壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

お月見

2009年09月27日 15時13分40秒 | Weblog
        名月や門に指し来る潮頭     芭 蕉

 深川新芭蕉庵の実景であろう。「芭蕉を移す詞」の中に、
    「地は富士に対して柴門景を追ひて斜めなり。浙江の潮、三股の淀みに
     たたへて、月を見る便よろしければ、初月の夕より、雲をいとひ雨を
     くるしむ」
 とある。
 したがって、「門に指し来る」の門は、この「柴門(さいもん)」であろう。
 折しも、名月の夜で大潮のことであるから、ふだんよりずっと深く海水が指して来て、柴門のあたりに、潮の穂先が寄せているのである。
 名月の夜の潮の動きを把握したもので、それが句の勢いとなって生きている作である。

 この句の中七、『桃の実』などには「門“へ”さしくる」、『泊船集』などには「門“に”さし“込む”」とある。
 「門に」とある方が、「門へ」よりも、作者のいる柴門の方に迫ってくるさまが、的確に感じられる。
 また、「さしくる」と「さし込む」とでは、「さしくる」の方が眺望の広がりをもってくると思う。

 ところで、「門」は、変人は「モン」と読んでいるが、読み方については論がわかれている。「芭蕉を移す詞」の中の「柴門」に応じて「モン」とする説、また、「かどぐち」・「かどべ」のこころとして「カド」とする説などがある。
 「潮頭」は、満潮時に潮の満ちて、ひたひたと延びてくる潮の穂先のこと。満月は大潮で、秋の潮は夜に高い。東京湾にあっては、平常より二メートル余り高くなるという。

 季語は「名月」で秋。芭蕉庵の実景に即したもので、近代俳句の写生と通ずるところがあるために、比較的よく理解されてきた一つである。
 「名月」は、陰暦八月十五日の夜の月。「明月」「満月」「望月」「芋名月」「十五夜」などともいわれる。
 まだ明るい夕焼けのころから、栗・芋・団子などを三方に盛り、薄を飾って月の出を待つ風習は、政権交代があろうが、ぜひ残しておきたいものである。
 古来より日本には、「ツクヨミノミコト」「ツクユミノミコト」の伝説があり、死と再生をつかさどる若水信仰がある。月の満ち欠けや、潮の干満に対する畏敬の念も、月と深い関わりがあると考えられてきた。
 また、月の中に棲む動物の兎・蛇・ひきがえる・鼠・犬・蜥蜴・蟹なども、洋の東西にかかわらず、再生と不死の象徴として捉えられた。これに日本では、仏教的な意味も加わり、お月見が行事として、大切にされるようになったという。

    「名月がいま上ろうとして、その光のもと、柴門を指してひたひた寄せて
     来る豊かな満潮の穂先が、しらじらと見えている」


      夕月夜自から問ひて答へつつ     季 己


 ※きのう、お知らせしましたように、明日(9月28日)からしばらく、当ブログをお休みさせていただきます。詳しくは、昨日のブログの最後をご覧願います。 

丹精

2009年09月26日 17時13分22秒 | Weblog
 『第46回 花岡哲象 日本画展』(東京・銀座『画廊 宮坂』)は今日が最終日。もう一度、拝見したいと思っていたが今日は出かけられなかった。
 会期中、毎日でも通いたかったのだが、3回しか観に行けなかった。
 黄山の風景が、殊に印象深い。魂が抜け出し、先生の作品の中に“あそぶ”。なんと心地いいのだろう、『雨過顕青』の世界は……。不意に「千歳老松」(せんざいのろうしょう)という禅語が浮かぶ。

 ――「千歳老松」は、字面の上からいうと、《千年も生きながらえた古い松》ということである。だから、長寿のめでたさをなぞらえる、祝いのことばによく用いられる。
 しかし、禅語として用いられるときは、違うようである。永遠に変わらぬ真理の象徴として、「千歳老松」というらしい。
 「松樹千年翠」(しょうじゅせんねんのみどり)もまた同じ意味を持つ語でろう。そして共に、「あなたの目の前に、千年の老松になって不変の真理が示されているのに、まだ、それがおわかりにならないのですか」と、自覚をうながされているような気がしてくる。

 丹精こめた作品、丹精こめて育てた盆栽、などとよく聞く。人生もまた丹精にあるのではないか。
 茶器や花器などの道具は、高価な新品よりも、古い年代の作品が珍重される。
 さびの生じやすい茶釜に、さび一つないのは丹精のたまもの、割れやすい花瓶に欠け傷ひとつないのも丹精のたまものである。
 どんなに昔の古い銘品でも、さびだらけの茶釜や水漏れのする花器には存在の意味がない。古いだけが値打ちではない。丹精の努力が尊ばれるのである。

 人間も同じで、身体の健康法も大切だが、心の手入れを怠ってはならない。
 アメリカの詩人ホイットマンではないが、「若きはうるわし 老いたるはなおうるわし」を願うべきではないか。同じうるわしさでも、若きと老いたるとでは、うるわしさの次元が異なる。
 若人のうるわしさは、自然のなせる「麗わしさ」であり、老人のそれは丹精の「美わしさ」である。
 麗人は、老いても必ずしも美人になるとは限らない。若いときの不美人も丹精によっては、老いて美人となり得るのである。

