四里)うまい十三里」といわれるように、ほかほかとした芳しさは格別である。
 西京焼は、薩摩芋を薄く切って塩・胡麻をつけて蒸し焼きにしたもので、ほつこり、ともいう。石焼芋は、薩摩芋を、焼いた小石に埋めて焼いたもの、壺焼は、薩摩芋を大きな壺に入れて蒸し焼きにしたものである。
 また、大学芋は、乱切りにした薩摩芋を油で揚げ、砂糖蜜をからめて炒り胡麻をまぶしたもので、大正から昭和にかけて、学生街で好まれたことから、その名が付けられたという。

        煙り先行す石焼藷の車         秋 を
        石焼芋屋門前に来て火を焚けり     敦
        焼芋や八坂神社の朱の鳥居       晋
        焼藷の車に寒さつきまとふ       羽 公

 東京では、小石を敷き詰めた壺の中で、丸ごとの芋を蒸し焼きにする、石焼芋がふつうであるが、関西では、大きな丸芋を輪切りにして、大きな鉄鍋に塩をまいた上で焼く、芳しい焦げ目のついた焼芋、いわゆる西京焼・ほつこりが本命とのこと。
 東京では、「いーしーやーきーいもの、ほっかーほーかー」と呼び歩くのに対して、大阪では、「やーきーいもー、ほっこりー」と呼び歩くと、俳句仲間から聞いたことがある。ホッコリ焼きあがった感じを、そのまま言葉に表したものであろうが、いかにもうまそうに思える。


      焼芋の声の尾を引くサンシャイン     季 己

年暮るる

2008年12月21日 20時17分29秒 | Weblog
 あと十一寝ると、お正月。さて、お正月はどうしようか。おっと、その前に大の苦手の大掃除をしなければ……。

        年暮れぬ笠きて草鞋はきながら     芭 蕉

 この句について、「年」を「笠きて」以下の主語とする説がある。一読、面白いと思ったが、それは正しいとはいえない。
 『野晒紀行』には、「ここに草鞋(わらじ)をとき、かしこに杖を捨てて、旅寝ながらに年の暮れければ」と前書きされているので、やはり、「笠きて草鞋は」くのは、芭蕉とみるべきであろう。

 芭蕉は、貞享元年十二月二十五日に伊賀に移り、そこで年を越した。これは、その時の吟である。
 「旅寝ながら」、「はきながら」は、対照的な状態が、一つの身の上に起こっている場合に使われる接続助詞である。
 自分の旅は、笠きて、草鞋はいたままでまだ終らないのに、一年の旅は、終って暮れてしまった。
 『おくのほそ道』の冒頭を持ち出すまでもなく、芭蕉にとって、月日もまた旅人なのであった。
 あちこち寄り道して、ぐずぐずしているうちに、年はさっさと暮れてゆく。このちぐはぐさが、この句の眼目であろう。

 ところで、良寛が、越後三島村の木村家に移ってからの詩作に「草庵雪夜」がある。
 「首(こうべ)を回(めぐ)らせば七十有余年 人間の是非看破に飽きたり 往来跡は幽かなり深夜の雪 一しゅの線香古窓の下(もと)」
 良寛は七十三歳で亡くなったから、この詩は遺作に近い。「人間性の善し悪しも見極めた。夜も更けたので往来の人も絶えた。一本の線香をつけて古窓の下で坐禅をしよう」と。
 この詩と、良寛が二十年前の五十余歳のときの一篇と並べると、さらに一段の風格を感じる。
 「首を回せば五十余年 人間の是非一夢の中 山房五月黄梅の雨 半夜しゃうしゃうとして虚窓にそそぐ」
 良寛の人生回顧が、ひしひしと感じられる。自己の人間性を、夢から、看破し尽す現実へ、さらに、梅雨と深雪に、その生き方を表象する。

 「往来跡は幽かなり」は、道路や通りだけでなく、「人生」をもふまえていよう。七十年間歩み続けた、わが人生行路を振り返る。是非善悪の足跡も、今は深夜の雪に、音もなくかき消されて、見渡す限り白一色である。人間の一生は、はかない夢ではない。歴史的実跡をそのままに、平等の雪が覆うだけである。