    「年を重ねただけでは人は老いない。理想を失うときに、初めて老いがくる。
     歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失うときに、精神はしぼむ」
                             (サミエル・ウルマン)


      こほろぎや書画の重みの四畳半     季 己


         ※ 【ブログ一時中断のお知らせ】

 いつも拙い文をお読みいただき、感謝申し上げます。ありがとうございます。
 昨年の元日以来、一日も休むことなく更新して参りましたが、都合により、9月28日からしばらくの間、当ブログを中断させていただきます。
 こだわりも執着心も、ましてや「マニフェストに書いてあるから」などという根性もない変人ゆえ、スパッと休ませていただきます。
 11月に入りましたら、また、のぞきに来てください。その頃になれば……。
 10月中は、昨年度のところをお読みいただけたら、最高の喜びです。
 ブログが書ける状況になりましたら、すぐに再開し、一から出直します。
 どうぞよろしくお願い申しあげます。ありがとうございました。

                      平成21年9月26日(土)
                            武田 季己 拝

木曾の桟

2009年09月25日 20時05分20秒 | Weblog
        桟や命をからむ蔦かづら     芭 蕉

 桟(かけはし)を渡る気持を託した言い方である。
 「命をからむ」には、二通りの解がある。一つは、桟が見るも危うく架かっている、まるで蔦が桟道を支え、人の命をからみ支えているようである、と解するもの。もう一つは、蔦の蔓が命の限りまといついている、これは渡る芭蕉の心でもある、とみるもの。
 むかしから前者の解が多くとられているが、それではあまりに傍観的に流れすぎていて、「命をからむ」という息を凝らした表現にはそぐわない。
 なお、このとき門弟の越人(えつじん)は、「霧晴れて桟は眼もふさがれず」という句を詠んでいる。

 「桟や」は、『更科紀行』に所収されているが、その紀行本文の
    「高山・奇峯頭の上におほひかさなりて、左は大河ながれ、巌下(がん
     か)の千尋(せんじん)のおもひをなし、尺地(せきち=わずかな土
     地)もたひらかならざれば、鞍のうへ静かならず。只あやふき煩ひの
     みやむ時なし。桟(かけ)はし・寝覚など過ぎて、猿が馬場、立峠な
     どは四十八曲りとかや、つづらをり重なりて雲路にたどる心地せらる。
     歩行(かち)より行くものさへ眼くるめき、たましひしぼみて、足さ
     だまらざりけるに、かの連れたる奴僕(ぬぼく)いとも恐るるけしき
     見えず、馬の上にて只ねぶりにねぶりて、落ちぬべき事あまたたびな
     りけるを、あとより見上げて、危ふき事限りなし。仏の御心に衆生の
     うき世を見給ふもかかる事にやと、無常迅速のいそがはしさも我が身
     に省みられて、阿波の鳴戸は波風もなかりけり」
 を心に置くと、この句の味わいがよくわかる。

 「桟」は、「木曾の桟」といって、木曾街道上松(あげまつ)と福島の間にあり、長さ百メートル余り、下は木曾川の青々とした深い淵である。
 「蔦かづら」は、蔦のこと。「かづら」は蔓の意。紅葉が最も目につくものであるから、「蔦」は秋の季とされている。ここでは「からむ」ところが句の契機をなしている。

    「桟が、木曾川の青々とした深い淵の上に、危うく架けられている。それ
     に蔦の蔓が、命の限りすがりついているというように、必死でからみつ
     いていることよ」


      幸せのうらのあやふき蔦かづら     季 己

秋の暮

2009年09月24日 20時10分13秒 | Weblog
 「秋は夕暮」といったのは、『枕草子』の清少納言。『新古今集』の、
     さびしさはその色としもなかりけり槙立つ山の秋の夕暮   寂 蓮
     心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮   西 行
     見渡せば花も紅葉もなかりけり裏の苫屋の秋の夕暮    定 家
 の「三夕(さんせき)の和歌」が知られ、このことばの季感を固定させたようである。
 「秋の暮」は、秋の一日の暮れ方と受け取ったり、秋の季節の終わりと受け取ったり、と二義性を持っているが、今では前者の意で使われている。
 秋の季節も終わりに近いころを「暮の秋」「暮秋(ぼしゅう)」という。「晩秋」とほぼ同じ意味だが、より心理的に捉えているように思える。

          武蔵野を出づる時、野ざらしを
          心に思ひて旅立ちければ
        死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮     芭 蕉

 長途の旅の果てに、木因亭に草鞋(わらじ)を解き、暮秋の感の中にほっと一息ついているのである。
 前書きを読むと、江戸出発の際の「野ざらしをこころに風の沁む身かな」というあの悲愴な覚悟を思い起こしていることがわかる。
 「野ざらし」すなわち死ということは、この旅において常に芭蕉の心を離れないものであった。だが、この句には、そうして負いつづけてきた「野ざらし」の思いを、ようやく横から見つめているような響きがある。
 俳句は、正面からだけ見るものではない、ということがよくわかる。裏から眺め、斜めから見ることのほうが、むしろ大事なのではないか。稚魚先生の「死ねることの幸ひ」のように。

 『後の旅』(元禄八年刊・如行編)に「死よ死なぬ浮身の果ては秋の暮」の句を収め、大垣での作なるよしの付記がある。この句は、初案としてみると、その発想法はなかなか興味を誘う。この旅を貫く「死」についての思いが、「死よ死なぬ」の曲折した表現によく出ているからである。その気負い立った心が、声調をたかぶらせている点を内に抑え込んで、「死にもせぬ」という形が生まれたのであろう。

 木因は谷氏。名は九太夫といい、大垣の船問屋。はじめ北村季吟の門人であったが、後、芭蕉の門に入り、芭蕉と親交があった。
 季語は「秋の暮」で、晩秋の意を表す「暮の秋」と区別して、秋の夕暮の意に用いるのが普通であるが、ここでは暮秋の心で使っているように思える。

    「この旅に出で立つ時は、いつ路傍に死んで野ざらしとなり果てるかも知
     れぬと、覚悟を決めていたのであったが、どうやら旅寝を重ね重ねて、
     死ぬこともなく今日ここに身を落ちつけることが出来た。しみじみ暮秋
     の感が身に沁みることである」


      沢音の心に澄むや暮の秋     季 己

秋海棠

2009年09月23日 20時24分40秒 | Weblog
        秋海棠西瓜の色に咲きにけり     芭 蕉

 秋海棠(しゅうかいどう)は断腸花(だんちょうか)ともいい、中国原産のシュウカイドウ科の多年草である。春に咲く海棠(バラ科)に花が似ているので、この名がついたとされる。日本には寛永年間(1624~1644)に渡来したといわれる。
 また、西瓜は慶安年間(1648~1652)に中国から渡来したようである。
 両者ともに、当時にあっては、なお異国情趣の去らない目新しい存在であったと思われる。その目新しさを備えた花と実とを取り合わせたところには、きわめて斬新さがあり、そこに俳諧が感じられていたわけであろう。
 もともと即興的な句であるが、一気に心のはずみを生かしている点は、なかなか味わいがある。
 許六(きょりく)は、この句を「画賛」としているが、それにふさわしい句柄といえよう。あるいは、画賛のかたちで書き残したものかもしれない。
 支考(しこう)編の『東西夜話』に、
    「先師むかし湖南の曲翠亭におはして、是も水鉢のあたりに、此の花の
     咲きて侍りしを、此のもの殊に句のあるまじき花なりとて、
         秋海棠西瓜の色に咲きにけり
     といひ捨てられしが、誠に花の色は洗はば落ちぬべきなり」
 とある。

 先師つまり芭蕉が、支考を伴って曲翠亭を訪問したことが明確なのは、元禄七年(1694)夏なので、、その折か、もしくは秋のはじめに再び訪れたか、そのいずれかであろうと思う。

 「秋海棠」は秋のもの。高さ六十センチほどに達し、葉はゆがんだハート形、花はピンク色で、ベゴニアに似る。
 支考に「手拭に紅の付きてや秋海棠」の句があるが、秋海棠の句としては、芭蕉のこの作あたりが最も古いようである。

    「秋海棠が淡紅色の可憐な花をつけている。目をとめて見ると、その色合
     いは実にみずみずしく、あの珍しい西瓜の色を備えて咲き出たという感
     じがする」


        福島県泉崎村 小林日出夫村長を悼む
      思はざる一葉落ちけり泉崎     季 己

喜びになれ

2009年09月22日 20時55分09秒 | Weblog
 昼近く、知人のKさんから電話をいただいた。きのうのブログで紹介した、岸田稚魚先生の「死ねることの幸ひ銀河流れをり」の意味がわからない。どういう意味か教えろ、というのだ。
 例によって、「俳句に意味性はない。自分で好きなように感じればよい」というと、「そんなことをいわれても……、じゃあ、“死ねることの幸ひ”って、どういうことだ」ときた。しかたがないので、私見を述べたが。

 ――“死ねる”ということは、“生きている”ということである。死んでいたら、死ねないのだから。つまり、「死ねることの幸ひ」というのは、「いま生きていることが、幸せなことなのだ」ということだ。

     ああ、なんと神秘的な銀河なのだろう。
     この美しい銀河の流れが観られるのも、今、生きていればこそ。
     今は、今しかない。
     今は、帰ってこない。
     今を大切に生きよう!

 と、わたしは自分自身にも言い聞かせている。

 「十人十色」といわれるが、顔かたち同様に、心の“すがた”も同じではない。
心の“すがた”が違えば、考え方が違うのも当然だ。自分と考え方が違うからといって、怒るのは愚かである。
 手のかたちは違っても、手を握りあえば、あたたかい血の流れが感じあえるように、心の“すがた”は同じでなくても、静かに相手の話を聞いているうちに、通じあうものに気づくはずである。

 私たちは、みんな欠点を持っている平凡人の寄り集まりである。それであればこそ、お互いに助けあって幸せに生きなさい――これが仏の願いであり、この願いゆえに、私たちのような平凡人が生きてゆけるのである。
 話しあいが失敗するのは、自分が正しいと信じ込んで、聞きあおうという愛情がないからだ。よく聞きあえば、心の“すがた”は違っても、その底には、人間の持つ悲しさやはかなさがあることがわかるはずである。