 良寛は、幸いにも、和歌の愛弟子の貞心尼の、温かい看護を受けつつ臨終を迎える。
 良寛には、遺言も辞世もなかったという。貞心尼が、さりげなく一首の歌を見せると、良寛は、「うらを見せ おもてを見せて ちるもみぢ」と応える。
 この句は、良寛の句ではないが、貞心尼にはうれしかった。人間一生の表裏を隠すことなく見せてくれたのだ。それは、「往来跡は幽かなり深夜の雪」に通じよう。貞心尼にとって、この句にまさる辞世は、なかったと思う。


      年惜しむイルミネーション富士まぢか     季 己 

冬至

2008年12月20日 20時35分56秒 | Weblog
        母在りき冬至もつとも輝きて     鷹 女

 あす十二月二十一日は、二十四節気の一つ「冬至」である。太陽の軌道が、最も南にかたよって、北半球では、一年中で最も昼が短く、夜の長い日である。
 冬の至りとはいえ、地表には輻射熱が蓄えられているので、本当の寒さが訪れるのは、冬至より後である。その点は、最も日の長い夏至より後に、本格的な暑さが来るのと同じ理屈である。

            花柳章太郎に
        一陽来復の雪となりにけり     万太郎

 冬至を極限として、また日がだんだん長くなるので、一陽来復といって、これを祝ういろいろな生活習慣があった。
 まず、冬至粥といって、小豆粥を食べる習慣が、中国・朝鮮・日本に共通していた。ことに朝鮮では、トンシパッチュクといって、門扉に小豆粥を塗っておくと、悪い病気に見舞われない、と言い伝えられているとのこと。

        いそがしき冬至の妻のうしろ影     草 城 

 食品偽装、振り込め詐欺、年金・雇用問題などなど、さまざまな問題があった平成二十年。この冬至を極限として、ぜひ改善され、景気が上向くことを切に祈りたい。
 きょう、二度目の「木原和敏 個展」(銀座・画廊宮坂)へ行ってきた。画廊は人、人、人……。木原先生の人気の程が、よく知れる。売約済みの赤ピンがわりの小さな赤点が、いかにも奥ゆかしく、また、いくつも付いているのがうれしい。
 この不況の嵐のさなか、腹の足しにはならない絵画を買ってくださる方が、多数おられることがわかり、こちらまで元気が出てくる。
 今回の作品も素晴らしく、欲しい作品が幾つもある。たいていは売約済みだが、まだ赤ポチの付いていない作品が二つある。
 だが今、木原先生の作品で最も欲しいのは、今年の日展出品作『ジャスミンの壁』である。100号なので、飾るところはもちろん、置き場もない有様なのに、気持だけは欲しいのだ。まるで子供……、と我ながらあきれ果てている。今でも木原先生の作品を一点、宮坂さんに預かっていただいて、迷惑をかけているのに。
 いつの日にか、また、木原先生に描いて頂きたい作品がある。それは、「あけぼのの空・風船かずら・あけずば織のショール」を含んだ女性像である。
 それにはまず、豚小屋と化した部屋を片付けねば、と頭ではわかっているのだが……。

        冬至の日縞あるごとくゆれにけり     青 畝

 関西地方には、冬至の日に、「ん」の二つ重なった食品を七種類食べると、運が開けるという言い伝えがある。たとえば、なんきん・うんどん・きんかん・にんじん・れんこん・かんてん・なんきん豆の七種類といったところであろう。
 なんきん豆はピーナッツ、なんきんとは、かぼちゃのことだが、特に南瓜(かぼちゃ)は、冬至南瓜といって、全国いたるところ、冬至の食物として尊重されている。夏や秋に収穫された南瓜も、冬至の日までは、不思議と腐らずに残っているのである。冬至こんにゃくを食べる習慣もあると聞く。

        柚子湯出て夫の遺影の前通る     眸

 また、冬至の日の習慣として広く行なわれているのが、柚子湯である。袋に入れた柚子を風呂の湯に浮かべて、その香りを楽しむことは、冬至を湯治(とうじ)にかけた洒落であろうか。
 柚子に限らず、柑橘類の揮発性の成分が皮膚を刺激して、血液の循環を活発にし、非常に身体を温めることは確かである。


      水仙の香や裸婦の絵は燈を遠く     季 己   

あけずば織

2008年12月19日 20時54分15秒 | Weblog
    上原美智子 ――祝彩 syuku sai ―― 展

   天女の羽衣のように軽やかな織物で知られる上原さん。
   カシミヤの細糸、鳥の羽、アンティークビーズ、
   漆を施した絹糸などの異素材を繊細な絹糸に織り込み
   祝祭の静淑で艶やかな空気を表現しています。
   是非お越し下さい。