        ぶどうに種子があるように 私の胸に悲しみがある
          青いぶどうが酒になるように
        私の胸の悲しみよ 喜びになれ    (高見 順)

 ぶどうに種子があるように、私たちに心がある。自分の言動に、恥ずかしい心の“すがた”を残すが、「青いぶどうが酒になるように」、他の人の声をよく聞き、話しあい、学びあってゆけば、必ず、楽しく幸せに生きてゆけると思う。


      種なしの葡萄ひとつぶ恋ごころ     季 己

いのちながし

2009年09月21日 21時05分27秒 | Weblog
 きょうは敬老の日といっても、まだピンとこない。脳の中はまだ、敬老の日は九月十五日のままで、リセットされていない。
 敬老の日と言われて、すぐ思い起こす漢字に「寿」がある。「寿」は、〈ことぶき〉と訓読みをする。「いのちながし」という意味で、めでたい、祝いのことばであり、「寿福」(長生きでしあわせ)や「寿楽」(長生きして楽しむ)などの熟語も多い。

 日本画家の横山大観は、七十歳で『海・山十題』の大作を描きあげて、“七十代の青春”と感歎された。大観は、中国古代の哲学者老子が遺した「死して亡びざるを寿という」句を好んだというが、まさに、大観が亡くなっても後に残る名作を生んだ。
 道元禅師の「正法の寿命不断あるなり」の教えも好きだ。真理は文字通り、途中で断絶することなく伝えられていく。
 真理を学ぶのは、一生の大事である。だから、江戸後期の儒学者佐藤一斎は、
        「少にして学べば、壮にして為(な)す有り
         壮にして学べば、老いを衰(おとろ)へず
         老いて学べば、死して朽(く)ちず」(『言志晩録』)
 と言い切る。
 右脳を使っている人は、長生きをしているので、第三句を「老いて学べば、いのちながし」と言い換えてもいいのではなかろうか。

 敬老の日の今日、八十八歳の母を連れて、父の墓参りに行ってきた。
 父は三十三歳で亡くなり、菩提寺は「クレヨンしんちゃん」の町、春日部にある。春日部は変人にとって、いずれ自分が眠る町であり、日本画家の菅田友子先生の住まわれる町でもある。
 墓参りをし、「馬車道」で昼食をとったが、渋滞のため、往復で四時間半もかかってしまった。

 『花岡哲象 日本画展』を観るために、帰宅後すぐに銀座の『画廊 宮坂』へと急ぐ。
 着く早々、宮坂さんから「あべNEWS」を手渡された。一関の阿部さんが、2時過ぎまで待っていてくださったとのこと。阿部さん、ゴメンナサイ!
 心を無にして、一点一点じっくりと鑑賞させていただく。
 花岡先生の作品には、いくら汲んでも汲み尽くせない滋味がある。静けさがある。世の中の狂いを正すような、実に、清く澄んだ静けさが……。
 黄山を描いた「雨過顕青」が、特に素晴らしい。この世のものとは思えない。これが“あの世”というものであるなら、すぐにでも行きたい。
 「黄山春夜」もいい。拝見しているうちに、わが俳句の師、岸田稚魚先生の辞世の句ともいうべき、つぎの句を思い出し、胸が熱くなった。

        死ねることの幸ひ銀河流れをり     稚 魚

 また、花岡先生から、今の変人が最も欲しい情報をいただた。心より感謝申し上げたい。
 明日もお邪魔し、どっぷりと作品につかるつもりでいる。
 『花岡哲象 日本画展』は、東京・銀座『画廊 宮坂』で9月26日(土)まで。詳しくは、『画廊 宮坂』のホームページでどうぞ。


      敬老といふ日の未来図を描かむ     季 己

彼岸の入りに

2009年09月20日 20時12分18秒 | Weblog
 『わっはっは!泉崎村』の「泉崎村長 小林日出夫日記」を見てびっくりした。
 「結い(助け合い)の精神」で村づくりに邁進されていた、あの小林日出夫村長が急死されたとのこと……。
 7月25日(土)の「無料招待会」で、小林村長さんとお話ししたのが最後となってしまった。
 村長さんの日記は“お気に入り”に登録し、毎日のようにチェックし、絶筆となってしまった9月16日付の「23.2%」も、17日に読ませていただいた。
 その村長さんが、9月17日午後10時30分ごろ急性虚血性心疾患でお亡くなりになったというのだ、63歳の若さで。
 彼岸の入りの今日、小林日出夫村長のご冥福を祈り、拙宅の観音像に観音経と阿弥陀経をあげさせていただいた。合掌!

 ――阿弥陀経に、「舎利子よ。生ける者どもは、かの仏国土に生まれたいという願いを起こすべきである。それは何故かというと、かの世界で、実に、このような善き人たちとともに会うことになるからである」という一節がある。
 これを「俱会一処(くえいっしょ)」という。つまり、
 「浄土の教えを聞いた人びとは、浄土に生まれたいと願うべきである。そのわけは、そこへ行けば、数多くのよき人びとと俱(とも)に会えるからだ」
 ということだろう。
 「よき人びと」というのは、阿弥陀如来の教えを聞こうと、同じ願いのもとに集まる同行、すなわち、道を同じくして法を求める友を指す。「俱」は、共にうちそろいて、という意味。
 浄土へ行けば、そこでみんなに会うことが出来る。親子・兄弟・夫婦が、再び浄土でめぐり会えるとの「俱会一処」の願いは、愛する者との悲しい別れをかみしめ、同じ念仏に生きる信仰の喜びでもあろう。

 「俱会一処」は、また「一蓮托生(いちれんたくしょう)とも展開される。すなわち、死後は俱に極楽に往生して、同一の蓮華に身をあずけるのが、本当の意味の「一蓮托生」である。
 とかく、「善くても悪くても、行動や運命を共にする」のが、一蓮托生だと考えられているが、それは解釈の応用で、本来の意味はさきに記したとおりである。

 詩人の西條八十は、不幸にして夫人に先立たれた。夫人の遺骨を埋めるにあたり、氏も自分の名を、故夫人の名と並べて生前に墓碑に記した。そして、墓誌銘につぎの詞を刻んだ。

     われら楽しくここに眠る
     はなれ離れに生まれ めぐりあい
     短かきときを愛に生きし二人 悲しく別れたれど
     いまここに こころとなりて
     永遠に 寄り添い眠る    八十

 「永遠」は、「とこしえ」と読むのだろうか。みごとな「俱会一処」の詩である。


      絶筆になるとはまさか虫の声     季 己

耳を澄まして

2009年09月19日 22時58分19秒 | Weblog
          聴 閑        
        蓑虫の音を聞きに来よ草の庵     芭 蕉

 前書きが、発想の契機をよく物語っている。草の庵の生活も、秋風の立つ頃となるとずいぶんと侘びしいものであったろう。
 閑に居て、そこに自分を見つづけながらも、その閑をともに味わう友が欲しかった、その心の動きを、眼前の蓑虫によって発想したものであると思われる。
 蓑虫の無能不才ぶりに、荘子のいう自得自足の境地を見、その自得の心の味を、蓑虫のかすかな鳴き声の中に聞き出そうと、心友に言い送った句である。

 蓑虫は、実際は鳴くことはないのであるが、『枕草子』に、
    「みの虫、いとあはれなり。……八月(はづき)ばかりになれば、ちちよ
     ちちよとはかなげに鳴く、いみじうあはれなり」
 とある通り、古来、秋風が吹くころになると、心細げに鳴く、と言い伝えられている。
 閑に居て、閑寂そのものに耳を傾ける芭蕉としては、身辺に見出した蓑虫から、閑を聴くことができたのであろう。その思いをそのまま「蓑虫(みのむし)の音(ね)を聞きに来(こ)よ」と、呼びかける体にしたものである。

 貞享四年(1687)秋、深川芭蕉庵で成り、素堂・嵐雪などに示し、さらに翌年、自画賛として用い、土芳に贈った句である。
 前書きの「聴閑(ちょうかん)」は、閑寂さに耳を澄まして聴き入り、それを味わう意である。
 その聴閑の侘びに徹しようと誓う心の潔さもさることながら、その侘びゆえにかえって人恋しくなる俳聖の未練に、捨てがたい詩情がただよう。
 素堂は、この句にこたえて「招きに応じて虫の音をたづねしころ」と前書きする「蓑虫説」を贈り、芭蕉が再びこれに和して「蓑虫説跋」なる一文を草している。
 季語は「蓑虫(の音)」で秋季。

    「草庵独居のつれづれを侘びながら、新涼の庭前に、蓑虫のおぼつかない
     鳴き声でも聞こうと、じっと耳を澄ましています。同じく清閑の気味を
     愛する貴殿のこと、秋風の中であわれに鳴いている蓑虫の音を聞きに、
     ぜひわたしの草庵を訪ねてください。そしてともに閑寂な気分にひたり
     ましょう」


      蓑虫の蓑の重たき告知かな     季 己

花野

2009年09月18日 22時49分16秒 | Weblog
        山伏の火をきりこぼす花野かな     野 ば

 前書きに「豊後国日田にて」とある。豊後日田は、現在の大分県日田市。
 季語は「花野」で秋季。「花野」は千草の花の咲き乱れるのをいう。
 「山伏」は、修験道の行者のこと。九州修験道の中心である英彦山(ひこさん)は、日田に近い。
 「火をきりこぼす」は、火打石で火を打ち出しているさまをいう。花野を歩いていた山伏が、一服しようと笈(おい)をおろし、火打石で煙草の火をかちかちと打ち出すと、その火がぱっと花野へ散りこぼれる、といった句である。

 許六(きょりく)門の山本孟遠(もうえん)は、この句を、「かつらぎや木かげに光る稲妻を山伏のうつ火かとこそ見れ」(『夫木和歌抄』源兼昌)の古歌より思いついたもので、彩色物であり、下手の耳を喜ばす句であると批難した。
 「軽み」を得意とした作者には珍しく趣向をこらした、華やかな句である。おそらくこれは、あるじの鳳岡(ほうこう)が、談林派の中村西国の甥で、談林めいた句を好んでいるということを、知悉していての即興の題詠であったのであろう。