      蚕がはき出した一本の糸を織って、一呼吸置きました。
      今回、新たな気持で素材の豊かさと、
      伴走してみたくなりました。
                         上原美智子

 というハガキを頂いたので、江東区清澄のヨーガンレール本社一階「ババグーリ」へ行ってきた。
 上原美智子さんの“あけずば織”に初めて出逢ったのは、二年前の八月であった。“あけずば”というのは、琉球の古語で“蜻蛉の羽”という意味で、その名の通り、トンボの羽のように透けて、世界一軽い絹織物である。
 “あけずば織”のことは以前から知ってはいたが、本物を拝見できたのは、このときが初めてである。場所も、ここ「ババグーリ」であった。
 単なる好奇心だけで出かけて行ったのだが、上原さんの「あけずば織」に囲まれているうちに、すっかり心を奪われ、虜になってしまった。
 心奪われるともう駄目で、病気が出てコレクション?に加えたくなってしまう。
 やっと一点にしぼり、「縞柄あけずば袋織大判ショール」を購入した。この時、「このショールを羽織った女性像を、木原和敏先生が描かれたら……」と、ふと思ったりもした。

 上原さんの絹織物“あけずば織”は、国立近代美術館に「絣布」と「袋織布」とが収蔵されている。
 “あけずば織”について上原さんは、「出来てきた布は、私が創作したものではないような気がします。神からの賜り物、素材と染めと機(はた)と自分の共同作業だと思います」と述べておられる。

 幸い今日は、上原美智子さんが会場にいらっしゃり、直接、お話を伺うことが出来た。
 「織ることは神経を集中させる仕事ですが、とても心地よい作業です。忍耐ではなく、歌い踊るような喜びを感じながら、織っています。次から次へと新しいイメージがわいてきて仕方がない」と、上原さんは話され、さらなる創作意欲を示しておられたのには、感動した。
 木原先生も同じようなことをおっしゃっていた。一流の芸術家は皆、「神経を集中させる仕事を、楽しみ、喜びを感じながらするのだ」と、つくづく感じた。
 明日の土曜日は、「木原和敏 個展」(銀座・画廊宮坂)だ。作品は先日、十分堪能したが、先生にお逢いできるのが、また楽しみでもある。


      「 上原美智子 祝彩 展 」
     22日(月)まで。(午前11時より午後7時まで)
      江東区清澄3-1-7  ℡03-3820-8825
        ヨーガンレール本社一階 「ババグーリ」

      「 木原和敏 個展 」
     21日(日)まで。(11:00~18:00 最終日は17:00)
      中央区銀座7-12-5 銀星ビル4階
        画廊 宮坂     ℡03-3546-0343


      物忘れ素心蠟梅つや増して     季 己

夜鷹蕎麦

2008年12月18日 20時34分07秒 | Weblog
 近頃、聞かれなくなった音の一つに、チャルメラの音がある。
 星の光も凍るかと思われる冬の夜に、胸を締め付けられるような哀調を帯びて、“夜鷹蕎麦”のチャルメラの音が響いてくる。
 町の家並みの窓や戸の隙間からは、暖かそうな灯の光がもれている。なかには、もうすっかり寝静まった家さえあるようだ。
 人通りも絶えた冬の夜の町を、屋台を引きながら行く夜鷹蕎麦のチャルメラの音は、商う人の生業の辛さそのまま訴えるかのように侘びしく切ないものである。

 夜鷹蕎麦を歳時記で見ると、次のようにある。
  日本人が一日二食からようやく三食になりはじめた元禄以降、荷台をかつい
 で夜にそばを売る商売ができた。ゴザ一枚抱えて夜の商売をする夜鷹と呼ばれ
 た娼婦に由来を求めた説と、鷹匠が右手で食べ、左手には鷹をつかまらせた説
 とがある。夜鷹蕎麦に対する夜鳴うどんは関西のもの。
                  (角川春樹編『現代俳句歳時記』より)

 冬の夜なべや受験勉強などに夜更かしをしている時、このチャルメラの音を聞くと、つい窓をあけて、一杯の熱いうどん(いや、ラーメンだったかもしれない)を呼びたくなるものであった。「あった」と過去形で書いたのは、今はカップ麵などの簡単なインスタント食品が手元にあり、夜鷹そばの用がなくなり、屋台を引いて歩く夜鷹蕎麦そのものを見かけなくなったからである。