 「花野」は、秋の草花に満ちた野のことであるが、歌語として意識されはじめたのは、鎌倉時代からのようである。蕪村と一茶に、こんな句がある。
        
        広道へ出て日の高き花野かな     蕪 村
        吹き消したやうに日暮るる花野かな     一 茶

 同じ秋の季語に「秋の野」というのがあるが、「花野」とどう違うのだろうか。

        東塔の見ゆるかぎりの秋野行く     前田普羅
        秋の野に鈴ならしゆく人見えず     川端康成

 「秋の野」にも草花が咲き乱れているようだ。虫の声が聞こえ、さわやかな風も吹き抜けている。
 やはり字面の通り、「花」と「秋」の違いであろう。静謐な明るさと哀れさが「花野」、華やかなうちに、淋しさがただようのが「秋の野」といっていいかもしれない。


      笑ひ入る花野のなかの子どもたち     季 己

藤の実

2009年09月17日 20時51分12秒 | Weblog
          関の住、素牛何がし、大垣の旅店を訪はれ侍
          りしに、彼の「藤白御坂」といひけん花は、
          宗祇の昔に匂ひて、
        藤の実は俳諧にせん花の跡     芭 蕉

 (岐阜県)関の住人素牛(そぎゅう)に逢って、関のゆかりで宗祇(そうぎ)の句を契機として発想したものであろう。
 前書きは、
    「関に住む素牛某が、大垣の私の旅宿に訪ねて来られたが、聞けば、
     あの宗祇が、『関越えてここも藤白御坂かな』と詠まれた関の藤の
     花は今も昔ながらに咲き匂っているよしで」
 というほどの意である。

 素牛は、関の住人、広瀬氏の俳号で、後に惟然(いぜん)と号す。貞享五年(1688)夏、芭蕉に入門、親愛された。芭蕉没後、諸国を行脚し、晩年は関に弁慶庵を結んで住み、口語的発想の句風を示した。正徳元年、六十余歳で没。
 「藤白御坂……」は、宗祇の「関越えてここも藤しろみさか哉」にもとづいた表現。宗祇のこの句には、「美濃国関といふ所の山寺に藤の咲きたるを見て吟じ給ふや」と付記してある。
 万葉の歌枕、紀州の藤白坂(藤白峠、藤代峠とも)を詠んだ藤原為家の「ふぢしろの山の御坂を越えもあへず先づ目にかかる吹上の浜」(夫木和歌抄)によったもので、「美濃の国の関を越えてみると、ここも藤が咲いていて、紀州と同じく藤白御坂と称すべき眺めであるよ」の意。
 「藤の実」は、藤の花に対していったもの。「俳諧」には、和歌・連歌に対比させる意識がうかがえる。
 「花の跡」は、花の咲き終わった後の意で、和歌・連歌の伝統を受け継ぎ発展させるものである、という信念に満ちた俳諧観が感じられる。

 さて、掲句――素牛を目して、宗祇ゆかりの地である関の風雅の伝統を支える人とした挨拶の意とも読みとれる。しかし、それよりは、素牛に俳諧の目指すところを示しているととりたい。
 歌や連歌などにはよく取り上げられる藤の花だが、自分はその後の、一見みどころのない藤の実を俳諧として取り上げようというのだ。
 『白冊子』の、「春雨の柳は全体連歌なり。田螺(たにし)取る烏は全く俳諧なり」、「詩歌連俳はともに風雅なり。上三つのものには余す所も、その余す所まで、俳はいたらずといふ所なし」などのことばが想い起こされる。
 「藤の実」が季語で秋季。藤の実は、青いものは初夏から見られるが、莢(さや)の乾燥するのは秋である。この句では、「藤の実」の現実体験から発想したものではない。いわゆる“あたま”で作った俳句である。

    「関のあたりの宗祇ゆかりの藤の花は、今に至るまで年々美しく咲き
     匂っているというが、今の季節ではその花も過ぎてしまって、ただ
     青い実が葉蔭にあるばかりであろう。その藤の実は、花とは違って
     和歌・連歌にもたえてとりあげられることのなかったものであるが、
     私はこの藤の実の風情を、わが俳諧にとりあげて詠んでゆこうと思う」


      春琴抄閉づ藤の実に細き雨     季 己

はなむけ(鳩山内閣に)

2009年09月16日 17時13分24秒 | Weblog
 鳩山首相が誕生し、いよいよ今夜から鳩山内閣が発足する。その新内閣に次の、“はなむけ”の言葉を贈りたい。

 「好児不使爺銭」という言葉がある。「こうじは、やせんをつかわず」と読む。
 字面の意味は、「よく出来た子は、決して親父の金を使わぬ。自分で働いて自分で儲ける」ということだろう。
 世間を見ても、出来のよい子は親父のすねをかじるようなことはしない。「好児不使爺銭」は、こうした俗語で、次の意味を述べようとする。
 「すぐれた弟子は、師の世界とは別の天地を自分で開いていく。つまり、自分のグラウンドを持つ」と。

 経済界を例にとるなら、いかに大きな事業をしていても、親父の時代の財産を少しも減らさないというのは、本当の孝行でもないし、現状維持が精一杯では、親父以上のやり手とは言えないであろう。親父の財産を殖やして、はじめて孝行息子だし、親に合わせる顔もあろう。
 財産に限らない。師の学徳にさらにプラスしたものを身につけてこそ、“親勝り”の呼称に価いする。

 学問でも財産でも、先代の遺産の上にあぐらをかいていては、だめだということになる。時代が変われば貨幣価値が変わるように、知識も修行も従前のままの定額では、現代から落伍してしまうであろう。
 昔から、「学問や徳の力が、師と同じ程度だったら、その弟子の実力は、師の半ばにも及ばない。師に倍して、はじめて師の半徳を超す」という。
 「弟子の力量が師と同格であるなら、師と肩を並べるどころか、師の半分にも及ばない。師の二倍の力を得て、はじめて師より半身優れている」ということになる。

 修行の上からいうと、師の修行以上の修行に励んで、はじめて師の徳が相続されたと言えよう。
 親父の財産や、師の悟りが受け継がれただけで満足してはならない。「爺銭」という親父のへそくり金の、学力や悟りに目もくれず、わが道を行く者が、やがては、本当の意味で父や師を顕彰する生きた孝行になるであろうことを、この語に学びとりたい。


      秋祭たろうゆきおの笛が鳴り     季 己

早く帰ってね

2009年09月15日 17時47分22秒 | Weblog
       子 夜 呉 歌(しやごか)     李 白

    長安一片月    長安一片(ちょうあんいっぺん)の月
    萬戸𢭏衣声    万戸(ばんこ)衣を𢭏(う)つの声
    秋風吹不盡    秋風吹いて尽きず
    総是玉関情    総(す)べて是れ玉関(ぎょくかん)の情
    何日平胡虜    何(いず)れの日にか胡虜(こりょ)を平らげて
    良人罷遠征    良人(りょうじん)遠征を罷(や)めん

        長安の空には満月が一つ冴え冴えと出ている。
        その月光に照らされた町のあちらこちらの家々から、衣を打つ砧
       の音が聞こえてくる。
        秋風があとからあとから吹き止まない。
        月や砧や秋風などすべてが、遠い西方の玉門関に出征している夫
       を思う心をかきたてる。
        いつになったら、夷(えびす)どもをやっつけて、
        夫は、遠征をやめて帰ってくるのだろうか。

 この詩は、天宝二年(743)、李白(りはく)四十三歳の秋の作というのが通説のようだ。
 もともと「子夜歌」は、南方の民歌である。江南の明るい風土の中での、なまめかしい恋の歌、時にはそれが失恋の悲しみになることもあるが、甘美なムードがまつわる歌である。それを李白は、舞台を北方の都に移し、玉門関へ遠征する夫の留守をまもる女の歌に仕立てた。

 時は秋の夜。皎々たる満月(視覚)、哀切にひびく砧(きぬた)の音(聴覚)、吹き止まぬ秋風(触覚)と、あくまで寂しい道具立てだが、その底に、もとの「子夜歌」の持つ、なまめいたような、やるせない感情がひそんでいる。
 そのため息を表すのが、終わりの二句である。「いったい、いつになったら、あの憎い夷(えびす)どもをやっつけて帰ってらっしゃるの、早く帰ってね」と、纏綿(てんめん)たる情緒が、ここに流露する。
 前の四句で意は尽きたり、として二句を蛇足とする説があるが、それは李白の意図を知らないものだと思う。

 なお、日本の詩歌にも、砧をうたう同じ趣のものがある。いくつかあげてみる。
  みよし野の山の秋風小夜ふけてふるさと寒く衣打つなり     藤原雅経
  たがためにいかに打てばか唐衣ちたびやちたび声のうらむる   藤原基俊
  声澄みて北斗にひびくきぬたかな               松尾芭蕉
  砧打ちて我に聞かせよや坊が妻                松尾芭蕉
  どたばたは婆の砧と知られけり                小林一茶 


      湖と池のちがひを秋の夜     季 己   

『山 徹 展』

2009年09月14日 20時10分37秒 | Weblog
    夏の速度・さんぽ橋・待ち合わせ・風のタクト・ふわり・夏の雲・
    夜のうち雨・雲のできるまで・夜を歩く・雲の息づかい・0.5・
    食事を待つ夕暮れ・風と旅にでよう・船出の時

 これらの“ことば”を、何だとお思いだろうか?
 もちろん、俳句でも早口言葉でもない。
 エッ、絵のタイトルですって! ピンポン・ピンポン大正解!!