        みちのくの雪降る町の夜鷹蕎麦      青 邨
        灯のもとに霧のたまるや夜泣蕎麦     鴻 村

 しかし、その昔を思うと、夜鷹蕎麦の本当の味は、取り寄せた暖かい家の中では味わえないものであった。
 カンカンに凍てついた夜道の、用事で遅くなった帰り道など、夜鷹蕎麦の行燈の灯というよりは、コンロをパタパタ煽いで散らしている火の粉の暖かさを目当てに、屋台に首を突っ込み、もうもうと上がる湯気の中で、出来立ての熱い奴をふうふう吹きながら啜り上げる味、これが本物であった。

        女患らの夜泣うどんにさざめくも     波 郷

 落語に「刻(とき)蕎麦」という面白いネタがあるが、関西の夜鳴うどんに相当するのが夜鷹蕎麦であった。夜鷹という娼婦が、夜道で客待ちをしているところから付けられた名と言われるが、夜鳴いや、夜泣そば・夜泣うどんの方が人情味が感じられる。


      星の降る面影橋の夜泣そば     季 己

羽子板市

2008年12月17日 21時57分42秒 | Weblog
 十二月に入って、早くもお正月の訪れを思わせるものに、羽子板市がある。とはいうものの、近年の競争社会、十一月の中頃から羽子板市も始まっている所があると聞く。
 羽子板市は、十二月十七~十九日に、東京浅草の浅草寺境内で開かれる市が、とくに名高い。
 デパートでも、とりどり豪華なものを売っているが、専門の市では伝統の雅な趣がある。ことに日暮れどきの灯に映えて並ぶ羽子板は、別世界のように豪華である。

        うつくしき羽子板市や買はで過ぐ     虚 子

 この句は、「買はで過ぐ」だから俳句になるのであって、買ったら報告になってしまう。と、いうわけでもないが、浅草寺へは行ったが、羽子板は買わずに、宝くじを買った。
 一等が当たった時のことは、もう考えてある。
 長野県原村に、ペンションを買い、空き地に50坪くらいのアトリエを増築するのだ。そうして、若い芸術家さんに自由に使ってもらう。生活が大変な方からは、作品を高く買い、絵具代の足しにしてもらう。その他、2~3考えがある。あとは、当選を待つばかりである。話を戻そう。

        よその子に買ふ羽子板を見て歩く     風 生

 宝くじには当たらず、車に当たる車社会。この交通地獄の今日、お正月といえども、優にやさしく振袖の袂を翻して、羽子板をついているようなお嬢さんを街中で見かけることは、なくなってしまった。
 羽子板市で羽子板を買ってきても、それは室内の装飾として、ちんと収まったままに違いない。

 「一目(ひとめ)、二目(ふため)、みやこし、よめご、五つやのむさし、七やの薬師、十お、十一、十二……」
 と、数え唄を歌いながら、街中の電線を除け除け、袖口をおさえて、二の腕のあらわになるのを防ぎながら、思い切って高くつき上げる追羽根などというものは、ほとんど見かけなくなった。

 それでも、押し絵の美しい羽子板を並べた羽子板市だけは、毎年、盛んに催されている。

        羽子板市切られの与三は横を向き     八 束
        似顔みな紅さし灯る羽子板市       かな女
        あをあをと羽子板市の矢来かな      夜 半

 いずれも、浅草の観音様の境内に開かれた羽子板市を、詠んだものであろう。
 「矢来」は、竹や丸太を縦横に粗く組んで作った仮の囲いのこと。「あおあお」が効いて、羽子板を引き立てている。
 この日ばかりは、羽子板市の華やかさに、すっかり気圧された「切られの与三」は横を向き、似顔はみな顔を赤らめている。

        はぐれ来て羽子板市の人となる     昌 治
        羽子板市三日の栄華つくしけり     秋櫻子

 こうして、「三日の栄華をつくし」て、羽子板市は終る。はたしてこの不況を、はね返せるのだろうか。売れ残った羽子板は、一体どうなるのであろうか。その行く末を考えると……、師走の雨に濡れながら、冷たい風に吹きさらされているような気がした。


      風邪をひきさうな人込み入りゆく     季 己