 実はこれらは、きょうから東京・銀座の「画廊 宮坂」で始まった『山 徹 展』の作品のタイトルを羅列したものである。
 山さんは、画家であるとともに詩人でもあると思う。タイトルの付け方が実にいい。作品とマッチし、しかも詩があるのだ。
 例えば、「食事を待つ夕暮れ」。普通の作家なら「夕暮れ」、あるいは気取って?「高原暮色」などとするだろう。
 タイトルが、絵の説明になっているのが普通だ。けれども山さんの場合は、自分がキャッチしたものをどう感じたか、という「想い」をタイトルにしているのだ。それも詩的(素的)に。

 山さんの作品は、「スカイウォーカー」と副題にあるように、空が主で地が従のように見える。空の部分は実景の写生のように描き、地の部分は鳥瞰図のような細密描写。
 観ていて心あたたかくなり、希望がわき、生きていることが楽しくなる。
 山さんが明るい心、温かい心を持って、日々、努力精進されていることを、作品が自ずと語っている。
 山さんの作品には「美」はもちろん、「うた」がある、「におい」がある、「あたたかさ」がある、「こころ」がある。

 山さんは、「働く」人だと思う。
 「働く」は、「端楽」つまり、「周囲の人たちを、楽にさせる、楽しくさせる」ことだと信じて疑わない。
 山さんは、「端楽」ために、常にアンテナを張り、宇宙と楽しく交信し、受信したものを己の心の中で濾過し、それを一つの作品として定着させることを、再び楽しんでいるのだ。

 ところで、政権交代が実現し、間もなく民主党政権が発足する。これは有権者の7割近くが投票所に出向き、投票した結果である。つまり、有権者の意識の変化がそうさせたのだ。
 そこで、美術界にも政権交代を望みたい。
 有名デパートで売っている絵葉書のような作品が300万円で、「端楽」作品が、どうして10万円以下なのか。これを逆転させるには、有権者いや普通の人が意識を変える必要がある。
 値段の高い絵が名画なのではなく、心にひびく絵が名画なのである。むしろ、値段が安い作品に名画が多い。このことをしっかり肝に銘じて欲しい。
 成人の7割が画廊に出向き、そのうちの1割の人が、それぞれの心にひびく作品を見つけ、購入するようになったら、美術界もきっと変わるだろう。

 知ったかぶりして書いている変人は、評論家でもなくコレクターでもない。“心にひびくもの”があると、身銭を切ってしまう、単なる貧乏人の餓鬼にすぎない。
 絵画は決して高いものではない。先ず、手始めに、山徹さんの「端楽」作品を玄関に飾ってみては……。明るい心、温かい心になり、人生が変わるかもしれない。(作品の画像は、「画廊 宮坂」のホームページでどうぞ)
 ということで、きょうの一句は、山さんの作品をもとに発想してみた。


      子ら駈けてゆく夏雲の息づかひ     季 己


        『山 徹 展』 ~スカイウォーカー~
       2009年9月14日(月)~9月19日(土)
          11:00~18:00(最終日は17:00まで)
              【画廊 宮坂】
         中央区銀座7-12-5 銀星ビル4階
          TEL(03)3546-0343

稲妻

2009年09月13日 20時55分46秒 | Weblog
 秋の夜、空一面に光が走り、うす桃やうす紫の妖しい色に染まる。稲を実らせるものとして「稲妻(いなづま)」「稲の殿(との)」と呼ばれる。
 「稲妻」は、「稲光(いなびかり)」とも呼ばれるが、雷雨に伴った電光のことではない。秋の夜空に見える閃光が稲妻なのである。

        みちのくにさらに奥ありいなびかり     器

 『改正月令博物荃』に、
    「光ありて雷鳴らざるをいふなり。稲光といふもおなじことなれども、
     稲光と唱へては雑なり」
 とある。こういう考えもあったようだが、今日では、稲光も秋の季語としている。

        稲妻や顔のところが薄の穂     芭 蕉

 この句には、
    「本間主馬が宅に、骸骨どもの笛・鼓をかまへて能するところを
     ゑがきて、舞台の壁にかけたり。まことに、生前のたはぶれ、
     などかこの遊びに異ならんや。かの髑髏を枕として、つひに夢
     現をわかたざるも、ただこの生前を示さるるものなり」
 という、長い前書きがついている。
 「本間主馬(しゅめ)」は、俳号「丹野」という、大津在住の能役者である。

 丹野亭の能舞台にかけられた、骸骨が能を演ずる絵に賛するこころで発想したものであろう。
 前書きで明らかなように、『荘子』が思い寄せられ、句の表現では、小野小町の故事が踏まえられている。
 「稲妻や」は、人生の観想に一瞬、物の変ずる勢いを点じて、すこぶる妙機をつかんでいる。
 「顔のところが薄の穂」と投げ出した手法は、薄のそよぐさまを一瞬、青白い閃光のもとに浮き上がらせて、凄味がある。

 「生前のたはぶれ」は、はかない人生の営み。
 「髑髏(どくろ)を枕として」は、『荘子』至楽篇「髑髏を援(ひ)きて枕として臥す」による。
 「薄(すすき)の穂」は、小野小町の髑髏の眼の穴から薄が生え、和歌を詠んだという伝説に基づくものと思う。
 「薄(の穂)」も秋の季語であるが、中心は「稲妻」で秋季。季語の本質に迫った鋭いつかみ方である。

    「人間の生前の営みすべて、髑髏の舞と異なるところはない、と観ぜられ
     る折しも、稲妻が一閃してその瞬間、この座の人々も骸骨と化し、その
     顔のあたりに薄が生い出て穂が揺らいでいる幻影が、さっと過(よ)ぎ
     ったことだ」


      塞翁が馬のいななきいなびかり     季 己